「ソーシャル・ネットワーク」

  The Social Network

 (2011/03/21)


  

ネットに引っかかって早や10数年

 このサイトを開設してから早くも12年。僕がインターネットと積極的に関わったのも、ほとんどこのサイト開設と同時だった。単にネットを見るだけの存在だった時から数えても、おそらくそれに加えること1〜2年というところだろう。つまりは僕のネット歴なんてそんなものなのだ。

 そのあたりの事情はこのサイトの10周年記念特集DECADEの冒頭文マニアでミーハーな10年間に書いた通りだが、ともかくそれからいろいろあった。

 最初の頃はみんな掲示板に自分のメールアドレスなんか記入していたんだから、のどかなものだった。今じゃそんなことしてくれる人はいない。それどころか僕なんか自分の名前をサイトに掲げちゃってるんだから、お人好しにも程がある。今でこそ、あえて記名して発言することで自分の発言に責任を持つ…などと言ってはいるが、正直言ってサイト開設当時にはそこまで考えちゃいなかった。自分が書いて自分がつくったものだから、自分の名前を入れるのは当然…というような簡単なことしか思っちゃいなかった。

 しかし、それはこのサイトの根本に、これは自分の著作物である…という考え方があったことを示している。

 最初にネットに関わったとき、これで自分の出版社や放送局を持ったようなものだ…と僕が狂喜乱舞したということは、もう何度も書いてきているのでここであえて繰り返さない。少なくとも僕はそうだったし、それは今でも変わりない。昔から何とかして自分がつくったモノを世に出したいと切望してきた僕だったから、ネットにもそれを期待した。僕があれほどこのサイトの初期に熱くなって取り組んでいたのは、そんな理由からだ。

 最初は、世の中もそんな僕と歩調を合わせているような感じだった。みんなが自前の情報発信に夢中になった。

 ところが最初の3〜4年が過ぎると、予想されていたことではあるが、あちこちにサイトの廃墟みたいなモノがポコポコと出来はじめた。結局、自分の何かを発信したいという衝動を持ち続けることができる人、発信するに足る情報を持っている人は、限られた数しかいない。厳しいことを言わせてもらえば、大抵の人は半年ぐらいで引き出しの中味を出し尽くしてしまう。1周年まで辿り着けるのは、かなりの強者だ。しかもその後となると…相当に難しいと言わざるを得ないだろう。

 その他にも、ネットをやっているとウンザリすることに何度も出くわす。やれヨン様の悪口を言うな、やれテレビ時代劇について聞いたふうな口を叩くな、ああでもないこうでもないと予想も付かないクレームがつく。そんなことをカネももらっていない自発的行動に対して文句をつけられれば、普通の人なら嫌気が差すだろう。いや、これらのクレームも当時だったら大人しいもんだった。今なら言葉の暴力みたいにボコボコにブッ叩きに来るだろう。若いくせに昼間っからパソコンの前に座りっぱなしで、仕事もしないしする気もないニート連中が、日頃の憂さを晴らしたくて手ぐすね引いて待っている。情けない話だ。

 あるいは不毛な言い争いで消えていった人もいる。その場合、必ずしも正しかった側が残ったわけではない。声のデカイ奴、口のうまい奴、デリカシーのない奴やツラの皮の厚い奴が残るってのは、別にネットに限ったことではないだろう。そんな状況を見るにつけ、僕も気持ちが萎えそうになったのは事実だ。

 そのうち、いくつかのサイトが装いも新たに「ブログ」とやらに変わっていった。一旦はサイトが開店休業になった人たちも、ブログなら続けられるんじゃないかとばかりに飛びついた。何でもブログはすでにいろいろとフォーマットが出来上がっているし、更新も簡単だ。携帯からだって更新できる。これなら続けられるさ…。

 しかし案の定、何かを続けられるのはウツワの問題じゃない。それを実行する人間の側の問題だ。携帯だろうと、例え声で読み上げただけで更新されるようになったとしても、面倒だと思えば何がどうなっても面倒。新装開店したブログも、その大半がまたまた廃墟となるのは時間の問題だった。

 それよりいち早く、「SNS」とやらが巷でモテはやされるようになったのも、ブログがパッとしなくなってきた一因かもしれない。みんなどこに行っちゃったのかなと思いきや、ウチワだけで楽しむ巣穴みたいなところに隠れてしまったのだ。

 かくいう僕も、実は何人かの方に「ミクシィ」に入らないか…と声をかけていただいたことがある。しかしそれらについては、僕は大変ありがたいとは思いつつ、丁重に、しかしキッパリと、お断りすることにしているのだ。

 「ミクシィ」に加わっていらっしゃる方々に対しては、みなさんそれぞれの事情でおやりになっているのだから何とも思わない。しかしそこに参加していない僕がアレコレ言うのはいかがなものかとは思うが、どうも「ミクシィ」なんてオンナだかオカマみたいな名前は、このオレにはちょっとねぇ(笑)。

 それは冗談だが…お仲間がいないと入れないし見れない、発言もできないという排他的な環境に、僕は首を突っ込もうとは思わない。

 人々がそこに活路を見出した理由はいろいろあるが、やはりネットの状況が荒れてきたということはあるのだろう。「荒らし」が頻繁に現れたり、その他にも「炎上」やら吊し上げやらが行われたり、以前とは違ってネットが殺伐とした状況になってきた。

 かくいう僕も、執拗に追いかけてくるイヤがらせに何年も悩まされてウンザリしたりしていた。これについてはある方々のご厚意とご協力で何とか気にせずにいられるようになったが、何だか分からないうちは気持ちが悪いしイヤな気分になるものだ。ネットはこうした「匿名性」にタチの悪さが潜んでいるのである。

 だから「お仲間だけで籠もろう」というのも、気持ちとしては分からないでもない。しかしそれならば、僕はネットに関わる意味がなくなってしまう。そもそもその「お仲間」だって、健全なモノかどうか分かったものじゃない。それなら僕は、あえて不特定多数に情報発信する方をとる。…もっとも、近年はうちのサイトは「多数」に情報発信しているとは言えないだろうが(笑)。

 元々が出版社や放送局をめざしている僕としては、原則として「SNS」にはメリットを感じない。それに、元々「お仲間」主義というやつが僕は好きになれない。親・小沢、反・小沢…みたいなモノが気持ち悪くて仕方がない。何となく男のやることじゃないような気がして、生理的にイヤなのだ。女は勝手にやってくれ、元々が井戸端会議なんかが好きだろうからね。だが、それはオレの流儀じゃない。

 そうは言っても、手厚く守られている「SNS」から一歩外に出れば、まるで原発の放射能が吹きっさらしになっているようなネットの荒野だ。そういう意味では、僕のサイトのアクセス数が激減したことも、負け惜しみではなく本当に幸運だったのかもしれない。

 今回の東北関東大震災にしても、ネット上で書かれている無記名の膨大なメッセージは、大半が「ないほうがいい」コメントばかり。彼らは事あるごとにマスコミはクズでウソばかりついて、ネットにこそ事実と真実がある…とまくし立てる。確かにフジテレビあたりのキャスターやレポーターの言動は、なかったことにするには酷すぎる。しかしネット上の騒音を眺めた上で、それでも彼らは本気でネットの方がいいと言えるのだろうか。

 専門家でもないのに、勝手に原発の危険性を煽りに煽る。無知な連中や半可通な連中が、分かりもしないのに言いたい放題。悪いが現場で対策にあたっている人々は、パソコンの前の無能なニートたちよりは物事考えているだろう。連中が指摘するような幼稚なプランなど、とっくに考慮したに違いない。あるいは、一顧にするべくもないクズみたいなプランに違いない。そんな騒音ばかりがデカく響き渡って、真実はどこかに埋もれていく。

 あるいは何でもかんでも自粛自粛と騒ぎ、何かが気に入らないと「不謹慎」と叩く。戦争中もこんな奴いたはずだ。大体、やたらに人を「売国奴」呼ばわりしたがる奴に限って、正真正銘筋金入りの「売国奴」だと相場は決まってる。こういう連中が国を焼け野原にしてしまうのだ。

 これこそ流言飛語そのものではないか。オレは本当に腹が立っているよ。

 ネットはみんなに出版社や放送局と同等になるチャンスを与えたが、ほとんどの人はそのチャンスを活かせなかった(この僕も別に大した発信ができていない以上、チャンスを活かせなかった側の一人だろう)。そして本来は公に発言する力もなく、公に発言しちゃいけなかったような連中にも、出版社や放送局と同じ大きさの声で発言する場を与えてしまった。こうなると、ヒマで粘着な奴が勝つに決まっている。だからこれらの少数で偏って間違った声が、あたかも大衆を代表する声のように響くようになった。ネット世論なんざ世論でも何でもないよ。これが、ネットの最大の罪じゃないかと思っている。

 それでもみんな、巣穴に籠もっている場合なのだろうか。

 

見る前の予想

 今回のオスカー・レースの一角を占めた作品。そしてデビッド・フィンチャーの新作として話題になって手いたこの映画のことは、当然知らないわけがなかった。

 前々から情報は仕入れていたし、どんな映画かということも大体はつかんでいた。しかし…その作品そのものが劇場で公開になっても、一向に足が運ばなかったんだなぁ。

 何となく、気が進まない

 何でそうなのかは分からないが、どうしてもすごく見たいという気にはならない。いわゆるSNSとか「フェイスブック」とかに関心がないから…とも言えるんだが、それでこの映画まで見たくなくなるとは思えない。これまで映像のユニークさで見せてきたデビッド・フィンチャー作品にしては圧倒的に会話で進行するお話だからか…とも思ったが、ならばなおさら見たいと思うのが映画ファンというものだろう。では、一体何でイマイチこの映画を見る気にならなかったのか。

 ともかく東北関東大震災から一週間あまり、僕はようやくあるシネコンへと足を運んだわけだ。

 

あらすじ

 2003年10月、ハーバード大学。

 2年生のマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、ガールフレンドのエリカ(ルーニー・マーラ)と酒を飲みながら取るに足らない会話を交わしていた。

 「米国より中国のほうがIQの高い奴が多い」

 そんな話が別の話へとポンポン飛んでいき、エリカはそんな話に付いていけなくなる。内容が…ではない。その語りっぷりに難があった。

 元々がこのマーク、人の話を聞いていないし人の気持ちも分かろうとしない。自分の言いたいことを言いたいペースで語っているだけだ。まるで会話が成り立たない。簡単に言うなら、人というものが分かっていないオタクなのである。

 いつの間にかエリカを侮辱するようなことを言っているのに、それが侮辱と分かっていない。本当にエリカが怒り出すまでいくらも時間はかからなかったが、それでもマークは事の重大さに気付いていない。エリカが席を立って帰ってしまうまで、マークは何が起きたのか分かっていなかった。

 だが、捨てられたのは本当にこたえた

 マークはハーバードのキャンパス内を、寮の自分の部屋めざして走りに走る。部屋に戻ると自分のパソコンにかじりついたが、それは彼の拠り所がそこしかなかったからだ。自分のブログを開くと、そこに思いの丈をブチまけるようにエリカへの悪口雑言を叩き付けた。それが個人情報の漏洩になろうと名誉毀損になろうと知ったことか。酒の力を借りて、マークはネットの中だけで強がる。

 そのうちマークは、もっと面白いことができるんじゃないか…と、よからぬ発想を巡らした。うちの女子の連中を、ランクづけできるサイトをつくったら面白いんじゃないか。

 「おいおい、それってちょっとヤバイんじゃないか」

 こんなオタクなマークの唯一の友だちエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)は、マークが熱中している新しい「ヤバイ遊び」に常識的な苦言を呈する。しかし、それでもマークにブレーキをかけることなど出来ない。思い立ったら、とてつもない執念と集中力で実現してしまうのがマークという男。アッという間に学校中の寮のサイトから女子学生の写真をダウンロード。それらを使って、その夜のうちに1対1の対決仕様にしてのランキング・サイトを立ち上げたのだった。

 たちまち、このサイトは学内の人気の的となる。男子学生はみんな夢中になって、こっちの女よりこっちの女の方がマブい!…と投票。正直言うとこんなことはどの男だって脳内でやっているのだが、女たちにすれば「サイテー!」ということになるのだろう。男女どちらにせよ、みんなこのサイトに争うようにアクセスして、アクセス数はうなぎ上り。そのあげく、真夜中にハーバードのサーバーはダウンしてしまった

 「ヤバイ!」

 エドゥアルドはすでに予見していたが、事態は深刻なモノになっていた。すぐに事件はマークによるものと発覚。大学の査問委員会にかけられることとなる。結果は半年の観察処分。しかしマークはその査問委員会で、自分のやったことが大学のネット環境の弱点が露呈したという点で「評価されるべき」だなどと語るテイタラク。まるで懲りていないし悪いと思っていない。むしろ学内の全女子生徒から「オンナの敵」と見なされたことの方がこたえたかもしれない。

 しかしこの事件を、まったく別の角度から見ていた人物たちもいた。

 ハーバードにも他のアメリカの大学同様、社交団体としてのクラブがある。それらに入るには厳しい選考基準があり、わずかな連中だけがメンバーになれる。エドゥアルドもそのひとつに入ろうとしていたのだが、なかなか思いは果たせない。 むろんマークなどは、最初から加入は諦めている状態だ。そんな極めて独善的排他的な存在が、これらのクラブなのだ。

 そんなクラブの中にハーバード最高のレベルを誇っている「ポーセリアン」があるが、そのメンバーであるキャメロンとタイラーの双子のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)とその友人ディビヤ・ナレンドラ(マックス・ミンゲラ)が、このマークの起こした「事件」に注目したのだった。彼らは自分たちが計画しているプロジェクトを実現するためには、このマークのような人物が必要なのだと気付いたのだ。

 いかに無神経なマークでも、学内すべての女子生徒から敵視されるに至ってはへコまずにいられない。もともと友だちは極端に少ない。そんな彼に、光り輝く「ポーセリアン」のメンバーたちが接触を図ってきたのだ。特にウィンクルボス兄弟と来たら、親は裕福だし本人たちはボート部でオリンピック出場常連という「特別」な存在。これには驚きを隠しきれないマーク。

 そんな彼らがマークに持ちかけたのは、思ってもみなかった「仕事」の依頼だった。

 ネット上の学生たちの社交場を立ち上げ、それをハーバードの学生以外には原則公開しない排他的なモノにすれば、ハーバード・ブランドに他の学生たち…ズバリ言って虚栄心バリバリの尻軽女子大生…も群がってくる。名付けて「ハーバードコネクション」。これに協力すれば、マークにとっても名誉回復になるはずだ。…どうだ、やってみるか?

 「やるよ」

 間髪空けずにマークがこう言ったのは、おそらくウィンクルボス兄弟やナレンドラにとっては意外だったかもしれない。しかし彼らに協力すると宣言した舌の根も乾かないうちに、マークはエドゥアルドに「学生たちの社交場」となる友だちづくりのツールを、ネット上に創り上げることを提案する。さらにマークは、エドゥアルドにこの事業への投資を頼み込んだ。

 それが現在、世界に拡大した巨大なSNSとなる「フェイスブック」のスタートだった…。

 

見た後での感想

 冒頭で、僕がこの映画をなかなか見に行く気になれない話をした。

 その理由は分からないとも書いていたのだが、実は本当のことを言うと、その理由は薄々分かってはいたのだ。

 それは、この映画の主人公にあった。

 世界的な巨大SNS「フェイスブック」の創業者で、根っからのオタク。お話はこの男が「フェイスブック」を立ち上げて成長させる過程において、多くの人が離反していくというものだ。どう考えても好きになれそうもない人物だし、その結末もどうにもションボリせざるを得ないもの。実際に多くの友だちと思っていた人間と離反してきたし、裏切られてもきた僕としては、このトシになってそんなモノを改めて見せられたくない。まして地震の後になったら、ますます気落ちするものを見たくなくなった。そんなわけでこのデビッド・フィンチャー注目の新作を、僕は危うく見落とすことになりそうだったのだ。

 そんなこんなで、実際に見たこの作品の感想はというと…。

 面白い!

 全編会話の連発ではあるが、何しろ主人公マークが人の言うことまったく聞いていないくせに、言いたいことだけは人一倍ある男…という設定だから、とにかく早口でしゃべるしゃべる。そんなにしゃべってばかりで字幕を見るのが追いつかないんじゃないかと思われるかもしれないが、実は奴がしゃべっていることは空疎なことばかり。彼に限らずこの映画に出てくる人物たちの大半が、空疎なことしか言っていない(その最たるものがジャスティン・ティンバーレイク扮するショーン・パーカーだ)。だから内容を見逃しても、大した問題はないのだ。

 むしろその方が、このマークという男の「人の気持ちを分かっていなくて、分かろうともしていない」性格が分かる。アロハを着てるエドゥアルドを冬の野外に連れ出して、自分は厚着で一方的に自説をまくしたてるマークの精神的なイビツぶり。どう考えてもこの人物は、自分のことしか考えていない。否、実は自分が開発した「フェイスブック」のことしか考えていないのだ。そのためには、他の何者も犠牲にして構わないと思ってさえいる。いや、犠牲にしているという自覚もないんだろう。

 元々この男は、コミュニケーション能力に問題がある。それで恋人を手放すことになるし、友人も失い、つくらなくてもいい敵をつくる。それでも自分は悪くないと言い張る。というか、悪いとまったく思っていない。

 だからこの男の他人からの印象は「最悪」以外の何者でもない。映画の終盤で女弁護士がズバリ指摘するが、裁判で戦っても陪審員はみんな彼を「クロ」だと判断するだろう。すなわち、人には徹頭徹尾好かれない男なのである。

 この男の深刻な他者とのコミュニケーション不全は、冒頭の恋人との決裂場面でハッキリ提示されているが、そんな男が世界的に拡大することになるコミュニケーション・ツールを開発することになるという皮肉。というか、それは必然だったのか。「ソーシャル・ネットワーク」とはまさに「社会的つながり」だが、その「社会的つながり」を主人公はまったく獲得し得ていないのである。このタイトルは、そういう意味で極めてブラックだ

 また、確かに主人公が行ってきたこと、発言したことはどれも共感しにくいものだが、それでも彼の「フェイスブック」に対する情熱だけはホンモノだった。それを誰にも損なわせずトコトン納得いくカタチで創り上げるためには、正直言って親友エドゥアルドも排除せざるを得なかったのは事実だろう。エドゥアルドの判断は「常識人」としては極めて正しいのだが、残念ながらこの画期的なコミュニケーション・ツールを成立させるためには、「非常識」こそが必要だった。健全なる平凡よりも、不健全な非凡こそが正解だったのである。だから主人公の行ったことは、「人として」は酷い。しかし「画期的な偉業」を為しえるためには、これが正しかったと認めざるを得ないのだ。

 そういう意味で、この映画は「悲劇」と言っていい

 そして最新の素材を扱った作品と言いながら、作品の感触は実は古典的だ。

 そもそも強大なパワーを持つに至った孤高の大物の物語で、2つの訴訟の場面を挿入しての「証言」による構成で、最初と最後に主人公が求めてやまないが最後まで手に入れることができないモノを置いている…という点で、この作品は「市民ケーン」(1941)の強い影響下にあることは明らかだ。主人公が求めてやまないが最後まで手に入れることができないモノ…逃げた恋人エリカこそ、この作品における「バラのつぼみ」なのである。

 さらにこの作品の素晴らしさは、その古典的構成の作品を現代的なスピード感で創り上げたことにある。演技、映像のテンポ、すべてがスピーディーで切れ味が鋭い。そのため圧倒的なセリフの量で展開する「会話劇」なのに、全編まったくダレない。ダレないどころか、その快調なテンポにどんどんノセされて最後まで見せられてしまうのだ。このスピード感こそが「現代」というものなのだろうし、今回「らしくない」会話劇に挑んだデビッド・フィンチャーならではの「らしさ」なのだろう。

 ゾディアック(2007)、ベンジャミン・バトン/数奇な人生(2008)と近年は徐々に「普通の映画」の監督となってきたフィンチャーだが、それでもどこかに「映像派」としての片鱗はチラつかせていた。それが映像的仕掛けなしで会話劇に挑戦…と聞いたので、これは一体どうなるものかとハラハラしてスクリーンと対峙した。しかし、どっこいフィンチャーはここでもちゃんと映画的な試みを行っていたのだ。会話劇にこのスピーディーさと緊迫感を与えたことが、フィンチャーのフィンチャーたるゆえんと言うべきだろう。

 また、映画を見た後で驚いたことには、重要な登場人物である双子のウィンクルボス兄弟がアーミー・ハマーという一人の俳優によって演じられているというではないか。お恥ずかしい話だが、僕は見ていてまったくそれに気付かなかった。ちゃんと双子の兄弟それぞれが、キッチリ演じ分けられていたからだ。そしてどういう技術を使ったか知らないが、映像的にもそれを気付かせる部分はまったくなかった。「映像派」フィンチャーは鳴りを潜めるどころか、しっかり映像的仕掛けを作品の中に埋め込んでいたのである。

 主演者たちはどれもこれも素晴らしい。主人公のマークを演じるジェシー・アイゼンバーグイカとクジラ(2005)に出ていた若手俳優だが、どこからどう見てもオタクで独善的で好きになれないキャラクターを、そのまま「好きになれない」キャラクターとして造形しつつ、完全に悪役にはしないギリギリの線で演じきった。これはかなりの難役だ。何とか観客が共感できるスレスレのラインをキープしたのは神業級。これは大したモノだ。そんなアイゼンバーグと同じくらい感心したのが、友人エドゥアルドを演じたアンドリュー・ガーフィールド。彼はロバート・レッドフォードの大いなる陰謀(2007)にも出ていたが、レッドフォード、トム・クルーズ、メリル・ストリープ…とビッグ・スターが居並びながら惨憺たる出来栄えだったこの作品の中で、彼の演技だけが唯一美点だった。今回も観客としては最も感情移入できるキャラクターを演じて、なかなか輝いていた。彼も今後の有望株と言っていいだろう。

 そして、ショーン・パーカーを演じたジャスティン・ティンバーレイク。出てきただけで胡散臭い安ピカ感、アゲアゲの発言すべてのインチキ臭さが素晴らしい。すでにミュージシャンとして成功しているこの人だから出せた派手さが、120パーセント活かされている好演だ。

 残念ながら今年のアカデミー賞レースでは敗退した本作だが、実物を見ればその優秀さが分かる。こう言っては申し訳ないが、「英国王のスピーチ」とどちらが映画史に残るかと言えば、それは改めて言うまでもないだろう

 この作品はその題材からも語り口からも最も現代的な映画であるにも関わらず、同時に極めて古典的作品となっている。その点こそが、他のどんな作品よりも新しいのである。

 

見た後の付け足し

 僕がこの作品を見ていて最も共感したのは、おそらく他の観客のみなさんと同じく、主人公の友人エドゥアルドだ。

 僕も50年以上生きてきた間に、何度も何度も人に裏切られ続けてきた。その中には友人もいれば、愛した女もいた。恩人と言える人もいた。それらの人々が、愚にも付かない言い訳を並べながら、平気で僕にウソをついてきた。そういう経験のひとつひとつが、この映画を見ている間にまざまざと蘇ってきたのだ。

 だからこの映画を見ている間、当然のことながら僕はエドゥアルドの視点で映画を見ていた。

 そして主人公のマークを、どちらかと言えばネガティブな見方で見ていたということを告白しなくてはならない。

 しかし映画を見終わってしらばくの時間が経過した今、実は僕の中にはそれまでとは違った気持ちが芽生えていたのだ。

 確かに僕は数多くの人々にダマされてきたし、数多くの人々に裏切られてもきた。それらの人々の多くは親しい人たちだったし、そのせいでもないだろうが友人は徐々に減っていった。

 僕は不運な人間だ。

 しかしそこまで考えていくうち、僕は奇妙なことに気付いたのだった。

 たまたま人を平気でダマすような人たちばかりが、僕の周囲に集まってきていたのか。

 そして映画では一見諸悪の根元のようにも見える主人公マークだが、彼の側から見たら、友人の離反はどのように見えただろうか。

 僕も人生50年以上続けていれば、さすがにある程度モノの道理というものが分かってくる。物事は、偶然で起きることはほとんどない。大抵は何か原因があるものだ。もし仮に僕の周囲に人をダマすような人ばかり集まるのなら、それは偶然ではあり得ない。あるいは親しい人間がこうも裏切り、去っていくのであれば、これもまた偶然ではあり得ないのではないか。

 この映画の主人公マークにしても、彼から見れば、友人が裏切って離反したように思えるのではないか。

 だとすると、ひょっとしてここまで僕の人生で多くの人々が僕を踏みにじってきたとすれば、それにはそうするだけの理由があったのではないか?

 それは僕としては、決して考えたくない結論だ。そんなことありえないし、信じたくない。しかし例えどうあれ、冷静に判断すればそう考えてもおかしくはないだろう。

 この映画の主人公マークは、間違いなく他者とのコミュニケーション不全をきたしている男だ。しかしこの僕は、決してマークを笑えない立場かもしれないのだ。

 

 

 

 

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