「ヒアアフター」

  Hereafter

 (2011/03/14)


  

あの時、僕はどこにいたのか?

 3月11日金曜日、それは僕にとって忘れられない日になってしまった。

 その日、僕は会社の若いカメラマン、出版社の担当者と一緒に、とある取材に出かけていた。場所は東京湾のど真ん中。建設中の東京ゲートブリッジだ。

 もうどこかで語っていたかもしれないが、僕は現在、「橋の本」を制作中だ。そこでは日本のいろいろな橋を取り上げるのだが、大きな「売り」となるのが「東京ゲートブリッジができるまで」というコンテンツなのだ。

 ぶっちゃけた話、東京湾の今よりずっと外側に道路が新しく出来るので、そのための橋を架けねばならなくなった。それが新しい巨大な橋…東京ゲートブリッジなのだ。

 まずは新木場で地下鉄を降りて、国交省の工事事務所へ。そこで担当者に連れられてゲートブリッジの現場へと向かう。現在、建設途上のゲートブリッジの上は資材が置かれたり巨大なクレーンがあったりで、なかなか活況を呈していた。

 実はこの日、我々は取材でこの橋の最上部に行くはずだったのだが、先方の都合でそれは延期となった。その代わりということで我々が連れて行かれたのは、橋脚の下の部分に設置された桟橋だった。

 海の中からそそり立っている橋脚の海面近くのところに、船からの資材引き上げのために設置された桟橋。我々は橋桁部分から鉄板でつくった簡易的な階段を何フロアぶんも下りて、さらに工事用エレベーターに乗って降りていった。さすがにほぼ50メートル近く下るのだから大変だ。こうしてたどり着いた桟橋部分。足下では海面がピチャピチャと波打っているが、何となく心なしか波が荒くなってきた気が…。

 「これって波じゃない?」

 国交省の担当者がこう言った時にも、実は僕は事情がまったく飲み込めていなかった。何らかの理由で波が荒くなって、それで桟橋が揺れているんだと思っていたのだ。しかし、そのうちそれでは済まなくなってくる。

 「波じゃない! 地震だ!」

 ガガガガガッと一気に揺れが加速。たちまち僕らは桟橋で身動きができなくなった。それでも当初は国交省の担当者氏も笑顔が残っていたが、それが見る見るうちに青ざめて来るではないか。

 いつまで経っても揺れが静まらない。静まらないどころか大きくなる一方だ。僕らは桟橋から振り落とされないように柵にしがみついていたが、もはやほとんど立てない状況だ。もう僕らもまったく余裕がない。それなのに、地震は一向にやむ気配がない。これはどうやら自分が経験したことのない、未曾有の規模の地震なのか?

 「もしいざとなったら、この桟橋から海に飛び込んで逃げてください!

 飛び込んでどこに逃げるのだ? そもそも、いざとなったら…って何がどうなるのだ? 僕らは思わず頭上を見上げると、そこには建設途上のゲートブリッジの巨大な橋桁があった。そして今やその橋桁も、ものすごい勢いで揺さぶられているではないか。いまだ建設途上だからちゃんとつながっていないと聞いているが、確かにつなぎ目が1メートルぐらい間が開いていて、それが左右にずれているように見える。おまけにどこに溜まっていたのか雨水らしきものが、その橋桁からパラパラとこちらにこぼれ落ちてくるではないか。もしこの巨大な橋桁が落ちてきたら、我々なんてひとたまりもない。かといってこの寒空の下、海に飛び込んで助かるのだろうか?

 ここでゲートブリッジの名誉のためにあえて言わせてもらえれば、この橋は当然のことながら、万全の耐震設計がなされている。隅々まで先端技術が活かされている橋だ。しかしながら、この段階ではいまだ建築途上。未完成の状態だ。こんな揺れが襲ってきたら、果たしてどうなるのかまったく分からない。

 そのうちその橋桁あたりから、ガ〜ンとかドド〜ンとかすさまじい音が聞こえてくる。そういえば、先ほど橋桁の上にあったクレーンや建築資材は、この状況下でどんなことになっているのか。あれが落ちてきたらどうなっちゃうのか? もう我々は飛び込まなくてはならないのか? ちぎれそうなくらいに揺れている橋桁を見上げながら、僕らは本当に気が気ではなかった。

 映画みたいだって? 全然違う。

 映画は見ていても自分には直接何も起きない。登場人物はあわてふためいているが、観客は無傷でいられる。しかし、当たり前の話だが、こっちは下手すりゃ自分に襲いかかってくる。今こそ僕は、スピルバーグ宇宙戦争(2005)で巨大な宇宙人の乗り物に攻撃されっぱなしで、為すすべもなく見上げているだけだったトム・クルーズの気持ちが分かった。これは確かに呆然とするしかない。

 そしてこれは、僕が日頃から慣れ親しんで来た、毎度おなじみの地震とも違っていた。それらはちょっとの間、じっと待っていれば終わるものだった。それがお約束でそういうものだった。それは地震と僕らの間で交わされた約束みたいなもんだ。ところがこの地震はそんなことお構いなしにいつまでも揺れているし、揺れの大きさも無茶苦茶にデカい。いいかげんにしないと本当に橋が壊れてしまう。これってまるで関東大震災みたなことになっちゃうじゃないか。

 「こりゃあ関東大震災級かもしれない…」

 えっ? 本当にそんな大きさの地震が起きちゃうの? 人間、頭で分かっていることでも、必ずしも腹から分かることはできない。そういうことが起きるということ、この自分がそこに居合わせること…が信じられない。っていうか、あっちゃならないだろう。

 しかしもうすでにあまりに長く揺れているし、あまりに大きく揺れている。橋桁ももう耐えられないように見える。これって…。

 オレ死ぬんじゃないか?

 周囲は大音響ですごい状況。僕も立てず動けずで茫然自失。しかし、なぜか不思議に心の中は静けさを感じていた。これが今まで映画で何度も見てきた、あるいはニュースなどで何度も読んだり聞いたりしてきた…死に至るってことなんだろうか?

 オレはこんな形で死ぬのだろうか? そんなことになるとは、今の今まで知らなかった。朝、家を出てきた時も気づきもしなかった。今日死ぬことになるなんて知らなかった。これがオレの死に方だったのか。

 大げさと笑うなら笑って結構。あれは、本当にあの状況に遭遇しなかった人には分からない。あの巨大建造物を仰ぎ見る状況では、そして自らの自由がきかない状況下では、死ぬかもしれないと思うのはあながちおかしいことではないはずだ。

 そして不思議なことに、もうどうにもならない…と思うと意外にもジタバタしないものなんだろうか。あるいは一昨年の父の死以来、次々と親戚や知人が亡くなっていることもあって、不思議と死を身近に感じるようになっていたのだろうか。慌てなかったわけではないし、死にたくないと思わなくもなかったが、なぜか頭がボーッとするような、奇妙な時間が流れていた。

 気づいてみると、いつの間にか揺れが徐々におさまっていた。相変わらず緊迫した表情の国交省の担当者は、我々を促して橋脚の階段をどんどん上がっていった。あれだけの高さをビックリするような早さで上りきって、汗だくで橋桁の上に出てみると…。

 我々がゲートブリッジに着いた時には、ひっきりなしに冷たい風が吹いていた。それが今になって気づいてみると、なぜかパタッとやんでいるではないか。頭上を次々と飛んでいた、羽田空港に着陸しようとする飛行機群もパッタリ姿を見せなくなっていた。そして…遙か彼方のお台場近辺から、明らかに火災と見られる煙が立ち上ってくるではないか。煙は正反対側の、千葉県側からも上っている。

 一体、先ほどの地震によって、東京はどれほどの被害を受けたのか?

 ここゲートブリッジにいる時点では、東京がどうなったのかはまったく分からない。ひょっとして、壊滅したかもしれない。これはこれで、先ほどとは違った意味でゾッとする状況だった。こんなことが僕の生きている間に起きるなんて、まったく信じられない。夢じゃないのか。

 いや、これは悪夢か?

 それからクルマで新木場まで戻ったものの、このあたりは埋立地であるためか、あちこちから泥水が噴き出す「液状化現象」が発生。路上はグチャグチャのうえ、多くの人々がオモテに出てきて騒然とした状況となっていた。鉄道はどれもこれも停止したまま。どこからか「津波が来る!」という声も聞こえてきて、人々はみな落ち着かない様子でウロウロしていた。

 結局、我々はそこからトボトボと都心に向かって歩き出したが、その時点では都心がどんな状況だか分かるわけもない。非常に不安な気分のまま、ただただ歩き続けるしかなかった。

 多くの人々がゾロゾロと街を歩いている様子は、何とも奇妙な光景だった。それはまるで明治神宮での初詣の様子のような、一種のお祭りのような光景だった。僕も歩いている他の人々も、みんなどこかハイテンションになっている感じだった。

 その夜、とりあえず僕らは日比谷の帝国ホテルに辿り着いた。その1階ロビーは我々「帰宅難民」のために開放され、さながら難民キャンプの状況を呈していた。外国人たちをはじめ、多くの人々が呆然とした表情で床にしゃがみ込む。

 その時になって初めて…僕はようやく、自分が本当に恐ろしい体験をしたのだということを実感した。

 もし、あの橋桁が落ちてきたら…いや、そんな大げさな展開などなくても、あれよりもうちょっと早く地震が起きて、自分たちが桟橋まで降りる途中の階段にいた時に直撃されたら、僕らはひとたまりもなく眼下の海に放り出されただろう。あるいはエレベーターの中でも同じだったはずだ。

 いやいや、そもそもこの日は橋で一番高い部分に上がる予定だったではないか。もしそれが実現していたら、それこそ僕らの命はなかったはずだ。ほんのちょっとした偶然で、僕らは文字通り命拾いしたわけだ

 もちろん、実際に東北で被災された人々から見れば、僕の体験ごときで生きるの死ぬの…を云々するのはチャンチャラおかしい話だろう。僕もそんなことを言うのは、正直言って恥ずかしい。

 だが、あの時の僕の感情は間違いなくホンモノだった。

 今回の東北関東大震災で被害を被った方々には、本当に何と言っていいか分からない。だから僕のチンケな体験など偉そうに言うべきではないのかもしれないが、あの時の僕は本当に「死」と隣り合わせのところにいた。

 それだけは、掛け値なしに本当のことなのだ。

 

見る前の予想

 またまたクリント・イーストウッドの新作である。

 「許されざる者」(1992)以来、「名匠」としての風格は一作ごとに増すばかり。近年は監督業が専門みたいで、聞くところによればグラン・トリノ(2008)が最後の出演作になるかも…とのこと。

 もはやイーストウッドは、俳優が「兼業」としてやっている監督業の域を超えている。しかも多作だ。毎年1〜2本の作品がコンスタントに公開され、それが毎度毎度高い評価を得る映画作家なんて、そんなにいるもんじゃない。しかもイマドキのハリウッドで、それらがちゃんと商業的に成功しているから大したものだ。こんな人、極めてマレなんじゃないだろうか?

 そんなイーストウッドの新作のテーマは、「死後の世界」というからユニークだ。ユニークだけど…実は彼の過去のフィルモグラフィーから見て、それは決して驚くに当たらないとも思った。詳しくは後述するが、僕にとってイーストウッドはそんなイメージを抱かせる映画人なのだ。

 実はこの作品はある出来事の直後、疲れ切った最中に「癒されたい」と思って、すがりつくような思いで劇場に見に行った。当然ながらその時点では、一週間ほど後に自分が死ぬような思いをするとは、夢にも思っていなかったのだ。

 

あらすじ

 ここは南国のリゾート地。フランス人のマリー(セシル・ドゥ・フランス)は夫のディディエ(ティエリー・ヌーヴィック)とともに、風光明媚なこの地にバカンスを楽しみにやって来た。

 やがてマリーは海辺に建つ高級ホテルにディディエを置いて、一人でお土産を買いに外に出る。沿道を店や屋台が埋め尽くすにぎやかな街路を歩きながら、マリーが目当ての土産物を探していると…。

 どこからともなく地鳴りのような音が聞こえて来るとともに、遠くから徐々に悲鳴が聞こえて来るではないか。胸騒ぎがしたマリーが振り返ってみると…。

 人混みの向こうでバリバリと遠くの椰子の木がなぎ倒されていくとともに、激しい水しぶきのようなものが見えてくるではないか。

 津波だ!

 人々が慌てふためいて逃げだした時にはもう遅い。津波は人々を飲み込み建物を飲み込み、沿道のクルマも飲み込んでいく。驚いたマリーはその場にいた女の子の手をつかむと、一心不乱に走り出した。しかし、それもつかの間。アッという間に波に飲み込まれ、女の子とも離ればなれに。凄まじい流れに乗って津波と共に街の中へとドンドン運ばれていく。

 途中で木に引っかかったのを幸いに、何とかしがみついて急場をしのごうとするマリー。しかしそんな彼女をあざ笑うかのように、流されて来たクルマが突っ込んできた。頭を強打して、水の中へと引きずり込まれるマリー。

 カラダが沈んで沈んで…。

 それから間もなく、現地の人々に助けられ、建物の屋上に横たわるマリーの姿があった。しかしマリーの呼吸は止まったまま。現地の人々が人工呼吸を施しても、一向に呼吸が戻る気配がない。そんなこんなでみんなが彼女の蘇生を諦めた頃…。

 急にマリーが咳き込んで、水を吐き出したではないか。

 それからしばらくして…周囲の惨状に唖然呆然としているディディエが、奇跡的に再会できたマリーと抱き合って涙ぐむ姿があった。しかしこれを境に、マリーは以前の自分とは違う人間になってしまったのだ。

 一方、ここはサンフランシスコ。

 ジョージ(マット・デイモン)の部屋に、兄ビリー(ジェイ・モーア)が一人の「客」を連れてやって来る。ジョージはかつて霊能者として生計を立てていたが、今ではすっかり足を洗っていた。そこを何とか…とビリーが自分の客の頼みを聞いて、ジョージに無理を承知で頼み込んで来たわけだ。

 ホンネではもう霊視などやりたくないジョージ。しかし、彼の霊視能力はホンモノだった。「客」の望んだ亡き妻との会話に成功したジョージ。感謝感激した「客」は、ジョージの能力の素晴らしさに舌を巻く。

 しかし、ジョージは自分のこの能力を忌み嫌っていた。

 死者に取り巻かれている自分の生活は、まるで生きている人間の「それ」ではないように思えた。彼にとっては折角の才能も、単なる「呪い」に過ぎなかったのだ。それでジョージは霊媒師の仕事を辞めて、倉庫での肉体労働を選んだのだった。

 さらに、ここはロンドン。

 いつも一緒の双子マーカスとジェイソン(ジョージ&フランキー・マクラレン)は、貧しい母子家庭で暮らしていた。貧しい暮らしでも母子肩を寄せ合って生きていたが、問題は母親がアル中で保護者としての資格を問われているところ。そんなこんなで双子で力を合わせて、母親が連れ去られるのを阻止するのだった。

 しかし、ある日ほんのちょっとした偶然から、双子のうち兄のマーカスが交通事故で死亡する…。

 

見た後での感想

 映画が始まっていきなり大津波の場面が登場するが、これを見て驚いたのは僕だけではないだろう。

 この津波の場面のリアルなこと!

 僕は本当の津波を見たわけでも経験したわけでもないが、映画でこれほど現実味のある津波の場面を見たことがなかった。津波が迫ってくるあたりの何気ない感じもそうだが、最も驚かされたのはヒロインが実際に津波に捕まって流されていくくだり。これが「本当にこうなんだろうなぁ」と思わされるほどのナマナマしさなのだ。何をもってしてイーストウッドがこんなにリアルな津波シーンを撮れたのかは分からないが、ともかくこの場面は文字通り注目に値するのだ。

 そしてこの映画のテーマである「死後の世界」であるが…先にも述べたように、僕は正直言って「死後の世界」を題材にするとは「いかにもイーストウッドなら好みそうな世界かも」と思っていた。

 それというのも、イーストウッドは結構「死後」や「霊」という存在について、かねてより関心が深そうに思えたからだ。

 実は「ダーティハリー」などのアクション活劇のイメージが濃いイーストウッドではあるが、その実体はそれほど単純なものではない。時々非常にダークな世界を好んでいるようにも思えるし、妙なホラー味が作品にチラつくことが多い。

 そもそも「荒野のストレンジャー」(1973)や「ペイルライダー」(1985)などに登場する風来坊のガンマンは、どこか生身の人間ではないような感触が強い。特に前者に出てくる謎のガンマンは、明らかに「幽霊」としか思えない存在なのだ。しかし、普通こんな幽霊を主人公とする西部劇などつくる奴はいまい。そういう点からして、イーストウッドのこの手の題材に対する造詣の深さを感じてしまう。少なくとも絶対にイーストウッドは、こういう世界が「キライ」なわけがない。そういう意味では、この作品の監督は想像以上にハマり役に思えるのだ。

 では、実際のところはどうだったのか?

 確かにそれっぽいことが描かれてはいるのは間違いない。この映画は「臨死体験」をしてしまってから人生が変わってしまったフランス女と、「霊媒師」であるが故の孤独を抱えるアメリカ男、死んで「あの世」に行ってしまった双子の兄弟の魂を求めるイギリス少年…という3つのエピソードが出てきて、それらがいつか重なり合っていく…というお話だ。確かに「死後の世界」について言及しているお話ではある。

 しかしながら、これは決して「イーストウッドの大霊界」みたいな作品ではない。そういう映画を期待して見に行くと、実はかなり肩すかしをくらいそうな映画なのだ。

 

人々の孤独な魂について描いた映画

 実は「死後の世界」についての映画…という触れ込みではあったが、これは決してそんな映画ではない。実際のところこの映画には、ロクに「死後の世界」が描かれるわけでもない。フランス女マリーの「臨死体験」イメージとして、ホンのチラリとあちらの世界が垣間見えるだけでしかない。

 そもそも、イーストウッドはそんなもの描く気がないようなのである。

 むしろイーストウッドが描きたかったのは、「死後の世界」になまじっか関わってしまったばかりに、それらの人々が抱え込んでしまう孤独のほうだ。

 「臨死体験」を通過したフランス女は、もはやそれ以前に戻ることができなくなる。しかしこの問題に深入りすればするほど、彼女は周囲の人々から浮いてくる。分かってもらいたくても、これを経験した人間以外には分からない。彼女もそれが分かるから、余計に孤独を感じずにはいられない。

 アメリカの元霊媒師は「もう死者との対話をしたくない」と霊媒師であることを辞めるが、実の兄を含めた周囲の人々には、そんな彼の気持ちはどうしても理解できない。お金になるならやればいい、せっかくの能力なのだから使うべきだ…としか思えない。居たたまれなくなった彼は、アメリカを去るしかなくなるのだ。

 また双子の兄を失ったイギリス少年は、何とか「亡くなった兄」とコミュニケーションをとろうとする。最初こその悲しみは周囲に理解されるものの、いつまで経っても「亡き兄」を求め続ける彼の行動は、徐々に周囲から「いつまでやってるんだ」的な見られ方をされてしまうのだ。

 こうした気持ちは、他の人々には理解できない。それは、この3者以外の余人には伺い知れない世界なのだ。

 映画の後半では、そんな3者が不思議な縁で引き寄せられていく。そこには劇的必然性などの仕掛けは、特に設定されていない。あくまで偶然が偶然を呼んでの結果として描かれる。このあたりの脚本の構成をどう見るかによって、この映画への評価も変わってくるかも知れない。しかし映画の作り手たちは、実はそんなことはどうでもいいのかもしれない。

 しかも「死後の世界」なども、どうでもいいかもしれないのだ。

 同じ体験をした人間でなければ、あるいは共通する何かを通過した人間でなければ、分かり合えないということは間違いなくある。実際のところ、僕は一昨年父親を亡くしたが、それと前後してやはり父親を亡くした友人としか、この感情を共有することはできなかった。今でもそれは同じだ。これは理屈ではないのだ。

 そして、これは何も「死」だけに限ったことではない。人生の「価値観」を左右するような要素であれば、他のことでも同様だろう。ともかく「何かを共有する」人間同士でなければ、分かり合えないことはどうしようもなくあるのだ。

 この映画はその「どうしようもない分かり合えなさ」と、「分かり合えた時の喜び」について描いている。アメリカ映画にしては極めて異例ではあるが、そこに結論めいたものは何もない。エンディングも、まるで放り出したようなボンヤリとして幕切れだ。

 しかしこの映画が「分かり合えなさ」の絶望感で終わらず、「分かり合える喜び」で終わるのは、見ていてとても嬉しい。実際には、僕らは実人生で、周囲の人と「分かり合えない」切なさの方を多く経験しているのではないか。大なり小なり、他者との「違い」ばかりを感じてしまい、やり切れなくなってしまうことの方が圧倒的に多いはずだ。しかしこの映画では、きっと「不思議な縁」で、そうした人と知り合えるはずだ…と描かれる。

 その肯定的な幕切れが、見ている僕らを優しく励ましてくれるのである。

 

見た後の付け足し

 劇中でドイツ人科学者としてさりげなく1シーンだけ登場するのは、かつてハリウッドに忽然と登場して一世を風靡した、ヨーロッパ女優マルト・ケラーではないか。マラソンマン(1976)、「ブラック・サンデー」(1977)、そして何よりアル・パチーノ共演のボビー・デアフィールド(1977)のヒロインとしての彼女が忘れられない。ここで久しぶりに彼女を見れたことだけでも、僕にとってこの作品は見る価値があった。

 

 

 

 

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