「ナルニア国物語/第3章 アスラン王と魔法の島」

  The Chronicles of Narnia - The Voyage of the Dawn Treader

 (2011/03/14)


  

見る前の予想

 この作品の完成を知るまでは、実は内心穏やかじゃなかった。

 僕は前にも語ったように、子供のころから岩波の「ナルニア国ものがたり」全7巻をすり切れるほど読んだ「ナルニア」の大ファンである。いやぁ…このシリーズには大勢のファンがいるけれど、僕だって自分のことをファンっていっていいはずだ。なぜなら小学校低学年からのつきあいだから、もうかれこれ45年はこの本と関わっていることになる。

 だから世の中の「ファンタジー映画ブーム」とやらに乗って、「ナルニア」がついに映画化されると聞いて、「待ってました!」と思ったものだ。それまでBBCにテレビシリーズになったとかいう噂は聞いていたものの、その実物は目にしていなかった。否、見たいと思っていなかった。

 何しろ未知の国を舞台に、しゃべれる動物や巨人や小人、妖精やら怪物やらまで出てくる超スペクタクル大河物語だ。ショボい映像化ではガッカリさせられるだけだろう。

 それが、CGによってそれまで不可能だった映像表現が可能になり、ファンタジー映画の市場も開拓されて、ハリウッドも「金になる」と踏んだわけだ。こうなりゃ「真打ち」ナルニアの出番だろう。

 こうしてナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女(2005)が登場。内容はファンにとって期待を裏切らない出来栄え。映画の中のペペンシー兄妹は本当にイメージ通りのキャスティングだった。興行成績も上々で、すぐに第2弾の制作が決定。こうして3年後に第2章 カスピアン王子の角笛(2008)が公開された。

 こちらもファンとしては大いに気に入ったが、しかしながら一般の人々からは、必ずしもそうではなかったのかもしれない。こちらも大ヒットではあるものの、1作目「ライオンと魔女」の成績を大きく下回る結果に終わったらしいのだ。

 そうなると、たちまち嬉しくないニュースが飛び込んでくる。なんとウォルデン・メディアと共同で「ナルニア国物語」シリーズの制作にあたっていたウォルト・ディズニーが、今後のこのシリーズの制作から「降りた」というのだ。

 まぁ、正直言ってディズニーが「ナルニア」なんて僕だってピンと来なかった。だから「降りたい」っていうならサッサと降りたって結構だ。むしろちょっと風向きが怪しくなってきたからといって早々に退散してしまうあたりに、ディズニーの「ナルニア」に対する「本気」の度合いが透けて見える。所詮ウォルト・ディズニーなんてナチの信奉者だ。むしろいなくなってくれた方がせいせいする。

 とはいえ、これは映画興業上の問題やお金の話だから、笑って見てるわけにもいかない。この時点で本シリーズの存続は、きわめて怪しくなってきたと言えるかもしれない。

 そして僕は、このあたりであまり聞きたくないイヤ〜な噂を耳にしたのである。いわく、そもそも「ナルニア国物語」シリーズの映画化は、最初から第3作までと決まっていた…。最初から全7作をすべて映画化するつもりなんてなかったのだ…。ホントかよ?

 確かにそう考えてみると、それなりに辻褄が合っちゃうから困ってしまう。今後の映画化ラインナップとなる第3作「朝びらき丸、東の海へ」はかなり派手な海洋アドベンチャーになり得るが、第4作「銀のいす」は北欧をモデルにしたような北方の荒れ地と地下の不思議な国を舞台にしたもの。僕はこの話が大好きなのだが、一般的にはいささか暗い話なのは否めない。シリーズはこの後、話がどんどん地味になったり暗くなったりして、最終話「さいごの戦い」でナルニア滅亡までいってしまうのだ。いやぁ、これは確かにかなりキツイ。

 そもそも最大の問題は第5作「馬と少年」である。この話では南方の野蛮国が舞台になっているが、これがどう見ても中東のイスラム諸国をモデルにしているような内容なのだ。原作が書かれたのは1950年代だから、特別に差別意識がなくてもこう書いてしまったのだろう。いわば手塚治虫の「ジャングル大帝」におけるアフリカ原住民描写みたいなものだ。それに、元々ハリウッド映画は中東をバカにしているようなところが多々あるではないか。

 そうはいっても中東問題は、現代の国際社会ではかなりデリケートな部分になる。そうなると「馬と少年」の脚色は、原作ファンを納得させながら現代の中東情勢にも配慮するという、二重の難しさを伴うことになる。そこまで手間暇かけて金をかけて、それに見合った収入が得られるかどうか?

 こうなると、「ナルニア」映画化が最初から3作目で打ち止めの予定だったという話も、やけに現実味を帯びてくるのだった。

 しかもそんなこんなしているうちに、「ファンタジー映画ブーム」とやらもかなり怪しいものになってきたから厄介だ。

 最初にロード・オブ・ザ・リング三部作(2001〜2003)が出てきた時は、「こんな超大作を、最初から三作全部つくる計画で進行させるなんて無謀だ」と思われたものだ。しかしひとたびそれが成功してしまうと、ハリウッドの映画会社は我先にファンタジー作品の、それも「シリーズもの」をこぞって制作したがった。何作もつくることが前提となるシリーズものは、当たらなければリスクになる。しかし「当たる」と分かっているのなら、その後何作も確実に稼げる鉱脈となるのだ。

 こうしてあっちこっちでファンタジー映画が連発されていったのだが…残念ながらそれらの作品は、どれもこれも興行的に、芳しい成績を上げていないようだ。

 そのせいかエラゴン/遺志を継ぐ者(2006)、 光の六つのしるし(2007)、さらにライラの冒険/黄金の羅針盤(2007)に至るまで、ことごとくシリーズ化をうたわれていながら、どれひとつとして(2011年現在では)続編が実現していない。「ライラの冒険」の場合、日本とヨーロッパでの興行成績はよかったものの、アメリカでの成績が期待ほどでなかったのでシリーズ続行に赤信号が灯ったという。予告編では「はじまる!」とかナレーションで言っていたのに、始まったと思ったら終わっちゃったという次第だ。無責任だねぇ。

 結局シリーズを律儀に継続して最後まで完投しそうなのは、ハリー・ポッターと賢者の石(2001)に始まる「ハリー・ポッター」シリーズだけという惨憺たる状況。アレは原作からして格段の知名度があるから、ここまで続いたのだろう。

 その点、「ナルニア」だって全世界的にファンがいる。何しろ原作者C・S・ルイスアンソニー・ホプキンスが演じた「永遠の愛に生きて」(1993)なんて映画もあるくらいだ。知名度は抜群なはず。抜群なはず…だったんだが、ファンが思っているほどこの原作、一般の人になじみがあるわけではなかったようだ。やっぱり「ハリポタ」なみに、まるで「AKB48」みたいにみんながタイトルぐらいは知っているシリーズにならないと、ハリウッド大作の興業としては苦しいのか。

 そんな中、ウォルデン・メディアが新パートナーとして20世紀フォックス傘下のフォックス2000ピクチャーズを得て、何とか第3作の製作にこぎ着けたと知った。いやぁ、よかった。しかしこの作品の成績如何によっては、シリーズの存続が怪しくなってくるだろうから大変だ。

 そんな中、僕にとってはひとつの朗報がもたらされた。今回の監督に、なんと僕のごひいきマイケル・アプテッドが起用されたというではないか。詳しくは後述するが、この人は以前から登場人物に暖かい視線を投げかける、デリケートな作風の人だった。それでいて娯楽作品としての面白さも忘れず仕事キッチリ。最近は007シリーズのワールド・イズ・ノット・イナフ(1999)などもこしらえて健在ぶりをアピールしていたが、その後はあんまり音沙汰を聞かなかった。そんなアプテッドが「ナルニア」新作に起用されたとなると、ファンとしては嬉しいではないか。少なくとも1作目と2作目を担当した「シュレック」(2001)のアンドリュー・アダムソンよりはナンボかマシだろう。何より、イギリス人の監督というのがいい。

 そもそもあの「ハリポタ」だって、アメリカのクリス・コロンバスが撮った1作目と2作目あたりはかなり危うい感じだったじゃないか。軌道に乗ってきたのは3作目以降になってからのはず。

 ならば「ナルニア」も、この3作目から巻き返し可能だ。おまけに原作でもこの第3作は、冒険とアクション満載で一番派手で面白い。これならイケるだろう。劇場で予告編がかかり始める頃には、なぜかタイトルが「アスラン王と魔法の島」と変わっていたものの、なんと今はやりの3D公開というのも縁起がいい。これは当たってくれるんじゃないだろうか?

 ところが…またまたアメリカ公開では1週目が1位になったものの、興行収入は微妙な数字だったようだ。ヒットはヒットでも、この程度のヒットでは採算がとれないということなのだろうか。どこかから聞いた噂によると、日本での興行成績が最終的な決め手となるかも…だって?

 そりゃヤバイ!

 さんざお世話になっているはずの千葉県の観光マップにシンデレラ城のシルエットらしきモノを描き込まれただけで、恩知らずにもヒステリー女みたいに著作権侵害だとわめき散らしながら、他方で手塚治虫の代表作を公然と盗作して何ら悪びれない中国パクリーランドなみの恥知らず、隠れナチ信奉者のディズニーに見捨てられても痛くもかゆくもないが、それが引き金になってナルニア映画化プロジェクトが行き詰まるようでは困る。夢も希望もない守銭奴、くそディズニーを見返すためにも、この作品には当たってもらわねば困る。

 僕は慌てて公開初日に劇場に飛んでいった次第。

 

あらすじ

 第二次大戦下のイギリス、ケンブリッジ。

 あのペベンシー兄弟のエドマンド(スキャンダー・ケインズ)とルーシー(ジョージー・ヘンリー)の二人はその街にいた。エドマンドは背伸びして徴兵検査を受けようとしたりしていたが、所詮はまだガキ。すぐにトシがバレてつまみ出されてしまう。ナルニアでは王として頑張っていたのに…と不本意ながら、我慢するしかないエドマンド。

 一方ルーシーはというと、周囲のちょっと色気づいたお姉さんたちが気になる。ルーシーだってお年頃。オンナになるってどんなことなんだろう?…と、妙に期待に胸をふくらませちゃったりしているのだった。

 しかし、現実の二人はウンザリする現実に直面していた。

 兄のピーター(ウィリアム・モーズリー)と姉スーザン(アナ・ポップルウェル)が両親とアメリカに行ってしまい、残された二人はこのケンブリッジでおじの家に厄介になることになった。しかし、このおじが何とも好きになれない屁理屈人種。もっと困ったことに、その息子…エドマンドとルーシーのいとこにあたるユースチス(ウィル・ポールター)がそれに輪をかけてイヤな奴だから残念にも程がある。

 そんな二人は、おじの家の一室にある、一枚の絵に目を奪われていた。それは大海原をうねる波の中を航海する、一隻の帆船を描いたものだった。

 「これってまるでナルニアの船みたい」

 ところがそんな二人をバカにするように、あのユースチスが後ろから声をかけてきた。

 「君たち、またあんなバカげたおとぎ話を信じているのか?」

 こんな奴にナルニアでのアレコレを、ウッカリ聞かせてしまったのがマズかった。それをいいネタにして、何だかんだとバカにしてばかりいたのだった。ガキのくせに屁理屈で凝り固まったユースチスには、ナルニアの話なんてバカらしくて仕方がない。今回もこの絵をサカナにしてバカにしてやろうと、舌なめずりして近付いてきた。

 「だって、これって本当に動いているみたいじゃない!」

 ところが…それがまったくシャレになっていなかったからユースチスも真っ青。どう見たって絵の中の波は激しく動いている。まるでコレではデジタル3D映画ではないか(笑)。予想外の状況に耐えかねて、ユースチスがキレた。

 「どうせ君たちが何か手品でもしてるんだろ。こんな絵なんか!」

 こう言って、絵に飛びついたユースチス。しかし、絵に手をかけたかかけないかで、絵からドドッと大波が飛び出してきたから驚いた。アッという間に部屋は水浸し。それどころか水は溢れかえり部屋は浸水して、三人は水の中でもがくハメになる。そんなこんなで水面まで上がってくると…。

 そこは海のど真ん中ではないか!

 そんな三人に向かって、巨大な帆船が突っ込んで来る。帆船からは何人かの人が海に飛び込み、三人を船の上に引き揚げてくれた。

 そこにいたのは…あのカスピアン(ベン・バーンズ)だ!

 久々の再会を喜びあうカスピアンとエドマンド、ルーシー。今ではナルニア王となったカスピアンは、自信に満ちあふれていた。さらにエドマンドとルーシーにとって嬉しかったのは、この船に旧友、勇敢なネズミの騎士リーピチープ(サイモン・ベッグ)が乗りこんでいたこと。そんなこんなで楽しげに会話していた一同だったが、たった一人だけそこに空気の読めない奴が…。

 「なんだ、なんだよ。一体ここはどこなんだ?」

 「ここはナルニアの大海原だが、何か?」

 ユースチスにとっては、答えてくれた相手がものいう動物であったのが運の尽き。たちまち目を回して気絶することになる。

 そしてエドマンドとルーシーは、ユースチスが気を失っているのを幸いに、カスピアンからこの航海についての説明を受けることにする。

 この船の名は「朝びらき丸」。この前、ペベンシー兄妹がナルニアを去ってから3年が経っていた。その間、ナルニアの治世は安定し、こうして王カスピアンが航海に出ても支障がないほどに平和を取り戻していたのだ。

 そんなこの航海の目的とは…カスピアンの父王の友人で、父王亡き後に命を狙われ、やむなくナルニアを脱出した7人の貴族たちを探し出すこと。ナルニアの東の沖に浮かぶ離れ島諸島に向かったことまでは分かっているが、その後の消息は不明だ。朝びらき丸はさらに東へと船を進めて、生存しているならばこれら7卿を助け出そうというわけだ。

 しかしこの船に同乗したリーピチープは、そのちっちゃいカラダに似合わぬでっかい野望を抱いていた。

 「東のこの世の果てには、あのアスラン(リーアム・ニーソン)の国があると言い伝えがあります。私はそこに行くのが長年の夢でございます」

 なるほど…と思わず感嘆の声をあげるエドマンドとルーシー。確かに今までアスランは、東からナルニアへとやって来たではないか。

 しかし実直ながら現実肌の船長ドリニアン(ゲーリー・スウィート)は、これにいささか賛成し難いようだった。「東のこの世の果てまで行ったら、船は奈落の底に落ちていってしまう。他にも大海蛇だとか恐ろしい怪物のウワサも耳にしています」

 これを聞いたエドマンドは、ついついオチョくらずにはいられない。「いやはや、大海蛇とはね!」

 そんなこんなで、朝びらき丸は問題の離れ島諸島へとやって来る。ところが船から望遠鏡で島のいりみなと港を眺めてみると、どこにもナルニア国旗が掲げられていないではないか。離れ島諸島はナルニア領土のはず。領土問題はいつどこの世でも微妙なものだ。どこかから乱暴な漁船がぶつかってくるんじゃないか。しかもここには海上保安庁もない。船長ドリニアンにとっては、妙に静まりかえった空気もイヤな予感を倍加していた。

 それでも、とにかく7卿の足取りを調べねばならぬ。一行は朝びらき丸を沖に停泊させ、ボートで上陸隊を港へと送り込むことにする。こうしてカスピアン、エドマンド、ルーシー、リーピチープらが上陸することになるが、珍しいことにあのユースチスも上陸を志願するではないか。だからといって、別にユースチスも冒険をしたがったわけではない。早くもリーピチープがすっかり「天敵」化して航海全体にウンザリしていたユースチスは、この船にいるくらいなら上陸したほうがまだマシと思ったわけだ。

 こうして奇妙なくらい静かな港へと上陸した彼らだったが…。

 

デリカシーある映画作家マイケル・アプテッド

 ここで肝心の本作や「ナルニア国ものがたり」の原作について語る前に、僕としてはどうしても語っておきたいことがある。

 それは本作の監督として起用された、マイケル・アプテッドについてだ。

 マイケル・アプテッド…一時は「エイプテッド」と表記されたこともあり、どうやら本国での発音としてはこっちのほうが正しいようなのだが…ともかくこの人の作品は割とコンスタントに日本で公開されながら、今ひとつその名前は映画ファンにも浸透していないように思われる。

 そのフィルモグラフィーにはそれなりの佳作も数多くありながら、いかんせんどれもこれも地味。したがって本人も地味な存在というのが、これまでのマイケル・アプテッドの置かれた状況だった。

 実はこのマイケル・アプテッド、ずっと前から僕のご贔屓監督なのだ。そのあたりは、このサイトが始まった当初につくっていたコンテンツMy Favorite Directorの中の、マイケル・エイプテッドの巻をお読みいただければお分かりいただけるかと思う。

 その中の内容と重複してしまうかもしれないが、ここで改めてマイケル・アプテッドの歩みを振り返ってみると…その日本紹介は「アガサ/愛の失踪事件」(1979)に遡る。

 あの有名な推理小説作家アガサ・クリスティが、実際に起こした失踪事件を題材にした作品。実際にはこの失踪の間、彼女が何をしていたのかは明らかにされていないので、この映画はフィクションだ。その失踪中のクリスティを発見し、気付かぬふりをしながら彼女に近付くアメリカ人新聞記者にダスティン・ホフマン、クリスティ役にはヴァネッサ・レッドグレーブという顔合わせ。しかも撮影はベルナルド・ベルトルッチ作品で知られるイタリアの名手ヴィットリオ・ストラーロを起用という興味溢れる布陣。その内容は…というと、大人のための「ローマの休日」のような、ホロ苦くもコクのあるお話が展開する。この作品はまったく話題にならなかったし、現在でも覚えている人はわずかだろうが、僕は一発でノックアウトされてしまった。何よりそのデリカシー溢れる語り口に…。

 続いて公開されたのが、日本では主演のジョン・ベルーシの没後すぐに公開されたので、縁起でもないタイトルになってしまった「Oh! ベルーシ絶体絶命」(1981)。この邦題ではロクなもんじゃないだろうとみんなに敬遠されたのも無理はない。僕が見たのも、ヒロインとして当時「アルタード・ステーツ/未知への挑戦」(1979)で出てきたばかりのブレア・ブラウンが出ていたから。期待通り、彼女は最高だった。実はこの映画の脚本は、「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)の脚本で鮮烈に登場し、その後「白いドレスの女」(1981)で監督にも進出したローレンス・カスダンのもの。そう考えると、投げやりな邦題にも関わらずこれまた豪華な布陣だったのだ。お話は典型的なギャップあるカップルがゴールインする物語…なのだが、なぜか妙にこれまたデリカシーを感じさせる語り口が心に残る。僕はいまだにこの作品が忘れられないのだ。

 この2作で、僕はマイケル・アプテッドの大ファンになった。

 次に公開された…と記憶しているのだが…「歌え!ロレッタ愛のために」(1980)は、主役のシシー・スペイセクがアカデミー主演女優賞をとるという快挙。ただし主人公の実在の歌手ロレッタ・リンのことを全然知らない僕としては、今ひとつどう素晴らしいのかが掴みきれない。それは、ガツンと見る者に迫ってくるインパクトの弱さも災いしているかもしれない。

 インパクトが弱い。実は、それはマイケル・アプテッドの前作に通じて言える。

 そして、これは反面、アプテッド作品が非常にデリカシーに富んでいることとつながっている。デリカシーに満ちて節度ある語り口のアプテッド作品は、イイ意味でも悪い意味でも押しつけがましくない。それが時にはインパクト不足として災いしてしまうのだ。

 どんな作品も退屈させずに見せるサービス精神はある。だから面白いことは面白いのだが、品が良すぎてどうしてもパンチには欠ける。

 だから「アガサ」も「Oh! ベルーシ」も僕は大好きなのだが、一般のお客さんばかりでなく映画ファンにも黙殺されてしまうようなことになるのである。

 原作を読んで大いに気に入った、旧ソ連を舞台にした刑事小説「ゴーリキー・パーク」(1984)は、ウィリアム・ハート主演、アプテッド監督と聞いて狂喜乱舞したもののいつまでも公開されずじまい。ずっと後になってテレビ放映された映画を見たら、僕はその味わいが気に入ったものの、確かに少々大人しすぎた。

 他方、それに先だって制作された「家族の絆」(1984)では家族ドラマに挑戦。二人の息子と暮らすテリー・ガーのシングル・マザーが、ピーター「ロボコップ」ウェラーと親しくなっていくうちに、家族の関係がギクシャクしてくる…というお話。DV男がどんどんエスカレートして、最後はまるで怪物か…ロボット(笑)みたいになっちゃうあたりに妙なサービス精神を感じて嬉しくなったが、それでも全編に漂う品の良さや慎み深さは相変わらず。サービス精神を発揮してはみても、決してエグくはならないのがアプテッドなのだった。

 その後、スティングのロック・ドキュメンタリーを撮った「ブルー・タートルの夢」(1985)という異色の作品を挟んで、おそらくは現在までの彼の映画における代表作と思われる「愛は霧のかなたに」(1988)を発表。邦題はもっともらしいモノになっているが、現代を直訳すると「霧の中のゴリラ」という実もフタもないもの。シガーニー・ウィーバー演じる動物学者が、ゴリラと共生するような暮らしをする話である。これも不思議な映画だったが、語り口は至って上品だったから見ていられた。

 ところがこのあたりから、アプテッドもさすがにパッとしなくなってくる。

 「瞳が忘れない/ブリンク」(1994)はマデリーン・ストウ主演のサスペンスもの。殺された人の角膜を移植された盲人のストウが、視力を回復した後で犯人の残像を目撃。そのため犯人から狙われる…というお話。なかなか面白い設定なのだが、やっぱりアプテッドのケレン味のなさが災いして今ひとつ盛り上がってこない。続く「ネル」(1994)はジョディ・フォスター主演のドラマで、人里離れた山の中で一人で暮らしてきて、「野性の少年」化した女のお話。これぞデリケートなアプテッドの得意分野と思いきや、押しつけがましさの権化ジョディとは水と油だったのか、これもなぜかうまくいかなかった。さらにヒュー・グラントとジーン・ハックマン主演の医療サスペンス「ボディ・バンク」(1996)もやって来たが、退屈しないまでも何となく小粒感は否めない。これまたアプテッドの品の良さ、アクのなさがマイナスに働いたのだろう。この時期のアプテッド作品は、どれひとつとして大きな話題になることもなく…元々この人の作品ってあまり話題にもならなかったのだが…黙殺されていった。

 そんな緩やかな低迷期を迎えていたアプテッドに、大きな転機が訪れた。何と007シリーズの監督への起用である。ピアース・ブロスナンがボンドを演じた3作目、「ワールド・イズ・ノット・イナフ」(1999)がそれだ。

 今にして思えばハチャメチャなスパイ・アクションである007シリーズに、何でアプテッドが起用されたのかが分からない。しかしながらよくよく考えてみると、ずっとシリーズ生え抜きのテレンス・ヤング、ガイ・ハミルトン、ジョン・グレン…なんて職人監督を起用してきたこのシリーズは、ピアース・ブロスナン起用の頃からゆっくり軌道修正を始めていた。超マンネリと言われて凡作を連発していたシリーズの活性化として、ブロスナン起用第1作「ゴールデンアイ」(1995)には、異色アクション「ノー・エスケイプ」(1994)で頭角を現したマーティン・キャンベル、「トゥモロー・ネバー・ダイ」(1997)ではロジャー・スポティスウッドを起用した。そういう路線の延長線上として、とにかく幅広いジャンルの作品でソツなくサービス精神を発揮できるアプテッドが起用されたということなのだろう。

 その結果は…というと、成功と言っていいんじゃないだろうか。ソフィー・マルソーやロバート・カーライルなど一流スターの起用に見合った、それなりにグレードの上がったボンド映画に仕上がった。ロジャー・ムーア時代のガイ・ハミルトンの監督作品などでは望むべくもない「格上」感。このあたりは、元々アプテッドが持ち合わせていたサービス精神と、にも関わらずの上品さが幸いしたように思う。

 しかし、これでアプテッドが映画監督として上昇気流に乗れたかというと、残念ながらそうはいかなかった。その後すっかり名前を聞くこともなく、作品の公開もポツリポツリ。公開されても話題にならず、僕も気づかぬままスルーしていた。

 ところが…そんなマイケル・アプテッドだが、本国ではまったく別の顔があるということを無知な僕は知らなかった。実は劇場映画の監督として今ひとつでも、アプテッドには「ホームグラウンド」というべき活躍の場があったのだ。みなさんは先刻ご承知かもしれないが、アプテッドはテレビの異色ドキュメンタリー、「UP」シリーズの制作者として本国では知られているのである。

 「UP」シリーズについては僕もそんなに詳しくないが、1度や2度くらいならNHKで放映されたモノを見ている。イギリスのさまざまな社会階層に所属する同年齢の何人かの子供たちを、何年かの間隔で区切って追いかけたシリーズ。それも子供時代から若者〜大人〜中年…と、同じ子供たちをずっと「定点観測」のように追いかけている大河ドキュメンタリーだ。例えばフランソワ・トリュフォーとジャン=ピエール・レオのコラボによる「アントワーヌ・ドワネル」シリーズ(1959〜1978)、あるいはずっと同じレギュラー陣が出演して、子供時代から若者時代までを描いてきた「ハリー・ポッター」シリーズ(2001〜続行中)などのような作品群しか、この「偉業」と並べて比べられる業績はない。現在この子供たちはすでに50歳を過ぎているらしいが、シリーズはそのまま続行中というからスゴイ。この世界にも類い希なるテレビ・ドキュメンタリー・シリーズのクリエイターとして、マイケル・アプテッドは知られているのであった。浅はかにも、僕はそれを知らなかった。

 そうなると、映画監督は「余技」だから今ひとつ気合いが入っていないのかねぇ…と意地悪な文句のひとつも言いたくなる。考えてみればアメリカに上陸した「アガサ」の時点で、すでに「UP」シリーズで名声は固まっていたのだ。「新人」と思っていたのは、極東の島国に住むオレだけだった…。

 しかしむしろこの「UP」シリーズは、別の意味でアプテッドの映画作品に影響を与えているのではないか…と、僕には思える。

 かといって、別にアプテッドがドキュメンタリーの方法論を劇映画に持ち込んだ…というわけではない。

 淡々と子供たちを何十年にも渡って「定点観測」するその根気はスゴイ。まさに前人未踏だと言える。前人未踏ではあるが…考えてみれば何にも仕掛けをしていないし、ケレン味もエグさも出していない。素材そのままをデリケートに見つめるだけで、人生のドラマティックな展開が見てとれる。

 こうした「UP」シリーズを制作しているうちに、アプテッドはテクニックやパワーでドラマティックに見せようなんて気持ちを失い、程良く上品にデリカシーを持って描くことを身上にするようになったのではないか。

 この人が映画作品よりもむしろこのテレビドキュメンタリー・シリーズで有名だという事実を知らなかったのは、まったく弁解の余地もないくらいお恥ずかしい話。しかしそんなアプテッドだからこそ、こうした映画作品の話法を確立したのではないかという推論は成り立つ。

 なるほどねぇ。何となく長年の疑問が解けた。

 しかし明らかに映画作品では、そんなアプテッドの方向性は行き詰まりを見せつつあった。このへんで、本来の持ち味とハリウッド製娯楽劇映画のメソッドとの間で、何とか折り合いをつけなきゃいけないんじゃないだろうか。

 そんなアプテッドが、いきなり「ナルニア」の監督として浮上して来たのだ。これは両方のファンである僕としては、大いに気になる。「ナルニア」の今後がかかった大事な一作。それと同時にアプテッド久々の作品として、彼のキャリアに大きな影響を与えかねない。

 何とかここらで一発決めてほしいではないか。

 

見た後での感想

 まずは本筋に入る前に、原作ファンだと今回の「アスラン王と魔法の島」ってサブタイトルに文句が出そうな気がするな。

 何しろこっちも「ハリポタ」に負けないほど熱狂的なファンがいる。かく言う僕もその一人。そういうファンたちからすれば一言一句原作には手を付けるなと言いたくなるだろう。実際、僕もこの「ナルニア」シリーズでは、主役の子供たちのイメージが原作そのものだったことで大満足しちゃってるところもあるのだ。

 で、「アスラン王と魔法の島」だが、僕はこの際、映画用の題名にしてよかったと思っている。

 だって原作のタイトルは「朝びらき丸、東の海へ」だよ。

 これが本の題名、それも児童文学の本の題名なら、これはこれでオッケー。というか、大胆かつ的確だろう。「the Dawn Treader」を「朝びらき丸」と訳すあたりの、岩波版翻訳者・瀬田貞二氏のセンスには脱帽としか言いようがない。

 しかしこれは大金をかけたハリウッド大作でもあって、原作ファンや児童文学を読むような年齢層だけでなく、もっと広い範囲の人々に届かなければ資金回収には至らない。だとすると、申し訳ないが映画のタイトルとしては「朝びらき丸」はナシだろう。それはもう、そういうもんだとしか言いようがない。

 例えば、つい最近の作品で愛を読むひと(2008)というのがあった。

 あれの原作も相当有名な作品らしく、原作ファンがどこかでこの映画題名にギャーギャー文句を並べていた。何で原作題名の「朗読者」にしないのだ…と文句を垂れていたのだ。で、映画会社に知性がないだの、邦題がバカ丸出しだのと悪口雑言。まぁ、気持ちは分からないでもないけど、そこまで言うかな〜という気もしたんだよね。だってこの映画はどう見ても女性観客あたりを当て込んだ作品。原作読んでいる人はそのターゲットの中では少数だろう。というか、原作読んでいる人だけが見に行くようでは、映画興行は成り立たない。本と違って、映画にはお金がかかるのだ。このギャーギャー言ってる人は、そういう事が分からないほど子供なのかねぇ(笑)? 「朗読者」じゃ映画館にお客なんか来ないよ。

 しかも、「愛を読むひと」って「朗読者」の邦題としては、決して悪くはないんじゃないの? そういう僕は、批判している人からは「センスのない奴」ってことにされちゃうんだろうけど。少なくとも、その意味は伝えようとしているじゃないか。まだ「ザ・リーダー」とかいうタイトルにされなかっただけマシだろう。これでガタガタ文句を言うのも、いかがなものかと思っちゃうよ。自分はこのタイトルに込められた意味がちゃんと分かっている利口な奴で、バカな大衆とは違うんだ…って言いたいんだろうけどねえ。いやだいやだ。

 閑話休題。そんなわけで今回、邦題を思い切っていじったわけだが、実は内容についてはもっと大規模に改変している。実はこれが今回の作品の、最も大きなポイントなのだ。これは過去の2作品と比べてみれば分かる。

 

「ナルニア」過去2作の原作と映画

 第1作「ライオンと魔女」が発表された時は、世のナルニア・ファンの熱い注目を集めての公開だった。あの「ナルニア」がついに大スクリーンに登場するのだ。しかもすでに「ロード・オブ・ザ・リング」三部作や「ハリー・ポッター」シリーズが大成功を収めた後、まさに満を持しての公開。期待もされてはいたが、失敗したらタダじゃ済まない雰囲気も多分に漂っていた。関係者のプレッシャーたるや大変なものだっただろう。

 そしてそのプレッシャーは、おそらくは一般の映画ファンに対するものではあるまい。熱狂的に「ナルニア」を愛してきた、全世界にゴマンといる原作ファンに対するものだったはずだ。このシリーズの作り手たちがハンパなことをしてしまったら、彼らファンが許すまい。

 ここで映画の作り手たちが恐れたのは、厳密にいうとハンパな映画をつくってしまうこと…ではなかったかもしれない。それはおそらく、彼らが愛する原作を台無しにすることだ。

 その心配は、すべて杞憂に終わった

 映画「ライオンと魔女」は、原作を読んできた者なら必ずや満足する仕上がりになっていた。ペベンシー兄妹のキャスティングは、誰もが原作を読んで心に抱いていたイメージ通り。そもそも原作から抱くイメージなんてそれぞれ違いそうなものだが、こんなに「原作通り」なんて思えるキャスティングが出来ることがあるんだろうか? そのくらい、彼らは小説そのもののイメージでスクリーンに登場した。

 お話も、オープニングに戦時下のイギリスのスケッチをチラリと入れていたが、それ以外はほぼ原作通りと言っていい。つまりは文字通り「忠実な映画化」となっていたのだ。だから原作ファンとしては大満足だ。僕も大いに堪能した。

 しかし…。

 一本の映画作品としてどうか…というと、実は微妙としか言いようのない面があった。

 「ナルニア国ものがたり」の原作は、大人になっても読んで色褪せない出来栄えだ。子供向けではあるが、今でも僕は読んで楽しめるし感銘も受ける。しかし、これを一般の観客が見る映画として移し替えたらどうか?

 実はファンと言えども、シビアに見るとツライのである。原作に忠実に画面に移し替えてみると、意外にお話がこじんまりとしている。だから中味が薄味に見える。おまけにクライマックスの戦闘場面は、すでにどこかで見たような場面も羅列に過ぎず鮮度がない。所詮は愚作「シュレック」ごときの監督アンドリュー・アダムソンでは、映画的見せ場の工夫など出来ようはずもない。つまりは今ひとつ映画としてこなれていなかったと言わざるを得なかったのだ。

 脚本を手掛けたのは、ライフ・イズ・コメディ!/ピーター・セラーズの愛し方(2004)の脚本家チームであるクリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリーの二人。原作のエッセンスをビビッドに再現。さらに冒頭の戦時下のイギリスの描写から、エドマンドの屈折した気持ちをよりリアルに表現して、ある意味で原作に付加価値を付けているところさえあるのだが、さすがに全編を通してみると原作離れはほとんどない。やはり原作ファンの熱い視線は、完全にはね返すことができなかったのだろう。

 こうして大ヒットを飛ばしながらも課題を残した第1作に次いで、第2作「カスピアン王子の角笛」が公開される。これを見た原作ファンは、ちょっと驚いたのではないだろうか。明らかに物語の進行が、原作と大きく変わっているからだ。

 もっとも、原作のストーリー展開は文章であれば不自然ではないが、お話の前半部分がほぼ丸ごと回想場面になってしまうようなもので、一般的な娯楽映画の展開としてはいささか難しいものがある。だからこの「脚色」は極めて真っ当なものだ。その他にも、物語の途中で失敗に終わる城への侵入場面を持ってきたり…と、かなり自由度の高いアレンジを施している。クライマックスの戦闘場面にあれやこれやの作戦の妙味をちゃんと脚本段階で描き込んであるらしいのは、マルクスとマクフィーリーの脚本コンビがアダムソン監督の映画的技量に頼るのを諦めて、脚本の工夫で面白くしようと開き直ったからだろう。これは明らかに、前作の反省の上に立った改変なのである。

 かといって、原作のスピリットを大きく転換したわけではない。むしろ全編の印象は原作に忠実ともいえる。そういう意味で、この作品は映画的にも原作に対しても、非常に理想的な映像化だったと思う。

 しかし映画としては明らかに向上したにも関わらず、「カスピアン王子」の興業成績は大きく下落した。

 原作ファンとしては非常に残念。それと同時に映画ファンとしても、より映画的にこなれた作品になったのに「なぜ?」という思いがある。それでも映画ファンとしては、「やっぱりな」と思わざるを得ないところもあるのだ。その問題点は、「ナルニア」が設定上どうしても抱えるものなのだ。

 それは…必ず主人公が子供であること

 どんなストーリーが展開しようとも、主人公が子供である以上「子供向け」映画にならざるを得ないのは仕方ないところ。そして何より、「ナルニア」は誰が何と言おうと子供向けの物語なのだ。

 しかし第1作「ライオンと魔女」を見に行った観客の多くは、原作なんかどうでもいい一般映画ファンだったはずだ。そして、どこか「ロード・オブ・ザ・リング」の壮大な世界に酔って、もう一丁、別世界のファンタジーを見たいと思って劇場に駆け込んだに違いない。深遠な世界観と壮大なスペクタクル、CGとSFXによってのみ表現される見たことのない世界を堪能できる…と思っていたはずだ。

 だとすると、いささかこじんまりした作品世界と原作イメージに固執した展開、さらにどこをどう見ても「子供向け」を逸脱しないお話に、失望しなかったとは思えない。

 かくして「ライオンと魔女」を見に行った観客のうち、原作ファンでない「浮動票」の多くが「カスピアン王子」の時には逃げたと考えるべきだろう。

 非常に悔しいが、この時点でシリーズの苦戦を察知したディズニーの予測は正しかったのだ。

 しかも原作イメージを大切にした結果、主人公のペベンシー兄妹に扮した子役たちは、ハッキリ言って今ひとつ「華」がない。これは同じ子役時代から主役を務めてきた、「ハリー・ポッター」シリーズの主役三人トリオを見てみれば分かる。この物語世界と原作イメージには極めて忠実なのだが、残念ながら映画の主役としてのスター・バリューには決定的に乏しい子供たちなのだ。

 さらにキツイのは、例えば「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリー・ポッター」と違って、脇に大物俳優やスターを配置しにくい物語になっていること。イアン・マッケランとかクリストファー・リー、アラン・リックマンとかレイフ・ファインズなんかを置けない。おまけに主要人物の多くが、ライオンのアスランを筆頭に動物や架空の生き物だったりするのも致命的だ。だからなおさら、スターなどを置く余地がなくなる。苦肉の策でアスランの声にリーアム・ニーソンを起用したりしているが、いかんせん苦し紛れな感じがあることは否めない。唯一の例外は「ライオンと魔女」で白い魔女を好演したティルダ・スウィントンで、だから彼女は「カスピアン王子」でも、さらには今回の「アスラン王と魔法の島」でもチラリと顔を出す「皆勤賞」ぶり。でも、確か第3作には白い魔女なんて出てこないよなぁ? それでもスターを出せるのはこの役ぐらいしかないから、ムリヤリ出番をつくって出しちゃってるのだろう。スウィントンもご苦労様である。

 そんなわけで、キャスティング的にもどうしても地味になりがちな「ナルニア」は、それだけでも興業上苦戦を強いられる可能性が高くなるのである。これも興業上難しい点のひとつだ。

 そんなこんなで迎えた第3作は、映画化に際していかなる手が加えられたのだろうか?

 

さらに大胆な原作離れを見せている本作

 原作とはかなり構成が変えられた第2作「カスピアン王子」。ところが今回の第3作「アスラン王と魔法の島」は、原作の「朝びらき丸、東の海へ」をさらに大胆に改変しているので驚いた。

 まず航海の場面が始まって間もなく、カスピアンら一行が離れ島諸島にやって来るくだりで、映画は原作から大きく離れる。原作では諸島のうちでも辺鄙なフェリマス島に一行が上陸した時、奴隷商人にいきなり捕まってしまうが、カスピアンだけたまたま通りかかった7卿のうちの一人ベルン卿に買い取られ…という展開。ところが映画は、いきなり一行がこの諸島最大の街・いりみなと町に上陸する。ところがこの街には、人っ子一人いないという設定。緊迫感溢れる、非常に映画的な展開だ。結局ここで彼らは捕らえられ、奴隷商人たちに競りにかけられる…という展開で原作と同じストーリーラインに復帰。ところが捕らえられている人々のうち何人かは、東の海から漂ってくる不思議な緑のスモークに捧げる生け贄にされてしまう…という、原作にはない映画だけの新たな設定も挿入される。

 映画だけの設定はもう一つあって、この映画では単に7卿を探すだけでなく、途中から航海の目的が「7卿の持っていた剣を回収し、それをラマンドゥの島のテーブルの上に7本全部揃えることで悪しき魔法を解くこと」…へと変えられている。

 これらのうち特に後者の改変が、元々の原作のストーリー展開をあちこち大きく変更するキッカケにもなっているのだが、「緑のスモーク」「7本の剣」…という視覚的に分かりやすいアイコンをお話の原動力にするというのは、「映画のための脚色」としては極めて当然な方針だろう。つまり今回は前作よりも、さらに「映画的」であろうとする表れなのである。

 だから原作「朝びらき丸、東の海へ」と比較すると、航海の内容や順番が、かなり激しく改変されている。その大胆さは、原作ファンとしては驚くほどだ。

 例えば原作において、その寄港先やエピソードの登場は、次のような順番になっている。

 離れ島諸島〜大嵐〜竜の島〜焼けあと島〜大海蛇の襲来〜金水島(死水島)〜のうなしあんよの島〜くらやみ島〜ラマンドゥの島〜世界の果て

 しかし映画では次のように、かなりの違いを見せているのだ。

 離れ島諸島〜のうなしあんよの島〜大嵐〜金水島(死水島)+竜の島〜ラマンドゥの島〜くらやみ島+大海蛇の襲来〜世界の果て

 両者を見比べていただければお分かりいただけるだろうが、これは熱狂的な原作信者が怒り出さないとも限らないほど、かなり激しい改変となっている。逆に言えば、それほどのリスクを冒しても改編しなくてはならないと、映画の作り手側は覚悟を決めたのだとも言える。

 ただし…原作に掲載されている挿し絵画家ポーリン・ベインズによる「朝びらき丸」の地図は、離れ島諸島までしか描かれていない。そこで、その後の自由度のきく範囲ギリギリの線で、映画化のための大胆な改変を実行したとも言える。このあたりが、作り手たちのセンスの良さというか「分かっている」点だろうか。

 そして特にここで大きな意味を持つ点は、「のうなしあんよの島」を物語のかなり早い段階に持ってきていることだ。ここで知恵の深い魔法使いを登場させ、7卿の剣を揃えてラマンドゥの島のテーブルの上に置かなければならない…という映画ならではの「新設定」を語らせる。そのために、わざわざこの島を早い段階で登場させなければならなかった。

 また、ここでルーシーが魔法の本を見るエピソードが登場するが、それによって彼女が「美しくなるための呪文」のページを破いて持っていく…というエピソードが新設された。原作ではルーシーがこの呪文のページを見る場面はあるのだが、ページに描かれているアスランの恐ろしい顔に気付いて断念する…ということになっている。ところが映画では、後でルーシーが破いたページを見ながら、呪文を実際に唱えてみる場面が出てくるのだ。その結果、自分が憧れていたスーザン瓜二つのように美しくなるのだが、肝心のルーシー自身が消えてしまうことになる…。この場面はスーザンを演じるアナ・ポップルウェルがどうにも「おかめ顔」なため、そこまで美しさを羨むという設定が苦しいものとなっている(笑)のだが…ともかくここで作り手がめざしたのは、主人公たちがみな何らかの誘惑に惑わされるという設定だろう。原作ではいかにも誘惑に転びそうなユースチスがトップバッターとなっているが、それをいかにも誘惑とは無縁のようなルーシーに改変したのも、誘惑の強さを強調しようとしたが故だ。

 その通り。今回はすべての主人公たちが誘惑に負けそうになっている。

 エドマンドとカスピアンはそれぞれの権力欲と虚栄心で対立するし、特にエドマンドにはくらやみ島でまたまた白い魔女が誘惑をしかけてくる。原作にはないこのエピソードは、本シリーズ唯一のスター起用であるティルダ・スウィントン再登板という意味合いもあったのだろうが、「悪」の正体を単純化し分かりやすくする意味もあったのだろう。

 ユースチスが欲得から竜に化けるのは、こうした展開の中ではむしろ当たり前と言っていい。演じるウィル・ポールターは実は原作イメージ(というかポーリン・ベインズの挿絵)とは見た目は離れているのだが、なかなか滑稽味たっぷりに演じていてこれはこれでなかなかイイ。僕は結局見れなかったのだが、評判のよかった「リトル・ランボーズ」(2007)で頭角を現した有望株とのこと。なるほど、さすがの芸達者ぶりである。

 そしてストーリーの改変に従って、ユースチスの竜から人間への復帰もグッと遅くなっている。原作では竜の島だけで片づいていたユースチスの竜への変身が、映画ではくらやみ島とそこでの大海蛇との格闘まで引っ張られているのだ。

 そのため…というか全体の尺数への配慮もあってか、本来別々のエピソードである竜の島と金水島を同じ島での出来事として脚色している。ここらあたりは、原作ファンとしては最も微妙な点ではないだろうか。しかし上映時間の問題は、本作ではかなり重要な問題だったのではないかと思われるのだ。

 今までのシリーズ2作の上映時間を見てみると、「ライオンと魔女」140分、「カスピアン王子の角笛」150分…と、いずれも2時間を大幅に超えている。実はこの上映時間、「カスピアン」はともかく「ライオンと魔女」では少々見ていてキツかった。やはりこうして映画化されてみると、何だかんだいって「ナルニア」はやっぱり子供のおとぎ話ではある。いささか単純な構成の「ライオンと魔女」は、さすがに2時間を超える上映時間ではスカスカ感は拭えないのだ。

 また単純に子供向け映画だとすると、子供の観客に2時間超えの映画を見せるのはいささかツライ。こういう意味でもこの前2作には無理があったように思うのだ。

 それではなぜ「ライオンと魔女」「カスピアン」が2時間超えの上映時間となったのかと言えば、やはりそれは「ロード・オブ・ザ・リング」以来のファンタジー超大作、ファンタジー映画の「真打ち」としての「格」をマーケットが要求したからなのではないだろうか。このあたりが「善戦」していたとはいえ、「ライオンと魔女」「カスピアン」にどこかすきま風が吹いていたような印象が残った理由ではないかと思う。いろいろな点で、何かがうまくいっていなかったのだ。

 そこでディズニー撤退後にマーケティングを見直さなくてはならなくなり、改めて子供向けには2時間を切らなければ…という決定が下されたのかもしれない。今回の作品は、シリーズ初の2時間を切る112分となっている。映画は長けりゃいいってもんじゃないが持論の僕としては、これは大いに歓迎だ。

 しかし結果としては、エピソード的に単純な「ライオンと魔女」が140分もあるのに、シリーズ屈指のエピソード盛りだくさんな「朝びらき丸、東の海へ」を映画化した「アスラン王と魔法の島」がたったの112分となり、お話を駆け足で語らねばならないという皮肉な状況を生みだしてしまった。そのため、それぞれ単独でも味わい深いムードを持つ竜の島と金水島のエピソードを合体。どちらもスケール感のある舞台背景を持っていたはずなのに、いささか視覚的に狭苦しいお話になってしまったのが残念だ。原作がユースチスが竜に化けるのは島の中の奥深い谷間だったし、すべてを金に変える水をたたえた池は野外の湖だった。それらが軒並みスケールダウンする結果となってしまったのだ。

 それだけでなく…全体にペースアップしてしまったせいか、世界の果てへ行こうという航海が、やけにご近所でチマチマやっているような印象になってしまった。やっぱり大航海のスケール感と大変さは、上映時間をかけないと出なかったのではないだろうか。これはお話全体の印象にも関わってくる問題だけに、もうちょっとどうにかならなかったのかと思わずにいられない。

 しかしながら脚色は今回もかなり頑張っていて、前述の改変部分もそれぞれに意味がある。大海蛇の場面を映画の終盤に持ってきたのは、冒険スペクタクル活劇としては正解だったろう。ちゃんと映画的な見せ場になっているし、あちこち原作をいじくったお話をちゃんと収束させるための仕掛けになっている。しかも映画のはじめの頃から、エドマンドに大海蛇の迷信をバカにさせるという伏線を張っているのもうまい。クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリーの脚本家チームは今回も実に巧みな脚色を行っているのだ。

 こうなると今回の大胆な改変は、最悪でも好悪半ばするものだった…と言わねばならないだろうし、このシリーズを再浮上させるためには必要なことだった…と、さすがに原作ファンでもこう言わざるを得ないのではないだろうか。

 

見た後の付け足し

 そんなわけで、ホメたりケナしたりといいんだか悪いんだかよく分からない評価をしてきた本作だが、僕は概ねこのシリーズを存続させるためには必要なカンフル剤だったのではないかと思う。

 そしてマイケル・アプテッドの持つ上品さとサービス精神が、このシリーズにプラスとなったのではないかとも思っているのだ。

 それはエンディングに如実に現れている

 アスランの国一歩手前で、旅の終わりに別れを惜しむ一同。中でも印象深いのが、ミソッカスだったユースチスとネズミのリーピチープの別れだ。旅の最初からほとんど天敵状態だったこの両者は、ユースチスが竜に変身したあたりから一変。リーピチープの「男気」と「情け」に、ユースチスが大いに助けられるという展開となる。だから、この両者の別れは感慨深い。このあたりは、元々の原作からして感動的だ。

 しかし…ファンとしてのひいき目で見ているからだろうか、特に映画版において、この両者の別れの場面は格別に印象深く感じられた。原作で読んでいてどうなるのか知っていたのに、思わずちょっとウルッと来たよ。

 これこそが、デリカシーのある映画作りが身上のマイケル・アプテッドの持ち味ではないか。

 原作を読んで分かり切っているにも関わらず新たなサプライズを与えてくれた本作は、だからこそ…それだけで僕には「映画的」に評価できる作品だと思えるのだ。

 

 

 

 

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