「ヤコブへの手紙」

  Postia Pappi Jaakobille
  (Letters to Father Jaakob)

 (2011/02/14)


  

見る前の予想

 この映画のことは、昨年末に銀座の映画館でのチラシで見た。

 今思えば、確かケビン・コスナーネスト(2009)のチラシもこの時に初めて見つけたのだが、「ネスト」の方は気になって内容をむさぼり読んだのに、こっちのチラシは「ふ〜ん」ってな感じにスルーして「毎度お馴染みの良心的ミニシアター系映画ね」ぐらいのことしか思わなかった(笑)。

 では、なぜその作品が記憶のどこかに引っかかったかと言えば、同じ映画館で予告編を見たからだ。

 どこかヨーロッパの辺鄙な国の映画らしく、いかにも小品という佇まいの作品。それだけなら、いかにも「よくありそうな作品」だ。年間何10本もミニシアターで公開され、忘れ去られる作品の1本に他ならない。ところがこの映画の主人公らしい中年女が、何とも強烈な印象を放っていた。

 ゴリラみたいないかつい体格、いかつい顔。そして常に何とも不機嫌そうな表情。お話より何より、このゴリラみたいな女の顔が気になった。

 そして年が明けてこの映画が公開されてからも、僕はずっとこの映画のことが気になっていたのだ。

 日本で公開される映画の数は星の数ほど多いし、見たいと思う映画も結構ある。それに比べて使える時間には限りがあるし、できれば映画のハシゴなんてのも避けたいと思っている。だからこの映画も見ようかどうか迷っていたのだが、ケビン・コスナーの「ネスト」を見た時点(笑)で「こっちも見るしかない」と心を決めた。僕は少なくともグリーン・ホーネット(2011)よりはこの映画が見たい。

 かくして日曜日の午後、僕は銀座の映画館に足を運んだわけだ。

 

あらすじ

 その刑務所で、彼女は常に模範囚であり続けた。

 来る日も来る日も休暇もとらず働き、家族の面会も受けなかった。そんな彼女に、出し抜けに釈放の日がやって来る。

 そう刑務所長(エスコ・ロイネ)に告げられた彼女は、しかし大して嬉しそうではなかった。いや、むしろ正確には迷惑そうと言ってもよかった。釈放されても行く所もないのだ。

 ならば…と刑務所長が持ち出したのが、ある一通の手紙。ある人物の元で住み込みで働いて欲しいという依頼の手紙だった。ラクそうな仕事で、明日から来てくれ…とのことだと。

 これを聞いた彼女は、思わずカッとして睨み付ける。こっちの都合も考えず勝手に決めやがって…とでも言いたいところだろう。思わずその剣幕に刑務所長もタジタジだが、実のところ彼女に釈放後のアテもない。

 「終身刑と聞いていたからね」とブスッとした顔でつぶやく彼女の名はレイラ(カリーナ・ハザード)。恩赦で釈放になると聞いても少しも笑顔を見せない、仏頂面のいかつい中年女だった。

 寒々とした田舎町にバスが停まる。降り立ったのはカバンひとつを持ったあのレイラだ。しかしそこには奮い教会がポツンと建っているだけで、周囲にはこれといった建物も見られない。レイラは相変わらずブスッとした顔で黙々とカバンを持って歩いていくと、一軒のボロ家に行き当たる。そこが目指す「雇い主」の家だ。

 ガランとした家には誰もいない。そんな家の中をうろつき回ると、物音で一人の老人が立ち上がる。どうやら彼女を待ったまま、眠り込んでしまったらしい。

 老人はヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン)で、盲目なためにとんでもない方向に握手の手を伸ばす。しかしレイラは、そんなヤコブ牧師の手を取ろうともしなかった。

 早速、やって来たレイラのためにお茶の用意をするヤコブ牧師。しかしレイラはお茶碗に湯を入れてもらうと、サッサとテーブルの反対側に引っ込んだ。親しげに接しようとするヤコブ牧師に、断固として笑顔ひとつ見せようとしない。「家事はやらないから」「どうせ長くいないんだし」…と、実もフタもないやりとりが続く。

 そんな折りもおり、外からチリンチリンと自転車のベルの音が聞こえてきた。「ヤコブさ〜ん、郵便ですよ〜」

 その声を聞くや、ヤコブ牧師の顔がパッと明るくなる。「残念ながらお茶をゆっくりいただくヒマはなくなったね」

 こうして慌てて家から出てくるヤコブ牧師。自転車でやって来た郵便配達(ユッカ・ケイノネン)を迎えて、待ちわびていたかのように尋ねる。「今日は何通来てるかね?」

 こうしてヤコブ牧師の「日課」が始まる。彼のもとに届く手紙を声を出して読んでやり、それに対する牧師の答え…聖書からの引用…を書き留めて返事として出してやること。それがレイラの「仕事」だった。かつては近所の老婆がヤコブを手伝ってくれたのだが、彼女も具合が悪くなって施設に送られてしまった。そこでレイラに白羽の矢が立ったというわけだ。

 しかしながら、こんな事はどうにもレイラの性に合わなかった。ヤコブ牧師の「ありがたい話」もチャンチャラおかしいし、何通も興味もない悩みの手紙を読まされるのも、その返事を書かされるのもゴメンだった。そこでレイラは届いた手紙をこっそり捨ててしまい、自分が読む数を減らしてしまった。

 そんなレイラに、例の郵便配達は露骨に不信感をむき出しにする。彼はレイラが「前科者」だと知っていたのだ。レイラと郵便配達の間には、常に何とも言えない緊張感が漂った

 そんなレイラには当然のことながら、ヤコブ牧師の底抜けの善人さが理解できなかった。

 さまざまな悩める人たちからの手紙に答えるヤコブ牧師は、ありがたい言葉を返信するだけではなかった。例えばドメスティック・バイオレンスの夫から逃れたい妻のために、逃走用のお金として有り金全部送ったりしていたのだ。これにはオドロキを通り越して呆れかえるレイラ。しかも信じがたいことに、その女は感謝とともに借りた大金を手紙に同封して返してきた。

 このあたりになると、もはやレイラには理解不能でついていけない

 そして元よりこの場に長居する気などないレイラは、ちょいとこの金を拝借して…という気が起きないわけではなかった。しかし彼女が最終的にそういう気にならなかったのは、果たしていかなる心境の変化があったからだろうか?

 ところが陽もドップリ暮れた夕闇の頃、レイラが例の金をヤコブ牧師の金の隠し場所にしまい戻そうした時…何やら怪しい人影が家の中に忍び込むではないか。こうなると腕力に自信のあるレイラは、この人物を羽交い締めにしてグウの音も出ないよう押さえ込んだ。気配に気付いたヤコブ牧師は「どうした?」と聞いてきたが、レイラは「何でもないです」ととっさにトボけて、捕らえた人物を力づくで家の外へと連れ出す。

 その人物は、例の郵便配達だった。

 「あんた、一体何しに来たの? 金目当てかい!」

 「牧師が心配だから見に来たんだ。いいか、変なマネはするなよ!」

 こうして郵便配達は帰っていったが、それを境にして、ヤコブ牧師の暮らしが一変してしまうことになるとは…。

 翌日、いつものように自転車で走ってくる郵便配達。しかしヤコブ牧師の家の前でレイラが待ち構えていると気付くや、郵便配達は慌てて道を曲がって行ってしまう

 これには郵便物を待ち構えていたヤコブ牧師も失望を隠さなかったが、仕方がないとつぶやいて自らを慰めた。「まぁ、毎日手紙があるとは限らないからな…」

 しかし、それはその日だけのことではなかった。来る日も来る日も郵便配達はヤコブ牧師の家の前で曲がってしまい、彼の家にはまったく郵便物が届かなくなってしまった。こうなると、手紙が生き甲斐となっていたヤコブ牧師は日に日にガックリ落ち込んでくる。

 そんなある日のこと、ヤコブ牧師が早起きしてやたらに張り切りだした…。

 

見た後での感想

 フィンランド映画だそうである。

 正直言うとチラシを見ても予告編を見ても、これがフィンランド映画だとは気付かなかった。確かにどこかヨーロッパの映画で、それもフランスやイタリアみたいな映画の盛んな国ではないな…とは思ったものの、フィンランドとは思っていなかった。

 今日びフィンランド映画となると、アキ・カウリスマキの映画が独壇場という状態だ。僕もカウリスマキの映画は大好きだが、しかし「そればっかり」というのも何となく変だなとは思っていた。だから今回の映画みたいなのが来てくれるのは大いに歓迎。黒澤ばかりが日本映画ではないのと同じように、カウリスマキばかりがフィンランド映画ではないだろう。たまにはこういう映画も見たいものだ。

 で、実際に接したこの映画だが…。

 正直な話、この映画のチラシを読んで予告編を見た時に頭に描かれたイメージそのまんま。こんな感じの映画なんだろうな…と思っていたままの作品で、そういう意味でのオドロキはまったくない。

 終盤にちょっとしたオチがあって、それがチラシや予告編では触れられていない部分ではあるが…それだって勘のいい人は見ている途中で感づいてしまうだろう。残念ながら僕はそこまで考えてはいなかったが、だからと言って韓流映画みたいに「驚愕のエンディング」って訳じゃない。

 そういう意味では、良く言えば「見る人の期待を裏切らない映画」…悪く言えば「まるっきりイメージ通りでオドロキのない映画」だと言える。事前に得られる情報以上のモノはほとんどない映画なのだ。

 

衝撃のゴリラ顔ヒロイン

 「まったく見る前のイメージ通り」「オドロキが全然ない」…このサイトをご覧になっている方なら、僕がこう評する作品をどう思っているのか、大体察してくれることと思う。

 大概の場合、僕はそれを否定的な意味で言っている。

 例えば「まったくオドロキがない」作品の典型として僕がまず頭に思い浮かべるのは、何年か前のウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズ主演の映画「メン・イン・ブラック」(1997)だ。

 映画も当たったしテーマ曲もヒットした。話題作だったし面白がった人も多かったはずだ。しかし僕にとってあの映画は、噴飯モノとしか言いようのない作品だった。

 地球には秘密裏に多くの宇宙人がやって来ていて、そのことを前提にして活動している工作員「メン・イン・ブラック」がいる…という発想は実に面白そうだ。主演の二人の顔ぶれも仏頂面のトミー・リーとノリの良さそうなウィル・スミスで楽しそう。いろいろ秘密兵器もあって笑えそうだ。実際に予告編はかなり面白かった。

 ところが、それで映画が面白かったら苦労はない。実はそうはならなかったから、映画ってのは難しいのだ。では、一体どこがどうまずかったのか?

 映画の面白い部分は、すべてこの予告編で見ちゃったまんまだった。

 それ以上に発展する部分もないし、ビックリする部分もなかった。何よりそんな見どころ全公開した予告編が、公開前から大々的に上映されすぎていた。だから本編を実際に見ても、予告編で見たモノをただただ確認しただけ。正直言って面白くも何ともなかった。いや〜、見ていて本当に退屈だったよ

 この場合、一体どこが悪かったのか。そういうと、大抵の人は僕が先ほど言ったことから、以下のように思うかも知れない。つまりは…予告編で全部面白いところを見せちゃったのが悪いとか、そんな予告編をガンガン上映しすぎたことが悪いとか、だ。

 確かにそれもマズかっただろう。宣伝の仕方には再考の余地ありだ。しかし、宣伝は単に付帯的なものでしかあるまい。そもそも作品そのものに力がなかったからではないか。そうやって予告編でチラチラ見せちゃったら、もうそれでお腹いっぱいとなっちゃう程度の「見せ場」だったり「アイディア」だったりでしかないからではないか。

 長々とつまらない話を続けて申し訳ない。しかし、僕が大抵の場合に「見てオドロキがない」と文句を言っている時は、ほぼこういうような点を問題にしているのだ。見る前から大体想像が付いちゃうし、そこから一歩も出ない程度の思いつきや努力、手間ヒマしか費やしていないからケナしているのである。

 では、この作品もやっぱりダメなのか?

 チラシや予告編を見た時のイメージそのものの作品だったし、意外な部分はまったくない。結論としてもオドロキはない。たぶんそうだろうな…と思っていたように、「人間は誰かに必要とされなければ生きられない」というようなものだ。

 しかし…にも関わらず…この作品にはとても心惹かれた

 こんな事を言ったら、「じゃあ『メン・イン・ブラック』みたいな映画と今回の映画はどこが違うんだ?」とか、「どういう映画ならオドロキがなくてもオッケーなんだ?」と非難ごうごうになりそうだ。しかし正直に白状すると、この映画「だけ」に限ってはどうしてオドロキがゼロでも許せるのか分からない。

 映画としてはズバリ言って「ワン・アイディア」の映画で、それ「だけ」で勝負している。だから上映時間も75分と超コンパクトだ。それが好ましく思えたということはある。イマドキ冗長な作品ばかりはびこるご時世に、この短さは貴重だ。ただし、「だからこの作品は例外的に気に入った」というわけではない。そもそもこれだけのお話では、75分続けるのがやっとでこれ以上はもたないだろう。程の良さということは確かにある。だからと言って、それだけでこの映画を「意外性ゼロ」なのに例外的にホメているわけではない。

 じゃあ何なのだ?と問われても、実は僕は確固たる答えを持ち合わせていない。映画サイトの管理者としてまったく情けない話だが、みなさんを説得できるだけの理由を持っていないのだ。

 ごめんなさい。

 ただ、これがどうやらその理由なのではないか…と思える曖昧なポイントならいくつか挙げられる。

 例えば、この映画の切り詰めるだけ切り詰められたミニマム的な佇まいだ。何しろ主要登場人物が3人だけ。だからお話も単純ストレートで、クッキリと分かりやすい。ストレートであるということは力強いということでもある。昨今のハリウッド娯楽映画のように、設定を説明するだけで力尽きてヘトヘトになってしまう話では、ドラマのストレートな訴求力やダイナミズムなど、到底期待することができない。しかしこの作品はまるでオセロ・ゲームでもあるかのように、ゲームのルールが一発了解のストレートさだ。だから無類の力強さが生まれる。

 そして、だからこそ「人間は誰かに必要とされなければ生きられない」などという分かり切った結論でも、強力な説得力を持ったと言えるのかもしれない。

 おまけに…ストレートな設定やお話で説明らしきモノも最小限度で済んでいるから、普通の映画では説明すべきと思われそうな点までもが説明されてなくても違和感がない。実は郵便配達の設定など、見ていて「あれっ?」と思うような謎もある。で、そこをクドクド説明などしないから、観客の想像力が刺激されるのだ。

 これがアレコレ設定を説明しなければならない映画なら、これほどまでの説明の欠落は許されまい。あるいは説明しなかった場合には、「難解な作品」という取っ付きにくさが観客に残ったはずだ。しかしこの映画の場合、クドクド説明しなくても一発了解の設定だしお話だ。少なくともその「一筆書き」のような佇まいから、観客にはそう思える。だから語らない余地があっても、それが観客を身構えさせることがない。これほど単純なのに語っていないという点が、作品の豊かさとなっているのだ。

 いやいや、本当にそれだけなのだろうか?

 ぶっちゃけ言おう。この映画のヒロイン…あのゴリラ顔のいかついオバハンこそが成功の要因ではないか?

 あの終始一貫仏頂面、不機嫌が服を着て立っているような風貌。愛嬌のカケラもないゴリラ顔がモノを言う。いやぁ、こんな可愛げのないヒロインは、映画史上でも珍しいのではないか。実は僕はこの映画を見ていて、つい最近ビデオで見た日本の横浜聡子監督による自主制作的な作品ジャーマン+雨(2006)の怪ヒロイン、よし子(野嵜好美)を思い出した。アレもとんでもない女でゴリラ顔で、とにかく画面からハミ出すキョーレツなヒロインだったよ。

 この映画のレイラはあそこまでムチャクチャなヒロインではないものの、まったく愛想ナシ常識ナシ、周囲に妥協する気配もまったくない。社会や人生に対する怒りのマグマみたいなものを抱え込んで、いつもムスッと黙りこくっているのに爆発寸前な感じが見る者をハラハラさせる。

 そして彼女は映画の最後に至る直前まで、善の権化のような牧師に冷たい。

 善人で人道主義者、おまけに目の不自由な老人だ。それなのに彼女は手加減せず、この牧師に優しい言葉ひとつかけない。本当に情け容赦ない仕打ちをする。ある意味、それは潔いと言えるほどだ。

 演じるカリーナ・ハザードの無愛想なツラが効いている。いや〜、考えれば考えるほど、「ジャーマン+雨」のよし子を連想させてくれる。

 このヒロインの存在があまりに強烈だから、見る者が惹きつけられてしまうのではないか?

 そしてこんなヒロインだからこそ、終盤の分かり切った結論が強烈な説得力へと転換する。そんじょそこらの奴にこんな事を言われても感心もしないだろうが、こんなキョーレツなヒロインが思わず無防備な姿を見せた瞬間、それは真実として見る者の心を打つのだ。

 そして僕は、こんなゴリラ顔ではない(笑)が…このように人生や社会に対する怒りを心の奥底に隠し持った女を知っている。普段は物わかりのいい顔もするし笑い話もするが、ちょっとした事でたちまちヨロイに身を固めて戦闘態勢に入ってしまう。心の底からは世の中にも他人にも心を許していない女。しかしその心の奥底には、誰にも見せていないキズつきやすい人間性が隠されている…。そんな女は確かに、この世に間違いなくいるのだ。

 だからこそ今回の映画が、僕にとっては値千金のリアリティと説得力を持ったのかもしれない

 この作品の監督クラウス・ハロについては、当然のことながらまったく知ってはいない。あちらの国ではそれなりに受賞歴を誇る才人らしいが、だからと言って彼の他の作品がこの映画と同じくらいのインパクトを持つかは何とも言えない。何となくこの映画は、突然変異的に「この作品のみが持つ輝き」を獲得してしまったかのように見えるからだ。

 それはあの強烈ヒロイン、レイラの存在がもたらしたものかもしれない。

 

 

 

 

 

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