「キック・アス」

  Kick-Ass

 (2011/02/14)


  

見る前の予想

 この映画も、昨年末あたりに某映画館でチラシを見て知った映画。

 ヒーローに憧れたサエない男の子が、ヒーロー・コスプレしてるうちにホントにヒーロー的行動をしてしまって大評判。そこにホントにヒーロー的活躍をする女の子やその父親ヒーローらが絡んできて…というようなお話らしい。何となく従来のアメコミ・ヒーロー映画のパロディっぽくも見えるし、しかしその手のパロディを超えちゃった面白さがあるような感じもある。「現実にヒーローがいたら」って設定を青春映画っぽく描いているんだろうか?

 スーパー・ヒーロー的活躍をする女の子が出てくるっていうのも楽しそうだし、チラシに出てるビジュアルもなかなかイイ。そしてこの女の子の父親ビッグ・ダディという役で、ニコラス・ケイジが出ているというのが「分かってる」キャスティングだ。ニコラス・ケイジといえばゴーストライダー(2007)で「燃えるドクロ」なんてバカなヒーローを演じていたではないか。彼ならこのおフザケスレスレ感あふれる映画にピッタリではないか。

 聞くと結構当たっているようだし、知り合いの若い人たちに聞いたら「最高!」と絶賛。どうやら、かなり評判はいいらしい。ならば、本当に面白いのではないか?

 そんなこんなで公開からだいぶ経ってはいたが、映画館に駆けつけた次第。

 

あらすじ

 どうしてみんな、スーパーヒーローにならないのか?

 それがニューヨークのサエない高校生デイブ(アーロン・ジョンソン)の長年の疑問だった。

 彼は学校でもカスんだ存在。憧れてる女の子はいるが、彼女ケイティ(リンジー・フォンセカ)はデイブなんか眼中にない。そもそもモテるタイプなんかじゃない。非力だしカッコ悪いし男らしくもない。アメコミ好きのオタクだ。

 友達といえばやっぱり同じオタクのサエないダチ公二人だけ。いつも独りぼっちに見える金持ちのお坊ちゃん風のクリス・ダミコ(クリストファー・ミンツ=ブラッセ)に、なけなしの勇気を奮って声をかけてみても、彼のお守り役というか監視役のようなおっかないボディーガードに睨まれるとビビッてしまう。それどころか毎度のようにゴロツキ二人組に路地裏でカツアゲされて、持ち金を持って行かれるアリサマだ。

 しかしデイブはそんなテイタラクでも、大マジで例の疑問を常に自らに問いかけていたのだ。

 どうしてみんな、スーパーヒーローにならないのか?

 もともと宇宙人だったスーパーマンだとか毒グモに噛まれたスパイダーマンなら分からないでもない。タダの人間とはかけ離れた存在だからだ。しかしバットマンならどうだ? 特殊能力なんか持っていない普通の人間じゃないか。ならばこの世の中に、本当にスーパーヒーローが出てこない理由が分からない。なぜなのだ。

 そんなデイブは何を考えたか、ネットの通販でスーパーヒーローのコスチュームを買い、自室で鏡に向かってなりきりポーズを連発。ついにはそれで飽き足らなくなり、野外に飛び出した。気分はスーパーヒーローだからビルからビルへと飛び移れそうな気がしてくるが、いざとなったら腰が退けてしまうところがイマイチ。それでも本人はすっかりその気だ。

 その腕を試すチャンスは、意外にもすぐにやって来た。

 例のゴロツキ二人組が、またまた路地裏でカツアゲしている現場を見てしまったのだ。早速、なけなしの勇気を振り絞ってゴロツキどもを呼び止めるデイブ。ところが…というか当然というべきか、素っ頓狂な格好のデイブにゴロツキどもは笑うばかり。デイブが何を言っても威嚇にならない。挙げ句の果てに、何と腹にナイフを刺される始末。おまけにもがき苦しんでいるところ、たまたま通りかかったクルマにひき逃げされるテイタラク。救急車で運ばれたデイブは、せいぜい自分のバカげたコスチュームを「なかったこと」にしてくれと救急スタッフに頼み込むことぐらいの余力しかなかった。

 こうして瀕死の重傷を負ったデイブだが、医師たちの努力によってみるみるうちに快復していった。全身の骨折を治すために体のあちこちに金属片が挿入されて、結果的に彼の肉体は以前とは見違えるように強靱に変貌。また「後遺症」として神経が鈍くなったおかげで、苦痛に対しても耐久力が格段に増した

 これが幸いしたというのか災いしたというべきか、デイブはこの教訓にまったく懲りることなく、再びヒーローコスプレで街のパトロールに繰り出す。

 そこで、たまたま運命的な事件に出くわすのだった。

 夜の街を、訳ありの男たちが走っている。必死に逃げ回る一人の男を、何人かのならず者たちが追いかけているのだ。やがて追いつかれた男は、追っ手の連中にボコボコにされる。ところがそこに、例のヒーローコスプレのデイブが通りかかった。当然デイブはヒーローなりきり口調で、「やめろ、さもないと…」ってなことを男たちに告げるが、それでおとなしくなるようなタマではない。

 こうして男たちと「ヒーロー」デイブの必死の戦いが始まる。当然鍛えてもいないし強くもないデイブだから楽勝とは言いかねるが、苦痛にはめっぽう強くなったから意外に善戦。まあまあ互角の戦いで何とかサマになっている。

 予想外だったのは、そんな光景をたまたま目撃した奴が大騒ぎしたため、デイブの奮闘ぶりに多くのギャラリーが集まってきたのだ。しかし、こいつらデイブの奮闘に声援を送り、携帯でムービーは撮影するものの、自分では何もしない。そんな状況に、応戦しながらも唖然呆然のデイブではあった。

 やがて、誰が呼んだか警察がやって来たため、その場は何とか収まった。デイブもそのまま夜の街へと消えて幕切れとなったのだが、むしろ事が大きくなったのはそれからだった。

 デイブの奮闘を傍観していた連中が撮影したムービーが、ユーチューブにアップされて大反響。それがメディアの注目するところとなり、一躍デイブが扮したヒーロー「キック・アス」「時の人」となったのだ。

 これにはさすがにデイブも鼻高々にならずにいられない。何しろ自らのヒーロー行動が、こんなに社会的インパクトを持つとは思わなかったのだ。人生いい方向に向かってきた気がしてきた。

 おまけに、憧れの彼女ケイティがデイブに親しげに近づいてきたのも、彼としては想定外の展開だったろう。もっともこれはちょっとした勘違いで、デイブのことを「女性には無害」なゲイと思いこんだからのようだが…。

 ともかく、自らの「ヒーロー路線」に自信を持ったデイブは、さらに大胆にパトロール活動を始める。

 その頃、中年男デーモン(ニコラス・ケイジ)と幼い少女ミンディ(クロエ・グレース・モレッツ)のハタから見てどうにも奇妙な父娘が、そんなデイブの行動を強い関心を持って見つめていた…。

 

見た後での感想

 面白い。確かに知り合いの若い人たちの言う通りだ。

 若いボンクラがヒーローになりきって、ドジながらも英雄的な行動を行っていくうち、徐々に「男」になっていくお話…としても、青春映画の常道としてよく出来てる。

 物語の基本としては、「コミック・ヒーローが現実にいたら」…的な物語。例えばつい先日公開されたウォッチメン(2009)はリアルにコミック・ヒーローが実在する社会を描いていたし、M・ナイト・シャマランの悪名高いアンブレイカブル(2000)も結局はそんな話だった。今回の「キック・アス」もこの範疇に入るが、重要なのはここに出てくるヒーローたちが「バットマン」などと同じく特殊能力なんか持っていない普通の人間で、しかも過度に特殊兵器で武装してもいない…存在であること。これによって「キック・アス」は、ますます前述2作などよりもっとリアルで等身大の、「実在ヒーロー」物語となったわけだ。デイブじゃないが…「これならオレにもできるかも」…と一瞬思わせるような設定なのである。

 しかもそれを前述したように、ボンクラな男の子が主人公の青春成長物語のフォーマットでつくるのもユニーク。これによって、ますます「等身大」さが増している。

 それは主人公が「ヒーロー活動」をスタートさせた当初、ゴロツキどもにやられてしまう描写にも現れている。普通なら主人公がボコボコにされてオチがつく「お笑い」趣向なのに、ここではナイフで腹は刺されるわクルマには轢かれるわ…それでも作り手としては「笑いどころ」としてつくっているようなのだが、結構このくだりは笑えないエスカレートぶりなのだ。今までの映画だったら、さすがにここまではやらないだろう。ちょっとこれは見ていてサプライズだった。

 そういった「やりすぎ」感は映画のあちらこちらにあって、例えばニコラス・ケイジ扮するビッグ・ダディが焼け死ぬくだりも結構キツイ。それより何より、本作最大の話題となっているキュートなガール・ヒーロー、ヒット・ガールことクロエ・グレース・モレッツの暴れっぷり…それも血しぶきがあがる情け容赦ない殺しっぷりが、見る人によっては微妙な部分かもしれない。

 何しろこの少女があっけらかんと、どう見たって残虐な殺しっぷりをこれでもかこれでもかと披露するのだ。人によっては嫌悪感を感じる向きもあるかもしれない。昨今の若い人は「分かってないな」「これがいいんだよ」と思うのかもしれないが、これが駄目って人が出てきても無理はないかもしれないとは思う。

 それでもこのエスカレーションが、この映画をオリジナリティあるものにしていることは確か。そうでなければ、この映画は単なるヒーロー・コメディどまりに終わったかもしれない(実際にはここまでやっていても作り手は「それ」を狙っているかもしれないが)。確かに、ここまでやった効果は上がっている。

 それにクエンティン・タランティーノ作品などによって、もう一般の映画観客もこの程度の「悪ノリ」「やりすぎ」は許容範囲になったのではないだろうか。だとすると、これも「アリ」ということなのかもしれない。

 そんなわけで、僕はこの映画をそれなりに楽しんだ。

 楽しんだんだけど…いやぁ、やっぱり正直に白状しなくてはいけないだろうなぁ。退屈しなかったし面白かった。オリジナリティーもユニークさも感じた。しかし巷で言われていたり知り合いの若い人たちが言ったように、「最高!」ってとこまでは感心できなかったな

 実際これほどオリジナリティーがあってユニークなんだから、「最高!」っていくんじゃないかと僕も思った。しかし意外にも、見た後の感じは「ソコソコ」ってのがいいとこ。チラシなどで知らされてた設定などによって、「この程度は楽しめるだろう」と想像がついた範囲ぐらいにしか楽しめなかった。「すごく」面白いとは思えなかったのだ。

 こりゃ一体どうしたことなんだろう?

 発想もいいし、ある意味で過剰でやりすぎなくらいの映画なんだから、もっとハジケていいはずではないか。もっと奔放でダイナミズムがあってもいいではないか。それなのに何で、この映画は「ソコソコ」どまりで終わってしまったのか…。

 映画を見終わった後でそんなことをアレコレ考えていた僕は、監督名を見ていてハタと気が付いた。

 マシュー・ヴォーン。

 実は白状すると、監督名を見ただけではこいつが誰だか分かってはいなかった。しかし、この男が前に撮った作品の題名を知った時、僕にはふと思い当たるフシがあった。

 マシュー・ヴォーンの前作は、ファンタジー映画スターダスト(2007)だったのだ。

 

コンセプトを「コピー&ペイスト」する映画作家

 ここでちょっと話は「キック・アス」という作品から離れるが、どうか大目に見てやっていただきたい。ここからは僕がここ数年漠然と考えていたことを、ちょっと乱暴ながら筋道立てて説明していきたいと思う。それがこの「キック・アス」を語る上での「前提」となる気がするからだ。

 で、いきなりで恐縮だが…僕は昨今のフィルムメイカーの中に、明らかに他の映画作家と異なる発想で映画をつくる人々がいるように思っている。

 それは「コピー&ペイスト」で映画をつくるフィルムメイカーだ。

 この種の映画作家が出てきた最初は誰か、僕にはしかとは分からない。ひょっとするとフランスのヌーベル・ヴァーグの人々あたりがそうだという気がするが、僕はそれを語れるほどヌーベル・ヴァーグに詳しくないし、そもそもそれらの作品群をリアルタイムで見ていたわけではない。

 それに、後述するこの文章の主旨を考えてみると、ヌーベル・ヴァーグ一派をここに入れるのはいささか難しいような気もしてくるのだ。

 だとすると、それらしき人々の最初の例は、1970年代に入ってジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシ、ブライアン・デパーマらの当時の「ニュー・ハリウッド」一派ではないかと僕は思う。

 彼らの特徴であり「売り」は、「初の映像世代の映画作家たち」…というものだった。

 それが何を意味するかを説明するには、スティーブン・スピルバーグについて説明するのが一番適当だろう。20歳台の若さで監督デビュー。若くして「ジョーズ」(1975)のビッグヒットをかっ飛ばした天才。その創作の秘密は、若い頃から培われた「映画的記憶」の豊富さである。

 特にスピルバーグの場合、子供の頃から身近にテレビがあり、また手の届くところに8ミリ映画のカメラがあったので、映像に親しむ機会がふんだんにあった。街の名画座で旧作を浴びるように見て勉強し、映画を志してからは大学の映画学科で編集機でフィルムを覗いて学習する機会もあった。このあたりの事情は、他のこの一派の人々…ルーカス、スコセッシ、デパーマ…などの人々も同様だった。

 だから彼らは、そうした過去の作品群の引用を好んで行った。もちろん映画の歴史はある種「模倣」の歴史とも言えるし、過去の映画作家たちも大なり小なり他の作品から影響を受けている。しかし彼らのように他の映画作品を浴びるように見る機会は、それ以前の人々にはあり得なかった。これほど映像に幼少の頃から触れることはなかったし、それらが生活の中に溶け込んでいることもなかった。それ故に、先ほど僕はヌーベル・ヴァーグ一派の人々をこの傾向の最初の人々と呼ぶことを躊躇したのだ。

 過去の映像作品から受けた影響を隠すこともなく、むしろ臆面もないくらいそれを自らの作品に持ち込むという姿勢からして、当時の「ニュー・ハリウッド」一派とヌーベル・ヴァーグ一派は似たような体質を持っていた。しかしながら「ニュー・ハリウッド」一派は、映画や映像作品からの吸収の濃さ、親密さの度合いがそれ以前の人々と格段に違っていた。おそらくは「テレビの普及」という人類史上の一大事件が、彼らにその傾向を与えていたのだろう。

 そしてそうした映像との親密さゆえか、過去の作品からの影響の受け方、あるいは引用の度合いが、ある意味でよりストレートになってもいた

 僕が先に「コピー&ペイスト」と言った意味は、まさにここにあるのだ。

 実はこの年代のフィルムメイカーの中には、ハリウッド以外にも同様の傾向を持つ人々がいる。例えば旧ソ連のニキータ・ミハルコフなども、光と影のバラード(1974)でのマカロニ・ウエスタン指向や「愛の奴隷」(1976)に見る映画マニア風のテイスト、さらに「ヴァーリャ!/愛の素顔」(1983)でのイングマル・ベルイマン「ある結婚の風景」(1974)の模倣など…こうした「コピー&ペイスト」的傾向を多分に持っていた。そしてある意味では、こうしたタイプの映画作家たちが映画界の主流となっていったのである。

 特に近年での代表選手を挙げるとすれば、クエンティン・タランティーノの名を出さないわけにはいくまい。デビュー作「レザボア・ドッグス」(1991)からこの男の作品は「引用」に溢れており、特にキル・ビルVol.1(2003)以降はそのストレートさを増している。その原動力となったのが、彼がレンタル・ビデオ屋の店員だった時代に培われた映画知識と記憶である。スピルバーグ一派がテレビ世代の「コピー&ペイスト」フィルムメイカーだとすれば、タランティーノはビデオ世代のそれなのだ。そこが、新しさの秘密だとも言える。

 しかしこうした中でも、この「コピー&ペイスト」体質を持ち合わせるとともに、そこにある特異な傾向が見られる映画作家がいた。

 それが、ジョージ・ルーカスだ。

 この男、もう長いキャリアを誇っているにも関わらず、純粋な監督作品は6本しか世に送り出していない。しかもそのうちの4本は、すべて「スター・ウォーズ」サーガ。だから正確には、3本しか作品を撮っていないようなものだ。

 そうなると、彼の作品として考えられるのは3本。そのうち「成功作」である「アメリカン・グラフィティ」(1973)と「スター・ウォーズ」第1作(1977)について見てみると、特に「コピー&ペイスト」の度合いが濃厚で、かつ映画にとどまらず広範囲に渡っていることに気付く。

 例えば前者「アメリカン・グラフィティ」についていえば、作品全体が1950年代末の青春映画の「コピー&ペイスト」である…という気がする。冒頭から「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が流れるあたりの空気に、ついついそう言い切ってしまいたくなるのも確かだ。

 しかしこの映画は、果たして本当に1950年代末の青春「映画」からの引用でつくられているのだろうか? 

 この映画はヴィンテージ・カーやら当時のリアルなる美術、衣裳、そしてオールディーズ・ポップスなど、1950年代末のさまざまなアイテムで埋め尽くされている。それらは、必ずしも映画からの「引用」ではない。むしろ青春映画として考えるならば、「アメリカン・グラフィティ」的な作品は1950年代末にはなかったし、この作品登場以前にはあり得なかった。この手のジャンルの最初の作品となったのが、「アメリカン・グラフィティ」だった。

 そういう意味で「映画」としてはオリジナリティがあったが、実はそれは1950年代末若者文化の要素をてんこ盛りに入れたがゆえ。そして、それらは時代考証的な確かさというよりは、当時のティーンエイジャーたちの「雰囲気」や「気分」の再現と言っていい。つまりは、「コンセプト」としての1950年代末の青春の「コピー&ペイスト」と考えるべきなのだ。

 あるいは、もうひとつの「成功作」である「スター・ウォーズ」。こちらは古今東西のSF映画の「コピー&ペイスト」と言いたいところだが、それはよくよく見ていくと微妙に違っていることが分かる。この映画の元となったと考えられる「バック・ロジャース」や「フラッシュ・ゴードン」などの古典SF連続活劇映画は、実は言われているほどこの作品に似てはいない。少なくとも、見た目は大違いなのだ。

 確かにネタは「バック・ロジャース」や「フラッシュ・ゴードン」などのスペース・オペラから持ってきたとしても、それらの「映画」からではない。スペース・オペラ的気分だけいただいた…と考えるべきではないだろうか。もし仮に映画的なモノを見出すとしても、それら古色蒼然としたスペース・オペラを「2001年宇宙の旅」(1968)以降のシリアスSFに用いられていた特殊技術や今風のセンスで映像化する…という「コンセプト」として見るべきだろう。他にミレニアム・ファルコン号から帝国軍の戦闘機を攻撃する場面に、戦争映画の戦闘機からの攻撃場面の「気分」が再現されたり、ハン・ソロの出で立ちにどこか西部劇の登場人物の「気分」が漂ってきたり…いずれも何か特定の映画作品や映画作家からの「引用」であるとは言い難い。唯一の例外は場面転換時に左右のワイプという技法を多用するあたりで、これは黒澤明黄金期の作品に見られたワイプからの引用だと見てとれる。しかしどちらかといえば、漂ってくる気分や空気…「コンセプト」を「コピー&ペイスト」したという意味合いが強いのだ。

 これがいかに他の「ニュー・ハリウッド」一派の人々と異なっているかといえば、例えばスピルバーグの「未知との遭遇」(1977)がフランソワ・トリュフォーを役者として起用し、本人を丸ごと「引用」しようとしたこと、スコセッシの「タクシー・ドライバー」(1976)がバーナード・ハーマンを音楽に起用し、ヒッチコック・ムードを持ち込もうとしたこと…を見てみれば分かる。さらにデパーマの作品に至っては、古今東西の映画作品からの「引用」がモロにストレートであることがお分かりだろう。

 これらの場合、すべて「映画」的な引用を具体的に映画作品や映画作家から行っている。「あの作品」「この場面」「その映画作家」と指摘することさえ出来る。しかしジョージ・ルーカスの場合、映画的引用をしないわけではないが、どちらかというと映画以外の要素も含めた「コンセプト」を「コピー&ペイスト」する場合が多い。そして、作品全体がさまざまな「コピー&ペイスト」の集積であるという雰囲気すらある。

 時代の気分や意匠、ファッションや美術や音楽など、さまざまな要素を自在にチョイス。それらを自作映画に反映させる時の組合せ方や処理の仕方に無類の冴えを見せる。故に彼の映画は、作品全体が「コンセプト」の「コピー&ペイスト」が集積したものと言えるのだ。

 実は監督デビュー作THX-1138(1971)については、ペシミズムに満ちた未来SF映画…という典型を引用したのか、それとも一般的な未来SFの気分を下敷きにしたのかハッキリしない。しかしいずれにせよ、この作品でも特定作品を元ネタに挙げるのは困難だ。しかもその「コピー&ペイスト」の度合いがハッキリしないせいか、この作品は彼の失敗作となってしまった。

 そんなジョージ・ルーカスの作品は、実は「映画的」なのかどうなのか、よく分からないところがあるのだ。もっとハッキリ言うと、映画作家として「うまい」のかどうか分からない

 僕が最初にそれに気付いたのは、「スター・ウォーズ」初期三部作のDVDボックスに収録された、長時間におよぶメイキング・ドキュメンタリーを見た時だった。ジョージ・ルーカスがロンドンの撮影所で撮影開始した時には、イギリスのスタッフにナメられて撮影はボロボロ。何とか撮影を終えて出来たフィルムをつないで見たが、意外にもその出来栄えはかなりパッとしないものだったという。結局、ブライアン・デパーマ作品の編集者だったポール・ハーシュらが大幅に手を入れて映画としてのカタチを整えた…ということのようだが、これは一体どう考えればいいのだろうか。最初の編集版のデキの悪さについては、ドキュメンタリーでは前任の編集担当者が無能だったことにして片付けている。しかし、ハーシュの再編集ぶりをチラリとこのドキュメンタリーで見た限りでは、アクションの妙や映像のリズムなど結構「映画」の重要な要素をいじってもらっているような印象なのだ。つまり「スター・ウォーズ」の元々の原型は「映画として」あまり冴えないシロモノで、このポール・ハーシュらの再編集作業によって血沸き肉踊る作品になったとも言えるのである。「コンセプト」はバッチリでオリジナリティーの域までいっていたが「映画としてはイマイチ」だった「スター・ウォーズ」に、ポール・ハーシュたち編集スタッフが抜群のスキルで「映画としての魅力」を吹き込んだ…と言い直してもいい。

 これに加えてロンドンの撮影所でのヘロヘロぶりを「監督としての現場統率力の欠如」と考えると、ジョージ・ルーカスって映画監督としてはうまくない人物かもしれない…という疑問が生じてきても仕方がないのではないだろうか? 「スター・ウォーズ」第1作以後、ルーカスが撮影現場を離れてプロデューサーに専念した理由も、おそらくそこにあるような気がするのだ。

 そして久々に監督復帰しての、スター・ウォーズ/エピソード1:ファントム・メナス(1999)の信じがたいつまらなさ。改めてルーカスが、映画監督としてはヘタなんじゃないかと疑ってしまう出来栄えだった。しかも当サイトで以前インタビューしたこの映画の撮影現場を体験した方の証言によれば、「エピソード1」現場でのルーカスは以下のような状況でどうもパッとしなかったようだ。

 「全然しゃべらない。存在感ないっていうか。初めはいるかどうか、わからなかったですね。僕自体あの人の顔わかんなかったんで。回りがガヤガヤして「ルーカス来てるじゃないか」って。見たらサングラスかけて、ひっそり奥の方から。ホントもうひっそりって感じ。」

 これを読む限りでは、「エピソード1」撮影時の現場統率力・掌握術も知れているではないか。ただ有名になり偉くなり金もうなるほど持ったから、かろうじて周囲の人間が言うことを聞いているに過ぎない。

 つまりジョージ・ルーカスは「コンセプト」のチョイスと組合せに対する抜群のセンスで、ほとんどオリジナリティーの域にまで達するほどの「コピー&ペイスト」の結晶のような作品をつくり出す映画作家だ。しかし、純粋な映画監督としてのセンスやスキルは決して高くない。類い希なる「コンセプト」の「コピー&ペイスト」能力だけで、映画作家としてのし上がった人物なのである。

 逆に言えば、だからこそルーカスは「インディ・ジョーンズ」シリーズでスティーブン・スピルバーグとタッグを組めた。「コンセプト」のルーカスと映画スキルのスピルバーグという役割分担がしやすかったからこそ、「両雄並び立たず」とはならなかったのである。

 

「コンセプト勝負」の映画作家の死角

 「キック・アス」の感想文なのに、何を長々とジョージ・ルーカスについて語っているのか…と、訝しげに思われる向きも多いだろう。しかしながら、もうちょっとだけこの話にお付き合いいただきたい。

 先に述べたジョージ・ルーカスの、「コンセプト」の「コピー&ペイスト」作家としての資質は映画作家としては希有のモノだ。だからこそ彼は、映画界で大成功をモノにした。しかし、後が続かなかったのもそのためだと考えられる。残念ながら、彼は元々映画作家には向いていないのかもしれないのだ。

 そしてここ数年、実は僕はまたもう一人、「映画をスキルではなくコンセプトでつくる」…と思われる人物を見つけた。

 それは、今をときめくクリストファー・ノーランだ。

 僕が最初にノーラン作品を見たのは、彼を有名にしたメメント(2000)でのこと。その時には大した才人が現れた…と驚いたものだ。

 しかしその後、新機軸のバットマン・シリーズバットマン・ビギンズ(2008)を作るに至って、どうにも疑問が湧いてきた。続くダークナイト(2008)では、その疑問も最高潮に達する。世評はどちらも大いに持ち上げていた作品だが、僕にはどうしてもその高評価が納得いかないのだ。ついでに言えば、間に制作されたプレステージ(2006)も何とも胡散臭い作品だった。

 僕にはこれらの作品群が、どれも中味がカラッポの空疎な作品にしか見えない。

 その理由についてはそれぞれの感想文の中でいろいろ語ってきたので、ここで改めてグダグダと語ることはしない。しかし一言で簡単に語るとすれば…「一見イイ映画と見えるもっともらしい要素で粉飾しているが、肝心要の映画としてのうま味、映画的魅力に欠けている」…ということに尽きるだろうか。

 特に「映画的なうま味の欠如」については、「バットマン・ビギンズ」感想文に詳しく書いたので読んでいただければ分かる。ジョン・フォードの駅馬車(1939)からカロリーヌ・リンクの点子ちゃんとアントン(2000)まで、古今東西のバラエティーに富んだ作品を引き合いに出して僕が言いたかったことは、「うまく説明出来ないけれど、映画には何かそんなサムシングを感じさせる瞬間が多々ある。ストーリーだ映像だなどとあれこれ言ってはみても、結局僕らが映画に快感を感じるのはそんなサムシングの瞬間を体感する時ではないのか。」…ってことだ。残念ながらクリストファー・ノーランという映画作家は、その「サムシング」を作品に結実させることに長けていない男らしいのだ。

 その代わりこの男、「センスのいいオールスター・キャスティング」とか、「アメコミ・ヒーロー映画をシリアスにつくろうとする誠実そうな作家的姿勢」とか、作品を立派そうに見せる粉飾技術には長けている。それで一般の映画観客の大半は、これがいい映画だとコロリとダマされる。つまりクリストファー・ノーランも、ある意味で「コンセプト」の集積によって映画をつくる人物だと言えるのだ。

 ただしノーランの「コンセプトによる映画作り」はジョージ・ルーカスのそれとは違い、オリジナリティーと見まがうほどの多彩な「コピー&ペイスト」の集積を行うことで新たな作品世界を構築する方向…には働いていない。作品内容の充実のために、その「コンセプト」は貢献していないのだ。

 ノーランの場合はむしろ、いかに「イイ映画」「立派な映画」に見せかけるか…という「粉飾決算」的な面にこそ、その「コンセプト」は貢献している。ここでの「コンセプト」とは、「センスがよく適役揃いのオールスター」というトッピングであったり、「アメコミをシリアスに劇映画化する映画作家の良心的手つき」といった、「いかにも良さそう」な「雰囲気」なのである。

 ジョージ・ルーカスはまだマシだった。少なくとも彼は、自分の作品を「イイ映画」にしようと努力はしていた。彼はまだ「映画作家」らしく振る舞おうとしていた。しかしクリストファー・ノーランは、どうも自分の作品を「良く見せかける」ことに汲々としているようにしか見えない。その結果、自分を立派に見せようとしているとしか思えないのだ。

 この見方でいくと、最初に見て感心した「メメント」の技巧的な構成ですら、ストレートな時制で描いたら意外に凡庸なお話をあちこちいじくり回して「複雑で高度に見せかける」という「粉飾決算」的処理を行ったように見えてくる。確かに物語の時制をいじくり回せば、「知的」な感じがしてくるものだ。しかし、もし本当にそうだとしたら、それは「映画的な美点」であるとは言えないだろう。

 そんなわけでノーランについては、僕はかなり苦言を呈してきた。こんな姑息な手段を用いて、さも「映画作家」ヅラしてほしくないとさえ思った。しかし彼の目下の最新作インセプション(2010)を見た時点で、僕のこの評価を若干変更しなくてはいけないと思い始めたのだ。

 「インセプション」はレオナルド・ディカプリオ以下豪華オールスター・キャスト(含ケン・ワタナベ)という毎度お馴染みのコンセプトが入っているし、「夢の中の夢のそのまた中に夢」というような複雑構成をとって、立派な映画作家であるかのような姿勢を見せている。しかし登場人物がみんな大真面目に見せるそのお話は、ハッキリ言って大バカだ。バカバカしいお話を大風呂敷広げて見せている。それがモロ出しになっている

 だからいい。

 本来この男はバカ映画の作り手だったのに、それをもっともらしく誤魔化していたからいけないのだ。この映画では彼は自分の正体をハッキリ見せている。自分はバカだとちゃんと分かっている。

 しかも…雪山でのスノー・モービルを使ったアクションの凡庸さを見ても映画作家としてのヘタクソさは歴然だが、パリの街がイマジネーションの中でねじ曲がって空高く盛り上がっていく場面とか、プカプカ空中に浮かんでいる人々を一纏めにグルグル巻きにして、えっちらおっちらとエレベーターに運ぶ場面とか、バカバカしいながらも少しは「映画的」に思えるイメージづくりにチャレンジしている姿勢は、今までと違って大いに買える。これらの場面には、見ている僕らをハッとさせる「何か」が確かにあった。これなら僕だって応援する余地があろうというものだ。

 だから粉飾決算的「コンセプト」のみで映画を作り、肝心の映画スキルや映画センスが伴っていなかったノーランが、今後は変わっていくのではないか…と大いに期待しているのだ。

 それはともかく、このように「コンセプト」ありき、「コンセプト」だけ、「コンセプト」勝負…で映画をつくる映画作家たちは、しばしば肝心要の映画スキルや映画センスについてはイマイチな場合が多い。もっともらしく格好良く作品は仕上がるのだが、実は映画としてのデキは必ずしも芳しくはない。そして、にも関わらず…作品はもっともらしく出来てしまっているので、世評は結構高かったりする。これが「コンセプト」勝負で作品作りを行う映画作家の、最大の問題点だと言えるだろう。

 そしてこんなタイプの映画作家がはびこる原因には、現代の映画観客の質の低下が間違いなくある。

 質のいい食材やきれいな皿を持ってこられても、それだけで料理がうまいとは思わないだろう。味付けや火の通し方、包丁の入れ方など、料理の腕前が味を左右すると思うはずだ。そして実際に舌で味わい歯で噛みしめノドで飲み下さなくては、本当にうまいかどうかは分からない。

 しかし現代の観客は、ヘタすると広告などの事前情報だけで映画を判断しかねない。スクリーンはその事前情報の確認行為に過ぎなかったりする。だからトッピングの豪華さに惑わされて、肝心のピザの味が分からない。実は映画作りがヘタだったりする映画作家が堂々と罷り通る理由は、映画観客が映画の面白さを分からなくなっているからに他ならないのだ。

 さて、ここまでみなさん長々とお付き合いいただき、まことにありがとう。いよいよ本題に入ろう。実は本作「キック・アス」の監督であるマシュー・ヴォーンについても、僕はこうした「コンセプト」のみで映画をつくっていて、実は映画スキルや映画センスが伴っていない人物ではないか…と疑い始めているのだ。

 それは、前作「スターダスト」を点検してみれば分かる。

 お話は、剣だの魔女だのといった典型的ファンタジー物語のあちこちの要素をかき集めたようなシロモノ(もっとも、これは原作がそうだから…であって、必ずしもマシュー・ヴォーンの資質というわけではないのだが)。ただし、それがどこかちょっと退いたような醒めたようなオチョクリの視線で語られているようなところもあって、それが現代的な感じを観客に与える。強いて言えばロブ・ライナーがかつて発表したファンタジー映画「プリンセス・ブライド・ストーリー」(1987)にも一脈通じる「批評的視点」とでも言えばいいか。「プリンセス〜」ではあくまでピーター・フォークのおじいちゃんが読んでくれる昔話の内容というスタイルでファンタジーが語られていて、それがどこか一歩退いた印象を与えていた。それと比べると、この「スターダスト」はもっとからかったような、ちょっとドライでクールなイマドキ仕様の印象だ。

 そしてそこに、ピーター・オトゥールからロバート・デニーロに至る豪華キャストが配される。これらのキャストのチョイスは、オトゥールをはじめとしてそれなりにセンスはいい。単にケバケバしたスターをかき集めた感は感じられない。

 だから映画的センスもいいだろう…と思われるのだが、さにあらず。実はそっちの方は極めて怪しいと言わざるを得ない。それについては「スターダスト」感想文をご一読いただきたいが、ゴテゴテゴチャゴチャと厚化粧している割には、意外にも主柱となるストーリーラインが弱い。面白いことは面白いんだけど…何となくこの時も、見終わって「ソコソコ」感が拭えなかったことを記憶している。

 お分かりいただけるだろうか。作品世界や作り手の姿勢はどこかからの借り物、それを語る手つきに今風でセンスのいい映画作家的姿勢が感じられるが、実際のところ映画そのものはそれほど良くも面白くもない。ジョージ・ルーカスやクリストファー・ノーランなどにも共通する、「コンセプト」勝負で内実が伴っていない映画作家の典型なのだ。

 そして…やれやれ、やっと「キック・アス」に戻ってきた

 よくよく考えてみると、この作品も見た目は非常に面白そうな映画だ。氾濫するアメコミヒーロー映画を、どこか斜に構えて見たような批評的態度…というか、イマドキのからかい視線とでも言おうか。それを青春映画仕立てで見せるという着想の良さ。しかも少女が残虐な殺戮をシレッと行うという、タランティーノ以来お馴染みの「やりすぎ」感も今風だ。そしてこの過激さが、「実際にヒーローやったらこうだぜ」という醒めた視線につながっている。どこまでが原作のモノでどこまでがマシュー・ヴォーンのモノかは分からないが、そんな着想の良さは確かにある。

 ビッグ・ダディに「トンデモ映画好き」で「ゴーストライダー」というヒーロー映画にも出ているニコラス・ケイジを起用するなど、キャスティング・センスも冴えている。ヒット・ガールの大暴れぶりは、見ていてホントに痛快だ。

 なのに、何で「ソコソコ」どまりなのだ?

 これだけ「キテレツ」な設定でお話だったら、本来だったらもっと破天荒でワクワクドキドキさせていいはずではないか。なのに全編に漂う「ソコソコ」「チマチマ」感。これってやっぱり「コンセプト」はガッチリ固まっているけど、肝心要のマシュー・ヴォーンの映画作家としてのスキルやセンスがイマイチだから…ってことを物語っていないか? これらのステキな「コンセプト」を聞いただけで想像がつく楽しさ以上には、映画としての楽しさが広がっていかない。その理由は、つまりマシュー・ヴォーンが映画としてあるべき魅力を創出できていないから…ではないのか。

 しかし世評は大絶賛と来るから、ますますタチが悪い。シネコンの細切れでショボいスクリーンならこの程度のチマチマさで十分なんて、そんな冗談を言うつもりもない。

 実際のところ、これはますます憂慮すべき事態のように思えるが、みなさんはどう思われるだろうか?

 

 

 

 

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