「トロン:レガシー」

  Tron : Legacy

 (2011/01/03)


  

見る前の予想

 CGをふんだんに使った映画がゴマンとつくられている昨今。その中でもイマドキのハリウッドでの流行は、何と言っても3D映画だろう。

 ただしアバター(2009)を超える3D効果を持ったものがあったかと言えば、これはかなり疑問になる。それというのも、当初から3Dカメラで撮影されたものは意外に少なく、実は後処理で3D化されたものの方が圧倒的だったからではないだろうか。あるいは、やっぱりセンスの問題なのかもしれない。

 ともかく「3D映画って大したことないじゃん」ってな不評もあちこちで聞かれるようになり、せっかくの3Dブームもいささかしぼみそうな雲行きになってきた。そんな中で「ハリー・ポッター」シリーズの死の秘宝 PART 1(2010)が拙速な3D化を回避したのは、賢明な処置だったと言えるかもしれない。

 そんなところに飛び込んできたのが、何と驚くなかれ「トロン」(1982)の30年近く経ってからの「続編」登場のニュース。いやぁ、昨今、シリーズ作品やらリメイク、あるいはエピソード1ものやらビギニングものなどが氾濫するネタ切れハリウッド。何が出てきても驚かない僕だったが、さすがにコレには驚いた。

 CG映画の草分け…それが「トロン」だ。

 今でこそCGはハリウッド映画に欠かせない。いわゆる特撮スペクタクルからスタント・アクションのワイヤー消し。「ウォーターワールド」(1995)ではケビン・コスナーのハゲ隠し疑惑まで浮上した(笑)CG技術だが、それはおそらくここ20年ばかりのことだったはずだ。

 それよりさらに数年前、映画にCG技術を本格的に持ち込んだのが「トロン」だ。

 それを、3Dまで行き着いた現在の技術でシリーズ化する。何となく胸騒ぎやワクワク感がある企画ではあるが、それと同時に不安も胸をよぎるというのが僕の正直な気持ち。大体…もうあんまりハッキリとは覚えていない「トロン」だが、お話として今となっては古色蒼然となってしまっているであろうシロモノを、イマドキ続編つくってどうしようというのだ?

 そして単純に…大災害や宇宙や魔法や神話の世界のように…どこかで見たようなモノの延長線上の世界ではなくて、思いっ切りどこにもない世界とやらを、CGや3Dの技術を目一杯使って見せて欲しい。僕の中にはそんな欲望もチラチラと芽生えてきた。「良心的」な「岩波ホール的」映画ファンからはすこぶる評判の悪い、CGや3Dなどのハイ・テクノロジーだが、前々からどうせ使うなら思い切り極限まで使って見せて欲しいという気がしていたのだ。この作品なら、その極限の世界を見せてくれるのではないか?

 いろんな意味で気になる企画…「トロン」の続編が公開されるや否や、僕は劇場に飛んでいかずにはいられなかったのだ。

 

あらすじ

 1989年、ベッドに入った幼い男の子サムに、父親ケビン・フリン(ジェフ・ブリッジス)がお話を聞かせてあげている。ただし、そこで語られているのは昔話やおとぎ話ではない。ケビンはコンピュータ業界の大手企業「エンコム」のCEO。そして誰にも知られずに、コンピュータの中に新たな世界を構築していた。それは、まさに彼の考える「理想の世界」だ。ケビンはそこに彼の分身にして片腕としての存在「クルー」を作りだし、コンピュータ内の理想郷創造の手伝いをさせていた。そして、ジェフはそこで現実の世界をも一新するような素晴らしい奇跡を生み出すことに成功したという。

 「今度、オマエにあの世界を見せたい」

 そうサムに約束すると、ケビンは今夜もまた自分の仕事場へと去っていった。そして、それがサムがケビンの姿を見た最後の夜となった。

 これを最後に、ケビンは突如失踪してしまったからだ。

 大手企業「エンコム」CEOの突然の失踪は、マスコミを大いに騒がせた。結局「エンコム」の経営はケビンの共同経営者アラン(ブルース・ボックスライトナー)に任され、同時にケビンの息子サムの親代わりとなった。

 しかし時が経つにつれて、そのアランもいつしか「エンコム」経営の中心から徐々にはずれていった。そんなこんなで20年もの時が流れていったわけだが…。

 2009年、ケビンの息子サム(ギャレット・ヘドランド)は逞しい青年に成長していた。今日も今日とてバイクで街を疾走。そんな彼が向かったのは、かつて父が経営していた「エンコム」の本社ビルだ。しかし、彼は正面玄関から入っていったわけではない。父から受け継がれた素養をもとに、ハイテクノロジーを駆使してコッソリ侵入した。果たしてその目的は?

 そのころ「エンコム」社の会議室では、経営陣によるミーティングが行われていた。現経営陣が得意満面に語っているのは、明日発売の新しい同社OSソフトのこと。この新しいOSによって、「エンコム」は莫大な利益を得るはずだ。

 しかしそんな経営陣の中で、たった一人だけ冴えない表情の男がいた。それが失踪したケビンのパートナーとして同社を経営していたアランだった。彼は新技術は無料で開放することこそが公共の利益になるという、ケビンと同様の価値観をいまだに持っていた。しかし、そんな考え方は現経営陣にとってはお笑い種。おまけに、今ではアランも過去の貢献によってかろうじて同社に置いてもらっている身だ。ただ沈黙しているしかない。

 ところが全世界に新OSの発表を高らかに行おうとしたその瞬間、当の新OSがネット上にアップされ、誰もが自由にダウンロードできる状態になったではないか。怒り狂い、大騒ぎをする現経営陣。そんな連中を物陰でコッソリ見つめながら、満足げに微笑んでいたのがサムだった。

 すべては、サムの企てだったのだ。

 父ケビンが消えてしまった後、父の会社「エンコム」は父の理想とはかけ離れたものになってしまった。そんな事への怒りと抗議を込めて、サムはこんな無茶な事をしでかしたのだ。

 その後、侵入したことを見破られたサムは、警備員に追われて屋上へと上り詰める。そこで虚空へと身を躍らせると、パラシュートでまんまと脱出。単なるデジタルおたくではなく、冒険心も大胆さも人一倍だ。しかし上首尾だったのはそこまで。結局は警察に捕まって、さんざお灸をすえられて釈放された彼だった。

 こうしてサムは、真夜中に自らの寝ぐらである川のほとりの小屋へと戻ってくる。ところがそんなサムを訪れた者が一人…先ほどまで「エンコム」会議室にいたアランその人だった。アランはサムを親代わりとして育てた人物であり、父の失踪によって心にキズを負い、素直にならず刹那的に生きているサムを心から心配していたのだ。

 しかし今夜は、アランはサムに説教をしようと来たわけではなかった。彼はサムにとんでもない情報を持ち込んだのだ。

 「実は、ケビンから突然連絡が来た」

 何とアランはケビンの頼みで、失踪前からずっとポケベルを携帯していた。そんなイマドキはすっかり時代遅れとなったポケベルに、何と今になって連絡が入ったというのだ。しかも発信源は、ケビンが持っていた昔のゲームセンターだ。しかし、今になってなぜケビンが連絡を…?

 当然のごとく、今さら何を言っているんだ…とサムは取り合わない。しかしアランは彼に「必ずゲームセンターに行け」と言い残すと、その場を去っていった。そう言われると、どうしても無視できず気になってしまうサムだった。

 こうして真夜中の人けのない街の一角に、バイクを飛ばしてみたサム。そこには古ぼけた建物があり、「フリンのゲームセンター」という看板が取り付けられていた。

 昔からずっと手放していなかった合い鍵で、ゲームセンターの中に入るサム。電源スイッチを入れると、証明だけでなく室内のゲーム機に一斉に電源が入る。おまけに大音響でジャーニーやユーリズミックスのBGMが流れ出す始末。ここでは時間はケビン失踪時の頃からピッタリ止まっていたのである。

 そしてゲームセンターの一番奥には、意味ありげに「トロン」と銘打たれたゲーム機があった。

 そのゲーム機の下には、何度も動かしたような曲線の跡が残されていた。ここには何かがある…と直感したサムは、ゲーム機にコインを挿入。するとゲーム機はいきなり動きだし、その後ろに秘密の通路がポッカリ口を開けているではないか。

 サムがその通路から中に入ると、どうやらそこはケビンの秘密の研究室のようだ。ホコリが溜まったその部屋のコンピュータを起動したサムは、何の気なしに操作を始める。ところが彼は、部屋の片隅にビーム発射装置が据え付けられ、自分を狙っていることまでは気づかなかった。

 一瞬の衝撃。

 気づくと、サムは自分が先ほどと同じケビンの研究室にいながら、どこかが違ってしまっていることに気づいた。慌てて研究室から飛び出すサム。さらにゲームセンターから出て外を見回すと…。

 そこはどこか冷たく、そしてまばゆい光に満ちた世界。デジタルデータで作られた、コンピュータのシステムの中に構築された世界だったのだ…!

 

CG映画の系譜と「トロン」とディズニーと

 映画ファンのみなさんだったら…特に純粋に映画芸術を愛する人々、昔ながらの名作映画を愛する人々なら、心のどこかで…あるいはあからさまに、映画におけるCG技術を不愉快に感じているかもしれない。

 何しろとりあえず「CGなんか使いやがって」と発言しただけで、とりあえず自分が「良心的で知的な映画好き」であると宣言することができる。別にCGを使わないことが良質で誠実な映画づくりを約束するわけでもないのに、そう発言したとたんに発言者は映画における「良識の人」の顔をすることができるのだ。いやはや、これは便利な呪文だね。

 しかし現在の映画制作において…少なくとも娯楽映画、商業映画の世界において、CG技術ナシにはもはや語れないのも事実。いや、地味な作家映画においてでさえ…チェコのイジー・メンツェルが撮った英国王給仕人に乾杯(2006)などのようにちゃんとCG技術を導入している。シルベスター・スタローンなんてCGを使ったアクション映画を馬鹿にしていながら、エクスペンダブルズ(2010)ではチャッカリCGを隠し味的に使っている。ここでハッキリさせておくと、僕も映画におけるCG表現を野放図に認めたいとは思っていないが、それが忌まわしいモノであるかのように忌み嫌うのもどうかと思う。歪んだ岩波ホール的イデオロギーは、映画のクメール・ルージュとでも言うべき不健全な発想にしか思えない。別にCGなんぞ使わなくても一向に構わないが、使ったからといって敵視するのは馬鹿げているのである。

 そんな、今でこそ映画テクニックとして当たり前のCG技術も、ハッキリ使われるようになったのは実は本作の元ネタ「トロン」が初めて。この映画も1982年に発表されたというのだから、今から30年近く前ということになる。

 それまでCGが映画に使われたことがまったくなかったわけではないようだが、僕は残念ながら記憶していない。おそらくはパラパラと何本かの映画に使われたものの、そんなに大きな使われ方でもないし長い時間で出てきたわけでもないだろう。見ている側に「これはCGだ」と分かるような使われ方でもなかったのではないか。おそらくSF映画のコンピュータ画面の中で、チョロチョロっと線やグリッドによる描画が表示されるような、そんなチョコッとした使われ方でしかなかったように思う。

 そこに「世界初のコンピュータ・グラフィック映画」という触れ込みで「トロン」が登場したのだ。映画ファンでSFファンだった僕としては、これは見ずにはいられなかった。

 ところで、“世界初のCG映画をいち早く制作するとは、さすが「ファンタジア」(1940)など革新性あふれる作品をつくってきたディズニーならでは”…と感心する向きもあるかもしれない。実際、「トロン:レガシー」の劇場パンフにもそんなような事が書いてあった。

 しかしながら当時のディズニーは、とてもじゃないが「ディズニーならでは」とか「革新性」だのという言葉を当てはめられるような状況じゃなかった。今でこそディズニーはジェリー・ブラッカイマーなどと組んでパイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(2003)なんてヒット作を飛ばしているが、当時のディズニーはかなりジリ貧の状態だったのだ。とてもじゃないが、「さすが」なんてもんじゃなかったのである。

 何しろディズニー映画となると、アニメ以外ロクな映画がなかった。昔はカーク・ダグラス主演の「海底二万哩」(1954)といったヒット作もポツポツとあったようだが、この当時になるとそれも皆無。何しろ明朗快活が売り物のディズニー映画は、ファミリー映画路線でなきゃいけないという大前提が足かせとなってしまっていた。これではどう考えても、ベトナム戦争やニューシネマを通過したアメリカ映画の気分にはそぐわない。僕が覚えている限りでも、ディズニーの実写映画といえば「うっかり博士の大発明/フラバァ」(1961)や「ラブ・バッグ」(1969)の繰り返しのリバイバルとか「そら見えたぞ、見えないぞ」(1972)なんて作品ばかり。タイトルを見ただけでも、そのハズシ具合がお分かりいただけるだろう。「そら見えたぞ〜」なんてカート・ラッセル主演なんだけど、この当時ラッセルはまだパッとしない存在でしかなかった。そもそもこの時点においては、ディズニー映画には一流と思われる映画人はまるで関わらない状況だったのだ。

 たまには大作と銘打ってつくられる「地球の頂上の島」(1973)なんてジュール・ヴェルヌ原作の大作もあったが、これも当時すでに古色蒼然とした印象。まぁ、ハッキリ言ってヌルい印象の作品ばかりだったのである。

 ではアニメは…といえば、この当時はこっちの方もかなり足下が怪しかった。そんな調子で興業成績も上がらず、ディズニー映画の配給元であるブエナ・ビスタの日本支社も閉鎖。そんな折りもおり、ディズニーが本格的な劇映画復活をめざすという触れ込みで公開されたのが、SF大作「ブラックホール」(1979)だ。

 この映画、今となってはこの作品のことを覚えている人も少ないだろうが、当時は名門ディズニーの「復活」か…と少なからず話題を呼んだ作品だった。しかし、すでに日本ではブエナビスタがなくなっていたので、こちらでの受け皿がなくなっていた。そこで特別にディズニーと契約を結んで、東宝が配給するという道が開けた。そして「ブラックホール」を先鞭として、当時、旧作「ファンタジア」やら何本かのディズニー作品が東宝配給で公開されたような記憶がある。

 で、肝心の「ブラックホール」はというと…内容はマクシミリアン・シェルらが主演した「海底二万哩」の宇宙版みたいな作品。何より映画はすでに「スター・ウォーズ」(1977)時代に突入していたのに、宇宙空間が漆黒ではなく濃いブルーで表現されていたのでかなり興ざめしたような記憶がある。…というか、今となってはそれしか覚えていない。やっぱりディズニーはヌルいんだよなぁ…。

 ところがディズニーはメゲてなかった。次にディズニーが改めて実写劇映画として放ったのが、問題の「世界初の本格CG映画」である「トロン」だった。これもまた、日本では東宝の配給でリリースされたのである。

 これがまさしく驚嘆すべき映画だったかというと…う〜〜〜ん。

 コンピュータ世界に入り込んで、いろいろな冒険を繰り広げるという設定は面白い。しかし肝心要の表現が追いつかない。それもそのはず、当時のCG技術なんぞ知れたもの。ポリゴンつくるのも大変だったはずだ。どうしても出てくる図形は単純なモノに限られるし、そのうちのいくつかは手書きアニメであることは明白だった。さらにコンピュータの世界に入った人間をCGの中に合成するために、おそらくフィルム撮影した俳優をひとコマひとコマ写真としてプリントアウトし、それをコンピュータ世界のビジュアルに貼り込んでアニメと同じ要領でひとコマ撮りする…というような超原始的な技術も用いられていたように思われる。仮にそれは僕の考えすぎにしても、画面上で発光している部分も手描きだった…とか、とにかく純粋にCGだけでつくった作品ではなかったのだ。

 しかし、それもこの時代ならば仕方あるまい。そして映画に描かれた世界についてイマイチ見ている側がピンと来なかったことも、当時としては致し方なかったことだと今では思う。まだ世間ではパソコンなんて…少なくとも日本では一般的なモノではなかったのだ。

 アメリカではその後まもなく「ウォー・ゲーム」(1983)、プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角(1986) あたりで高校生がパソコンを使いこなしてる場面が連発するから、もう「トロン」の時点でコンピュータの世界に抵抗はなかったかもしれない。だが例えば「プリティ・イン・ピンク」で学校のパソコンを使ってアンドリュー・マッカーシーモリー・リングウォルドを口説く場面など、何となく今の目で見るとパソコンの使い方が怪しい(笑)。そう考えると、アメリカだって誰もがコンピュータ知識を普通に持っていたわけではなかったのかもしれない。

 そんなわけで実は「トロン」は当時先進の作品と話題になった割には、興行的にふるわなかったというのが本当のところ。コンセプトも「早すぎた」作品だったし、表現としてのCGもまだ内容について来れてなかった

 ところが映画のCG表現は、その後、突然とてつもない進化を遂げる。それが僕らにとって最もハッキリとしたカタチで出てきたのは、ジェームズ・キャメロンの深海アドベンチャーSFアビス(1989)でのこと。謎の生命体に操られた「水」が大蛇のカマ首のようにくねくねと伸びてきて、その「頭部」にヒロイン役メアリー・エリザベス・マストラントニオの顔を描き出すくだりだ。これにはさすがにみんな驚いたのではないだろうか。

 ここでCGの持つ大きな可能性に注目したらしいジェームズ・キャメロンは、続くターミネーター2(1991)でもCGを大幅に導入。ロバート・パトリック演じる新型ターミネーター「T-1000」の描写に、ガンガン使っていった。何しろ特殊液体金属製のターミネーターだから、どんなカタチにも変幻自在。そしてメタリックな原型時には、その表面にちゃんと周囲の映り込みがある芸の細かさ。これは確かにCGがなければ表現できない。そういう意味では、間違いなくジェームズ・キャメロンはここ20年ぐらいのハリウッドの映画技術を牽引していると言っていい。

 そしてこのあたりから、僕ら映画ファンもまるで普通の言葉のごとく「CG」という技術用語を連発するようになったのだ。

 そんなCG技術の成果をダメ押し的に僕らに印象づけたのが、スティーブン・スピルバーグ「ジュラシック・パーク」(1993)であることは間違いないだろう。いささか陳腐な言い方ながら、まるでホンモノの恐竜が存在するかのように、リアルな質感で表現された映像にはビックリ。こうなると、もはやCGで表現できないモノはないのではないか…などと、僕ら素人などは考えてしまった。

 そんな折りもおり、ピクサーによるオールCG長編アニメの第1作「トイ・ストーリー」(1995)が登場。CG「だけ」で映画がつくれるのだ…と思い知らされることになる。これを境に、ハリウッドでの手描きアニメは急速に衰えていくことになっていくのだ。

 で、ここらあたりから映画におけるCG技術の向上は凄まじいスピードで進んでいく。先ほど僕は「もはやCGで表現できないモノはないのではないか」な〜んて書いていたが、実はあの時点でのCG技術は、まだまだそんな領域までいっていなかった。しかし日進月歩の進化で、CGの表現領域は広がっていく。例えば「ジュマンジ」(1995)では、ボードゲームの世界からゾウやライオンなどの猛獣が飛び出して、街の中へと出ていく場面がある。ここに出てくる猛獣たちやゾウに踏みつぶされて壊れるクルマなどがCGだが、最大の野心的試みはライオンの「毛」を表現したことだったという。おそらくは1本1本のフサフサ感を出すのが大変だったのだろう。

 もっとその進化のプロセスをハッキリ見せたのが、「スピード2」(1997)と「タイタニック」(1997)という、ほぼ同時期に制作された2本の映画だろう。どちらも海の上を行く船の映画だが、「スピード2」でのCGの「水」の描写はカクカクと直線的な描き方しか出来ていない残念な仕上がりだった。対して「タイタニック」では、その描き方にまったく不自然さが感じられない。このあたり、さすがに「CGのパイオニア」ジェームズ・キャメロンならではの一日の長…と言うべきだろう。

 こうなると、今度こそCGには描けないモノはない…という観があったが、実はまだひとつだけCGに出来ないモノがあった

 それは「人間」の描写だ。

 先に挙げた「トイ・ストーリー」でも、人間が出てくる場面はやはりツラかった。それがあったからこそ「トイ・ストーリー」はリアルな表現でなく、従来のアニメ・マンガ感のある描画となっていたのだ。それを無謀にもリアルな感触で、人間の出てくるCGアニメとしてつくったのが、ゲームの映画化「ファイナルファンタジー」(2001)ということになるのだろう。僕はこの映画をちゃんと見たことがないが、部分的に見た限りの印象ではやはり相当な違和感が感じられた。…っていうか、これを映画として見ちゃいけないんだろうか(笑)?

 ともかくCG表現に残された最後のフロンティア…それが人間描写だったのだ。

 どうしても不自然に見えてしまうだけでなく、変にリアルなだけに時として生理的嫌悪感さえ感じさせてしまう。それを「俳優の動作をデータとして取り込む」というカタチで解消しようとしたのが、「トム・ハンクス主演」と銘打たれたロバート・ゼメキスポーラー・エクスプレス(2004)だ。

 しかし正直に言うと、これも相当「気持ち悪い」出来上がりだ。リアルになればなるほど気持ち悪い。「モーション・キャプチャー」という技術でトム・ハンクスの動きや表情を記録して再現しているのに、なぜか薄気味悪さしか感じられない。

 実は…これはちょっと自慢させてもらってもいいと思うが…僕には「気持ち悪さ」の理由がこの時点で分かっていた、俳優の動きや顔の表情をデータとして再現できても、実は人間の表情で最も重要な「目」だけは再現できていない。それが災いして、CGキャラがイキイキとして動いても、顔だけは凍り付いた「死んだ表情」となっていたのだ。むしろゾンビあたりをCG化した方がよかったのだろう。

 その点、ウォシャウスキー兄弟はそのあたりを本能的に察知していたのだろう。マトリックス・リローデッド(2003)でネオと101匹エージェント・スミスが戦うという不思議な場面を撮っていながら、CGをふんだんに使った描写には違和感がない。もうお分かりだろう。「マトリックス」に登場するキャラクターは、ほとんどと言っていいほどサングラスをかけているのだ。

 あるいはアクション場面のほとんどが、撮影されたものではなくてCGで描かれたものであるスパイダーマン(2002)シリーズだってそうだろう。スパイダーマンはマスクを被っていて、目がちゃんと見えることはない。

 目さえ出さなければ、CGで復元しても人間は不自然ではないのだ。

 こうした改良点に気づいたのか、ロバート・ゼメキスは再びCGアニメに挑戦。今度は俳優の目までモーション・キャプチャーに取り込める新技術を導入した。こうしてつくられたベオウルフ/呪われし勇者(2007)は、あの「死んだ表情」による生理的嫌悪感を見事に克服。リアルなCGアニメという領域を初めて開拓した。まったく人間そのもの…には見えないまでも、キャラクターに気持ち悪さを感じることはないレベルまで作り込むことができた。

 ついでに言うと…3D映画という分野でも、この作品はかなり特筆すべき成果を挙げている。3Dを一般化したという意味で映画史に残る「アバター」ではあるが、おそらく3D技術そのもので言えば、この「ベオウルフ」の段階から基本的には変わらないのではないかと思われるからだ。

 そうした「技術面」での進化とは別に、「早すぎた」映画である「トロン」の世界が、一般にも受け入れられる下地が整いつつあった。

 例えばバリー・レビンソンマイケル・クライトン原作を映画化した「ディスクロージャー」(1994)。世間的にはマイケル・ダグラスデミ・ムーア主演の「セクハラ」ものとして認知されているが、映画の後半でいきなりバーチャル・リアリティ世界を描いたSFアクション映画に変貌してしまう。これの場合、「ディスクロージャー」という映画が新たな分野を開拓したというよりは、おそらくこういう映画の描写に世間がついて来れるようになったというのが正確なところだろう。逆に言えば、下世話なオフィスでのセクハラ映画に出しても問題ないくらい、「コンピュータのヴァーチャル・リアリティ世界」は一般的なモノに変わっていたのだ。

 そして、何と言ってもマトリックス(1999)が、ヴァーチャル・リアリティ映画を「常識」に変えてしまった。いまやコンピュータ・システムの中に「別世界」があっても、誰も何もオドロキはしない。むしろ、それが「当然」のこととなったのだ。

 ならば「表現」と「題材」の両面がようやく成熟しきったところで、改めて「早すぎた」映画である「トロン」を復活させようと思い付いても、まるで不思議はないだろう。制作元のディズニーも、その後、大人向け一般映画レーベルであるタッチストーン・ピクチャーズを1983年に発足。「スプラッシュ」(1984)を皮切りに劇映画界の「現役」に復帰した。今はこのタッチストーンは発展的解消を遂げたようだが、タッチストーンを通過したことでディズニー本体は映画会社として蘇生していた。つまり、「機は熟した」のである。

 おそらく今回の企画は、こんなところから出てきたに違いないと思われるのだ。

 

見た後での感想

 実質上の主人公であるサムが、20年近く放置されていたゲーセンに入って電源スイッチを入れると…大音響のBGMでジャーニーユーリズミックスが流れ出す…。この映画と前作「トロン」の物語の中で、どれだけの時間が経過したかを如実に描き出した場面だ。

 それと同時に、僕は非常に基本的な疑問をこの瞬間に感じずにはいられなかった。

 20年前のコンピュータの性能やキャパシティでもって、果たしてサーバ内にこの映画で描かれるような壮大で素晴らしい世界が構築できるのだろうか?

 実際の話、僕がマックを使うようになったのは、ほんの10何年前の話だ。当時の僕のマシンのハードディスクの容量は、せいぜい2ギガ程度のものだろうか。やっとのことで買った外付けハードディスクの容量が1ギガとか2ギガぐらい。それが今では安い外付けディスクでも何十倍じゃきかない。キャパシティひとつとってもそんな具合だから、性能その他に至っては隔世の感がある。日進月歩の進化を遂げている世の中ではあるが、ことコンピュータの世界では進化のスピードは他の分野の比ではない。

 となると、20年という歳月を遡るコンピュータ世界というのは、今とはケタ違いに原始的なシロモノと考えたほうがいい。ショボい要領のサーバでショボく動く、最初の「トロン」のような世界がいまだに続いているんじゃないかと思うのがスジだ。すでにあまりに派手で素晴らしい「トロン:レガシー」の予告編を見ていた僕は、ジャーニーやユーリズミックスを聞いたとたん、どうしたってこのあたりの矛盾に気付かずにはいられなかった

 とはいえ、そんな文句やケチをつけるのは、ヤボな奴のやることと言うべきかもしれない。ここで描かれたコンピュータ・システム内の世界のビジュアルは、やっぱりかなりの見ものだ

 最初の「トロン」の単純図形からは、遙かに進化を遂げた表現と映像。基本的には「トロン」にも出てきたデザインを活かしながら、さらに映像として発展させたバーチャル・バイクなど、見ているだけで楽しいビジュアルが目白押し。見世物映画としてかなりのスケール感もあるし、見ているだけでオモシロイ映画に仕上がっている。

 実は、正直言ってお話としてはかなり雑だと言わざるを得ない。こんな不慣れな世界に放り込まれながら、どうしていきなり主人公がコンピュータ世界の住人たちと互角にやり合えるのか…いやいや、互角どころか勝ち抜いちゃう強運ぶりだから恐れ入る。映画の冒頭でかなりスポーティーで向こう見ずな奴であることは描かれているものの、コンピュータ世界への順応ぶりの早さには驚かされる。このあたりは、娯楽映画としては突っ込むじゃいけないのだろうか。いやぁ、やっぱり気になっちゃうよねぇ。

 あと…一応、「父と子」の物語がベースになっていると作り手は言いたげだが、それは特にこれと言った陰影を物語に与えない。申し訳ないが、極めて平板なモノだと言わなくてはならないだろう。

 だが、アレコレ指摘できる部分は散見されるけれど、それはそれで僕は別に構わないと思っている。ぶっちゃけ言って、この映画の物語にサプライズは期待していないし、語り口で楽しませる映画だとは思っていない。よく偏屈な映画ファンがヌカす屁理屈みたいに、人間ドラマが見たい…などとも思わない。大体がそれほどのもんじゃない。この作品は、そもそもそんな映画なのだ。バカボンのパパじゃないが、「それでいいのだ」(笑)。

 大体、人間ドラマを見たい奴が「トロン:レガシー」を見に来ること自体が間違っている。それは単に見に来た奴がアホだ。文句を言う方がスジ違いってもんだ。イマドキはそんな言いがかりみたいな言い分の方が通る世の中になっちゃってるから、何から何までうまくいかない。カンヅメを直接火にくべて爆発したからと言って、カンヅメのメーカーを訴えるクレーマー消費者みたいな連中だ。ウンザリさせてくれるよ。

 指摘すべきところは、そんなところじゃないだろう。

 例えば…劇中で若い頃のジェフ・ブリッジスをCGで再現して、現在のジェフ・ブリッジスと共演させたりしている場面。結構、これは今回の映画の「売り」」になっているが、そんなことはイマドキのCG技術を考えれば驚くに当たらない。むしろ僕は、デジタル化された昔のブリッジスの「生気のなさ」のほうが気になった。これはあくまでデジタルデータとしての存在だから、あえて「生気のない」キャラクターとして描かれているのか、それともCG再現したキャラクターはかくも「生気のない」ものなのか…果たしてどっちなのだろう。

 ちょっと嬉しかったのは、トリックスター的役割でマイケル・シーンが出演していたこと。それこそ フロスト×ニクソン(2008)で彼が演じたフロスト役のように、どこか軽薄でけたたましくて、胡散臭さプンプンの役どころ。クセモノぶりを遺憾なく発揮して、いかにも楽しげに演じていたのが印象的だ。

 それより印象的なのが、この映画のヒロインとして登場するクオラ役オリビア・ワイルド。クールでキュートで、この映画の中でもパッと華のある存在。これはホントにめっけもんだった。ただし、この映画のコスチュームが本当に似合っているが、逆に言うとこの映画以外で同じような魅力を発散できるか…ちょっとそこが気になったりもした。

 しかし何だかんだ言って…この映画はコンピュータ世界のきらびやかなビジュアルこそが命で、最大の見せ場だと言っていい。それ以外の要素はハッキリ言ってどうでもいい…と、あえて言っちゃってもいいかもしれない。

 ひとつだけ特筆すべきことして指摘しておきたいのは、今回大幅に前作からグレードアップ、スケールアップした作品世界ではあるが…それらを構築できたのは必ずしもCGの技術革新によるものばかりでないこと。作品を見ればお分かりいただけるが、実は「トロン:レガシー」は画面のすべてをCGで創り上げているわけではない。むしろかつての「トロン」以上に、実際にセットをつくりコスチュームを着せて、カメラでじかに撮影して創り上げている部分が大きくなっているのだ。

 実は昨今のハリウッド映画の場合、経費節減の意味もあって、セットを作り込まずにほとんどをCGで創り上げるケースが多いと聞く。例えばその極端な例が先に挙げた「スパイダーマン」シリーズで、アクション場面をほとんど「撮影していない」だけでなく、普通の芝居の場面においてもベランダの手すりだけ…とかドアだけ…などといった簡素なセットで撮影。あとで部屋全体や背景全体をCGでつくってしまうという制作方法だったらしい。さすがにそいつはなぁ…。

 それと比べれば、今回の「トロン:レガシー」はグッと「アナログっぽい」制作方法と言えなくもないのだ。

 誰も見たことのないデジタルそのものの世界を構築するために、最適な方法として選択されたのが「アナログ」な方法だった…。今回の監督に抜擢されたジョセフ・コジンスキーなる人物、アップル・コンピュータなどのCMディレクターとして知られた人物らしいが、そんな男があえてデジタル世界の構築のために「アナログ」を選択したことに、興味深いものを感じずにはいられない。

 デジタル世界を描くからデジタル、何が何でもデジタル…ってわけじゃない。そのあたりの事情に、僕はこの映画の作り手の意外な誠実さを感じているのである。

 

 

 

 

 

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