新作映画1000本ノック 2010年7月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ダブル・ミッション」 「アデル/ファラオと復活の秘薬」 「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」 「アイアンマン2」

 

「ダブル・ミッション」

 The Spy Next Door

Date:2010 / 07 / 26

みるまえ

 ジャッキー・チェンの新作のことなど、まったく聞いていなかった。この映画のことは、公開日に新聞にちっこい広告が載っていて知ったのだった。なんだこりゃ、アクション映画なのか? ネットで調べてもよくわからないが、どうやらジャッキーがハリウッドに招かれて撮った新作らしい。ジャッキーのハリウッド作品というと本来のジャッキー・ファンにはウケが悪いが、僕みたいな邪道ファンは結構キライじゃなかったりする。元々がアメリカ映画好きなんで。ちょうど仕事でイラだったり私生活でトラブったりして、軽い映画が見たいタイミングだった。というわけで、フラリと映画館に足を運んだわけだ。

ないよう

 凄腕スパイとして知られた男。ボブ・ホウ(ジャッキー・チェン)。その歴戦の勇士ぶりは、そのスジではかなり知られていた。彼は元々は中国の諜報員で、現在は米国CIAに出向の身。今日も今日とて同僚のコルトン(ビリー・レイ・サイラス)と力を合わせて、ロシアのテロリストであるボルダー(マグナス・シェヴィング)を捕らえるのに成功。そんな彼がスパイの世界から去ることを、上司のグレイズ(ジョージ・ロペス)は心から惜しんでいた。そう…ボブ・ホウはここ米国で自らの人生をやり直し、この世界から足を洗う決心をしたのだ。その理由は、隣の家に住むジリアン(アンアー・ヴァレッタ)という女。日頃はメガネをかけ、ボールペンのセールスマンという「堅気の姿」で暮らしている彼は、このジリアンとすっかり仲むつまじくなった。そして、ついに彼女もボブの求婚に応えてくれたのだ。しかし、ボブの結婚には障害があった。まずは、どうしてもタイミングを逃してしまい、ジリアンにボブの本当の仕事の事を打ち明け損なっていたこと。そして…こちらの方が大きな問題だったが…ジリアンには3人の子供たちがいたことだ。その3人の子供たち…長女のファレン(マデリン・キャロル)、長男のイアン(ウィル・シャドレイ)、幼い次女のノーラ(アリーナ・フォーレイ)が、ヤボ臭くて鈍くさいボブを毛嫌いしていた。だからせっかくジリアンといいムードになっても、再婚には大反対という態度を崩さない。そんなある日、ジリアンの父親が突如入院。彼女が遠く離れた実家に帰らねばならなくなる。それを聞いたボブは「これはチャンス!」とばかり、ピンチヒッターの子守を買って出る。ボブに勤まるかどうか不安に思ったジリアンだったが、とにかくこの場合には背に腹は替えられない。そんなわけで、彼女の不在の間は3人の子の「親代わり」となったボブだった。しかし、それは想像以上に困難な「ミッション」だった。とにかく子供たちはボブのすべてにブーイング。中でも年頃のファレンは、何かにつけてボブに反抗した。いたずら盛りのイアンにも手を焼いた。中ではノーラが一番ボブに懐いたものの、まだちっちゃいのであっちこっちへウロチョロして安心できない。そんなこんなで「子守で和解」を目論んだボブだったが、ますます気まずい雰囲気になるばかり。何より大変で疲れ果てるアリサマだった。その一方で、ボブたちが捕らえたテロリストのボルダーは、まんまと脱出。手下たちと共にある陰謀を実行しようと潜伏していた。事態を憂慮したコルトンはボブに協力を求め、ある情報をメールでボブのパソコンに送る。実はその情報は、ボルダーが入手しようとしていた重要機密だった。そうとは知らぬイアンは、ボブの留守中に彼のパソコンをいじって、音楽データと勘違いしてダウンロード。その事実をつかんだボルダーたちは、ボブたちを消そうと行動を開始した。そんなこととは知らないボブは…。

みたあと

 冒頭にいきなり出てくるのは、「ラッシュアワー」(1999)とか「タキシード」(2002)など、主にジャッキーがハリウッドで撮った作品でのアクション場面。そこにジョニー・リバースの懐かしのメロディ「シークレット・エージェント・マン」が流れるあたりで…僕としては「つかみはオッケー」! この冒頭だけで、僕はこの映画を支持したくなってきた。いいセンスしてるじゃないか。実は見に行ったもののまったく出来は期待していなかったが、この瞬間からこの映画はなかなか楽しめるに違いないと確信した。もうこれだけで、監督のブライアン・レヴァントやるじゃないかと言いたくなる。その予想ははずれなかった。

みどころ

 この映画は基本的にファミリー・ピクチャーであり、アクション映画ではあっても例えばアーノルド・シュワルツェネッガーが幼稚園に潜入する捜査官に扮する「キンダガートン・コップ」(1990)と同じ趣向だ。そしてジャッキー映画もアクション映画ではあっても、つい先日の「新宿インシデント」(2009)が登場するまでは、血や残酷描写がなく濡れ場もない…いわゆるファミリー・ピクチャーの体裁をとっていた。つまり、ジャッキー映画のフォーマットをハリウッドに移植するために、格好の題材なのだ。だから今までのジャッキーのハリウッド作品の中でも、抜群に無理がない。同じファミリー・ピクチャーでスパイ・アクションのコロモを付けた「スパイ・キッズ」(2001)が、何とも幼稚ですきま風ピューピュー吹く出来栄えになっていたことを考えると、この映画のハマり具合がよくわかる。何より、ジャッキーと子供との相性がバッチリ。終盤に至って、あんなにジャッキーを嫌っていた子供たちがみんな彼を慕うようになる幕切れも、ジャッキーならば無理がない。逆に言うと、これは彼ぐらいの問答無用なキャラがないと、シラジラしい雰囲気になりかねなかった。そういう意味で、これはまさしく「ジャッキー・チェン映画」であることは間違いない。それにしても、ハリウッド作品なのにここまで「彼の色」に染め上げるというのは、尋常でないカリスマだ。

さいごのひとこと

 これの次が「ベスト・キッド」リメイクとは出来すぎ。

 

「アデル/ファラオと復活の秘薬」

 Les Aventures Extraordinaires D'Adele Blanc-Sec
 (The Extraordinary Adventures of Adele Blanc-Sec)

Date:2010 / 07 / 19

みるまえ

 ハッキリ言って、いまだにリュック・ベッソンの映画に付き合ってる映画ファンなんて、僕以外ではこの世にいないんじゃないだろうか(笑)? かつてはミニシアターでフランスの新感覚映画人とモテはやされた男が、今じゃ大味バカ映画を粗製濫造するイカサマ師みたいな扱われよう。それもこれもリュック・ベッソン・プレゼンツと銘打ってプロデュースした、一山いくらみたいな安物娯楽映画のせい…と言い切れればよかったんだろうが、悲しいかな実は肝心の自身による監督作品すら出来栄えが怪しくなってきた。そもそも「フィフス・エレメント」(1997)あたりから中学生並みの知的レベルを露呈して足腰が怪しくなっていたのだが、久方ぶりに監督に復帰した「アンジェラ」(2005)でそれは決定的なものになってしまった。とにかく問答無用でつまらないのである。こうなると、すでに神通力なんてとっくになくなっていたのに、もはやリュック・ベッソンの名をありがたがる奴なんていない。次の「アーサーとミニモイの不思議な国」(2006)に至っては、ベッソン本来の幼稚な発想が全開。これが監督最終作なんて言ってたけど、「惜しい」どころか「二度と戻ってくるなよ」と言いたくなるシロモノだった。ところが、まったく辞める気配なんかないじゃないかベッソン。もっとも、ジョージ・ルーカスから宮崎駿、イングマール・ベルイマンに至るまで、辞める辞めると言って言葉通り辞めた監督なんぞいやしない。それにしたって、「アーサーとミニモイがどうしたこうした」の続編なんか見る気にもならず、いくら付き合いのいい僕でもさすがにパス。ところが間を空けずに、なぜか次の監督作がお目見えするではないか。またしても強いヒロインもの。主演女優は聞いたことのない女だが、どうせ相変わらずベッソンのお手つきだろう。間違いなく「やって」るはずだ(笑)。しかも、日本での宣伝コピーである「突き進め。幻の秘薬をもとめ、エジプト“王家の谷”からパリ“ルーヴル美術館”へ」…という文言の、力の抜け方はどうだ? まったくこの映画を売ろうという気概が感じられない。ということは、配給会社の宣伝マンたちのやる気をそこまで削いでしまうほどの脱力映画なのか? 今のベッソンならやりかねない。たぶんダメだろうとは分かっているが…僕にはミニシアターでこいつの「サブウェイ」(1985)を初めて見た時に、「面白い!」とホメちぎった負い目があるのだ(笑)。みんなそんな事は「なかった事」にしているみたいだが、僕はそんなセコい真似はしたくない。こうなれば、最後までケツを拭かないわけにはいくまい。

ないよう

 事の始まりはどこに持っていけばいいのやら。1911年のある日の深夜、ここはパリと思いねえ。それは高齢ながら妙にハイテンションな変わり者、エスペランデュー教授(ジャッキー・ネルセシアン)のアパートの一室で起こった。ソファに腰掛けて有頂天のエスペランデュー教授。その回りにはさまざまな品物が空中浮遊してクルクル回っている。これは何やらサイキックなパワーの為せるワザなのだろうか? 同時に国立博物館に展示してある化石の卵が、いきなりバリッと割れるではないか。中から出てきたのは巨大な翼竜。こいつは化石の卵を安置してあったガラスケースをブチ破り、さらには博物館のガラス天井もブチ破り、パリの夜空に舞い上がったからタダゴトではない。そしてこの翼竜、たまたまフレンチ・カンカンの花形踊り子とシケ込もうとした政治家を乗せた馬車に襲いかかり、セーヌ川に叩き込んでしまったから事はデカくなった。翌朝の新聞はどこもこの話題で持ちきり。騒然たる話題の中、翼竜確保の命を受けたのはパリ警視庁のカポニ警部(ジル・ルルーシュ)だ。カポニ警部はまず博物館にやって来て、そこで古代生物の専門家エスペランデュー教授を紹介される。その一方で、博物館のメナール教授(フィリップ・ナオン)と助手のアンドレイ・ズボロフスキ(ニコラ・ジロー)は、 問題の割れた化石の卵に注目していた。そんなズボロフスキは、世界の秘境を取材する人気の女流ルポ作家アデル・ブラン=セック(ルイーズ・ブルゴワン)に夢中。著書のサイン会でひと目見てゾッコンになってしまった。そのアデルはといえば、出版社をダマくらかして資金を調達。ペルーに取材と称してチャッカリとエジプトに向かっていた。砂漠を越え、やっとこ辿り着いた地下の墓所。そこにはかつて王に仕えた学者のミイラが待っていた。しかし待っていたのはミイラだけではない。現地の盗賊たちも盗掘を狙って彼女につけ込もうとする。しかも現地の警察とともに、アデルの天敵ともいえる科学者デュールヴー(マチュー・アマルリック)まで現れるではないか。この男、常にアデルの冒険の最中に現れて、彼女の邪魔をする陰気くさい男なのだ。しかし、そこは抜け目のないアデルのこと、一瞬の隙を突いて石室の床に溜まった石油に点火。猛火の中をドサクサに紛れて、学者のミイラの棺に飛び込んだ。爆発と熱風を免れたミイラの棺は地下の水路に飛び出し、何とか無事にナイル川へ。こうしてアデルは、例の学者のミイラをフランスに持ち帰ることができたのだ。ではアデルは、何故にこのミイラを持ち帰らねばならなかったのか…?

みたあと

 映画の冒頭は、なかなか「アデル」ご本人が現れない。一見関係のない人物が出てきて、関係のないエピソードで「しりとり」みたいにつないでいく。何だかこんな語り口の映画を見た覚えがあるなあ…と思っていたら…そうだそうだ、これって「アメリ」(2001)みたいな感じじゃないの? まぁ、ベッソンが「アメリ」をパクったのか、それとも元々原作のマンガがそうなっているのか…。そうなのである。この映画は原作があって、それは「バンドテシネ」というフランスの「マンガ」。なるほど、中学生並みのオツムの中身がバレバレになってきた、リュック・ベッソンらしい企画ではないか。チラシなどを見るとフランス製の女性版「インディ・ジョーンズ」ってな感じに売りたい感じがアリアリだが、実物に接した感じではそうはなっていない。20世紀初頭のパリというクラシックな雰囲気に、やたらSFXを多用した活劇…って、これもどこかで見たことある趣向だなぁと思っていたら、それって世界初のデジタルハイビジョン撮影映画と銘打たれていた「ヴィドック」(2001)っぽいではないか。というわけで、バリバリの新作で御大リュック・ベッソン自らが出馬してのSFXやCGをふんだんに使った作品にしては、どこか既視感ありすぎ手垢付きすぎの感が濃厚。まして元のマンガそのものに何の思い入れもないし存在すら知らないこちとらとしては、まったくありがたさが感じられない。なるほど日本の配給会社が「突き進め。云々」…なんてやる気のない宣伝コピーを付けたくなるわけだ。同じ冒険活劇なら、やたらもったい付けて気取ったフレンチーより「ナショナル・トレジャー」(2004)みたいにスカッと明快なアメリカンの方がいいに決まっている(笑)。単純バカなことをやろうとしているのに、この映画「オシャレだろ?」とか言いたげに気取り過ぎなんじゃないの?

こうすれば

 そもそもヒロインを演じるルイーズ・ブルゴワンに、魅力のカケラも感じられないのがイタイ。元々がテレビのお天気お姉さんだったとかで、番組の中でアレコレとコスプレをするのが人気だったらしい。それを買われての起用なのか、劇中でも獄中の科学者を救出すべく変装して刑務所に忍び込む場面が繰り返されるが、それらの変装そのものが学芸会並み。変装になってない。しかもくだらない理由で失敗して、それでもヒロインはお咎めナシで追い出されるだけ。ヒロインもヒロインで懲りもせず変装と潜入を繰り返す…って趣向に見ていて呆れかえってしまう。いくら原作がマンガだからって「幼稚」過ぎやしないか? それにこんな拙い「変装」場面の繰り返しって、よっぽどこのルイーズ・ブルゴワンのファンでもなければ楽しくも何ともない。しかも、面白くないくせに執拗に「クドい」。結局これはリュック・ベッソンがやらせたかったし見たかったってことなんだろう。恥ずかしくなってしまう。またヒロインの行動自体も、見ていてあまり容認できないことばかり。結局は冒頭のエジプトでやったことは「文化財の破壊」と「盗掘」でしかないし、その後の言動も「豪快で型破りなヒロイン」…というより、単に「無神経で単純でバカ」な女にしか見えない。「大胆」というより「非常識」、「勇敢」というより「無謀」。終盤近くで、よみがえったミイラ学者に対しての口の利き方の知らなさを見ていると、あまりのバカさデリカシーのなさにイライラさせられる。しかも回りがチヤホヤするからつけ上がるわ増長するわ。元のマンガからしてそんなキャラクターなのかもしれないが、おそらくそのマンガが人気なのだとしたら、その欠点を魅力に転じるための仕掛けがどこかにあるはずだろう。ところがベッソン脚本と演出のせいなのか、はたまた主演のルイーズ・ブルゴワンの演技プランと魅力のなさが災いしたのか、その欠点が欠点のままで露呈しまくっている。おまけにおまけに、これも元々の原作の設定なんだろうが…事のすべての発端となったヒロインの行動の理由とやらがいただけない。妹にある災いが降りかかったからなのだが、あまりのバカバカしさくだらなさ、そして自業自得ぶりにガッカリ。マンガならこのまんまでも成立するかもしれないが、映画には映画なりの味付けが要るだろう。呆れ果てました。とにかく、今回のベッソンの女は歴代でも最も質が落ちてると言わざるを得ない。華がなさすぎ。ホントに今回ばかりは弁護のしようがないわ。

さいごのひとこと

 フランス人に痛快さを求めたオレがバカだった。

 

「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」

 Prince of Persia - The Sands of Time

Date:2010 / 07 / 12

みるまえ

 前にもどこかで書いたかと思うが、僕は雪と氷がいっぱい出てくる映画が好きなのと同じくらい、砂漠が出てくる映画も大好きだ。「なんで?」と言われても理由は分からないが、とにかく昔から理屈抜きで好きなのだ。だからこの映画の公開を知った時には、何が何でも見たいと思った。「プリンス・オブ・ペルシャ」…タイトルからしていいではないか。しかもプロデューサーがジェリー・ブラッカイマー。ここだけの話、正統派映画ファンからは大味ハリウッド映画の権化としてバカにされるブラッカイマーの映画を、僕は結構気に入ってたりするのだ。さすがにこのネタで3本はキツイと思ったものの、最初の「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)が出た時にはそれなりに楽しんだ。それ以外にも、大味は大味なりに楽しめる映画が多い。そして今回の主役がジェイク・ギレンホールと聞いて、ますます見たくなった。若手演技派のギレンホールが、こんな「ハリウッド大作」の「ヒーロー」を演じるとなれば見たいではないか。この映画は完全に僕の「ツボ」だ。

ないよう

 昔むかしのペルシャ帝国でのこと。その巨大王国の首都ナサフに、ダスタンという一人の孤児がいた。彼は仲間の孤児たちとともに街をウロチョロしながら、その日暮らしを続けていた。ところがある日、ちょっとしたことで軍の上役の逆鱗に触れ、街なかを逃げ回る羽目になる。軍の上役の命令で兵士たちがダスタンを追い回すが、彼はその敏捷さと卓抜した運動神経であっちこっちへと飛び回る。逆に子どもひとりに大の兵士たちが右往左往というアリサマ。それでも多勢に無勢、いよいよ捕まってしまったダスタン。軍の上役が今にもダスタンに剣を振り下ろそうとしたその時…たまたま通りかかったシャラマン国王(ロナルド・ピックアップ)がダスタンの勇敢さを認めて、その場で彼を引き取った。かくしてダスタンはそれまでの立場から一転、国王の養子として王家に迎えられることになる。それから幾年月。逞しい若者に成長したダスタン(ジェイク・ギレンホール)は、長男タス王子(リチャード・コイル)、次男ガーシヴ王子(トビー・ケベル)に次ぐ3人目の王子として堂々とした振る舞いを身につけていた。王国はますます繁栄し、国王は弟ニザム(ベン・キングズレー)を要職に迎えて国を統治。そんなある日、軍を率いて都から遠く離れた地にいたニザムと3王子は、国境近くの都アラムートが武器を売りさばき不穏な動きをしているとの情報を得る。本来、シャラマン国王は「聖なる都」アラムートへの手出しを禁じていたが、王は遠く離れた都にいるうえに事は急を要した。かくしてニザムの進言から3王子は、アラムート攻撃を決意する。軍司令官のガーシヴ王子は正面から戦いを挑む作戦だったが、犠牲を最小限度にとどめたいダスタンは、こっそり自分の手下たちとともにアラムート城塞内に潜入することにした。これが功を奏して、ダスタンたちは内側から城門を開けることに成功。アラムート攻略はさしたる犠牲を払うことなく成し遂げられた。しかしながら敵陣一番乗りの名誉をさらわれた格好のガーシヴにとっては、正直あまり愉快な結末ではなかったが…。さらに敗色が色濃くなってきたアラムート城内では、美しい王女タミーナ(ジェマ・アータートン)が奇妙な行動に出ていた。一人の配下の者を呼びつけ、かなり貴重なモノを託していたのだ。勝敗もほぼ決定的になった頃、ダスタンはたまたまこのタミーナ王女の配下の者を倒す。そして、彼が後生大事に運び出そうとしていた包みを開いた。そこにはガラス製の柄のついた不思議な短剣が入っていた。しかもこの短剣ときたら、ガラスの柄は砂時計のように砂が詰められているから不思議にも程がある。さて城内に入って行ったダスタンは、そこで憮然とした王女タミーナと出会う。身に覚えのない理由で不当な攻撃を受けた…と屈辱を覚えている彼女。しかも征服された側の王女として、彼女はタス王子の妃にならねばならなかった。しかしタミーナ王女はダスタンの腰に例の不思議な短剣が差してあるのに目を留めると、憎まれ口を叩きながらも怒りの矛先をひとまず納めることにする。さて、ペルシャ軍に制圧されたアラムートに、シャラマン国王がやって来る。しかし国王は軽はずみにアラムートを攻撃したことに激怒して、タス王子を叱りつける。そして武器売買の確固たる証拠をつかむように、タス王子に命じるのだった。しかし国王は、勇敢だったダスタンの働きにはご満悦。しかもタミーナの相手には、すでに何人もの妃がいるタス王子ではなく、ダスタンがいい…とご指名だ。戸惑いながらもこの話を受けるダスタン。ところがダスタンが国王への贈り物としてアラムートの法衣を献上した時に、すべては一変した。国王が法衣に手を通すと、いきなり苦しみ出すではないか。何と法衣には猛毒が塗ってあり、国王はその場で絶命することになった。そんな成り行きで、ダスタンは「暗殺者」として捕らえられそうになる。すると、それまでの状況を見ていたタミーナ王女が突然ダスタンに手を貸し、その場から一緒に脱出するではないか! 王宮から飛び降り、馬を駆ってアッという間にアラムートを脱出した二人。こうしてダスタンは王家の人間から反逆者へ…またしても急転直下の人生を辿ることになる。さて、砂漠の荒野を彷徨うダスタンとタミーナは、案の定、すぐに争うことになる。その争いのタネは、例の不思議な短剣だった。タミーナは短剣を奪い返そうと、ずっとチャンスを窺っていたのだ。そんなこんなで短剣を巡ってもみ合いになる二人。たまたまダスタンは短剣のガラスの柄に付いていた宝石を押してしまう。するとどうだ。ガラスの柄の中に入っていた砂が外に放たれ、突然ダスタンの周囲の状況が一変。時間がいきなり逆行し始めるではないか。見ると、それまでのダスタンとタミーナの小競り合いも逆行して巻き戻され、いつの間にか時間はダスタンとタミーナが揉める直前にまでさかのぼっていた。かくしてダスタンは、タミーナに短剣を奪われそうになることを未然に防げた。そしてタミーナは、ダスタンが事前に彼女の動きを察知したことで、何が起きたかを悟ったのだった。そう、これは時間を巻き戻せる短剣。タミーナが必死に守ろうとしたのも、この短剣だった。そしてダスタンは今こそ理解した。自分が無実の罪を着せられたのも、この短剣のせいであることを…。

みたあと

 前述したように、僕は砂漠を舞台にした映画が好きである。で、砂漠を舞台にした映画でも、「アラビアのロレンス」系のマジメな映画ではなくてエキゾティックな冒険活劇ってのは、よくよく考えてみれば久々なのではないか? そのあたり、海賊映画を大々的に復活させた「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」なんかと発想は同じ。そしてジェリー・ブラッカイマーの頭の中では、おそらくエロール・フリンとかダグラス・フェアバンクス・ジュニアとかが主演する、往年の冒険活劇の復権…ってなことがあったと思う。しかもただ海賊映画や砂漠活劇を焼き直すのではなく、「パイレーツ〜」ならばSFX仕立ての派手派手なファンタジー風味、今回も「時間の砂」とやらで時間を巻き戻せる…というSF風仕掛けを織り込んでいるあたりがブラッカイマー流。そもそも前者がディズニーランドのアトラクションが下敷き、今回もテレビゲームが元ネタになっているあたり、現代の映画ファンに流通させるための商売上の計算も成り立っているのだろう。そのあたり、良くも悪くも商売人のプロデューサーだ。まぁ、確かにイマドキの観客に昔のまんまの海賊映画や砂漠活劇を見せたところで、有り難がるわけもあるまい。これは「今の映画」として作るなら正解だろう。そして本作の場合、確かに「時間の砂」という今風な仕掛けは出てくるものの、それ以外では意外とオーソドックスな昔風冒険活劇のスタイルをとっている。これにはちょっと驚いた。「フォー・ウェディング」(1994)、「モナリザ・スマイル」(2003)から「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(2005)まで何でも手がけるイギリスのマイク・ニューエル監督は、なぜか大物然として扱われる割に今ひとつつかみ所のない映画作家。そういう意味では今回も、「何でこの人が監督だったの?」と思える題材だったが、これだけの作品をスケール感たっぷりにまとめ上げた手腕は危なげない。のっけからズバリと言ってしまうと、この映画を僕は大いに楽しんだ。

みどころ

 まずは見どころは「砂漠!」と言い切りたいところ(笑)だが、それじゃ僕以外の映画ファンは判断に困っちゃうだろう。何より「意外性」のヒーロー、ジェイク・ギレンホールの健闘ぶりを挙げるべきだろうね。ナイーブな若者を演じさせたらピカイチ、「遠い空の向こうに」(1999)に始まって「ブロークバック・マウンテン」(2005)、「ゾディアック」(2007)などなどで、アメリカ映画の若手演技派として確固たる地位を確立してきた。娯楽大作にも「デイ・アフター・トゥモロー」(2004)のように出ないわけではないが、出たとしてもナイーブな青年役。そんなわけで、こんな娯楽大作も娯楽大作、しかもその冒険活劇のヒーロー役を演じるとは、かなり意外に思った方も少なくないんじゃないだろうか。しかし僕はこの映画がジェリー・ブラッカイマーの作品であると知った段階で、これはちっとも意外でも何でもなくなった。ジェリー・ブラッカイマー映画は「ハリウッド大味映画」の代名詞みたいに思われてはいるが、実はそのキャストは大味とは程遠い。いつもひとクセもふたクセもある名優・怪優を揃えて、他の「ハリウッド大作」とは明らかに異彩を放っているのである。スティーブ・ブシェミやジョン・マルコビッチ、ウド・キアーを脇に置くセンスもさることながら、一体どこの誰がニコラス・ケイジやジョン・キューザックをアクション映画の主役に据えるだろうか。考えてみれば、「パイレーツ〜」のジョニー・デップからしてそうではないか。彼こそ、およそハリウッド娯楽大作の主演には似つかわしくない。そんなわけで、ジェイク・ギレンホールのヒーロー役起用も、ブラッカイマーならやりかねないことだったのだ。そしてこれは、まったく奇をてらった作戦でもない。あのジェイク・ギレンホールが筋肉を付けて、マッチョなヒーローになりきってるではないか。しかもユーモラスでロマンティックで人をまっすぐ信じるヒーローは、イマドキの普通のヒーロー役者ならシラジラしくて見てられない。現代のヒロイズムは「ハードボイルド」が基本だから、まずは冷笑的でニヒルであることが前提になる。しかしジェイク・ギレンホールなら、元々の持ち味がナイーブでデリケート。だから「まっすぐ」ヒーローがシラジラしくならない。これは意外なマッチングだったのではないか。対するヒロイン役のジェマ・アータートンは、ジェイク・ギレンホールとの掛け合いがなかなか楽しい。ケンカしながら仲良くなるカップルのお話はハリウッド映画だけでなく古今東西腐るほどあるが、これもそうした楽しさが充満している。「タイタンの戦い」(2010)に次いでのコスチューム・プレイもサマになっていて、なかなかいいのだ。なかなか楽しい女優さんが出てきたわいと嬉しくなったが、彼女の場合、果たして現代劇はどうなんだろう? まぁ、砂漠活劇としてバッチリ楽しませてくれるし、エキゾチシズムも満点で個人的には満足。こういう娯楽大作は、やっぱりたまに見せてもらいたいものだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ならば万々歳と言いたいところだが、ひとつだけつまんない点を指摘すると…。やっぱり元ネタのゲームにある設定だから仕方ないのだろうが、「時間の砂」を使った最後の大ネタがちょっといかがなものか。断腸の思いで別れたヒロインが戻ってくるのはお約束として、結局は死んだ兄貴やら父王まで元に戻ってしまうというのは、いささか調子がよすぎるというかご都合主義という感じがしないでもない。そもそもあのラストの力業でそれまでの事が「なかったこと」にされてしまうとすると、何となく見ているこっちとしては「そこまで見てきた2時間近くは何だったの?」…という気になってしまう。これはちょっと空しいんじゃないかい? そもそもアータートン嬢は「タイタン」でも復活してなかった?

さいごのひとこと

 砂漠のジェイクを見るなら「ジャーヘッド」よりこっち。

 

「アイアンマン2」

 Iron Man 2

Date:2010 / 07 / 05

みるまえ

 前作「アイアンマン」(2008)は、なかなかの快作だった。正直、アメコミ・ヒーローものの映画化は食傷気味もいいところだったから、また「なんとかマン」かよとウンザリしていたところ。それでも全米大ヒットの評判と…この手の大作娯楽映画、しかもマンガの映画化作品でヒーローものの主役としては異例ともいえるロバート・ダウニー・ジュニアの起用が気になって、僕もノコノコ見に行ったわけだ。見て、とにかく気に入った。スカッと面白い映画に仕上がっている。実は僕が昨今のアメコミ・ヒーロー映画にウンザリしている理由は、単にそれらが氾濫しすぎってことだけじゃない。数が多くなってくるとちょっとでも高級に見せかけたいのかハクを付けたいのか、それとも作り手がマンガの映画化じゃなくて立派なことでもしているように思い込みたいのか、何やら「もっとシリアス」だとか「キャラに深みがある」だとか、「矛盾」だの「苦悩」だのと何だかゴチャゴチャと屁理屈を並べたがる。挙げ句の果てに、そんなゴタクにみんながまんまとダマされての「ダークナイト」(2008)の大ヒットだ。申し訳ないけどあんな底の浅い映画を「哲学的」とまでホメ上げるなんざ、みんな一体どうしちゃったんだ? シドニー・ルメット映画でも見ている気分になったのか(笑)? 言っちゃ悪いがたかがマンガの映画化。身の程をわきまえた映画作りをして欲しい。昨今のアメコミ映画化のこうした傾向は、僕はホントにイヤなのだ。その点「アイアンマン」は素晴らしかった。たかがマンガの映画化という点をわきまえていた。単純に楽しい映画づくりに徹していて潔かった。何か高級なモノをやっているフリなんかしてないのが、大人の態度だと思えたものだ。何より主役のキャラクターも楽しいし、演じるダウニー・ジュニアもそのどこか皮肉なユーモアによって、「これはマンガですよ」と自覚しているように思えた。「マンガじゃなくてこれはシリアスだ」なんて言うのが大人の態度とは思えない。「これはマンガだ、マンガで結構」と分かっているあたりが、まさしく大人の態度だと思うのだ。そんなわけで、あんなに楽しませてくれた作品の続編なら大歓迎…と言いたいところだが、ちょっと待っていただきたい。今回は脇を固めていたテレンス・ハワードが何やら契約上のトラブルで交替しドン・チードルに代わった。これは致し方ないとして、さらに悪役にミッキー・ローク、気になる新キャラとしてスカーレット・ヨハンソンも出るという。あれっ、それのどこが気に入らないの?…とみなさんは思われるかもしれない。ミッキー・ロークは「レスラー」(2008)で復活したばかり。出る映画出る映画話題作となるヨハンソンも含めて、まさに「旬なキャスティング」ではないか…とおっしゃるに違いない。それは確かにその通りだ。しかしあのシビアで深刻だった「レスラー」のキャラを考えると、ミッキー・ロークがこの映画に何を持ち込むのかイヤーな予感がする。おまけにスカーレット・ヨハンソンだって、あまり娯楽映画に出たことがない。珍しくマイケル・ベイ映画に出た「アイランド」(2005)では、恐ろしく平凡で面白みがない女優だった。シリアスな映画はいいけど娯楽映画と来ると疑問符が残る。あえて酷な言い方をすれば、いいオンナいい女優ヅラをしているが、ええカッコばかりして客を楽しませることも出来ないただの生意気な小娘女優に過ぎない。オレはウディ・アレンと違って、このションベン臭い小娘をあまり買ってないんだよね。そんなわけで、強力キャストと言われているこの新加入の二人が、僕にはちっとも魅力的な要素に思えなかった。大丈夫なのかこいつらで。昨今、娯楽大作っていうと何でも3Dのご時世なのに、そんな安っぽい風潮に迎合しなかったあたりの志やよし。しかし、果たして映画そのものはどうか?

ないよう

 モスクワの暗く汚いアパートの一室で、ひとりの老人が死期を迎えようとしていた。その名はアントン・ヴァンコ。その苦しみ息絶える様子を見ながら、息子のイワン(ミッキー・ローク)は憤りを抑えきれない。アントンはかつてアメリカの巨大企業スターク・インダストリーズで働きながら、創業社長ハワード・スタークに追い出され、その後は不遇な立場に追い込まれた。そんな折りもおり、テレビではアメリカで「アイアンマン」と騒がれるパワードスーツの男が活躍し、その正体がハワードの息子でスターク・インダストリーズの現社長であるトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)であることが明かされていた。得意満面のトニーの表情を見ながら、イワンの憎しみは燃えさかる。許せない。元はといえば「アイアンマン」パワード・スーツの原動力「アーク・リアクター」も、本当はアントンの発明品ではないか。あまりに悲惨な最期を遂げた父に比べ、恵まれすぎているトニーを見逃すことなど出来ない。イワンは部屋に籠もって、さまざまな装置やコンピュータの力を借りながら、必死に何かを創り上げようとしている。やっとのことでイワンが創り上げた「それ」は、小型の「アーク・リアクター」だった…。そんな頃、飛んでいる飛行機からの空中ダイブという派手な演出によって、「アイアンマン」が壮大な博覧会会場に姿を見せる。ステージの上でパワード・スーツを脱ぎ捨てたトニーは、これまたゴキゲンな口調で「スターク・エキスポ」の開会を宣言した。「スターク・エキスポ」とは、父ハワードの代からスターク・インダストリーズ主導で、次世代に素晴らしい科学技術を継承しようと開催された巨大な博覧会。その遺志を継いで、トニーもこのエキスポをニューヨークを会場に繰り広げようというわけだ。そんなゴキゲンのトニーだったが、一人になった時の表情はサエない。実は「アーク・リアクター」の副作用で、トニーの血液が徐々に汚染されていたのだ。しかし「アーク・リアクター」はトニーの文字通り「心臓」でもあり、それなしには生きられない。このままでは命に関わる重大事だったが、トニーはそのことを誰にも言えずにいた。そしてトニーの表情をサエなくした事がもうひとつ。何と議会からの召喚状を受け取る羽目になってしまったのだ。トニーのパワード・スーツが「武器」であり、例え平和利用とはいえ圧倒的な武力を個人が所有して使っていていいのか…とパワード・スーツを没収する声があがっていたのだ。こうして公聴会に引きずり出されたトニー。トニーの数少ない友人で空軍中佐のローディ(ドン・チードル)、トニーの忠実な秘書で恋人(?)でもあるペッパー・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)がハラハラして見守るなか、相変わらず人を食ったような答弁を繰り返す。これにはさすがにトニーの立場が悪くなるかと思いきや、実はこの公聴会の裏でスターク・インダストリーズのライバル社であるハマー・インダストリーズ社長ジャスティン・ハマー(サム・ロックウェル)が糸を引いていたことがバレバレになり、結果的にトニーの大勝利に終わる。こうしてまたしてもトニーは得意の絶頂となって増長するのであった。さらに思うところあったトニーは、いきなりペッパーに社長の座を譲ると宣言。そのため、新たな自分の秘書に新たにナタリー・ラッシュマン(スカーレット・ヨハンソン)という女性を大抜擢するが、お色気ムンムンの彼女と鼻の下を長くするトニーに、ペッパーの機嫌が良くなろうはずもない。そしてモナコまでレースを見に来たトニー、ペッパー一行は、そこでまたしてもライバル意識ムキ出しのハマーと遭遇。さらにペッパーが目を離した隙に、トニーが「見物」ではなくレースそのものに出場してしまったからさぁ大変。ところが本当に大変なことはその後にあった。突然レースのコース内に、一人の逞しい男が不思議な装置を身にまとって乱入して来たのだ。しかもその男は、両手でムチのようなマシンを振り回した。その機械仕掛けのムチが閃くや否や、走行中のレーシング・カーがアッという間に真っ二つに引き裂かれてしまうではないか。この男こそ、あのイワンが武装してパワーアップした姿…ウィップラッシュだ。そして、まるで飛んで火に入る夏の虫…とでも言うべき状況で、トニーのクルマが全速力でウィップラッシュのフトコロに飛び込もうとしていた…!

みたあと

 開巻まもなく、ミッキー・ロークのイワンがモスクワで繰り広げる陰鬱な話。おいおい、やっぱり「ダークナイト」みたいにヘンにシリアスになるんじゃないだろうな。しかし心配もそこまで、いきなりの派手な空中ダイブから、タキシード姿でステージに登場の派手派手演出。周囲にはビキニ姿の女をはべらしての軽薄さ。この俗悪な趣味、調子に乗った態度…われらがトニー・スタークは健在だ。この「アイアンマン」の素晴らしいところは主人公であるヒーローに何ら特殊能力がない…というだけではない。崇高な正義感も使命感も…品格すらない。人間的なキャパも狭い。そしてどこぞのコウモリ型ヒーローみたいに「人間のダークサイドを持っている」などとスゴむわけでもない。俗悪で人を食った態度で調子のいい男。そんないいかげんな奴だというところが大いに気に入っているのだ。そんな調子のいい奴でなぜ悪い?

みどころ

 そんなトニー・スタークにも悩みもあるしクサりもする。実は結構深刻に悩んでいる。しかし彼はそんな気配を、外には毛ほども見せない。そして酒にうつつを抜かしバカ騒ぎをする。皮肉な冗談ばかり飛ばして虚勢を張る。でも、むしろ「オレは悩んでいるんだぞ」とか「人間的苦悩に満ちてるぞ」と自分で訴えているかのように、やたら深刻な顔ばかりしているどこかのヒーローなんかよりも、彼の悩み方のほうが共感できる。この「アイアンマン」を見ると、改めて他のアメコミ・ヒーロー映画に出てくる連中たちの、シリアスさ、人間味、深み…などと言われているモノの「薄っぺらさ」がハッキリする。眉間にしわ寄せて「悩んでます」なんて、誰でも演じられるしあまりに分かりやすすぎる。バカでもつくれるよ。そんなのでシリアスだなんてチャンチャラおかしい。そういう意味で、独特の皮肉なユーモアでこの役を演じている、ロバート・ダウニー・ジュニアは絶妙。彼の存在があるから、この映画はバカバカしく楽しくもあり、それでいてバカバカしいだけでない大人の映画になっている。ズバリ言って、この映画は一作目以上にダウニー・ジュニアを見るための映画だ。

こうすれば

 むろんミッキー・ロークやスカーレット・ヨハンソンなども加入し、キャスト的には一段とパワーアップしている。しかし彼らはインタビューで「役に深みがあったから引き受けた」とか寝言みたいなことを言っているが、この役のどこに深みがあるんだよ(笑)? そんなものからっきしないし、彼らは単なる彩りでしかない。そして、この映画はそれでいいのだ。ミッキー・ロークはあのコワモテな外見が買われての起用で、それ以上でも以下でもない。それでいいではないか。何でダメなんだ? むしろ役者的なうまみというか深みを求めるならば、僕はこの映画に出ているとは知らなかったサム・ロックウェルを挙げたい。さすがにロックウェルくらいになると、うまさが際だっている。しかし、ロークやヨハンソンは単なるにぎやかしでしかない。まぁ、いいんじゃないですか? そして前作同様サミュエル・L・ジャクソンが意味ありげに登場してきたが、これって今後のマーベル・コミックもの映画を全部つなげるための伏線になっているってホントなんだろうか? 「アイアンマン」なら付き合うが、それ以外のアメコミ映画なんてもうたくさん。いいかげんにしてほしい。他のマーベル映画が次々コケて、そんなバカげた野望が潰え去ることを祈る(笑)。

さいごのひとこと

 個人的にはこのシリーズの軽〜いグウィネスが好き。

 

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