新作映画1000本ノック 2010年5月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「月に囚われた男」 「タイタンの戦い」(ルイ・ルテリエ監督作品) 「ボーダー」(ロバート・デニーロ、アル・パチーノ主演) 「第9地区」

 

「月に囚われた男」

 Moon

Date:2010 / 05 / 31

みるまえ

 この映画のことは、つい最近チラシを見て知った。どう見てもSF映画。主演はサム・ロックウェルと至って地味。お話はタイトルそのまんまみたいで、どうやらほとんどサム・ロックウェルの一人芝居で構成されている作品らしい。これは見たい! たぶん低予算映画なんだろうが、そのあたりも含めてカルトSF映画「サイレント・ランニング」(1972)やら大昔に見て大いに興奮したテレビムービー「恐怖の酷寒地獄/雪山宇宙研究所の謎」(1973)を思わせる、スケールや特撮ではなくアイディアで見せる「本格SF映画」の予感。これは、僕としては見るしかないでしょう。

ないよう

 サム・ベル(サム・ロックウェル)は、巨大企業ルナ産業の従業員。ルナ産業が月面に運営している、エネルギー採掘基地で働いている。もっとも、ここで働く従業員は彼たった一人。3年の間この基地をたった一人で守り、巨大な採掘マシンで自動的に掘り出されたエネルギーを、ロケット・ポッドで地球に向けて発射することが仕事だ。当然、孤独に耐えなければならない。テレビ電話でのリアルタイムの交信も、装置の故障によってままならなくなってしまった。今は時間差で送られてくる録画映像で、何とかやりとりができる状態だ。地球に残した妻と娘の映像を見て、ただただ地球を懐かしむばかり。相手といえば彼に話しかけてくれる人工知能のガーティ(ケビン・スペイシー)がいるが、彼に人間的な暖かさを求めるのは無理というものだろう。そんな精神状態のせいだろうか、サムは最近、何とも妙な幻覚を見るようになっていた。大丈夫、もうちょっとで地球に帰れる。あと2週間。もう少しの辛抱だ。そんなある日、月面車で採掘マシンに溜まったエネルギーを採りに向かったサムは、運転中にまたまた幻覚を見てしまう。一瞬の意識の空白が、彼の判断を鈍らせた。アッと言う間に月面車は横転。サムは月面車の中で意識を失ってしまう。それからどれだけ時間が経ったのだろう。彼は基地内にある医務室のベッドで目が覚めた。何とも意識が混濁し身体がだるいのは、たぶん事故の影響からなんだろうか。ヨロヨロと起き出したサムは、彼の身体を気遣うガーティに止められる。しかしサムは、ひとつだけ奇妙な発見をした。確かに彼の目を盗んで、ガーティが地球の本社と「リアルタイム」の交信をしていたのだ。絶対にあれは「会話」だった。さらにサムが問題の事故現場に舞い戻ろうとすると、ガーティが執拗に止めるのだった。一計を案じたサムはわざと基地内の装置を故障させ、その修理という名目でガーティから外に出る許可をもらう。早速、月面車で自分が事故を起こした現場に向かってみると、そこにはまだ横転した月面車があった。そして…。

みたあと

 正直言って、このからの展開はSF好きなら割と早く想像がつくだろう。ネタとしてはSFとしてはよくあるモノだ。だから意外性だの衝撃の結末だのを期待すると肩すかしかもしれないが、それでも「うまくやったな」と言いたくなる。久々に本格SF映画を見た気分にさせる作品なのだ。実はこの映画を語ろうとしても、うまく語れない。冗舌に語る映画じゃないし、事実語れないのだ。だからこの感想文を書くのにやたら時間がかかってしまったし、時間がかかった割には短くて素っ気ない書き方しか出来てない(笑)。本当に申し訳ないが、これは実物を見ていただかないと何とも言えない映画なのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

 

みどころ

 まずは何からホメればいいだろうか。先にこの映画って低予算ではないか…と書いたが、実際に低予算も低予算。撮影のほとんどは月面基地内の狭いセットで済ませているし、特撮もイマドキ珍しくミニチュア特撮で行っている。しかし、それが貧しく見えてないからスゴイ。というより、この映画の場合はむしろこっちが正解だった。お話が何しろ基本的に室内劇だから、セットがほとんどひとつだけでも貧しくない。ミニチュア特撮だから「質感」が生まれたし…これは僕のような年寄りのファンしか思わないことかもしれないが、1970年代あたりの往年のSF映画みたいな気分が出た。実際に人工知能ガーティを演じているケビン・スペイシーの声を聞いていると、「2001年宇宙の旅」(1968)でのコンピュータHALの声を思い出してしまう。地球からやって来る救援隊が到着する前に主人公が脱出しなくてはならない設定は、「真昼の決闘」(1952)のシチュエーションをSF映画に拝借したピーター・ハイアムズ作品「アウトランド」(1981)を連想させる。そんなこんなでこの監督、かなり過去のSF映画に目配せをしているようなのだが、それが独りよがりな「オマージュ」とやらに陥らないあたりの節度も素晴らしい。これが長編映画監督デビューというダンカン・ジョーンズには脱帽と言いたくなるが、何とこの男ってあのデビッド・ボウイーの息子さんだというから二度ビックリ。普通七光りにロクなものなしと言いたいところだが、こいつだけは違ったのかねぇ。ともかく全編に漂うSF気分といい、サム・ロックウェルのほとんど一人芝居ながらダレない展開といい、低予算なのにチープに見せない力量といい、抜群のアイディアと…だからといって衝撃的なストーリーに依存しないドラマづくりといい、本当にホントに素晴らしい。もっとホメたいのがサム・ロックウェルで、ほとんど彼一人でこの映画を支えている。何がどう素晴らしいかというのは、映画をひと目見れば分かるのでこれ以上は言わないのが花だろう。そして、SFとして素晴らしいし面白い映画だが、それ以上に…自分は誰かに必要とされている「唯一無比」の存在だと思っていたのに…という、何ともやるせない切ない気分が横溢する作品としても身につまされる。僕はすごく個人的な昔の思い出を連想してしまった。SFだ何だって事は抜きにして、こういう気分になった人って結構いるんじゃないだろうか。

こうすれば

 そんなわけで、どこからどう見ても「傑作!」と持ち上げたいこの作品だが、ただひとつ難癖をつけたいとしたら…やっぱりラストだろうか。辛くもロケット・ポッドで基地を脱出した主人公の行く末が、スクリーン上の文字で語られるのだが、何だか昔のテレビ・シリーズ「FBI」の幕切れみたい。その後、主人公は地球に帰還して、すべての悪事は暴かれた…だの何だのって、ちょっとこの映画のエンディングとは違うんじゃないの? 終わりのない地獄、唯一無比でない自分という存在…という重いテーマなのに、何となく「解決」しちゃったみたいな幕切れでいいんだろうか? まぁ、このあたりは好き嫌いがハッキリ見る人によって分かれるところだろうが、僕はちょっと残念に感じた。それでも、ここに至るまでの作品の完璧といっていい魅力には無条件降伏しちゃうのだが…。

おまけ

 主人公が目覚まし時計でアラーム代わりに流している曲が、どこかで聞いたことがある曲だ…とずっと思っていたら、思い出した思い出した! マイケル・J・フォックス主演の「ドク・ハリウッド」(1991)の主題歌で、チェズニー・ホークスが歌っていた「The One And Only」ではないか! 最初は脳天気で妙に明朗な曲を流しているなと思っていたが、それに思い当たったら背筋がゾッとした。何度も何度もこの目覚ましの曲が流れるたびに、「The One And Only」という強烈な皮肉が効いてくる。これも何ともシビアなアイディアだ。ところでこの「ドク・ハリウッド」という作品、見た当時には単なるよくあるコメディ作品…マイケル・J・フォックス主演の毒にも薬にもならない明朗映画という印象だったが、確かオープニング・タイトルのデザインがソウル・バスの作品ではないか。その割には単にクルマが走る道路の路面にスタッフ・キャスト名などの文字がすべるだけの芸のないタイトルだった気がするが…それでもバスの最晩年の作品であることは違いない。また、この作品の監督のマイケル・ケイトン=ジョーンズは、これに先だって全く異なる作品、青春戦争映画「メンフィス・ベル」(1990)を撮っているんだよねぇ。そのへんも、不思議な印象を持っていた作品だった。確か当時そのケイトン=ジョーンズだかフォックスだかがインタビューに答えて、この作品をつくるにあたっての基にしたのがビル・フォーサイス監督の「ローカル・ヒーロー/夢に生きた男」(1983)だと言っていたのも記憶に残っている。当時はこんな単なる明朗ハリウッド・コメディに傑作「ローカル・ヒーロー」を引き合いに出すとは大げさな…と思っていたが、こうなってみると何となくこの「ドク・ハリウッド」、俄然気になる作品になってくるではないか。近々改めて見直したくなってきた。

さいごのひとこと

 さすが「地球に落ちて来た男」の息子だけある。

 

「タイタンの戦い」

(ルイ・ルテリエ監督作品)

 Crash of the Titans

Date:2010 / 05 / 17

みるまえ

 ストップモーション・アニメ特撮映画の第一人者レイ・ハリーハウゼン最後の作品がリメイクされるというニュースは、かなり前から伝わってきていた。しかし、ハリーハウゼン映画はハリーハウゼンのストップモーション・アニメじゃないと意味がない…と、企画そのものに疑問を感じた。おそらくCG時代到来によって新たな付加価値を与えられると踏んでの制作だろうが、この映画をつくらねばならない必然性が感じられない。まぁ、イマドキそんな必然性を、リメイクばやりのハリウッドに求めても意味がないのかもしれないが。ところが予告編が劇場にかかり始めると…な〜るほどこういう手があったか。「アバター」(2009)で一気に娯楽映画のメインストリームに躍り出た「3D」による上映とは考えたもんだ。確かにこういうギミックを使うなら、ハリーハウゼン映画を今に問う必然があるかもしれない。主演まで「アバター」のサム・ワーシントンというのはご愛敬にしても、これならちょっと見たいという気になろうというものだ。

ないよう

 その昔、神々の世界は人間以上にドロドロとしていましたとさ。神々たち自身が権力闘争に明け暮れ、父を殺したゼウス(リーアム・ニーソン)が神々の王として君臨。それに手を貸したゼウスの兄ハデス(レイフ・ファインズ)は、何のことはないゼウスにダマされて冥界の王に。これって聞こえはいいが、早い話が左遷だ。こうして神々の王となったゼウスは人間を創り出し、その信心の力で生きながらえる糧を得ることになった。ところが、神々がこんな調子なところに人間たちも力をつけてきて、徐々に神々への不満が膨れあがる。こうして不信心が神々の目に余るようになり、中には神と一戦を交えようという連中も現れる始末だ。これはそんな時代のお話。ある数奇な運命から人間の王のひとり、アルゴス国王アクリシウス(ジェイソン・フレミング)の后ダナエー(タイン・ステイプルフェルド)とゼウスとの間に生まれた赤ん坊ペルセウスは、そのダナエーと共に木の棺に入れられ海へと流される。それを拾ったのが、船で漁に出ていたスピロス(ピート・ポスルスウェイト)。ダナエーは亡くなっていたが、赤ん坊は生きていた。かくしてペルセウスはスピロスと妻マルマラ(エリザベス・マクガバン)の下で、すくすくと育つのであった。それから幾年月、逞しい青年に成長したペルセウス(サム・ワーシントン)が、スピロス、マルマラ、そして妹たちと船で海に出ていた時、彼の運命を一転する事件に遭遇する。その日の漁の結果も芳しいものではなく、思わずスピロスは神を呪う言葉を吐いた。思えばそれがあの忌まわしい事件の前触れだったのか。たまたま船がゼウスの巨大な石像が建つ岬のすぐそばまで来た時、いきなりその石像が音を立てて崩れ落ちるではないか。神々に反旗を翻したアルゴス国の国王が、その宣戦布告として軍隊に石像を壊させたのだ。しかし、いい気になっていられたのもそこまで。一転にわかにかき曇り、空から飛来した魔物たちに兵士たちは次々殺された。さらにダメ押しのように巨大な魔物が登場。その正体は、あの冥界の王ハデスだ。このハデスの大暴れのあおりを食って、スピロスの船はひっくり返り海中に沈む。どんどん沈んでいく船から辛くもペルセウスは脱出したものの、ほかの家族はみな海の底に沈んでいった。こうしてペルセウスは通りかかった船に助けられ、アルゴス国の都へと連れて行かれる。ちょうどその頃、オリンポスの都では神々がカンカンガクガクの論議を戦わせていた。人間たちの反抗に怒り心頭のゼウス。ほかの神々が慎重になるよう進言しても、まったく聞く耳を持たない。そこに出てきたのが例のハデスだ。ハデスは人間たちを懲らしめる必要があると言い、ゼウスもそれにまんまと乗ってしまう。かくして神々対人間の、無茶な戦いが火ぶたを切ったわけだ。そうとは知らぬアルゴス国の王ケフェウス(ヴィンセント・レーガン)と王妃カシオペア(ポリー・ウォーカー)は意気軒昂。特にカシオペアは調子に乗って神々を侮辱しまくったのが運の尽き。たちまち雲行きが怪しくなり、魔物が王宮に飛び交ったかたたまらない。またまた登場したハデスは兵士たちを蹂躙。調子こいてたカシオペアの生気を吸い取って殺した。愕然とするケフェウス王たちにハデスが突きつけたのは、10日後の日食の日に魔物クラーケンを放って都を破滅させるという宣告。それを逃れる手だてはただ一つ、心優しき王女アンドロメダ(アレクサ・タヴァロス)を生け贄に捧げることだけだ。さらにハデスは、たまたまその場に居合わせたペルセウスを目に留めると、「神の子」であると捨てゼリフを吐いて立ち去った。こうなると、手をこまねいているわけにはいかない。どこからともなく現れた不思議な女イオ(ジェマ・アータートン)は、昔からペルセウスを守ってきた守護神だと自称。状況を打開するには、遙か彼方の地獄山に住む三人の魔女からクラーケン退治法を聞くしかない…と提案する。この魔女たち自体が恐ろしい存在で、とてもじゃないがアッサリ退治法など教えてくれるわけもなさそうだが、ほかに妙案も見つからない。やるしかない。護衛隊の隊長ドラコ(マッツ・ミケルセン)が率いる特命隊に、ペルセウスも志願することになった。ドラコは「神の子だと? こんな漁師に何ができる!」とバカにしたものの、部下の数の少なさと頼りなさからとりあえずペルセウスを連れて行くことにした。そして「神の子」と名指しされたペルセウスも、「オレは神じゃない、人間だ。あくまで人間として戦う!」と言い放つのだったが…。

みたあと

 ハリーハウゼンの元祖「タイタンの戦い」(1981)は、彼の最晩年を飾る作品として珍しく豪華キャストで制作。それまでロクなスターが出演しなかったハリーハウゼン作品だが、これに限ってはゼウスにローレンス・オリビエをはじめ、マギー・スミス、バージェス・メレディスなどのスターたちが出演した。今回、そのゼウス役にリーアム・ニーソンというのは、「ナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女」(2005)のアスランの声をやっているだけあって、ピッタリと言えばピッタリ。お話は…というと、ゼウス率いる神々が結構生臭くってテメエ勝手であるところとか、ペルセウスを巡る大冒険の話で、最後にクラーケンが出てきてカシオペアを救う話…って大まかな展開はそのまんまであるが、実際にはかなり変わっていて別のお話と言っても間違いではない。元々、こういう剣と魔法とスペクタクルの大冒険映画は大好きな方なので、僕はそれだけで楽しめる。そこに3Dという武器が加われば、言うことナシだ。

こうすれば

 サム・ワーシントンが「アバター」と同じ海兵隊カットのヘアスタイルというのも、この人がこれで売ってる以上、まぁどうでもいい。この人が大型映画に見合ったスケール感のある男性スターで、ヘンにクセがないところがいいというのも頷ける。しかし、彼が演じる主人公ペルセウスが、あまりに何も考えていないで動き回るのはいかがなものか。「とにかく身体から動いてしまう」という設定はともかく、「行くぞ!」とか「やるぞ!」とやたら勇ましいのはいいとして、少しは作戦とか戦略とか考えないのかね。あげく、いつもやられっぱなしで犠牲者続出。本人は運がいいのか誰かに助けられているのか知らないが、付き合わされて殺される連中はいい迷惑。「神の力」が使えるにも関わらず、「神に頼りたくない」と頑張っちゃってるおかげで、みんなが無駄死にさせられるってのはどうもいけないんじゃないか。そのくせ都合のいいところでは神の力を使ってるし、その調子の良さは何なのだ。犬死にした奴は死に損じゃないのか。おまけにせっかくクラーケン退治のために多くの犠牲を払って手に入れたメデューサの首を、都に駆けつけたとたんに魔物に盗まれるバカさ加減。オマエ何をやっているんだと腹が立つ。やることなすことドジばかり。とてもじゃないが英雄とは言えないバカっぷりなのだ。脳みそまで筋肉ってのはこのことなのか。オレならこいつの「神の子」って触れ込みも疑うよ。何で立派な奴らや強い奴らが犠牲になって、こいつだけ助かって英雄気取りが出来るのか分からない。っていうか、それってフェアじゃない。やっぱりゼウスのえこひいきじゃないか。あまりに主人公がバカ過ぎて、見ていて素直に楽しめないのだ。これはどう考えても脚本に穴があるとしか言えない。脚本には「イーオン・フラックス」(2005)のフィル・ヘイとマット・マンフレディのコンビが参加しているが、このあたりが元凶か。

みどころ

  それでも、「トランスポーター」(2002)などリュック・ベッソン映画で売り出し、何と「インクレディブル・ハルク」(2008)でハリウッドに上陸したルイ・ルテリエ監督は、サービス満点に次から次へと見せ場をくり出して楽しませてくれる。だから見ていて退屈はしない。ところどころにハリーハウゼンへのオマージュを見せるのも嬉しく、初代「タイタン」にも出てきた巨大なサソリ怪獣が今回も大暴れ。しかし、正直言ってこのサソリの出番があまりに長すぎ、倒しても倒しても出てくるのにはペルセウスだけでなく観客も「またかよ」とゲンナリ。あまりに一本調子にサソリばかり出されてもねえ。そして注目の3D効果だが、これがあんまりパッとしなかったのも残念だ。何でもこの映画の3Dは、元々が3Dとして撮影されていたわけではなく、後からコンピュータ技術で追加されたものだと聞いて納得。どう考えても、3D効果を狙って演出していないようなのだ。それもこれも含めて、ちょっとガッカリというのが正直なところ。

おまけ

 そんな僕が思わず注目したのは、ペルセウスの義理の母親を演じたエリザベス・マクガバン。「普通の人々」(1980)、「ラグタイム」(1981)などで売り出し、決定的だったのは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)の役。ロバート・デニーロと堂々共演していた彼女は、その後もジョン・ヒューズの「結婚の条件」(1988)などでいい味出していた。しかし、なぜか大活躍もそのあたりまで。まったく作品が来なくなり、危うく存在を忘れかけてた。今回もよく見ていないと出ているか出ていないか分からない役で、セリフもいくつもない。久し振りに再会できて嬉しかった反面、ちょっと寂しかったねぇ。

さいごのひとこと

 神でも何でも二代目は使えない。

 

「ボーダー」

(ロバート・デニーロ、アル・パチーノ主演)

 Righteous Kill

Date:2010 / 05 / 10

みるまえ

 突然やってきた大物二人の共演作、ロバート・デニーロとアル・パチーノ。それにしては、迎える世間の空気があまりにひんやりしているのが気にかかる。本来なら超大物の二人だ。しかもこの二人、実質上のがぶり四つの共演はこれが初めてじゃないか? 「ゴッドファーザーPART II」(1974)ではキャスト表に名を連ねたものの、二人が出てくる場面はまったく時系列の異なるシークエンス。マイケル・マンの「ヒート」(1995)は二人の「初共演」が売りの作品だったが、共演している場面はわずかに2シーン程度だったし、それも本当に共演していたかどうか疑わしい。例えば二人がテーブルを挟んで語り合っている場面など、完全にカットの切り返しで構成されて、二人が一緒に同じフレームには入らない。どう考えても別撮りでやったとしか思えないのだ。となると、今回は完全な主役同士の共演。これは本来ならば大事件ではないか。しかし残念なことに、彼らが「大物」然としていたのも今は昔。デニーロは数年前からやたら出演作を増やしたが、いずれも残念な出来栄えばかり。ダコタ・ファニング共演の「ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ」(2005)なんてトホホなシロモノだし、「スターダスト」(2007)なんて決して悪い映画とは思わないけど、昔だったらデニーロが出るような作品じゃないだろう。これらの粗製濫造作品の中には何とエディ・マーフィーとの豪華共演作「ショウタイム」(2002)なんてのもあるけど、これがまた無惨な出来だったのもイヤな予感に拍車をかける。何だか花の見頃が終わった後の共演みたいな印象だったのが、何となく今回のデニーロ&パチーノ共演と通じる気がするからなのだ。対するパチーノはと言えば、「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」(1992)で念願のオスカーを受賞した後は「ご苦労さん」的な雰囲気になったのか、中には「オーシャンズ13」(2007)みたいに作品にカツを入れる出演作もあるものの、ついこの前の主演作「88ミニッツ」(2007)はちょっと寂しい作品だった。そして今回の作品は、その「88ミニッツ」と同じジョン・アヴネットだというからますます不安になる。確かにもうちょっと遅すぎた共演って感じだなぁ。大丈夫なんだろうか?

ないよう

 ニューヨーク市警のベテラン刑事、ターク(ロバート・デニーロ)とルースター(アル・パチーノ)の二人は、公私ともに長年の名コンビだったがその性格は正反対。直情志向型で犯罪者に対する怒りを抑えきれず即キレるタークとは対照的に、ルースターはチェスでも冷静に駒を進める知性派。しかし、だからこそ二人が組めば無類の力を発揮してきた。ところが、そんな二人にある出来事が起きる。ある女の子の惨殺事件で、捜査線上に浮かび上がった一人の男。こいつが犯人だという確信は、タークとルースター二人ともにあった。しかし裁判の結果、この男は無罪。悲嘆に暮れる被害者の母。ほくそ笑む「犯人」にタークの怒りが爆発した。こんな事は絶対に許せない。タークは「証拠」のねつ造を画策。ルースターはそんなタークを最初止めていたものの、彼の熱意に動かされて結局片棒を担ぐ羽目になる。こうして男は刑務所へ。正しい事をした…と思った二人だったが、思えばこの瞬間が「一線を超える」きっかけになったのだろうか。そんなある日、タークとルースターはドラッグディーラーのスパイダー(カーティス・ジャクソン)を捕らえようとして、ついつい「行き過ぎた」行為に及んでしまう。例によってタークが暴走するといういつものパターンで、ルースターがいなければどうなったか分からない。この結果、二人は精神分析医のカウンセリングを受けさせられる羽目になる。その頃、二人のテリトリー内で次々と不審な殺人事件が起きる。殺されるのは、常に札付きの犯罪者。いわば「殺されても仕方ない奴」、否、「殺された方がいい奴」ばかりだ。そして、いずれも法の網の目をくぐり、捕らえられずにいた奴ばかり。その現場には、必ず妙な詩のようなメモが残されていた。一体誰が何のために行っているのか? タークとルースターはこの犯人を必死に追っていたが、犯人は常に彼らの上を行く。焦りを感じた上司のヒンギス(ブライアン・デネヒー)はさらに捜査の強化を図るため、タークとルースターの後輩にあたるペレズ(ジョン・レグイザモ)とライリー(ドニー・ウォールバーグ)を投入。しかし日頃から荒っぽいタークとペレズは折り合いが悪く。二人の間には常に不穏な雰囲気が流れる。それでも捜査を進めていくと、犯人と被害者とは面識があること、犯人が被害者の行動様式を熟知していること…などの共通点が浮かび上がる。ルースターは「犯人は警官だ」と確信。ペレズやライリーも同意した。しかし一人タークだけが、この推論に不快感を示す。さらに被害者たちすべてと接点がある…ということから、ペレズは露骨にタークが犯人であると疑いだした。これにはタークも激怒し、ペレズと激しく対立。そんな苛立ちを恋人の科学捜査官カレン(カーラ・グギーノ)にぶつけずにいられない。ルースターは相棒を庇い、ペレズやライリーに「犯人は奴じゃない!」とキッパリ否定。しかし次々行われる犯行は、ますますタークへの疑惑を増すばかりだった。こうして八方塞がりになったタークだったが…。

みたあと

 デニーロとパチーノの初「本格」共演。これが何年か前ならどれだけ胸が躍ったことだろう。どれだけ話題になったことだろう。ところがこの作品が都内で公開されているのは、銀座の地下にある「ビデオ・スルーぎりぎり」作品専門館とでもいうべきちっちゃい映画館。その映画館そのものは「好き者」を喜ばせる作品を次々上映してくれて大好きな場所なのだが、デニーロ・パチーノ「本格共演」作の上映館としては正直言ってかなり寂しい。で、今となっては「それが現実」と受けとめるしかないのだ。結構有名どころが顔を揃えているこの作品、しかしその佇まいはかなりショボい。どうにもB級感が漂う。例のデニーロとエディ・マーフィー共演作「ショウタイム」にも感じたことだが、いかんせん「遅すぎた」作品となってしまった。いささかトウが立ってから脱いだアイドルみたいな感じで、「今さら」感が強いのだ。しかも「ヒート」みたいなインチキ共演作がなまじっかあるもんだから、「脱ぐ脱ぐ」と言いながら何度もバストトップを隠したインチキ・ヌードを発表した柏原よしえみたいな感じ(笑)。本当に脱いでも、もはや誰も見ないし騒がない(涙)。本来は1970年代から映画を見続けてきた人間なら感涙の涙にむせぶデニーロ・パチーノ共演なのに、この元気のなさはどうしたもんだろうか。それでもやっぱり見てしまうのが、1970年代映画ファンの悲しいサガなのだが(笑)。

 

!!!映画を見てから読んで!!!

 

こうすれば

 犯人探しの映画で、デニーロ・パチーノ共演で、デニーロが限りなく怪しい設定。それでなくても怪しさ満点のデニーロである。「タクシー・ドライバー」(1976)、「アンタッチャブル」(1981)、「エンゼル・ハート」(1987)、「ケープ・フィアー」(1991)、「ザ・ファン」(1996)のデニーロである。これでデニーロが犯人なら、あまりに「まんま」ではないか。この時点で、これは「意外な結末」を迎える作品だということがミエミエ。結果的に、まったく「意外」じゃない展開となることは必至となってしまった。だって「犯人だと思っていた奴が犯人でした」じゃ映画にならない(笑)。だから、一番怪しく描かれているデニーロは犯人なワケがない。で、デニーロ以外の誰が犯人かと考えた場合、デニーロ・パチーノの大型共演が「売り」のこの作品で、誰が犯人になるかは一目瞭然だろう。誰だってジョン・レグイザモやカーラ・グギーノと思うわけがあるまい(笑)。もうこの時点で、作り手のセンスのなさは致命的なのである。そのくせ映画のあちらこちらに、デニーロが犯行を「告白」しているかのようなビデオ映像が挟み込まれる。終盤でその種明かしが行われるとはいえ、アレはちょっと汚い手なんじゃないか。明らかに「反則」だろう。「フライド・グリーン・トマト」(1991)のジョン・アヴネットの演出には、いろいろな意味で疑問が残る。アル・パチーノも「88ミニッツ」といいこの作品といい、アヴネットに捕まったのが運の尽きにならなければいいが。

みどころ

 そんなわけで、謎解き映画としてもスター共演映画としても「残念」な結果となった作品だが、それでもデニーロとパチーノのがぶり四つの共演は見ておくべきだ。若い映画ファンにはどこがありがたいのか分からないだろうが、少なくとも僕らのようなロートル・ファンは見なくちゃ話にならない。これは理屈抜きだ。

さいごのひとこと

 ボーダーって役者として峠を越えちゃったという意味か。

 

「第9地区」

 District 9

Date:2010 / 05 / 10

みるまえ

 今年、人騒がせにもいきなり倍の10本に増えたアカデミー作品賞候補では、当然のことながら例年だったらノミネートの恩恵にありつけなかったであろう作品も何本か見受けられた。作品そのものを見ていないし情報も限られていたので何とも言えないが、おそらく「第9地区」なる作品もその「恩恵」組だろうと思われた。だって、「第9地区」だぜ(笑)? これがエイリアンもののSFらしいこと、ヨハネスブルグを舞台にした風刺SFらしいこと…などの情報を聞けば聞くほど、どう考えてもアカデミー作品賞のイメージに程遠い。かの「ロード・オブ・ザ・リング」三部作のピーター・ジャクソンがプロデュースしているということも知ったが、あいつ元々オタク志向だから、作品内容については何とも言いようがない。かなり評判が高くヒットもしているらしいが、ドサクサに紛れてノミネートされちゃったんだろうなぁ。しかし、「SF」とくれば僕のテリトリー。映画としてもかなりユニークだという評判も聞こえてくる。オスカーがどうのって話はこっちに置いといて、これは見ておかねばならないだろう。

ないよう

 1982年、巨大な宇宙船が南アフリカのヨハネスブルグ上空に現れたことは、誰でもご承知のことと思う。当然、地上では戦々恐々とした状態となり、侵略かはたまた先進文化との遭遇かと侃々諤々。しかし宇宙船は上空に静止したまま動かず、何の反応も見せないまま。業を煮やした当局は、偵察隊を宇宙船の中に潜入させた。すると…不潔で不快な環境の宇宙船内には、衰弱したエイリアンたちがウジャウジャ。どうも宇宙船が故障したまま地球にやって来たようで、食料なども底をついた状態。つまりは「難民」である。仕方なく当局は彼らを地上に降ろし、ヨハネスブルグ市の一角に建設した仮説住宅群に住まわせた。これが「第9地区」である。しかし、言語が異なり貧しいエイリアンたちは、人間たちから白い目で見られるようになる。彼らはその外見から「エビ」と呼ばれ、蔑視される存在となった。こうして「第9地区」内は不潔で貧しい状態のままスラム化し、犯罪の温床として忌み嫌われる場所となっていく。そんな蔑視される存在であるエイリアンたちは行き場のない怒りをぶつけることも多く、「第9地区」周辺ではトラブルが続出。対する人間側もエイリアンたちをますます敵視するようになった。そこで立案されたのが、エイリアンたちの強制移住計画である。新たに彼らを住まわせる「第10地区」はヨハネスブルグ郊外にあり市民と衝突するトラブルは避けられる。こうしてエイリアン管理を委託されていた多国籍軍事企業「マルチ・ナショナル・ユナイテッド(MIU)」社によって、移住計画は粛々と進められていた。その立ち退き作業全般の責任者に任命されたのが、今回の「事件」の中心人物ヴィカス(シャルト・コプリー)だ。彼は献身的で責任感ある社員で、妻は同社有力者の娘。だが、ヴィカス本人は至って平凡な男であった。その日は多くのMIUの兵士たちとともに、ビデオクルーも伴ってヴィカスたち立ち退き要員が「第9地区」に向かう。エイリアンたちにとにかく事情を伝え、立ち退きに同意するというサインをもらってしまう。サインさえもらえばこっちのものだ。普段は人間は一切立ち入らない「第9地区」内。そこでエイリアンたちを説得しようなんて至難の業だ。しかし、もしトラブれば兵士たちの銃にモノを言わせてもらえばいい。ヴィカスはあくまで上機嫌に、淡々と「職務」を遂行していく。彼はあくまで職務に忠実な一社員だ。挙動不審な奴がいれば即尋問。中には危険な武器を所持している者もいる。エイリアンたちの武器はタチが悪いことに、かなりの威力がありながら人間には扱うことができない。彼らが使わなければ作動しないという不思議な構造になっているのだ。どうやら彼らのDNAに反応するということらしいのだが…ともかく武器があるということは不穏な動きに結びつきかねない。それらを出来るだけ押収するというのも、今回の立ち退き作業のもうひとつの目的だった。ところがヴィカスたちが「第9地区」のバラックに次々押し入っている頃、そうしたバラック群の一角で何やら怪しげな作業をしているエイリアンが二人。金属製の小さい容器に、何やら詰め込んでしまい込むではないか。二人はこの容器が人間たちに見つかってしまうことを恐れていたが、生憎とヴィカスたちが彼らのバラックにやって来た。一足先にクリストファー・ジョンソン(ジェイソン・コープ)と称する片方のエイリアンはバラックから抜け出したが、もう片方はヴィカスたちに挙動不審と悟られたため大暴れ。その場で射殺されるハメになる。「何かありそうだ」と踏んだヴィカスは、腕にケガをしながらもバラックの中に進入。隠してある金属製の容器を発見した。しかし、そいつをウッカリ開けたのが運の尽き。勢いよく液体状のモノが噴霧のごとく顔にかかり、ヴィカスは思わずその場に倒れ込んだ。それからというもの、どうにも気分がすぐれないヴィカス。腕の傷は手当してもらい包帯を巻いてもらったものの、断続的な吐き気を抑えきれない。そのうち指の爪がはがれるに至って、ただ事ではないと感じ始めるヴィカス。帰宅すると友人たちが彼の「昇進」を祝ってのサプライズ・パーティを開いてくれていたが、ヴィカスの不快感は消えない。結局その場で倒れて、心配する妻に連れられて病院に担ぎ込まれるハメになる。体調はさらに思わしくない状態になり、明らかに病状は悪化していた。駆けつけた医師は、まずヴィカスの腕の包帯を解き始める。すると、キズついたヴィカスの腕が…いつの間にかエイリアンの「それ」に変化しているではないか!

みたあと

 映画冒頭からドキュメント映像風のつくり。はは〜ん、今回はこれだな。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)や「クローバーフィールド/HAKAISHA」(2008)などと同じ、ドキュメンタリーもどきの疑似リアリズム映像でいくというわけだ。実際のニュース映像なども交えて、本当にヨハネスブルグにエイリアンの宇宙船がやってきたこと、彼ら「難民」の強制移住が行われたこと…が描かれる。なあるほど、ユニークな映画だってのはこれのことだったんだな。平凡な男である主人公ヴィカスが、悪気もなく職務に忠実にエイリアン立ち退きを進めていく。この男のフツーぶりと、そこで行われているエイリアンに対する扱いの酷さ…これが「我々」の姿を描いているのは明らかだ。我々だって悪気はない、ごくごく普通の一市民だ。だがそんな普通の市民が、たぶん知らず知らずに平気で「他者」にはこんな振る舞いをしているはず…。見Kているうちに愕然とさせられるが、残念ながらたぶんそうだろう。この映画は見る前から薄々感じていたように、移民や外国人など「他者」に対する我々「普通の人」の差別意識をリアルに描きだした、「例え話」としてのSF映画だ。そもそもアパルトヘイトで有名になったヨハネスブルグを舞台にしている時点で、それは明らかだ。「他者」に対してかくも傲慢で無神経で無礼で残酷。それを、まったく平凡で善良な主人公が、何も悪びれることなく実行しているあたりが強烈。そして、図らずも自分が「エイリアン化」することによって、主人公もその「差別」を身をもって体験する。この皮肉さ。まぁ、白いのや黒いのから見たら同じ黄色い顔にしか見えない連中だって、その縄張りによってそれぞれ反目したあげく、テメエが正しくて相手が全部悪い、テメエが高級で相手が全部下劣…ってなコキ下ろし合いをいつまで経ってもネチネチとお互いに続けてるんだからデカいことは言えない。それはともかく…徐々にエイリアン化する主人公が身内からも追われて、仕方なく「第9地区」へと侵入。そこで事の発端を作り出したエイリアン=クリストファー・ジョンソンとその息子と再会するあたりから、お話は急展開。クライマックスは意外な大バトル・アクションへと発展するから驚かされる。

みどころ

 先ほどは、僕もさも「良心の人」っぽく「差別意識」がどうのこうの…とか言っていたが、実際この映画の多くの部分がそうした風刺としての面白さで成り立っているのは間違いない。僕はすっかりそうだと思っていたから、終盤のバトル・アクションも「おまけ」的に楽しんでいた。それでも、このお話は一体どうなってしまうんだろう…と見ながら漠然と考えていたら、やってくれるではないですか! お話の前半部分で平凡だが傲慢な俗物ぶりを見せていた主人公…差別されて初めて目が開けてからも、考えることと言えばテメエのことばかり。何かと言うとセコく立ち回り、助けてくれたエイリアンを平気で裏切る狡猾さも見せた。そんなこの男が…最後にすべての希望も消え果てたその時…意外な面を見せるくだりが圧巻だ。今にも兵士に殺されようとするエイリアン。見捨てようと思えば見捨てることだって出来よう。いやいや、つい先ほどまでだったらそれを平気でやったはずだ。ところがいよいよという時、彼はなぜかもうエイリアンを見捨てることができない。葛藤の末にとって返すと、彼は軍人たちをブチ殺して救出する。このくだりを見ていて思い出したのが…全然違う作品内容であり場面ではあるが、ウディ・アレンの小品「ブロードウェイのダニー・ローズ」(1985)。自宅のクリスマス・パーティーにやって来たミア・ファーローを冷たく追い返したウディ・アレンが、葛藤した末に彼女を表まで追いかけ追いかけ、ついに感謝祭のパーティーに誘う一幕。どちらも思わず見ていてグッと来る、まさに珠玉の名場面だ。こうしてバトルスーツに身を包んだ主人公はエイリアンを身を挺して助け、最後の最後にはさらに泣かせるセリフを吐くから憎いではないか。「ここはオレが抑えるからサッサと行け! オレの気が変わらないうちに早くしろ!」…く〜っ、あの情けなくて傲慢で卑怯だった主人公が、最後に一気に「男」になっていい味出しているのである。これこそ、僕の大好きだった1970年代男性アクション映画の味。まさかこの映画でこんな熱いモノを感じるとは。こういうのを僕は映画で見たいんだよねぇ。正直言ってここに至っては、もはや差別意識がどうのとかどうでもいい。実はこの映画って脚本に少々アラがあって、何で主人公がエイリアンの燃料に触れてエイリアン化するのか?…とか、何でエイリアン少年が宇宙船の母船を起動させられたのなら、最初からそうしなかったのか?…とか、結構杜撰な部分も目につく。しかしこの熱いエンディングを見た後は、そんなこともどうでもいい。鉄クズから花を作る主人公…という幕切れも、男の純情を漂わせてますます1970年代男性映画テイスト。いやぁ、いいもん見させてもらったぜ。冒頭は確かに「ブレア・ウィッチ」「クローバーフィールド」系の疑似ドキュメント形態をとっていたものの、途中でそのあたりをグズグズに崩してしまった判断も正解。前述2作品はそのスタイルで注目されたものの、それを全うすることに全力を注いだためにどこか窮屈な印象も拭えなかった。今回の作品はお話を語るよりスタイルを守る方を最優先にするというような、主客転倒に陥らなかったから良かったのだ。ともかく脚本・監督のニール・ブロムカンプの腕前は、いかにもセンスがよさそうな「風刺」ゆえに…ではなく、あくまでこの終盤の「熱さ」に対して評価したい。

おまけ

 誰もが感じることだろうが、人類によるエイリアン(他民族)差別と弾圧、異形の者に変身する主人公、ミリタリズムの徹底的否定、そしてバトル・スーツを使ったアクションが見せ場である点…など、この作品の要素のいくつかが「アバター」(2009)と共通するものであるあたりは極めて興味深い。これは偶然なのか、それとも「時代の空気」とでもいうべきものなのだろうか。そして、作品の原型とでもいうべきものとして指摘したいのが、かつてのSFアクション映画「エイリアン・ネイション」(1988)。グラハム・ベイカー監督、ジェームズ・カーン、マンディ・パティンキン主演のこの作品は、エイリアンが宇宙船でアメリカにやってきて「難民」化するというお話。冒頭から当時のレーガン大統領がエイリアンの受け入れを表明するニュース映像まで出てきてリアリティを出しているのも、今回の作品と共通する点だ。作品としては最終的に普通の相棒モノ刑事アクションの形態となっているものの、間違いなく今回の作品はこの「エイリアン・ネイション」に多くの部分を負っている。そういえば、こちらも1970年代男性アクション映画のテイストをムンムンに漂わせた映画だったことを思い出した。

さいごのひとこと

 主人公はエイリアンでなくて「男」に変身。

 

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