みるまえ
ストップモーション・アニメ特撮映画の第一人者レイ・ハリーハウゼン最後の作品がリメイクされるというニュースは、かなり前から伝わってきていた。しかし、ハリーハウゼン映画はハリーハウゼンのストップモーション・アニメじゃないと意味がない…と、企画そのものに疑問を感じた。おそらくCG時代到来によって新たな付加価値を与えられると踏んでの制作だろうが、この映画をつくらねばならない必然性が感じられない。まぁ、イマドキそんな必然性を、リメイクばやりのハリウッドに求めても意味がないのかもしれないが。ところが予告編が劇場にかかり始めると…な〜るほどこういう手があったか。「アバター」(2009)で一気に娯楽映画のメインストリームに躍り出た「3D」による上映とは考えたもんだ。確かにこういうギミックを使うなら、ハリーハウゼン映画を今に問う必然があるかもしれない。主演まで「アバター」のサム・ワーシントンというのはご愛敬にしても、これならちょっと見たいという気になろうというものだ。
ないよう
その昔、神々の世界は人間以上にドロドロとしていましたとさ。神々たち自身が権力闘争に明け暮れ、父を殺したゼウス(リーアム・ニーソン)が神々の王として君臨。それに手を貸したゼウスの兄ハデス(レイフ・ファインズ)は、何のことはないゼウスにダマされて冥界の王に。これって聞こえはいいが、早い話が左遷だ。こうして神々の王となったゼウスは人間を創り出し、その信心の力で生きながらえる糧を得ることになった。ところが、神々がこんな調子なところに人間たちも力をつけてきて、徐々に神々への不満が膨れあがる。こうして不信心が神々の目に余るようになり、中には神と一戦を交えようという連中も現れる始末だ。これはそんな時代のお話。ある数奇な運命から人間の王のひとり、アルゴス国王アクリシウス(ジェイソン・フレミング)の后ダナエー(タイン・ステイプルフェルド)とゼウスとの間に生まれた赤ん坊ペルセウスは、そのダナエーと共に木の棺に入れられ海へと流される。それを拾ったのが、船で漁に出ていたスピロス(ピート・ポスルスウェイト)。ダナエーは亡くなっていたが、赤ん坊は生きていた。かくしてペルセウスはスピロスと妻マルマラ(エリザベス・マクガバン)の下で、すくすくと育つのであった。それから幾年月、逞しい青年に成長したペルセウス(サム・ワーシントン)が、スピロス、マルマラ、そして妹たちと船で海に出ていた時、彼の運命を一転する事件に遭遇する。その日の漁の結果も芳しいものではなく、思わずスピロスは神を呪う言葉を吐いた。思えばそれがあの忌まわしい事件の前触れだったのか。たまたま船がゼウスの巨大な石像が建つ岬のすぐそばまで来た時、いきなりその石像が音を立てて崩れ落ちるではないか。神々に反旗を翻したアルゴス国の国王が、その宣戦布告として軍隊に石像を壊させたのだ。しかし、いい気になっていられたのもそこまで。一転にわかにかき曇り、空から飛来した魔物たちに兵士たちは次々殺された。さらにダメ押しのように巨大な魔物が登場。その正体は、あの冥界の王ハデスだ。このハデスの大暴れのあおりを食って、スピロスの船はひっくり返り海中に沈む。どんどん沈んでいく船から辛くもペルセウスは脱出したものの、ほかの家族はみな海の底に沈んでいった。こうしてペルセウスは通りかかった船に助けられ、アルゴス国の都へと連れて行かれる。ちょうどその頃、オリンポスの都では神々がカンカンガクガクの論議を戦わせていた。人間たちの反抗に怒り心頭のゼウス。ほかの神々が慎重になるよう進言しても、まったく聞く耳を持たない。そこに出てきたのが例のハデスだ。ハデスは人間たちを懲らしめる必要があると言い、ゼウスもそれにまんまと乗ってしまう。かくして神々対人間の、無茶な戦いが火ぶたを切ったわけだ。そうとは知らぬアルゴス国の王ケフェウス(ヴィンセント・レーガン)と王妃カシオペア(ポリー・ウォーカー)は意気軒昂。特にカシオペアは調子に乗って神々を侮辱しまくったのが運の尽き。たちまち雲行きが怪しくなり、魔物が王宮に飛び交ったかたたまらない。またまた登場したハデスは兵士たちを蹂躙。調子こいてたカシオペアの生気を吸い取って殺した。愕然とするケフェウス王たちにハデスが突きつけたのは、10日後の日食の日に魔物クラーケンを放って都を破滅させるという宣告。それを逃れる手だてはただ一つ、心優しき王女アンドロメダ(アレクサ・タヴァロス)を生け贄に捧げることだけだ。さらにハデスは、たまたまその場に居合わせたペルセウスを目に留めると、「神の子」であると捨てゼリフを吐いて立ち去った。こうなると、手をこまねいているわけにはいかない。どこからともなく現れた不思議な女イオ(ジェマ・アータートン)は、昔からペルセウスを守ってきた守護神だと自称。状況を打開するには、遙か彼方の地獄山に住む三人の魔女からクラーケン退治法を聞くしかない…と提案する。この魔女たち自体が恐ろしい存在で、とてもじゃないがアッサリ退治法など教えてくれるわけもなさそうだが、ほかに妙案も見つからない。やるしかない。護衛隊の隊長ドラコ(マッツ・ミケルセン)が率いる特命隊に、ペルセウスも志願することになった。ドラコは「神の子だと? こんな漁師に何ができる!」とバカにしたものの、部下の数の少なさと頼りなさからとりあえずペルセウスを連れて行くことにした。そして「神の子」と名指しされたペルセウスも、「オレは神じゃない、人間だ。あくまで人間として戦う!」と言い放つのだったが…。
みたあと
ハリーハウゼンの元祖「タイタンの戦い」(1981)は、彼の最晩年を飾る作品として珍しく豪華キャストで制作。それまでロクなスターが出演しなかったハリーハウゼン作品だが、これに限ってはゼウスにローレンス・オリビエをはじめ、マギー・スミス、バージェス・メレディスなどのスターたちが出演した。今回、そのゼウス役にリーアム・ニーソンというのは、「ナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女」(2005)のアスランの声をやっているだけあって、ピッタリと言えばピッタリ。お話は…というと、ゼウス率いる神々が結構生臭くってテメエ勝手であるところとか、ペルセウスを巡る大冒険の話で、最後にクラーケンが出てきてカシオペアを救う話…って大まかな展開はそのまんまであるが、実際にはかなり変わっていて別のお話と言っても間違いではない。元々、こういう剣と魔法とスペクタクルの大冒険映画は大好きな方なので、僕はそれだけで楽しめる。そこに3Dという武器が加われば、言うことナシだ。
こうすれば
サム・ワーシントンが「アバター」と同じ海兵隊カットのヘアスタイルというのも、この人がこれで売ってる以上、まぁどうでもいい。この人が大型映画に見合ったスケール感のある男性スターで、ヘンにクセがないところがいいというのも頷ける。しかし、彼が演じる主人公ペルセウスが、あまりに何も考えていないで動き回るのはいかがなものか。「とにかく身体から動いてしまう」という設定はともかく、「行くぞ!」とか「やるぞ!」とやたら勇ましいのはいいとして、少しは作戦とか戦略とか考えないのかね。あげく、いつもやられっぱなしで犠牲者続出。本人は運がいいのか誰かに助けられているのか知らないが、付き合わされて殺される連中はいい迷惑。「神の力」が使えるにも関わらず、「神に頼りたくない」と頑張っちゃってるおかげで、みんなが無駄死にさせられるってのはどうもいけないんじゃないか。そのくせ都合のいいところでは神の力を使ってるし、その調子の良さは何なのだ。犬死にした奴は死に損じゃないのか。おまけにせっかくクラーケン退治のために多くの犠牲を払って手に入れたメデューサの首を、都に駆けつけたとたんに魔物に盗まれるバカさ加減。オマエ何をやっているんだと腹が立つ。やることなすことドジばかり。とてもじゃないが英雄とは言えないバカっぷりなのだ。脳みそまで筋肉ってのはこのことなのか。オレならこいつの「神の子」って触れ込みも疑うよ。何で立派な奴らや強い奴らが犠牲になって、こいつだけ助かって英雄気取りが出来るのか分からない。っていうか、それってフェアじゃない。やっぱりゼウスのえこひいきじゃないか。あまりに主人公がバカ過ぎて、見ていて素直に楽しめないのだ。これはどう考えても脚本に穴があるとしか言えない。脚本には「イーオン・フラックス」(2005)のフィル・ヘイとマット・マンフレディのコンビが参加しているが、このあたりが元凶か。
みどころ
それでも、「トランスポーター」(2002)などリュック・ベッソン映画で売り出し、何と「インクレディブル・ハルク」(2008)でハリウッドに上陸したルイ・ルテリエ監督は、サービス満点に次から次へと見せ場をくり出して楽しませてくれる。だから見ていて退屈はしない。ところどころにハリーハウゼンへのオマージュを見せるのも嬉しく、初代「タイタン」にも出てきた巨大なサソリ怪獣が今回も大暴れ。しかし、正直言ってこのサソリの出番があまりに長すぎ、倒しても倒しても出てくるのにはペルセウスだけでなく観客も「またかよ」とゲンナリ。あまりに一本調子にサソリばかり出されてもねえ。そして注目の3D効果だが、これがあんまりパッとしなかったのも残念だ。何でもこの映画の3Dは、元々が3Dとして撮影されていたわけではなく、後からコンピュータ技術で追加されたものだと聞いて納得。どう考えても、3D効果を狙って演出していないようなのだ。それもこれも含めて、ちょっとガッカリというのが正直なところ。
おまけ
そんな僕が思わず注目したのは、ペルセウスの義理の母親を演じたエリザベス・マクガバン。「普通の人々」(1980)、「ラグタイム」(1981)などで売り出し、決定的だったのは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)の役。ロバート・デニーロと堂々共演していた彼女は、その後もジョン・ヒューズの「結婚の条件」(1988)などでいい味出していた。しかし、なぜか大活躍もそのあたりまで。まったく作品が来なくなり、危うく存在を忘れかけてた。今回もよく見ていないと出ているか出ていないか分からない役で、セリフもいくつもない。久し振りに再会できて嬉しかった反面、ちょっと寂しかったねぇ。
|