「スプリング・フィーバー」

  春風沈酔的晩上 (Spring Fever)

 (2010/12/13)


  

見る前の予想

 あのロウ・イエの新作がやって来た。

 「あの」とわざわざ言うのには理由がある。ロウ・イエといえばふたりの人魚(2000)以来、何ともユニークな作品群を生みだし続けている中国の映画作家だが、前作天安門、恋人たち(2006)においては、中国の「鬼門」である天安門事件と大胆なセックス・シーンを扱ったとのことで、当局に睨まれて国内で映画が撮れなくなってしまった…と聞く。

 昨今アレコレと評判の悪い例の国だが、巷で取りざたされている政治的なことはさておき、僕にとっては何よりこのロウ・イエの件とラスト、コーション(2007)のニュー・ヒロインであるタン・ウェイがイビられてるという点で、中国共産党は絶対に許せない。「ふたりの人魚」で最初にシビれて、チャン・ツィイーと仲村トオルが主演のパープル・バタフライ(2003)にまたまた惚れ込んじゃったあげく、テレビ用に初期の習作で「らしくない」スリラー映画危情少女 嵐嵐(2003)まで見ちゃった僕としては、そのフィルモグラフィーの中でも最高峰と言える「天安門、恋人たち」で処罰を下すとは言語道断。片や北京オリンピックの開会式演出で極彩色のチンドン屋と化したチャン・イーモウをあれほど持ち上げて、この素晴らしいロイ・イエに映画を撮らせないなんて、まったく考えられない。

 そもそも「天安門、恋人たち」は、天安門事件を扱った政治的映画なんかじゃない。青春の熱気がその後も冷めやらずに、ずっと尾を引いて人生を左右してしまうことになる男女の物語だ。天安門事件は、その中で単に「青春の一時のお祭り」として出てくるだけだ。登場人物も含めて、たぶん政治的な意味などほどんどない。そしていい歳して青春の熱気をいつまでも引きずって大人になってしまった人など、僕らの中にもいっぱいいる。…というより、それが「僕ら」ではないだろうか。あの時の熱気が忘れられず、それがアダとなっていつまで経っても大人としての現実社会と折り合いがなかなかつかない…そんな奴は中国だけでなく、全世界的にいっぱいいるんじゃないだろうか。そんな映画を処罰して、中国共産党は何かトクすることでもあるのだろうか。ハッキリ言ってあいつら何にも分かっていない。ロウ・イエこそレア・アース以上に中国が誇るべき財産なのに、一体何を考えているのか。

 そんなわけで非常に腹立たしく思っていたが、それと同時にしばらくはロウ・イエの新作にはお目にかかれないだろうと僕は覚悟していた。そこへこの新作である。驚いた。そして、まったく懲りてないロウ・イエの予想以上に早い復活を、わが事のように喜んだ。

 これはもう、見るしかないだろう。僕ができる彼への支援は、たったそれだけだ。

 

あらすじ

 蓮の花が水槽に浮かんで揺れている。

 天気が悪い。雨が降り出している。二人の男がクルマに乗って、郊外の人けのない小屋へとやって来る。その二人の男…ジャン・チョン(チン・ハオ)とワン・ピン(ウー・ウェイ)は、殺風景な小屋の中で服を脱ぎ、激しく抱き合った。二人は人目をはばかる同性の恋人たちだったのだ。

 ところがそんな二人を秘かにつけていた男が一人。その男…ルオ・ハイタオ(チェン・スーチョン)は繁華街である女と落ち合い、携帯で撮影した密会の様子を見せた。

 この女は教師として働くリン・シュエ(ジャン・ジャーチー)。ワンの妻だ。彼女は女の第六感で、夫が不倫に溺れていることに気づいた。そこで、探偵として働くルオを雇って夫を探らせていた。結果は図星というわけだ。それでも彼女はルオに調査の続行を頼み、「決定的」な事実をつかむまで黙っていることにした。

 そんなルオにはリー・ジン(タン・ジュオ)という若い女友だちがいた。彼女のことをガールフレンドといっていいのか恋人といっていいのか。ともかく久々に会えば彼女と激しく抱き合い、欲望を発散させるルオだった。

 そしてリー・ジンにはリー・ジンで、ルオの知らない私生活の「顔」があった。彼女は紛い物ブランドの縫製品をつくる工場で働いていたが、そこの工場長(チャン・ソンウェン)と「深い仲」になっていて、それなりの便宜を図ってもらっているのだった。それは彼女にとって単に損得づくの関係なのか、それともそれ以上の何かがあるのか。

 ルオの調査はさらに続き、ジャンが旅行代理店で働いていることまで突き止めた。

 そんなこととはツユ知らず、ジャン・チョンとワン・ピンの仲はいよいよ大胆さを増して、ワンの妻の留守中に家で密会するというテイタラク。さらにワンは「公然と会えるようになるから」との理由で、ジャンを妻リンに「旧友」として会わせるところまでエスカレート。その時の雰囲気からジャンはイヤな予感を覚えたが、ワンはまったく意に介さない。

 しかし、当然のことながらそんなに都合のイイことは続かない。ワンは妻リンの携帯を見て、自分の浮気調査が行われていた事を知る。調子に乗ってこれを責めたワンだったが、それは逆ギレ以外の何者でもない。すぐに「私を責められる立場なの?」と猛反撃され、思わずリンの顔をひっぱたくワン。だが、それで済むわけがない。皿を落として割る、大暴れする、おまけにワンを罵倒する。これにタジタジとなったワンは、居たたまれずに家を出るしかない。

 さらに勢いがついたリンは、ジャンが働いている旅行代理店に突撃。机の上の書類やパンフをブチまけるだけでは飽きたらず、同僚の前で彼を罵倒しまくってすべてを白日の下にさらすに及んだ。これにはクールなジャンもさすがに嫌気が差した。

 ジャンの携帯に、ワンからの連絡が入る。会いたい、二人でどこかへ行きたい…と懇願するワンだが、今となってはワンに関わるすべてがイヤだった。そんなワンのことを無視すると、ジャンは彼と付き合いだしてからご無沙汰だったゲイのショーパブに乗り込む。そこで女装の歌姫として大歓声に迎えられる彼は、久々にイキイキしたような顔を見せた

 しかしそんなジャンの様子を、あの探偵ルオがじっと見つめていたことを彼は知らない。果たしてルオがいまだにジャンを追いかけているのは、調査対象への使命感なのか単なる好奇心か、それともそれ以上の何かの感情からなのか

 一方、工場で働くリー・ジンの日常にも、大きな変化が訪れた。工場が公安の手入れを受けて、経営上の不正を行っていたことがバレてしまった。リー・ジンは逃がしてもらって事なきを得たが、工場長はそのまま逮捕されてしまう。

 ジャンは例のトラブル後は夜な夜なショーパブやバーに入り浸り、店から店へとハシゴ酒。そんなジャンを、ルオはひたすら見守り続けていた。ワンからはひっきりなしに連絡が入っていたが、ジャンはもう一切取り合おうとしない。そんな面倒な日常を忘れようと刹那的気分になったのか、ジャンはますます夜遊びに精を出す。

 そんな酔いどれたある店で、ジャンは些細なことから別の客とトラブルになる。あわや殴り合い…というその最中、割って入ったのはルオだった

 そしてジャンを連れて店から飛び出し、一緒に夜の街へと逃げるルオ。こうしてひょんな事から一緒に行動することになったジャンとルオは、当然のように宿で同じ部屋に泊まることになる。

 しかしルオの緊張しきった様子を察知したジャンは、「行為」に及ぶことなく部屋を去った。

 それでも、ジャンとルオの縁は切れない。まるで旧知の仲のように、ジャンの部屋を貸してくれと頼み込むルオ。おまけに行き場がなくなったリー・ジンまでが、この部屋に転がり込むというテイタラク。

 そんなリー・ジンは、逮捕された工場長を釈放させようと彼の側近に頼み込む。しかし状況が一変すると、それまでペコペコしていた周囲の人間は実に冷たい。誰も工場長のためになかなか動こうとしない。そこでリー・ジンは工場長への義理を感じたのか、それとも何らかの感情が動いたのか、この側近に「ある行為」と引き替えに工場長釈放へと動いてもらおうとする

 ちょうどその頃、キレた妻には罵倒され愛するジャンには愛想尽かしれたワンは、一旦誰もいないわが家に戻ったものの、再び外へと出掛けていった。行き場をなくして絶望感に打ちひしがれたワンは、手にカミソリを持ったまま、たった一人夜明けの公園のベンチに佇んでいた…。

 

見た後での感想

 今までの作品も大好きだったから、今回のロウ・イエの新作も当然期待していた。

 特に前作「天安門、恋人たち」の身につまされ方たるや、尋常なものではなかった。あの熱に浮かされたような青春の日々の描き方と、それが一気に冷めてしまった失望感…ともシラケともつかない宙ぶらりんな感じ。さらに、それでも「あの日々」の熱気が忘れられず、その副作用を患ったまま居心地の悪い「現実」の生活を生きていく…という映画の後半部分。どこを切っても、まるで自分のことを言われているような感じ。これは、まさに「僕のための映画」だ。

 …というか、僕らの世代の人間は、誰でも少なからずあんな感情を抱いて生きているのではないだろうか? 僕らは当然「天安門事件」を自分のこととして体験した訳ではないし、それどころか自国でかつて起こった学園紛争の類とも無縁だ。しかし、あの作品に描かれていた「感情」には、いつかどこかで見た覚えがあった。青春の「祭り」がいつまでも続くような錯覚を抱いて、それが虚しく終わってしまった幻滅を味わいつつ、どこか「終わった」ことを実感できないままズルズル生きているという踏ん切りのつかない気持ち…。国も時代も違うのに、そこに尋常ではない「実感」が籠もっていたから、僕はあの作品を熱烈に支持したのだった。

 だから当然、今回の新作も期待していた。ただし…正直言って、そこにひとかけらの不安材料もないと言えばウソになる

 ひとつには、ゲイ・カップルのスッタモンダとそれに関わってしまった男女のお話…という、何となく発展性がなさそうな設定が引っかかっていた。

 今までのロイ・イエ作品だって、例えばアバター(2009)やエクスペンダブルズ(2010)みたいに楽しめる映画ってわけじゃない。いわゆる気分爽快…とか、そういう分かりやすい類の面白さを持った作品ってわけじゃない。しかし例えば出世作の「ふたりの人魚」にしても現実と幻想が交錯するような面白さがあったし、「パープル・バタフライ」や「天安門、恋人たち」にはそれぞれ程度の差こそあれ「時代」と対峙している部分があって、それなりのスケール感があった。それでロウ・イエ作品は、ちっちゃくて狭苦しい映画とは見えなかったのだ。

 だが今回の映画の設定だけ見ると、何人かの男と男、男と女がくっついたり離れたりってお話をコチョコチョやってるだけで、いかんせんスケールのちっちゃい話って印象が拭えない。これで監督がロウ・イエじゃなけりゃ、いささか腰が退けちゃうのが正直なところだ。

 そしてもうひとつには、この作品が家庭用デジタルビデオ・カメラで撮影されたというところも気になった。

 イマドキ映画をデジタルビデオで撮影するなんてことは、あっちこっちで行われていてビックリするほどの話ではない。プロ用機材でなくて家庭用カメラで撮影するという話も、まったく聞かないことはない。しかし正直言って、僕はデジタルビデオ・カメラで撮影されたという映画で、ほとんどロクな作品を見たことがないのだ。

 例えばデビッド・リンチのインランド・エンパイア(2006)を挙げてもいい。あるいはラース・フォン・トリヤーが提唱した「ドグマ」関連の作品でもいい。一番ひどかったのはマイク・フィギスの「HOTEL」(2001)という作品や10ミニッツ・オールダー/イデアの森(2003)の中の挿話など…うまくいったものはないとは言わないが、かなりの確率で残念な結果に終わっている。その理由はどこにあるのか定かではないが、あえて指摘するなら…家庭用ビデオを手に持ったとたん、プロも思わず変なアマチュアリズムに陥ってしまうというようなことがあるのだろうか。それが許されちゃうと勘違いしちゃうのだろうか。作ってる連中は面白いのかもしれないが、見ているこっちはちっとも面白くないのにダラダラダラダラ。とにかくマスターベーション的作品、自己満足的作品をこさえてしまう可能性が高い。

 ロウ・イエが今回、家庭用デジタルビデオ・カメラを使用したのが、表現上の狙いなのか、それとも経済的な問題なのかは分からないが…ともかく前述したチマッと狭い作品世界にこのデジタルビデオ・カメラ使用という条件も重なって、見ていて面白みのない自己満足的作品に陥る危険性はかなり高まったように思える。

 ところが…結論から言ってしまおう…今回も傑作だった!

 しかも、ロウ・イエ作品として、さらに前作よりも深みを増した。例えば「ふたりの人魚」「パープル・バタフライ」について言えば、好きな映画であり良くできた映画だと思うが、ある意味で「作ってる」感じが透けて見える技巧的な作品でもあった。

 それが前作「天安門、恋人たち」からは、そんな技巧的なモノが画面から見えなくなった。「いい」と感じてもどこが具体的にいいのか非常に指摘しにくくなったのだが、同時に確実に作品としての「深み」は増していたのである。

 その傾向は、今回さらに強まった。

 よりリアルに、より身につまされてしまう映画。今回の作品は明らかにロウ・イエ作品として「天安門、恋人たち」以降のスタイル、あの延長線上にある。そしてその「効き目」は、前作をハッキリ超えている。前作が「僕のための映画」である以上に、今回の作品もますます「僕のために作られた映画」なのだ。

 そして僕にとってダメ映画の代名詞みたいなもんだった、デジタルビデオ・カメラ映像がバッチリ活かされている。意外にも…というか、今ではデジタルビデオで撮ってもこんなにキレイなんだ…と驚かされる、キメ細やかな映像。ハンディカメラで身軽になったことから、登場人物たちをリアルにイキイキと描くことに成功している。

 かといって、この手の映画にありがちな「ドキュメンタリー」っぽい手法というわけではない。例えば…夜のショーパブやバーなどを描く手つきは、一見、近年のホウ・シャオシェン映画…例えばミレニアム・マンボ(2001)などのクラブやらカラオケやらの場面を連想させもするが、ホウ・シャオシェン映画ほどそれらをことさらに生々しく描こうというわけでもない。小規模の機材でリアル感重視で描くというやり方から、一連のエリック・ロメール映画やらロメールに影響を受けた気まぐれな唇(2002)などの韓国のホン・サンス監督の作品と似ているような気もチラリとするが、「こんな感じ分かる」と見ている僕らに感じさせはするものの、ロメールやホン・サンスのようにことさらに自然さを狙っているわけではない。吐息やノイズまで漏らさずサウンドトラックに収録してまで、自然さにこだわろうという訳でもない。

 ロウ・イエの映画はどんなにリアルな肌触りを持っていても、あくまで作り手が作った劇映画としての感触は残しているのだ。

 それでは、なぜ家庭用デジタルビデオ・カメラを撮影機材として選択したのか?

 そして家庭用デジタルビデオ・カメラを使用した他の作品と比べて、なぜ見事な成果を挙げることができたのか?

 

不安定に移ろう人間の感情をとらえるために

 これらの問いにキッチリと答えるのは、正直言ってかなり難しい。一見無造作に撮影された素材をつないだだけ…に見えるこの作品の構成からは、こうした表現方法を選択するに至った理由が分かりづらいのだ。何となくデジタルビデオ・カメラの方が、手軽に安価でサクサク制作が進められるから…という、非常に単純かつ分かりやすい理由で選択されたようにも見える。

 しかしそんな中でもあえて家庭用デジタルビデオ・カメラを使った意図を探るなら、おそらくそれはフラフラと移ろいゆく人々のつながり、その人々の気持ちや思いの不安定さや掴み所のなさを表現するために、ハンディ・カメラの身軽さを選択したのではないだろうかと思う。そんなハッキリしない「感じ」、揺らいでいる「感じ」を表現するため、手で持ってさりげなく撮れる家庭用ビデオカメラが選択されたように思えるのだ。

 それは、この映画の設定とストーリーからも感じられる。

 この映画には、主人公がいないわけではない。一応主人公らしき人々は何人かいて、ストーリーも単純で分かりやすい。しかしこの作品を最初見始めた時には、誰が主人公なのか分からないので少し戸惑う

 二人の恋人同士の男がいて、彼らを追っている探偵の男がいて、その探偵には付き合っている若い女がいて、恋人同士の二人の男はうまくいかなくなって、そこに探偵の男がなぜか割り込んで…と人間関係はコロコロと急転カメラが追っていく人物が「しりとり」的に次から次へと移っていく手法もさることながら、そこで見つめられる登場人物の内面の思いそのものも「移って」いく。誰が誰と関係を持って、誰が誰を愛しているのか…誰もが二面性を持ちつつ誰もがその思いを向ける相手を徐々にスライドさせていく。

 ちょっと古い堅い考え方で言えば、彼らはある意味「気が多い」とも「ケツが軽い」とも言えるかもしれない。あるいは「いいかげん」だとも。実際に我々の身近でこういう連中がいたら、「だらしねえ」奴らだと言われるかもしれない。というか、オレだってそう思うだろうな。そう言われても仕方ない。

 だがその一方で、こと恋愛沙汰について言えば、人間なんてみんなこんなもの…という気もするのだ。

 一応、社会的にも一般的にも、また仲間内の仁義からいっても、それなりのルールというか倫理観というか貞操観念というか、そんな「しがらみ」みたいなモノは誰しもが分かっているし持ってもいる。しかし人はそれをしばしばハミ出してしまうし、何だかんだ言っても「何でもアリ」ということになってしまう。結婚した人間でも、そのあたりをハミ出してしまうのは珍しいことじゃない。実際、ヤバイ目にあった知人は数多く知っているし、それで家庭を破綻させてしまった奴だっている。色恋沙汰というものは、そういうモノだ。

 この映画は、そんな色恋沙汰の「リアル」をうまくすくい取っている。

 恋仲になった男との間でトラブルが起きたとたん、面倒くさくなり嫌気が差して相手を放置してしまう男。彼はすぐに新しく現れた相手とくっつくが、放置した男が自殺を図ったと聞けば、あれだけ「ウザい」と冷たく突き放したくせに号泣せざるを得ない。結局、後になっても彼の心の中には、自殺した男の面影が残っていたりする。

 その他にも、付き合っている女がいながら男に惹かれていく探偵の男とか、付き合っている男がいながら工場長に身を任せていた女とか、その女が工場長とは計算づくの付き合いと思いきやどこか情の部分もあったり…とか、この映画に出てくる男女の恋愛感情(単に欲望の関係だけかもしれないが)は、どうも掴み所のない曖昧さに包まれていて、なおかつ次から次へと移ろうものとして描かれている。

 あるいは、移ろうものだと思っていたら、意外にも…本人さえ驚くくらいに…内面に色濃く巣くっていたりする。忘れていたつもりになっていたのに、ある時、ヒョッコリ顔を出したりする。

 で、実際のところ、人間の感情なんてそんなものなのだ。

 それこそ先ほど言ったように、社会的、一般的、仲間内の仁義みたいなものの枠の中で、それなりのルールとか倫理観とか貞操観念とか、あるいは結婚制度みたいなモノを守って僕らは暮らしているけれど、こと色恋沙汰ってモノについてはその枠を時々飛び越えてしまうことが少なくない。何とかそれらの枠と帳尻を合わせてやってはいるものの、時には大きくハミ出してしまうことだってあるのだ。

 そして気持ちがコロコロと変わってしまい、移ろってしまうのも、これまた仕方のないことなのだ。この前あんな風に言っていたのに、何で?…と言ってみたところで、「この前」は「この前」、「今」は「今」だ。それらを後づけの理由でもっともらしく説明することはできるだろうし、実際多くの人々は実生活でそのようにやっているのだろうが、彼らの心の中で起きている本当のところを説明することなんて出来ない。そしてそれらは、理性や計算や何らかの利害と関係がないとは言い難いが、それだけをとって説明することもできない。そんな矛盾した説明のつかない心の動きが、こと色恋沙汰には付きまとうのだ。

 そんな感情の風向きの激しくも微妙な変化、あるいは最大瞬間風速のような変化を、この映画では実に細やかに見せていく。

 なぜ男が自分の相手を突然冷たく放置したのか、なぜ旅行に同行した若い女が突然消えてしまったのか…その理由を問うてみても仕方がない。ましてや責めてみたって始まらない。ただ、その時の正直な気持ちはそうだった…としか言いようがない。それが人間というものなのである。

 僕はどちらかというと杓子定規な人間なので、何とか自分をさまざまなルールや枠に合わせようと頑張る。そして、周囲の人もそうしているものだと思っていた。しかし周囲の人々は、必ずしもそうではなさそうだ。かくして僕は常にそういう人々の移ろう思いに翻弄され、とにかく痛い目に遭ってきた。だからこそ、人の思いは掴み所がなく曖昧で移ろいやすいものだと痛感している。もっと突っ込んで言えば、そういうのには懲りていると言うべきだろう。

 そんな掴み所がなく移ろいやすい人の感情やら関係性を捕らえるには、定点観測みたいなやり方ではうまくいかない。それゆえの、デジタルビデオ・カメラのハンディ撮影だったということではないだろうか。特にオートフォーカス機能を十二分に活かした機動力抜群の撮影というあたり、そういう瞬間瞬間の微妙な人間関係の揺らぎ、移ろいを的確に記録したい…という、作り手の意志が強く感じられるのではないか。

 そういう意味で、一見行き当たりバッタリで矛盾している主人公たちの言動「だけ」を追っていたら、先に僕が述べたように「気が多い」とも「ケツが軽い」とも「いいかげん」とも「だらしねえ」とも言えるだろうし、実際そう言われても仕方がない。矛盾しているとしか言いようがない。しかし、その「矛盾」こそが人間なのである

 そしてそんな「矛盾」をそのまま投げ出したら分かりにくくなってしまったかもしれないが、この映画ではそこに何らかの意味づけを与える素材として、文芸作品などから引用したフレーズが映画中に時々投げ込まれる。

 これらはかつての中国の作家が書いた小説の一節などいろいろな作品から採られ、ある時は恋人同士の男たちのピロートークとして朗読され、ある時は主人公のナレーションとして挿入される。いずれも既存の作品などから採られたものなので、当然のことながら映画のシチュエーションとピッタリハマっている訳ではない。しかしどこか重なる雰囲気も漂っていて、物語と「付かず離れず」な微妙な位置づけで存在しているのだ。それがこの映画における登場人物たちの説明のつかない不安定で揺らぎやすい感情を、「説明」としてでなく「表現上のスタイル」として見る者に見事に伝えている。

 それらの中でも僕が特に感銘を受けたのは、映画も後半の頃に出てくるあるフレーズ。劇場用パンフによると、それは中国宋代の歌妓が書いた詩の一節とのこと。主人公の一人ジャンというゲイの男がかつての「恋人」の妻に刺された後の場面で、彼自身の独白というかたちで登場するフレーズだ。

 好きで浮き世を漂うにあらず

 すべて宿命にも似たり

 そのフレーズを映画から受け取ったとたん、僕はいきなり胸をわしづかみにされたような感覚に囚われた。それこそ、僕がここ最近何となく感じていながら、的確に伝えるためのカタチを見出しかねていた「言葉」ではないか。

 この言葉を、僕はずっと探していたのだ。

 

好きで浮き世を漂うにあらず

 先ほど僕は、自分を「どちらかというと杓子定規な人間なので、何とか自分をさまざまなルールや枠に合わせようと頑張る」…と語った。さらに「僕は常にそういう人々の移ろう思いに翻弄され、とにかく痛い目に遭ってきた」…とも語ってきた。「そういうのには懲りている」…とすら言い切った。それにはまったくウソはない。

 しかしここ最近、そんな僕も自分が「杓子定規」かどうか怪しいような状況に巻き込まれている。

 うまく説明することは困難だ。そもそも不安定で移ろう気持ちを、うまく説明するなんて出来るわけがないだろう。自分の気持ちを「筋道を立てて説明しろ」と言われたって出来ない。「理由を合理的に言え」と言われたって無理だ。自分だって自分が何を考えて、どうしたいのかが分からない。その瞬間瞬間なら答えられるだろうが、それらが常にスジが通っているかというと、甚だ危ういとしか言えないのだ。

 途中までは、僕も自分の気持ちをちゃんと捕らえていられたし、自分のしたいことが分かっていた。僕は何だってキッチリ筋道を立てる主義だし、キッチリとけじめを付けて生きていくのが流儀だ。それがある時点で思うようにならなくなったというのは、正直言って僕が望んだことではない。僕にとっては青天の霹靂、不幸な事故としか思えない出来事だった。後もうちょっとで何か意味のあるモノが手に入ると思っていただけに、これには落胆した。

 しかし、しょうがないとも思った。

 人生思ったようにいかない…なんてことは、これが初めてってわけでもない。何度もあったことだし、いつもそうだった。だからそれだけなら別に騒ぎ立てることでもなかった。

 それが思わぬ結果を引き起こし、予想外の展開もあってまったく考えていなかった道筋に入り込んでしまった。それだって、ここまでならよくある話かもしれない。しかし、そこに思いのほか深入りしてしまったことは、まったく運命のいたずらとしか言いようがない。

 それが僕の行くべき方向かどうかは、正直言って自信が持てない。かといって、断ち切ろうという気にもなれない。何となくどうしたいのかどうすべきなのか分からないまま、僕は不安定な状況に身を任せている

 しかも、最初に思うようにいかなくなった方の話も完全に断ち切れたわけではなくて、妙な具合で元に戻り始めた。正確には元に戻り始めたと言っても、本当に元に戻るかどうか分からない。戻るアテなどどこにもないのだが、とにかくカタチの上ではそうなりつつあるように見える。こちらも、実は僕がどうこうしてなった事ではない。ともかく僕はどちらともつかない踏ん切りのつかない気分で、フワフワと漂うように流されている。結局どうにもならず何も実を結ばず、僕にとって何も生み出さない結果に終わるかもしれないのに、僕はどうすることもできないままでいるのだ。

 かつてだったら、こんな不安定でどっちつかずな状況はイヤでイヤでたまらないだろう。というか、今だって僕は決して望ましいと思っていない。ただ、以前だったら遮二無二状況を何とか打開しようとしていたはずの僕が、なぜかそうせずに流されたままになっているのだ。自分が何よりイヤだった、「いいかげん」で「だらしねえ」矛盾した状況に甘んじているのである。どうしていいのか分からないのである。

 だが、それを僕がいつもの「杓子定規」で解決しようとするのが、必ずしも正しいことだとも思えない。

 そもそも…決して責任回避をしているわけじゃないが、なりたくてこうなった訳ではない。どうしようもなく避けようもない偶然で、僕は宙ぶらりんな状態に留まってしまったのだ。それがいつもノドに引っかかったトゲのように、僕の頭の中にこびりついている。そんな時、あのフレーズがかつてないような鋭さで突き刺さって来たのである。

 好きで浮き世を漂うにあらず

 すべて宿命にも似たり

 そうなのだ。僕はこんなカタチで宙ぶらりんの状態のまま、世間や人生を漂っていたいとは思っていなかった。そんなことをやりたいと思ったことはないし、今だって思っていない。好きでこんな状態をつくっていやしない。だけど、どうすることも出来ないのだ。自分に正直になると、今はこうするしかないのである。

 まさにそれは宿命なのかもしれない。

 そして、それはプライバシーに限った話でもないのかもしれない。

 考えてみれば…僕はかつて自分の就く仕事を「これ」と決めるまでに、他の人より多くの時間を費やし、無駄とも思える回り道を回ってきた。ヘタをすれば単なるニートになりかねなかったし、周囲の人間から愛想づかしされても不思議はなかった。

 この不況下にこれから先は分からないが…今こうして自分に合っている仕事にありついていられるのも、単に僕が運が良かったからに他ならない。ただの偶然でしかない。ひとつ間違ったら僕はいまだにフラフラして、どうにもならない状況になっていた。つい5年10年前だったら、まさにそんな宙ぶらりんな状況の真っ直中だったのである。

 それは僕に甘さがあったからだし、社会人としての自覚も職業への真摯な態度もなかったからだ。すべて僕のせいでしかなかったわけだが、逆に言うと…それでも僕はあの時はあのようにするしかなかった。別に何か決断したわけではない。そうなるしかない定めに身を任せて、流されていったとしか言いようがない。それでも正直な気持ちに従ったら、あのような状況になってしまった。実は僕に選択の余地はなかった。人間にはそういう説明のつかない、自分ではどうすることもできない時があるのだ。

 好きで浮き世を漂うにあらず

 すべて宿命にも似たり

 この言葉があまりにすべてを言い当てていて、もう何も言うことはない。これまで言いたくてもうまく言えなかったモヤモヤが、この言葉ひとつでストーンと腑に落ちた。

 決して開き直って言っているわけではない。でも正直なところ、言葉にしたらそう言うしかない

 僕だって決して好きでこうなっているわけではないのである。

 

 

 

 

 to : Review 2010

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME