「ナイト&デイ」

  Knight and Day

 (2010/11/01)


  

見る前の予想

 トム・クルーズキャメロン・ディアズ。おお〜、豪華な顔合わせ…と素直に喜べる映画ファンが、今果たしてどれだけいるだろうか?

 トム・クルーズはここ最近ロクな話題がないし人気も低迷、作品も苦しいところに来ている。彼がメインの映画ではないものの、大いなる野望(2007)の元気のなさは尋常ではなかった。メッセージが良いこと言ってるからって、映画までイイ出来だとは限らない。あんなに腐ったサカナみたいに鮮度の悪い映画は久々だった。

 キャメロン・ディアズも、作品的にはともかく華やかさを振りまいていたチャーリーズ・エンジェル(2000)の頃から比べると、やけに人気的にひっそりとしてしまった気がする。そんな二人が「ビッグスター同士の共演」を果たしても、どうしたって「今さら」感が濃厚に漂ってしまうではないか。

 しかもこの二人、実は「初共演」ではない。すでにバニラ・スカイ(2001)で顔合わせ済み…っていっても、すっかり忘れちゃっていたけど(笑)。それでなくても何となく二人とも峠を越えちゃった感があるから、ロバート・デニーロアル・パチーノ共演が売りのボーダー(2008)みたいに寂しい結果になりそうな気がするのだ。

 そもそもイマドキのハリウッドは、企画優先でスターシステムで動いていない。だから豪華スター共演が「ご馳走」にはなりにくい。昔のハリウッドならスターももっと有難みがあったし、共演するだけで「事件」にもなった。しかし今では…日本のプロ野球のオールスター戦が盛り上がらないのと同じだ。

 しかも昨今のそうした豪華2大スター共演映画ってのは、あまり成功した試しがない。もうみんななかったことにしたがっているらしい(笑)が、ブラピジュリア・ロバーツ共演の「ザ・メキシカン」(2001)の大不評ぶりを思いだしていただきたい。

 そんなわけで本来なら豪華スター共演映画として注目されるはずのこの作品だが、巷の話題は今ひとつ。本来なら見に行くのに腰が重くなる作品だ。

 しかし僕は今忙しさの中で疲れ果てて、たまのヒマな時間にストレス解消に映画が見たかった。むろん、重たい映画や暗い映画なんてまっぴら御免。中味カラッポ大歓迎。だからって青春エロ・ヴァンパイア映画「エクリプス」なんてシロモノを見るほど、僕は若くもバカくもない(笑)。

 そんなわけでどうせつまらないだろうとタカをくくりながら、僕は劇場へと足を運んだわけだ。

 

あらすじ

 慌ただしい大空港に、意味ありげに佇むサングラスの男。その男ロイ(トム・クルーズ)は、言わずと知れたスパイである。

 何しろ秘かにやっているつもりだろうが、何やらコソコソ挙動がヘン。誰がどう見たってスパイで、何かをやらかそうとしている事は誰の目にも明らかだ。

 そんな空港にスーツケースを下げてドタバタ現れたジューン(キャメロン・ディアズ)に、ひそかにロイは目を付けた。

 空港ロビーで彼女とぶつかってしまうロイ。それも一度ならず二度も。「何たる偶然」と微笑むロイのカッコよさに、何やら「運命的」なものを期待してしまうジューン。だが、それが「偶然」でないのは明らかだ。

 その頃、クルマでその空港目指して駆けつけていた怪しげな男たちあり。これまたいかにも政府のエージェント然としたフィッツ(ピーター・サースガード)は、車内のモニター画面で空港内のロイを観察し、彼がジューンとぶつかったくだりから何から逐一見つめていた。

 彼らはどうやらロイを追跡しているようだが、そんなロイの挙動から何かを決断したようだ。

 さて、ロイとめざす飛行機の搭乗口にやって来るジューン。内心、フライトでの「三度目の偶然」を期待していた彼女だが、何と飛行機は満席で搭乗を拒否されてしまう。何が何だか分からず大声で抗議するジューンだが、とにかくダメなものはダメ。そんな彼女にあのロイが静かに一言つぶやいた。

 「物事には理由ってものがあるんだ」…。

 謎めいた彼の言葉に憮然としながらも搭乗口から離れたジューン。しかし、なぜかすぐに彼女は呼び止められ、これまたなぜか搭乗を許された。一体コレはどうしたことか。

 嬉々として搭乗した飛行機には、もちろんあのロイが乗っていた。しかし、「満席」だったはずなのにガラガラなのはなぜなのか。

 それでもジューンは飛行機に乗れたこと、そしてロイに再会できたことを喜んでいた。

 何しろ機内はガラガラだ。知っている人間はお互い同士だけ。自然と打ち解けて身の上話に花が咲く。

 父の形見であるヴィンテージカーを自分で修繕して、結婚間近の妹にプレゼントしたいと話すジューン。彼女にはあそこに行きたい、こんなことがしたい…という夢があった。「いつか」…そうジューンが語ったとたん、ロイはすぐに後を続けた。

 「でも、いつか…と言っているうちは、いつまで経っても実現しないものだ」

 そんな達観した言葉をつぶやくロイだったが、そういう彼自身が長年の夢を何一つ実現できてはいない。自信満々余裕綽々に見えるロイではあったが、そんな自分の状態を語る彼の顔にはいささかの寂しい表情がうかがえなくもなかった。

 そんなこんなの会話ですっかり舞い上がってきたジューンは、ここで冷静になろうとトイレに駆け込む。ロイに夢中になりつつあったジューンは、気持ちを静める一方で自分を鼓舞しようとしていた。「こんなチャンスは二度とないわよ」

 ところがそんなジューンが夢にも思っていない状況が、トイレの外で起きようとしていた。ジューンが席を立つと同時に、ガラガラの客室に変化が起きたのだ。ごくごく数少ない彼ら以外の客が、いきなりロイに向かって襲いかかって来たのだ。

 狭い客室内。しかもロイには手持ちの武器はない。しかしロイはたった一人で、次から次へと襲いかかって来る敵をバッタバッタとなぎ倒していった。強い強い強い。しまいにはCAまでかかってくるが、もちろんロイの敵ではない。しまいには操縦席のドアが開いて、機長までが銃を構えてくる始末だ。こいつもロイはアッという間に片付けたものの、勢い余って機長の放った流れ弾が、操縦桿を握っていた副操縦士を直撃。当然、飛行機の先行きはかなりアヤシクなっていった。

 そこに何も知らずトイレから飛び出してきたジューンが、いきなりロイにむしゃぶりついてきた。これも慌てず騒がずキャッチする冷静そのもののロイ。しかし、彼がそれからジューンに説明した現在の彼らの置かれたシチュエーションは、到底彼女の想像の及ぶものではなかった。

 「この飛行機のパイロットは死んだ。僕が殺したんだ」

 茫然自失の彼女を操縦席の座席に座らせ、ロイは平然と操縦桿を握る。間もなく広大な畑が見えてきて、ロイとジューンを乗せた旅客機はそこに何とか不時着することになる。二人が旅客機から離れるや否や、旅客機は炎に包まれて爆発した。何が何だか分からず、このままロイについていっていいのかも分からないジューンは、彼に一方的にアレコレとまくし立てられる。

 「きっとこの後で、君のもとに悪い連中がやって来る。連中に言われても、奴らの車に乗ってはいけない。そしてやたらに“安全”だと繰り返されたら、それは“危険”だと思った方がいい」

 ロイが何を言っているのかサッパリ分からないジューンだったが、彼にクスリを飲まされて一気に意識不明だ。

 ふと目が覚めた。

 ジューンは、自分が自宅のベッドにいるのに気づく。いつもと何も変わらぬ日常に戻ってきた。アレはすべて夢だったんだ…と安堵する彼女だったが…。

 何と、「昨日はありがとう」などと書いてある手紙が残されているわ、フライパンには出来たての卵焼きが乗っているわ…。さすがのジューンも、アレは夢じゃなかったと思い知らされずにはいられなかった。

 そんなジューンではあったが、うろたえてばかりもいられない。何しろ妹の結婚式が迫っているのだ。しかし、その妹エイプリル(マギー・グレイス)が父の形見のクルマを売り飛ばして家を買いたい…などと言ってきたのには、正直言ってガックリ。ところがそんな彼女の前に、怪しげな男たちが立ちはだかった。そのリーダー格の男は、あのフィッツだ。

 クルマに乗せられるや否や、ロイとの関係を問いつめられるジューン。どうやらロイが何やら悪事に荷担したかのような口振りだ。彼らの言うには、秘密裏に開発されていたある画期的な発明をロイが奪い、現在逃走中とのことだが…。

 ジューンを乗せたクルマは、ハイウェイをひた走る。ところが彼女を連行している男たちは、やけに「安全」ばかりをわざとらしく口にするではないか。

 これが、昨夜ロイが言っていた「危険」なのか?

 そんなヤバイ状況にジューンが気づき始めた時、いきなり彼女を乗せたクルマが襲撃を受けた。しかもハイウェイを走行中にも関わらず、クルマを運転していた男が撃たれて死んでしまうではないか!

 絶体絶命!

 

曲り角に立っていたクルーズ&ディアズ

 ビッグスター同士の共演が売りのこの映画、先にも述べたように、たぶんあまり話題にはなっていないんじゃないか?

 この感想文の冒頭でくどくど述べたように、どっちのスターもピークから外れちゃった感じがある。特にトム・クルーズに至っては、どの度合いがかなり激しいのではないか。彼の人気のピークといえば、たぶんM:I-2(2000)の頃だろう。しかしその後は、徐々にジワジワと作品の興行力は下降。実はあのラストサムライ(2003)ですら、日本では題材が題材だけに大ヒットしたものの、アメリカではイマイチな成績に終わったらしい。その後の作品については推して知るべしだ。

 何でそんなことになってきたのかと言えば、その理由は僕が今まで彼の出演作の感想文でクドクドと述べてきた通りだ。ひとつには、彼が問答無用のスーパースターでハリウッドの超大物になってしまったので、それまでの彼の十八番…というよりほとんどそれしか演じていない…若輩者・未熟者がさすがに似合わなくなってしまったということがある。

 それまでのクルーズの定番といえば…何度も繰り返して申し訳ないが、魅力的で才能や素養もある若者が自分を過信して調子こくが、挫折を通して成長していく…というモノ。「姿三四郎」(1943)の藤田進から「赤ひげ」(1965)の加山雄三に至る、黒澤映画の若者像に共通するものだ。このキャラクターを、背景を軍隊や法廷やレースの世界など次々変えながら、飽きもせず繰り返し繰り返し演じていたのがクルーズ映画なのだ。しかし肝心のクルーズがあまりに存在を巨大化させると、この役柄はかなり無理が出てくる。

 実は今までは触れていなかったが、たぶん「ミッション:インポッシブル」(1996)か、あるいは第2作「M:I-2」は、その危機回避のために企画されたのではないかと推察される。もはや若輩者や未熟者が似合わなくなりつつあるクルーズが、腕利きスパイという絵に描いたような役柄を演じるこの作品、クルーズが押しも押されもせぬハリウッドの大スターであり、無条件にカッコいいとされる存在であるから成立する設定ではある。そんなクルーズの華やかさと優れた身体能力で、遮二無二力わざで押し切ったような役柄だ。

 しかしクルーズにはもうひとつの危機が迫っていた。実はこちらの方が問題だ。誰にも避けられない、「加齢」という危機である。

 これは先の若輩者、未熟者が似合わなくなった…ということと絡んでも来るのだが、実はこちらの方がより深刻だ。若くしてトップスターの座に就いたクルーズが、男性スターとして本来アブラが乗ってくるはずの年令に達したとたん、その魅力を急速に減らしていったからである。

 スティーブ・マックイーンでもポール・ニューマンでも、本来男性スターというものはその男盛りにギラギラと魅力を増してくるものだ。それは安定感でもあり男らしさでもあり、あるいは知性でもある。ところがクルーズは、残念ながらそういう魅力で売ってきたスターではない。むしろ若輩者、未熟者で売ってきたスターだ。だから若さを失うと同時に、その本来の「売り」をなくしてしまう。普通、男性スターが輝きを増す時期になって、彼は皮肉にも魅力を急速に失っていったのである。

 これはある意味、僕がやはり何度も指摘してきたハリソン・フォードの例に極めて近い。フォードも本来加齢によってにじみ出るはずの男性スターとしての魅力が、ほとんどプラスに働かなかったスターだ。その点、元々の年令が違うので一概には言えないが、クルーズも年相応の魅力が出たとは言いがたいのではないか。

 これは彼が加齢に対して自分なりに対応とした形跡が認められる、コラテラル(2004)での役柄を見れば何となく分かる。ここでのクルーズは無精ヒゲを生やし、しかもそれがゴマ塩になっているという凝ったメイクを見せる。明らかに、それまでの彼より年令の上がった設定だ。それが「悪役」であったことはこっちへ置いておいても、ここで彼が見せているキャラクターはかなり問題がある。タクシーの運ちゃんジェイミー・フォックスに対して終始「上から発言」を連発。それも、何とも独善的で歪んだ人生観、テメエ勝手な人生哲学の押し付けだ。まるでクルーズのそれ以前の十八番…若輩者、未熟者が、調子こいたまま挫折知らずで歳をとったかのようだ。それが結果的にジェイミー・フォックスの勝利、クルーズの敗北で終わるエンディングを迎えるということは、そういった偉そうなクルーズの人生観が、まったくまるっきり思い上がりによる間違った代物であることを意味する。つまり偉そうなことを言ってた割には、いい歳こいて何も分かってなかったってことではないか。この映画でのクルーズの「老け役」自体は似合っているとはとても言いがたいが、それはクルーズというスターの加齢に関わる問題点を浮き彫りにもしていたわけだ。

 もうひとつ例を挙げよう。クルーズが低迷を始めた頃の数少ない成功作、スピルバーグ版宇宙戦争(2005)。クルーズがここで演じているのは、女房に逃げられ子供にもバカにされてる労働者階級の男。女房は若い頃はクルーズのカッコよさに惹かれたんだろうが、今となってはその生活力や将来性、知性…何より男としての成熟度のなさにウンザリ。子供の前でも好きなモノひとつ分からず、結局は「キャッチボールしようぜ」ぐらいしか頭に浮かばないバカな男だ。これが低迷期を迎えたクルーズにとっての数少ない成功作というのは、かなりヤバい状況なのではないか。これすなわち、歳をとっても男としてのキャパが増さない男ということを物語っているのだから。

 彼がどうして男盛りの魅力を身にまとわせられなかったのかについては、これまたハリソン・フォードの例を見れば分かる。フォードも出世作の「スター・ウォーズ」(1977)のハン・ソロあたりならアンちゃんっぽい悪っぽさがあったものの、その後の役柄はインディ・ジョーンズに至るまで悪っぽさやセクシーさはゼロ。意外に一本調子のクソ真面目なイメージが目立つ。それゆえ歳をとってから、清濁合わせ飲んだ男の魅力というものを醸し出せなかったのではないだろうか。言うまでもなく、クルーズもまたクソ真面目なキャラクターが売り。調子こいた若造の役柄の割には、「カクテル」(1988)あたりですら悪徳に溺れたりしていない。例えばアルフィー(2004)でのジュード・ロウあたりを思い起こせば、その違いは歴然ではないか。スケベ根性出したアイズ・ワイド・シャット(1999)ですら、ビビって古女房の胸に飛び込んでおっぱいをしゃぶるしかなかった(笑)。これでは「男」としての余裕や幅など滲み出るわけがない。どだい無理な相談なのである。

 そんなわけでピークを過ぎてしまったクルーズは、それまでのスター・イメージ故に、どうにも乗り越えがたい危機を迎えてしまった。

 しかもマズイことに、私生活での奇行の数々が災いした。そもそもスターなんてのはマトモな人間なわけない(笑)のだから仕方ないとは思うが、インチキ宗教に溺れ過ぎたのはマズかった。新たにもらった若い嫁さんに夢中なのはいいが、それをそこらのオッサンみたいにハシャいで見せたのはさらにマズかった。その嫁さんがさほど美人でもなく、ニコール・キッドマンと比べたら言っちゃ悪いが数段落ちるとしか見えなかった(笑)のもさらにさらにマズかった。そんなわけで、クルーズはそれまでの完全無欠のカッコいいスターのイメージを傷つけてしまった。その代わりに彼に徐々にまとわりついてきたのは、変なオッサンとかイタい人のイメージ。これはカッコいいはずのスーパースターには致命的だろう。

 決定版の当たり役であるM:I:III(2006)を持ってしても不発だったのは、もう彼がカッコいいスターになり切れないことを意味する。こうなると、彼にはますます手がなくなってきた。満を持してナチの軍服に身を包んだワルキューレ(2008)も、スカッと成功作とならないもどかしさ。正直言ってこれはクルーズというスターの根本的なところから来ている問題だから、一朝一夕で片ずく問題ではないのだ。

 対するキャメロン・ディアズは…というと、僕は彼女の作品を熱心に追ってきたわけではないから、クルーズほどハッキリしたことは言えない。それでも彼女がここ最近ピークから徐々に下っているという印象は、それほど間違っていないんじゃないかと思う。「イン・ハー・シューズ」(2005)や「ベガスの恋に勝つルール」(2008)なんてのも見てないので偉そうなことは言えないが、彼女もなかなか難しいところに来てるのではないだろうか。彼女がそうなった理由はしかと分からないが、ピークの分岐点なら何となく分かる。それは彼女にとってのビッグヒット作、「チャーリーズ・エンジェル」(2000)だ。

 この映画は興業成績こそ大成功となっているし、誰しもコメディが得意な彼女の代表作と思っている。しかし僕に言わせれば、これこそが大誤算だった。僕だって見るまでは、彼女が演じる「チャーリーズ・エンジェル」をピッタリな企画と思っていたから偉そうなことは言えない。しかし出来上がった作品は、無惨な出来栄えと言わざるを得ないのだ。

 ダメな理由はいろいろあるだろうが、感想文にも書いたようにエンタテインメントを分かっていない…ということに尽きる。出演者一同…誰よりもディアズ自身が終始「楽しい」「楽しい」と言わんばかりの満面の笑みを浮かべ、いかにも「楽しそう」な趣向が次から次へと展開する。しかし「楽しそう」なアレコレを並べたら本当に楽しくなるほど、映画ってやつは単純ではない。そもそも、ディアズの「楽しそう」な演技設計そのものが、ハッキリ言って誤算だったと言わざるを得ない。これも感想文で書いたことだと思うが、満面に笑みを浮かべて「この話は面白いんだ」と言われながら聞く笑い話に似ている。最初から「面白そう」と煽られては、面白い話も面白くなくなる。そういう話は、クールにケロッとした顔でしゃべってくれないと笑えないのだ。ディアズの表情は、映画の内容以上に楽しすぎなのである。

 しかもそれに続くのが、レオナルド・ディカプリオ共演、マーティン・スコセッシ監督による大作ギャング・オブ・ニューヨーク(2001)というまずさ。映画自体も成功作とは言えないが、何よりデカプーの相手役に向いてないし、この深刻な歴史劇にも向いてない。何より、マーティン・スコセッシ作品に出るような女優かね、キャメロン・ディアズって(笑)。これは莫大な制作費を取り戻す保険としての、スター・バリューを買われての起用としか思えない。

 その後の彼女も、本来の持ち味に合った作品に出ているとは言いがたいのではないか。唯一「らしさ」が出たのはホリデイ(2006)というのも寂しい限りだが、その中でも作品の中心はケイト・ウィンスレットに奪われていた。ディアズお得意のラブコメなのに…である。

 そんな二人が顔を合わせての、「豪華2大スター共演作」である。不安にならないはずがないではないか。

 あのロバート・デニーロの近作、「ボーダー」やトラブル・イン・ハリウッド(2008)などのイマイチ感が脳裏に甦る。もうちょっと前ならホントに「豪華」だったのになぁ…という「今さら」感が濃厚に漂う。しかもお話が「平凡なお姉ちゃんが典型的ええカッコなスパイが出会ってのてんやわんや」…という、いかにもなハリウッド大作仕立てだけに、この「豪華2大スター共演作」らしいキラキラ感が乏しいと、たちまちすべてが色褪せてバカバカしく見えてしまいそうだ。

 なんだか残念な結果になってしまいそうなんだよねぇ。

 

見た後での感想

 ところが…である。

 映画というものは見るまで分からないとは言うものの、実際にそう言うにふさわしい作品は、実はそう多くはない。大抵は想像していた通りであることが多いし、つまらないと予想していた作品なら想像以上につまらなかったりする。

 しかしこの作品については、驚いたことに予想以上に面白かった

 正直言ってクルーズ演じる腕利きスパイがええカッコをキメる場面では、そのマンガっぽさに時折スキマ風が吹くのは否定できない。

 テンポの良さに退屈せず見れるものの、トム・クルーズのあまりにあまりな典型的ええカッコなスパイぶりに、ちょっと腰が退けちゃう瞬間がないわけじゃない。

 それは、あまりに荒唐無稽なカッコいいスパイだからじゃない。それを演じるには、現在のトム・クルーズがイマイチ輝き切れていないからだ。これがホントにカッコよかった頃のクルーズなら、そのマンガっぽさもサマになっていただろうが、悲しいかな見る側はサメてしまっているのだ。完全にはノリ切れない。キメキメにやればやるほど、何となく痛々しい気がする。そこまで言うのはあまりに大げさだとしても、何となく今の彼には、カッコよく振る舞うにはいささか陰りが漂ってしまうのだ。

 あるいは、どこか冗談に見える。クルーズがカッコいいスパイを演じれば演じるほど、まるでオースティン・パワーズ・ゴールドメンバー(2002)のオープニング・アトラクションで見せた、パロディ劇中劇を連想させる。まぁ、この映画はコメディなんだからそれでいいようにも思えるが、何となく観客からの「笑われ方」が本来のモノではないような気がする。

 例えばキャメロン・ディアズを乗せたエージェントの車が、運転手が殺されて暴走する場面。いきなりフロント・ガラスにトム・クルーズがドンと飛び降りてきて、ディアズに「中に入れろ」と頼む場面だ。生きるか死ぬかの緊迫した場面、絶体絶命のその場面で、トム・クルーズのスパイはさすがに余裕綽々なのか、満面の笑みを浮かべながらディアズに話しかける。しかし余裕ぶりを見せているつもりなんだろうが、この緊迫した状況下でニッカニカに笑っているクルーズの表情は、余裕というより異常というかアブない感じ(笑)。例のインチキ宗教への傾倒ぶりあたりも連想されて、ちょっと恐いほどなのだ。

 このあたりは、元々演出が狙ったものではないだろう。本来ならあの「M:I-2」でスーパー・スパイを演じたクルーズが演じることで、このスパイがどんなに優秀で無敵かを説明する必要もなくなり、かつ、そんなスーパー・スパイにも意外な一面が…ってな方向に面白おかしく自然に観客を導けたはずだ。こんな陰りやらアブない感じなど、狙ったはずもないのである。しかし、どうしても感じずにはいられない不協和音…。

 そしてキャメロン・ディアズも、実は少々スキマ風が吹いている。やはり年令は隠しきれない。昔ほどハジケ切れてない。そのあたりにいささか無理が感じられないでもない。

 そして…これは役の設定上仕方のないことではあるが、彼女がいつもいつもバカな振る舞いをして足手まといになっているように見えること。たぶんこれは前述の若さとハジケっぷりが衰えてきたことと関係があるように感じられるが、少々アホなオバサンに見えてしまうのである。これはツライ。

 そういう意味では、この作品も2大スター共演ながら「今さら」な、ちょっと残念な作品になりかかったと言っていい。

 ならば、なぜ僕はこの映画が面白いと言ったのだろうか?

 この作品はクルーズ演じるスーパー・スパイとディアズ扮する平凡な女が、ひょんな事から行動を共にする羽目になる話だ。その二人の間のギャップがオカシサとなるわけだが、ここで重要なのは、実は二人とも思うがままの人生を歩んでいないことだ。

 乗り合わせた飛行機の中で、自分の夢を話すディアズ。いつの日かクルマで旅をしたい…と話す彼女に、クルーズは冷たくこう言い放つのだ。「いつか…と言っているうちは、いつまで経っても実現しないものだ」

 この作品の中でクルーズは、たびたびこのような「人生哲学」や「禅問答」めいた発言をディアズに向かって行う。これらが、どこか「コラテラル」でのクルーズの「上から人生哲学」を想起させるモノであることは興味深いが、実はこの作品もクルーズのキャラクター的には共通する部分を持っている。

 というのも、スーパー・スパイで何一つ思い通りならないことはないように見えるクルーズも、実際には自分の夢を何一つ実現できずにいるのだ。彼はハタで見ているほど「万能」ではない。人に「上から人生哲学」を垂れているほど、本当は立派なわけではないのだ。

 そして奇跡的なことに…こうした「万能なはずなのに、人生ままならないスーパー・スパイ」という役柄に、今のクルーズの「カッコよく演じても陰りが漂ってしまう」境遇が何となくピタリとハマってしまう!

 たぶん完全無欠のスーパースターだった頃のクルーズだったら、こういう味は出なかっただろう。しかし今回に限っては、このキャスティングがすべてうまくいっている。今や決して恵まれた状況とは言い難いクルーズだからこそ、こうした苦い味が出たのだ。

 そしてキャメロン・ディアズもまた、この設定にハマっている。もう若くもないし、男もいない。夢もしぼみかけている…申し訳ないが、そんなヒロインの「陰り」が、昨今の彼女にこれまたドンピシャでハマっているのである。

 そして今回の彼女は最初は「普通の人」の設定だから、とんでもない状況に巻き込まれてワーワーキャーキャー狼狽えるばかり。しかも本人大真面目で戦々恐々としているところに、さらにヤバイ状況が襲いかかってくるあたりが笑える。お分かりいただけるだろうか? 「チャーリーズ・エンジェル」のように最初から楽しそうにヘラヘラ笑っているのとは違うのである。ピンチに遭遇して大慌て、本人は至って真剣…だからこそオカシイのだ。キャメロン・ディアズのコメディエンヌぶりはこうでなくてはいけない。

 そんなわけで…今回は見事に役の設定に、役者本人の置かれた「現在の状況」がハマった。それが、意外なまでの好結果を呼んでいる。そして、それはある意味で「リアリティ」と言ってもいい。作品全体も一見単純なシチュエーション・コメディに見えて、それにしてはちょっと不思議な身につまされる味わいがあるのである。

 この作品を撮った監督は、ジェームズ・マンゴールド。実はこれ意外だったのだが、アンジェリーナ・ジョリーの出世作「17歳のカルテ」(1999)の監督である。その他にもスリラーの“アイデンティティー”(2003)などいろいろな作品を撮っていて、実はその実体が捕らえどころのない監督だ。しかし、少なくとも典型的ハリウッド・コメディーを撮りそうな監督ではない。今回の映画がいかにもなコメディに見えてちょっとひと味違うのも、なるほど納得な監督なのである。

 それにマンゴールドは、何とあのシルベスター・スタローンをハーベイ・カイテルやロバート・デニーロなどの中に放り込んで「芝居」させた「コップランド」(1997)の監督でもある。それ故にトム・クルーズの「新生面」を引き出すことが可能だったのかもしれない。

 ともかくズレた感覚の鮮度の低い娯楽映画を撮ってしまうと見えて、キッチリ「それ以上」の映画に仕上げたマンゴールドの腕前は、なかなか大したものだと言わざるを得ない。それとも…単に偶然でそうなってしまったのだろうか(笑)?

 

見た後の付け足し

 というわけで、見ていてスッカリ感心してしまった本作。しかし本当に感心したのは、実はかなり後半に入ってから。一旦トム・クルーズが画面から退場して、キャメロン・ディアズがドラマを引っ張り出してからだ。

 それまでクルーズに引っ張り回され、キーキーキャーキャー言うしかなかったディアズ。それが役の設定でどうしようもなかったとはいえ、正直ちょっとイライラさせられたのも事実。しかしここへ来て、彼女がクルマをぶっ飛ばして猛反撃を開始。すると映画は俄然面白さを増してくる。その活躍ぶりの胸がすくことったら、再び引き合いに出しちゃ悪いが「チャーリーズ・エンジェル」の比じゃない。

 そしてラストのラストに至って、ついにキャメロン・ディアズとトム・クルーズの立場が逆転。それまでクルーズがディアズに放ったセリフがそっくりそのまま「お返し」され、見ている僕らは至福の時を迎える。「万能」のスーパー・スパイなのに人生思い通りにいかなかったクルーズが、彼女のリードによって人生再出発を実現するという素晴らしいエンディングだ。

 ここへ来てキャメロン・ディアズが本領発揮することは言うまでもない。そして映画自体も、他愛のないコメディからちょっとしたシリアスなメッセージを持った作品へと突如変貌を遂げる。そのあたりにも大いに注目したいが、僕が指摘したいのはむしろトム・クルーズの方だ。

 これはトム・クルーズの新生面ではないか?

 病院で寝たきりのトム・クルーズは、何とも無力で無防備だ。しかしそれ以上に、ここでのクルーズはスパイ世界の掟に縛られて「無力」だとも言える。あれだけ無敵の彼なのに、スパイのしがらみから逃れられない。それはもう、カッコいいスパイの姿とはいえないだろう。

 ところが、それを外からキャメロン・ディアズがズカズカ入ってきて、彼を力づくでしがらみから解き放つのである。

 こんなクルーズって見たことないんじゃないか?

 彼はテメエ勝手で調子に乗っていた時も、挫折した時も、どんな時でも自分の力で乗り越えていく男を演じてきた。それがスーパースターのカッコよさでもあったが、そんな彼のイメージは今やモロくも崩れ去ろうとしている。

 ならば、これこそがクルーズの起死回生策ではないのか?

 カッコいい男イメージも万能男イメージも過去のものになろうとしている今、クルーズがとるべき道はこれなんじゃないだろうか? 長い間アレコレ試行錯誤しながら決定打を放てなかった彼も、ついにその解決策を見付けたとは言えないだろうか?

 女に助けられ、リードされるトム・クルーズ。これはまったく新鮮なイメージだし、何よりリアリティが感じられるではないか。

 男の人生の幸不幸を左右するのは、いつだって女なのである。

 

 

 

 to : Review 2010

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME