「マイレージ、マイライフ」

  Up in the Air

 (2010/05/03)


  

見る前の予想

 ジョージ・クルーニー主演アカデミー賞作品賞ノミネート

 まぁ、いい映画なんだろうな。面白いんだろう。映画館でチラシをもらって、予告編を見た時にそう思った。

 監督はジュノ(2007)のジェイソン・ライトマン。映画ファン的には「期待の一作」なんだろう。しかしぶっちゃけ言うと、僕は特に惹かれるところはなかった。

 クルーニーがキライな訳じゃない。むしろ好きな方だ。だけど、いつもながらのクルーニーの、いつもながらのスーツ姿に、何か新しいモノ変わったモノを見いだせるとは思えない。

 今回のお話は、会社に代わって社員を解雇するプロ…という、世にも奇妙な仕事に就いている男の話。主人公は飛行機を使って旅から旅への生活を続けていて、そのせいってわけでもないだろうが人との関係を築こうという気がないらしい。それが新人の女の子を連れて歩くことになって…という展開。

 まぁ、面白いんだろうが、ここまで展開を予告で見せちゃうとオドロキもないね。演じているのがクルーニーで、カッコイイけどいつものクルーニー。この映画のスチールと他の彼の出演作のそれとを並べて置いたら、どれがどれだか区別つかないんじゃね? つまりはカッコイイいつものクルーニーが、そうしたユニークな仕事に就いている個人主義の男…の役を演じているわけだ。結局はカッコイイいつものクルーニー。これはこれでオドロキがない。

 おまけに会社に代わって社員を解雇するプロ…という商売、今日びのご時世さほど珍しいとかビックリとかいう雰囲気でもなくなってきた。まぁ、ありそうだねそんな仕事…ぐらいのところまではいってそうだ。だから、これまたオドロキがない。

 おまけに個人的なことを言えば、世評がかなり高かった「ジュノ」も僕としてはイマイチ…というか、申し訳ないけどヒロインの言動があまり好きになれなかったんだよね。そんなわけで、ジェイソン・ライトマンの腕前についても疑問符が付く

 飛行気好きとしては空港や飛行機がいっぱい出てくるというのは魅力だが、それがドラマの中心というわけでもないからなぁ…。

 それなのに、なぜかこの映画には怒濤の好評が沸き起こっているではないか。確かにアカデミー賞作品賞候補だったが、それほどの映画か?

 しかも信頼に足る映画ファンの知人からも、この映画への激賞が届くに及んで、これは見ないではいられない…と、遅ればせながら気づいた。

 そんなこんなで、出足は遅れたものの劇場に足を運んだというわけ。

 

あらすじ

 スマートに生きる中年男ライアン(ジョージ・クルーニー)にとっては、飛行機こそがわが家である。

 彼は連日旅行カバンで身軽に街から街へ、出張出張の日々を過ごしている。彼の仕事は「解雇屋」だ。度胸も度量もない上司に代わって、いろいろな会社の社員に解雇を言い渡すのが仕事である。こんな仕事が結構繁盛しているのだから、世の中分からない。

 今日も今日とてある会社に乗り込んでは、次から次へとクビを宣告。当然、言われる側は呆然となる。泣き出す者もいる。自分の立場を主張したり抗議する者もいる。激怒して席を立つ者もいるが、そんなものはすべて想定内だ。慌てず騒がず対応して、とにかく相手に状況を飲み込ませ、次へのステップを踏ませる。それが済んだら長居は無用。サッサとホテルを引き払って、次の街へと旅立つのだ。

 旅から旅の生活の中で、培ってきたのはムダのない空の旅のノウハウ。そして他の追随を許さないマイレージカードの貯まり具合。実はマイレージを1000万マイル貯めるのが目標だ。それを達成できた人は、ほんの一握りでしかない。その「一握り」になることだけが、彼のちょっとした野望なのだ。

 そんな彼だから、妻もいなければ家庭もない。友人だって怪しい。しかし、そもそも濃厚な人間関係を築こうという気持ちがない。親戚、友人、家庭…それらは、ハッキリ言って煩わしいだけだ。

 そんな旅から旅のライアンが、ある日、旅先で知り合ったのが一人の女

 その女アレックス(ヴェラ・ファーミガ)は、大人の振る舞いを知ったいい女。それだけでなく、ライアン同様「旅の流儀」を知った人物だった。どうやら同業者らしく、旅のノウハウへの詳しさもライアンとイイ勝負。何より「人生」と「他人」への向き合い方が自分と似ている。すっかり意気投合したライアンは、彼女とアツイ一夜を共にする。そして別れ別れになる際も、次の逢瀬のタイミングをはかり合う。しかし、お互い決して深追いはしない。それが、旅の男と女の流儀というものだ。

 この世界の「成功者」である彼には講演の申し込みも結構あって、それが彼の小遣い稼ぎになっている。彼の十八番の演目は「バックパックの中味は?」というもの。人間は人生の中で、自分のバックパックにいろいろ詰め込んで背負いながら生きている。これが結構重くてツライ。ならば、時にはそれらを軽くしてみるのもいいんじゃないか…? 要はこれ、ライアンの人生哲学そのものでもある。

 そんな彼だから、たまに「自宅」に戻ってもガランとして侘びしい。それでもあくまで「仮の住まい」でしかないのだから、ライアンは一向に気にしていなかった。

 ところがそんなライアンに、珍しく厄介な重荷がのしかかる。

 家族をとりまとめることが生き甲斐みたいな姉カーラ(エイミー・モートン)から、妙なことを頼まれたのだ。近く結婚する妹ジュリー(メラニー・リンスキー)のために、彼女と婚約者が写った写真のボードを持って、出張先のあちこちで記念写真を撮影して欲しいというのだ。そんなお上りさんみたいなことは願い下げにしてほしいライアンだったが、結局は引き受けることとなった。

 さらにもうひとつの重荷の方は、写真のボードよりもずっとのしかかる重さが違う

 ライアンの食えない上司クレイグ(ジェイソン・ベイトマン)が彼に「大型新人」を紹介した時から、すべては始まった。それは、一流大学出たての小娘ナタリー(アナ・ケンドリック)。画期的な「解雇システム」と「マニュアル」を引っ提げて、彼女はライアンの勤める会社に現れた。

 その内容とは、直接解雇する人物に会うことなしに、ネットですべてを済ませるというシロモノ。この新しいシステムとマニュアルに、クレイグはゾッコン惚れ込んだ。何しろネットですべて済むのだから、ライアンたち「解雇マン」を派遣する莫大な経費がかからない。ものすごい金額の節約になるではないか。

 さらにナタリー考案のマニュアルを活用すれば、「解雇のプロ」でなくても明日からこの仕事ができる。社員研修も教育も要らない。まことこれがうまく作用すれば、万事万々歳ということになる。

 しかし…もちろんライアンは気に入らなかった

 それは決して出張を止められることで、彼のマイレージの野望が阻害されるから…だけではなかった。ライアンは仮にもこの商売のプロだ。プライドもポリシーもある。彼にとってこの仕事は、「解雇」というツライ現実を辞めさせる相手に納得させ、心を安らかにさせる大事なプロセスだった。むろんそんな事は偽善に違いないのだが、それでも「ないよりはマシ」な大事なプロセスだったはずだ。それを、ネットで一気に断ち切ろうなんてバカげている。

 ライアンは自信満々のナタリーに、挑発的な質問を次々ぶつけた。すると、たちまちタジタジとなるナタリー。残念ながら彼女には理論はあっても、まだまだ経験は持ち合わせていない。そこで上司のクレイグは、ライアンに到底承伏しかねる命令を下したのだった。

 「彼女を出張に連れて行け。そこで仕事を体験させろ」

 どれほど抵抗しようが問答無用。こうしてライアンは、彼にとってこの上なく気の重い仕事を引き受ける羽目になる。他人と深く関わる…という仕事を。

 当然にことながら忌々しい気持ちしかないライアンは、ナタリーに必要以上に厳しく接した。実際のところ、旅のプロでもあるライアンにとっては、彼女の一挙手一投足はムダばかり目立って仕方がない。早速ナタリーは空港でムリヤリ荷物を捨てさせられ、二人の間には早くも険悪な空気が流れる。

 それは「解雇」の現場でも変わらなかった。しかも、ここでは現実のほうがライアンより厳しくナタリーに当たった。人から職を奪うことのシビアさに、さすがのナタリーもかなりへこむ。

 それでもナタリーは、ライアン持論の人世哲学には、どうしても馴染めないものを感じていた。そんな彼女との珍道中と珍問答が、それまで疑う余地のなかったライアンの日常に何かそれまでと違ったものをもたらしたのだろうか…。

 そんなある日、ナタリーは遠く離れた恋人から一方的に別れを告げられる。それも、メールで一気にバッサリ。ネットでのアッサリ解雇を提案したナタリーにとっては、皮肉としか言いようのない結果だ。折りからライアンと旅先で合流したアレックスは、ナタリーの憂さ晴らしに付き合うことになる。

 某企業のイベントに紛れ込み、タダ酒にカラオケ、パーティーと夜通し騒ぐ。そんな中で、ライアンはアレックスといつになく心が近付いていくのを感じた…。

  

見た後での感想

 それはそれなりに「良くできた映画」なのだろうとは思っていた。また、ウィットに富んだユーモラスな映画でもあろうと思っていた。そんな予想はどちらも間違ってはいなかったのだが、実は「それだけ」の映画ではなかったのはオドロキだった。

 実はそんな「想定外」の部分は、この映画を激賞した知人から多少聞かされてはいたのだが、まさかこれほどとは…。

 他人との関わりや煩わしさ、そんなアレコレを回避して回避して、自分の価値観と世界観だけで周囲を固めて生き続けている主人公。熟知している自分の世界の中にとどまる限りは、何もかもスムーズで快適で万事うまくいく。言い換えれば…それ以外の現実世界の要素は、すべて自分の世界とペースを乱すものでしかない。それらの多くは大概ウンザリさせられるものばかりで、ハッキリ言ってそれらに費やす時間は無駄としか思えない。

 それはハッキリ言って僕自身である

 生活臭のあることは大嫌いだし面倒くさい。仕事も自分の得意分野の職業に就くことができてからは、なおさら自分のしたくない事をしなくなってしまった。

 映画を見たり映画を語ったりするのが大好きで、それに関わるアレコレにはそれなりに精通しているつもりだ。あそこの映画館に行くならここでメシを食うと効率がよい。こっちの映画館ではあのへんに座ると見やすい。今みたいに全部座席指定なんて制度がない時代には、ドアが開いて劇場内に入った時の効率の良い席の取り方なども分かっていた。シネコン時代になって疎外感を感じているのもそのへんが理由なんだろうが…それでもたぶん、慣れてしまえば自分の世界になるんだろう。

 だが、他のことと来たらまるで知らない。知りたくもない。

 親戚と関わるのも厄介だ。友人たちとの付き合いもどんどん限られてきて、切り捨ててしまった旧友たちは数知れず。だから新たに人と関わるのも面倒だ。人に深入りするというのは、それなりに「覚悟」が要る仕事だからである。

 まして家庭を持とうなんて事は…かつて一度だけ思ったこともあったが、それも今では遠い昔。大体が子どもが苦手なタチだ。何しろ僕自身が子どもなんだから仕方がない。

 そもそも、僕は「他人」が煩わしい

 いい時はいい。だが、人生はいい時ばかりではない。そうなった時に「他人」は悪夢となる。「他人」というものは、常に利害が一致する相手ではない。いつも人にいい顔ばかりしているわけにもいかないし、向こうだってそうじゃないだろう。いや、もっとタチが悪い。

 「他人」は平気でウソをつくし裏切る。自分を守るためには汚い事でも何でもする。平気でシラを切る。自分が悪くても謝らず、かえってオマエが悪いとこちらを謝らせようとさえする。「他人」と関わるとロクなことがない。情が移るなんてもってのほか。「他人」とは深く関わらないようにしているに限る。「他人」は信用できない結局、「他人」と理解し合うなんて出来やしないのだ。それは、長年生きてきての偽らざる結論だ。

 ジョージ・クルーニーほどカッコよくはない(笑)が、クルーニーの演じる主人公ライアンは、間違いなく僕の姿だ。人生哲学もほぼ一致する。

 タテマエや原則論やキレイ事としては、僕ももっともらしいことを言える。他者と関わってこその人生…と分かってもいる。しかし本当のホンネの部分をさらけ出してみれば、やっぱり僕はそんな煩わしく面倒くさいすべてから逃げ回っていたい。

 他者や雑事やしがらみを抱えていたら、きっと僕は耐えられなくなってしまう。

 そういうアレコレは面倒くさいだけじゃない。それに関わるとイヤな思いばかりするし、そんな時の自分は一番人に見せたくない見苦しい姿を見せてしまう。そんな自分がキライだ。そして、自分をそんな風にしてしまう、現実とか日常とかがすごくイヤだ。

 それって、ハートロッカー(2009)を見た時に感じた「あの感じ」とも共通する。現実とか日常は、僕にはとっても苦手なモノなのだ。

 そのあたり、僕はクルーニー演じる主人公に、120パーセント同意するのである。

 だから、そんな主人公の生活のバランス、感情のバランスが、徐々に崩れてくる過程が興味深かった。

 「ジュノ」の時には「いい気なもんだ」のガキの話だったから、僕は付き合ってやる気がサラサラなかった。そして、冷たく突っ放して見ることができた。しかし今回ばかりはこの僕も、このジェイソン・ライトマン作品を突っぱねることができない。これはまさに僕の物語なのである。

 そんな主人公が、なぜか望んでもいない人との関わりを持たざるを得なくなり、そのうち何かが変わってくる。それまで欠けていた「何か」に気づき、避けていたことをいつか望むようになってくる。その過程が何とも身につまされ、見ていて好ましく思われる。言葉で言えば「いかにも」な設定・お話だが、それらが尋常ならざる切実さで迫ってくるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は僕はこの作品を途中まで見ていくうちに…これはハリウッド娯楽映画のルーティンとして、「人との関わり」を避けてきた主人公がその大切さに目覚め、それを欲するようになり、最後にそれを手に入れるエンディングとなると自然に思っていた。この映画のストーリーを見る前から知っていた人でなければ、大半の人がそう思ってもおかしくない展開だ。また、そうであってもこの作品は、それなりに好ましい味わいの作品となっただろう。典型的ハリウッド製ハッピーエンドだが、それは必ずしも悪い意味ではない。そういう作品であってもいいはずだ。

 しかし終盤に至って、この作品は意表を突く展開を見せる。

 何と主人公は、「自分のバックパックに入れて背負いたくなった」女性のもとを訪れ、そこで予想外のものを目にする羽目になる。愕然として帰路につく主人公の携帯にかかってきた女性からの電話は、さらに彼の絶望に追い打ちをかけるような内容だった。

 この時の、ジョージ・クルーニーの表情!

 僕はこの感想文の冒頭で、「カッコイイけどいつものクルーニー」なんて言い方をした。正直言ってクルーニーってそんなイメージがあるし、そういう出演作もないとは言えない。

 しかし、今回の作品では…特にこの女性からの電話を受ける場面では、クルーニーの表情が実に秀逸だ。長回しのカメラの凝視に堪えながら、その表情がいつものカッコイイ「オーシャンズ」なんとかとは打って変わって、何ともミジメで疲れ切った中年男のそれに刻一刻と変化していく。この絶妙な表情のアップが、この作品最大の見せ場であると断言できる。

 そういえばちょっと前のフィクサー(2007)のエンディングでも、ジョージ・クルーニーはカメラの長回しによって刻一刻と変化する複雑な表情をとらえられ、絶妙な味わいを出していた。

 これぞまさに至芸!

 正直言ってジョージ・クルーニーって、よほどの熱烈ファンでもなければ、彼のことを「演技がうまい」とか「名優」だなんて思う人はいないだろう。大変申し訳ないが、この僕もそうである。大根とは思わないが、いわゆる名演タイプではない。典型的「スター」の演技をする俳優だと思っているし、大半の人がそうだろう。

 しかし「フィクサー」、そしてこの作品…と続けてこうした複雑な表情の変化を見せる芝居をキメているとなると、これはジョージ・クルーニーに対する見方を大きく変えなければならないのではないだろうか。

 あの惨めさと当惑がじっとりとにじみ出してくるような苦渋の表情は、ハッキリ言ってただごとではない。アベレージな娯楽映画には見られない、意表を突く切実さがそこにはある。

 そして、それこそがこの作品を「良くできたハリウッド映画」以上のものにしている。それだけは間違いないと思えるのだ。

 

見た後の付け足し

 先ほど大胆不敵にも「クルーニーは僕自身」などと書いてしまい、何だかクルーニー・ファンに総攻撃を受けそうな気がする(笑)。しかし、僕がクルーニーに似ているかどうかはともかく(笑)、クルーニーの演じた男と通じるところがあることは、先に延々と書いたとおりだ。

 正直言ってネガティブに言われても仕方がない、僕のライフ・スタイルや人生哲学が、この主人公とかなり重なっているのである。

 だが、実は共通なのはそれだけではない

 劇中この主人公は、望んでない同行者と旅をするうちに、徐々に心境が変わっていく。なぜか自分の家族の存在を意識するとともに、単に割り切った相手と思っていた女を、自分の身内にしたいと思い始めるのだ。もうその時点では、彼の十八番「バックパックを空にしろ」という講演も空しい。

 彼は自分のバックパックに、「何か」を詰めたくなったのだ。

 そして…情けないことに…信じがたいことだが…自分でもどうしていいのか分からないのだが…この僕もまた、自分のバックパックに「何か」を詰めたくなってきたようなのである。

 見ているうちに、何だかこれは「デ・ジャ・ヴ」みたいだと胸が苦しくなってきた。信じられないのだが、主人公の辿った心の動きは、僕がここ1年半ほどの間に辿ったそれと酷似する。大いに戸惑い、抵抗し、自問自答し、気づかなかったふりをして…しかしどうしても無視できなくなった感情だ。

 そう。昨年、父が亡くなって初めて気づかされたことがある。それは、身内というものの存在の大きさだ。

 そして、自分ではまったく関係ないと思っていたものの、やっぱり自分も避けがたく「家族」というものの一員なんだと痛感させられた。煩わしいも何も、それが事実なんだから仕方がない。

 それからずっと、この新しい感情は僕の中でどんどん大きく育ってしまっている。困っているけれども、それが本当の気持ちなんだからしょうがない。人の子どもを見る目も変わってしまった。

 ホントなのか、このオレが?

 信じがたいことだが、自分の中で考え方が180度変わってしまったとしか思えない。しかし、ハッキリ言ってそれが今の自分の正直な気持ちだし、掛け値のないホンネなのだ。

 それだけに、クルーニー演じる主人公が最終的に辿り着く結末はショックだった。正直言って、すっかり動揺してしまったよ。

 そして、これも何かの「デ・ジャ・ヴ」なんだろうかと思ってしまった。

 ここで改めて告白すると…かつてある女と付き合っていた頃に、僕は韓国映画春の日は過ぎゆく(2001)を見て大いにショックを受けたことがある。

 あの作品に映画的に、そして生理的に不快感があることは間違いないのだが、僕の場合にはそれだけでなくてもうひとつ…何となく、見ていて「予感」みたいなものを感じた…ということもあった。映画を見た時には「それ」にはあまり自覚がなかったが、こみ上げてきたイヤ〜な感じは間違いようがない。僕は吐いてしまうほど気分が悪くなった。

 そして、映画で見せられたことは…すべてではなかったけれども…間もなく「現実」としてわが身に降りかかってきた。

 映画を見た時にはそうとは気づかなかったが、確かにあれは「予感」だったのだろう。そういうことってあるもんだ。

 だから、今回も「予感」ではないか…と怯えた。

 そして実際のところ…映画とは違う展開ながら、僕が大きく動揺させられるような出来事がつい先日起きた。あの時は、こりゃあダメかと思った。そして、やっぱり「予感」だったかと思ったよ。

 ただし実際には、僕が懸念していたようなサイアクの展開にはならなかった。

 大事にならずに収束したので一安心。むしろ雨降って地固まる的なところもあったので、こういうこともあってよかったかな…と思ったりもした。

 しかし、ぶっちゃけ「前途多難」だということを痛感せざるを得なかったのも事実。まだまだ、この映画がいつ「予感」になってしまうか、予断をまったく許さない。

 何て面倒くさいんだ。何て不安定で危ういものなんだ。どうしてこう煩わしいし忌々しいのか。

 しかし、それが「現実の生活」というもの。それこそが「人生」ってものなのだろう。

 

 

 

 

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