「NINE/ナイン」

  Nine

 (2010/04/19)


  

見る前の予想

 フェリーニの傑作「8 1/2」(1963)をブロードウェイのミュージカルにした「ナイン」という作品があることは、さすがにショウビズ事情に疎い僕でも小耳に挟んではいた。

 しかし、あの混沌としたフェリーニ作品とブロードウェイ・ミュージカルとのイメージの落差はあまりに大きい。だから、それってどんなもんなんだろう…といささか懐疑的にしか受けとめていなかったのも事実。そもそも、映画になったモノしかブロードウェイ・ミュージカルなんてシロモノには関心がないのだ。その程度の受けとめ方だったことは責められても仕方がないところだ。

 ところが今度は、その「ナイン」がミュージカル映画になるという。監督はシカゴ(2002)のロブ・マーシャル。そうくれば、本来だったら「期待の一作」ってことになるんだろう。

 ただ正直なところ、「シカゴ」を公開時に見たときにはそれなりに楽しんだような記憶もあるのだが、今となってはその印象すら希薄。今回もソコソコ楽しめるんだろうが、だからって「期待」で胸がパンパンってなほどにはとてもなれない。

 ところがそんな「ナイン」の映画化に、ダニエル・デイ=ルイス、マリオン・コティヤール、ペネロペ・クルス、ケイト・ハドソン、ニコール・キッドマン、ジュディ・デンチに何とお懐かしやソフィア・ローレンまで引っ張り出すという豪華キャスト。さすがにローレンは「イタリア味」注入のための顔見せキャスティングなんだろうが、このめったやたらな豪華さは尋常ではない。

 ただし、これってヘタするとパチンコ屋の新装開店の花輪みたいに、大味で空疎なものになりかねない。ここまで派手なキャスティングだと、むしろそうなる危険性の方が高いくらいだ。

 それでもダニエル・デイ=ルイスをこの主人公の監督役(ということは「8 1/2」でいうマルチェロ・マストロヤンニの役どころであり、つまりはフェリーニ役ではないか!)に起用したのは、何とも絶妙だ。チラシに刷られている彼の顔も、いかにも「感じ」が出ている。それだけでも、何となくセンスの良さが伺われる。

 ところがこの映画、一般に向けての派手な宣伝のされ方とは裏腹に、巷のいわゆる「映画マニア」「映画通」からは、何となく冷淡に扱われている感じがする。

 ただねぇ、それも何となく理由が分からないでもない。要は大巨匠フェリーニ様の大傑作「8 1/2」をミュージカルにして、さらにはそれを映画にしちゃったってことが気に入らないんだろう。映画マニアや映画通からすれば、神聖にして犯すべからざる作品、神棚に奉っておかねばならない作品だ。それをミュージカルにしたあげくハリウッド映画化だなんて、失礼にも程があると言いたいのだろう。いやいや、お怒りごもっとも。

 ただし、その事に思い至った僕は、逆にすこぶる痛快な気分になった。そうかいそうかい、そんなくだらない映画通どものツラに泥を塗ったこの快作、ぜひぜひ見てやろうという気になってきたじゃないか。

 仮に僕がこの映画をホメでもしたら、奴らさぞかし頭から湯気を立てて怒りまくるに違いない。こうなると、意地でもホメたい持ち上げたい(笑)。連中をもっと怒らせたい。ああいったイタイ映画バカどもを悔しがらせることなら何でもする。悪魔にだって魂を売るぜ。

 元々が天の邪鬼な僕の反逆精神(笑)に火がついて、早速映画館に足を運んだというわけだ。

 

あらすじ

 1960年代のイタリア、ローマ。世界的に有名な映画監督グイド・コンティーニ(ダニエル・デイ=ルイス)は、注目の新作に取りかかろうとしていた。

 記者会見では、いつもの調子でのらりくらりと記者連中の質問をかわす。「今度の映画の内容は?」だって? くだらないことを聞くなよ。ストーリーも設定も何ひとつちゃんと語ろうとしないグイド。ただ「イタリア」という壮大この上なしのタイトルと、主演女優がコンティーニ作品常連の彼のミューズ、クローディア(ニコール・キッドマン)であることだけが発表されただけで、その全貌はまったく明らかにされなかった。

 いや、明らかにされなかったのではなく、明らかにできなかったのだ。

 彼の作品を毎度毎度制作してきたプロデューサーも、彼の作品を支えてきた「コンティーニ組」のスタッフも、どんな映画か知らなかった。いやいや、実は当のグイド本人すら知らなかったのだ。

 実はグイドの頭の中は、真っ白だった

 グイドゆかりのチネチッタ撮影所にやって来れば、スタッフたちはみんな「マエストロ!」と言って恭しく出迎えてくれる。しかしスタジオ内にはなぜかセットも建ち始めようというのに、シナリオは1行だって書けていない。ここ最近の作品が不評だからか? それとも年齢的なものなのか? なぜかは分からないが、とにかくまったくアイディアが湧いてこないのだ。

 勢い余ってクルマに飛び乗り、ローマを脱出してしまうグイド

 本来なら優しい母(ソフィア・ローレン)に甘えたい。しかしそんな母も今は墓の中だ。頼りになる衣裳デザイナーのリリアン(ジュディ・デンチ)は辛辣なアドバイスを与えてくれるが、それも今では助けにならない。グイドはクルマを飛ばして地方の温泉保養所にやって来て、衝動的にそこのホテルに宿をとる。早速、ホテルの部屋から電話して、妻のルイザ(マリオン・コティヤール)に泣きを入れる始末だ。しかし妻をホテルに呼び寄せるのかといえば、そうはしない。

 代わりに呼び寄せたのは、肉感的な愛人のカルラ(ペネロペ・クルス)だ。ところがすぐに鬱陶しくなり、彼女を近くのアパートへと追いやるグイド。どこまでいっても徹頭徹尾テメエ勝手な男なのだ。

 それは何がいけなかったのか、幼い頃に彼を「オンナに目覚めさせた」娼婦(ファーギー)がいけなかったのか。ともかくグイドは女にだらしなかった。その女に助けられ、女を原動力に仕事をやってきたのだ。

 だが、いまやその「仕事」と「女」に危機が訪れている。

 そんなグイドの行き先を嗅ぎつけたプロデューサーは、スタッフごと制作本部をこの温泉保養所に持ってきてしまった。もはや逃げ隠れできない。妻のルイザもやってきた。そこにカルラもやって来て、ルイザに見つかってしまった。あげくルイザが自殺未遂する始末だ。スクリーンテストのためにやって来た女優クローディアには、何もアイディアがないことを見透かされ降りられるアリサマ。もはや八方ふさがり。

 アメリカの女性ジャーナリスト、ステファニー(ケイト・ハドソン)には「イタリア映画ってサイコー!」と持ち上げられ付きまとわれるが、それもこうなってみると結構ツライ。

 進退極まったグイドは、ついにひとつの決心をするのだった…。

 

感想の前のちょっとした因縁話

 この感想文のイントロでやたら挑発的なことを書いてしまったが、実は映画マニアやら映画通とフェリーニという取り合わせは、僕にとっては少々因縁めいたモノがあるのだった。

 前にもこのサイトのどこかで書いたかと思うが、こんな僕でも高校生の時には、学校の映画研究会に入ろうとしたことがあった。

 それは今から35年前にさかのぼる。僕は友人と二人で、映画研究会の部室を訪れたわけだ。すると、先輩が僕らを出迎えた。早速、聞かれたのが「好きな映画監督」の名前だ。

 言っておくが、高校1年である。映画監督の名前など、そんなに知るわけもない。そもそも映画監督で映画を見ていない。それなのに、この先輩は僕らに「好きな映画監督」の名前を聞いたのだ。今考えれば、この先輩どれほど思い上がったバカなんだ。現在のオレの前にそいつがいたら、頭からどやしつけてイジめて小便チビるまで泣かせてやったのに(笑)。

 結局、僕はその当時「ジョーズ」で覚えたての名前、スピルバーグを挙げた。それは、まんざらウソではない。その前の「激突!」も見ていたし、何となく気になる名前ではあったのだ。今では昨日今日映画見始めたアンチャンにも「スピルバーグって軽いよな」とか聞いた風なこと言われるようになったスピルバーグだが、当時はまだ期待の新鋭。だから僕は何とかオーケーになった。

 しかし可哀相だったのは友だちで、彼なんか映画監督の名を知るわけもないから、仕方なく「チャップリン」の名を挙げるのがやっと。その時の先輩とやらの人をバカにしたような目つきが忘れられない。

 それ以来、僕は映画マニアとか映画通とやらを軽蔑している

 いや、敵視していると言っていい。奴らは映画の敵だ。汚らわしい。絶対に許せない。イングロリアス・バスターズ(2009)みたいに、スクリーンごと焼き殺されても文句は言えないのだ。というか、一緒に焼き殺したらスクリーンがもったいない。

 ともかくこの先輩とやらは、その週の土曜日に名画座である映画を見るように…と言い渡した。その映画こそが、大フェリーニの超名作「道」(1954)。仕方なく友だちと一緒に池袋まで見に行ったけど、ここだけの話…ハッキリ言ってサイアク!

 元々オレは、男が女をイジめるのを見るのが大キライ。結婚した大学時代の友人の新居に遊びに行った時も、彼が嫁さんを罵倒しているのを見てイヤ〜な気分になった。それでも男かオマエは。韓国映画に入れ込んでいた時も、女をイジめ抜く作品群だけは好きになれなかった。

 別にフェミニストなわけじゃない。

 そもそもオレは、誰かが誰かをイジめたり、不当に高圧的な態度に出るのを見るのがイヤなのだ。だから役人も大キライだしSMも見るに耐えない。あれは合意の下と分かっていても、理屈ではどうにもならない生理的な部分で我慢できない。逆にふんぞり返ってるいわゆる「S」の奴を、メッチャクチャにいたぶってやりたくなる。縛り上げてドツキ倒して火責め水責め、ウッヘッヘ楽しいだろうなぁ…ってことは、実はオレ自身が屈折した「S」なのか(笑)?

 閑話休題。ともかくあの映画は、僕の苦手な範疇であったことは間違いない。おまけに、その前に例の「チャップリン」の一件もあった。それでなくてもイヤ〜な気分は僕らの中で醸成されていたのだ。こうしたわけで、フェリーニの「道」は、僕にとってすこぶる不愉快な映画体験となったわけだ。

 おまけにその報告が義務づけられていて、僕らは例の先輩の前で「感想」を言わされる羽目になる。確か歯の浮く言葉でホメたと思うが、もう覚えていない。そんな僕らに、先輩は決定的な一言を吐いたのだった。

 「この映画は『ジョーズ』を見るように見てほしくない」

 「ジョーズ」と同じに見てどこが悪いんだ、このボケが! 僕らがこの映画研究会を速攻辞めたのは、言うまでもない。それ以来、映画研究会の類には一切近付かないようにしてきた。この先輩、今どこかで会ったら処刑もんだよまったく。額にナチの紋章でも刻んでやった方がいい。

 そんなわけで、僕の中でフェリーニは、長く「イヤな映画」の代名詞になっていた

 映画通やエセ・インテリの持つ、偽善や歪んだ優越感や鼻持ちならないスノッブさ。僕にとっては生き続ける限り戦わねばならない、最も許し難い「悪」。それを象徴する単語として、「フェリーニ」は僕の中に君臨したわけだ。

 そんなフェリーニ嫌いも、実はその後間もなく「アマルコルド」(1974)を見ることで氷解することになる。そして「フェリーニ」の座はすぐに「ゴダール」に、さらには「オリヴェイラ」とか「ソクーロフ」に譲られることになった(今ではそれもどこかに消えたけど)。

 だから僕が「8 1/2」を見たのは、フェリーニ作品でもかなり後のことになる。実は「カサノバ」(1976)や「女の都」(1980)などより後なんだから、正直言ってデカいことは言えない。映画ファンを自称する人としては、見たのは遅いほうじゃないだろうか。

 見た時にはそれなりに感慨もあったけれども、ぶっちゃけ「名作映画をお勉強させていただいた」感じもないわけじゃなかった。これがあの「8 1/2」ね…って感じか。だから、僕の心の中で特別な場所を占める映画にまでは残念ながらならなかった。

 映画製作を描いた映画なら、申し訳ないがトリュフォーのアメリカの夜(1973)が最高峰。それより上はこの世にはない。映画史的に映画マニア的にはどうか知らないが、悪いけど一切の反論は認めない。僕にとっては、それが間違いなくホンネなのである。

 

見た後での感想

 …というわけで、長々と前フリを語ってしまったことをお許しいただきたい。でも、僕とフェリーニ、そして「8 1/2」との不幸な出会いを語っておかねばならなかった。

 で、早速この映画について一言で言ってしまおう。

 これって楽しい映画だ。

 世間じゃどう言ってるか分からないし、気に入らない奴も多いのかもしれない。それはそれで大いに結構だ。だが、僕は結構気に入っている。いや、ホントに、冗談じゃなくて。

 感想文のイントロには「意地でもホメたい持ち上げたい(笑)」と書いているから、それでホメてるに違いないと思われる向きもあるかもしれない。だが、これは決してそのせいではない。イントロではああ言ったものの、全然好きにもなれない映画を「楽しい」とは言いかねる。

 本当に、僕はこの映画を楽しんだ。

 本当に楽しかった。見ていてニヤニヤしちゃった。だって、ダニエル・デイ=ルイスのイタリアの名監督ぶりが、何とも堂にいってるじゃないか。フェリーニには似てないけど、何となくあの時代のイタリアの巨匠って「感じ」を出してる。これが見ていて嬉しかった。

 そして、何よりまずイイ歌が多い。ミュージカル映画でこれはまず最低条件だと思うよ。

 実際、歌はどれもこれもツブ揃いだ。僕は映画を見た後、すぐにサントラCDを買ったもんね。これだけいい歌が入っていれば、ミュージカルとしてつまらない映画になろうはずもない。

 感心したのは、これらの歌をキラ星のごときスターたちがみんな自分で歌っていること。これには正直言って驚いた。ダニエル・デイ=ルイスまで歌ってるんだよ。ジュディ・デンチなんて歌って踊って結構いい感じなんだよね。あのソフィア・ローレンまで歌っちゃうんだよ。

 ニコール・キッドマンならムーラン・ルージュ(2001)でミュージカルは通過済みだから、危なげなくやるだろう。だが、それ以外の面々は、ミュージカルとはどう見ても無縁。それらの豪華スター陣が、ちゃんとやってのけているあたりが壮観なのだ。しかもマリオン・コティヤールのストリップまがいの歌や、ケイト・ハドソンによるイタリア映画賛美の歌などは見ていても聞いていても楽しい。

 僕はこの映画を、ミュージカル映画として理屈抜きで楽しんだ。

 そして、いかにもロブ・マーシャルらしい映画だなと改めて感じたのだった。

 

ロブ・マーシャルとボブ・フォッシーとショー・ビズ

 ロブ・マーシャルはミュージカル映画として久々にオスカー作品賞を受賞した「シカゴ」の監督だったから、この映画の監督にふさわしい…な〜んてことは、僕はこれっぽっちも思ってはいない。

 だがこの作品を見終わった今、僕は改めてこの作品にロブ・マーシャルはピッタリの人選だったと思わずにいられない。

 それを一番簡単に語るには、まずはここまでの彼のフィルモグラフィーを見渡すのが早道だろう。

 まどろっこしい話はヌキにしたいので結論を急ぐと、映画におけるロブ・マーシャルの意匠は、常にショー・ビジネスを描くことにある。「シカゴ」は基本的にヒロインがショー・ビジネスに憧れている女で、一方の重要登場人物がショー・ビジネスに身を置いている女というお話。ヒロインは物事万事ショー・ビジネスと見立ててしまうような人物で、だからお話もミュージカル仕立てで描かれていくという仕掛けだ。ここでの「ショー・ビジネス」とは語り口であり、かつ設定だ。単なる背景として出てくるものではない。

 次いでマーシャルが何でまた日本の芸者の話なんか撮ったのか…と各方面に疑念を撒き散らしたSAYURI(2005)も、芸者役に中国人女優を起用したとか細かいことを考えずに見てみると、これはこれでショー・ビジネスの世界の話と考えればツジツマが合う。まさに白粉と汗とスポットライトの世界として、芸者の世界を描いているのである。

 そして今回は、フェリーニ映画を題材にしたイタリア映画製作の裏話。またしてもショー・ビジネスを描いたお話だ。

 だからロブ・マーシャルは今回の作品を手掛けたのだ…と言ってしまっても間違いではない。だが、ここでもうちょっと中をのぞいてみると、ひとつのキーワードが見えてくるはずだ。

 それは、ボブ・フォッシー

 亡くなってからかなり経つので説明の必要があるかもしれないが、ボブ・フォッシーは「キャバレー」(1971)、「レニー・ブルース」(1974)などを撮った人物。そして本来は、有名なブロードウェイの振付師であり演出家だ。実はあの「シカゴ」も、元々はボブ・フォッシーのミュージカルだった。で、これは実はかなり重要な点だと思うのだ。

 これまた語り出すと面倒くさいので詳しくは「シカゴ」の感想文を読んでほしいが、ロブ・マーシャルがこの作品にボブ・フォッシー・テイスト、中でも彼の映画作品で最も重要な作品オール・ザット・ジャズ(1979)を強く意識していたのは、どうも間違いないようだ。

 そして「オール・ザット・ジャズ」こそ、ボブ・フォッシーが自らの「8 1/2」として制作した自伝的作品なのである。

 実は「8 1/2」にインスパイアされたりパクったりした作品は、映画界にもゴマンとある。あのウディ・アレン「スターダスト・メモリー」(1980)でハッキリと「8 1/2」のスタイルを踏襲していたし、何とポール・マッカートニーでさえ自ら脚本を書いた「ヤァ!ブロード・ストリート」(1984)で、臆面もなくイタダキをやらかしている。映画そのものは死ぬほど退屈なんだけどね(笑)。

 だが「8 1/2」影響下の作品で真に成功した作品と言えば、ボブ・フォッシーの「オール・ザット・ジャズ」にトドメを刺す。

 自分の妻、愛人、娘、そして死神である「女神」…などのさまざまな女性たちが登場し、少年時代から幻想までが交錯する中で、舞台制作や映画製作に没頭しながらも創作の悩みにぶつかる姿を描き出す。完全に「8 1/2」を意識した作品。実は「ナイン」をつくるまでもない、すでに「8 1/2」のミュージカル版はここに存在したのである。

 だから、ロブ・マーシャルが「ナイン」を映画にしたがらない訳がない

 そもそもボブ・フォッシーは、遺作となったプレイメイト殺害までの物語「スター80」(1983)に至るまで、ショー・ビジネスに生きる人々を描いてきた。そのあたりからして、完全にロブ・マーシャルが踏襲している世界ではないか。そのフォッシーが自分なりのミュージカル映画にした「8 1/2」を、ロブ・マーシャルがこれまたミュージカル映画にしたがらない訳がないのだ。

 案の定、出来上がった「ナイン」は「オール・ザット・ジャズ」的雰囲気を濃厚に撒き散らす。スタジオ内でカメラを従えた主人公の周囲に、彼にまつわる女たちが配置される構図を見よ。「オール・ザット・ジャズ」の終盤の「バイ・バイ・ライフ」ショー場面と完全に重なる。それ以外にも、あちこちに「オール・ザット・ジャズ」の残像がデジャヴみたいに見え隠れするのである。

 ただし正直に言うと、ドラマとしてはどうかという話は、僕はまったく興味がない。

 この映画「ナイン」が「8 1/2」ほどの深みがないとか言っても、それはハッキリ言って意味がないと思う。別物なんだから、比較されても困るだろう。そもそも「8 1/2」を拝み奉る気なんて毛頭ないんだから、別に怒る理由もない。むろん「オール・ザット・ジャズ」と比較するのもナンセンスというものだ。僕はそんなことをする気はない。

 ダニエル・デイ=ルイス演じるグイドの創作者としての苦悩…とやらは、昔だったら僕もいっぱしのクリエイター気取りだったから、大いに共感したクチだったかもしれない。だけど今じゃ僕もそんな化けの皮もはがれちゃったから(笑)、もう共感なんてとてもとても。クリエイターだから何なのだ。別にエライわけじゃないだろ。あんなに大げさに大上段から振りかぶられたってハタで見てる方はシラける。単に助平で調子イイだけなのに、女のことで深刻ぶられても困るのと同じだ。本人は至ってシリアスなんだろうけど、「いい気なもんだ」としか見えない。このへん、自分で出演している近年のウディ・アレン映画みたいな雰囲気もあるんだよね(笑)。

 だから映画監督の苦悩だとか何だとかって話については、ハッキリ言ってどうでもいいとしか言えない。それでも、僕はこの映画を楽しんだ。

 白状すると、誰もいないスタジオにガックリ落ち込んだ主人公=映画監督がいる…という構図に、インドのグル・ダットの旧作紙の花(1959)のイメージをチラッと嗅ぎ取ったりもした(本当に似たような場面が出てくる)が、おそらくそれは偶然だろう。ロブ・マーシャルがそんな古いインドの映画を見ているとは思えない。それは「映画中映画」というジャンルの作品が好きな僕が、勝手に見た妄想の類だ。しかしながら、映画ファンにとってはそんな楽屋オチめいた楽しさがある作品であることは間違いない。そもそも「映画中映画」ってそれだけで嬉しい。

 それでスターがどっちゃり出てきて歌も良くって楽しければ、もうそれだけでいいではないか。

 僕はもうそれで十分なんだけどね。

 

見た後の付け足し

 ただし付け加えさせていただければ、ホンネを言うとグイドの気持ちは少々分からないでもない

 それは、次から次へと節操なく女に手を出して墓穴を掘っている「色男ぶり」について…ではない。もちろん「有名人」としての苦悩でもない。

 ある日まったく突然に、頭の中が真っ白になる…その「恐怖と焦り」に関して共感したのだ。

 これは誰にでも分かってもらえる類の悩みではないだろうが、実は最近の僕もグイドと同じだ。何かを作ろうにも書こうにも、頭が真っ白でなかなか取りかかれない。そんなの誰でも同じだって? いやいや、僕は違ったんだ。これは自慢でも何でもなくて、昔の僕は違っていた。

 僕は子供の頃から、文章を書くのに苦労したことがなかった

 むろん子供の頃に僕が書いていた文章は、稚拙で幼稚なものでしかなかった。しかしそれでも、書くことは好きだったし、書くことで苦しんだ記憶は一度もない。何か書けと言われれば喜んで書いたし、大した時間もかけずにいくらでも文章を綴れた。

 それは大人になって、物書きを商売にしてからも変わらなかった。いくらでも面白いだけ書けた。これだけの分量を書けと言われれば、ピタリとその分だけ書けた。構成やテーマや文体など、書く前に決めたことがない。書き始めれば、それはおのずから出来上がった。まるで最初から構成を考えたようだったし、テーマを練ってから書いたみたいだった。しかし白状するが、僕は一度もそんなことを事前に決めた上で書き始めたことがない。ただ机に座って紙に向かい、鉛筆をはしらせれば文章になった。それがシャーペンに変わり、さらにはワープロに変わりパソコンに変わっただけだ。

 むしろキーボードを叩くようになってからこそ、僕の文章力は本領を発揮したといえる。ペンをはしらせていたのでは、考えているスピードに追いつかない。せっかくいい言葉を思いついても忘れてしまいそうになる。だからキーボードに変わったところで、僕の文章の生産量は飛躍的に増大した。

 頭なんか使わない。心も関係ない。とにかく文章はいくらでも出た。こんなことを書いてくれと言われれば、ご要望の通りに書いた。客の要望だってキッチリ応えた。どんなスタイルだって思いのままだった。

 もちろん深く考えて書いたこともあるが、それは文章テクニックに関わることではない。内容に関してだけ考えて、それを文章にすることにはまったく頭を使わなかった。そんなもの、自然に手がついてきた。僕は手の「筋肉」で書いていたのである。

 ところが僕が今の仕事に就いて、本の編集とライティングをするようになってから数年が経って、ちょっと事情が変わってきた。

 それは一昨年あたりからだろうか、書くのがだんだんシンドくなってきた。連日の徹夜でとにかくページ数をこなさねばならなくなって、僕は徐々に消耗していたのだろうか。ついには昨年あたり、完全に筆が止まってしまった。頭が真っ白になってしまったのだ。

 このサイトの感想文だってそうだ。最初はお茶の子でスラスラ書けた。余力でいろいろ絵を描いたりフザケたことをしたりした。口笛吹きながら文章が書けた。苦労したことなど一度もなかったのだ。

 ところが近年は、ひとつの感想文を書くのがひどく苦しい。言葉が出ない。引っかかり突っかかりながら書いている。そうして何とか書いてみても、自分ならではの文章にならない。これじゃどこぞのバカな映画ライターと変わらない。

 これは苦しいよ。

 野球のピッチャーがロートルになって、それまで直球ストレート勝負だったのがコントロールで投げる選手になった…てなことを、昔よくスポーツ新聞なんかで読んだもんだ。その時は「そんなもんかい」と軽く流してしまった記事だが、今になってみるとよく分かるし、その切実さ大変さも痛感できる。

 それまで何も苦労なしに、ズバリ言ってしまえば「資質」だけでやってきたものが、突然どうにもならなくなってしまう。それが年齢的なものなのか、それとも他の何かの要因なのか、理由は分からない。しかしそれまでのやり方では、もはやどうにもならないということだけは分かる。自分を変えねば、先に進めなくなるのだ。これは本当にツライ。

 今の僕は、少しは頭を使って書いている

 先ほどこの映画の主人公グイドの苦悩を「いい気なもんだ」とは書いたものの、それは大抵の観客にはそうとしか見えないだろうからそう書いた。それに、「女にモテモテなオレ」ってのと絡めて偉そうに描いているから、そう書いたのだ。まだまだこの主人公もこの作者も、どこかカッコつけてるね

 たぶんロブ・マーシャルは、本当に自分がそんな創作上の危機に直面していないから、どこか他人事みたいにこんな描き方をしたんだろう。本当にツライってどんなことか分からないから、単なる上っ面だけで描いているのだ。だから、何となく薄っぺらい

 だが、この主人公グイドの身に起きたようなことが本当にあるってことだけは、この僕でも分かる。それだけは、僕も笑ってしまうわけにいかないし、単にケナすだけで済ませるわけにはいかないのだ。

 それこそが、僕の現在直面している問題なのである。

 

付け足しの付け足し

 そんなこの映画を見ていて、ふと耳にとまった曲がある。

 それは、グイドのスポーツカーのカーラジオから流れる曲だ。ほんのちょっとしか聞こえなかったが、あれは間違いない。僕はその曲を、子供の頃、ゴールデンハーフ(!)の歌で聞いていた。当然それは日本語だったが、実は元歌はイタリア語だったのだろう。

 それは「24000回のキッス」という歌だ。

 いかにも1960年代っぽいアップテンポの曲。そしてメロディ・ラインはといえば、どこかイタリア風味の哀愁が漂っている。

 この曲については今回私が子どもだったころゴールデンハーフの巻に書かせていただいたが、そういえば僕が子供だった1960年代には、イタリアやフランスの歌も「洋楽」としてよく聞かれていた。今では「洋楽」はアメリカ、イギリス産の英語の歌と決まっているし、その「洋楽」そのものも聞かれなくなったが、当時は結構ヨーロッパの歌も流行っていたのだ。フランスのシルヴィ・バルタンなんてのもいたな。

 実はその昔流行った歌で、イタリアのミーナという歌手が歌った「砂に消えた涙」という歌がある。僕は子供の頃、親戚の家でこの歌を聞いたが、一度聞いたら忘れられない不思議な魅力を持った曲だ。

 ただし僕が聞いたのは日本語版で、ミーナ自身が舌っ足らずな歌声で「ウわたしはすうなのぉーンなかにぃー」と歌うシロモノ。しかしこの曲、シングルのB面にはイタリア語の原曲も入っているが、断然日本語版の方が味わい深いのだ。たぶん日本では、この日本語版の方がポピュラーなのだろう。

 イタリアの歌というと、僕はついついミーナを思い出してしまう。そのミーナの「砂に消えた涙」が出たのは1964年だ。

 実は僕はそのミーナが歌っていたアップテンポのノリノリのツイスト曲も気に入っていて、それって何かとずっと探していたのだが…何とそれってミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」(1962)のテーマ曲だというからビックリ。恥ずかしながら僕はこのアラン・ドロンモニカ・ヴィッティが出演した作品を見たことがないが、何でも冒頭にちゃんとミーナの歌で流れるらしい。

 しかもツイストである。アントニオーニが、である。

 しかし考えてみれば、アントニオーニはイギリスに行って撮った欲望(1966)でもヤードバーズを使ってるくらいだから、ミーナのツイストなんざ別に驚くには値しないのだろう。それより、今ではアートな映画として神棚に上げられているアントニオーニだが、実は大人気のミーナのツイストを使っていたということに注目すべきだ。今でこそ「映画芸術」みたいに有り難がられてるけど、当時としてはぐっとヒップでオシャレな映画だったということなのではないか

 そう考えると…とここでやっと映画そのものに戻ってくるのだが…この「NINE/ナイン」の中でも出色なナンバー、「シネマ・イタリアーノ」でうたわれている内容も頷ける。

 もしグイド=フェリーニだとすると、「オシャレでたまんない!」とうたわれる「シネマ・イタリアーノ」の内容は「ちょっとどうかなぁ」と言いたくなるところ。確かに「8 1/2」をはじめフェリーニの分身をカッコいいマルチェロ・マストロヤンニが演じたりしているが、フェリーニ作品そのものを考えると「オシャレでたまんない!」と言えるのは「甘い生活」(1960)ぐらいのもんじゃないだろうか。フェリーニ作品って、「シネマ・イタリアーノ」に出てくるグラサンのイケメン男たちやイエイエ娘たちってノリじゃないよなぁ(笑)。

 だが、これを「太陽はひとりぼっち」などアントニオーニ作品あたりも含めての「総体」としての当時のイタリア映画と考えれば、「シネマ・イタリアーノ」の「オシャレでたまんない!」っていうのも分からないでもない。そして確かにあの当時のイタリア映画って、今の映画ファンたちがアートだの何だのって言ってる以上に、もっとヒップでオシャレでカッコよかったんだろう。そんなミーハーな良さもあったんだろうね。それでなければ、ただ難解だけな映画があれほどモテはやされるわけもない。

 この映画には、そんな1960年代の気分がうまく描かれている気がする。

 実はこの僕は、1960年代が大好きだ。ビートルズや黒澤明が現役で、手塚治虫が屈折する前の時代。何かが起きそうでイキイキしていた、この時代にすごく憧れがある。僕は残念ながら子供で何も味わえなかったのだが、ホントはこの時代に大人になりたかった。僕は生まれてきた時代を間違えたのだった。

 そんな1960年代の臭いを、チラリとだけでも嗅ぐことができた。それだけでも、僕はこの映画を悪く思えないんだよね。

 

 

 

 

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