「バッド・ルーテナント」

  (リメイク版)

  Bad Lieutenant - Port of Call New Orleans

 (2010/03/29)


  

見る前の予想

 チラシを見てビックリ。あの異色犯罪サスペンス映画「バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト」(1992)がリメイク、しかも主演はニコラス・ケイジ

 僕はこれだけで見たくなった。

 もっとも、これには少々説明が要るかもしれない。“あの「バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト」”…なんて言ったところで、今の人にはまるっきりピンとなど来やしまい。…とは言っても、別に僕がマニアックな映画に過度に詳しい訳じゃない。この映画が公開されて評判になった時代に、僕もたまたま映画を大量に見始めていたというだけの話。ともかく、その時にはそれなりに話題になった映画だった。

 とはいえ、「話題になった」と言っても娯楽映画的にヒットしたというわけではなかったのも事実。ミニシアターが大流行だったご時世に、この映画もちょっと狭い範囲で知られていたというのがホントのところだ。主演のハーベイ・カイテルが悪徳刑事を演じる映画だった…といえば、その「狭さ」が何となくお分かりいただけるかと思う。

 今回はそれをニコラス・ケイジが演じるというから、大いにワクワクしたのだった。

 ニコラス・ケイジ…この人ってたぶん好みが分かれるかとは思うが、僕にとっては主演作が待ち遠しいスター。もっとも、この人の作品はそんなに待たずともドンドンやって来るから、これまたファンには嬉しいのである。

 そして、その作品選択のユニークさも魅力。

 近年の主演作だけ並べてみても、ゴーストライダー(2007)、ウィッカーマン」リメイク(2006)、ネクスト(2007)、バンコック・デンジャラス(2008)、ノウイング(2009)…と来る豪華ラインナップ。もっとも、これを「豪華」と思うのは僕一人かもしれない(笑)が、その作品群の数の多さもさることながら、クセの強さには誰もが驚かされると思う。

 そんな異色スター、ニコラス・ケイジが「バッド・ルーテナント」リメイクに主演するのだ。あの作品をもうリメイク?…と驚いたものの、実はすでに15年以上が経過しているのだった。そういうことだってあるだろう。

 もっと驚くべきことは…これもチラシで知ったのだが、何と監督がヴェルナー・ヘルツォークではないか!

 ヘルツォークと言えば今は昔のニュー・ジャーマン・シネマの旗手の一人。何かと言えばアメリカだロード・ムービーだと騒いでたヴィム・ヴェンダースならいざ知らず、真に「奇才」の名にふさわしいヘルツォークが、アメリカ映画を撮ろうとは夢にも思わなんだ。しかも、前述のヴェンダースにして「ハメット」(1982)でアメリカ映画に挑戦して散々な目に遭い、その顛末のグチを「ことの次第」(1981)で垂れ流すアリサマ。さらに「夢の涯てまでも」(1991)で国際的大作に無謀にも挑んでミジメに大失敗…という結果に終わったのに、もっと危ない要素がいっぱいのヘルツォークがアメリカ映画を撮れるなんてとても思えない。

 しかも、撮るに事欠いてリメイクだ! 撮れるかどうかより、そもそも撮りたがった理由が分からない。

 しかし、こうして作品が日本まで辿り着いたのだ。とにもかくにも完成はしたのだろう。いやぁ、しかしヘルツォークがアメリカ映画づくりなんて出来る人なんだろうか。それにニコラス・ケイジとのコラボってどうなんだろう。

 ってなアレやコレやが興味津々だったので、ともかく劇場に駆けつけたというわけだ。

 

あらすじ

 ハリケーン・カトリーナ襲来直後、ニューオリンズ。

 真夜中の水没した警察署に、テレンス・マクドノー(ニコラス・ケイジ)とスティービー・プルイト(ヴァル・キルマー)の二人の刑事がやって来る。冗談交じりでしゃべりながら現れた二人は、警察署内の留置場に置き去りになった囚人がいないかを調べに来たのだった。すると案の定、暗闇の中で水没した鉄格子の向こうに、ひとりの囚人が首まで水に浸かっているではないか。やって来た二人に、囚人は必死に命乞い。しかし二人の刑事は、ただただ笑って見ているだけだ。

 「オマエなんかのために水に濡れられるかよ」

 「オレは女からもらった一張羅のパンツはいてるんだぜ」

 そんなこんなで好き勝手なことを言いながら、二人は囚人の叫びをまったく無視する気配を見せた。ところがそんなフザけたことを言っていたマクドノーが、いきなり眼下の水の中に飛び込んだからプルイト刑事の方がビックリ。一体マクドノーにどんな心境の変化があったのやら。

 こうして、囚人は見事に助け出された。しかしこの際の無理が祟って、マクドノーは腰に深手を負ってしまう。今後は腰の激痛が絶えることがなく、鎮痛剤が手放せなくなってしまう…と医者に宣告されてしまった。

 それでも人命救助の英雄として、同僚たちの前で表彰されるマクドノー。彼はこれで警部補に昇進。出世街道に乗ることになった。

 そして1年後。

 殺人現場に呼び出され、クルマでやって来るマクドノー。降りる前に、まずはヤクを一発キメる。もはや彼は、こいつがなければ始まらない身体になっていた。気分も一段とハイになって、勢いよく現場に飛び出していくマクドノー。そこは修羅場と化した、一軒の汚い家だった。

 セネガルからの不法入国者の一家5人が惨殺された。しかも幼い男の子まで。そのあまりの惨さに、ハイになっていたマクドノーまでもが顔をゆがめる。まだ彼の中に、そんな純粋さが残っていたのか。

 早速、警察署で捜査会議が開かれる。この事件の捜査の指揮を執ることになったのは、やはり「やり手」のマクドノー。しかし彼はデカ長に、「任せて大丈夫か?」と声をかけられる。それは彼の痛む腰を思いやってのことだったが、ひょっとしてそれ以外の意味もあったのかもしれない…。

 彼はホテルで「仕事」中の恋人、高級娼婦のフランキー(エヴァ・メンデス)の元を訪れる。しかし、彼女彼女とイチャつきながらまたまたマクドノーが取り出したのがヤク。警察署の資料係に手を回して、証拠品の麻薬を回してもらっているというトンデモなさだ。

 しかし資料係がいよいよビビり出したため、いいブツが手に入らなくなりそうな気配。そんなこんながマクドノーを徐々に苛立たせていたのだろうか。いかにもブツを持ってそうなカップルを尾行しては、いきなりパクッてブツを押収。しかもカップルの女の方まで男の目の前でチャッカリ頂戴するという、いささか目に余る行為にまで及ぶ。やり口もヤクの摂取量も、少々エスカレートの度が過ぎて来た。

 やがて不法入国者一家惨殺事件も、徐々にその全貌が見え始めてくる。

 どうやら殺された一家はヤクの売買に手を出して、この地で麻薬商売を仕切っている大物ビッグ・フェイト(アルビン・“イグジビット”・ジョイナー)の怒りを買ってしまったらしいのだ。しかし手下たちも周囲の連中も、頑なに証言を拒む。だがマクドノーは殺人が行われた直前に現場の家を訪れていた少年の存在を知り、その少年ダリルに証言させることを約束させた。むろん証言者の身柄を自分が徹底的に守る…という確約付きだ。

 しかしフランキーからタチの悪い客のことで泣きつかれ、慌ててマクドノーはダリルを連れたままフランキーのいるホテルの一室へ。客をブチのめしカネを奪い返したところまでは良かったが、どうやら客は地元の「大物」の息子らしい。それでもヤクで舞い上がったマクドノーは気にしなかったが、あまりに常軌を逸した態度に、ドン退きしたダリルはトンズラした。

 証言者に逃げられ、警察内での立場が急速に悪化するマクドノー。しかもブチのめしたフランキーの客が、父親の権力をタテに圧力をかけてきた。おまけにバスケ試合の賭けで負けがこみ続け、ノミ屋にはしきりに借金返済の催促をされる始末。フランキーの身も危うくなったため自分の父親の家に匿うが、ここでも父親の女ジュヌビエーブ(ジェニファー・クーリッジ)とモメて気苦労が耐えない。

 あっちもこっちも一触即発。もはや進退窮まったマクドノーは、何を考えたか問題のビッグ・フェイトその人にいきなり接近。何と警察の内部情報を提供する代わりに報酬を得るという、「協力関係」の構築を持ちかけるのだが…。

 

ヘルツォーク映画の尋常でない「とんでもなさ」

 ニュー・ジャーマン・シネマの旗手のひとり、ヴェルナー・ヘルツォーク。僕はその作品すべてを見ているわけではないが、それでも見た作品はすべて強いインパクトがあったと断言できる。

 まずは何と言っても「アギーレ/神の怒り」(1972)の迫力を筆頭に挙げないわけにはいくまい。エルドラドを求めてアマゾン川を遡るスペイン人たちのお話。それが、まるで「地獄の黙示録」(1979)のように、おぞましい悪夢として展開していた。いや、こっちの方が主演のクラウス・キンスキーの怪物的な個性のおかげもあって、さらにもっとヤバイ雰囲気で全面展開していた。とんでもないモノ見ちゃったって気にさせられた。

 次いで見た「フィツカラルド」(1982)も、「とんでもなさ」においては一歩も退かない。詳しいことをクドクド書いても仕方がないので省略するが、ともかくまたまた南米の川が舞台で、ヤマ場は巨大な蒸気船を山に運び上げ、別の川まで持っていくという「とんでもない」シロモノ。これまたクラウス・キンスキーが完全にヒューズの飛んじゃった男を怪演して、この映画の途方もなさをパワーアップさせていた。

 実はそれに先だって僕は、ヘルツォーク作品とは知らずに「ノスフェラトゥ」(1978)も見ていた。古典的な吸血鬼ホラー映画のリメイク。か弱そうなイザベル・アジャーニににじり寄るおぞましき吸血鬼は、またまた目をギラギラさせたクラウス・キンスキー! これまた異様な作品世界以上に、彼自身が相当にヘン(笑)なのである。

 このあたりの三作品を並べてみて分かるとおり、ヘルツォーク作品は何と言っても「とんでもなさ」が身上。とてつもないことの実現を夢想して、常軌を逸した努力でそれをやり遂げようとするものの、最終的にはすべての努力は水泡に帰する。この壮大な努力のムダこそが見ものなのだ。そしてこのとんでもないお話を実際に現場で再現しようとするため、ヘルツォーク作品は制作過程そのものが「とんでもない」ことになってしまう。その異様な迫力が作品そのものにフィードバックする…という構造を持っていた。

 例を挙げれば「フィツカラルド」での蒸気船を川から山へ持ち上げるくだりも、SFXなど使わずに本当に船を持ち上げて撮影というムチャクチャさ。これでは付き合わされるスタッフやキャストもたまらないだろう。実際「フィツカラルド」制作の過程では、当初予定されていた主演のジェースン・ロバーズが降板(それでキンスキーと交代した)。途中の制作中断でスケジュールが合わなくなったため、出演していたミック・ジャガーも降板するといういわくつき。この人の現場には、何かとトラブルがつきものだったようだ。

 しかし、そんな「実際に船を山に上げる」…みたいなムチャクチャさが、作品にハンパじゃない迫力を与えたのも事実。

 僕は大きな声では言えないが、例えば「剣岳 点の記」(2009)を監督した木村大作氏あたりがよく言うように、「ホンモノを撮ってこそ映画がホンモノになる」的な発想には否定的だ。映画は元々が壮大なウソなんだから、ウソでマコトを見せてこそ映画だろう…と思っている。ホンモノを撮ればホンモノになるほど映画は単純ではない…とも思っている。そのあたりの愚直すぎる「ホンモノ指向」イデオロギーには、昔から少なからず疑問を持っているのだ。しかし、それでもこのヘルツォークの作品群に関してだけは、「とんでもないことを本当にやっちゃった」作品だけが持つ迫力を認めざるを得ない。

 そして何と言っても、毎度毎度目をむいてオーバーアクションを見せるヘルツォーク映画の看板スター、クラウス・キンスキーの貢献ぶりについて触れないわけにいくまい。

 エルドラドを探したい一心のはずが、なぜか権力への妄執にとりつかれ、最後は一人っきりになってもガムシャラに川を遡っていく「アギーレ」での無茶苦茶さ。「フィツカラルド」でも船を陸に上げるという無理難題を実現しようと頑張る偏執狂的演技を発揮。さらに「ノスフェラトゥ」での血が欲しくて欲しくて仕方ないという気持ちを必死に抑えているあたりの演技は、あまりのオーバーアクトで笑っちゃうほど。とかくこのキンスキーという役者、万事「やりすぎ」なのである。おそらく他の映画でこれをやっては浮きまくっちゃうだろうし、だから彼は「怪優」と言われながら名優とは言われなかった。

 そしてヘルツォーク作品もまた、あまりに「とんでもない」映画なのでハンパな奴が主役を張ったらボリュームが出ない。「やりすぎ」のキンスキーだからこそ主役が勤まったとも言えるのである。おそらくヘルツォーク作品に出演するようになってから、キンスキーは「安住の地」を得たと言ってもいいのかもしれない。ヘルツォークも、主役キンスキーを得ることで決定的な作品を放ち続けた。

 そういう意味では、この二人は「幸福な結婚」にも似た関係だったはずだ。実際には「幸福」どころか泥沼な関係だったことは、ヘルツォーク自身が監督したドキュメンタリー「キンスキー、我が最愛の敵」(1999)にも描かれていたようだ。実は情けないことに、僕はこの注目すべき作品を見ていないので大きな事は言えない。しかしこのようなドキュメンタリー作品を自らの監督で世に出したことだけでも、ヘルツォークのキンスキーへの思いの深さはホンモノなはずだ。そういう意味で、黒澤=三船、フォード=ジョン・ウエイン、フェリーニ=マストロヤンニ、トリュフォー=ジャン・ピエール・レオ、ワイダ=オルブリフスキ…といった「名コンビ」と同一視はできないかもしれないが、これはこれで映画史に残る「名コンビ」だったのだろう。

 だからこそ盟友キンスキーの死後に、ヘルツォーク映画は低迷し始める。

 ここらでヘルツォーク作品をあまり見る機会がなくなったのは、僕自身が彼の作品に興味を失ったということもある。しかし、実際に低迷していたという印象はあった。例えばこの時期に発表された彼の作品「彼方へ」(1991)は、かつてのドイツ映画界で流行った「山岳映画」の伝統の再現…などと、理屈やウンチクをつけようと思えばそれなりにできるだろう。山登りというスペクタクルを実写で行うというコンセプトは、「フィツカラルド」などに通じる「とんでもなさ」の一端と言えなくもない。しかし今となっては、僕はこの作品のことを全く憶えていない。脇にドナルド・サザーランドが出ていたくらいしか、もはや記憶に残っていないのだ。

 そんな僕の前に久々に登場したヘルツォーク作品が、神に選ばれし無敵の男(2001)。題材はイシュトバーン・サボー監督の「ハヌッセン」 (1988)で描かれたのと同じ、ナチス政権下のドイツでヒトラーに重用された予言者のお話。その野望が最終的に無に帰するというお話も「いかにも」なら、主演にこれまた個性派のティム・ロスを迎えているという点でも「復活」を予感させた。

 この作品、公開当時の僕自身の感想を読むと、結構好意的に書いている。それなりに面白い作品には仕上がっていたようだ。しかし今となっては、この作品の印象は極めて希薄だ。それに、自分の感想文では好意的な評価だったことが、今ではちょっと意外な気すらする。正直言って、思い起こしてもイマイチな印象しか残っていないのだ。

 ティム・ロスについても、どうにも線が細かった記憶しかない。彼も個性派ではあるが、どう考えてもキンスキーの後継とはなり得ない。そのへんが、全体的なイマイチ感に結びついていたのか。

 唯一印象に残っているのは、海岸の岩場に真っ赤なカニが無数にうごめく場面。ヨーロッパを蝕むナチスの気色悪さを連想させるその映像は、実はヘルツォーク映画に共通するイメージだ。例えば「アギーレ」では船上に群がる小猿の群れが出てきたし、「ノスフェラトゥ」では遭難船からネズミがウジャウジャと出てきた。そうした気色悪い「生き物」によって不吉なイメージを創り上げるのが、ヘルツォーク作品の十八番だった。そういう意味ではこの「神に選ばれし無敵の男」もまさにヘルツォーク作品らしい作品と言えるのだが、やっぱりパワー不足だったことは否めない。今さらながらに、キンスキー不在の大きさを感じさせられた作品だった。

 その次にやってきたのがオムニバス作品10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス(2002)中の短篇「失われた一万年」。しかしこれはドキュメンタリー作品だったこともあり、小手調べ的な印象しかない。アマゾン奥地に暮らしていた原住民を描いているという点で「彼らしい」とも言えるが、ヘルツォークのキャリアの中で大きな位置を占める作品とはなり得ないだろう。

 そんなわけで、クラウス・キンスキー亡き後すっかり低迷してしまった観があるヴェルナー・ヘルツォーク。ニュー・ジャーマン・シネマという言葉も今は昔。僕はもはや過去の人と勝手に思い込んでいた。

 そんなヘルツォークがアメリカ映画を撮る…というだけで、「意外」という気になってしまうのは仕方ないだろう。おまけに「問題作」とは言っても悪徳刑事を描いた作品の「リメイク」とは、一体いかなる心境の変化なのか。

 そもそも前述したように、特異な映画作家であるヘルツォークが、果たしてアメリカ映画なんか撮れるのだろうか。それも「リメイク」、そしてハリウッド・スター、ニコラス・ケイジ主演の娯楽映画だ。もはや彼が主演の時点で、ジム・ジャームッシュみたいなインディペンデント系のアート・フィルムではないだろう。これって黒澤明が20世紀フォックスの資本で「トラ・トラ・トラ!」を撮るより無謀な話ではないのか。というか、黒澤と同じように企画そのものが頓挫しかねないのではないか。

 先にも述べたように、今のヘルツォークはもはや「本調子」ではない。ハリウッドと互角でやり合う気力なんてないのではないか。

 ところが、なぜか作品は完成してしまった

 そして、こうして日本にフィルムが届いている。果たしてヘルツォークは制作途中で降板させられたか、それともフィルムがズタズタに再編集されたかと言えば、そんな話も伝わって来ていない。

 僕がこの作品を見るにあたって、いかに出来上がりを懸念したかお分かりいただけるだろうか。

 

見た後での感想

 結論から言うと、これには正直驚かされた。

 面白い!

 それも、ヴェルナー・ヘルツォーク作品としてちゃんと面白くできている。久々の彼の成功作であり、彼の作品のファンなら楽しめるはずだ。

 しかも、ニコラス・ケイジ主演のハリウッド映画としてもちゃんと楽しめる映画になっているのだ。独りよがりのアート・フィルムにはなっていない。これはまさに「奇跡」と言っていいのではないか?

 まずリメイクの元ネタである「バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト」との関係を言えば、実は悪徳刑事が主演であるという以外は、あまり共通性がない。悪徳刑事が捜査を通じて善悪の葛藤に引き裂かれる…という設定には似たものがあるが、オリジナルにあった宗教色…レイプされた尼僧がそれでも犯人を許そうとする姿に主人公が愕然とする…みたいなものはほとんどない。

 そして舞台もニューヨークから、ハリケーン・カトリーナに襲われた直後のニューオリンズに移してある。しかし、これが決定的に作品を成功に導いた。

 元々、南部はアメリカの中でも「ディープ」な場所。そしてハリケーン・カトリーナに襲われた後は、荒廃し腐敗を極めている。そのあたりが、やたらアマゾンの奥地など「ディープ」な辺境好きのヘルツォークには「ピンと来た」のではないか。ヘルツォークにとっては「慣れぬ他流試合」だったはずのアメリカ映画が、意外にも彼の肌合いに良く合った理由は、舞台を「今」のニューオリンズにした点が大きいと思われる。

 そして、それ以上に今回の作品を成功させた理由こそ…ニコラス・ケイジの主演だ。

 ニコラス・ケイジは間違いなくハリウッド・スターで、数多くの主演作を成功させてもいる。「ザ・ロック」(1996)、ナショナル・トレジャー(2004)、ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記 (2007)…などというジェリー・ブラッカイマー制作の「楽しい」娯楽映画にも主演しているくらいだ。

 しかしその一方で、「ゴーストライダー」、「ウィッカーマン」リメイク、「ネクスト」、「バンコック・デンジャラス」…といった、どこか変なテイストに満ちた作品に主演し続ける「物好き」なスターという一面も持っている。これらの作品、確かにどこかマトモではないのだ。

 しかもジェリー・ブラッカイマー作品に主演した時でも、「ザ・ロック」や「ナショナル・トレジャー」シリーズではオタクっぽい男を演じ、60セカンズ(2000)では作品そのものが一部好事家にウケただけの「バニシング IN 60''」(1974)のリメイクというテイタラク。その「60セカンズ」では主人公がクルマを盗みに出掛ける直前、景気づけに音楽を聴きながらアブないノり方をするという極め付きの場面があった。やっぱりどこかヘン(笑)。

 そもそも彼がスターとしての評価を決定づけた「リービング・ラスベガス」(1995)からして、酒でグダグダになる男というケッタイな役でオスカー受賞したのではなかったか。この人って間違いなくオスカー受賞のハリウッド・スターではあるものの、その立ち位置は極めて特異な人なのだ。

 今回も、殺人現場にやって来るや、いきなりクルマの中でヤクを一発キメるというアリサマ。終始クスリに溺れてハイになりっぱなしという設定だ。その演技は、同じく悪徳刑事を演じたブライアン・デパーマ監督作品スネーク・アイズ(1998)に通じるものがある。特に同作の冒頭で血管ブチ切れそうなハイテンションぶりを発揮するくだりを彷彿とさせる演技で、今回はそれを作中最後までやり通している感じだ。まさに100パーセント・ピュア・ニコラス・ケイジという感じ(笑)。

 そもそもニコラス・ケイジという人、いつだってオーバー・アクト、「やりすぎ」感が濃厚の役者さんだった。だからアベレージな娯楽作品でも変な印象を放ったし、その味わいを活かすにはユニークな作品群が必要だったわけだ。

 今回は、その個性とヘルツォーク作品の肌合いがピタリと合った

 そう、ここまで読んでいただいたみなさんはすでにお察しの通り、ニコラス・ケイジの「万事やりすぎ」な演技アプローチが、往年のクラウス・キンスキーの「やりすぎ」味とどこか一致したのだ。もちろん持ち味は全く違う二人だが、「やりすぎ」という一点で交錯した。それが、ヘルツォークに好調時のパワーを復活させているのである。

 これは本当に意外な結果だが、考えてみればある意味で「納得」の結果だとも言える。何しろニコラス・ケイジって、前述したようにいつもどこかヘンなのだ。そして濃いしクドい(笑)。

 引き合いに出しては気の毒だが、「神に選ばれし無敵の男」のティム・ロスでは、「個性派」と言えども線が細すぎる。やっぱりニコラス・ケイジほどの濃さとクドさで「やりすぎ」ないと、ヘルツォーク映画は支えきれないのである。

 笑っちゃうのは、またしてもヘルツォーク映画名物の気色悪い「生き物」場面が登場したこと。

 今度はアメリカ南部のニューオリンズらしく、主人公のヤク中幻想の中でイグアナが出てきたり、道路のど真ん中で轢かれたワニが出てきたり…。おまけにワニの視点で画面が撮られたりしているから、見ていて何とも不思議な気持ちになってくる。というか、笑ってしまう(笑)。「やってるやってる」という気になって、ヘルツォーク・ファンとしては嬉しくなってしまうのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 そんなわけで、クラウス・キンスキーを失ったことから始まった近年の低迷ぶり、さらにどう考えても他流試合と思えたアメリカ映画制作…と、ヤバい要素を多分に抱えていた今回の作品…これが予想外の快作に仕上がっていたことに、僕はすっかり驚かされた。

 それどころか、「予想外の善戦」…なんてレベルにとどまらずヘルツォークのフィルモグラフィーの中でも高いレベルの作品に位置するのではないか…とさえ思えたから、まさに二度ビックリ。まだまだやってくれそうだし、ひょっとすると「もっと上」を見せてくれるのではないかと思わせてくれる、新たな可能性を見せているのである。

 まずは誰しも注目するであろう点は、今回の主人公が善悪の狭間を行ったり来たりしているあたりだろう。

 それは物語の最初から一貫していて、主人公は溺れつつある囚人を「オマエなんか助けるかよ」と嘲笑しながら、次の瞬間には彼を救うために水に飛び込む。そのあたりの心境の変化の理由は描かれない。一瞬にして態度を豹変させ、悪から善へと転換するのだ。ところがその結果、主人公は腰を痛めてしまう。それが主人公をヤクの快感に駆り立て、彼を悪徳刑事へと追い込んでいく皮肉。このように主人公は、善から悪へと振り子のように行ったり来たりしていく。しかも、その「振れ幅」が極めて大きいから、見ている者はとまどってしまうのだ。

 しかし考えてみると、僕らだって「善人」か「悪人」かと言えば、どっちとも言えない存在ではないか。

 みんなが並んでいる列に割り込んだと思ったら、電車でお年寄りに席を譲ったりする。共同募金に寄付したかと思えば、次の瞬間に釣り銭をチョロまかしたりする。「いい人」と言われる人物でも、ウソもつけば人を裏切ったり汚いことをしたことがあるだろう。その逆に、みんなに嫌われているイヤな奴や犯罪者でも、善行のひとつやふたつはやったことがあるはずだ。実は僕らも「善悪の狭間」にいて、激しい振れ幅で刻一刻と立場を変えているのだ。むしろこの主人公の一貫性のなさは「特異」なものでも「異色」なものでもなく、むしろ人間をリアルに描くとこうなると言うべきではないだろうか。

 そういう意味で、今まで「特異」で「異様な迫力」を持ってはいたものの、どっちかと言うと一本調子に見えるきらいがあったヘルツォーク映画の主人公が、今回新たな「幅」と「厚み」を持ったような気がするのだ。

 映画の後半は、主人公が悪徳に溺れたあげく身を滅ぼすのか…と思わされる展開。破滅に向かって突っ走るあたりは、「毎度おなじみ」ヘルツォーク作品の努力水泡テーマと一脈通じているし、この展開ならそんな結末になるしかない…と思わされる。そんな展開の作品なら過去にゴマンとつくられていて、多少手垢がついたパターンと言えなくもないが、「たぶんそうなるだろうな」と誰しも思わされるストーリーラインだ。

 ところがこの作品では、いきなり意表を突く展開を見せる。見ている僕らも思わず「うまくやったな」と言いたくなる、アッケラカンとした解決を見せるから驚いた。主人公は、またしても善悪の「大きな振れ幅」を見せるのである。

 このスコーンと抜けたような味は、これまでのヘルツォーク作品には見られなかったものだろう。これまでのヘルツォーク作品なら、主人公たちは愚直なまでに崩壊して破滅していくのである。このアッケラカンぶりは、今までのヘルツォーク作品になかった「したたかさ」というか「しなやかさ」のように思える。

 それでいて、結末では相変わらずヤク中に苦しみながら悶々としている主人公。結局、彼は「振れ幅」の間を行ったり来たりすることをやめようとしないのだ。

 この一筋縄ではいかない主人公のキャラクター、そしてアッケラカンとした解決…。アメリカ映画進出を成功させ、長らくの低迷から脱出したヘルツォークは、驚くべきことに「新生面開拓」をも実現してしまったように思えるのである。

 

 

 

 

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