「ハート・ロッカー」

  The Hurt Locker

 (2010/03/08)


  

見る前の予想

 実はこの映画ってだいぶ前に試写会で見る機会があったのだが、ずっと感想文を書けないでいた

 その理由が何なのかうまく言えないということもあって、感想文が書けなかったのだろうか。それとも作品の持つ衝撃が大きかったから、感想が書けなかったのだろうか。ともかく僕はこの作品を見てそれなりに圧倒されながら、ずっと感想文を書くのを先送りにしていた。

 そのうちこの作品はオスカー作品賞の候補に挙げられ、それもかなりの有力候補と伝えられるようになった。むろん大本命はあのアバター(2009)。そこを元夫婦対決などと面白おかしく語られているわけだが、実は僕はかなり本気で、オスカーはこの「ハート・ロッカー」こそ相応しいんじゃないかと思っている。今これを書いているのは授賞式の前々日(日本時間)だが、そのくらい僕はこの映画に強いインパクトを感じたわけだ。

 いよいよオスカーの発表を前にして、僕もようやく観念して感想文を書いているというわけ。

 

あらすじ

 戦争は麻薬である。

 2004年夏、イラクのバグダッド。駐留米軍のブラボー中隊のサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とまだ若いエルドリッジ技術兵(ブライアン・ジェラティ)は、市街地の爆弾処理の作業に従事していた。

 何しろ街の真ん中のゴミ溜めみたいなところに、さりげなく爆弾が置いてあるのだ。危ないったらありゃしない。米兵たちは周囲のイラク人たちを追い出して、爆弾の撤去作業を始めることにする。屋台のオヤジは商売あがったりと文句を言うが、そんなものに耳を貸している余裕などない。ともかくサッサと人払いをして、手早く作業に移ることにする。

 こういう時には、最新技術の爆弾除去ロボットがモノをいう。リモコンで、どんなところでもドンドコ進む。作業者は離れた安全な場所で、モニターを見ながらリモコン操作をすればいいだけだ。仕掛けられた爆弾を吹っ飛ばすための小型爆弾を乗せて、トットコトットコとロボットは行く。

 ところが途中でロボットの台車がはずれ、除去用の爆弾が途中で立ち往生という状態になった。やっぱり所詮は機械。こうなると人間様の出番ということになる。

 ここで出てきたのが、班長のトンプソン軍曹(ガイ・ピアース)だ。サンボーン軍曹と軽口を飛ばしながら、分厚い防護服に手を通す。なぁに、いつものことだ。どうってこたぁない。

 トンプソン軍曹もサンボーン軍曹も軽い調子でやりとりしているのは、その作業がいかに危険かお互い熟知しているからだ。どうってこたぁない…わけはない。どれだけ危険か分からない。しかも、言っちゃ悪いが周囲の街に潜むこの国の人々も、どこまで信用したらいいか分からないような連中だ。そんな緊張感のまっただ中で、爆弾相手にヤバイ作業をやっている。これが危険じゃなくて何が危険だ。

 トンプソン軍曹は止まったロボットの台車のところまで行って、残りの作業を終わらせようとする。仕掛けられた爆弾のそばに除去用の爆弾を置いて、爆破のためのワイヤーを引っ張ってくれば作業は終わりだ。

 ところがそんな折りもおり、人払いさせられていた屋台のオッサンが、いきなりまたぞろ戻ってくるではないか。

 何だこれは、怪しいぞ!

 エルドリッジ技術兵もサンボーン軍曹もにわかに緊張。これはヤバイと気づいたトンプソン軍曹は、重い防護服に苦しみながらも慌てて駆け戻ってくるが…。

 ど〜〜〜〜〜ん!

 至近距離だった。ひとたまりもない。トンプソン軍曹は名誉の戦死だ。

 亡くなったトンプソン軍曹の代わりに、新たにジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)が赴任してくる。基地にやって来た初日、挨拶に来たサンボーン軍曹と握手を交わすジェームズ二等軍曹は、ヘッドフォンでハードロックを聴きながら窓に打ち付けた鉄板をはがすように頼む。

 「それがないと、外から砲撃された時に危険ですよ」

 サンボーン軍曹はそう忠告するが、ジェームズ二等軍曹は「息が詰まる」とあくまで鉄板をはずすように頼む。後で思えば、それがすべての始まりだったと言えなくもないのだが…。

 こうして新たなリーダーを得たブラボー中隊は、その最初の任務へと出かける。それは住宅街に仕掛けられた爆弾を除去するという任務だ。

 いざ命じられた場所に行ってみると、そこには誰もいない。周囲は白々しいまでの静けさだ。実は彼らを呼んだ友軍は、みんな物陰に避難していた。ここでは誰が敵で、どこから攻撃してくるかが分からない。いきおい兵士たちは用心深くなり、常に緊張感を保っていなければならないのだ。

 どうも爆弾が仕掛けられているのは、ここから少々離れた路地裏らしい。それでは遠隔ロボットを出そうと言うサンボーン軍曹に、なぜかジェームズ二等軍曹は「自分が行く」と言い出す。

 「なぜですか? そんな危険を冒す必要はないでしょう?

 しかしジェームズ二等軍曹は、やけに落ち着いた様子で防護服に手を通す。サンボーン軍曹が思いとどまるように言っても、まったく聞く耳を持たない。こうして後方でサンボーンとエルドリッジが見守る中、ジェームズ二等軍曹は前方へと歩いていった。

 しかも、何を考えたか煙幕を張るジェームズ二等軍曹。これでは後方のサンボーンとエルドリッジは何が起きたか分からない。ますますサンボーンの苛立ちは増していた。

 途中で交差点に差し掛かると、突然、一台のタクシーがジェームズめがけて突っ込んで来る。急停車したタクシーに、ジェームズは慌てず銃を突きつけた。結局、このタクシーは敵ではなかったが、見ているサンボーンたちにとってはたまったもんじゃない。寿命が縮む思いだ。

 こうしてめざす爆弾に辿り着いたが、地面に埋められた爆弾はひとつではなかった。イモ掘りよろしく引っ張り出してみれば、それこそ芋づる式に数本の爆弾が顔を出す。それらのケーブルを冷静に切ったジェームズは、ケロッとした顔でサンボーンたちの元に戻ってきた。何なのだ、この男は。

 またある時は、国連施設に怪しげなクルマが停まっていると出動。するとテロリストが周囲から銃撃したおかげで、クルマは炎上する。一気にその場に緊張がはしる。

 ところが例によってジェームズは慌てず騒がず、消火器で火を消し止めてからおもむろに作業にかかる。トランクに積まれた大量の爆弾。ジェームズはクルマのあちこちを探りまくって、起爆装置を見つけようとする。周囲には緊張がはしり、いつ何が起きてもおかしくない状況。例によって見張っているサンボーンとエルドリッジは気が気じゃない。早く終わりにしたい。

 ところが、ある程度探したところで撤退の手はずだったのに、ジェームズは一向に起爆装置を探すのをやめない。それどころか、「面倒くさい」とばかりに防護服を脱ぎ捨てる始末だ。もうサンボーンはキレる寸前。

 しかし、ついにジェームズは起爆装置を発見。爆弾を無効化するのに成功した。

 意気揚々と戻ってくるジェームズ。しかし、サンボーンの忍耐も限界に来ていた。ノリノリでゴキゲンのジェームズに、いきなり手痛い一発をお見舞いするサンボーンだった。

 しかしそんなジェームズの行為は、上官からは好ましく見える。現場の事情を知らないリード大佐(デビッド・モース)は「本物の勇者だ」と無責任に褒め称える。サンボーンやエルドリッジはシラケ返るが、それが「戦場の現実」だ。

 そんなこんなで、どんどんギスギスしたきしみが生じてきたブラボー中隊だったが…。

 

見た後での感想

 おっと、先ほど書き忘れていたが、この映画の監督は女性。ご存じジェームズ・キャメロンの元妻でもあるキャスリン・ビグローだ。

 女性監督だから、恋愛映画や繊細な人間ドラマを描かなくちゃならないという道理はない。だからアクション映画を撮ったって悪くはないが、ビグローみたいに骨太のアクション映画ばかり撮りたがる女性監督というのも、他にはいないんじゃないだろうか。

 僕が最初にビグローに注目したのは、ジェイミー・リー・カーティスが婦人警官に扮する「ブルースチール」(1990)。この作品こそ女性を主人公にしたものだったものの、その後の「ハートブルー」(1991)も「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」(1995)も、どっちかと言えば男のお話。K-19(2002)に至ってはソ連原潜内部でのサスペンスを描いたお話で、まったくもって女など出てこない。アメリカ映画でもマレに見る、男臭い映画を撮る女性監督なのである。

 だから彼女が戦争映画を撮ったって、まったくもって不思議はない。その作品としての出来具合や佇まいが、今までと段違いなのに驚いたのだ。

 ズバリ言ってしまおう。この作品はイラク戦争を描いた映画の中でも、エポック・メーキングな作品になると断言できる。

 思えば湾岸戦争を描いた映画も、ついこの前やっとこジャーヘッド(2005)あたりが現れた程度。イラク戦争がらみでは告発のとき(2007)が出てきたばかりだ。

 しかしこの作品は、間違いなくイラク戦争を描いた映画の中で「決定的な位置」を占めるという予感がある。それはまるで、例えばベトナム戦争映画群の中で「プラトーン」(1986)が登場してきた時のようなものを感じさせる。別に作品的な出来がどうのとか、イラク戦争を総括するとか政治的な何とかとかそういうのはまったく関係なく、「エポック・メーキング」な位置づけという点で「突出した」作品だと思えるのだ。

 そしてこの作品は、キャスリン・ビグロー作品の中でも「突出」している

 僕はビグローのアクション映画監督としてのセンスはいいと思うし、「ブルースチール」なども結構気に入っていた。しかしながら出来栄えを正直に言わせてもらうならば、何となくどれもイマイチな感じがつきまとう。イイ線いってるんだけど今ひとつ。何となく決定的な面白さ、内容の良さには欠けていた。

 それはたぶん、今までの作品については「脚本の出来」が災いしていたような気がしてならない。映画センスはいいのだが、どうしてもドラマの構築に難点がある気がしていたのだ。

 そういう意味では彼女のせいとも言えないのだが、それでも作る作品作る作品毎度毎度同じコトが起きるとなれば、指揮をとっている彼女の責任を問わないわけにはいくまい。そういう脚本を手にしてしまう、あるいはそういう脚本を放置してしまう彼女に問題がないとは言えまい。その意味では、どこか劇的構成力に疑問を感じさせるところもないわけではなかった。

 ところが今回は、毎度おなじみの構成の難点が感じられない。ドラマとしての破綻やコンセプトのイマイチ感が、今回は見られないのだ。

 それだけでも大変な進歩だが、それより何より、今回の作品は「達成感」が違う。

 例えば彼女の作品では最も近作にあたる、「K-19」と比較しても分かる。骨太にガッチリつくってはあるが、脚本の不出来やキャスティングの誤算(ハリソン・フォード起用のミス)はさておき、これをどう撮ってどうまとめようと、どう転んでもいいとこサスペンス娯楽大作どまり。それが悪いとは決して言わないが、「ハート・ロッカー」はいわゆる娯楽サスペンス映画とは一線を画す。これはそれまでのビグロー作品を引き合いに出しても同じことだ。

 確かに僕は、娯楽映画だから下でアート映画だから上だなんてことは思っていない。そして「ハート・ロッカー」は決してアート映画でもない。しかし絶対に言えることは、この映画はいわゆる娯楽サスペンス映画の範疇とは、ちょっと違った位置にある。しかもハッキリ言えば「格上」の映画になっている。

 それが、前述した「達成感」の違いなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこがどう「エポック・メーキング」なのか?

 そんなわけで、明らかに「格上」で何かが「突出」していると見えるこの映画。しかし、どこがどう「エポック・メーキング」なのかというと、説明するのが極めて難しい。

 イマドキ、緊張感に富んだリアルな戦場描写など、「フルメタル・ジャケット」(1987)、「プライベート・ライアン」(1998)、ブラックホーク・ダウン(2001)…と、特殊効果と音響効果の発達によってエスカレートしていったものの、もうある程度行き着くとこまで行き着いた観がある。

 だから改めて「戦争映画のリアルさ」に驚かされることもないとは思うのだが、今回は周囲敵ばかり…敵だか何だか分からない連中ばかりに囲まれた状況下で爆弾処理をやらされる男たちの話というのが「新しい」。戦闘シーンというべき派手なやり合いはほとんどないが、緊張感はずっと流れっぱなし。そもそも冒頭からいきなり爆弾処理シーンが出てきて、しかもいきなり重要人物と思ったキャラクターが吹っ飛ぶのだからショックもデカい。

 もっと言うと…この映画はほとんど知られていない俳優陣で固めているが、たまに知られた有名俳優が出てくると、アッという間に死んでしまうから驚かされる。これは間違いなく計算尽くのキャスティングだろう。

 そのあたりの、「目のつけどころ」がなかなかユニークだ。

 そして戦争は悪いと反省したり告発したりする反戦映画も、戦争はイヤだと厭戦観ムンムンな映画も巷にはあふれていて、それはそれでどれも素晴らしいとは思いつつ…こんなコトを言ったらバチ当たりかもしれないが、いいかげんそんな映画に新味を感じないのも事実。今さら手垢が付きまくって説得力を欠き気味なのは否めないし、ヘタすりゃ逆効果とも思われる。

 ところがこの映画は「戦争」が生んだ状況のものスゴイ緊張感は描いているものの、それを悪いとも反省するとも何とも言わない。

 ただ、「それ」は「それ」として描くだけだ。

 戦争は麻薬である…というのは、実はそれほど新しい概念ではない。実は「戦争ジャンキー」というコンセプトの最もハッキリした例は、コッポラの「地獄の黙示録」(1979)ですでに提示されている。「戦争って実はやってる本人たちが快楽に感じる瞬間ってあるんじゃないか?」っていう問いかけが、すでにそこではなされていたのだった。

 しかしこの映画はさらにそれを先に進めて、常に中毒状態の人間ってものを出してきた。そして「地獄の黙示録」よりも、さらに善悪の観念を脱臭させてしまった。だから「社会派」映画なんてものでもないし政治メッセージからも遠い。そして理屈でなく感覚的に衝撃を受けるのだ。

 これは確かに、映画の在り方として新しい気がする。

 新しい班長が来て向こう見ずなことばかりやらかすため、中隊内部がギクシャクしていく。殺意さえチラつく瞬間もある。それだけなら今までいろいろな映画で描かれたかもしれない。

 この映画ではその反面、シビアな戦闘をくぐり抜けた彼らが「戦友」としての何かを共有していく様子も描いていく。緊張感が解けた彼らが、共に酔っぱらいバカ騒ぎをする様子も描いている。このあたりまでなら、何となく今までの何かの映画でも描かれていたような気がする。

 だがそれとても、次の瞬間には衝突しかねない危うい関係なのだ。いつ、どう転ぶか分からない。このあたりの、どっちとも言えない感情のやりとりがまたリアルだ。

 ジェレミー・レナー扮するジャームズ二等軍曹は、ありがちなパターンだったら「カジュアリティーズ」(1989)のショーン・ペンみたいに、「軍人としては勇気もあって部下の面倒見もいい情の厚い男なのに、人間としては怪物」…というような描かれ方をしたのだろうが、ここではそんな「ありがち」なキャラクタライズもされていない。凶悪でもない、異常でもない。現地で親しくなった少年が殺された…と思いこんでからの言動は確かにちょっとオカシイが(そして、このあたりからの描き方はちょっとありきたりで、この映画の中で浮いている感じがするのだが)、単に他の人間と比べて何かが抜け落ちているというか、何かが鈍くなっているというだけ。それ以外は別におかしくないだけに、かえってタチが悪いのだ。

 それが決定的なのは、やっと任務から解かれて郷里に戻ったくだりである。

 本来ならば命からがら戦場から逃れ、妻や子が待つわが家に戻れたわけだ。命があっただけでも儲けもの、ヘタすりゃ五体満足なんて奇跡とさえ思える。そんなラッキーな帰還ができた主人公だ。

 ところが、郷里での日常は空しい。

 今までもベトナム戦争映画などでは、戦場からの社会復帰ができない人々が描かれた。異常者や犯罪者になったり、無気力な人間になったりした元兵士が描かれた。そういう意味では、これも新鮮味がないと言えるかもしれない。

 しかしこの映画の主人公は、戦場では実に堂々としていたしイキイキしていた

 周囲が敵で囲まれていようとも、一瞬たりとも恐れたことはなかった。失敗即命に関わる起爆装置のケーブルを切る瞬間も、まったくためらいも迷いも見せなかった。

 それなのに平時の郷里にいる彼は、スーパーマーケットで子供に食わせるシリアルひとつ選べない

 この平時における圧倒的な「使えなさ」ぶりが、この映画の新しさだ。

 結局、主人公はラストで戦場へと舞い戻ってしまう。この映画では冒頭から「任務明けまであと××日」と文字が画面に出て、どんどんカウントダウンされていく。しかし、それは「後××日で放免される」というわけではない。少なくとも主人公にとっては、「後××日ここにいられる」あるいは「後××日しかいられない」ということを意味している。

 彼にとっては、本来誰もが恐れる戦場こそが、居心地のいい心安らぐ場所なのである。

 

見た後の付け足し

 …というようなわけで、何となくもっともらしい結論を書いて文章を終わらせてはみたものの、何となくスッキリしないのも事実。

 大体が「彼にとっては、本来誰もが恐れる戦場こそが、居心地のいい心安らぐ場所なのである。」な〜んてことは僕の感想でも何でもなくて、この映画を見ればちゃんとそこにそう描いてある。こんなことは僕でなくても、誰でも思いつくことだろう。

 戦場が恐ろしくてイヤ…ではなく、戦場こそオノレの居場所…と思ってしまう人間にしてしまう「戦争」ってイヤね。

 あるいは、戦争って強い刺激にさらされているうちに、人はいつの間にか、それなしにいられない「戦争ジャンキー」になっちゃうんである…とか。

 しかし、これって本当にそういう話なんだろうか?

 実は僕は…確かにこれはそういう映画なんだろうと思ってはいたものの…ちょっとそれとは異なる感じを抱いていた。「戦争がつくった心の傷跡」的な話と解釈すれば無難なんだろうが、何だかそれ以外の「何か」も嗅ぎ取っていた。…いや、もう白状してしまおう。

 この映画を見ていて、僕は何となくどこか自分に通じるモノを感じていたのだ。

 いやいや、僕は歴戦の勇士でもないし、戦場体験もない。度胸も勇気もないし、血を見たら失神してしまいそうだ。

 しかし、この映画の主人公が郷里に戻って一気に精彩を失い、シリアルひとつ買うにも途方に暮れてしまう姿を見た時に、確かにこの主人公の感覚は身に覚えがある…と感じられたのだ。

 ここからは僕の勝手な妄想で、一般的ないわゆる「映画感想」ってもんじゃない。だから、これから僕が言うこととこの映画とが本当に関連があるかどうかは問題外。それを念頭に置いて読んでいただきたいし、勝手なノーガキとして見逃していただきたいと思う。

 このサイトをご覧になっているみなさんならご存じの通り、僕はこの数年というもの、かつてと比べモノにならないほど忙しくしてる

 毎日遅くまで職場にいるし、休日も出社している。それがどれほど密度の濃い仕事ぶりかは分からないし、オレはこれほど働いているなどと自慢するつもりもない。実際、それはかなりチンタラした仕事ぶりなんだろうと思う。大したことはやっていない。

 しかし、以前の生活と比べれば、驚くほど私生活がなくなっていることは事実だろう。

 だから映画を見る機会も減っているし、このサイトもついついご無沙汰になる。友人と過ごす時間もあまりない。実際、友達も減っている(笑)。

 だが不思議なことに、最近、僕はそれが苦じゃないことに気づいていた。

 意外とその方がラクだ。むしろ、そうじゃない自由時間の使い方に苦しくなってきた。こんなコトになるとは思いもしなかったが、それまでの自分とは違う自分になってしまっていたのだ。

 ここでハッキリさせておくが、僕はどっちかと言えば怠け者だ。働くのは大嫌い。遊ぶのが好き。たぶん今でもそのはずだ。

 それなのに、何でこんなになっちゃったんだろう?

 そんな自分のチンケな仕事の話と、この映画の命を賭けてる男たちの話が重なるわけもない。一緒にするなとお叱りをいただくのは覚悟の上なのだが、それでも何となく連想してしまったのだから仕方がない。

 実は、感想文をなかなか書けなかった理由はこれだった。意外にも「共感」してしまったこと、そしてその共感の「理由」がとてもじゃないが人に言えるようなものじゃないクダラナイことだっただけに、僕は何となく書くのを躊躇してしまったのだ。

 だってこの映画は、イラク戦争を背景にした壮絶な「問題作」なんだからねぇ。僕のつまんない日常なんかまったく関係ない。

 でも、そう思ったことに間違いはない。ホントにそうだ。そしてここまで書いたから改めて気づいたのだが、それは例えば仕事のことだけじゃない気がする。

 家のこととか暮らしのことをやったり考えたりするより、映画を見に行ったり文章を書いたりする方が僕にはラクだ。服を選んだり店を探したりするのは面倒くさい。映画を選ぶのは迷いがないのに、服を選ぶのは苦しくなってくる。人生設計やプランを建てるのが苦手だし、それより何より今日一日の予定すら建てられない。食べるメニューや飲む酒の種類を決めるのも苦痛だ。そんなの誰かに決めて欲しい。

 そうだ、女が好きで一緒になりたいとか言いながら、本当はそれって面倒くさいと思っていたんじゃないか。何だか厄介なことになりそうだと思っていなかったか。いろいろやらされそうな気がしていたし、何よりアレコレ決めさせられそうな気がした。それがイヤだったんじゃないのか。

 私生活や実人生では、一刻一刻自分なりの決断や実行が迫られる。それはひとつひとつは小さい些細なことなのだが、とにかく自分がやらなきゃならないのは間違いない。そんなくだらないコトでも、自分には苦痛だったのか。

 映画を見るとか文章を書くとか、自分の得意分野の仕事なら何とかできるのに、何でそんな余計なことやらなきゃいけないんだ。

 考えてみると、仕事より遊びが好きだ…と言いながら、それだって本当は「遊び」じゃないんじゃなかろうか。ホントは何もしないでダラダラしているのが好きなんじゃないのか。

 現実って、人生って、実生活って、実は結構コワイし厳しいしシンドイ。それが大げさな表現だと言うなら、日々の営みの中はどうしていいのかよく分からないことだらけだし、厄介で面倒なことも多い。実はここだけの話、切符一枚買うのにもウンザリする瞬間がある。世慣れしている人にはどうってことないことなんだろうが、僕みたいな男にとっては細々したモノが結構ジワジワと首を絞めてくる。ハッキリ言って手に余る。普通に生きていることって、これはこれでなかなか苦痛だ。

 オレって人生そのものが苦手なんじゃないのか。

 だとしたら、「仕事」とか「好きなこと」「得意なこと」にかこつけて、オレはそれから逃げようとしてたんじゃないか。

 この映画を見て思ったことにしては、あまりにショボくて情けない結論だ。全然レベルが違う話だろと言われても仕方がない。

 しかし、それが正直な僕の感想だ。確かにこの映画の主人公の陥ってる状況って、僕にはどこか見覚えがある。それが僕って男の正体だ。それが、僕という男を情けなく、貧しくもしてきた。

 だとしたら、僕が結論を避けようとしたことも、何となく納得できるのである。

 

 

 

 

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