「アバター」

  Avatar

 (2010/01/25)


  

見る前の予想

 「タイタニック」(1997)以来久々に、ジェームズ・キャメロンの新作がやって来る!

 そんな話は去年の早い段階からチラホラ聞いていたが、どうも半信半疑にしか聞けなかったのは否めない。それもそのはず、劇場映画としては前作「タイタニック」からおよそ12年。これはいかに寡作家な映画作家と言えども間隔開きすぎだろう。スタンリー・キューブリックだってせいぜい5年に1本ぐらいだった。しかもキャメロンって、「タイタニック」の超弩級の大成功があったから「巨匠」然とした雰囲気が漂ってきたものの、本来はそんなガラじゃなかったはず。だってシュワちゃん主演作を3本も撮ってるんだぜ。これが巨匠で大家なわけないじゃないか(笑)。

 ま、ともかく、あまりに長く間隔が開きすぎていた。その間、キャメロンは何もしなかったわけじゃないが、またぞろタイタニックもののドキュメンタリーとかテレビとか、言っちゃ悪いがそんなハンパ仕事しかやっていなかった。そして、いつまでも重い腰を上げようとしなかったから、今さら新作なんて言われても信用できない。第一、こんなに現場から離れて映画の演出なんて出来るんだろうか…と心配になるほどだ。

 それがどうやら本当だということが分かっても、不安は一向に消えない。その新作が3D映画として制作されていると聞くや、その不安は頂点に達してしまった。

 確かにそれまでもテクノロジーに強いキャメロンだったが、よもや3D映画で復帰とは!

 そもそも3D映画って、最近でこそポツリポツリと本数が増えてきたものの、だいぶ昔から作られてきたそれらの作品ことごとくが「キワモノ」「見世物」の類。とてもじゃないが、オスカー11部門制覇した監督の「受賞後第1作」に似つかわしい題材ではない。何を血迷っているのだキャメロンは?

 お話を聞いても不安はいや増すばかり。どうやら地球外の惑星みたいな別世界で、「アバター」なる仮の肉体に乗り移って冒険をする話らしい。何だかやけにヌルい話ではないか。SFアクション映画を連発していたのに突然エピック・ドラマ「タイタニック」を創り上げ、そこでかつてない大成功を手に入れたキャメロンが、長い沈黙を破ってつくる物語として…これはどうなんだろうか?

 いや、僕は根っからSF映画好きだから、SFと比べて一般ドラマの方が「格上」みたいなことは思わない。思わないけれど、確かに「タイタニック」ではキャメロン作品のボリュームはワンランク確実に上がった感じがある。それがSFの世界に戻って、前述のヌルい物語…って言うんじゃ、正直言って心配にならざるを得ないのだ。

 しかも予告編を見たら、その不安は倍加するではないか。「アバター」なる主人公の分身だか仮の肉体だか…そのキャラたるや、何じゃあこりゃあ?

 何だかロバとシュレック(笑)と超人ハルクを混ぜ合わせたような顔。明らかにこのキャラがCGで全編大活躍するんだろうが、コレじゃ感情移入なんて出来ないんじゃないか? そのくらい、このキャラの顔はいただけない。かっこよくもなければ親しみも持てない。黙って見てれば「アバターもエクボになる」なんて、くだらない冗談は休み休み言っていただきたい(笑)。これじゃ映画を見る気にもなれないのだ。

 また、こいつが何だかジャングルだらけの世界を駆けめぐるみたいだが、その世界観にもさして驚く点はないように思える。チラッと予告編を見た限りでは、ビックリするような映画にはなり得ない。

 これが本当に、ジェームズ・キャメロンが「タイタニック」以来12年ぶりに発表する新作なのだろうか?

 やっぱりブランクがあまりに長すぎて、映画作りの「現場勘」が失われちゃったんじゃないか。「ホテル・カリフォルニア」を出した後のイーグルスみたいに、渾身の力を振り絞った大作の後にブランクが長いと来ると、クリエイターはダメになっちゃうのだろうか。

 そんなわけで、こりゃキャメロンもダメになっちゃったのかな…と思っていた僕だが、意外にも年末公開された「アバター」は大ヒット。あれだけダメな雰囲気が漂っていたのに、評判もすこぶるイイのだ。しかし…それって本当なのか?

 ところが正月早々映画館に駆けつけても、大混雑でとても見れない状態。やっぱりヒットしてるのか。やっぱりコレは面白いのか。

 そういやパッとしなかった3D映画も、いつの間にか娯楽映画のメインストリームに躍り出ているではないか。いつの間にか当たり前のように公開され、それなりの本数が世に出るようになった。キャメロンの賭けは成功したのか?

 そんなこんなでオールナイトの映画館に滑り込んだ僕は、この映画の実際をこの目で確かめることにしたわけだ。

 

あらすじ

 西暦2154年、地球から遠く離れた惑星ポリフェマス最大の衛星パンドラに、一機の宇宙船が接近しつつある。

 その宇宙船に乗り込んでいた海兵隊員ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)。彼は戦闘での負傷で足が不自由になり、車椅子での生活を余儀なくされていた。そんな失意の彼に、意外な任務が飛び込んでくる。それが、この衛星パンドラでの「アバター・プロジェクト」への参加だ。

 実はこの「アバター・プロジェクト」での任務、本来はジェイクの双子の兄トミーが務めるはずのものだった。トミーは科学者であり、この最新テクノロジーを駆使した計画にはうってつけの人材だった。それに対して、根っからのマッチョで肉体派のジェイクは、まるっきり対照的な存在と言える。ジェイクだって、今でも五体満足だったらこの話を引き受けまい。そしてトミーが事故で命を落としさえしなければ…。

 しかし、足が動かない「海兵隊員」はツライ。何か彼にも出来ること、彼が必要とされることに身を投じたい…ジェイクはそう思わずにいられなかった。しかも「アバター・プロジェクト」の遂行には、ジェイクの持つ「トミーと同じDNA」が必要とされているのだという。いや、トミー亡き後、この任務を遂行できるのはジェイクだけだとさえ言える。

 さらにこの任務を務めるには、身体の不自由さは問題ないというではないか。まさに今のジェイクとしては、三拍子揃った任務。一にも二もなく、ジェイクはこの任務に志願したわけだ。

 衛星パンドラ。そこは密林と未開の土地が広がるところ。「ナヴィ」と呼ばれる地球人タイプの人類が暮らすこの星の大気は、しかし地球人には有毒なガスとなる。しかもジャングル内に潜むさまざまな生き物たちは極めて危険で、「ナヴィ」たちも…かつては地球人たちが接触を試み、地球言語を教えたりもしたのだが…決して地球人たちに友好的とは言いかねる。

 ならば、なぜそんな辺境の星に地球人たちが前線基地を作り、開拓しようとしているのかと言うと…この星には莫大な資源が眠っているから。気の遠くなるような価値を持つ鉱石「アンオブタニウム」の鉱脈が、この星の地下あちらこちらに点在しているのだ。鉱山会社の責任者パーカー・セリフリッジ(ジョバンニ・リビシ)は、手段を選ばず「アンオブタニウム」の採掘を行いたいと思っていた。その障害となるのは、この星の有毒な大気と過酷な環境、中でも「ナヴィ」の存在は目の上のタンコブだと言えた。

 さて、パンドラに着いてすぐ、「アバター・プロジェクト」での仲間となるノーム(ジョエル・デビッド・ムーア)と共にプロジェクトの本拠である研究施設に顔を出したジェイク。しかしこのプロジェクトの責任者である女性科学者のグレース(シガニー・ウィーバー)は、ジェイクを見るなり露骨にバカにした態度を見せ、怒り狂って上司であるパーカーに直訴する。

 「あんなバカじゃとても使えないわ! どうなってるの!」

 根っから科学者のグレースは、マッチョを振りかざす「兵隊」たちが我慢ならない。その海兵隊員が自分の職場に入り込んで、事もあろうにプロジェクトの重要なポジションに座ることが耐えられなかったのだ。そんあ不愉快な扱いを受けて当惑するジェイクだが、ここはまず我慢。ともかくプロジェクトの任務をこなすことで、何とか自分を認めてもらうしかない。

 ところで、その「アバター・プロジェクト」とは何なのか?

 この星で活動するには、とにかく身体的、環境的にあまりに人間の肉体は不具合だ。しかもここの住人である「ナヴィ」は、人間に対して非協力で非友好的。人間がノコノコ出かけて行って作業したり活動するには、あまりにリスクが大きい。

 そこで人間のDNAと「ナヴィ」のDNAを掛け合わせて、研究施設内でつくられた肉体が「アバター」だ。

 肉体は「ナヴィ」そのもの。この星の大気にも順応できるし、自然環境にも対処できる身体的機能を備えている。しかしその一方で、人間の意識をこの肉体に転送し、その意識で自由自在に動かすことができるのだ。

 ただしそれが出来るのは、DNAを提供した当人だけ。ジェイクが今回「代打」として起用されたのも、まさにそこに理由がある。DNAを提供したトミーの双子だったから、彼が適任とされたのだ。

 巨大な透明カプセルの中で眠っている自分の「アバター」を見せてもらったジェイクは、興奮を隠しきれない。大柄で青い身体の「アバター」は、期待通り強靱な肉体を持っていた。こいつで、大地を踏みしめたり駆けめぐったり出来れば…。

 そのチャンスは、予想以上に早くやって来た。意識を転送するカプセルの中に、横たえられるジェイク。密閉されたカプセルの中で、ジェイクの意識はアッという間に遠ざかる。

 気づいてみると、自分は研究施設のまったく別の場所にいた。

 身体のあちこちにデータ入手用のケーブルを付けられて、ベッドに横たわるジェイク。いや、ジェイクの意識を持った「アバター」だ。一気にテンションが上がったジェイクのアバターは、よろける身体で立ち上がろうとしている。モニターからは「慣れぬ身体で無理をするな」と、横たわって静かにするように指示が飛ぶが、興奮したジェイクは止まらない。居ても立ってもいられず、研究員たちの静止を振り切って施設の建物から飛び出した。

 すると、いるいる! あちこちに「アバター」の連中が、陸上のトレーニングをしたりバレーボールをしたり、みんなのびのびとやっているではないか。

 そういうジェイク自身も、まるで昔のように大地を踏みしめている。地面を蹴っている。駆けだしている。嬉しくて嬉しくて止まらない。どこまでもどこまでも畑の中を走っていくジェイク。するとそんなジェイクを待っていたかのように、畑のはずれに立っている「アバター」がいた。

 その顔はどこかで見たような…見間違えようがない。あれはグレースの「アバター」ではないか。しかも「アバター」になったグレースは、人間の時とは打って変わって、大らかで楽しそうな表情をしていた。

 そんな興奮の一日が終わって、「アバター」たちが眠りに就くと…。

 気が付くとジェイクは、あの転送カプセルの中に戻っていた。あれは夢なのだろうか。いや、夢ではない。あれは現実にあったことなのだ。しかしジェイクの足は、元のようにビクとも動かないのだった。

 そんなジェイクに、近づいてきた一人の人物がいた。それは、この地球の植民施設を防衛する軍隊の指揮官クオリッチ大佐(スティーブン・ラング)。いかにも叩き上げの軍人らしい、男らしい人物。何かといえば軍人上がりの自分を「バカ」扱いする研究者たちよりも、どっちかと言えばこの男の方がジェイクの世界に近い。その軍人らしさに共感を覚えるジェイクだったが、クオリッチ大佐の方もジェイクに期待をかけていた。

 クオリッチ大佐に言わせれば、「アバター・プロジェクト」なんざクソみたいなものだ。しかし「海兵隊魂」を持つジェイクが参加するなら話は別。「海兵隊」の精神を持ち「ナヴィ」の肉体を持つ「アバター」の誕生にはゾクゾクする…と、クオリッチ大佐は興奮を隠さなかった。これなら、目障りな「ナヴィ」たちを一泡吹かせることができる。

 クオリッチ大佐はジェイクに、「ナヴィ」たちから入手した情報をグレースには内緒で自分に報告するよう頼んだ。そのために、どんどん「ナヴィ」たちの社会に入って、彼らの信頼を勝ち得るように命じた。そう聞かされれば、元々が軍人の命令系統の中で生きてきたジェイク。その言葉に従うことに、何ら疑いを持つはずもない。

 そんなジェイクは、ある日、グレース、ノームと共に「アバター」化してジャングルに調査に出かけることになる。途中までトルーディ(ミシェル・ロドリゲス)が操縦するヘリ戦闘機で連れて行ってもらい、得体の知れない密林に降ろされた。

 科学者二人がアレコレとサンプルを採っている間、どうしても退屈してしまうジェイク。よせばいいのに二人から離れて遊んでいると、いかにも獰猛そうなデカい獣と鉢合わせしてしまうではないか。これはヤバいと慌てていると、そいつはなぜか離れていってしまう。こいつは大したことがない、チョロいぜ…とナメてかかったのもつかの間。後ろからもっと獰猛そうな奴が迫ってきたからたまらない。そんなジェイクの窮状に、もはや「逃げろ!」としか言えないグレースとノーム。ただただ一目散に逃げ回るジェイクは、崖から滝壺に真っ逆様に落ちて難を逃れた。

 しかし、完全に道からはぐれたジェイク。グレースとノームはあちこち探したものの、結局諦めて基地に引き揚げた。こうして、ジェイクはたった一人、危険極まりない密林に残されたのであった。

 ところが、そんなジェイクを狙う一人の「ナヴィ」の姿が。

 その「ナヴィ」は女だった。ウロウロと歩き回るジェイクを、遠くから弓矢で狙っていた。ところがその矢の先端にフワフワと羽根のようなものが舞い降りてくるや、「彼女」はジェイクを射殺すことを諦める。

 果たして彼女は何者なのか? そしてジェイクの運命は…?

 

「桁違い」のレベルまで達していたジェームズ・キャメロン

 この作品の最大の注目点はといえば、この文章の冒頭でも掲げたように、ジェームズ・キャメロン12年ぶりの新作ということに尽きるだろう。

 しかも沈黙を守る前の最後の作品は、アメリカ映画の興行記録を塗り替えた巨編「タイタニック」。それならば、誰しも今回の作品に注目せざるを得まい。

 もちろん、僕も大いに注目した。

 だが、それと同時に大いに不安も抱いた

 なぜ僕がジェームズ・キャメロンの復帰にそんな複雑な思いを抱いたかと言えば、これまたこの感想文冒頭で述べた通りだ。12年という歳月の長さ、しかも巨大な成功の後の沈黙を破ってのものであること…それだけでも、今回の作品に複雑な思いを抱くには十分すぎるほどだ。

 だが、僕が不安を抱いた理由はそれだけではない。

 キャメロン自身のそれまでのフィルモグラフィーと作品傾向を考えた場合、今回の作品のコンセプトに一抹の不安を感じずにはいられないのだ。

 その理由をご説明しよう。

 僕がジェームズ・キャメロンの作品にどんなイメージを持っているか…と言っても、それはたぶん大方の映画ファンのみなさんと大差ないんじゃないかと思う。

 まずは、CGやSFXなどテクノロジー指向の作風

 出世作ターミネーター(1984)こそ低予算のためチープな特撮に終始したが、それでもその「特撮好き」らしさは大いに発揮されていた。それが最初にハッキリと画面に反映されたのは、深海アクションアビス(1989)。水が生き物のように動くCG表現に驚かされたが、それは続くターミネーター2(1991)に登場する液体金属製のターミネーターとして進化する。さらに、最終的には「タイタニック」の海水の表現として結実するわけだ。「タイタニック」よりほんのわずか公開が先立った「スピード2」(1997)におけるCGの海水表現がいかに稚拙かを見てみれば、キャメロンのテクノロジー活用のセンスの良さがよく分かる。凡百の映画作家には、なかなか出来ない芸当なのだ。

 そして、大仕掛けでパワフルなSFアクションの作り手としてのイメージ。

 むしろこちらの方が、誰もが思い付くイメージかもしれない。「ターミネーター」に始まって、その作品群のほとんどがこれに該当する。リドリー・スコットがスタイリッシュなSFホラーとして作り上げたフォーマットを、血沸き肉踊る戦闘アクションに作り替えてしまった「エイリアン2」(1986)などは、極めて特徴的な作品だ。また、本来だったらアチャラカ夫婦コメディに過ぎないトゥルーライズ(1994)ですら、ど派手な大アクションに化けてしまう。元々この作品はフランス映画のリメイクだということから考えても、派手なアクションとしてのウツワはキャメロン独自のものと考えて間違いない。

 ところが、実は彼の最大の成功作にして長い沈黙を守ることになる原因となったと思われる作品「タイタニック」だけは、そこに該当しないのだ。

 それまでのキャメロン作品は、派手なアクションとSFというウツワを必要としていた。そうでない作品はない。「トゥルーライズ」はSFとは言い難い作品だが、それでも派手なアクションは展開するし、その荒唐無稽とも言える大スケールの作品世界や特撮をふんだんに使った映像は、「SF映画的」と言っても無理のないものだ。

 ところが「タイタニック」だけは、それまでのSFアクションに彩られた作品系譜とは相容れない。

 題材はあまりにも有名すぎる史実であり、その基本的なストーリーラインは身分の違いが原動力となるクラシックな恋愛劇。それゆえ、キャスティングもそれまでのキャメロン作品らしからぬものになっている。レオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレットも、それまでのキャメロン作品の主人公たち…アーノルド・シュワルツェネッガー、マイケル・ビーン、リンダ・ハミルトン、シガーニー・ウォーバー、エド・ハリス、メアリー・エリザベス・マストラントニオ、ジェイミー・リー・カーティス…らとは、年令から言ってもキャラクター的にも一線を画した存在だ。強いて言えばウィンスレットはハミルトン、ウィーバー、マストラントニオらと同じキャメロン映画「強い女」の系譜を受け継いでいるとも言えるのだが、俳優の質としてはかなり様変わりしているのである。

 だから、「タイタニック」はそれまでのキャメロン映画とは違う…あるいはもっと広い範囲の観客を獲得した。まさにそこが僕が今回大きな不安を抱いた要素のひとつなのだが、それはこの後に説明する。

 そして、僕がキャメロン作品に抱くイメージの3つめは…これだけは人によっては意外と感じる点かもしれない。それは、彼の作品が持つロマンティシズムやヒューマニズムだ。

 これについては、僕が以前にこのサイトの「Time Machine」というコンテンツのジェームズ・キャメロンの巻で語ったので繰り返すことになるが、僕にはむしろこの要素こそが、キャメロン作品の最大の特徴に思われる。

 何より「ターミネーター」がそうだ。これと「赤い糸の伝説」ってどこが違うのか? あるいは「時をかける少女」ならぬ「時をかける男」のお話と言ってもいい。シュワがサングラスをかけたコワモテのイメージが前面に出たこの作品は、よくよく考えればえらくオトメチックなお話なのである。そしてコンバット・アクションに終始する「エイリアン2」も、実は「隠しテーマ」は「母性」。「アビス」は関係悪化した夫婦の愛情再確認物語で、ある意味ではここまでで最も所帯じみた話だ。

 「ターミネーター2」には男女の愛こそ出てこないが、もっと大きなテーマ…「人間性」についての問いかけが行われる。これほど「生かせ、殺すな」というテーマが真摯に、そして大真面目に語られる映画はそんなにないんじゃないだろうか。全編に渡って重火器が炸裂し大爆発と大破壊が撒き散らされるこの作品の中で、驚いたことにシュワのターミネーターはたった一人も殺していない。これぞ究極の「反戦映画」と言っても過言ではないのだ。

 続く「トゥルーライズ」はキャメロンとしては異色のコメディだが、そこでも描かれるのはまたまた「夫婦の愛情再確認」…。こうなってくると、前述したように「それまでのキャメロンとは様変わりした」と思われた「タイタニック」も、実はそう変わったようには思われない。ロマンティックな恋愛を中心に据えたドラマ性は、むしろキャメロンが元々持っていたものを「隠しテーマ」ではなく前面展開させたものと見るべきだ。

 そしてキャメロンお約束のテクノロジーの駆使は、巨大なタイタニックのCG再現とヤマ場を彩る凄まじい沈没シーンに活かされている。いや、あの強烈な沈没シーンは、そこらへんの恋愛映画の監督やドラマ監督ではこなせなかったに違いない。骨太でスケール感あふれるSFアクションの作り手、ジェームズ・キャメロンだから出来た迫力シーンではないのか。

 そう考えてみると、1本だけ異色に見えた「タイタニック」もキャメロンの作品系譜の中にピッタリと居心地良く収まってしまう。「らしい」作品だと思えてくるから不思議だ。

 だがここまで語ってきたように…いかに「タイタニック」が「いかにキャメロンらしい作品」だと再確認しても、それでもなお「タイタニック」はキャメロンのフィルモグラフィーの中で、どこか一線を画した作品となっているように思う。

 それは前述したように、主演者たちの選択にそれまでにないモノを感じさせた点かもしれない。

 そして、他の作品より群を抜いて制作規模が大きい作品である点かもしれない。

 また、これも前述したように、架空の話ではなく「史実」をベースにした点かもしれない。

 しかし僕があえてそれを指摘するなら、それはたぶん…「タイタニック」という映画の持つ…制作規模やスペクタクル性ではない意味での…「スケールの大きさ」かもしれない。

 それまでキャメロンは、大スケールの作品世界を作り上げてきた割には、コアの部分ではこぢんまりとした人間関係や感情を描こうとしていた。男女の関係や母性などがそうだ。比較的それが広がったのが「ターミネーター2」で、そこでキャメロンはついに「人間性」に言及するに至った。

 ところが「タイタニック」では、キャメロンの描こうとしたものはそのレベルを超えていた

 むろんドラマの核は、ディカプリオとウィンスレットの恋愛である。そういう点では旧態依然としたキャメロン節であることは間違いない。しかし、実はここにもまた「隠しテーマ」が存在した。というより、今までは「隠しテーマ」だったロマンティシズムやヒューマニズムを今回は「前面」に配置し、新たな「隠しテーマ」を設定したとも言える。それは何か?

 巨大客船タイタニック号には、さまざまな社会階層の人々が乗り込んでいた。彼らを別々にカテゴライズするものは、「貧富の差」である(ディカプリオとウィンスレットのカップルはその一端を担っているわけだ)。その一方で、タイタニック号は最新テクノロジーが生んだ技術の結晶であり、物量の勝利でもあったわけだ。「経済」と「技術」、そこから生まれる格差や暴走や奢り…。

 それこそが「20世紀」ではないのか。

 災厄に遭遇するタイタニック号を、20世紀そのものの象徴として丸ごと描いてしまうという野心的かつ大胆な試み。それこそが、壮大なセットやCG映像のスペクタクルより何よりも、作品世界の「巨大なスケール」となったのではないか。僕にはそう思えてならない。誰もがそれをハッキリとは掴めずとも、この「デカさ」はタダモノではない…と感じたはずだ。時代を丸ごとガッチリ描き出すことに成功した…それが、「タイタニック」の最大の特徴だったのである。

 そしてそこまでの偉業は、なかなか普通の映画作家にできることではない

 あえてもう一度言うと、この作品は「格が違って」いた。公開当時…そして現在でも映画ファンでこの作品を叩く人々は後を絶たないが、それらのほとんどは…誤解を恐れず言わせてもらえば…ほとんど言いがかりに近いモノでしかなかった。大ヒット作でオスカーを大量獲得した作品に対する感情的反発から、「イデオロギー的」に批判したものでしかなかった。それらが雑音としか聞こえないほど、近来にない「桁違い」の作品となってそびえ立ったのである。

 当然、昨今のアメリカ映画において、ここまでの成功を収めた人物はいなかった。例えスタンリー・キューブリックのような映画作家でさえも、こういうワザは何度もできることではなかった。つまり、「一生に一度」ぐらいしか巡ってこないチャンスなのだ。

 そして残念ながら…そして大変申し訳ないことだけど、大好きではあっても、さすがに僕にはジェームズ・キャメロンがキューブリック・クラスの映画作家だとは思えなかった

 だとすると、「もう、後は落っこちるしかないんじゃないの」…としか思えないではないか。

 しかも、発表された最新作「アバター」のコンセプトたるや…CGを駆使した3D作品、地球から離れた天体を舞台にしたSFアクション…おいおい、こりゃあどうしたことだ?

 確かに僕はSF映画が大好きだ。だから,SF映画がそれ以外のジャンルと比べて劣る…とか、子供だましだ…とかは決して思わない。どっちが格上で格下だなんてことはナンセンスだ。

 しかし、「時代」まで丸ごと掴んで力づくで描こうとした「タイタニック」の志と比べて…こりゃちょっとどうなんだろう。いかにもキャメロン作品…ってな意匠に包まれてはいるが、過去に「タイタニック」にまで至った経緯、そこで描こうとしたスケール感溢れる世界と比べて、あまりに「いかにもキャメロン好み」の世界にチマッと収まってやしないか。ずいぶん後ろ向きで縮こまった世界じゃないのか。

 「今まで見たことのない世界をご覧に入れる」とでも言いたげな作品の佇まいではあるが、それと裏腹に、僕にはこの作品、キャメロン作品としてはもう手垢が付きすぎて鮮度ゼロな感じ。どう考えてもキャメロンの「後退」としか見えなかった。

 確かに、「アバター」の間の抜けたツラにはゲッソリした。何となくジャングル活劇みたいに見えた予告編にもうなだれた。

 しかし最も僕がこの作品に懸念したのは、「タイタニック」まで行き着いたキャメロンの、明らかな「後退」の兆しなのであった。

 

見た後での感想

 というわけで、イヤな予感ばかりが先走ったこの作品。しかし、よくよく思い起こしてみれば、僕は「タイタニック」公開時にも同じような予感を感じていたのだった。

 「かけすぎ」としか思えなかった大型予算、それまで手掛けてきたSFアクションではない史実の映画化、しかも悲劇の大事故の中心に「身分違いの恋愛」を据えるというイマドキ時代錯誤なドラマ設定、主演は超大作にはいささか不釣り合い(当時は)な若手ディカプリオとウィンスレット…大物ぶって勘違いして、錯乱してしまったのかジェームズ・キャメロンは?

 ところが、誰がどう見たって今回は大失敗としか見えなかった「タイタニック」だが、フタを開けてみれば空前の大ヒット。しかも、単にヒットしただけでなく、作品的にもかなりの充実を見せていた。映画作家としてのキャメロンも、これでメンコが一枚も二枚も上になったような気がしたものだ。

 だから、キャメロン作品は余談を許さない。今回だって、どんなウルトラCを見せるか分からない。僕はそんなこんなで期待と不安を胸にスクリーンと対峙したわけだ。

 さて、その結果はどうか?

 結論から言おう。またしてもジェームズ・キャメロンにはやられてしまった。

 やられてしまった。どう考えてもダメにしか思えなかった今回の作品なのに、まるっきり予想を覆す結果となった。

 面白いのである。

 というか、正確に言うと「スゴイ」のである。圧倒されてしまったのである。結構な見ものなのである、この作品は。

 正直言ってCGやSFXでは、相当なモノはすでに見せられてしまっている。3D映画だって、昨今は必ずしも珍しいモノではなくなっている。しかも、こちとら30年以上映画ファンをやっていると、もはや何を見せられても驚くこともなくなった。

 しかしこの作品は、やっぱりかなりの見ものなのである。そして、何が「スゴイ」といって、またしてもどこか「格の違い」を感じさせられた点がスゴイのだ。

 これは、もはや横綱の相撲なのである。

 あんなに予告編では「陳腐なジャングル活劇」としか思えなかったのに、衛星パンドラの世界観がリアルに表現されているのに興奮した。別世界が丸ごと作られちゃっているのに感嘆した。

 そして3Dも、基本的に昨今何作もすでに見せられている既存の3D技術からハミ出る部分はないと思わされるのに、明らかにどこかが違う。これについては詳しく後述するが、作り手のセンスという点で違うのだ。

 もちろん、娯楽映画の達人ジェームズ・キャメロンの映画だから、前述したように文句なく「面白い」。

 そして、これはどうしてなのか説明することができないのだが、見る前に一番抵抗があった「アバター」のまぬけヅラ(笑)も、映画で見ているうちには気にならなくなった。これは何とも不思議だが、やっぱりキャメロンの腕の確かさゆえということなのだろうか。

 ひとつだけその理由を挙げれば…これは巧みな脚本設定上の工夫なのだが、「アバター」や「ナヴィ」たちが活躍し始める物語中盤以降については、「アバター」化する登場人物以外の地球人は憎々しい仇役…しかも没個性的で非人間的な海兵隊員しかいないということが言えるだろう。瑞々しく感情表現する「アバター」や「ナヴィ」に対して、地球人は極端に共感や感情移入しにくい設定になっているのだ。このため相対的に「アバター」や「ナヴィ」への共感度が増すということになる。これは実に巧みな作戦だ。ジェームズ・キャメロン、なかなかの策士なのである。

 しかしその一方で、実は僕が見る前に抱いた懸念のうちいくつかは、そのまんまこの作品に覆されることなく残っていた。

 すなわち、“あまりに「いかにもキャメロン好み」の世界にチマッと収まって”いて、“キャメロン作品としてはもう手垢が付きすぎて鮮度ゼロな感じ”…が、何としても拭い去り難いのである。

 映画が始まるや否や、「エイリアン2」でおなじみ海兵隊の連中が宇宙に登場。映画最大の仇役であるクオリッチ大佐(スティーブン・ラング)は、これまた「エイリアン2」のクライマックスを盛り上げたパワードスーツに身を包んで戦う。そもそも典型的SFアクションのジャンルにスッポリと収まるこの作品は、“「タイタニック」以前”のキャメロン作品の「既視感」で溢れているのだ。

 それだけではない。

 パンドラの先住民「ナヴィ」への地球人軍隊の侵略は、あたかもネイティブ・アメリカンに対する白人の侵略のようであり、あるいはベトコンに対するアメリカ軍の侵略行為のように見える。というより、明らかにそう描いている。

 神聖な大樹を破壊されて逃げまどう「ナヴィ」たちの姿は、どこかネイティブ・アメリカンの虐殺を描いたニューシネマ西部劇「ソルジャー・ブルー」(1970)を思わせるではないか。「ソルジャー・ブルー」がベトナム戦争のメタファーとしてつくられたことを考えても、これは間違いないだろう。あるいは「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1990)を想起する人もいるに違いない。

 また物語中盤の戦闘シーンで、地球軍隊に反旗を翻したミシェル・ロドリゲス扮する女パイロットが、顔にネイティブ・アメリカンのやるようなペインティングを施していたのも「確信犯」的な描写だ。イングロリアス・バスターズ(2009)のメラニー・ロラン扮するユダヤ娘も、ナチ血祭りの前夜にこれと同じペインティングを施していた(ついでに言えば、バスターズのリーダーであるブラピの役柄は、ネイティブ・アメリカンと白人ハーフという設定である)。

 そして何より、地球人軍隊が「ナヴィ」を攻撃するのに用いるのが戦闘用ヘリコプターであるという点が、作者の意図を明らかにしている。「地獄の黙示録」(1979)などを見るまでもなく、ベトナム戦争と言えば「ヘリコプターの戦争」だった。スター・ウォーズ/エピソード2:クローンの攻撃(2002)でも、ジョージ・ルーカスは明らかにベトナム戦争のメタファーとして、未来型の戦闘ヘリコプターを飛ばしていた。ここではそんな、アメリカの過去の忌まわしい侵略行為が連想されるように作られているのだ。

 しかしそれ自体は、まったく新しい視点でも斬新な発想でもない

 むしろ前述した作品群がすぐに脳裏に浮かぶように、もはや非常にありふれていて、手垢が付きまくったイメージですらある。というか、ヘタしたら「陳腐」と言われかねないくらいの凡庸さだ。

 そもそも「ナヴィ」の生き方やらパンドラの描写には、前述の「ダンス・ウィズ・ウルブス」やら宮崎駿のアニメみたいな、どこかエコロジカルなメッセージすら漂う。これも今となっては正直言って「陳腐」だろう。ありふれすぎている。

 正直言ってお話だけを見てとった場合、この映画は「既視感」ありすぎで驚きがない作品なのだ。

 しかし、さすがはジェームズ・キャメロン。新鮮味はまったくないお話を、シャニムニ力づくで面白く見せる。こうした演出力というか語り口の腕力というか、面白く見せちゃう力量は相当なものだ。だから「ナヴィ」の精神的支柱である大樹が地球軍隊によって破壊されてしまう場面では、ありふれているはずなのにノセられてしまう。グッと血圧が上がっていく。このへんの老練なテクニックは「さすが」としか言えない。

 しかし、面白くはあるが新味も驚きもないお話、題材も作り手の旧作の世界から一歩も出ていない素材、ただ3D表現の使い方にのみ特筆すべき点がある…というのでは、いまや大家となったキャメロンとしては寂しすぎる結果ではないのか。せっかく「タイタニック」ではあれほどの作家的達成感を見せたキャメロンが、ここでは明らかに「後退」を見せたと言えるのではないか。

 ところが、それがそうではないのだ。

 先にも述べたように、なぜかこの作品には「格の違い」が歴然と感じされる。あえて横綱相撲と評させてもらったが、単に「面白い映画」以上の何かが間違いなくある。そもそも「アメリカの過去の忌まわしい侵略行為への断罪」なんてものも、お話のウツワとして使っただけであって、決してそれを描きたかったわけではあるまい。

 実は「タイタニック」で「時代」そのものを丸ごと描いてしまったジェームズ・キャメロンは、今回「後退」どころかさらに作家的スケールを拡大する方向に向かったのかもしれないのだ。

 それは、映画というメディアそのものを変える試みだ。

 

3D時代の幕開けのための「段取り」

 このように、“お話だけを見てとった場合、「既視感」ありすぎで驚きがない作品”である「アバター」は、ジェームズ・キャメロンの無類のストーリーテリング力と演出力によって、「面白い」作品に力づくで作られている。

 それ以外でまず目に付く美点は、見事なCG技術で作り上げられた「世界観」だが、先進CG技術はジェームズ・キャメロンの十八番だから、必ずしも驚くには当たらない。こちらも「お約束」といえば「お約束」。

 …となると、この映画の残る特筆すべき要素は「3D」ということになる。この作品は上映館すべてが3D上映ではないので、3Dを「映画の要素」と考えるか否か…については、異論を挟む向きもあるかもしれない。しかし「観るのではない。そこにいるのだ。」という宣伝コピーは、明らかにこの作品が3Dの「臨場感」を前提に成立していることを意味しているはずだ。

 そして実際…僕がこの作品の2D版をいまだに見ていないので、しかと判定は出来かねるものの…この映画の魅力のかなり大きな部分は、3D表現に負っていると認めざるを得ないのだ。

 そしてこの作品の3Dは、確かにそれまでのモノと一線を画している

 ただし、この作品をつくるにあたってはかなりな技術革新が行われたに違いないが、実際に見ている僕にはそれがシカと感じられなかった。3D技術そのものは、実は昨今次々と現れ始めた他の3D映画と大差ないようにしか見えない。

 かつてスパイキッズ3-D:ゲームオーバー(2003)の感想文で駆け足で振り返ったように、かつての3D映画といえば、はっきり言って稚拙なシロモノだったと断じてもいいと思う。

 古典的サスペンス映画「肉の蝋人形」(1953)、ヒッチコックの「ダイヤルMを廻せ!」(1954)、特撮忍術映画「飛び出す冒険映画 赤影」(1969)、アンディ・ウォーホルの名が冠せられたフランケンシュタイン映画「悪魔のはらわた」(1973)、香港アクション「空飛ぶ十字剣」(1977)、大ヒット・シリーズの第3弾「ジョーズ3-D」(1983)、ホラー・シリーズ「13日の金曜日 PART 3」(1982)、マイケル・ジャクソン主演でフランシス・コッポラ監督、ジョージ・ルーカス制作という強力な布陣で作られたディズニーランドのアトラクション映画「キャプテンEO」(1986)…など、初期のごくごく単純な「飛び出し」技術を売り物にした作品から後の1980年代の諸作に至るまで、正直言ってその3D効果は「知れたもの」でしかなかった。21世紀に入っての「スパイキッズ3-D:ゲームオーバー」にしたって、何だか立体感も不安定なものだったし、見ていてやたら目が疲れた記憶がある。

 そんな僕の「3D映画イメージ」を完全に打破したのが、ベオウルフ/呪われし勇者(2007)だ。

 ここでの3D効果は、本当に素晴らしかった。実はこの作品以前に素晴らしい3D効果を使った作品があったのかもしれないが、残念ながら僕は見ていない。少なくとも僕にとっては、「ベオウルフ/呪われし勇者」以前と以後では3Dの威力が天と地ほどにも違ったように思えた。それは、まるで特撮技術がキューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968)以前と以後で明らかに変わってしまったくらいの「変革」だったのだ。

 その後に見たセンター・オブ・ジ・アース(2008)もそうだし、つい先日見たカールじいさんの空飛ぶ家(2009)も同様だ。もはや3Dは、映画のテクノロジーとしてまったく危なげないものになったように思えた。

 しかしその一方で、僕はいまだ3Dは単なる「余興」というか「驚かし」以上のモノになり得ないとも感じていた。あくまで時折、線香花火のように作られては消える「徒花」でしかないように思えたわけだ。

 だからジェームズ・キャメロンがこの「アバター」公開に先立って「これからは3D映画が主流になる」などと発言しても、「何を血迷ったことを」と笑って聞き流していた。「これからは3Dが主流」なんてことは、確かもう1950年代には言われていたんじゃないだろうか。それから何度同じことが言われ、忘れ去られていったことか。次は「臭いの出る映画」か(笑)。シネラマだって消えたのだ。こんな見世物テクニックが定着するわけがあるまい。

 ここで誤解を招くといけないから念を押しておくと、僕は「見世物」的な映画を悪いとは思っていない。見世物大いに結構。そういう映画があっていいし、むしろそれが映画の基本だとさえ思っている。だって最初の頃は、映画の上映そのものが「見世物」だったはずだ。映画に見世物を笑えるわけがない。

 しかしそんな見世物的アトラクションが映画興行の主流として定着するかどうかは、また別の問題だ。それには、その特別な「見世物性」あふれる作品が、次々と供給される必要がある。なぜなら「見世物」には技術革新が付き物で、映画興行の場合、それは映画会社や上映館にとっての「投資」を意味していたからだ。年に1本か2本作られる作品のために、そんな過剰な投資はできない。

 しかし「見世物」が次から次へと作られたら、それはもはや「見世物」ではあるまい。ありふれたモノで鮮度のないモノにしかならない。ゆえに、今まで数々の映画技術が開発されながら、定着せずに消えていったのである。

 ところでここで話を元に戻すと、僕はこの作品の3D技術を、「昨今次々と現れ始めた他の3D映画と大差ない」ものだと言った。

 その一方で、僕はこうも言ったはずだ。「この作品の3Dは、確かにそれまでのモノと一線を画している」…と。

 これでは一体オマエの言いたいのはどっちなのだ…と、怒られても仕方がない。完全に矛盾したことを言っているかのようではないか。しかしこの意見には、どこにもウソも隠しもない。実際、僕はこの映画の3Dをそれまでと一線を画するものだと感じたが、それと同時に使われている技術はそれまでと大差ないようにも思ったのだ。

 先にも述べたように、実際には更なる技術革新が行われているらしいが、正直言って技術としての3Dは、僕にとっては前述の「ベオウルフ/呪われし勇者」あたりで安定したように思う。その違いは、例えばVHSビデオテープからDVDに移行した時と、DVDを見た目でブルーレイ・ディスクを見た時のようなものかもしれない。確かにDVDとブルーレイを見比べれば美しくはなっているだろうが、もはやVHSからDVDの時のような劇的変化ではあり得ない。同じように、昨今3Dではどんどん技術革新が行われているのだろうが、それはもはや見え方をガラリと変貌させるまでには至らないほどの変化なのである。

 では、なぜ僕はこの作品の3Dを、「それまでのモノと一線を画している」などと言ったのか?

 それは3D技術の使い方に、ジェームズ・キャメロンという人のセンスがかなり反映しているからである。

 それまでの3D映画では、良かれ悪しかれその威力は画面から何かが「飛び出す」ことに注がれていた。腹わたや十字剣やサメが、画面一杯に飛び出してきた。観客はその迫力を楽しんでいたわけだ。

 ところがこの作品では、観客に向かって飛び出してくるオブジェクトは、ほとんど登場しない

 その代わり、例えて言うなら「浮き彫り」というか画像処理でいうエンボスというか、そういう画面の「厚み」や「奥行き」感を出すために使われているのである。

 そして映画の構図も、そんな3D演出方針にのっとって決められている。特に映画の冒頭では、そんな遠近感を強調した構図が連発。輸送船の中に並んで座っている海兵隊員とか、輸送船の扉が開いて、外へどんどん駆けだしていく海兵隊員とか、そのあたりで3Dならではの遠近感が遺憾なく発揮している。これは明らかに、こうした効果を最大限に強調するために「演出」として行われているのだ。

 むろん、舞台が衛星パンドラの未開の地や「ナヴィ」の社会に移ってからは、ほぼ完全にCGで創り上げられた「別世界」の臨場感を作りだしていることは言うまでもない。というか、ここでは「作り物」のCG世界をリアルに見せるために、3Dの「厚み」「奥行き」が活用されているというべきだろう。

 つまり、「観るのではない。そこにいる」のである。

 しかも、そんな3D技術を最大限に活かすための工夫は、元々の映画の設定から始まっている。主人公であるサム・ワーシントン演じる海兵隊員はカラダが不自由になっているが、それを自分で諦め切れていない人物だ。ところが「アバター」化すれば、そんな不自由感から脱することができる。彼が最初に「アバター」化した場面を想起いただきたい。過剰なまでに主人公はハシャいで、周囲の静止を振り切って駆け出していく。そこで、これでもかこれでもか…と強調される「開放感」

 そして主人公が「アバター」化する場面こそ、CG使用比率の高い場面であり、当然、3D効果が強調される場面なのだ。

 そこは大気や厳しい自然環境などで、地球人の立ち入りにくい場であるとすでに規定されている。この両方の世界は、コンセプト的に完全に「仕切られて」いる。その一方で、「こちら」側ではカラダの不自由さに甘んじていなければならない主人公は、「向こう」側では圧倒的自由を満喫できる。そこはCGと3Dで彩られたカラフルで迫力のある世界なのだ。

 観客にとっては、物語上のコンセプトと視覚的要素のダブルで、それが焼き付けられることになる。観客にとっては、主人公の身体的不自由と見る側の従来の2D映画の視覚的不自由さが二重写しになる。「アバター」化して外界に飛び出せば、そこはそれまでの映画の不自由さを突き抜けた3Dによる「より自由な」視覚的空間だ。観客は、実際の技術的な視覚効果とともに、頭の中のイメージで「視野が広がった」かのような感覚を味わうことになるのである。

 この作品が、「それまでのモノと一線を画している」のはこの点だ。

 ジェームズ・キャメロンはこの作品によって、3D映画とはこう撮るべきだし、こう見られるべき…という指針を作り上げたのである。

 いや、それは正確ではない。「3D映画とは」…ではなく「3D映画が映画の主流として定着するなら」…と言うべきだろう。

 思い出していただきたい。先に僕は「今まで数々の映画技術が開発されながら、定着せずに消えていった」…と述べたが、すべての「見世物」的技術が消え去ったわけではない。

 その中には主流として定着し、現在も活きている技術がちゃんとある。

 トーキーがそうだった。カラーがそうだった。ワイドスクリーンがそうだった。比較的最近の例で挙げれば、ドルビーデジタルもそうだろう。それを言うなら、映画という「技術」そのものがそうだ。

 今では映画を撮るとき、それがトーキーであるか、カラーであるか…を問う者などいない。映画を撮るとなれば、普通にトーキーでカラーだ。大概の場合はビスタビジョンサイズで、アメリカ映画でなくてもドルビーデジタルで撮っている場合が多い。そのフォーマットで撮らねばならぬ必然性など、今となっては問う者はいないのだ。

 ジェームズ・キャメロンは、3Dをそこまでのモノにしようと本気で考えている

 そして僕もこの「アバター」を見たら、彼の「これからは3Dが主流」という意見がバカげたものに思えなくなってきた。もしそう思えたとしても、それは初期に「トーキーは定着しない」と思っていた人がいたのと同じようなものだろう。もはや、それは観客を腹わたやサメでビックリさせるためのモノではない。音や色が必要なのと同じように、画面には「厚み」が必要なのである。

 しかし観客や映画の作り手にそれを問答無用で納得させるには、それなりの段取りが必要だ。

 初の長編トーキー映画と言われる「ジャズ・シンガー」(1927)は、実は全編がトーキーではなかった。情けない話、僕はこの映画をまだちゃんと見たことがない。しかしいろいろ読んでみる限りでは、スクリーンで俳優が言葉をしゃべるのは映画も終盤に入った頃のことだ。そこまでは、この映画は従来通りセリフを「文字」で画面に出した。それが終盤、主人公がかの有名な言葉「お楽しみはこれからだ!」を発音して、そこで初めて映画は新しい時代に入った。

 新しい時代の幕開けには、それなりの段取りが必要なのである。

 単なる技術革新にとどまらず、構図まで凝りまくって3D効果を最大限に発揮。あくまで「脅かし」ではなく「臨場感」の再現に使うことで、もはや「見世物」ではない…と技術の使い方を再定義した。それだけではない。映画のストーリーからコンセプト、主人公の設定や舞台背景に至るまで、すべてを3D効果を観客に最大限に満喫させるために貢献させた。なるほど、“お話だけを見てとった場合、この映画は「既視感」ありすぎで驚きがない作品”なわけだ。ストーリーやコンセプトは、すべて3D効果を高めることを最優先に組み立てられていた。それ以外の要素は、言っちゃ悪いが二の次、三の次だったわけだ

 それはすべて、観客にとっても映画の作り手にとっても、3Dが映画の主流たり得ると納得させるための段取りだった。これを一回でもやっておけば、もう観客は「向こう」側に行くことに抵抗を感じない。今後はもはやクドクドと理由付けやアリバイづくりをする必要がない。それさえ済ませれば、「これから」はもう「お楽しみ」だけ。そのためにどうしても通過しておかねばならない、必要な「段取り」だった…。

 その「段取り」こそが、「アバター」という映画の正体なのではないか。

 

 

 

 

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