新作映画1000本ノック 2009年6月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ラスト・ブラッド」 「ウォーロード/男たちの誓い」 「チェイサー」(ナ・ホンジン監督作品) 「消されたヘッドライン」 「バーン・アフター・リーディング」

 

「ラスト・ブラッド」

 Blood the Last Vampire

Date:2009 / 06 / 22

みるまえ

 この映画の存在は予告編で知った。あっちこっちからウジャウジャ出てくる怪物の群れ。そこに単身日本刀で立ち向かうセーラー服の女の子(!)。何じゃこりゃ。日本映画なのか? アクションは動作の途中でスピードが変わったりアングルがぐるりと変わったりという「マトリックス」以来のおなじみのやつ。そのうち、周囲のセットの様子が何やら日本は日本でもトンデモ日本くさいと気づいて、こりゃあ「キル・ビルVol.1」(2003)みたいな映画じゃないのかと考え直す。ところが、そのセーラー服の女の子の顔をよくよく見ると…何と「猟奇的な彼女」(2001)ことチョン・ジヒョンではないか! あの時から乱暴な女の子ではあったが、日本刀振り回して(しかもセーラー服で!)怪物と戦うとは驚いた。プロデューサーは「グリーン・デスティニー」(2000)、「HERO/英雄」(2002)などをつくったビル・コン。となると、どうやら汎アジア的なキャスティングの娯楽大作をつくろうとしてるんじゃないだろうか。確かに「猟奇的」チョン・ジヒョンがセーラー服で日本刀って、いかにもオタクなスタイル。これはこれでアリか。僕は日本人以外の役者が日本人役をやっても、「SAYURI」(2005)の時の映画ファンの総スカン状態みたいなアレルギーはないし、むしろ面白がっちゃうようなところがある。それでなくても「トンデモ日本」好きと来るから、こりゃあ見るしかないだろう。小雪が例によって例のごとく、大げさな登場ぶりを見せてるようなのも笑える。みんなはゲテモノとして相手にしてないようだが、僕にとっては結構期待作なのだ(笑)。

ないよう

 1970年、東京。地下鉄丸の内線のがらんとした人けのない車内に、一人の女の子が乗っている。そこにはもう一人、貧相なサラリーマンも乗っている。ところが女の子は何かを感知したらしく、眼光鋭くサラリーマンに向き直る。するとサラリーマンは慌てて逃げ出し、隣の車両、さらにそのまた隣の車両へと逃げていく。それをどんどん追いつめていく少女。その手には日本刀だ。やがて最後尾の車両まで追いつめた少女は、そのサラリーマンを一刀両断に斬り殺す! やがて地下鉄が駅に滑り込むと、数人の黒服の男たちが待っていた。少女の名前はサヤ(チョン・ジヒョン)。彼女は「オニ」を退治する特殊な能力を持つ少女なのだ。かつて何百年も前の時代に、戦乱に乗じてはびこった「オニ」というモンスターたちがいた。普段は人間に化けて暮らすこの連中は、この世界を乗っ取ろうと画策していた。それを阻止するために陰ながら活動しているのが「組織」で、この黒服の男たちはみな「組織」の人間だ。今もサヤが殺した「オニ」の後始末をするため、わざわざこの駅までやって来たというわけだ。リーダー格であるマイケル(リーアム・カニンガム)はサヤをいたわるように声をかけるが、その手下のルーク(J・J・フェイルド)はサヤに反感を持っており、何かと突っかかってくる。そんな不愉快なことはつきまとうが、彼女は「組織」のために「オニ」と戦う生活を続けるしかない。彼女の父を殺した「オニ」の総大将であるオニゲンに復讐する…そのことだけが、彼女を支えているのだ。そのほかにもサヤには「組織」に依存しなくてはならない理由があったのだが…。そんなサヤに、マイケルから新たなミッションが下った。アメリカ空軍の関東基地で、「オニ」の仕業と見られる連続殺人があった。そこで彼女はアメリカン・スクールへの転校生として、この基地に忍び込むことになったわけだ。そんな関東基地内には、マッキー将軍(ラリー・ラム)の娘で反抗したい盛りのアリス(アリソン・ミラー)がいた。そこにやって来たのがセーラー服に身を包んだサヤ。基地内のアメリカン・スクールのワルガキどもに、「いじめてください」と言わんばかりの浮きっぷりだったが、浮いていることでは実はアリスもいい勝負。剣道の授業でなぜか教師のパウエル(コリン・サーモン)に難癖をつけられ、いかにも札付きアバズレ二人組に、なぜか放課後「稽古」をつけさせられるハメになる。ところがこいつらただのアバズレじゃなかった。だんだんそのご面相まで危うくなってくる。何だこいつら人間か? …と、その時どこからともなく体育館に駆け込んできたのが、セーラー服姿のサヤ。彼女はアリスを体育館から引っ張り出すと、扉にかんぬきをかけて入れないようにした。もはや目つきが人間のモノではないアバズレ二人組。サヤは肩に担いだ長筒の底をぽ〜んと蹴飛ばすと、中から飛び出したのは日本刀だ! たちまち始まる激しい立ち回り。扉の隙間からのぞき込んでいるアリスの前で、アッという間にアバズレどもはバッサリだ。あまりのことに気が動転するアリス。そこに怪しさ満点のマイケルやルークたちが駆けつけて、将軍たちと押し問答。CIAを装い極秘指令一点張りで押し通そうとするマイケルやルークたちだが、そこにアリスが現れ「人殺し!」とわめいたもんだから、事態はますますこじれるばかり…。

みたあと

 映画が始まっていきなり、懐かしい地下鉄丸の内線の旧バージョンの車両が登場。もうこれだけで僕としてはオッケーだ。これってセットで走らせたのかと思いきや、実際に旧丸の内線の車両が今でもアルゼンチンで走っていて、それをわざわざロケ撮影したんだとか。いやはや、どっちにしてもそこまでやる徹底ぶりが嬉しいではないか。そしてその車両内で展開する緊迫した立ち回りも「つかみはオッケー」。それだけで僕はぐっと前のめりになった。こりゃあ面白くなりそうだぞ! 元々は日本のアニメとかで、「ブレイド」(1998)やら「バッフィ・ザ・バンパイア・キラー」(1992)やら、ロシアン・ホラーの「ナイト・ウォッチ」(2004)なんぞもチラつくお話。確かにオリジナリティはあんまりないけど、チョン・ジヒョンのセーラー服と日本刀が見れたんだから、まぁいいではないか。それなのに、元ネタのアニメとイメージが合わないとかゴタクぬかしてる輩もいるらしい。おまけに日本人のサヤをチョン・ジヒョンが演じたと文句を言ってる連中もいる。そんなこと知ったことか、どうでもいいよ。バカバカしくて大いに結構。僕はこの映画、大いに気に入った。思った通りにその後もアクションはどんどん派手になり、いかにも日本の繁華街という感じのセットで展開する「オニ」数十人対サヤたった一人の大チャンバラは、あまりに凄くて笑ってしまうほど。チョン・ジヒョンの運動量も相当なもんだ。こりゃ大したもんだよ。チョン・ジヒョンはこれで世界進出を狙ってるみたいで、なぜかジアンナとかいう奇妙な英語名でクレジットされてるのでビックリしたけど、頑張ってることは認めなきゃいかんだろう。大がかりなセットも含めて、これだけやってくれれば文句は言えないわな。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ところが、残念ながら文句が言えちゃうからもったいない。その最大にして唯一と言ってもいいガンは、白人女子高生のアリス。登場の仕方からして、過保護で大人をナメきったクソガキという具合。こいつが訳も分からないくせに首を突っ込んできて、かえって自分もサヤも危うい場面にさらしていくからイライラする。結果的に自分の親父がとんでもない目に遭うのも、このバカ娘が余計なことをするからだ。おまけにサヤのアクションのほとんどが、このアリスを守りつつの戦いとなるもどかしさ。言い方を変えれば彼女がハンディキャップとなってサスペンス倍増…なのかもしれないが、アリスはサヤの足を引っ張ってばかりで見ていてイライラがつのりまくり。不細工だし脱ぎもしないし存在価値ゼロ。こいつさえいなければどんなにスッキリするか…と、ずっと苛立ちながらの鑑賞となってしまった。彼女を守りつつ…ではなく、無条件に破天荒なサヤの大暴れが見たかったというのが本音。そうすれば「キル・ビルVol.1」そこのけの爽快なアクションになったのに。チョン・ジヒョンが頑張っていたのに本当に残念だ。そもそもこの映画、なぜか白人キャストが何となく弱い。特に「組織」で常に突っかかってくるヴィンセント・ギャロが安くなったような男など、そのチープ感が尋常ではない。その他にも将軍など、どこか安さが漂うキャスティングだ。おかしいなと思っていたら、この映画って「キス・オブ・ザ・ドラゴン」(2001)のクリス・ナオンの監督ではないか。なるほどフランス人は同じ白人でもアメリカ人のテイストがイマイチ分かっていないのか。だから何となく白人キャストが安っぽいのではないか。しかも映画は後半に至って、徐々におかしな方向に進んでいく。まずは足手まといのアリスが「私も一緒に行って、あなたを助ける!」という血迷ったセリフを吐く。オマエ何を寝言いってるんだよ? 助けるどころかいつも足手まといのくせにこの「上から」発言。途中でクルマが谷底に転落しかけるドリフのコントみたいなアクション場面があるが、そこでもアリスは足引っ張りまくり。それで結局クルマは転落するけれど、なぜかこのアリスが死なないという強靱さはどうだ。これはいくら何でも無理があるだろう。だが、そんなアリスより上がいたから驚いた。最強の敵オニゲンに扮する小雪サマが、笑っちゃうくらいもったいつけて登場だ。この人そもそも「役者」じゃないし、普通の人間の役なんて出来ないって目の付け所は間違っちゃいない。だけどオニゲンだか何だか知らないが、どれほど怖いかを全然描いてないんじゃ恐がりようがない。出てくれば液晶テレビのCMと変わらないキャラ。一体こりゃ何のつもりだ。元々手強いところを描かれていない上に、油断してアッサリとアリスに後ろからやられるとは…どこが最強なんだかちっとも分からない。クライマックスがこれかよ。あまりにつまらない決着の付き方に、完全に映画は尻すぼみとなってしまった。中盤まではあれほど面白かったのに、こりゃないぜ。インタビューでチョン・ジヒョンに対して完全に「何サマ」発言をしてて、無神経ぶりにゲンナリさせられた小雪だったが、映画の中でも何考えてるのか分からない省エネぶり。もう液晶テレビの宣伝だけしていてくれ。

みどころ

 しかしそれでも、アリス役の白人娘と小雪サマと安手のヴィンセント・ギャロさえいなくなって後半をテコ入れすれば、この映画はかなりイケてたと思う。「キス・オブ・ザ・ドラゴン」で東洋アクションを撮った経験があってリュック・ベッソン・プレゼンツの駄菓子屋風味の映画が作れて、「エンパイア・オブ・ザ・ウルフ」(2005)ではホラー味も経験済みというクリス・ナオンを起用した、プロデューサーのビル・コンの目に狂いはなかった。特に繁華街で次々と押し寄せてくる「オニ」とサヤが戦う場面では、思わず興奮しちゃったよ。「オニ」を追いかけて、サヤが建物の壁までバリ〜ンってぶち抜いて突っ走るあたりには、まるで赤塚不二夫のマンガみたいで笑っちゃった。後半、いきなりとんでもない怪しげな村落が出てくるあたりも、新東宝「九十九本目の生娘」(1959)みたいなテイストが充満。それに加えて、冒頭の地下鉄丸の内線も含め、セットなどに1970年代の東京の雰囲気が結構出てることも見逃せない。全編にどこか「昭和」の臭いがするのである。僕は何となく懐かしい気分になってしまった。この「昭和」味だけでも見る価値ありと断言したい。

さいごのひとこと

 小雪が出てるのは「三丁目の夕日」狙いか。

 

「ウォーロード/男たちの誓い」

 投名状 (The Warlords)

Date:2009 / 06 / 22

みるまえ

 ジェット・リーとアンディ・ラウと金城武。この3人が顔を合わせての時代アクションもの。確かに豪華な顔ぶれだが、まぁ、「グリーン・デスティニー」(2000)以降どんどん作られ、中国語圏映画界の巨匠たちが次々参戦している中華チャンバラ大作の新たな一本かな…ぐらいにしか思わなかった。「HERO/英雄」(2002)、「ヘブン・アンド・アース」 (2003)、「セブンソード」(2005)、「PROMISE/プロミス」(2005)、「レッドクリフ Part I」(2008)、「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」(2009)…などのそれらの作品は、大体が「アジアからハリウッドに挑戦」的な発想で企画されたもので、アジアン・オール・スターで制作され、それぞれ見応えもあった。ただ、そろそろ食傷気味になってきたのも確か。だからアジアン・オール・スターの組み合わせを微妙に変えているだけで、あれもこれも変わり映えしないって気がしてきた今日このごろ。これもどうせそんな一本だろうとタカをくくっていたら…何とこの作品、あのピーター・チャンの監督作品というではないか。ピーター・チャンについてここでグダグダ説明する気はないが、とにかくあの傑作「ラヴソング」(1996)で確実に映画史に残る男だ。これは注目に値するではないか。しかもピーター・チャンとくれば「恋愛映画の達人」。一体こんな中華チャンバラ大作というジャンルで、何をやらかすつもりなのか。そもそもピーター・チャンとジェット・リーって、世が世なら絶対組むはずもない二人ではないか。これはもう見るしかないだろう。絶対に。

ないよう

 19世紀末期。腐敗し疲弊した清朝では、太平天国の乱が勃発。業を煮やした清朝は、前科者やならず者などトンデモナイ連中まで駆り出して兵隊に仕立てた。中でも最低最悪モラル・ゼロの連中が「魁」軍。こいつらの戦った後には、文字通り草木も生えないというのが相場だった。そんな激しい戦闘の後、屍が累々と転がっている荒野から、一人の男がヨロヨロと立ち上がった。何百人もの自分の部隊を全滅に追いやられた将軍パン(ジェット・リー)である。彼はいよいよ決戦の時に友軍であるはずの「魁」軍に見捨てられ、みすみす部下たち全員を死なせる羽目にあってしまった。茫然自失のパンは一人彷徨ううちに、前を歩く一人の女に気づく。どこまでも同じ道を歩くうちに、いつしかお互いを意識し合う二人。しかし、パンの気力もそこまで。疲れ切って倒れた彼を、近くの廃屋に連れて行って寝かせたのは、やはり例の女リィエン(シュー・ジンレイ)だった。リィエンは飯を作ってパンに食わせ、彼と一夜を共にする。しかし翌朝、廃屋の中に彼女の姿はなかった。仕方なくパンは町をあてどなく歩いていると、どこからともなく盗賊団たちがやってくる。その中の若い男ウーヤン(金城武)は、パンの出で立ちを見て軍人だと目ざとく気づく。たちまち始まる激しい剣のやり合い。しかし「できる男」と認めるや否や、ウーヤンはパンを大いに気に入った。そして自分たちの住処へとパンを誘う。その谷間の村落は、盗賊たちの本拠地だった。パンがその村に着いたちょうどその時、「仕事」から帰ってきた盗賊一味の頭アルフ(アンディ・ラウ)たちが帰ってきたところ。そして出迎える村の女たちの中に、パンと一夜を共にしたリィエンの姿が見えるではないか。ところがリィエンは、パンを認めると目をそらした。それもそのはず。リィエンはアルフの女房だったのだ。別に彼女はアルフを嫌っているわけではない。むしろ自分を女郎屋から助け出した恩人として、この上ないほど感謝している。しかし、心の奥底では何か物足りない。だから時々村から逃げ出しては、やはり気が変わって戻ってくるということを繰り返していた。パンと結ばれたあの日も、そんな「家出」の最中だったのだ。複雑な思いを噛みしめるパン。さて、そんなこととはツユ知らず、屈託のないウーヤンはパンをアルフに引き合わせる。しかしアルフは、パンがいかに腕っ節が強くウーヤンの推薦する男だとしても、お上に仕える兵士とツルむ訳にはいかぬ…と、自分たちとは一線を引こうとした。そんな折りもおり、例の「魁」軍の連中がこの谷間の村に襲いかかって来るではないか。こうなると盗賊団と言えども正規の武装集団相手では為す術もない。「魁」軍は村から食料や物資を略奪し、抵抗する者を情け容赦なく殺した。そんな乱暴狼藉の嵐が去った後、ただただ呆然と立ちつくすのみのアルフたち。重苦しい沈黙を破ったのはパンだった。「このままではやられっぱなしだぞ! そうはならない方法が、たったひとつある!」…彼が提案したのは、ここにいる盗賊団ごと清軍に入るということ。軍に入れば食や給金がもらえ身分が保障され武器が渡されて、おまけに手柄を立てれば偉くなれる。村も潤うはずだ。こんなパンの熱い言葉に、ついにアルフも動かされる。そして新参者のパンが信頼を得る手だてとして、その場でパン、アルフ、ウーヤンの3人が義兄弟として「投名状」の契りを結ぶことになる。常に生死も苦難も共にして、義兄弟を傷つけた者には報いを与える。こうして「義兄弟」となった3人は、盗賊団の仲間たちと共に清朝の3大臣の下に出向き、「山」軍として仕えることになったが…。

みたあと

 正直言ってこれがピーター・チャンの作品とは、ちょっと見ただけでは分からない。何しろジェット・リー主演の映画なのだ。アクション映画なのは当たり前。そして時代劇というのも異色だ。題材が何しろ義兄弟の契りというのも「らしく」ない。元々は「ブラッド・ブラザース/刺馬」(1973)というチャン・チェ監督の作品のリメイク企画…と聞けば、まぁ何となく納得。僕はそれほど香港映画に詳しくないし、「ブラッド・ブラザース/刺馬」なる作品も見ていないから偉そうなことは言えないが、チャン・チェ監督の作品と来れば何となく分からないでもない。僕は一連のショウ・ブラザース作品にハマっていた時期に、この人の「英雄十三傑」(1970)という作品を見ていたのだ。男臭いアクション映画…しかもマカロニ・ウエスタン臭の強い残酷味たっぷりの作品。1〜2本しか見ていないで断言するのもいかがなものかと思うが、とりあえず僕のチャン・チェ作品のイメージはそんなところだった。だから今回の「投名状」という「義理が重たい男の世界」の小道具は、「いかにも」な感じがしたわけだ。しかし、それってピーター・チャンの…「君さえいれば/金枝玉葉」(1994)などの都会派恋愛コメディを撮っていた頃にしても、「ラヴソング」以降のシリアス味を加えたドラマを撮るようになった頃にしても…彼の持ち味とはまるっきりかけ離れたモノとしか思えない。果たして大丈夫なのか…とチト心配になるが、そこはそれ、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」(1987)の監督を務め、「HERO/英雄」などのアクション監督で知られるチン・シウトンの指導で、戦闘場面はさすがの迫力。物量的にも申し分なく、アクション・スペクタクルどちらにしても決して恋愛映画監督の片手間とは見せない。大したものだ。しかし、それじゃあピーター・チャンがわざわざこんな題材を撮る意味がないんじゃないのか?

みどころ

 ところがどっこい。やっぱりちゃんとピーター・チャン味はキッチリ刻印されているのだ。それは3人の男の葛藤の中心に、ちゃんと一人の女を置いているところ。この女が単なる「彩り」ではなく、彼らの関係を左右する最重要ファクターとなっているところが、ピーター・チャンらしいところである。しかも、それが単なる浮気女として描かれず、どちらの男にも惹かれる微妙な女心として表現されているところが、「ラヴソング」以降の深みを増したピーター・チャン作品らしいところ。このキー・パーソンである女に注目の若手女優シュー・ジンレイを置いたところがミソで、ジャッキー・チェンの「新宿インシデント」(2009)でも目立ちまくりの彼女、日本ではそれほどの知名度がまだないものの、向こうではチャン・ツィイー、ジョウ・シュン、ヴィッキー・チャオと匹敵する人気と実力の女優なんだとか。その実力のほどはよく分からないが、派手さはないものの確かに何とも男好きする不思議な魅力がある。何でもあの「スパイシー・ラブスープ」(1998)にも出ていたというから侮れないが、残念ながら彼女が何の役で出ていたかはまったく思い出せない。ともかく、これからはこの女優に大いに注目したいところだ。また、あのジェット・リーがこのシュー・ジンレイ相手に繊細な「恋する男」の演技を見せているのも驚き。この人にこんな引き出しがあったとは。それもこれも、やっぱり「ラヴソング」のピーター・チャン演出だからこそ…ということなんだろう。そんな男女間の関係だけでなく、平等な社会を作るためには多少の犠牲は仕方がないとするジェット・リー、あくまで情を中心に考えるアンディ・ラウ、何より仲間との絆が重たい金城武…という、誰が正しい正しくないとも言えない3人の相違、抜き差しならない関係の描き方も、「ウィンター・ソング」(2005)で主人公たちの「業」のようなものをキッチリと描き分けたピーター・チャンだからこそ。いまやこの人に「恋愛映画の名手」という称号は失礼かもしれない。「人間関係を描く達人」とでも言うべきかもしれないのだ。ついでに言えば、金城も「レッドクリフ」以来あのやる気の感じられない芝居が影を潜めた。今回も、意外なところで意外な「凄み」を見せてくれるからビックリ。このあたりも今回の作品の収穫だろう。また問題のアクション場面においても、徹底的にこの手の映画でお得意のワイヤー・アクションを封印。僕は初めて見たのだが、塹壕を掘っての持久戦を描いたり…このユニークなこだわりは、やっぱりピーター・チャンの発案なのだろう。やっぱりこの作品、人物の描き方からアクションに至るまで、ちゃんとピーター・チャン味で塗り固められているのだ。このあたり、やっぱり「さすが」と言いたいところだ。

さいごのひとこと

 見せ場はジェット・リーのラブシーン。

 

「チェイサー」(ナ・ホンジン監督作品)

 The Chaser

Date:2009 / 06 / 08

みるまえ

 単刀直入に言うと、最近は新作韓国映画が公開されてもあまり食指がそそらない。というより、どんな韓国映画が公開されているのか分からない。これは別に韓国映画だけに限ったことではなくて、そもそも今の僕は新作情報に疎いのだ。映画館に行く機会も減れば情報も減る。たまに見に行ってもシネコンのオールナイトってザマじゃ、得られる情報にも限りがある。そんなわけでこの「チェイサー」も、存在を知ったのは自分のサイトの掲示板でのこと。すでに見ている人から「いい」と聞かされたというわけだ。しかしすぐに見に行きたくとも、そうは問屋が卸さない。見る時間が出来たとしても、その映画を見るのに都合のいい時間とは限らない。おまけに見ていないけど見たい映画の数はゴマンとある。これではなかなか見たくとも見れない。それに今の韓国映画は、あまり見たくないというのが正直なところ。ずいぶん裏切られもしたし、失望もした。それまでずっと入れ込んできたから、落ち込みの度合いもひとしお。僕にとって「最後の希望」だったポン・ジュノにも、「グエムル/漢江の怪物」(2006)でガッカリさせられた後となっては、韓国映画はもうたくさん…ってのが本音だった。そこに「チェイサー」が面白いってウワサ…ホントなのか? もっとも、僕は面白い映画じゃないと見たくないのかといえば、必ずしもそうではない。でなけりゃ「レイン・フォール/雨の牙」(2009)だって「バンコック・デンジャラス」(2008)だって見てるわけない(笑)。あのあたりの映画を見たことを後悔しているかと問われれば、いやぁまったく「後悔なんてしていない」。ああいう映画はああいう映画なりに、僕は「見といてよかった」と思っている。しかし今日びの韓国映画は、ひとつ間違えると「見なきゃよかった」って作品が多すぎる。そんなこんなで、何となく腰が退けていたのが正直なところ。しかしもうすぐ終わりそうってことになると、さすがに僕も我慢しきれなくなってきた。この映画だけは、とにかく見ておかねばならない気がしたからだ。

ないよう

 夜のソウルには危険も誘惑もいっぱいだ。今夜も一台のクルマが、街角で男を拾った。女は出張フーゾク嬢。男は携帯で女を呼んだ客だ。男の言われるままにクルマを裏道へと走らせる女。停車したクルマから降りた男と女は、そのまま男の「寝ぐら」に直行だ。そして停車したクルマは…そのまま路上に置かれ続けている。雨に打たれクルマの上に落ち葉が落ちても、誰にも省みられない…。一方、出張フーゾク店を経営するジュンホ(キム・ユンソク)は、最近店の女が勝手にトンズラこくのに頭を痛めていた。女たちを揃えるにも資本がかかっている。勝手に辞められては困るのだ。おそらく同業他社からの引き抜きがあったのかもしれぬ。そんなボヤキの最中、またしても客からの「注文」だ。ジュンホは店の女のひとりミジン(ソ・ヨンヒ)に連絡をとる。その頃ミジンは体調を崩し、自宅で横になっていた。傍らには心配そうに見つめるミジンの娘ウンジ(キム・ユジョン)。しかしジュンホは店長として、ミジンに具合が悪かろうが何だろうが出てこいと無理難題。そんなミジンは携帯のジュンホの番号に「ゴミ」と名前を打ち込んでいる始末だが、ゴミのような奴だろうと生活のためには言うことを聞かないわけにいかない。仕方なくクルマに乗り込んで、イヤイヤ連絡通りの場所まで走らせることになる。ところがジュンホは手下の若いチンピラにグチるうちに、最近消えた女たちが最後に同じ客の相手をしていることに気づく。そこで改めて見てみると、先ほどミジンを行かせた相手がその客ではないか。こいつが黒幕か。元々は刑事をしていたジュンホの第六感がピンと来る。店の女たちを奪っている憎っくき相手をとっ捕まえるべく、ジュンホは秘かに携帯でミジンに連絡を入れる。いわく、相手の家に入ったらメールで住所を発信しろ。それを聞いたミジンは、すでに客をクルマに乗せていた。胸に不安が渦巻き始めるが、ともかく言うとおりにするしかない。客はヨンミン(ハ・ジョンウ)という若い男で、大人しくマジメそうな外見だ。しばらくして見知らぬ通りに誘導されたミジンは、そこにクルマを停めてヨンミンと降りた。彼がミジンを連れて行った先は、暗く大きな屋敷。いくつもジャラジャラ付いたカギで扉を開けると、中には立派な庭が広がる。しかし、そこは長らく手入れされた形跡がなかった。屋敷にも人けがなく、どうやらヨンミンはそこに一人で住んでいる様子。家の中に通されたミジンは、早速シャワーを浴びたいと浴室に飛び込んだ。手早く住所を打ち込んでメール発信…しかし、なぜか電波は届かない。何と窓は形ばかりで開けてもすぐに壁ばかり。おまけに驚くほど汚いその浴室の排水口には、長い髪の毛の束が残されているではないか。一体ここでは何が行われていたのか。ミジンの不安はたちまち恐怖へと変わっていく。その頃ジュンホは近くまでクルマで近づいていながら、ミジンからのメールが届かず苛立ちを隠しきれずにいた…。

みたあと

 正直に言って、見始めたとたんにアブラっこくて魅力のかけらもない中年男が出てきて、どうやらこいつが主人公らしいと気づき始めたところで、「また失敗しちゃったかな」と後悔し始めた。こいつが単にカッコ悪いとかアブラギッシュだとかというなら別に構わないが、品性下劣だし卑怯。おまけに事態がかなり進んでも、まだ他店の引き抜きと思いこんでいる頭の悪さ…見ていてウンザリしてきたことを白状しなくてはなるまい。何とか時間をやりくり捻出したあげく、仕事で疲れきったところに見る映画が「これ」では、正直言って耐えられない。主人公の愚鈍な顔がとにかくイヤだ。たぶん…どこかオレみたいだから余計にイヤなんだろう(笑)。オマエは愚鈍な中年男なんだと名指しされているようで、なおさらイヤになる。おまけに女が犯人の家に足を踏み入れてからの気色悪さと来たら…物凄い設定やら絵柄があるわけではない。それなのに…いや、それだからこそ、まるで新東宝映画のようなイヤ〜な感じが漂う。ジメ〜っとした生理的な嫌悪感。映画としてはよく出来ているのだろう。ここまでイヤ〜な感じを醸し出しているのは、映画としては大成功だ。だけど…映画ファン的にはこんな事言っちゃいけないんだろうけど、僕は気持ちに余裕がないせいか本当にイヤな気分になった。気色悪い。気持ち悪い。本当に不気味で宙ぶらりんな気分になる。僕はどうしてもっとくだらない映画を見に行かなかったのだろう。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 ところが途中から、この映画の見え方が変わってくる。まるで初めて黒澤明の「生きる」(1952)を見た時に、早々に主人公が死んでお葬式の場面になることに驚かされたように、この映画でさっさと犯人が主人公に捕まり、さらに警察の手の内に転がり込んで、しかも猟奇殺人犯だと正体も知れてしまうあたりで…僕はその語り口の大胆不敵さにすっかり驚いてしまった。これからこの映画って、どんな風に展開していくのか。するとここから、主人公に負けず劣らず愚鈍で使い物にならない警察組織の出番。またまた見ているこっちは散々イライラさせられるが、そのうちに主人公の見え方がどんどん変わってくるのだ。かつての古巣の連中や組織のダメさ加減を見ているうち、そして自分が誤って殺人鬼のフトコロに送り込んでしまった女が「生きている」かもしれないという可能性を知って、さらにその娘の自分を責めるようなまなざしにさらされるに従って…見ているのもイヤになるような愚鈍な主人公の見え方が、観客の僕らの側で少しずつ変わってくる。ダメな点への嫌悪感は弱さを持った僕ら自身の共感に変わり、アブラギッシュさは不器用な男の汗に見えてくる。実際、彼は扱い方も分からない幼い女の娘を連れながら、真夜中の街を息せき切って右往左往。勇ましくも単身警察に乗り込んだあげく警察に利用され、さらには警察に捕らえられるというアリサマ。頭も悪いし不器用だしまるで要領が悪い男だが、その時点でこの男の言動にはまったくウソがないことが分かる。するとその遮二無二何とかしようとするパワー、その不器用さまでが好意的に見えてくるのだ。

こうすれば

 ところがまたまたウンザリさせられることに、映画は女が苦心惨憺何とか逃げ出す様子を克明にこってり描き続けたあげく、それが全部徒労に終わりました〜ってなひどい展開を見せる。ありゃ〜、またかよ。「グエムル/漢江の怪物」のポン・ジュノや「オールド・ボーイ」(2004)のパク・チャヌクお得意の、「オレは甘っちょろい勧善懲悪やハッピーエンディングなんか見せないで、ハードな現実をリアルに見せることのできるひと味違う映画作家だぜ」的な陰惨な展開。「自分が甘っちょろくない、ひと味違う映画作家」であるということを表明したいというだけのために、ドラマトゥルギー的に無意味で無益な主要人物の殺しを持ってくる。もう、こういう愛情も何も分からない童貞坊主が「オレってテクニシャン」ってスゴんでるみたいな趣向を見せられるのは、いいかげんにしてもらいたい。それまで描いてきたことも全然意味がなくなる徒労ぶりに、何だか本当にイヤになってしまう。今までも何度も言っているように、僕はハッピーエンド至上主義でも勧善懲悪主義でもない。女が助けられなかったことが不満なんじゃない。そこまでこってり女が助かるための苦労を見せてきた…のは、最後に努力も虚しく殺される登場人物やそれを見せられる観客をも「ほら、ザマァ見ろ!」とせせら笑ってひっくり返すための伏線ってことなのか。それって物語を語るために貢献している工夫でも映画的テクニックでも何でもなくて、単に作り手が観客の意表を突いてビックリさせて自分が優越感に浸るためだけの悪趣味でしかないんじゃないか。というより、「オレってスゴイ」って言いたい幼稚な自己顕示欲だけだろう。それまで積み上げられてきたこの作品への好意も、一気にこの瞬間に雲散霧消だ。こういうのをマジでスゲエと思う映画ファンも昨今多いが、別にそれまでの観客の期待を単にひっくり返すだけなら、もっといろいろ何でもできる。何だったら、全部これって映画のウソでしたって終わらせればいい。ただし、それやってたら映画ってもの自体が成立しなくなってしまうが…。

みどころ

 ところが…と、再度ここでお断りしなくてはならない。この映画には「その後」がある。ダメダメな主人公、自分が女を死に追いやることになり、危機が迫っていても助けることもできず、結局間に合わなかった主人公が、最後の最後に残されたなけなしの意地と知恵と力を振り絞り、彼なりの落とし前をつける。その後に主人公は病院を訪れ、女が遺した幼い娘を見舞うのだ。ただ、それだけ。それはハッピーエンドなどではない。何かの結論が引き出されるわけでもない。何にも事態は変わっていない。しかし、見ている僕らの心には何かが残る。そして…主人公の中でも何かが変わったはずだ。たったそれだけのことを、ここまでのいろいろな道具立て…恐ろしい猟奇殺人、狂った犯人像、警察の腐敗と無能ぶり、女の苦痛や恐怖や苦労、女の娘の哀れ…を持ち出してきた上で、作り手はこの作品で描きたかったのだということがやっと分かる。主人公の恐ろしいまでの魅力のなさも、なるほど折り込み済みだったのだと今にして理解した。どうせポン・ジュノやパク・チャヌクと同様の「上から」演出止まりだろうと思っていたあの無惨な趣向も、こういう結末なら頷ける。そして、ちゃんとそうなる意味がある。恥ずかしい話だが、この映画への僕の中の評価は見ている間に二転三転した。そのくらい、これは手強い映画なのだ。でも…だから予測不可能で面白い。正直言って見ていてかなり疲れたが、疲れただけの手応えはあった。できればこの次の作品は、僕が精神的時間的に余裕のある時に見たい(笑)。

さいごのひとこと

 いい映画か悪い映画かも予測不能。

 

「消されたヘッドライン」

 State of Play

Date:2009 / 06 / 08

みるまえ

 実はこの映画、たまたま試写を見せてもらう機会があったので見た次第。今はそういう機会でもないと、映画もおちおち見れない(涙)。しかし、タイトルが「消されたヘッドライン」…何だか「錆びたナイフ」とかみたいな裕次郎や小林旭が全盛時の日活映画みたいな題名。どうも新聞記者が大活躍って内容からして、どこかイマドキの感覚とズレている予感。それでもキャスティングを見ると、ラッセル・クロウ、ベン・アフレック、ヘレン・ミレン…などなど、アブラの乗った顔ぶれが並んでいるではないか。だとすると、邦題ほどズレた内容でもないのかもしれないが。

ないよう

 眠らない「政治の街」ワシントンDC。その中でも不夜城ぶりが際だっているのが新聞社。名門「ワシントン・グローブ」紙も、そんな新聞社のひとつだ。ところが眠るどころでない人物がここにも…ひとりの黒人少年が血相を変えて街中を逃げ回り、それを怪しげな男が追いかける。ガード下で見事に物陰に隠れて男をまいたと思った少年だが、次の瞬間、男のサイレンサー銃の餌食に。たまたま通りかかったビザの配達人まで、その毒牙の生け贄になるのだった…。さらに翌朝、地下鉄駅で一人の若い女がホームから転落して死亡。ところがその女ソニア・ベーカーは、国会議員スティーブン・コリンズ(ベン・アフレック)の事務所で働く職員だった。折しもその日は、コリンズ議員が主催する公聴会の初日。国家と軍需産業の癒着ぶりを告発するはずの公聴会だったが、事務所スタッフのソニアの死を知ったコリンズは動揺し、公の場でその狼狽した様子を露わにしてしまう。そのアリサマをテレビで見ていた「ワシントン・グローブ」ベテラン記者カル・マカフリー(ラッセル・クロウ)は唖然呆然。というのも、コリンズ議員はカルの大学時代の友人。コリンズの狼狽ぶりを見たカルは、胸にイヤな予感がよぎる。案の定、ベテラン記者カルの予感は現実のものとなった。ソニアがコリンズ議員の愛人である疑惑が浮上し、軍需産業を揺さぶる理想家肌の新進政治家が、たちまちスキャンダル渦中の人物へと失墜するハメに陥ったのだった。おまけにそのゴシップ記事の急先鋒が、「グローブ」のネット版記事であると知ってカルはクサる。その記事を書いた若手ネット記者デラ・フライ(レイチェル・マクアダムス)がクソ生意気に得意満面になっているのを見るや、たちまち天狗の鼻をへし折るカル。それでも近年発行部数が伸び悩み先行きが危うい「グローブ」紙編集長のキャメロン(ヘレン・ミレン)としては、ジャーナリストとしての「在り方」云々より「勝てば官軍」。おまけに日頃からベテラン大御所記者として扱いにくいカルに、キャメロン編集長のイヤミと叱責が飛ぶ。ところがそんな夜、男やもめにウジが湧くカルのアパートに、居場所のなくなったコリンズがやって来る。何とも皮肉な再会に苦い思いを噛みしめる二人。そしてソニアとの不倫の事実を認めるコリンズに、コリンズの妻アン(ロビン・ライト・ペン)に想いを寄せていたカルとしては苦さもひとしお。それでもコリンズの「ソニアが自殺なんてあり得ない」という断言ぶりに、ひそかにジャーナリストとしての嗅覚を働かせるカルであった。その後、押しつけられた仕事で射殺された黒人少年の事件を取材し始めたカルは、彼が死の直前に携帯電話でソニアと連絡をとっていた事実を知る。ここでカルのジャーナリスト魂に火がついた。彼は反発を露わにするネット記者デラを引っ張り出してコキ使いながら、事件の核心に迫っていくのだが…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 確かに古くさいタイトル。何となく活気も元気もない感じ。それなのにキャストは鮮度満点。どうにも不思議な感じを抱いて映画実物を見てみれば、これは古いことは古いけど、僕が最初に思っていたほどの「古さ」ではない。イマドキすっかり珍しくなった社会派サスペンス娯楽路線。つまり、1970年代にアメリカ映画が得意としていたジャンルではないか。ラッセル・クロウが演じるベテラン新聞記者は…正直言って新聞記者がヒーローって時点ですでに古さは隠しきれないが…挑発ではみだし野郎で反体制派。イマドキは、いい若いもんが情けないことにオール与党でお上にベッタリの世の中なのに、こいつは今でも「長髪」の反体制派だ。それこそが1970年代映画のシンボル。何しろあの時代ときたら、デラウレンティス・リメイク版「キングコング」(1976)の主人公ですら反体制で長髪、アメリカの陰謀に噛みついていた(笑)。「病んだアメリカ」を告発するのがお約束の時代だったのだ。だから今回の作品が、どこか「大統領の陰謀」(1976)を彷彿とさせるのも道理。レッドフォードとホフマンみたいにワイシャツ姿の男を堪能させてくれないのは仕方ないとして、結構本格的に作った新聞社のセットで主人公たちが熱に浮かされるように語り合い闊歩するあたり、「大統領の陰謀」のオマージュ感がアリアリ。そしてあの時代の骨のある映画が好きな僕も、思わず見ていてワクワクしてきたことを白状しなくてはならない。実は今回の作品、元々はイギリスが舞台のテレビシリーズだったというが、それがなぜかアメリカの話に移行していったのはどんな理由からだろうか。そもそもイギリスの政治サスペンスをアメリカの話にしちゃうなんてことが成立するのかどうか疑わしいが、出来上がった作品を見る限りでは、作り手がどう考えても1970年代アメリカ映画にオマージュを捧げていることは明らか。監督が「ラストキング・オブ・スコットランド」(2006)のケビン・マクドナルドと聞いて、さらに納得だ。ああいった骨のある反骨の娯楽作が、1970年代のアメリカ映画にはゴロゴロしていたのだから。きっとマクドナルドも、「大統領の陰謀」やあの手の映画のファンだったのだろう。そして、そんな1970年代型アウトロー・ヒーローに、ラッセル・クロウが実にハマっているのだ。「ハリウッドランド」(2006)以来、どこか陰りを帯びてきたベン・アフレックも、意外に適役好演だ。

こうすれば

 ただし、お話は二転三転して国家と軍需産業の結託ぶりを告発するように見せて…結局、政治家個人のプライベートなお話に落ち着いちゃったあたりがちょっとガッカリ。あの「病んだアメリカ」「国家的陰謀」を告発していた1970年代アメリカ映画と比べると、何となくチマッとしたスケールの話に落ち着いちゃった感じがして、ちょっと残念な気もするのだ。それと、やっぱり「はみだしベテラン記者」という存在そのものが、どこか「時代遅れ」感を漂わせているのも否定できない。もちろん本作の狙いはそんなかつての反骨ジャーナリズムや紙メディアが脅かされていて、ネットや商業主義がはびこっていることへの反発であることは分かる。だからそんな現実へのアンチテーゼとして、ラッセル・クロウみたいな「はみだしベテラン記者」を出さねばならなかったし、また前提としてその「時代遅れ」感を醸し出さねばならなかったことも理解できる。だが、時代はそんな思惑よりも先にいってしまっていて、もはや「はみだしベテラン記者」なんて現実にいないし、リアリティもないってところまで来ているのが本音だろう。そういう意味でこの映画は、設定そのものが少々古色蒼然としてしまったと言わなくてはならない。こういう世界は好きだし狙いも理解できるが、残念ながら時代はもうそこまで来ちゃったと言うべきだろう。

みどころ

 それでもやっぱり、僕はこの映画の世界が好きだ。それは僕が年老いた人間だからかもしれないが、主人公のベテラン記者がクソ生意気なションベン臭い小娘ネット記者の鼻をあかすくだりなど、見ていて胸がスーッとした。ネットの人間はマスコミを「マスゴミ」と称して蔑視する。それは確かに事実だし、僕も連中は不愉快に思っている。しかしネットは何をなし得て何を創造できたかと言えば、偉そうなことを言っても無責任な流言飛語と誹謗中傷をまき散らす「ゴミ以下」のシロモノでしかないのではないか。これは自戒も含めてあえて言いたいが、本来は公に情報発信しちゃいけないような連中に、無思慮に情報を垂れ流しできる環境を与えてしまった。たぶん時代の趨勢はもう定まっていて、紙とネットの戦いはとっくに「勝負がついている」のだろうが、小娘ネット記者が終盤近くに言うセリフ「やっぱりいい記事は紙で読まなくっちゃね」…には心ひそかに賛同したい。

さいごのひとこと

 ある意味で「グラディエーター」並みに「歴史劇」。

 

「バーン・アフター・リーディング」

 Burn After Reading

Date:2009 / 06 / 08

みるまえ

 コーエン兄弟にとって「ノーカントリー」(2007)でオスカー受賞後第1作にあたるこの作品が、メチャメチャ豪華なキャストによるバカ・コメディであることは、予告編を見ていれば誰でも分かる。ジョージ・クルーニーとブラピが出るから言うんじゃないが、「オーシャンズなんとか」も裸足で逃げ出すオール・スター。しかもバカ映画。するってえと、コーエン兄弟としては「赤ちゃん泥棒」(1987)と並ぶ系譜の作品になるのか。どちらにせよこれはたぶんハズしてないはず。大いに楽しみではないか。

ないよう

 地球の周囲には不気味に軍事衛星が回る。国際政治の陰謀渦巻くここワシントンDC、その中でも緊迫感あふれる権謀術数の中心がCIA本部だ。今日も今日とて本部内の一室では、意味ありげに男たちが顔を揃える。そこで行われていたのは、CIA局員オズボーン(ジョン・マルコビッチ)の配置換え通知であった。ハッキリ言って降格処分なのだが、それも日頃のアル中ぶりを指摘されてはグウの音も出ないはず。しかしオズボーンは被害者意識に凝り固まって「やめてやる!!」といきり立ったのが運の尽きだ。コレ幸いにとCIAをおっぽり出されたから、オズボーンの腹の虫は収まらない。そんなオズボーンの憤りも察せず、帰宅した彼が頼んだ買い物をしてこなかったと責める女房ケイティ(ティルダ・スウィントン)もケイティ。精神科医の彼女は、一事が万事この調子の自己中心女。彼女は夫の失職を知るや、慰めるどころか離婚準備をスタート。実は彼女は財務省連邦保安官ハリー・ファラー(ジョージ・クルーニー)と不倫中だったのだ。離婚となれば、出来るだけふんだくれるモノはふんだくる。そのため彼女は、ネタ探しにオズボーンのパソコンを探りに探る。そこで彼女がCD-ROMに焼き付けたのは、オズボーンが書き殴っていた自らの回想録。早い話がCIA時代のグチ、悪口雑言大会だ。ところで一方、ここはとあるフィットネス・クラブ。連日人々がセッセと汗を流すこのクラブで、従業員のチャド(ブラッド・ピット)はえらく鼻息を荒くして興奮していた。「こりゃあスゲエ!」…実は彼は利用者が忘れていったCD-ROMをパソコンで覗いて、中に何やらCIA絡みの情報が入っているのにビックリ。てっきりヤバイ情報の「ブツ」だと早合点したのであった。そうなると、ガキより単純なこの男の頭に浮かぶのは「カネになる」という発想だけ。ところが同僚の中年女リンダ(フランシス・マクドーマンド)もこの話に一枚かんだから話はややこしくなる。本来ならばこんな単純バカ男の与太話に誰も耳を貸さなかっただろうが、このリンダ、寄る年波に危機感をおぼえて全身整形への願望で頭が一杯。その資金がつくれずに悩んでいた最中だったため、冷静な思考ができなくなっていた。クラブの上司テッド(リチャード・ジェンキンズ)はリンダに陰ながら想いを寄せていたため、そんな二人を不安げに見つめる。しかし、リンダはそんなテッドなど眼中になかった。そして、もちろんCD-ROMの出所はオズボーンのパソコン。実はケイティより離婚訴訟の相談を持ちかけられていた法律事務所の人間が、うっかり自分が通うフィットネス・クラブにCD-ROMを忘れてきてしまったのだ。その頃ケイティと不倫相手のハリーは、人目を忍ぶ昼下がりにしっぽりお楽しみ。ところが突然ケイティに離婚の話を打ち明けられたから、どうにも風向きがおかしくなる。お手軽な不倫の相手としてはケイティも楽しいが、今の女房を捨てて再婚する気などない。暑苦しさを感じ始めたハリーは、新たなお楽しみのお相手探しを始める。ところが出会い系サイトでせっせと探したお相手が、何とあのリンダだったとは何たる偶然か。そして、これがまた相性バッチリと来たから話はさらにややこしくなる。一方、ついにCD-ROMの出所を見つけたチャドは、よせばいいのにリンダとゆすりにかかる。これにはオズボーン、頭から湯気を立てて逆上。リンダとすっかり意気投合したハリーは…といえば、なぜか最近身辺を尾行されているような気配を感じて戦々恐々。はてさて、どうもタダでは済まない予感が…。

みたあと

 単純に面白い。これだけで終わらせちゃってもいい。元々シリアスな作品やサスペンス仕立ての作品でも、どこかにオフビートなユーモアを盛り込んできたコーエン兄弟なので、コメディやユーモア・センスはお手のもの。そこに芸達者な連中をこれだけ並べれば、面白くなるのが当たり前かもしれない。冒頭にわざとらしく軍事衛星をCGで出してくる大げささとか、「ワシントンDC」だの「CIA」だのというハリウッド・サスペンス大作っぽい道具立てをニギニギしく持ち出してくるあたりで嬉しくなる。そこにスーパーインポーズ・タイトルまで、わざわざピピピピッ…とか電子音を鳴らしながらコンピュータ・ディスプレイ上の文字みたいに出してくるのも、ハリウッド・サスペンス大作の「もじり」なのは明らか。どの作品…と聞かれると困っちゃうけど、例えば最近じゃ「トランスフォーマー」(2007)とか「ワールド・オブ・ライズ」(2008)とか、あのへんの作品のオープニングみたいな感じと言えばお分かりいただけるだろうか。何かとんでもない事が始まりそうな雰囲気の、「あの感じ」である。僕はそれだけで嬉しくなった。実際にお話が始まると、「地球を脅かすナゾの物体」とか「国際政治を揺るがす大陰謀」とかが起きそうな冒頭のムードにも関わらず、チンケな不倫やケチなゆすりたかり、出会い系サイトや整形や筋肉バカの出てくるくっだらないお話(笑)。この落差が何よりおかしい。いや、ホントにくだらないお話だ。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 もちろんもつれた糸をさらにもつれさせるようなバカバカしくも緻密な脚本の妙が冴え渡っていて、このあたりはさすがにコーエン兄弟。毎度ながらうまさが際だっている。近年の彼らの作品の中でも、最も「内容がない」ところが素晴らしい。これは本気でホメている。このくだらなさが、この作品の身上である。なのに劇中の音楽はといえば、まるでハンス・ジマーが作ったようなサスペンスフルで大げさな音楽。これがまたバカバカしさを助長している。笑いを倍増させてくれている音楽だ。豪華キャストも魅力で、ジョン・マルコビッチやティルダ・スウィントンらの曲者役者たちが見せるバカ演技も見ものだが、最も見応えがあるのは何といってもブラピの筋肉バカぶり。「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」(2008)などのシリアスな彼を考えると何とも捨て身のイメチェンだが、例えば「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」(2008)でのトム・クルーズの悲壮感まで漂っちゃう余裕のない芝居と比較してみると、意外にもピッタリとバカぶりがハマってる。彼の予想外の芸達者ぶりがこの映画最大の見どころかも。そんな彼がアッと驚く顛末を見せる、まるで「パルプ・フィクション」(1994)での「あの人」の「あの場面」みたいな展開も嬉しい。いやぁ、やっぱりコーエン兄弟って才人だなぁ。

こうすれば

 というわけで、大いに楽しんで見終わった。それだけなら面白くてバカバカしくて言うことなしの映画なのだが、不幸にも僕はこの映画のパンフレットを買ってしまった。すると、そこにはコーエン兄弟たちの、ちょっと聞き捨てならないコメントが載っているではないか。彼らはこの映画をジェリー・ブラッカイマー作品などの「ハリウッド娯楽大作」をからかって作ったようで、そこらへんは見ていたこちらの予想通り。しかし彼らは撮影中、「この場面をトニー・スコットならどう撮るだろうか?」…などと考えながら撮っていたというのだ。僕はこれを読んで、正直言ってすごく不愉快な気分になってしまった。「ノーカントリー」でオスカー受賞した直後、あえて肩に力を入れない娯楽作を撮った…そのこと自体には好感が持てるし正解だと思う。しかしオスカー作品賞まで取った直後に、露骨にジェリー・ブラッカイマーやトニー・スコットをオチョクるってのは、いかがなものだろうか。オレたちは「格上」だぜって言いたいのだろうか? ハクがついたからってそんな態度に出るのは恥ずかしくないか。どっちかと言えば、コーエン兄弟はそんな「アート映画」の大げささとは無縁の軽やかさこそが身上ではなかったのか。それだけに、「オレたちの映画は高級」って言いたげなこの作品の制作態度に、鼻につく腐敗臭みたいなものを感じてしまったのだ。「くだらない映画」「バカバカしい映画」ならそれでもいいではないか。どうしてそれを全うできない? なぜ「実はハリウッド映画をバカにしてるんだぜ」なんて恥ずかしいことを言いたがるのだ。「オレたちが一声かければ簡単に集まるよ」とでも言いたげな、ジョージ・クルーニー以下のオール・スター起用にもイヤミなものを感じる。それって粋でも何でもない、鈍くさいヤボてんの下品な発想ではないか。

さいごのひとこと

 もう横綱なんだから横綱らしい相撲をしろ。

 

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