新作映画1000本ノック 2009年5月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ブッシュ」 「バンコック・デンジャラス」 「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」 「ストレンジャーズ/戦慄の訪問者」 「ウォッチメン」 「ダウト/あるカトリック学校で」

 

「ブッシュ」

 W.

Date:2009 / 05 / 25

みるまえ

 オリバー・ストーンの映画なんて、ずいぶん久々な気がする。ただし、あのオリバー・ストーンがついこの前まで大統領だったブッシュのことを映画にすると聞いた時は、ちょっとどうかなぁと複雑な気分になった。そもそも「プラトーン」(1986)、「ウォール街」(1987)で出てきた頃のストーンは娯楽味もある骨太の社会派って感じだったけど、その路線も毎度毎度の繰り返しで、しかも「JFK」(1991)あたりに至っては、「ケネディを殺したのはCIAとFBIとマフィアとあれとこれと…」なんてこじつけに近い結論を唐突に持ち出すムチャクチャぶりに、見ている方がだんだん辟易してきたのも無理のないところ。そう思ったのは僕だけじゃないようで、近年は作品的にも興行的にもイマイチだったような気がする。大体が「ワールド・トレード・センター」(2006)なんて趣味が悪くて見る気もしなかったし。そんなオリバー・ストーンが「ブッシュ」とくる。「ニクソン」(1995)もやったから今度は「ブッシュ」だと思ったのか。しかし、例えば「フロスト×ニクソン」(2008)と比べると「ニクソン」の深みのなさが思い切り露呈しちゃうように、近年のストーン作品ってもう完全に化けの皮がはがれている。社会派的、政治的な題材を好む割には、物事単純にしか考えてないし押しつけがましいってのがバレバレ。いくらブッシュはダメ大統領で僕も嫌いだとしても、またぞろストーンに一刀両断にされるのを見るのはねぇ。大体が、ブッシュはダメ…だなんて分かり切っていることを、またこいつにダメ出しされても面白い訳がないだろう。しかも当のブッシュがまだ政権にいる間に映画が出来ちゃうってのは、いかがなものだろうか。そんなわけでイヤな予感はしたものの、当のブッシュ役に「ノーカントリー」(2007)でぐっと売り出したジョシュ・ブローリンを起用したと聞いて、そのキャスティング・センスの良さにビックリ。なるほど、それは「フロスト×ニクソン」でのニクソン役フランク・ランジェラと同じくらい納得のキャスティングだ。そんなわけで、ブローリンのブッシュぶりを見たくて劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 誰もいない野球場にただ一人。ジョージ・W・ブッシュ(ジョシュ・ブローリン)が最も心安らぐ瞬間が、野球場にいる時だ。そんなWの脳裏に、彼を呼ぶ万雷の歓呼が聞こえてくる…。ホワイトハウスの大統領執務室で、今まさに重大決定がなされようとしていた。それは独裁者サダム・フセインを叩くための戦略会議だ。まずは国民にイラクを叩く必然性を理解させるために、彼ら「テロ国家」をひとくくりにするキャッチフレーズを考える。イラクと北朝鮮を…そうだ、「悪の枢軸」と呼ぼう! ぴったりな言葉を見つけてゴキゲンのWだったが、そもそもイラク侵攻に懐疑的なコリン・パウエル国務長官(ジェフリー・ライト)は遠回しながらWに熟考を促す。しかしイケイケ気味のチェイニー副大統領(リチャード・ドレイファス)とラムズフェルド国防長官(スコット・グレン)の古狸二人ペースで会議は進行し、Wがそこに時々調子のはずれた合いの手を入れるといった具合。対イラク戦争に今ひとつノリの悪いライス補佐官(タンディ・ニュートン)も、何となくその場の雰囲気に飲み込まれざるを得ない。そんな古狸ペースで場が進行していることを、Wは分かっているんだか分かっていないんだか…。そもそもこの男、元々からして万事この調子だった。学生時代から優秀な弟ジェブと比べられて、父ブッシュ(ジェームズ・クロムウェル)には白い目で見られた。最も乱痴気騒ぎで逮捕されたりして親父に助けを求めたりするW自身、親父の期待を裏切り続けてはいたのだが。働き始めてもそんな状況は変わらず、何をやっても続かず身に付かずで職を転々。あげく女に対する下半身の不始末まで親父に尻ぬぐいしてもらう始末。親父に言わせれば弟ジェブとは雲泥の差であり、名門の面汚しだ。ハーバードへの入学が決まった時も、Wは酔いつぶれずにはいられなかった。それに怒った父ブッシュは、母バーバラ(エレン・バーステイン)や弟たちの面前で「コネ合格」と暴露しての罵倒ぶり。むろんWはそんな事を知っていた。知っていたからこそ荒れたのだ。それでもWは彼なりの幸せをつかみつつあった。地元テキサスの下院議員選出馬を目指している時、ローラ(エリザベス・バンクス)という美女と出会ったのだ。こうして彼女はWの生涯の伴侶となるのだが、肝心の選挙の方は散々な結果となった。これがまたしてもWの挫折感をつのらせ、彼を酒浸りにする。ところがWの40歳の誕生パーティの真っ最中、何と珍しくも父ブッシュから電話がかかってくる。今度、大統領選に出る父の手伝いをして欲しいというのだ。どうせ弟ジェブが忙しいからお鉢が回ってきただけ…とうそぶきながら、結構、嬉々として選挙戦を仕切るW。その甲斐あってか、父ブッシュは見事大統領選に勝つことができた。だが勝利の報が届けられるや、Wの顔に複雑な表情が浮かぶ。「これでやることがなくなった。これからどうすりゃいい。親父なんて負けてしまえばよかったんだ」…Wがそんなつらい気持ちをぶつける先は、酒に溺れて断酒のためにすがった宗教組織の幹部(ステーシー・キーチ)しかなかった。そして父ブッシュは、大統領任期最大の難関に差し掛かる。それがサダム・フセイン相手の湾岸戦争だ。この時は国防長官だったチェイニー、参謀本部議長のパウエルとも、早期に戦争を勝利で集結できて結果に満足。父ブッシュもしてやったりと思っていた。しかしWは不満が残った。肝心要のサダム・フセインが残ってるじゃないか。そのせいというわけでもないだろうが、父ブッシュは次の大統領選でビル・クリントンに負けて、たった一期の任期で退陣することになる。さすがにがっくり気落ちする父を見て、「だからサダムを叩いておけばよかったんだ!」と傷に塩をすり込むような発言をするW。しかし、それは彼の本音だった。そしてWは、いよいよテキサス州知事の座をめざすことになる。父ブッシュは弟ジェブとの兼ね合いで「もうちょっと待て」と止めるが、そこに優秀な弟の名前を出されるとWとしてはますます片意地になって出馬をしないわけにいかない。かくして猪突猛進が功を奏してか、今回は見事当選。多少は父ブッシュを見返せるようになってきたような気がした。しかし、まだまだWとしては満足するわけにいかない。ある日、Wは例の宗教幹部を呼んで、ごくごく「個人的」な相談を持ちかけるのだった。いわく、「実は、神のお告げがあった。私に大統領になれというんだ…」

みたあと

 前述したように、今さらオリバー・ストーンが政府や大統領やらをコケにする映画など、「またか」という感じで大して期待していなかった。僕だって世界中の大半の人と同じようにブッシュをホメる気なんざサラサラないが、あまり低レベルに攻撃されてもシラけるだけ。ブッシュ批判ならすでにマイケル・ムーアが「華氏911」(2004)がリアル素材を使ってこってりやってるから、何を今さらという感じが強い。そんなわけで、「ブッシュ役にジョシュ・ブローリンとは考えたな」と思わず感心しちゃった「政界そっくりショー」としてのお楽しみしか期待していなかった。で、実際「そっくりショー」的にはかなり満足したと言っていいだろう。まずはブッシュ周辺の人物像…父ブッシュ、その夫人バーバラ、チェイニー、ラムズフェルド、パウエル、ライス…らに扮した役者たちの面々が素晴らしい。ジェームズ・クロムウェル、エレン・バーステイン、リチャード・ドレイファス、スコット・グレン、ジェフリー・ライト、タンディ・ニュートン…と、まぁよくこれらの役者を思いついたなと膝を打ちたくなるベスト・キャスティング。顔が似ているというのではなく、実に雰囲気をつかんでいるのである。売れっ子ジェフリー・ライトのパウエルも傑作だが、タンディ・ニュートンのライスなんてどうやったら思いつくのか分からない(笑)くらいの素晴らしさ。普通は思いつかないよねぇ。個人的にはリチャード・ドレイファスが腹にイチモツの曲者ぶりを久々に発揮して嬉しい。本当はもっと活躍して欲しい人なので、起用してくれたことに感謝だ。こうしたキャストの「そっくり」ぶりが楽しい上に、いずれ劣らぬ実力派ぞろいであることにも注目。こうした連中の中にブッシュ役ジョシュ・ブローリンを置いてみると、気の毒ながら何となく格の違いがにじみ出てくる(笑)というあたりまで、ブッシュその人を思わせて絶妙のキャスティングなのだ。やっぱり狙ってたんだろうなぁ。

みどころ

 ところがあまり期待してなかったのが良かったのか、これが意外に面白いのである。まずはコメディとしてつくったのが良かったのだろうか。確かにブッシュは間抜け感が強い。「悪党」として告発するようなタマではないだろう。そして何より笑える映画に仕立てたことによって、ブッシュを同情すべき人物に描いたことも注目に値すべきだろう。おかしな奴だがキライになれないところがある…それがブッシュという男の本質だと描いているのだ。そしてまたしても「器の小さい男」の物語…。本来その器でない人間が、よせばいいのに就いちゃいけないポジションに就いたことから起こる悲喜劇というのが、この「ブッシュ」という映画の本質なのだ。確かに予想通りこの映画はブッシュをコケにしてはいるが、バカにするというより「こんな奴いるよな」レベルのからかい方。あくまで人間喜劇として描かれているので、むしろ人物的には意外なくらい好感が持てるほど。そんな調子で(BGMに「ロビンフッド」の歌なんかを流すお楽しみもあり)笑える映画として途中までは進行。一方でどうしても父を超えられない、父の愛を手に入れられない男の不幸も描かれる。そして遮二無二頑張ったあげくの大統領当選後に、真の悲劇が訪れる。本人はまるっきり悪気はなかったのに、チェイニーやラムズフェルドなどの口車に乗せられて、とんでもない戦争に乗り出すハメになる。望んでもいなかった結果を目の当たりにして、いつの間にか二階に上がってハシゴをはずされた状態になったのに気づくあたりで、映画はそれまでのコミカルな調子からゾッとするような恐ろしさを秘めた悲劇へと転ずる。例えば「フロスト×ニクソン」のニクソンは、自分の器を自分なりに自覚していた。ところがこの映画のブッシュはそれに気づかず、いよいよ取り返しがつかなくなってから気づいているように描かれている。だから恐ろしいのだ。徹底的にカリカチュアライズしてバカにしたり、単純一本調子の悪玉に描かなかった…むしろ同情できる理解できる人物に描いたことで、この映画は思わぬふくらみを得ることになった。演じたジョシュ・ブローリンも「小物感」ムンムンで好演。この作品、実は近来のオリバー・ストーン映画の中でも傑作の部類じゃないだろうか。僕はかなり楽しんだ。

さいごのひとこと

 「T2」ならぬ「W2」がなくて良かった。

 

「バンコック・デンジャラス」

 Bangkok Dangerous

Date:2009 / 05 / 25

みるまえ

 これがあのタイ出身(それとも香港? どっちだ?)兄弟監督パン・ブラザースの新作だというのは、何となく劇場でチラシを手に取った時に分かった。この兄弟の日本でのデビュー、東京国際映画祭で大絶賛を浴びた「レイン」(1999)のハリウッド・リメイク。しかもセルフ・リメイクと来る。主演はニコラス・ケイジ。嫌いな俳優じゃないし、スケールアップもキャリア・アップもしたんだろうし、まずはめでたし。…そう言ってあげたい気もするが、パン・ブラの「レイン」以後のキャリアの積み重ね方を見ていくと、そうそうめでたいとも言っていられない。僕は「レイン」を見ることができなかったが、評判は耳にしていた。だからその後に発表した「アイ」(2002)は、とりあえず慌てて見に行ったのだ。確かにこの作品は素晴らしくて大いに「その後」が期待されたが、次に東京国際映画祭に持って来た作品「オーメン」(2003)は何だかホラー仕立てのジャニーズ系アイドル映画みたい。まぁ、浮世の義理でそんな仕事もしなきゃならんだろうと思っていたが、その後の兄のオキサイド・パンによる単独監督作「テッセラクト」(2003)は、時制をいじくった意欲作ながら空回り。さらにまたしても兄オキサイド単独の「アブノーマル・ビューティ」(2004)が、今度は女の子アイドル主演のホラーといった具合。「アイ2」(2004)や「アイ3」(2005)となるとさすがに付き合いきれなくて見に行かなかった。実はこの兄弟の絡んだ映画は他にもやたらめったらあるらしいのだが、その大半がホラーらしい。しかし僕が見た限りでは、見逃した「レイン」、そして最初に見た「アイ」…以降の作品はどう考えても安手のホラーばかり。しかも、どんどん品質が落ちていっているのが気にかかる。そんなこんなしているうちに、何とハリウッドから声がかかっての上陸第一弾が公開。しかし、これまたホラーの「ゴーストハウス」(2007)となると…まぁ、最初だし仕方ないんだろうなと思いつつ、いささか食傷気味にもなろうというもの。そのうちトム・クルーズがリメイク権を買ったと言われていた「アイ」がジェシカ・アルバ主演の「アイズ」(2008)となって公開されたと風の便りに聞いたが、さすがにもう劇場には飛んで行かなかった。そしてついに出世作「レイン」まで切り売り。今回のハリウッド・リメイク版「バンコック・デンジャラス」となったわけだ。ここまで来ると、何となくタコが自分の足食ってる状態な気もしないでもないが、今回のこの作品、果たしてその出来栄えやいかに?

ないよう

 一匹狼のジョー(ニコラス・ケイジ)は、プロの殺し屋である。世界を股にかけて仕事をこなし、仕事はいつもし損じなし。先日もプラハで取調室での証言に臨んだ犯罪者を、隣のビルから一撃でしとめた。なぜ殺すのかを問うことはない。それは自分とは関係ない。そして現地で手足となって働いてくれた男に、きっちり礼とあの世への引導を渡す。常に綿密に計画を建て、証拠を残さないのが自分の流儀なのだ。そんな彼も、最近とみに限界を感じる日々。そうなれば、深追いせずに引き際を見極めるのも真のプロというもの。最後の一稼ぎとして、バンコックで一気に4件の仕事を片づけようと目論んだ。早速、単身バンコックへ飛ぶ。そこでケチなスリを働いて小金を稼ぐチンピラのコン(シャクリット・ヤムナーム)を目ざとく見つけるジョー。むろん大きな仕事をやらせるわけでなく、単なる雇い主との「つなぎ」だ。あくまでこちらの流儀で働いてもらい、余計な口出しや質問は許さない。言うまでもなく、この仕事が終われば「消えて」もらうだけの存在だ。あまりに一方的で高圧的なジョーの態度に内心文句たらたらのコンだが、稼ぎの良さにここはじっとひたすら我慢。それに「つなぎ」の仕事で出入りするクラブで、可愛いダンサーのオーム(ペンワード・ハーマニー)と仲良くなったのも嬉しい。そんなこんなでまずは1つめの仕事。クルマで移動中のターゲットにバイクで近づき、一撃のもとに仕留めるという至って簡単な仕事だ。しかしちょっとした手違いから、仕事は無事済ませたものの腕を負傷。予想以上に深手だったため、ジョーは治療薬を求めて薬屋に飛び込む。ここで知り合ったのが、親切な店員のフォン(チャーリー・ヤン)。手取り足取り教えてくれる彼女の懇切丁寧ぶりに驚くジョーだったが、実は彼女は耳が不自由な身だった。そんなフォンの真摯な態度が、ジョーの心に残る。翌日もジョーは薬屋に現れ、彼女を食事に誘うのだった。一方、「つなぎ屋」コンはその途中で泥棒に絡まれ、仕事の情報が入ったカバンを盗まれそうになる。しかしコンはカバンを必死に奪還して、息も絶え絶えでジョーの元にやって来た。その様子を見たジョーは、コンをそれまでの「つなぎ」役のようには「使い捨て」にできなくなってくる。気が付けばコンに格闘の極意を教えて、彼に後継者たるノウハウを伝授しようとしているジョーだった。しかし、それは仕事に感情を持ち込まないというジョーのモットーを、少しずつ曲げていくことにつながっていった…。

みたあと

 実は、僕はニコラス・ケイジがキライじゃない。こんな曲者役者のくせに、なぜか「60セカンズ」(2000)みたいにジェリー・ブラッカイマー映画でヒーローを演じてみたり、「ゴーストライダー」(2007)、リメイク版「ウィッカーマン」(2006)、「ネクスト」(2007)などのヘンテコ映画に映画に嬉々として出ちゃうが、それがまたキライになれない点だ(笑)。だから、今回も何となくイヤな予感がしたけど見に行っちゃったわけだ。で、その結果だが…先に述べたように僕はオリジナル「レイン」を見ていない。だからそれと比較のしようがない。しようがないんだが…これっておそらく、オリジナルとかなり変えてあるのではないだろうか? そうでなければ、ちょっと理屈が合わなくなる。「レイン」は東京国際映画祭でも評判が良かったし、何よりパン・ブラザースの名前を有名にした作品だ。それが…こんなヌルい作品でいいわけがないだろう。そのくらい、今回のこの映画はどこかユルいし変なのだ。

こうすれば

 この映画の主人公は、「完全無欠の殺し屋」だ。そんな仕事ぶりは、冒頭のプラハでの仕事シーンでも描かれている。そんな非情で冷徹な殺し屋が、たまたまちょっとばっかり情を持ったばっかりに…というところがこの物語のミソでポイントであろうことは分かるが、それにしてはボロボロ過ぎなくないか? 最初の殺しの際に、たまたま不幸にも事故が発生…というのはいいとして、その後は薬屋の女の子に惚れるわ、使い捨てのはずのチンピラを弟子にしたてるわ…「ちょっとばっかり情を持った」どころじゃなくって情に溺れっぱなし。いくら何でも、これがそれまで完全無欠の非情な殺し屋だった男とは思えない。それくらい無制限垂れ流し状態の情のかけ放題なのだ。いくら何でも甘すぎ、ヌルすぎ、ユルすぎだろう。絶対こんなことやってたら墓穴掘るって、見ているこっちだって思うからね。「弟子」のチンピラと並んでトレーニングに励むシーンなんざ、オマエは「ベストキッド」(1984)のミヤギか(笑)と突っ込みたくなる。薬屋の娘チャーリー・ヤンとのデート場面も、何だか中学生並みのプラトニックさ。いやぁ、今日び中学生だってもっとひねてるだろう。デートの時に彼女が主人公に渡す紙きれに「あなたといると幸せ」なんて書いてあるのには、見ているこっちの方が恥ずかしくなった(笑)。しかもその後で、彼女が背を向けたとたん悪漢たちが襲ってきて、それを瞬間的に主人公が倒す…という、まるでドリフの「8時だヨ!全員集合」のコントみたいな展開になるのに二度びっくり。さらに主人公の正体を知った彼女が逃げ出して、それを見送るニコラス・ケイジが「そ、そんなぁ、待ってくれよ〜」ってな表情で唖然とするあたり、正直言ってコメディとして作っているのかとパン・ブラの意図を疑ってしまった。彼らはこれがシリアスな描き方だと思っているんだろうか。実は妙ちきりんな場面はこれにとどまらず、モーターボートとバイクを使った派手なアクション場面でも登場。最後に川に浮かんだボートの上で、主人公がターゲットを仕留めるのだが、ボートの底を撃ち抜いて弾丸が川の中に放たれる水中ショットまであるのに、なぜかボートに水が入り込んでくる気配がまったくない。ターゲットを撃ち殺したまま、主人公ニコラス・ケイジは仁王立ちのままだ。これもどう考えてもおかしいだろう。いや、おかしすぎる。水中をプシュ〜ッと走っていく弾丸の軌跡を、カッチョよくスタイリッシュに映像化しているのはいいとして、状況の描き方が物理的にも常識的にもヘンってのはマズイんじゃないか? パン・ブラザースって一体どうなっちゃったんだろう? アイドル・ホラーを量産しているうちに、才能が枯渇してきちゃったんだろうか?

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 それでもこの映画は、なぜかキライにならない。主人公がいきなり人間性に目覚める、その目覚め方が安易で生ぬるいとはいえ、そのお話そのものは悪い気がしない。弟子にしたチンピラに「あんたはワルをやっつけているんだよね」と言われて理想家肌の政治家を殺すに殺せなくなり、自分に不利な負け戦と分かりつつ雇い主に反旗を翻す。生きて帰ることができない死出の旅と知りつつ、惚れた女の家にひと目見たさに現れ、そのまま黙って背を向けて去っていく。すでに汚れちまった男に残された最後のひとかけらの純情とでも言おうか。さすがに「グラン・トリノ」(2008)のイーストウッドとはメンコの数が一枚も二枚も違うものの、このエンディングのニコラス・ケイジもそれはそれでなかなかいい味なのである。正直言ってパン・ブラの脚本や演出はダメダメだが、何とかこの映画が終盤それなりの味を出したのは、ニコラス・ケイジが主役を演じていたから。もうひとつ特筆したいのは、これまた久々のチャーリー・ヤン。僕の昔からのご贔屓女優で、近年ジャッキー・チェンの「香港国際警察」(2003)で見事なカムバックを遂げた彼女。ここでも素敵な清涼剤として登場したのが、個人的には嬉しかった。

さいごのひとこと

 デンジャラスなのはバンコックじゃなくて主人公の頭。

 

「レッドクリフ Part II/未来への最終決戦」

 赤壁・決戦天下 (Red Cliff II)

Date:2009 / 05 / 18

みるまえ

 チョウ・ユンファの離脱劇によって大波乱が予想された、ジョン・ウーのライフワーク「レッドクリフ」。その二部作の前編を、しかし僕はなかなか見る気になれなかった。昨年の最大の話題作だったし、ジョン・ウー作品だってキライじゃない。おまけにチョウ・ユンファがいなくなったからといってまったく見劣りしない、トニー・レオン以下ギンギラに並んだオールスターの面々。むしろ僕の好みとしては、現在の世界映画界で最もインテリジェントな男トニー・レオンが主役の方が、正直言ってチョウ・ユンファよりずっと食指がそそるのだ(おそらくジョン・ウーの熱烈ファンからは怒りを買うだろうが)。しかし、それでもなかなか重い腰が上がらなかった理由は、これまた熱烈ファンを抱える「三国志」に僕自身があまり興味がないからだろう。前編の感想文にも書いた通り、教養のなさ丸出しで自慢にならないのだが、僕はこの手の中国の大河物語に特別な感情を抱いたことがない。たぶん語らせれば一晩中でも語れるようなファンがウヨウヨいて、登場人物も山ほど出てきて、しかもそれらがどれがどれやら見分けがつかない漢字の名前(笑)。全然知らないし目を通したこともない…とまでは言わないが、とてもじゃないが「知ってます」とは言えないアリサマ。それだけで面倒くさい気がして、何とも見る気がしなかったのだ。それが、もう公開も終わりに近付いた頃に見に行って…「やっぱりオモシロイ!」と感心しちゃったのだから現金な話。その面白さのうち大半は、正直言って、やっぱり元のお話の面白さなんだろう。それは、例えハリウッドの若手スターをかき集めてディズニーで撮ろうと、どうやったって面白くなっちゃうアレクサンドル・デュマの「三銃士」と同じようなものだ。揺るぎない太い幹のようなドラマトゥルギーがどこか一本通っているから、どう作ったってオモシロイのだと思う。しかし、それはそれとして…ジョン・ウー作品ならではの面白さも、そこにはしかと見届けられた。中華講談の面白さは面白さとして、それらを圧倒的なパワーとエネルギーで見せ付けただけでなく、ちゃんと多彩なキャラクターの魅力で引っ張る確かな腕と語り口があった。しかも、一番オイシイところでお話は終わってしまったので、前編を見終えた段階では「すぐに後編が見たい!」と期待がふくらんだのであった。しかし、それから早くも何カ月も経ってしまうと、その興奮もどこへやら。またまた「三国志」面倒くさい…とすっかり腰が重くなる。トシをとると、映画一本見るのにもパワーが要るのだ。いや、逆にチョロい映画だったらホイホイ見に行っちゃったのかもしれない。なまじっかヘビー級のスケールを見せ付けられているから、胸焼けしそうで足が遠のくのだ。おまけに今回の「Part II」のサブタイトルが「未来への最終決戦」と来る。何だこれは? 「マトリックス」か何かの続編じゃないんだから(笑)、「未来への最終決戦」ってこたぁないだろう。このサブタイトルだけでも見る気がかなりダウンしたのだが、前編を見ておきながら後編を見ない手はない。しかもジョン・ウーの新作だしトニー・レオン以下のオールスターも出ている。何だかんだ言って今年の話題作だ。そんなこんなで、ゴールデンウィークのある日、オールナイトの劇場にムリヤリ乗り込んだわけ。

ないよう

 大河を挟んで対峙する両陣営。片や軍船の数からいっても軍勢の数からいっても圧倒的多数を誇る、征服欲に燃えた曹操(チャン・フォンイー)の軍勢。それに対するは、呉の国の若き君主・孫権(チャン・チェン)と、そこに同盟を持ちかけた劉備(ユウ・ヨン)の連合軍。実質上この連合軍を仕切るのは、呉の指揮官・周瑜(トニー・レオン)。そして劉備の配下から加わった天才的軍師の孔明(金城武)であった。それでも、赤壁の地に陣取る連合軍の軍勢は知れたもの。向こう岸では曹操が兵の中から選手を選抜して、盛大な蹴鞠大会を開催する余裕ぶりだ。しかし、そこに孫権の妹・尚香(ヴィッキー・チャオ)が男装して忍び込んでいるとは、曹操たちも気付いていなかった。尚香は兵たちに紛れて曹操軍の情報を集めては、伝書鳩に託して孔明に知らせていたのだ。そんな最中に尚香は、蹴鞠大会で優秀な成績を収めたために曹操から一小隊の隊長に任命された孫叔材(トン・ダーウェイ)と知り合い、友情を育む。しかし余裕をかましている曹操軍ではあったが、実は憂慮すべき問題が持ち上がっていた。進軍に次ぐ進軍で疲労がたまり抵抗力が下がった兵士たちに、慣れぬ土地の風土病が襲いかかってきたのだ。その病気がアッという間に兵士たちに蔓延し、死者も続々と出ていた。一度は頭を抱えた曹操は、持ち前のエゲツなさでとんでもない奇策を考えつく。何と病気で死んだ兵士たちの死体を小舟に山積みし、そのまま川向こうの連合軍陣地目がけて流したのだ。そうとは知らぬ連合軍側では、その小舟を引き揚げてしまう。川岸に住む村人たちに至っては、死体が身に纏っているモノを頂戴しようとする者まで出てくる始末。「これは何かある」と孔明が気付いた時にはもう遅い。すでに兵士たちにも感染者が出て、村は病魔に冒され壊滅状態になっていた。あまりの惨さに周瑜の妻・小喬(リン・チーリン)も、ただ涙するしかない。このままではジリ貧状態だと判断した劉備は、配下の張飛(ザン・ジンシェン)、関羽(バーサンジャプ)、趙雲(フー・ジュン)らや兵士たちを連れて、ひとまずその場を退散してしまう。自分から同盟を持ちかけておいて、あまりと言えばあまりの仕打ちに呆然とする孫権たちだったが、指揮官・周瑜は冷静さを保って彼らを見送った。そして責任を感じたのか、孔明もまたこの赤壁の地に留まったのだった。しかし、さしあたっての問題がひとつ。劉備軍が引き揚げてしまったために、手持ちの矢が極端に不足してしまった。何とかしろと迫られた孔明は、3日で10万本の矢を調達すると宣言。一方、周瑜はといえば、曹操軍の水軍を率いる蔡瑁と張允を亡き者にすると言い切った。お互い武士に二言はない。果たせなければ命を投げ出す約束だ。その割に、やけに涼しい顔の周瑜と孔明。まずは孔明、近々川に濃霧が発生すると読み切り、ワラで全体を囲った船を20隻用意させる。一方、周瑜は曹操と通じている幼なじみの蒋幹を自宅に招いて痛飲。その席で酔ったふりをして、蔡瑁と張允が自分と内通しているというウソの手紙をチラつかせる。さて翌朝、濃霧を突いてワラだらけの船20隻で向こう岸をめざす孔明。案の定、霧のためにどの程度の軍勢か分からぬ曹操軍の蔡瑁と張允は、部下に命じて雨あられと矢を射る。降り注ぐ矢はことごとく船を囲ったワラに突き刺さり、船はアッという間に矢でビッシリと覆われる。その頃、陣地に舞い戻った蒋幹からの報告を聞いた曹操は怒り心頭。しかもタイミングがいいやら悪いやら、ちょうど敵に矢を10万本もくれてやったと知って、蒋幹の伝えた「出来すぎた話」を信じ込んでしまった。では、今後の水軍は誰が率いる?…と冷静な発想に頭が戻った時にはすでに遅し。蔡瑁と張允の首はその場に転がっていた。かくして周瑜と孔明は、お互い約束を違わず命を落とすこともなかった。まんまと矢を10万本手に入れ、敵の水軍の将を取り除くことに成功したのだった。やがて親しくなった孫叔材の助けで敵陣を脱出した尚香が、敵陣の地図を携えて戻ってくる。しかも尚香から、ビッシリと停泊した軍船がそれぞれお互いに固定されていると聞いて、これは勝機アリと周瑜はじめ一同は膝を打つ。かくなる上は総攻撃、もちろん火攻め…と大いに意気上がってきたところで、孔明が気になる点を指摘した。何と現在の風は、周瑜たちの軍勢から見て向かい風。ヘタに火など振り回したひには、逆にこっちのケツに火がついてしまう。そして当然、今こそ曹操軍は火攻めを行うべき時のはず。救いはそうした戦術に長けた蔡瑁と張允が、すでに敵軍から消えてしまったこと。そして孔明の読みでは、一両日中に風向きは逆転するはず。ならば、あと1日でも時を稼げれば十分勝機はある! そんな男たちの会話を黙って聞いていた周瑜の妻・小喬は、何かを覚悟したかのようにそっとその場を立ち去るのであった…。

みたあと

 やっぱりこの映画って物語からして面白い。実際、ストーリーを書いていても楽しかったくらいだ。特に前半の周瑜と孔明のとんちを効かせた腹芸…まんまと矢を10万本手に入れ、敵の水軍の将を取り除くことに成功するというくだりなど、痛快無比で笑ってしまう。だから映画の前半部分は、気楽に楽しく見ることが出来た。そういう意味で、前作よりもユーモアが勝っていると言える。ただし、それもあくまで前半まで。いよいよ後半の「決戦」場面になってくると、戦いは壮絶を極めるのだ。また、戦いが終息を迎えるくだりでトニー・レオンがつぶやく「勝った者はいない」というセリフは、どこか黒澤明の「七人の侍」(1954)終盤での志村喬のセリフ「勝ったのは百姓だ、オレたちじゃない」を連想させるところがある。そういえば戦い済んでの壮絶な惨状描写は、黒澤晩年の戦国時代劇大作「影武者」(1980)や「乱」(1985)での「それ」を彷彿とさせる。ジョン・ウーの黒澤マニアぶりは有名だから、これはこれで強烈なジョン・ウー印を刻印した部分だと言えるのかもしれない。

みどころ

 むろんアクションもすごいしスペクタクルとしても一級品。多彩なキャラクターも楽しめるし、それらがみなそれぞれに心意気を持って行動しているあたりがジョン・ウーの意匠であり、ファンとしてもこたえられないところだろう。そういう意味で僕も圧倒されたし大いに楽しんだ。これだけ楽しませてもらえれば言うことはないだろう。ただし「三国志」マニアでもジョン・ウー・シンパでもない僕だから、メチャクチャに熱くなって見たということはないのだが…。だがそんな僕でも、非常に興味深く見た点が一カ所だけある。それはこの映画きっての仇役、独裁者の曹操についてだ。確かにこの男、周辺国を征服してわがものにしようというあたり野望と欲望でギラギラ。それをジャマする者には容赦しないし、かつ手段を選ばない冷酷さもたっぷりある。まこと「悪役」としての貫禄十分な存在だが、それだけで語ってはもったいないしつまらない。ジョン・ウーもこの「Part II」で、彼になかなかの見せ場を用意している。病いに倒れ苦しむ兵の元へと赴き、彼らの低下した士気を大いに高揚させるくだりだ。そこでは冷酷で独裁的な男ではあるが、曹操なりの兵への思いやりと人間性を伺わせる。曹操の言葉を聞いて傷病兵たちが立ち上がり、それにつられるかのように他の兵たちも大いに鼓舞されて立ち上がるくだりなど、この曹操がただ狡っ辛く立ち回って残虐非道なことをためらいなく実行できる…だけではなくて、曹操なりの人間性で人を惹きつけたり動かしたりしているのだということを如実に表している好場面だ。夫の作戦成功のため、単身、曹操の元に乗り込んできた小喬も、若き日の曹操を華も実もある「英雄」だったとホメそやす。その言葉にウソはなかったように思う。その意味では対立する周瑜にも劣らない立派な人物ということになるはずだが、残念ながらそうはいかなかったところが曹操の悲劇というべきだろうか。小喬が図らずもお茶に託して「身に余る野心」と指摘していたが、そもそもこの曹操という男がやろうとしたことすべてが、身の丈を超えてしまっていたのではないかと思える。身の丈を超えているから無理が生じるし、道をはずしたこともやらざるを得ない。やっちゃいけないこと、やらなきゃいいことまでやってしまう。何となく僕はこの映画の曹操を見ていて、「フロスト×ニクソン」(2008)のニクソン元大統領を思い起こしてしまった。自分がそれほど大きな器ではないことは分かっている。その器に収まる範囲で満足していれば良かったのかもしれないが、ソコソコの器では満足できなかったのが運の尽き。いやいや、器の小ささを人に見透かされているからこそ、それを跳ね返したいと望むもの。いつか他の人々を見返してやる、浮かび上がってやる…と目一杯無理して頑張って、そのためには情けも捨てたし手段も選ばず汚れ役も買った。そこまでやったのに結局は最後すべてを失って…何と一発大逆転を手に入れたいがために、愛する女を人質に使うというやっちゃいけない手段まで使って、そのあげくその女の徹底的軽蔑の眼差しを浴びる羽目になる。矢を射られて髪がザンバラになるのは、ひとつの象徴だ。自分にはそれがある…と必死に人に思わせようとしていた「ディグニティー=威厳」というものが、元々まるっきりないということが決定的に白日の下にさらされたからこそ、曹操は呆然と立ちつくしてしまうのだ。そして、曹操がニクソンと同じというなら、それはこの僕と同じということだ。同じように、生まれついての「二流」の人間ということだ。僕は、彼の気持ちが分かる。またまた映画を見て思い知らされてしまったけれど、彼のような人間の気持ちは僕にしか分からない。それを分からずにいられる人は、幸せな人なのだ。

さいごのひとこと

 この映画をチョウ・ユンファは見たんだろうか。

 

「ストレンジャーズ/戦慄の訪問者」

 The Strangers

Date:2009 / 05 / 11

みるまえ

 リブ・タイラー主演の恐怖映画。いかにもショボい上映のされ方で、広告も見なかった人が大半だろう。唯一メジャーっぽい要素はリブ・タイラーだけだが、その彼女自身が最近モタつき気味だから、大して明るい材料にはならない。普通なら無視も致し方ない作品だろうが、こういう作品の中に思わぬ拾いモノがあるから、世の中は分からない。以前にもこんな感じで「モーテル」(2007)という快作を見つけたではないか。僕は内心ちょっと期待して、小さな映画館へといそいそ出かけて行った。

ないよう

 この驚愕すべき物語は、実話を基につくられている。ジェームズ・ホイト(スコット・スピードマン)は人里離れた別荘に、用意万端整えていた。今日は友人の結婚式の日。ジェームズはそこに恋人のクリスティン・マッケイ(リブ・タイラー)と呼ばれていた。ジェームズはこのチャンスを逃さず、彼女との仲を決定的なものにしようと考えていたのだ。だから部屋中に花びらを散らし、ワインやキャンドルやらを準備。もちろん指輪も買ってきた。ムード満点でプロポーズして、忘れられない一夜にしようと健気に考えていたのだ。ところが世の中うまくいかない。クリスティンにはその気がなかった。こうなると用意万端の演出効果が空しい。結婚式から引き上げて別荘にやって来た二人はドッチラケ。特に思惑がはずれたジェームズの顔色は思い切り悪かった。仕方なく彼は携帯で、同じ結婚式に参列した友人にクルマを持ってきてもらう手はずをとる。明日の朝は別々に帰らねば、気詰まりしてとてもやっていられないだろう。そんなやりきれない夜も明け方になろうという午前4時過ぎ、何者かがドアをドンドンと叩くから驚いた。一体誰がこんな時刻に、しかもこんなタイミングでノックするのか。ウンザリした気分でジェームズがドアを開けると、そこには一人の少女が立っていた。「タマラはいますか?」…何を言っているのかといぶかしげなジェームズは、「そんな子はいない」と素っ気なく答える。「本当にいません?」…本当もウソもいないものはいない。ジェームズはその少女にそう告げてドアを閉めた。再び二人きり。またも気詰まり。これに耐えきれなくなったジェームズは、タバコを買いに行くと言ってクルマで出かけていった。後にはクリスティンがただ一人。ついついもらった指輪をはめてみたりして…するとドアが再びドンドンと激しく叩かれるから、さすがにクリスティンも驚いた。コワゴワとドアを開けてみると、またしてもそこには例の髪の長い少女。「そこにタマラいない?」…またしても同じやりとりに、さすがにクリスティンもビビらずにいられない。しかもまたまたドアがドンドン、ドンドン…と乱暴に叩かれるではないか。これは確かに普通ではない。それでなくても寂しい郊外の一軒家。マトモなら、こんな所にこんな時間、若い娘がほっつき歩いているはずがない。これは尋常ではないと慌て始めたクリスティンは、携帯でジェームズを呼び戻すが…。

みたあと

 何となく気まずい空気の漂う男女が、たまたま一夜を明かすことになる人里離れた一軒家。しかし、そこには人をいたぶることを無上の喜びとする変質者が潜んでいて…というコンセプトは、まさしく小品の傑作「モーテル」と同じ。実はその男女の男の方を演じるスコット・スピードマンが誠実そうながらイマイチ感がある男ってところも「モーテル」と一致(笑)。思わず僕がその再現を期待したとしても、無理もないこととご理解いただきたい。実際この映画も途中までは、まさに「田舎の便所」風に気色悪さが充満。これはモノスゴ〜く怖くて面白い映画になりそうだと期待しちゃった。しかし僕は迂闊なことに、ひとつ重要なことを忘れていた。それはこの映画の冒頭に宣言されている…「この映画は実話」ってことである。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 確かに怖い。イヤ〜な感じだ。しかし主人公たちがあの手この手をくり出すごとに、相手もあの手この手で攻撃してくる…ってほどバラエティに富んだ恐怖のパターンが出てくるわけではない。意外に一本調子で単調だ。そしてどんどん絶望的状況になるのはいいとして、最後の最後まで反撃の余地がない。つまり最後までやられっぱなし…ってことなのだ。これはハッキリ言ってまったくカタルシスがない。これってやっぱり、この話が「実話」ベースだったからなんだろう。実際にこんな目に遭った場合には、やられた奴は一本調子にやられっぱなしで、とてもじゃないが映画みたいに反撃なんかできないだろう。しかし、それをほぼ「そのまんま」映画として見せられても、いかがなものだろうか。こう言うと、僕がいつも指摘するように「勧善懲悪でないといけないと思っているのか」とのイチャモンがつきそうだ。しかし何度も言うが、必ずしも僕はそう思っているわけではない。「正義が勝ってめでたし」…にならないのが問題なのではない。やられ方が単調で一本調子、しかも一方的にやられっぱなし。反撃の工夫もなければ、そのためのカタルシスもない。犯人側の動機も正体も明らかにならない。これのどこが面白いのか教えていただきたい。ただやられて、やられまくって、そこに何の工夫もひねりもなくてオシマイというテイタラクでは、娯楽映画として楽しみようがない。アンハッピーエンドでもいいから、何らかのメリハリや工夫やアクセントが欲しいのだ。この映画にはそれがない。おまけに…これはたまたまそうなっちゃったのかもしれないが、主役男女の男の方がかわいそうすぎる。男は、女の歓心を買いたかったからこんな一軒家で甘い一夜を計画した。この女のために一軒家で夜明かしなんて思わなければこんな目に遭わなくて済んだし、そもそもミジメ〜な気持ちにならずに済んだ。本来なら一人で外に出て助かったかもしれないのに、この女が携帯で呼び戻したから、ひどい目に遭わされることになった。親友を誤って自分の手で殺すハメになるし、最後には命まで落とすことになる。その最後の最後に、女が今さら指輪をはめているのを見ることになるなんざ、気の毒すぎて見ていられない。見ているこっちとしては、リブ・タイラー演じる女がすべて悪いという気分になってくる。こんな女は早く殺されちまえという気分になってくるのだ。こいつのおかげで男はすべて裏目裏目のひどい目にあうってのに、この女はギャーギャーわめいて反撃ひとつできやしない。それなのに、結局、この無神経なバカ女は最後まで生き残ってしまうという最悪の結末。本当に後味が悪い結末となってしまった。しまいには恐いのが吹っ飛んで、思いっきり頭に来たよ。犯人も何をやってるんだ。僕はやったことの非道さを責めてるんじゃない。どうせ殺すならこのクソ女の方だろうが!

みどころ

 途中まではホントに怖くて面白そうな予感がした。うまくやれば、きっと面白くなる題材だったはずだ。監督・脚本のブライアン・ベルチノも、あまり「実話」にこだわる必要はなかったんじゃないか? 実話ってのは僕ら自身の人生を振り返れば分かる通り、実際は大して面白くないものだ。せめて主役男女の設定を、あんなプロポーズ失敗なんてミジメな状況にしなければよかったのに。途中から怖いより腹が立ったからねぇ。

さいごのひとこと

 リブ・タイラーを殺さなかった犯人に怒りをおぼえる。

 

「ウォッチメン」

 Watchmen

Date:2009 / 05 / 11

みるまえ

 ハッキリ言ってアメコミの映画化なんてもうウンザリってのが正直なところ。アメコミじゃなくてグラフィック・ノベルだなんて言われても、なおさらウンザリなだけだ。それなのに、この手の作品が洪水のように押し寄せてくるからイヤになる。いいかげんマンガじゃなくて本を読めよ。ちょっと前にヤケにギトギトした濃いいマッチョ系のお話で、おまけにCGをガンガン使っていそうな「300」(2007)って映画が来た時も、僕はどうにも食指がそそらずパスしたのだった。おまけにアレって「さんびゃく」じゃなくって「スリー・ハンドレッド」なんだって(笑)? どうでもいいよ、そんなこと。ところがその「さんびゃく」もとい「300」の監督が、またまたグラフィック・ノベルを映画化したのがこの「ウォッチメン」らしい。それだけなら速攻パス決定なのだが、どうもこの映画、ちょっとひねったSFテイストの作品らしい。となると、仕方ない。SF好きとしては見ないわけにはいかないではないか。

ないよう

 1985年、ニューヨーク。一人の初老の男が、高層マンションの自室で黒装束の何者かに襲われる。この男自身かなりタフだったが、襲ってきた賊はそれを上回るタフさ。結局、初老の男は窓から下に叩き落とされて死んだ。死んだ男の名はコメディアン(ジェフリー・ディーン・モーガン)。彼はその「コメディアン」の名の下に、かつてスーパー・ヒーロー集団「ウォッチメン」の一員として活動していた。「ウォッチメン」の成り立ちは、戦前の「ミニッツメン」に遡る。犯罪者たちと戦い正義を守るヒーローたちの集団「ミニッツメン」の活動は華々しく、人々は喝采を送った。しかし時代が移り、何人かのヒーローたちも「代変わり」して、集団そのものも「ウォッチメン」と装いを新たにする。その過程である者はドロップアウトし、ある者は引退する。「ウォッチメン」自体も、良くも悪くもアメリカの歴史や政治に関わっていく。ベトナム戦争も彼らの力で勝利した。ウォーターゲート事件の背後にも彼らがいた。そもそもケネディ暗殺の影に、例のコメディアンが関わっていたとも聞く。時代は変わり、反戦を訴えるヒッピーたちに向かって躊躇なく引き金が引かれ、今やニクソン(ロバート・ウィスデン)はアメリカ大統領史上あり得なかった三選を果たしている。米ソはさらにお互いの力を拮抗させ、両国の対立は頂点にまで達しようとしていた。そんな中で、ニクソンは国を支配するための力として、積極的に「ウォッチメン」を利用した。それ故、「ウォッチメン」は民衆から徐々に疎まれるようになり、結局、力を貸してやったニクソンによってその存在を封印されることとなる。それが、ヒーローたちの自警活動を封じる「キーン法案」だ。その後、「ウォッチメン」は解散。ヒーローたちは自分たちの素性を隠して市民生活の中に溶け込んだり、秘かに政府のために働く存在となって表舞台から姿を消した。ところが…何者かがコメディアンを殺した。なぜだ? コメディアンは正義の名の下に暴力を行使し、それで喜びを得るような男。現在でもひそかに政府のために働いており、ベトナムでも無益な殺生を繰り返していたような男だ。しかし、彼を殺そうとするような人物…そして実際に殺せる人物は、ただ者ではあるまい。そんな死んだコメディアンの足取りを、トレンチコートに奇妙なシミの付いたマスクの怪人「ロールシャッハ」(ジャッキー・アール・ジョーンズ)が探り始める。常に世の中を斜めに見る、シニカルな人間嫌いのロールシャッハは、これがスーパーヒーロー狩りの始まりではないかと疑う。法に逆らっていまだに自警活動を行い追われる身でもあるロールシャッハは、コメディアンの死の真相を探りながら、かつての「ウォッチメン」の仲間たち…かつてはフクロウのコスチュームで勇敢に戦いながら、今はすっかり小市民的な暮らしに埋没しつつ昔を懐かしんでいる「ナイトオウル」ことダン・ドライバーグ(パトリック・ウィルソン)、過去の栄光を120パーセント活かして大実業家として君臨している「オジマンディアズ」ことエイドリアン・ヴェイト(マシュー・グード)、かつては物理学者だったものの核施設での事故から全身を分子状に分解されて超人化、徐々に神がかったような超然的考え方にを持ち始めた「ドクター・マンハッタン」ことジョン・オスターマン(ビリー・クラダップ)、そのドクター・マンハッタンと政府施設で同棲しながら、二人きりの隠遁生活に疑問を感じ始めた紅一点「シルク・スペクター」ことローリー・ジュスペクツィク(マリン・アッカーマン)…たちと接触。それぞれ別々の立場で社会に潜伏していた「ウォッチメン」たちの間に、静かな動揺がはしっていく。現シルク・スペクターの母親である初代シルク・スペクターことサリー・ジュピター(カーラ・グギーノ)が、かつてコメディアンによって犯されたという忌まわしい過去。そこにドクター・マンハッタンと心がすれ違ってしまった現シルク・スペクターの感情が、昔から彼女に淡い感情を抱いていたナイトオウルに徐々に傾いていく…という複雑で微妙な展開の中、米ソの対立はさらに激しさを極め、一触即発核戦争の危機が迫っていたのだが…。

みたあと

 映画が始まり、いきなりボブ・ディランの「時代は変わる」が流れるや否や、CGを多用した紙芝居風のスタイリッシュなビジュアルで、戦前から近現代までのアメリカ史を背景に「ミニッツメン」から「ウォッチメン」までの変遷が駆け足で描かれる。このオープニングにとにかくノックアウトされてしまった。いやぁカッコいい。それに文句なく面白い。実際にスーパーヒーローたちが存在して、米ソが対立しニクソンが三選されている「もうひとつの世界」…「パラレル・ワールド」ものであることが有無を言わせぬ説得力で描かれる。この「ウォッチメン」というグラフィック・ノベル(って劇画みたいなもんか?)の世界観は、ファン以外には理解するのが難しい…とか何とかあっちこっちに書いてあるけど、別にそんなことないんじゃないの? 僕は何となく分かったし、面白いと思った。コメディアンの死に始まるミステリーも興味惹かれるし、懐かしのポップスも、ネーナの「ロックバルーンは99」やらサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」と画面とビシビシ決まって小気味いい。「ナイトオウル」ことダン・ドライバーグをはじめとするリアルなヒーローたちの苦悩も、今まで発表されてきた「実際にスーパーヒーローが存在したらどうなるのか?」を描いた映画…例えば「アンブレイカブル」(2000)や「ハンコック」(2008)と比べて、抜群の出来の違いとリアリティを感じる。初期の「ミニッツメン」たちの古色蒼然とした出で立ちとか、その後の「ウォッチメン」たちのどこか既存のヒーローを連想させるあたりとか、隅々にわたってセンスを感じる。ナイトオウルがバットマンみたいとか、ドクター・マンハッタンが「ハルク」と「戦慄!プルトニウム人間」を足して二で割ったみたいなところとか、何となく見ていてニヤニヤしてしまうのだ。原作のグラフィック・ノベルもいいセンスしているんだろうし、この「さんびゃく」…もとい「300」の監督ザック・スナイダーの演出も群を抜いている。こりゃ前例のないような傑作を目撃しているんじゃないだろうか?…僕は前のめりになってスクリーンにかじり付いた。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 というわけで、見始めてから大いに期待し始めた僕だが、逆に期待して見始めたとたんに作品そのものは失速してきたから世の中ってのはうまくいかない。まずは登場人物のうち、中心人物らしきナイトオウルはなかなかそれなりにセコかったりして親近感わくのだが、ピカピカ光るハゲ巨人のドクター・マンハッタンなる人物が言ってることもやってることも神がかってていちいちまどろっこしい。「人間など眼中にない」と言いたげな超然とした態度をとる割には、女とセックスしてゴキゲンをとったり、昔の女にどやされたらイジケてウジウジと火星に逃げたり…とショボいことおびただしい。そもそも古女房より若い女がいい…と浮気しちゃう奴が「人間など眼中にない」と偉そうに言えたガラか。すべての陰謀の黒幕と分かるオジマンディアズなるスカシっぺも、言うことがいちいち上から目線で偉そう。ハッキリ言ってマンガのヒーローごときにこんな事言われたくない。ロールシャッハがとんでもない目にあう幕切れも、ドラマトゥルギーとしてどうしてもスッキリしないし、ハッキリ言って作者の意図がよく分からない。もちろん何でも勧善懲悪やハッピーエンドにしろ…と言っているわけではない。単純な話がいいとも言わない。しかし、わざと奇をてらったような展開を狙って、無意味に重要な登場人物を使い捨てにする手口がイヤなのだ。最もイヤなのは、作り手に登場人物に対しても「人類」に対しても「愛」がないことだ。そもそももったいつけた語り口で万事大げさに語る「さんびゃく」の監督そのものが、どこか上から目線で偉そうなのである。原作の世界観が複雑で観客についていけないかもしれない…とか、哲学的内容…だとか、見た人や原作ファンはみんなそんなことを言うし、作り手からしていかにもそんなことを言いたげな作風だ。しかし正直に言って、僕はこの映画(そして、おそらく原作)の世界観は決して分かりにくいとは思わないし、それなりに興味を持ちこそすれ理解できないとは思わない。大体が「哲学的」なんてそんな大層なものじゃないだろう。そんなことを言っていること自体が思い上がりだ。「ダークナイト」(2008)といいコレといい、どうして最近のマンガ映画はこうも偉そうなんだろう? 仮に分かりにくくなったとすれば、それは大したことないモノを作り手がわざわざもったいつけて語っているからだし、登場人物に対しても「人類」に対しても…いやいや、何より観客に対して「愛」を持っていないからそうなるのだ。こんなレベルの高い作品を創っているオレはエライ、ヒーローたちもエライ、人類は愚かで、この映画が分からない奴やついていけない奴は頭が悪いんだ…などという思い上がりが画面の隅々からにじみ出る。途中まですごく良かったのに、どうしてこうなるの。この監督ってセンスは抜群なのに、モノの考え方がどこか歪んでいるんだろうか。そもそもニクソンが三選されたぐらいで世の中ドツボになるって、割と物事を単純に考えすぎてないか。

みどころ

 ただしオープニング・タイトルから開巻30分ぐらいは、これはとんでもない傑作になると思わせる素晴らしい出来映え。そこだけのためにDVDを買ってもいいくらい。ホントに一見の価値がある。あと、現実にヒーローがいたら…という仮定を体現したナイトオウル役のパトリック・ウィルソンもいい味出してる。彼がいたから、この映画を最後まで見ることができた。

さいごのひとこと

 「フロスト×ニクソン」を見ると賛成できない映画。

 

「ダウト/あるカトリック学校で」

 Doubt

Date:2009 / 05 / 11

みるまえ

 この映画のことを知ったのは、今年のオスカー候補が発表になった時。演技賞候補にこの作品からゾロゾロと名前が挙がっていたから。メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムスにヴィオラ・デイビス。特にストリープとシーモア・ホフマンの重量級の対決は見応えがあると見た。しかし、何となく「こんな映画」という予想を大きく覆すものではないという気もして、今ひとつ自分の「食いつき」が悪かったのだ。今回はたまたま時間が空いたところで、それをチャンスに劇場に飛び込んだ次第。東京都内ではとっくに上映が終わっちゃってから感想文をアップしたのは、単に僕の段取りが悪いからである。

ないよう

 1964年、ニューヨークのブロンクス。あるカトリック系学校の教会で、フリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が信者たちの前で説教を行っている。ケネディ暗殺で生まれた絶望感についての話だ。「しかしそれは、必ずしも悪いものとばかりは言えません。あの時みんなが抱いた絶望感や疑念は、みんなを固く結びつけもしたではありませんか!」…進歩的で開放的なキャラクターのフリン神父は、みんなに評判もいいし人望もある。ユーモアもあるし話も分かる人物だ。新米の教師シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)も、フリン神父には親しみを持っていた。しかし、その反面…冷徹な表情で生徒たちを取り締まる校長のシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は、その厳しさと容赦しない態度で、みんなから恐れられる存在だった。とにかくシスター・アロイシスは、何かといえば規律一点張り。しかも常に厳罰で臨むのが身上。今日も今日とてシスター・ジェイムズの授業に飛び込んでくるや、早速何人かの生徒をつるし上げる。あげくシスター・ジェイムズにも「生徒を甘やかしている」とトバっちりだ。シスター・アロイシスに言わせれば、生徒たちは抜け目なく油断がならない。それを何でも善意で見ようとしているシスター・ジェイムズは「ウブすぎる」と決めつけるのだった。そんなこの学校にはもう一つ「火種」があった。それは、学校が初めて受け入れた唯一の黒人生徒ドナルド(ジョゼフ・フォスター)。当然のことながら生徒の間での風当たりは強く、理不尽な扱いを受けることもしばしば。そんな彼を見るに見かねてか、フリン神父は何かと彼を気遣い、世話を見るのだった。そんなある日、シスター・ジェイムズの授業中にフリン神父に呼び出されるドナルド。やがて教室に戻ってきた彼は、様子がおかしく酒臭い息をしていた。行きがかり上、シスター・ジェイムズはこの件をシスター・アロイシスに告げてしまう。すると前々からフリン神父の「進歩派」言動を苦々しく思っていたシスター・アロイシスはわが意を得たりとばかり張り切り、フリン神父の素行を疑い出す。ひょっとしてフリン神父は、生徒であるドナルドに対して「不適切な関係」を強いたのではないか? まさかと思うシスター・ジェイムズも、実はそれを疑っていた。こうしてフリン神父を、シスター・ジェイムズも同席の上でシスター・アロイシスの部屋に呼び出すことになったわけだ。しかし意表を突く告発に驚くフリン神父は、思いもかけぬ事実を告白する。実はドナルドがミサ用のワインを盗み飲んでしまったため、フリン神父は彼をかばおうとしていたのだ。これを聞いて内心「大変なことになった」と思い始めていたシスター・ジェイムズは、フリン神父の「無実」が証明されたとホッと胸をなで下ろす。しかしシスター・アロイシスは、そんなフリン神父の弁明には耳を貸さなかった。「あなたは純真すぎるのよ、私はフリン神父を絶対に追いつめてみせる!」

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 曲者役者が2人…いやいや、あのディズニーの放った怪作「魔法にかけられて」(2007)でアニメのお姫様を肉体で演じきったエイミー・アダムスも入れれば3人…も顔を揃えて、見る前からすごい演技合戦になることは予想がついた。だから、彼らの出番を見ているだけで飽きないし、見ていて面白いのは事実。どうせどこの映画評でも「演技がスゴイ」と語っているに違いない。それは確かにそうなので、僕もそれに何ら意義を申し立てる気持ちはない。ただ、彼らの演技のアプローチの仕方、演出の仕方、ストーリーの解釈の仕方が正しかったかどうかとなると、これはかなり意見が分かれてくるところだ。実は僕としては、彼らの演技プラン、そして監督の演出プランに大いに「ダウト」=「疑念」を抱かざるを得ないのだ。

こうすれば

 たぶん(…という言い方をするのは、出来上がった映画は必ずしも想定していた通りの方向に描かれていない可能性があるから)この作品の作り手ジョン・パトリック・シャンリィは、「見たまま」のイメージと「実際」との落差を踏まえて、この「ダウト」を作ろうとしたのではないだろうか。まずはキャスティングを見ても、それは何となく伺える。フィリップ・シーモア・ホフマンは善玉も悪人も演じてきた人だし、メリル・ストリープの近年きっての当たり役は「プラダを着た悪魔」(2006)のイヤな女だと思っていたら一本スジの通った女編集長だった。人間の「どっちともとれる一面」を語る人材としては申し分ない。このへんから作者のやりたかったことは透けて見えてくる。冷徹で規律一点張りで恐怖政治好きのメリル・ストリープの校長は、そんな自分の「偏見」を押し通そうとしているように見える。実は「真実」を追求して不正を正したいわけではなく、自分のキライな人間を陥れたいだけのように見える。そしてフィリップ・シーモア・ホフマンは進歩派で開けっぴろげなキャラクターで、そこのところを校長に煙たがられた「被害者」のように見える。しかし一方で、札付き生徒の早退を「ズル休み」だと決めつけたストリープの指摘は実は正しかった…と描かれるし、司祭たちとの食事時にシーモア・ホフマンがしゃべっているバカ話の内容は、開けっぴろげを通り越して無神経で俗悪だ。さらにエイミー・アダムスの新米教師もウブで純真と見えて、ブチッとキレると厳格な校長の虎の威を借りる小賢しさを見せる。善人に見えて意外にセコく狡賢いのだ。ところが「一見〜と見えるが、実は〜」…という仕掛けが、どうも構想ほどうまく機能していない。何だかんだ言ってストリープは悪人にしか見えないし、シーモア・ホフマンは(結局疑われていたことを「やった」と描かれているようだが)気の毒な善人にしか見えない。エイミー・アダムスも見た目の通り「純真」な女の子として描かれるように見える。しかし、これではわざわざ語るまでもない物語にしかならないのだ。これほどの演技巧者たちにこんな指摘をするのは無謀に過ぎると言われるかもしれないし、アカデミー賞候補にまでなった演技に疑問を呈するとは何事だとお叱りをいただくかもしれないが、やっぱりおかしいものはおかしい。これって演技ミス、演出ミスではないのか? 演技プランがほんの何ミリかズレちゃったのかもしれないし、演出の仕方のサジ加減がほんのひとさじほど狂ったのかもしれないが、とにかく…少なくともストリープとシーモア・ホフマンの芝居に関しては、非常に単純な解釈になっているように見える。これってもっとキャラクターに幅を持たせて、デリケートに演じられるべきではなかったろうか。元々が自作の舞台の戯曲だったものを映画に焼き直した時点で、ジョン・パトリック・シャンリィが舞台と映画の表現方法のズレを把握し損なって、間違えた演出プランを押し通してしまったのではないか。さらに、ある意味でそれよりもっと問題があるんじゃないかと思われるのが日本語字幕。僕が見たバージョンの字幕だと、ラストの台詞はストリープが「自分のやったことで、信念もグラついてしまった」という意味で言っているように思える。果たしてここはそれでいいのだろうか。何となくそれではない…あるいはそれだけの意味ではない…ように思われたのだが、どうだろう? もし僕が字幕から受け取った通りの意味だとすると、やけに単純で「見たまんま」のお話にしかならない気がするのだ。それのどこが面白いの? たぶんみんなこの映画をホメるだろうし、演技合戦がスゴイと指摘するだろうし、「ダウト」の意味とは…ということでこのラストを語るんだろうが、どうもこの台詞と日本語字幕が引っかかる。オノレの英語力の乏しさを棚に上げてエラそうに言うのもどうかと思うが、どうも字幕がうまくいかなかったから意味の分からなさが増幅してしまった気がするのだ。これって僕だけの「ダウト」=「疑念」なんだろうか?

みどころ

 とは言っても、結局は僕もストリープ、シーモア・ホフマン、アダムスの演技合戦を「美点」と挙げざるを得ない。狙いがズレていようと「見たまんま」だろうと何だろうと、千両役者が重量感たっぷりに激突する様子は、それだけで一見の価値があるからだ。

さいごのひとこと

 これでは尼服を着た悪魔。

 

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