新作映画1000本ノック 2009年1月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ウォーリー」 「ブロークン・イングリッシュ」 「地球が静止する日」

 

「ウォーリー」

 WALL-E

Date:2009 / 01 / 26

みるまえ

 ピクサーのCGアニメが公開されるたびに僕は同じことを言っているような気がするが、今回もまた繰り返さなければならない。面白くなさそうなのだ。ゴミだらけでもはや人類がいなくなった地球上に、たった一人取り残された清掃用ロボットのお話。これがいつの間にか「感情」を持つようになって、他の「誰か」と巡り会う夢を抱くようになり…そのロボットのタレ目な造形ひとつとってみても、何だかヌルくてつまんなそうな予感。まるっきり見る気が起きない。しかし、これも毎度毎度のことながら、ピクサーの映画って見るまでは面白くなさそうなのに、見てみると断然オモシロイから困る。「ファインディング・ニモ」(2003)、「カーズ」(2006)、「レミーのおいしいレストラン」(2006)…僕は何度同じことを言っていることか。しかも、どれもCG技術がどうのって問題ではなくて、脚本のうまさで見せる映画ばかりなのだ。こうなると、今回も実物はかなりいいのではないだろうか。やっぱり見ないわけにいかないか。

ないよう

 未来の地球。高層ビルが林立する大都会は…人っ子ひとり存在せず、ゴミに埋もれて荒廃していた。ところが、そこに唯一うごめく「何者か」がいた。それは、錆びて汚れたボディのゴミ処理用ロボット・ウォーリー。彼は毎日黙々とゴミをかき集めては体内に取り込み、圧縮して積み上げる。こうして彼が処理したゴミの山は、高層ビルと競うように都市の中に林立していた。こんなテイタラクになったのも、地球が巨大企業体「BNL」の支配する世界になってしまったから。「BNL」は大量消費こそ美徳と人々を扇動し、環境を破壊したあげく地球を廃棄物だらけにした。こうして人類はとっくにゴミだらけの地球を見捨て、大型宇宙船で外宇宙へと脱出。人類のいなくなった地球に、たった一人機能停止を忘れられたウォーリーが残されるハメになったわけだ。しかもウォーリーは長い歳月の間に、ゴミ処理以外の「機能」を備えてしまった。ゴミの中からお気に入りの物品を見つけると、自分の寝ぐらにコレクションしたり、一日の終わりにミュージカル映画「ハロー・ドーリー!」のビデオを見てウットリしたり…いつの間にか彼には独自の「感情」が芽生えてしまったようなのだ。そんなウォーリーが「ハロー・ドーリー!」の中で一番気に入っているのが、登場人物の男の子と女の子が手をつないで踊る場面。毎日、相棒のゴキブリ君と楽しく過ごすウォーリーではあるが、やっぱりどこか寂しいのだ。ところがそんなある日、荒廃した都市に轟音と高熱をもたらしながら、一機の宇宙船が降り立つ。その宇宙船は一体の白くモダンな姿のロボットを置いて、再び地球を離れてしまった。一体何事かと物陰に隠れて様子を伺うウォーリー。白いロボットはあちこち探索を開始し、ウォーリーはその後を興味津々でついていく。何やら一生懸命探している白いロボットは、周囲に何か動きがあると瞬時にレーザー銃で攻撃する物騒な一面も持っていたが、ウォーリーはこの数百年で初めての「客」に胸をときめかせていた。やがてこの白いロボットの前に、姿を現さざるを得なくなるウォーリー。白いロボットは最初こそウォーリーに強い警戒心を抱いていたが、彼が無害と知るやほとんど無視の状態。それでもウォーリーは白いロボットの後を一生懸命ついていった。そんなウォーリーは白いロボットに自己紹介するとともに、白いロボットの名が「イヴ」であることを知る。それでもイブの関心を惹くことのできないウォーリーは、ただただ悶々とするばかりだ。ところが好機は思わぬかたちでやってきた。地球恒例の激しい砂嵐が襲ってきたため、ウォーリーはイヴを自分の寝ぐらへと連れてきた。そこでご自慢のコレクションをイヴに披露するウォーリー。しかし「ハロー・ドーリー!」のビデオも含めて、はたしてイヴの興味を惹くことができたかどうか。ところがそんな彼のコレクションの中で、たったひとつ彼女の興味を激しく惹くアイテムがあるではないか。それは彼が最近発見した、小さな一株の植物だった。それに激しく反応したイヴは、突然植物をボディの中に収納するや、そのまま機能停止してしまう。せっかく仲良くなったのにイヴに沈黙されてしまったウォーリーは、理解に苦しみながらも何とか彼女が意識を取り戻さないかと献身的に尽くす。そんな彼の運命が、大きく変わる時が来た。イヴを地球に連れてきた宇宙船が再び現れ、彼女をピックアップするや離陸していくではないか。イヴと別れたくないウォーリーは必死で宇宙船に追いすがり、その外壁に取りついたまま地球を離れることになってしまった…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 人っ子ひとりいない地球で展開する、清掃用ロボットの孤独な物語。ここにもう一体のロボット・イヴが登場してからも、ロクにセリフのないお話が続く。これを堂々と「娯楽映画」として創り上げたあたり、ピクサー作品の脚本の素晴らしさはまたしても冴え渡っていると言うべきだろう。これほど単調になりそうな設定なのに、見ている僕はまったく退屈しなかった。やっぱりピクサーの映画作りは今回も非凡だ。お話は途中から地球を脱出し、前半の淡々とした展開とはガラッと変わった饒舌さを見せるが、個人的にはこの映画の見どころは前半の淡々とした展開にある。そういう意味では、地球を離れた後の物語のにぎやかさは、ちょっと残念な気もするのだが…。

こうすれば

 今までいつも良質なハリウッド映画の伝統を受け継いで、話術の妙を見せてきたピクサー作品だったが、そのテイストは今回も健在。2体のロボットが愛を暖めていくメイン・ストーリーは「定石」といえば定石なのだがやっぱりうまい。しかし、なぜか今までの作品のように、圧倒的に主人公を応援したくなるような力強さに欠けるのはどうしてだろう。実は見ていて気になったのは、宇宙空間に「避難」していた人類のこと。あれだけ環境を破壊しておきながら、放ったらかしておいたあげく「環境が改善したから帰ろう」ってのは、ちょっと虫が良すぎるんじゃないだろうか。地球をこんなにしてしまった巨大企業体「BNL」がまるでお咎めなしというのも気に入らない。この映画も少々「エコ」なお話としてつくりたいんだろうが、そのへんの矛盾がイマイチうまく解消されていない気がする。そんなこんなの疑問が、見ている僕を素直に感情移入させなかったのだろうか。

みどころ

 そんな問題点を感じながらも、僕がこの映画に強く惹かれたのは、むしろ主人公たる2体のロボットの周辺の要素に魅力を感じたから。廃墟となった地球の都市に「一人ぼっち」というイメージの鮮烈さが、身につまされるようにうまく描かれていたからだ。その素晴らしさたるや、ウィル・スミス主演「アイ・アム・レジェンド」(2007)の廃墟場面を超えていると言ったら過言だろうか。むしろ「アイ・アム・レジェンド」のオリジナルと言うべきチャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男/オメガマン」(1971)と拮抗するような鮮烈なイメージだ。舞台が地球を離れて以降も、サイレント劇としてのドラマの純度は落ちるものの、そんな「地球滅亡SF」のイメージは健在。地球を離れた人類が宇宙船で宇宙を放浪するうちに、航海の当初の目的も失われてしまう…という、SF小説ではよく見られるが映画ではあまり語られないテーマのお話に移行する。全編可愛らしいロボットの恋物語よりも、その周辺のハードなSFテイストこそが見どころなのだ。これにはちょっと驚いた。

さいごのひとこと

 セリフがないからエコ演説を聞かされずに済んだ。

 

「ブロークン・イングリッシュ」

 Broken English

Date:2009 / 01 / 26

みるまえ

 ジョン・カサベテスの娘ゾエ・カサベテスの監督デビュー作品…と聞いて、期待しちゃう人なんているんだろうか。正直言って僕は、これには当惑せざるを得ない。麻生内閣じゃあるまいし、世襲映画人ばかりが映画を撮るチャンスを与えられていいんだろうか。そもそもジョン・カサベテスといえば、すでに息子ニック・カサベテスが監督デビューしている。これが「きみに読む物語」(2004)こそソコソコの出来栄えを見せたものの、後はボロボロの結果しか残していないではないか。それなのに、またまた懲りずにゾエ・カサベテス。ロクなもんじゃない予感で一杯だ。しかし僕としては、この映画に気になる一点を見つけていた。主演のパーカー・ポージーだ。この人ってアメリカで「インディーズの女王」と異名をとっていて、「パーティーガール」(1995)などで印象的だった人。ただただこの人見たさに劇場に駆けつけたというわけ。

ないよう

 ドレスアップしていそいそ出掛ける30代独身女性ノラ(パーカー・ポージー)。出掛けた先は、親友のオードリー(ドレア・ド・マッテオ)とその夫マーク(ティム・ギニー)の結婚ン…年記念パーティーだ。いかに自分たちがうまくいっているか、いかに奇跡的な良縁であるかを切々とスピーチで語るマーク。それを見ながら、列席者の一人であるノラの母ヴィヴィアン(ジーナ・ローランズ)は呆れ顔だ。「本当はあなたが結婚するはずだったのに」…マークはノラの元カレ。オードリーを紹介したら、いつの間にかこのテイタラクだ。その後も男運に恵まれず、いまだ独身。そんなノラを心配するヴィヴィアンに、ノラはまるっきりヘイチャラな顔をする。しかし、ノラの内心は穏やかではなかった。しかもオードリーのぶっちゃけ話を聞いてみると、あれだけ良縁ぶりをアピールしていたマークとオードリーの仲は、必ずしも順調とは言い難いようだ。そうなると、ますます男との関係に臆病にならざるを得ない。そんなノラにもまるっきりチャンスがないわけではない。ちょっとしたホテルのお客様対応係として長年勤めるノラは、ある日、客としてやってきた売り出し中の映画スター・ニック(ジャスティン・セロー)に気に入られ、あれよあれよという間に一線を超えてしまう。久々の「浮いた話」をハシャいでヴィヴィアンやオードリーに披露するノラだったが、後日テレビに出てきたニックは共演女優との交際を告白しているではないか。つまりは「遊ばれて」しまったのだ。一縷の望みを託してヴィヴィアン紹介の男とデートをしても、この男に「まだ元カノに未練がある」と言われる始末。さすがにこれにはノラも落ち込まざるを得ない。気分転換に…と気乗りがしなかった同僚のパーティーに顔を出してみても、やっぱり予想以上につまらなかった。ガッカリして帰ろうとしたちょうどその時、会場に現れた一人のフランス男が彼女に目を留めたではないか。この男ジュリアン(メルヴィル・プポー)は、ちょうど仕事でニューヨークに来たところ。疲れて帰ろうとしたノラを何だかんだと引き留めて、熱心に口説き始める。しかし「男にはコリゴリ」のノラは、そんな「うまい話」にもなかなか乗らない。夜通し話してすっかりノラが警戒心を解いた頃になっても、二人は一向に「オトコとオンナの関係」に発展しなかった。そのうちノラの自室に舞台を移しながらも、ベッドで眠り込んでしまったノラ。そんな彼女を、ジュリアンは優しく寝かしつけてやるのだった。そんな彼の優しさが功を奏したか、二人はたちまち結ばれる。こうしてすぐに親密さを増した二人ではあったが、ジュリアンはたった二日間でニューヨークを去らねばならなかった。「一緒にパリに来てくれ」というジュリアンの言葉は嬉しかったが、ノラには仕事も家もある。おまけにたった二日の関係で、すべてを賭ける勇気もなかった。こうしてジュリアンはニューヨークを去り、再び退屈な日常が戻ってくる。すっかり抜け殻になってしまったノラは、些細なことで仕事を辞めるハメになってしまった。それを見かねた親友オードリーは、ノラを連れてパリに向かったが…。

みたあと

 ジョン・カサベテスと来ればインディーズの雄。その娘ゾエの作品も、「インディーズの女王」の異名をとるパーカー・ポージー主演とくれば、あからさまに「インディーズ臭」濃厚な作品と見える。それは確かにそうなのだが、見ているうちに小難しさや回りくどい表現のない語り口に、徐々に好感を持ってしまった。それに引き換えジョン・カサベテスの息子でゾエの兄貴にあたるニック・カサベテスの作品と来たら、父親と同じくインディーズ系の作風で、しかも父親にあった語り口の妙やテクニック、さらには思慮の深さもないために、ただ分かりにくくて退屈な「インディーズ作品」の悪いところだけを固めたような作品になってしまっていた。それと比べれば大違いだ。お話は他愛がなくて、いわゆるイマドキの言い方で言えば「アラサー」女の恋愛下手克服話みたいなシロモノ。一歩間違えば陳腐なモノになりかねないお話ながら、屁理屈ばかりでウンザリさせられるインディーズ系作品としてはむしろその平明さこそが美点。取っつきやすさと素直さが好ましく思えるのだ。イイ意味での単純さやミーハーさが、「オレって利口だろ」的イヤミが充満するインディーズ作品の傲慢さを払拭している。僕は結構気に入った。

こうすれば

 だからと言って語り口のテクニックがすべて優れているかというと、必ずしもそうとも言い切れないから難しいところ。親友オードリーと主人公ノラがパリに出掛けるくだりで、彼女たちが託された品物をフランスの人々に届けるエピソードが入ってくるが、これが何のコトやらよく分からない。何で彼女たちが品物を託されているのか不明だし、それを届けるエピソードがそれぞれ意味深に描かれるのも理解に苦しむ。そもそもそんなエピソードがある必然性がないのだ。この映画って言ってしまえば30女の自分探しみたいなお話で、それがパリに行ってステキなフランス男と再会することで解消しちゃうってあたり、OL向けコミックや一昔前のトレンディ・ドラマ並みのミーハーさ。しかしながら、そんなお話の平明さはこの映画の決定的キズにはなっていない。むしろパリに行ってから届け物をする不可解なエピソードこそ、いかにも「インディーズ作品」っぽい回りくどさや分からなさだ。何でこんなモノを入れちゃったんだろう?

みどころ

 それでもこの映画には、僕は大いに好感を持った。その大きな要因のひとつは、主演のパーカー・ポージー。等身大の女性を素直に演じて、とても可愛らしいではないか。この人を「パーティーガール」で最初に見た時は、作品には大して感心しなかったけれど彼女の印象は強烈だった。しかし残念ながらその後の活躍はあまり聞かれず、たまにメジャー映画に登場しても、あからさまに脇役でパッとしない。唯一マシだったのは「スーパーマン・リターンズ」(2006)ぐらいだろうか。そんな彼女が、ここでは久々に魅力を全面開花。すっかり見直してしまった。フランソワ・オゾンの「ぼくを葬る」(2005)に主演したメルヴィル・プポーも、ヘタすれば女好みのフレンチ・イケメン以上でも以下でもないキャラクターになりかねないところを、これまた素直な演技で見せて好感度大。映画そのものも、その気取りのない演出ぶりが好感持てる。まるっきり作風は違うものの、ある意味でソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)にも通じる瑞々しさすら感じると言ったらホメすぎだろうか。少なくとも、「お高くとまった」点は微塵もない可愛らしい映画に仕上がっているのがいい。「またしても世襲監督」とバカにしていたゾエ・カサベテスではあるが、なかなかやるではないか。

さいごのひとこと

 恋の街パリという発想からしてミーハー。

 

「地球が静止する日」

 The Day the Earth Stood Still

Date:2009 / 01 / 05

みるまえ

 僕は自他ともに認めるSF映画好きだから、当然この作品のオリジナルを見ている。その名も「地球の静止する日」(1951)。まだ子供の頃ながら、テレビで見た時の強烈な印象が残っている。これが有名なロバート・ワイズの監督作だと知ったのも、この作品がSF映画の「古典」と呼ばれる作品だと知ったのも、それからだいぶ後のことだ。今見れば同じ1950年代のSF映画と同様に、核兵器の脅威や東西冷戦へのメタファーとして描かれていたことが分かるが、当時はただガキっぽくない理詰めっぽいSFだなと感心しただけだったと思う。それが現代に甦るというのはどういうことかと思うが、とりあえず予告編で見た限りでは、極端に感情表現を感じさせない宇宙人役にキアヌ・リーブスとは、適役としかいいようがない素晴らしいキャスティングだと感心した。それに1950年代とは違って現代のテクノロジーなら、視覚的要素ももっとリアルに描けるだろう。これは、SF映画ファンとしては素直に期待したいところだ。

ないよう

 1928年、インドの高山地帯。吹雪の中でキャンプを張る登山家の男(キアヌ・リーブス)が、何やら物音に気付く。不審に思った彼が音の正体を確かめに外に出ていくと、そこには光る巨大な球体があるではないか。しかし球体の激しい反応に思わず失神。気付いた時には球体は消え失せ、登山家の手の甲には不思議な刻印が残されていた…。それから何十年も経た現在のアメリカ、大学教授のヘレン・ベンソン(ジェニファー・コネリー)は今日も地球外生物の授業を終えて帰宅。一人息子のジェイコブ(ジェイデン・スミス)と二人きりの家庭だが、ジェイコブはなかなかヘレンの言うことをきかない。それというのもジェイコブはヘレンの夫の連れ子。しかも夫は彼らを残して1年前に他界していた。そんなわけでヘレンとジェイコブの間はギクシャクし、何かと手を焼かされているわけだ。ところが夜中に、ヘレンの家に押し掛けてきた一団がいる。どうやら政府関係のエージェントらしく、有無を言わさずヘレンに同行を求めて来たのだ。何台ものパトロールカーに白バイまで従えての出迎えに、さすがに断れない空気を感じたヘレン。一体何事が起きたのか。軍基地に着いたヘレンは、そこに各分野のさまざまな科学者・専門家が駆り出されているのに気付く。しかも入口で携帯電話を取り上げられるという念の入りよう。しかしヘレンはひそかに携帯電話を隠し持って基地にはいるのだった。そこで聞かされた事実は、まさに衝撃的なものだった。突如発見されたナゾの天体が、物凄いスピードで地球に向かっているというのだ。衝突が予定されるのは今夜中、場所はニューヨークのマンハッタンだという。ヘレンは女子トイレで携帯を使い、こっそりジェイコブに逃げるように伝える。しかしジェイコブは事の重大さなど知る由もなく、相変わらず反抗的な態度をとっているのだった。覚悟を決めて、他の科学者・専門家たちとともにヘリでマンハッタンに向かうヘレン。しかし予定時刻になっても、事態は何ら変化しない。そんな拍子抜けしたヘレンたちの目の前に、いきなり巨大な球体が現れるではないか。その球体はまるで惑星の小型版のような外見で、輝きながらセントラルパークに降りてきた。その周囲に軍や警察が取り囲むが、巨大なロボットが出現して一切を無力化してしまう。そんな中、防護服に身を固めたヘレンたちがゆっくり近付いて行くと…中から一人の「人間型」の何者かが現れた。それは、まさにヘレンの手の届く場所まで近付いてきたのだが、舞い上がった兵士がトチ狂って発砲。この何者かを狙撃してしまった。たちまち周囲は阿鼻叫喚。倒れた「何者か」は慌てて医療施設へと移される。医師がこの何者かにメスを入れると、白っぽい外皮がどんどんめくれていく。その中に現れたのは、人類と全く同じ外見を持った一人の人物だった。やがて意識を取り戻したこの「人物」と面会したヘレンは、彼が「クラトゥ」(キアヌ・リーブス)という名で重大な使命を帯びていることを聞かされる。「私は地球を守るために来た」…しかし、「国連で世界の代表と会見したい」というクラトゥの望みを国防長官(キャシー・ベイツ)は無視。何とかクラトゥを隔離して閉じこめようと画策する。それを見かねたヘレンは、クラトゥを眠らせろという命令を受けながら、彼に食塩水を注射して「逃げて」とささやく。そしてその頃、全世界に例の惑星状の球体が飛来しているのだった…。

みたあと

 ロバート・ワイズのオリジナル版を見たときの衝撃は、いまだに忘れることがない。確かオリジナル版では宇宙人はワシントンに飛来して、乗っていたのはいわゆる「空飛ぶ円盤」。だが、ある日いきなり宇宙からの訪問者が、こっそりではなく表玄関から堂々と登場する…というコンセプトは、当時も今もかなり刺激的なものに違いない。今回のリメイク版もそのへんは抜かりがなく、前半部分のクラトゥ登場のくだりは、緊張感に富んだ展開になっている。いやぁ、この前半部分だけでも、僕は見る価値があったと思ったよ。

みどころ

 前作では「円盤」だった宇宙人の乗り物を、まるで惑星のような球体にした造形はユニークで、オリジナリティーにあふれていて素晴らしい。今までにこんなの見たことないだけに、宇宙人の乗り物として「いかにも」なリアル感がある。そしてやって来たのがキアヌ(笑)とくれば、リアリティはさらに大幅アップ。「コンスタンティン」(2005)などでも見せた、この人のどこか「得体の知れない」個性が、今回も十二分に活かされている。さらにステキなのは共演のジェニファー・コネリーで、この人の最近の十八番、スペシャリストとしての職業女性をまたしてもバッチリ演じきる。「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000)の時にはボロボロに犯されまくって、この人これからどうなちゃうんだろう?…と心配にさせられたが、「ビューティフル・マインド」(2001)、「ブラッド・ダイヤモンド」(2006)などでは魅力的な大人の女性に成長して、すっかり貫禄さえ出てきた。ズバリ言って、この映画の最大の見どころは彼女の魅力かも。そして今回最も興味深いのが、アメリカ映画としての本作の「内省的」ともいえる内容。今回の宇宙人の目的は、「地球を守るために、地球に害毒を撒き散らす人類を抹殺する」というもの。そんなどこか「エコ」な内容にちょっとばっかし胡散臭さを感じなくもないが(笑)、それよりこの作品では終始アメリカの横暴が強調される。国連での直訴を要求する宇宙人を合衆国大統領の名の下に拉致監禁しようとする傲慢が描かれ、世界各国もそんなアメリカの態度に非難を浴びせているという設定だ。そもそも「エコ」な観点から考えれば、京都議定書にケチを付けたのもアメリカだ。昨今の世界的金融危機もすべてアメリカ発だったことを考えると、「人類が」というより「アメリカが」全部悪いんじゃないの?と言いたくなる(笑)。そんな宇宙人の「人類抹殺」プランを知ったヒロインが、キアヌ宇宙人に「私たちは変われるわ、WE CAN CHANGE !」と叫んだのには、さすがにオバマ当選の余韻がまだ冷めていないだけに驚いてしまった。まさかこの映画は、オバマ当選を想定して作ってはいまい。そういやオバマの政策は、国内外の「協調」「融和」だったはず。ブッシュ時代のアメリカの「独善」「傲慢」と決別するというのが、その主な主張だった。だとすると、オバマを当選させたアメリカ内の空気が、この映画にも反映しているのだろうか?

こうすれば

 だが、緊迫感に包まれた前半部分以降は、実はこの映画ってあまり面白くない。リメイクだから…ということを抜きにしても、以降の展開は何となく底が割れてしまう。「そうなるだろうな」という展開を、そのまま実直に…バカ正直になぞっていくだけだ。だから、そこには驚きがない。そういう意味では、あまり「芸」がない映画とも言えるのだ。そもそも冒頭のインドの山奥場面って、一体何のために挿入されているのか。ここで宇宙人がキアヌの肉体をコピーしたっていうなら、別に大げさに絵で見せなくたって問題ない。この場面ひとつとってみても、今ひとつ見せ方の工夫がない気がする。

さいごのひとこと

 人類全体を抹殺せずとも、アメリカさえ抹殺すればオッケー。

 

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