「母なる証明」

  Mother

 (2009/12/28)


  

見る前の予想

 韓国のポン・ジュノ監督による新作…と来れば、映画ファンなら誰だって心穏やかではいられない。

 一頃あれだけ派手に騒がれて、一世を風靡した「韓流」ブームも今いずこ。退くとなったらブームの退きっぷりってのは潮の満ち引きより早い。もちろん今でも夢中になっている人はいるんだろうが、一時はかなり鼻息が荒かったそれらの人々も、すっかり息を潜めているかのようだ。

 正直言って僕はそれなりに韓国映画を好きだった人間だが、あの「ブーム」には本当に辟易した。その後遺症か、すっかり韓国映画自体にも嫌気がさしてしまったところがある。

 それというのも、「ブーム」の前と後では韓国映画そのものが激しく変質。「ブーム」の悪しき影響がまだ残っているように思えるのだ。イケメン主役のあざといドラマ、なぜかホラーから純愛映画に至るまで最後は「どんでん返し」というバカの一つ覚えぶり…昔、大好きだっただけに悪くは言いたくないのだが、ハッキリ言ってシラけるよ。だから僕はすっかり、韓国映画に関心を失ってしまった。

 いや、それはウソだ。

 実は今だって、僕は韓国映画に大いに関心がある。大いにある…と言ったらちょっと無理があるかもしれないが、少なくとも「また関心を持ちたい」と思ってはいる。

 今から20年以上前からつきあってきた韓国映画。当初はまるで映画の金鉱脈でも掘り当てたかのように狂喜乱舞して、むさぼるように旧作を漁って見た韓国映画だ。今だって愛着がないわけじゃない。イケメン主役の甘っちょろい恋愛映画ばっかりになったとはいえ、それでも一部の俳優や監督については、新作が来たとなればワクワクせずにはいられない。

 ポン・ジュノもまた、そんな監督のひとりだった。

 だから今回の「母なる証明」にも、当然大いに期待しなくちゃいけないはずだ。公開初日にでも劇場に飛び込んで、ドキドキしながら見なくちゃいけないはずだ。しかし実際に見に行ったのは、公開から一ヶ月以上経った12月も半ば近くのこと。あっちこっちの映画サイトにもバンバン評価が並んでいるのに、なかなか僕は実物を見に行かなかったのだ。

 なぜか?

 確かに一頃はポン・ジュノのことを、「韓国映画の明日を担う人材」と思っていた僕ではないか。いや、「韓国映画」に限らず現代の映画全般を見渡しても、ピカイチの存在だろうと思っていた僕だ。それがどうして?

 その理由を説明するのは後にして、まずは映画そのものをご紹介しよう。

 

あらすじ

 その中年女(キム・ヘジャ)は「よそいき」の服には場違いな、人けのない冬枯れの原っぱを歩いていた。どこに向かうともなく放心状態の様子で、フラフラと歩いている彼女。そんな彼女が突然立ち止まると、いきなり不思議なポーズをとって踊り始めるではないか。一体、彼女の身に何が起こったのか?

 それに先立つこと数ヶ月前のこと。

 その日もこの中年女は、息子トジュン(ウォンビン)のことが心配で、片時も目を離せないでいた。よその子ならばすでに一人前の年頃。しかし彼女の息子トジュンは、少々知恵遅れで手がかかる子。家業の漢方薬の店と無許可のハリ治療で、女手ひとつでここまでトジュンを育てて来た。

 しかしトジュンは、いつも何とも危なっかしいのだ。付き合っている友達も、ゴロツキのジンテ(チン・グ)とタチの悪い奴ばかり。だから今も仕事をする手を休めることなく、通りを挟んだ向かい側にいるトジュンをじっと見守る彼女だった。

 その日も薬草を刃物で切っていると、ジンテと一緒にいたトジュンがいきなりクルマにはね飛ばされるではないか。だから言わんこっちゃない。中年女はそれに気を取られて指を切っていたが、そんなことには構っていられない。慌てて店から飛び出すと、息子にキズはないかと必死に駆け寄った。だが肝心のトジュンはといえば、母親にアレコレまとわりつかれるのは煩わしい。それよりトジュンをはねたクルマを追いかけようと息巻く、兄貴分ジンテの後についていくのに懸命だ。こうして息子可愛さに飛び出してきた中年女を後に残し、ジンテとトジュンはタクシーを捕まえて捕り物にくり出していく。

 ジンテはちゃんとトジュンをはねたクルマのナンバーを覚えており、どこまでもしつこく追いかけていく。途中でクルマそのものは見逃したが、このコースなら他に行くところがない。それは街のはずれにあるゴルフ場だ。トジュンをはねたのは高級車。「こりゃカネになる」と踏んだジンテが、引き下がるわけがない。

 ゴルフ場の中をカートでやってきた「容疑者」たちに、いきなりジンテとトジュンが飛びかかる。

 こうして大立ち回りの末、警察署のご厄介となった一同。「容疑者」たちが某大学の教授陣と分かり、さらにジンテとトジュンが駐車場にあった教授たちのクルマをキズつけたと分かるや、一転してジンテとトジュンの立場は悪化。やれ弁償するしないという話が持ち上がった最悪のタイミングに、やってきたのが息子トジュンを心配した中年女。結局なけなしの蓄えもこのロクでもない弁償に吐き出すハメになる。

 それでも、可愛い息子のためなら…と満足な中年女だった。

 ところが親の心子知らず。夜になるや「ジンテと飲みに行く」とノコノコ出かけるトジュン。トジュンがやって来たのは馴染みのスナック。しかし当然のことながら、トジュン一人では歓迎される客とはいえない。勝手に酔っぱらい、勝手に酔いつぶれるトジュン。結局、待ち合わせていたはずのジンテは来なかった。その頃ジンテはというと、例のゴルフ場で池の中に落ちた教授たちのゴルフクラブを拾っていたのだった…。

 店から追い出されたトジュンは、千鳥足で夜道を帰る。その前方には、一人で歩く女子高生の姿が見える。ついつい酔った気安さから、声をかけるトジュン。

 「どこへ行くの?」「男がキライ?」

 一人ぼっちの夜道で酔った男から声をかけられれば、女なら誰でも警戒して返事など返ってこないだろう。しかし懲りないトジュンは、どんどん彼女を追いかける。すると、彼女が暗い路地に入るや否や、その路地からトジュン目がけてデカい岩が投げつけられるではないか。ギョッとしたトジュンは、すっかり慌てて後ずさりだ。

 こうして夜中に帰宅したトジュンは、すがりつくように母の寝床に潜り込み、そのまま眠ってしまうのだった。

 そんな翌朝のこと。こののどかな田舎町に、とんでもない出来事が起こった。何とトジュンが女子高生を見失った路地先、古ぼけたビルの屋上に、殺された女子高生の遺体がさらされていたのだった。

 たちまち騒然となる現場。駆り出された刑事たちも、久々の殺人事件にすっかり浮き足立っている。こんな調子で、果たしてちゃんと犯人を捕まえられるのか。

 そして運命の日がやって来た。何とあの中年女の目の前で、一人息子トジュンが警察に連れ去られるではないか。慌てて店を放っぱらかして、クルマを追いかける女。そんなこんなのゴタゴタでついつい慌てた警察のクルマは、何と前方不注意で交差点で交通事故を起こしてしまう。前面がつぶれて停まったクルマに、血相変えた女が駆け寄ってくる。しかし、車内にいるトジュンの両手には…。

 女子高生殺人事件の容疑者として逮捕されたことを意味する、手錠が冷たくはめられていた…。

 

ポン・ジュノとの衝撃の出会い

 ポン・ジュノに僕がかつてどれだけ衝撃を受け、どれだけ大きな期待を寄せたのかについては、過去の彼の作品に関する感想文を読んでいただければ分かる。

 実は彼の作品が到来した時点で、日本における韓国映画「日陰の時代」は、とうの昔に終わりを告げていた。それどころか娯楽映画のさまざまなパターンもかなり出尽くした感があり、すでにアートフィルム系の作品すら数多く現れ始めた。そして時代はそろそろ「韓流」の方向へと流れていくところだったと記憶している。

 そんな中で、僕はポン・ジュノの日本初紹介作ほえる犬は噛まない(2000)と接した。

 この映画の衝撃は、どれほど語っても語り尽くせない。ドライでシュールでユーモラスで怖い。そして何より…これほど野心的な作品なのに大衆的で面白い。僕がそれまで見てきたどんな映画にも似ていない。ありとあらゆる「定石」をはずした映画だった。その新鮮さには、たぶん今この作品を見ても驚かされるんじゃないだろうか。

 とにかくこの作品のズバ抜けた点は、「ありふれた」点がないということだった。シリアスと思えばユーモラス、ユーモラスと思えば怖い。普通の映画やドラマなら、シリアス作品ならマジメ、ユーモラスな作品ならギャグやユーモア…と作品カラーはある程度一定している。あるいはいくつかのフレーバーが混ざったとしても、もっと淡くソフトに混じり合うはずだ。

 しかしこの作品は、そんな「定石」「定型」を大きくハズす。2つの味が同居したり、とんでもないタイミングで交替したりする。その緩急の鮮やかさは、まさに「予測不可能」だ。だから僕らは「こんな作品見たことない」と思ったわけだ。

 フレッシュな魅力をまき散らす新星ペ・ドゥナをヒロインに起用したのも、ここではバッチリ図に当たった。この映画を見た僕は、これこそ新しい時代の韓国映画…いや、そんな韓国とかアジアとかケチなカテゴリーをブチ抜いて、世界の映画の最前線に躍り出た作品だと大騒ぎしたものだ。でも、いまだにそれは大げさじゃなかったと思っている。

 で、実は僕がこの「ほえる犬は噛まない」を見に行った理由は、ちょうどその公開中に東京国際映画祭で上映される殺人の追憶(2003)のチケットを、僕がたまたま手に入れていたからだった。

 実は「殺人の追憶」のチケットを買った時には、僕はポン・ジュノなんて監督の名前も何も知らず、当然「ほえる犬は噛まない」なんて作品についてもまったく知らなかった。単に韓国映画で犯罪サスペンスらしく、主演はソン・ガンホだというだけでチケットを買ったのだった。後になってその監督が以前に撮った「ほえる犬〜」が公開されていると知って、慌てて劇場に走っていったというわけだ。

 そんなわけで、自分としてはダークホースを買ったつもりがたちまち万馬券の可能性…と、いきなり期待がふくらむだけふくらんだ「殺人の追憶」については、もはや僕が語るまでもないだろう。期待が大きすぎてもマズイだろうと控えめな気分で見に行ったが、見終わった後はやっぱり大興奮。確かに初体験の衝撃という点では「ほえる犬〜」にかなわないものの、こちらももし初ポン・ジュノ体験として見ていたら大変な衝撃だったに違いない。

 またしても作品には、あちこちに「意外性」が漂う。シリアスなのにユーモアが散りばめられ、なおかつ怖い。作品カラーが一本調子になることはまったくない。犯罪サスペンスとは世界に数多くの先例を持つ映画ジャンルだが、この作品はそれらの「定型」から大きくハミ出してしまう。だから新鮮なのだ。

 そしてこちらには、早くも「巨匠の風格」とでもいうべき安定感すらあった。スゴイ監督だという思いとともに、この人ってどこまで大物になってしまうんだ…と、空恐ろしい気持ちすら抱いたものだ。

 そんなポン・ジュノが新作にとりかかっている、しかもそれがSF映画、何と怪獣映画だと知った時の衝撃たるや…。

 このサイトをご覧になっているみなさんなら先刻ご承知だろう。僕は子供の頃からSF映画、そしてチープなモンスター映画をこよなく愛して来たのだ。SF映画やモンスター映画というジャンルは、最近でこそA級大作もつくられるようになってきたものの、長く「くだらないジャンル」としてバカにされ、蔑まれてきた歴史がある。そんなジャンルに「あのポン・ジュノ」が挑戦するとは! 僕がこのニュースにどれほど興奮したかご想像いただきたい。

 こうして海を渡ってやってきたグエムル/漢江の怪物(2006)は、ポン・ジュノがすでに「殺人の追憶」の大成功でスター監督となっていたこともあって、かなりの注目作として迎えられていた。もちろん僕だって負けてはいない。確か待ちきれずに初日に劇場に駆けつけたと記憶している。

 こうして、はちきれんばかりの期待で接した作品は…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから先は「グエムル/漢江の怪物」を
すでにご覧になった方だけお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はなぜポン・ジュノ映画に期待し、かつ失望したか

 満を持して見に行った「グエムル/漢江の怪物」の出来栄えは…もう、この作品の僕の感想文を読んだ方はお分かりだろう。確かにスゴイ作品ではある。立派な出来栄えだ。大したものだ。大したものだとは思うけれども…。

 僕はとても好きになれない。

 この映画のどこが気に入らないのか、これを説明するのは極めて難しい。おおむね僕だってこの映画の出来には感心している。ただ、「ある一点」だけがどうしても承服しかねる。何とも同意できないのだ。それがこの映画を決定的に損なっている。

 それを改めてズバリ指摘すると、映画の「結末」だ。一家の末娘が物語の終わり近くまで生存しているのに、結局助からずに終わってしまうことだ。

 これを言うと、「要はハッピーエンディングじゃないから気に入らないわけね」と誤解されてしまう。「古くさいドラマ手法ではない」からケナしているんだと曲解されてしまう。僕の言っていることを短絡的に見ればそう見えてしまうだろうし、そう見るのが簡単でラクだろうとは思う。そしてこの映画を支持する人は、そう解釈することでこの作品を擁護したいんだろうと思う。しかし…これを説明するのはとても難しいのだが、僕は決して「ハッピーエンドじゃない」から批判しているのではない。悪いが僕はそれほど保守的じゃないし分からず屋でもないのだ。ナメてもらっては困る。

 実はこの作品のこの幕切れ…「末娘が最後に助け出されてめでたし」という典型的ハッピーエンドの予想を覆す…という展開は、単に「みんなが思っている展開を裏切る」ということのため「だけ」で行われているように思える。だから「いかがなものか」と思えるのだ。

 確かにみんなビックリするだろう。普通は大抵助かるはずの、しかもまだ純真な女の子だ。最後の最後まで健気に生き残っていて、一家の希望の星としてドラマの原動力となっている。特にアート映画系のファンがバカにするような「ハリウッド映画」なら助かって当然だ。

 だから、それがあんな残念な幕切れで終わったことによって、多くの映画ファンはこう思ったに違いない。「スゴイ、さすがに才人ポン・ジュノだ。単純ハリウッド映画とは違う」「安易なドラマ展開では映画をつくらない」などなど…。

 確かにそうなんだけど、それで…それ「だけ」でホメるってのはいかがなものか

 だって、考えてみていただきたい。ならばお話の展開を、何でもかんでもラストでひっくり返せばいいではないか。そうすりゃ「傑作」になるのか。そういうものじゃないだろう。ちゃんとドラマトゥルギーの裏付けがあって、必然性があってやるなら分かる。だけどこの映画では、お話がほぼ解決した一番ラストにそれをやらかしている。つまり、ドラマの原動力としては「消費しつくした」後、「使い果たした」後にヒロインをこんなカタチで処理しちゃっているのだ。

 僕が言っている意味は、例えばクエンティン・タランティーノイングロリアス・バスターズ(2009)の居酒屋での「アッと驚く展開」とこの「グエムル」の結末とを比較していただければお分かりいただけるかもしれない。

 あるいは非常に近い要素を持っているという点で、同じ韓国映画のチェイサー(2008)を挙げてもいい。これについて詳しくは言及しないが、「チェイサー」には「こうでなければならない必然性」がある…とだけ言っておこうか。

 言い換えてみよう。「グエムル」では、末娘は死ななくてもドラマは成立する。あの「結末」にする必要はない。どっちでもいい。では、なぜそういう幕切れになったかと言えば、単に「安易なドラマ展開では映画をつくらない」というような、作り手の肥大した自意識を満足させたかったからだ。

 手っ取り早く言えば、観客に「さすがポン・ジュノ」と言わせたいがために、この末娘は殺されたのである。

 しかし、ドラマ的必然性もクソもなしで、単に「定石」をひっくり返したから「才人」ってのは…それこそ「安易」な発想ではないか。何だか一頃の韓国映画にはこういう「やらずもがな」の無駄な「どんでん返し」や「無惨な結末」がゴロゴロしていて、まるで作り手が「オレって辛口な映画作家」とか「オレは安易なハッピーエンドに満足しちゃいねえ」的にスゴんでいるように見えて…どこのイキがったゴロツキだかチンピラだか知らないが、ハッキリ言わせてもらえば「幼稚」な奴らって感じがしていた。こういうのってホントにオレはイヤなんだよね。強がるんじゃねえよ若けえの、身の程を知れ。

 残念ながら現代映画の旗手とさえ思えた才人ポン・ジュノですら、そんな自己顕示欲を肥大させた「幼稚」な映画作家だったことがミエミエになってしまった。これはかなりな幻滅だったよ。

 そして、彼への評価もかなり差っ引かざるを得ないと改めて思わされた。

 それでは、当初の彼への評価も過大評価だったのか。あんなに新鮮で驚きに満ちた「ほえる犬は噛まない」も、実は奇をてらった手法に目をくらまされただけだったのか。もうこうなると、自分の目をまったく信じられなくなった。ホントはこいつの才能ってどうなんだ?

 正直なところ、その後しばらく経ってDVDなどで見直した限りでは、やっぱり「ほえる犬」は傑出した作品だと思う。あの時のフレッシュさにウソはなかった。しかし、「グエムル」で陥る「定石ひっくり返し」へのワナは、確かにこの時すでに芽を吹いていたように思う。

 この時の新鮮さは、ちゃんとドラマトゥルギーの裏付けを持っていた。必然性もあったし意味もあった。だが、ここで「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」の持つ破壊力を、ポン・ジュノ自身が誰よりも思い知っただろうことは間違いない。

 しかし正直な話、どんな才人でもそう毎度毎度「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」ばかり生み出し続けられるわけでもないだろう。いや、生み出し続けられるのかもしれないが、それは並大抵の苦労じゃないだろう。それを、早くも「殺人の追憶」で巨匠級の評価を得るようになったポン・ジュノは、とてつもないプレッシャーで感じ取っていたのではないか。そしてついつい安易な道にはしり、どこかで「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」を読み違えてしまったのではないか。何となく僕にはこのポン・ジュノの迷走には、何らかの悲劇のようなものを感じる。

 しかも世間ではこれを「失敗」「ミス」とはみなしていない。

 僕はこんな事を書いているが、世間では「グエムル」は「傑作」「大成功作」なのだ。しかし、だからこそコレはキツイはずだ。

 これを言ったらみなさんには笑われてしまうかもしれないが、ポン・ジュノ本人だけはアレが失敗だったと分かっているはず…と思うからだ。

 みんなにはバレてないが、あれは失敗だった。それは自分だけが知っている。そして次にもまた高いハードルが待っている。今度は失敗しないようにできるのか、それともまたバレないようにごまかすしかないのか。これは地獄としか言いようがないだろう。

 そんなポン・ジュノの次の作品は、何とオムニバス映画TOKYO !(2008)のうちの一編、香川照之扮する引きこもりの男のお話「シェイキング東京」

 オムニバス映画を撮るなんて意外…と思うべきか、それともミシェル・ゴンドリーレオス・カラックスなど世界の異色映画作家と肩を並べたあたりに「らしさ」を感じるべきか。ただ僕はこの時明らかに、ポン・ジュノが「グエムル」を「失敗」ととらえていること、そしてそのリハビリをこの作品で行おうとしていること…を確信したのだった。

 オマエはなぜそんなことを「確信」したのかって?

 この作品の位置づけを見ていただきたい。「巨匠」化した「才人」ポン・ジュノにとって、これは決して意欲作でも野心作でもないからだ。むしろ肩の力が抜けた作品と言っていい。ミシェル・ゴンドリーやレオス・カラックスと肩を並べるということは、逆に言えばポン・ジュノが一枚看板を背負う必要がない作品ということだ。日本を舞台に日本語で日本のお話を撮ると言っても、野心的というより「短編」を撮る気楽さが勝っている。どう考えても、これは「肩慣らし」か「試運転」で行っているとしか思えない。

 この映画のパンフレットによれば、ポン・ジュノは「世界から殺到するオファー」からこの企画を選んだのだという。この「世界から殺到」はいささか大げさではあるが、ある程度選ぶ立場であったことは間違いないだろう。なのに彼がわざわざこんな「肩慣らし」的企画を選んだところに、その時の彼が置かれた危機的状況が伺える。彼が一枚看板で新作を撮るとなったら、もはや「失敗」は許されない。だからこんな気楽な短編を撮る必要があったのか。

 そして短編「シェイキング東京」は、ポン・ジュノにして初めて「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」のない作品だった。

 驚くべきことにポン・ジュノは、「東京」を描くにあたって「引きこもり」と「地震」という、完全に日本のステレオタイプ・イメージを持ち込んできたのだった。これほど手垢のつきまくった、凡庸なイメージもあるまい。お話自体も驚きは皆無。ただ日本を舞台に日本語で日本のお話を撮る…ということで、最低限のフレッシュさは担保されている。そんな保身への配慮だけはちゃんと持っているところが小賢しいが、ともかくポン・ジュノはあの「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」の呪縛から何とか逃れたいと思っていたのだ。このことひとつとって見ても、彼は「グエムル」を成功作と思っているわけがない。

 というわけで、彼としては「試運転」はちゃんと行えたようだが、それで「グエムル」で生じた危機的状況を克服できたのかと言えば、これは極めて疑わしい。

 むしろヤバさは増したのではないだろうか。なぜなら「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」を排してつくったポン・ジュノ作品は、恐ろしいくらい凡庸でありふれた映画だったからだ。イイ役者を使ってごまかしてはいるが、これってどこが面白いのか分からない。「何が何でも奇をてらってやろう」というイヤミがない点だけは好感が持てるが、それ以外は特筆するところのない映画だった。

 さてこうなると、韓国に戻ってポン・ジュノ一枚看板の作品をつくらなければならなくなった彼は、果たしてどう出るかが分からない。今までなら無責任に期待できたポン・ジュノ作品だが、相当危なっかしいところに来ていると思わざるを得ない。

 僕がなぜ全映画ファン絶賛の新作「母なる証明」を複雑な心境で迎えねばならなかったのか、これでお分かりいただけただろうか。

 

見た後での感想

 映画が始まってすぐ、主人公であるキム・ヘジャ扮する「母親」が、いきなり原っぱのど真ん中で踊り出す

 この瞬間、「まぁ、またやりやがったな」と思わざるを得なかった。

 何をどう考えても、このシチュエーションは変だ。おそらく彼女がこうならざるを得なかった経緯が、この映画の中で語られるんだろうとは思う。それでも何でもよっぽどのことがない限り、いいトシこいたオバチャンが誰もいない原っぱで踊り出すって設定は変だし、無茶だし不自然だしオカシイ。

 それを、映画が始まった直後にいきなりブチかましやがったのだ。

 またおいでなすった。結局ポン・ジュノは全然懲りてない。またしても「安易なドラマ展開では映画をつくらないぜ」みたいなことを言いたげな、「定石はずし」の芸当に出やがった。そりゃ確かに見ている方は驚くだろうが、奇をてらうに事欠いていきなりのヘンテコ踊り。これで「斬新さ」「新鮮さ」「驚き」を映画に注入できたと思っているなら、チャンチャラおかしいぜ。

 開巻いきなりこんな状態だったので、僕はもうこの映画はダメだと思い始めてしまった。どうせ、また無理な話をこじつけやがるんだろう。

 ところがこれ以降、ドラマはむしろオーソドックスな方向に進んでいくのだ。

 危なっかしい息子ウォンビンが、案の定墓穴を掘って少女殺人犯として捕まってしまう。それを何とかして救おうと懸命な、盲目的な母親キム・ヘジャの愛。王道といえばまさに王道。演じるキム・ヘジャは「韓国の母」と異名をとるほど向こうでは母親役が板に付いた女優らしいが、さもありなん。何と「定石はずし」が大好きで得意技にしていたはずのポン・ジュノが、堂々ストレート直球ど真ん中で勝負しているのである。

 これは一体どうしたことか?

 そもそも、テレビで母親役を専門にしていた女優なんかを、そのまんま「母親」役に起用するなんざ…それがまさに「母親」の権化みたいな役というあたりが、どうにもポン・ジュノらしくないではないか。あのソン・ガンホを「グエムル」では金髪に染めてしまうように、「定石はずし」こそがポン・ジュノの身上だ。ここでキム・ヘジャを主役に持ってきた時点で、「今回は奇をてらわずオーソドックスでいくぞ」という覚悟の程を示していると考えるべきだ。

 イケメンアイドルのウォンビンをこんな息子役に起用しているあたりは「定石はずし」っぽく見えなくもないが、実は彼の「イノセントっぽさ」「無垢っぽさ」こそを引き出したかったと考えれば、むしろこちらも王道中の王道。つまり、この主役二人のキャスティングは「定石中の定石」「定番中の定番」「典型中の典型」をあえて狙っていると分かるのだ。

 そしてそこで演じられているのも、片や盲目的で献身的な母の愛、片や(知恵遅れということで誇張されてはいるが)息子としての未熟さと純粋さ…である。これまた「定石中の定石」「定番中の定番」「典型中の典型」と言うべきではないか。それって、渋くコクのあるモーガン・フリーマン、キレるとヤバいショーン・ペン、そして泣く子も黙るイーストウッド…と、常に「典型中の典型」配役しかしないクリント・イーストウッド監督作品もビックリのキャスティングぶりだ。

 これこそ「グエムル」で自ら思い知った弱点を克服する、ポン・ジュノの新境地だと僕は思う。

 「ありきたりでないこと」「意表を突いていること」を狙うがあまり、あざとさが勝ってしまった前作「グエムル」。それに気づいたポン・ジュノは、「TOKYO !」中の短編という「試運転」を経て、あえて「王道」の直球ど真ん中コースを狙ってみた。それがこの結果ではないかと思うのだ。

 物語は終盤に至っていきなり激しい展開を見せ、ウォンビン扮する息子の衝撃的な一面を暴くとともに、それに伴って母親キム・ヘジャの衝撃的な行動が導き出される。これらは見ている僕らにもかなりショッキングだが…実は結構見ている側にとっては予想できた範囲内の展開だとも言える。そういう意味では、終盤の急展開さえも「意表を突いている」とは言い難い。結局、ある意味では「コケ脅かし」やら「定石はずし」を一切排した上で、ポン・ジュノは初めて王道の直球勝負で押し通しているのである。

 ただしポン・ジュノは、彼の作品は単なる直球勝負では「凡庸」になりかねない…と、すでに「TOKYO !」中の一編でそれなりに思い知ってもいる。実際のところ、彼の作品は「定石はずし」を狙うためにあざとさが勝ってしまいがちであること…が問題というよりは、「定石はずし」をしないと意外に凡庸になりかねないこと…の方が真に深刻なウィークポイントなのだ。

 もちろん今回の作品だって、そうなる危険性は多分にあった。なっておかしくはなかった。だが出来上がった作品は、堂々たる直球勝負の人間ドラマ。今回は単に凡庸なお話にはならなかった。

 では、どうして今回は凡庸にならなかったのか?

 ひとつには、キッチリと役にハマった安定感あるキャスティングを実行したからだろう。僕は真剣に、ポン・ジュノはこのあたりの配役マジックをイーストウッド監督作品に学んだのではないかと思っている。イーストウッド最新作のグラン・トリノ(2008)について、ある海外メディアが評した言葉に「どうやったらこんな傑作を作れるのか分からない」というのがあったが、まさにそれは言い得て妙。本来、凡庸にしかなり得ない要素ばかりで、実際に普通につくってみたら凡作にしかなり得ないはず。どうして傑作が出来ちゃったのか…この言葉を発した評者はまったく分からなかったに違いない。

 それが傑作になってしまうところが、まさにイーストウッド作品ならではのマジックなのだ。

 そしてポン・ジュノが今回最も必要としていたのは、そんな映画メソッドだった。ビックリする点がまったくナシの超王道設定で超王道ストーリーを超王道なドンピシャ・キャスティングで描いた時、「ありきたり」が意外なまでのパワーを発揮する…そんなイーストウッド作品のマジックに、彼は何かヒントをつかんだのではないだろうか。

 そこでの最大のポイントは、韓国で「母を演じてン十年」だという女優キム・ヘジャの持つ「重み」だろう。これだけキャリアを積んだ人が発する「ありきたり」ならば、それは単なる「ありきたり」には終わらない。それは近年のイーストウッド作品にも似た、巧みな作戦だとは言えないか。言い換えれば、「ありきたり」を嫌うあまり映画本来のうまみから脱線したウケを狙ってしまった彼が、改めてあえて挑んだ超「ありきたり」映画へのチャレンジなのだ。

 そして、何より本来のポン・ジュノ自身が持っていた、巧みなストーリーテリングの妙も見逃せない。

 ミステリー映画としての語り口のうまさは、同じミステリー映画の体裁をとっていた「殺人の追憶」同様に冴え渡り、ますます際だっている。キム・ヘジュ演じる母親がだまされ裏切られながら、徐々に真相へと迫っていく「探偵映画」としての面白さを持っているのだ。

 そして、劇中何度か繰り返される「イヤな記憶を忘れさせるツボ」が、見事にラストに効いてくるあたりの圧巻ぶり。この伏線が活かされた脚本のうまさなどは、ポン・ジュノが元から持っていたものだ。やはり何と言ってもこの人はうまいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、信頼できるキャリアを積んだ役者を前面に立てて、あえて「典型」「王道」を押し通しての映画づくり。ストーリーテリングにはうまさに定評あるポン・ジュノ本来の技術を駆使して、一分の隙もなくこしらえた。ならば、これで脱「ありきたり」を狙うイヤミも際立たず、うまみのあるドラマが構築されるはずだ。

 いや、まだだ。

 「グエムル」「TOKYO !」…と、彼としては必ずしも成功作とはいえない作品を連発したポン・ジュノとしては、おそらくこれだけでは充分じゃなかった。僕はそう思う。だから、あんなことをやったのだ。

 冒頭の、キム・ヘジャのダンス。

 最初にアレが出てきた時は、またまたポン・ジュノは奇をてらって変なことをやらかしやがった…と、正直言って僕はそう思った。また「コケ脅かし」でごまかそうとしてやがるな、と。しかし実際のドラマが始まってみると、今まで述べて来たように超安定志向で、王道ドラマが構築されていった。

 そして見ている僕たちには、それはなぜか「ありきたり」で「凡庸」とは受け取られなかった

 その理由について僕は今まで、「イーストウッド監督作的な映画マジック」ではないかと述べたし、それプラス、ポン・ジュノ映画本来の語り口の巧みさ…とも語ってきた。しかし、本当にそれだけで「ありきたり」さや「凡庸」さから逃れられるかと言えば…やっぱりちょっと難しいんじゃないかと思う

 それでポン・ジュノは、いきなり冒頭にあのキム・ヘジャのダンスを持ってきたのではないか。

 アレはどう見たって変だし不自然だ。おかしすぎる。「ありきたり」を避けてきたポン・ジュノ作品の中にあっても、群を抜いた「おかしな」描写だ。ヘタをしたら作品のバランスを崩しかねない。

 しかし、これがあるから…「王道中の王道」「典型中の典型」である物語、設定、そして何より配役の要であるキム・ヘジャに、奇妙で歪んだイメージが焼き付けられる。

 冒頭のキム・ヘジャの奇妙なイメージは、その後の物語の中で観客の意識からどんどん薄くなっていくが、それでも「それ」が消えることはない。観客の潜在意識の中で、ずっと生き続けているはずだ。

 だからこそ、「それ」はまだ何も語られていない冒頭になければならなかった。

 「それ」が物語を浸食したり設定に影響を与えたら、またぞろ「グエムル」の二の舞になる。しかし、まったく「陰影」も「異質さ」も「歪み」もなく物語を語ってしまったら、彼の作品は予想以上に「凡庸」になる危険性がある。やはりポン・ジュノ映画には、どこかそんな「ありきたり」でない意匠が必要なのである。

 そこで、まだ何も語られず、観客に何の先入観も与えられていない冒頭でいきなり説明なしに「それ」を見せてしまい、その後のドラマでは一切触れないで印象をどんどん薄めていく。しかし、その唐突なインパクトは、決して観客の脳裏から消えない。

 「奇をてらわない」映画にしながら「凡庸」にもしない…。あの冒頭のキム・ヘジャのダンスによって、ポン・ジュノはそんなアクロバットのような軽業をやり遂げようとしたのではないだろうか。

 その後、ほぼドラマの終盤近くまで、キム・ヘジャ・ダンスは物語にほとんど何の影響を与えないし、関わりも持たない。そのあたりからも、そんなポン・ジュノの意図は伺えるではないか。物語の時制的には一旦時間をさかのぼるカタチになり、その後キム・ヘジャのダンスが行われたのはこのあたり…と、状況的にも彼女の衣裳から見ても何となく分かる箇所がやって来る。しかし、実際にはそこで改めてダンスのアクションが行われることはなく、そもそもそんな変なことが行われる余地は設定的に全くない。まるで「それ」は何かのイメージショットであったかのように通り過ぎてしまうのだ。

 そして…ここが先にも触れたように、ポン・ジュノの「語り口巧者」たるゆえんなのだが…「それ」はいきなりエンディングにつながってくる

 何だか歯に衣を着せたような、何とも歯がゆい言い方で申し訳ない。しかし何かの間違いで映画を見ていない人が読んでしまわないように、ここはあえて「それが何か」は伏せて語らせていただく。これでも映画を見ている人には何を差しているか分かるだろうし、僕が言いたいことも理解できるだろう。

 ともかく冒頭のキム・ヘジャ・ダンスがいきなりエンディングにつながってくる展開には、見ていて久々に身震いがした。これは脚本に巧みに伏線を張り巡らすという点でも、「ありきたり」でない語り口を求めるという点でも、実にポン・ジュノらしい手法と言えるだろう。

 映画の描写としては不自然な…ヘタをしたら「奇をてらった」ものと見られかねない描写も、オーソドックスで王道かつ典型なドラマの最初と最後に置いた「ブックエンド」のように機能させればイヤミにならない。この、まさにウルトラCと言うべき大胆な語り口には驚嘆してしまう。

 しかもそのエンディングの乱舞を、あえて平行して走行するクルマから、「ブレ」も何のそのでわざわざ望遠レンズで不安定にとらえる。しかも夕陽の逆光に向けてレンズを向ける。その結果、画面に混乱と強烈さとカオスが生まれる…という視覚的効果まで計算され尽くされた見事さ。

 これぞ、ポン・ジュノの成熟と言わずして何と言おう。

 

見た後の付け足し

 何だかここまでは映像テクニックみたいなことばかり語っていて、妙に冷たい語り口だな…と、読んでいるみなさんは思われたかもしれない。

 でも、まずはこの作品がこうならざるを得なかったというポン・ジュノ作品の性質と、彼が今回とった解決策について語る必要があった。そのコペルニクス的転回ともいうべき手法をきちんと説明する必要があったので、僕がこの映画から汲み取った個人的感慨は、あえてここまでまったく語らなかったのである。

 僕個人としては、この映画にかなりの感銘を受けていた

 実はこの映画を見る前に、母の息子への「盲目的愛」がテーマらしいと聞いて、僕はちょっと困ったなと感じていた。

 以前にもこのサイトで何度か語ってきていると思うが、僕は…すでにかなりイイ歳になってきてはいるが…いわゆる「一人っ子」である。

 一人っ子への世間の目というものは、結構ステレオタイプだ。いわく「ワガママである」「勝手である」「甘えん坊である」、そして何より「過保護である」。実際そうであるかどうかに関わらず、世間ではこちらをそういうラベリングで見なす。僕のことなどロクに知りもしないで、一方的にそう判断する。

 実際にはどうなんだって? 言われる通りだよ(笑)!

 お恥ずかしい話だが、こと僕に限った場合、それはまったく当たっているとしか言いようがないだろう。ワガママで勝手で甘えん坊で…しかし、最後の部分に関してはちょっと説明をさせてほしい。

 僕は幼少の頃から、この「一人っ子」という言葉を耳にタコができるほど聞かされてきた。

 僕が子供の頃は、父親は仕事に追われてほとんど家にはいなかった。だから、僕は家で縫い物をしている母と、ほとんど二人きりで過ごしていた。そんな僕に母は、ことある事に「一人っ子」が世間で疎まれる存在であることを語って聞かせていたのだ。

 一人っ子だと何かとバカにされるから、バカにされないようにしろ。

 しかしながら、そんな母の心遣いは結局無駄に終わってしまったと言うべきだろう。やっぱり僕はワガママで勝手で甘えん坊で、まるで「使えない」奴だった。だから手を差し伸べずにいるつもりだった母も、やっぱり何かと世話を見ずにはいられない。そうして何だかんだと手をかけてしまった結果、「過保護」な状態になってしまっていたんだと思う。

 そのくせ僕は、自分が「一人っ子」ラベリングされるのがイヤだったし、「過保護」と見られるのがイヤだった。まぁ、男の子だったら当然だろう。

 だから自分で何も出来てやしないのに、いつも「自立」できてるふりをした。母が人前でいろいろ手を出すたびに、露骨にイヤがったし時には怒りを露わにした。実際には僕は何もできない男だったし、何も知ってはいなかったのだ。そのくせ、母のせいで笑いものにされるのがイヤでイヤでしょうがなかった。そして、いつも母に偉そうな態度をとった。

 母をうるさがり、母を疎ましく思い、母をないがしろにした。

 すべてを母に依存しているくせに、母に手を出すなとわめいた。母のしゃべり方もイライラさせられた。善人ぶって外面ばかりいいと罵った。

 自分がある程度の年齢になり、女の尻を追いかけ回す頃になると、それはもっと激しくなった。女の男に対する評価などというものは、実に冷たいものだ。僕はカネ持ちでもないし、素晴らしい学歴もなければ立派な職にも就けなかった。元々見てくれもよくないし口がうまいわけでもない。そこに「一人っ子」とくればもはや致命的だ。だから女の前では一人っ子臭を消そうと懸命になったし、出来ないことも出来るような顔をした。

 結果、女の前でホントの自分を出すことはなかったし、心が安まる暇もなかった

 しかもそんなウソの臭いを嗅ぎ取ったか、大体が女の方から逃げ出した。言わなくてもいいウソまでついつい言ってしまうから、必要以上にインチキ臭くなる。頼りない上にウソっぽいことばかり言う男に、ついていく女などいるだろうか。実際、僕という男は、「責任」という言葉がチラつくとビビって腰が退けてしまう。女にはそんな僕の正体が、すっかり丸見えなのだった。

 なのに僕は、そんなうまくいかない何もかもを、どこか母のせいにしていた

 今の母のあの調子では、どんな女を持って来たってうまくやっていけるはずがない。どうせひどい事になるに決まっている。だから僕は逃げているし、決断はしないのだ。僕はそう公言していたし、実はそれを自分でも信じていた。

 僕は何も分かっていなかった。

 ここ最近何となく見えてきたことが、この映画を見てさらに一段とクッキリとした。恥ずかしながら、こんな明白なことが分からなかったなんて、自分でも信じられない。僕は本当に愚か者だったのだ。

 大体、母親が息子に何かをしてくれることが当たり前だなんて、誰が決めたのだ?

 頭では分かった気になっていたし、言葉では知ってもいただろう。だが、それが本当に何を意味しているのかは、腹の底から骨身にしみて分かっていたわけではなかった。

 この言葉を使うのは世間的にマズイのかもしれないが、この映画の中で息子を演じるウォンビンが、いささか「知恵遅れ」の設定になっているのは象徴的だ。

 母に対する息子というものは、かくも「分かっていない」し「愚か」だ

 しかも母の側からは、何もできなくて無力に見える。確かに知恵の点からも常識からも、経験さえも乏しい息子は、母から見ればいくつになっても危なっかしい存在なのだろう。

 だから手を差し伸べる。片時も目を離さず、例え自分がキズついている時でも自分そっちのけで息子のキズの方を心配する。

 しかし息子は愚かで、それがいかに大変なことか尊いことか、まったく分からない。分からないどころか迷惑に思うし、時として冷たく拒絶する。何かされても感謝もしない。すべてを当たり前と思う。いや、当たり前とさえ思わない。その「されている」ことが分からない。まるで空気があるから呼吸ができることを気づかないように、母の愛を自覚しないのだ。

 それなのに、ひどい仕打ちをされ、ないがしろにされ、無視され、裏切られ、罵られているのに、それでも母は無償の愛を注ぐのだ。

 必ずしも期待通りの育ち方や振る舞いをするわけではない。むしろ失望の方が多い。ヘタをすれば、信じたくないこともするだろう。でも母は、そんな息子を守るためなら何でもするだろう。そんな母の気持ちが、息子には分かっているのだろうか。

 しかも息子は、時として単に愚かなだけではない

 単に愚かで鈍いだけなのだろう、純粋なのだけが取り柄…と思っていたら、実は結構、狡猾だったりする。見たくない一面を持っていたりもする。ひょっとして、もう自分の手に負えないのかもしれないと、途方に暮れることもあるだろう。それでも母は息子に、無償の愛を差し出すしかない。それは、母が母だからだ。

 僕はこの映画を見ていて、情けなくて申し訳なくて泣いてしまった

 父が亡くなって母と二人きりになり、家族というものを痛感させられて、改めて見えてきたところはある。しかし、僕はまだ本当に分かってはいなかった。

 ある女に「あなたはお母さんのありがたさが分かっていない」と一喝された時も、頭から冷水をかけられたような気はしたものの、実はまだよく分かってはいなかった。でも、たぶんこれが下地になっていたのだろう。

 そんな複雑な思いを抱えて見たこの映画で、そんな分かり切っていたはずのことを思い知らされるなんて。

 何でこんなに愚かだったのか。何で50年もそれに気づかなかったのか、何でひねくれたモノの見方しか出来なかったのか、何で分からなかったのか…が、今では分からない。

 母がしてくれることを、なぜ「当たり前」と思っていたのかが分からないのだ。

 

 

 

 

 

 to : Review 2009

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME