「イングロリアス・バスターズ」

  Inglourious Basterds

 (2009/12/07)


  

見る前の予想

 クエンティン・タランティーノの新作である。

 と言えば、好きな人は舌なめずりしそうなほど期待するだろうし、キライあるいは苦手な人は「またかよ」とウンザリするだろう。まぁ、つまり毎度おなじみのタランティーノ作品の世界が誰でも大体想像できるわけだ。

 特に「ジャッキー・ブラウン」(1997)あたりから、過去のさまざまな映画からの引用が直接的で露骨になってきた。それも決して過去の「名作」「傑作」の類でなく、どちらかというと娯楽映画…それもB級、C級の陽の当たらなかった映画群、時には非アメリカ映画のイタリア、香港、日本映画などがその範疇に入ってくる。このへんの作品そのもの…そして「引用」の多用ということについてどう感じるかが、タランティーノ作品をどう評価するかについての分かれ目になってくる。

 僕はどっちかと言えば先に挙げられたような作品群がキライじゃないので、どうしたってタランティーノについての評価が甘くなる。タランティーノが映画について愛しているという態度をモロ出しにしているあたりに…これについても人によって感じ方が異なるだろうが…僕は好感を持たずにはいられない。特に世間から白い目で見られてきたジャンルの作品を分け隔てなく取り扱うあたりの手つきに、「映画はどれも映画じゃないか」という彼のフェアな考え方が見てとれる。昔から安っぽいSF映画という「継子」扱いされてきたジャンルをこよなく愛してきた僕は、そんなタランティーノの態度に深い共感を寄せずにいられなかった。

 しかもタランティーノの引用ぶりは、単に画面に出してオマージュ…というのとはちょいと違う。古今東西の映画から貪欲に…かつ脈絡もなく持ってきているように見えて、そこにはタランティーノなりのセンスや審美眼のようなものが働いていたような気がする。あるいは引用の仕方、切れ味に…それは多くの場合、ヤボ臭い安っぽさを「ポップ」に見せるかたちで…独自性があった。つまりはタランティーノなりの「芸」が感じられた。そして、あくまで「思いつき」や「独りよがり」ではない、必然性があったわけだ。

 だから、そんなタランティーノ「イズム」が頂点にまで達したキル・ビルVol.1(2003)、同Vol.2(2004)には、僕も大いに賛同した。世間もそれなりに彼の「イズム」を支持したように思う。

 ところが、これが良くなかったのだろうか

 続くデス・プルーフ in グラインドハウス(2007)は、こんなタランティーノの「非主流派映画擁護・引用路線」の延長線上にあるが、もはやそこで擁護・引用されている作品はほとんどの一般ファンに理解不能。しかもその引用ぶりがあまりに直接的で、従来のような「芸」をあまり感じさせなくなってしまったのだ。

 実はこの作品について書いた僕の感想文では、僕は結構この作品をホメている。しかし白状させてもらえば、やっぱりこの作品はかなりツラかったと告白しなければなるまい。だが一方で、この作品をそれなりに楽しんでしまった、困った「映画ファン体質」の自分もいた。それがいかに不健康で不健全か分かっていただけに、自分でも少なからず後ろめたく感じていた。「この映画、オマエ知ってる?」「知ってる奴だけ楽しめばいい」…的な映画なんて、やっぱり映画のあるべき姿ではないだろう。

 そして追い打ちをかけるように登場したのが、タランティーノ「プレゼンツ」作品のヘルライド(2008)だ。これは「プレゼンツ」と書いたように、彼がプロデュースだけして監督まではやっていない。だから彼の作品とは言い切れないのだが、それでも作品に漂う不健全さは「デス・プルーフ」と共通するものがある。過去の安手のバイク映画がネタらしいのだが、作品そのものの出来の無惨さとは別に、こんなモノを過度にもてはやして遊んでいる不健全さが確かにあった。さすがにこの段階まで来たら、タランティーノに一言いいたくなってきたよ。もうちょっとマジメに映画をつくった方が良くないか?…って。何をどう言おうと、つまらないものはつまらない、くだらないものはくだらないのだ。

 そんなわけだから、かつてのマカロニB級戦争活劇をネタにタランティーノの新作が作られると聞いて、僕は実に複雑な気分になったわけだ。

 またアレをやるのか? また安手の映画ジャンルを過剰に持ち上げて、「知ってる奴だけ楽しめばいい」…的な不健全な映画をつくるのか?

 ブラッド・ピットを起用すると聞いても、安心どころか不安しか感じなかった。それと、ナチと戦う話というあたりがさらに不安を増大させた。タランティーノのこと、暴力をポップなまでにエスカレートさせた作品になるだろうし、そこに社会的メッセージなんか絡ませるつもりはまるっきりないだろう。しかし、本当のマカロニB級戦争映画で大して脚光を浴びない作品ならまだしも、ブラピ主演のアメリカ映画となれば、もはやB級とはとても言えない。そもそもタランティーノ作品自体がもはやB級ではない。そしてそこまで肥大した作品の柄から言って、無責任に殺戮を見せ付けるかたちでの「戦争映画」ってのはどうだろう。

 これって、さすがに普通の観客にはかなり抵抗あるんじゃないだろうか? いかにポップに味付けしても、さすがに一応「戦争」を扱った映画としては、あまりふざけた扱い方では嫌悪感が出てきてしまう。…というか、そもそもポップな味付け自体に抵抗が出てこないだろうか?

 「戦争」を扱った映画だからって、どんな作品でも大真面目になったり、「私は貝になりたい」やら「戦争と人間」「人間の条件」みたいにしゃちこばる必要はない。そうは言っても、果たして「ポップ」に出来るもんなんだろうか? しちゃっていいのだろうか?

 そう考えると、ヘタをすればタランティーノの「伝家の宝刀」を抜けない可能性もあるわけだ。これはますますヤバイ。実に不安だ。

 そんなイヤな予感を抱きつつ、僕は公開始まってすぐの劇場に駆けつけた次第。

 

あらすじ

 1941年、フランスの片田舎。ある農家に、数人のドイツ兵たちがやって来る。それに気づいた亭主のラパディット(デニス・メノシェ)の表情には、たちまち緊張がはしった。

 やって来たのは「ユダヤ・ハンター」の異名をとるハンス・ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)。フランス各地に潜むユダヤ人を狩るこの男は、物腰柔らかながらジワジワとラパディットを追い詰め、ついには床下にユダヤ人一家を匿っていることを白状させた。兵士たちに床を一斉射撃させるランダ大佐。しかし奇跡的に一人の娘が床下から飛び出し、泣きながら全力疾走で野原を走り去っていく。その名はショシャナ(メラニー・ロラン)。ランダ大佐はそんな彼女に銃口を向けて狙いを定めるが、最後の瞬間「まぁ、いいさ」と笑ってその場を去っていった。

 一方、ナチスに蹂躙されていたヨーロッパ戦線で、奇妙な連中が「悪名」を轟かせていた。

 それは、激しいテネシーの田舎なまりでまくしたてるアルド・レイン中尉(ブラッド・ピット)率いる謎の部隊「バスターズ」。ユダヤ系アメリカ人で構成されたこの部隊は、「ナチ殺し」を至上命令として各地に出没。その残虐な殺し方でナチに恐れられていた。

 レイン中尉にアパッチの血が流れているという理由から、行く先々で殺したナチ兵士の頭の皮を剥ぐという情け容赦のなさ。しかも「ユダヤの熊」と呼ばれるドニー(イーライ・ロス)は、野球のバットでナチの頭を粉砕する残酷ぶりだ。たった一人、命を奪われなかった若い兵士も、「一生ナチの痕跡を残さねばならぬ」という理由から、額にカギ十字のマークを刻まれる始末。そこに、元々はドイツ兵ながらなぜかナチ将校を何人も惨殺したヒューゴ・スティグリッツ(ティル・シュヴァイガー)も加わり、凄味はさらにパワーアップする一方。

 そんな彼らの「悪名」が広がっていくことに、ヒトラー総統(マルティン・ヴトケ)は大いに苛立っていた。「バスターズ」の残虐さが知られれば知られるほど、ナチ兵士たちの士気に影響が出ると考えたからだ。しかし、ナチには神出鬼没の彼らを阻止することはできない。そしてナチ殲滅のためならやりたい放題というのが、彼ら「バスターズ」のモットーだった。

 さて、お話は1944年に飛ぶ。ここはナチ占領下のパリのとある映画館。明日からの興業のために、一人の若い娘が看板の文字を付け替えているところだ。この娘、今でこそエマニュエル・ミミューと名乗っているものの、実はあのユダヤ娘ショシャナの世を忍ぶ仮の姿。ひょんなことからこの映画館を譲り受け、黒人青年マルセル(ジャッキー・イド)と力を合わせて切り盛りしていた。そこにやってきたのが、若いドイツ兵のフレデリック・ツォラー(ダニエル・ブリュール)。映画ファンの彼はショシャナに一目惚れしたらしく、映画談義であれこれ気を惹こうと話しかける。終始気のない返事のショシャナだったが、ツォラーは一向に怯まない。ある時はカフェで本を読んでいた彼女のもとに押し掛ける始末。ところがそんな若いツォラーを、他のドイツ兵たちが位の上下を問わずチヤホヤするではないか。何とツォラーはある鐘楼の上から敵兵を銃撃、結果的に何百人も殺した「英雄」だったのだ。しかしツォラーが殺した「敵兵」とは、連合軍兵士に他ならない。ますますツォラーに素っ気なく振る舞わずにいられないショシャナだった。

 そんなある日、ショシャナはいきなりナチに呼び止められ、クルマで連行される羽目になる。緊張する彼女が連れて行かれた先は高級レストラン。そこにはナチの宣伝大臣であるゲッベルス(シルベスター・グロート)とあの「英雄」ツォラーが待っていた。実は彼の英雄的行為はナチのプロパガンダとして映画化され、彼自身が彼の役に扮して主演していた。その記念すべき作品の試写会はこのパリでナチ高官たちを集めて開催されることになっていたのだが、ツォラーは自らの希望でその会場をショシャナの映画館に変えたい…とゲッベルスに進言していたのだ。意義ある作品の試写会場にしては狭すぎる…と渋るゲッベルスに、ツォラーは熱っぽく語りかける。

 「フランス人は呼ぶ必要がない。ドイツ人だけが入れればいい。これはドイツ人にとっての作品です!」

 そんなツォラーの熱弁に乗せられるゲッベルス。こうしてショシャナの思惑をよそに、トントン拍子に彼女の映画館での試写会が決まろうとしていたが…そこにやって来たのがあの「ユダヤ・ハンター」ランダ大佐ではないか。彼はこのナチ高官が大挙して出席する試写会の警護責任者として任命されていたため、映画館主であるショシャナの身辺調査をする必要があったのである。

 むろんショシャナは、ランダ大佐の声を今も忘れはしない。愛する家族の命を奪い、自らも危うく殺されそうになった…その仇がランダ大佐なのだ。その憎しみ、恨み…そして恐ろしさを忘れようはずもない。緊張の張りつめた時間が流れるなか、何とかランダ大佐の追求をかわすショシャナであった。

 さて、舞台はまたまた変わってロンドン。作戦本部に呼ばれたアーチー・ヒコックス中尉(ミヒャエル・ファスベンダー)は、エド・フェネク将軍(マイク・マイヤーズ)から新たな作戦への参加を命じられる。その際に不可解な質問を受けて、当惑するヒコックス中尉。どうやらフェネク将軍はヒコックス中尉が映画評論家としてのキャリアを持ち、戦前・戦中のドイツ映画の知識を持っていることを重要視しているようだ。部屋の奥に何とあのウィンストン・チャーチル首相(ロッド・テイラー)が座っているのも、作戦の特異性を感じさせた。

 ヒコックス中尉が参加を命じられた作戦…それは「オペレーション・キノ」と称する秘密作戦だった。

 戦争英雄を描いたナチのプロパガンダ映画「国家の誇り」の試写会が、パリで行われる。ナチの高官がズラリと揃うこの試写会を、映画館ごと爆破してしまおうという計画。そのためには、ヒコックス中尉のドイツ映画の知識が必要だ。フランスにすでに潜入しているアルド・レイン中尉率いる「バスターズ」と合流して、連合軍側のスパイであるドイツの映画スター、ブリジット・フォン・ハマーシュマルク(ダイアン・クルーガー)の手引きで試写会に潜り込む…それが計画の骨子だった。

 早速、フランスで「バスターズ」と合流するヒコックス中尉。ブリジットとの接触場所は、「ラ・ルイジアーヌ」なる居酒屋となっていた。ところが実際に訪れた「ラ・ルイジアーヌ」は、不測の事態が起きた時にリスクが高い地下にあった。ブリジットは何故こんな場所を接触場所に選んだのか?

 しかもドイツ兵などいない場所を選んでいたはずが、なぜか酒場ではドイツ兵たちが酒盛り中。妙なゲームで大いに盛り上がっており、その酒盛りの輪の真っ直中に問題のブリジットが座っているではないか。これはどうなっているのか。ドイツ将校の扮装で酒場にやって来たヒコックス中尉、ヒューゴ・スティグリッツ、アメリカに逃れてきたオーストリア系ユダヤ人であるヴィルヘルム・ウィキ(ギデオン・ブルクハルト)は、この光景を見て思わずギョッとした。

 さらに酒場の奥にはヘルシュトローム少佐(アウグスト・ディール)が潜んでいて、ヒコックス中尉のドイツ語発音に疑念をはさむ。まさに絶体絶命。逃れる場のない狭い地下の酒場に、緊張感がみなぎる。

 果たしてヒコックス中尉や「バスターズ」たちは、この状況をどのように打開するのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見た後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 映画が始まるや否や、いきなりフランスの農家での緊張感みなぎる会話場面が登場。むろん延々と続く会話の妙は、デビュー作「レザボア・ドッグス」(1991)からのタランティーノの十八番。しかし今回の「それ」は、むしろ彼が影響を受けたある映画群こそを想起させる。

 それは、セルジオ・レオーネマカロニ・ウエスタンだ。

 それについては、先日書いた韓国映画グッド・バッド・ウィアード(2008)の」感想文でもすでに詳しく触れたから、ここでもう一度引用してみよう。

 

 溝口健二などの長回しとはまたひと味違って、どか〜んと構えた大画面のカメラを、ど〜んと三脚でブッ立てて延々長回し。僕ら観客がシビレを切らしてしまうほど、じ〜〜〜〜〜っと忍耐強く回すのだ。

 しかしそこでは意味ありげな登場人物が、寡黙に意味ありげに突っ立っていたりする。時折、先に述べたように顔のどアップが挟まれ、意味ありげな視線や意味ありげな表情がデカく映しだされるから、どうしたって「何かが起きそうだ」という胸騒ぎが起きてくる。ところがいつまで待っても目を凝らしても、カメラは退いたまんまで誰も動かない、何も起きない。

 じっと待って待たされて、それでもカメラは微動だにせず、ようやく観客がしびれを切らした頃になって、「勝負」は一気に決まる。

 これが、セルジオ・レオーネの演出の真骨頂だ。延々とカメラを回して、観客がじれるまで待たせる。

 

 そうなのである。本作でも延々延々続く会話の間、実は緊張感はどんどん高まっていく。これをやたらに長いと感じる観客もいるかもしれないが、僕はこの映画では成功していると思った。

 実際にはこの映画の場合、厳密に言うと長回しの一本調子ばかりではない。だから必ずしもセルジオ・レオーネの単純コピーとは言い切れないのだが、そこから醸し出されるムードは確かにレオーネ映画の雰囲気。それが証拠に、レオーネ映画のトレードマークだったエンニオ・モリコーネの映画音楽が引用されて使用されているではないか。

 しかも映画の冒頭で農家に恐ろしい悪漢がやって来て家族を皆殺しにする…という設定こそ、レオーネ作品「ウエスタン」(1968)の設定ではないか。これは「レオーネの引用ですよ」という目配せがなされているのである。

 このあたり、馬鹿正直にレオーネ・コピーを狙って空疎な長回しを延々やらかした「グッド・バッド・ウィアード」とはメンコの数が一枚も二枚も違う。レオーネの「カタチ」だけコピーして形骸化に終わってしまった「グッド・バッド・ウィアード」に対し、タランティーノはちゃんと自分のモノとして消化して提示しているのである。

 そしてこうした緊張感溢れる会話場面は、映画の中盤にやって来る居酒屋「ラ・ルイジアーヌ」の場面でも再現される。いやいや、なかなか見事なものだ。

 ここでのセルジオ・レオーネ引用は、マカロニ・ウエスタン…ひいてはマカロニ娯楽映画への連想に基づくものだろう。なぜなら、元々はこの映画自体がマカロニ戦争映画に発想の原点を得ているからである。

 当初、この「イングロリアス・バスターズ」はイタリア映画「地獄のバスターズ」のリメイクである…と報じられた。この「地獄のバスターズ」というのはDVD発売タイトルで、日本では劇場未公開作のままだった1976年作品だが、実は今から四半世紀ほど前にすでにテレビ放映されている。何を隠そう、僕はこの作品をその放映時に見ているのだ。

 …と言っても、別に威張れるようなことではない。この映画は当時、東京12チャンネル(現・テレビ東京)で、何度も何度も繰り返し放映されていたのだ。このサイトの思い出のテレビ駄菓子屋映画という特集企画で取り上げているドイツ軍用列車という作品がそれだ。

 時に「V-2ロケット強奪大作戦」という題名が付けられることもあったこの作品は、僕の見た記憶によれば特にビックリするようなこともない普通のマカロニ戦争映画だった。

 イタリア映画は不思議なことに、ドイツや日本と同盟を結んでいた「連合軍の敵」であったくせに、なぜか連合軍やパルチザンを主人公にした戦争映画をぬけぬけと作っていた。ここでマカロニ戦争映画と言っているのはその手の作品だ。アメリカ人でもないのにアメリカが舞台の西部劇をマカロニ・ウエスタンとして制作しちゃうのと同じ図々しさで、マカロニ戦争映画もどんどん作られていた。ただ僕もあまりこの手の作品に詳しくはないが、この手のジャンルにあまり良作は生まれなかったのではないだろうか。

 そして「ドイツ軍用列車」の感想文を読んでいただければお分かりのように、実はこの「イングロリアス・バスターズ」とは似ても似つかない作品でもある。共通項なのは、連合軍の荒っぽい特殊部隊がドイツ軍に戦いを挑む…という点だけ。これはリメイクというより名前を借りただけ(しかも英語題名のみ、イタリア語原題名は「Bastardi senza gloria」)ということだろう。

 しかし「イングロリアス・バスターズ」には、確実にそんなマカロニ娯楽映画からの影響が見てとれる。出自はあくまでマカロニですよ…ということを表したくて、タランティーノはこの「ドイツ軍用列車」から英語題名をいただいたのだろうか。

 ま、それはともかく…またしてもマカロニの引用ってとこで止まっているなら、正直言って毎度おなじみタランティーノ節ってことになるわけ。だが、今回は「デスプルーフ」みたいにフィルム・ノイズやフィルム切れまで再現するような重箱の隅的「マニア心の押し付け」をしていないだけでも大きく違う。延々と繰り広げられるレオーネ味のサスペンス描写にそれなりの円熟感もあって、なかなか悪くないのである。

 

意表を突く展開と「掟破り」の結末の意味

 ところが…である、先に挙げたサスペンス溢れる居酒屋「ラ・ルイジアーヌ」の場面で、実はとんでもないことが起きる

 最後、危機を何とか回避できるかと思いきや、意表を突いたところで事実が露見。アッという間に猛烈なカタストロフが起きる。その結果、物語の中で大活躍するであろうと思った人物…イギリスから派遣されたアーチー・ヒコックス中尉(ミヒャエル・ファスベンダー)と残虐な殺しで知られるヒューゴ・スティグリッツ(ティル・シュヴァイガー)の二人が、何とも呆気なく映画から退場してしまうのである。

 ヒコックス中尉は派遣前に元・映画評論家であることが延々と説明され、試写会場面でどんな活躍を見せるか注目されていた。スティグリッツは相当凶悪らしいことが強調されていたから、これまた大暴れぶりを見せてくれるものと予想されていた人物だ。この「ラ・ルイジアーヌ」の場面の直前には二人の間に緊張がはしるやりとりもあって、余談を許さない展開があるようにも思われた。そもそも、あの傑作「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」(1997)で注目されたティル・シュヴァイガーを、こんな簡単に「使い捨て」するなんて思ってもいなかった。だから二人が退場したと分かった瞬間、思わず見ていて「アッ」と言いたくなってしまうほどショックだったよ。

 そして、ここから先に何が起きるか分からなくなった

 ひょっとしたらブラピ扮するアルド・レイン中尉ですら、とんでもない事になりかねない。そんなことを考えていたら、早速、試写会の夜にブリジット(ダイアン・クルーガー)やレイン中尉はじめとする面々が、ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)にネチネチ絡まれる場面が出てきた。そしてまたもや!…キャストの中では知名度の比較的高い「スター」であるダイアン・クルーガーが、これまたビックリするほど呆気なく画面から消える羽目になる。おやおや、これは一体どうしたことか。

 この映画、途中から定石という定石をはずしまくり、先が読めない展開になっていくのだ。

 そんな映画なら他にもいくらでもあるが、「いかにも典型的ジャンル映画」という体裁を持っている本作でやるからインパクトは絶大。見ているこっちは何がどうなるか分からない…というハラハラな展開になっていくのだ。これは、単にジャンル映画の「なぞり」に終始して、それらへの懐かしみと映画知識のひけらかしに終始していた前作「デスプルーフ」とはひと味もふた味も違う。映画的ダイナミズムやストーリーテリングの緊張感を最優先にした、映画作家としての冷静な選択によるものなのだ。

 やがて、案の定ブラピも敵の手中に落ちて絶体絶命。ますます最悪の事態が現実のモノとなりそうな予感がする。このあたりの脚本のうまさはさすがタランティーノだが、彼がこういう緻密なうまさを見せるのは結構久しぶりって気がする。やっぱりここんとこ「映画ファンぶりっこ」のおイタが過ぎてたってことなんだろうか。

 そんなこんなで一体どうなるのか固唾を飲んでいると…結果的に「バスターズ」なんてロクに活躍しないではないか。これも予想外っていやあ予想外な展開。そして、さらに見ていくと…。

 な、な、な、なんと!…ヒトラー以下ナチ幹部たちが、バッタバッタと死んでいく!

 さすがに…である。第二次大戦モノというジャンルの中では、本来ヒトラー暗殺の計画は成功してはならない。歴史がそうなっているからであり、事実がそうだからだ。作品のジャンルがタイムトラベルSFででもない限り、こんな設定はあり得ない。

 実際にトム・クルーズ主演のワルキューレ(2008)でもヒトラー暗殺計画が実現しないことが観客全員分かっているのに、何とかかんとかサスペンス映画として最後まで引っ張っていく手法をとった。これなどはうまくやった方だが、当然最後にはカタルシスなどあろうはずがない。悲壮感で締めくくるほかなかったわけだ。そりゃ当然だ。歴史的事実はそうなっている。

 それなのにタランティーノは、あっけらかんとその「お約束」を破る。これは本来、映画としては完全に「掟破り」な展開なのだ。

 これにはさすがにアゼン呆然だが、タランティーノにはすでにムチャクチャをやらかした「キル・ビル」という前例が存在している。そこでは日本の旅客機では客席に刀を収納するケースがあったり、ヒットした後で相手が三歩歩いたら死に至る必殺拳があったり…マンガのような世界がまことしやかに展開した。

 つまり、観客にはもう「免疫」がある

 本来なら絶対に許されないはずなのだが、だからこの作品に限っては、これが「アリ」という気分になってくるのだ。リアルな作品でなく、一種のおとぎ話のように見えるのである。これはタランティーノしか出来ない、タランティーノだけに許された手法なのだ。

 さらに今回の作品は、復讐者であるユダヤ系フランス娘が映画館の支配人になっていたり、作戦に参加するイギリスの中尉が映画評論家であったり、最終的にすべてがナチ主催の映画試写会に収斂されていく…というように、「映画」が作品の中心に位置づけられていく。しかも、そんなことまでわざわざしなくてもいいはずなのに、わざわざ例のフランス娘はナチに向けての特別のフィルムを撮影までしている。試写会に出席したナチどもが地獄の業火に焼かれているなかを、スクリーンでは彼女が高笑いする顔が大写しになっている…という趣向だ。つまり「映画」がナチを叩きのめすという、「映画好き」タランティーノならではのお話になっている。だから同じく「映画好き」であるはずのこの映画の大半の観客は、史実と違っていようが何だろうがこの結末を許す…いや、積極的に支持したくなるのである。

 そして、そうせずにいられなかったタランティーノの意図の一端は、この映画館が最初に出てくる場面を見れば何となくうなずける。

 最初にこの映画館が画面に登場する際に、映画館の看板に掲げられた上映作品を見よ。そこにははドイツの山岳映画「死の銀嶺」が掲げられていた。ここにこの作品の題名が掲げられているのは、ドイツ占領下であることを表現しているからだが、実はそれだけではあるまい。「死の銀嶺」(1929)は、ナチとの関連を切っても切れない女優兼監督、レニ・リーフェンシュタールの主演作品なのだ。

 うちのサイトでも先日このリーフェンシュタール監督によるナチ党大会記録映画意志の勝利(1935)を取り上げたが、彼女はこの「意志の勝利」やベルリン・オリンピック記録映画「オリンピア」(1938)などを制作して、自らはさまざまな特権を得ながらナチを「映画」によって側面から支援した女だ。このリーフェンシュタールの作品に限らず、今回の「イングロリアス・バスターズ」に出てくるように、ナチは「映画」を自分たちのイメージアップのためのプロパガンダ・ツールとして十二分に活用した。

 いわば、彼らは映画を「汚した」のである

 だから、ナチスたちはここでは映画によって「復讐」され、徹底的に叩きのめされなければならない。あえて歴史を無視し、映画としての「約束事」を逸脱しても、ヒトラーたちは滅ぼされなければならないのだ。少なくともタランティーノはそう思っていたはずだし、見ている僕らもこの「掟破り」を許し…かつ、荷担しようという気になってくるのである。タランティーノ映画を好むような「映画好き」なら、映画を「汚した」連中は徹底的に叩きのめしても問題ないと思える。あるいは、歴史を多少変えても構わないと思える。なぜなら、これはまさに「映画」なのだから。

 これは安易な「ジャンル越境」などではなく、こうであらねばならない「必然」なのだ

 そして「映画への愛」をここ最近のように直接的ではなく、技巧を持って万人に分かるように伝えることができたことこそ、映画作家タランティーノの成熟を物語っているように思えるのだ。

 

タランティーノが見せる意外にマジメな「戦争観」

 想像はしていたが、ここでのブラッド・ピットは「主演」というよりアンサンブル・キャストの一員に過ぎない。

 というより、ブラピと彼が率いる「バスターズ」は、本作のタイトルになっているにも関わらずドラマの中心たり得ない。実は彼らがいなかったとしても、作戦は成功してしまうというおかしさだ。

 しかし今回のブラピは、物凄い訛りとアクの強さが印象的な強烈キャラで、なかなか楽しませてくれる。近年のブラピはジェシー・ジェームズの暗殺(2007)、ベンジャミン・バトン/数奇な人生(2008)でシリアスな顔を見せつつ、バーン・アフター・リーディング (2008)で筋肉バカを演じたり…と、役者としてなかなかイイ味を出している。今回もすこぶる快演と言っていいのではないだろうか。
 ただ、一番目立ちまくっているのは、「悪役」であるハンス・ランダ大佐に扮した
クリストフ・ヴァルツ。映画冒頭から延々と話芸を見せ、軽妙かつ凄味があって場面をさらう。こんな役者さんまったく知らなかったが、なかなか大したものだ。

 そんなわけで、意外性とサスペンスで楽しませてくれるとともに、タランティーノらしい「映画愛」にも貫かれているこの作品。しかし、人によっては「ちょっとこれは…」と抵抗を感じるかもしれない要素を含んでもいる。

 確かにナチは誰が何と言おうとナチ。絶対悪と認知されている存在だ。だから大抵の戦争映画では、問答無用にギッタンギッタンにやっつけても構わない存在になっている。今回だってその例外ではあるまい。

 しかし今回の作品の場合、ちょっとイマドキの観客に与える印象は微妙なものがあるように思える。

 「バスターズ」のモットーと言えば、ナチの頭の皮をはいで持っていくこと。それは冗談かと思えばマジで、実際に頭の皮をはぐグロテスクな場面が何回か出てくる。これを見て、誰もが「痛快」と思うかと言えば微妙だろう

 しかも劇中では、「ユダヤの熊」と異名をとる兵士がドイツ兵の頭を野球のバットでボッコボコに殴りつける場面が出てくる。確かにナチはボッコボコにやられるに値する存在なのかもしれない。ユダヤ人はここで大喝采かもしれない。しかし冷静に考えた場合、そして必ずしもユダヤ人ではない観客の目を通して見た場合、これは果たして「爽快」な場面だと言えるだろうか

 微妙なのは不必要なまでにリアルな残酷タッチだけではなく、ここでボコボコにやられるドイツ兵が絵に描いたような「悪役ヅラ」ではないことだ。むしろ善良そうであり、知的に見える。本来ならボコボコにする相手はもっと憎々しく見えなければならないのに、ここではそうは見えないのである。

 これでは「バスターズ」の面々のやり方が、「やりすぎ」に見えてしまうのではないか?

 ドイツ兵がバットで殴り殺された後、別のドイツ兵の額にナイフでカギ十字が刻まれるが、このドイツ兵役の俳優もひ弱で善良そうで憎々しく見えない。居酒屋「ラ・ルイジアーヌ」で子供が産まれたと祝杯を挙げているドイツ兵だって平凡なイイ奴ではないか。もっと言うと、後に映画館主となったユダヤ娘メラニー・ロランに迫る若いドイツ兵ツォラーですら、どう見ても善人にしか見えないのだ。ツォラー役に起用されたのは、グッバイ、レーニン!(2003)の主演者ダニエル・ブリュール。どう考えたって「悪役」に見せようという気はないだろう。

 明らかに「悪役」として登場してくるのは、ヒトラー、ゲッベルスといった「著名人」の他はランダ大佐だけ。そして直接的に映画で「悪党」としての行動が描かれるのもランダ大佐だけだ。これでは他のナチたちを無条件でギッタンギッタンにやっつければやっつけるほど、「バスターズ」の「やりすぎ」にしか見えない。終幕近く、炎上する劇場に閉じこめられたナチたちを「バスターズ」たちが機銃掃射で皆殺しにする場面があるが、これだって「映画の勝利」という大義名分があるから目立たないけれども、よくよく見ればみんな丸腰、しかも中には女たちもいる。決してスカッとする描写とは言い切れないのである。これはどういうことなんだろう。

 先にも述べたように、設定上「バスターズ」がドラマの中心から注意深くズラされていることと、これは関係があるように思われる。

 一見、「特攻大作戦」(1967)などあまたある「ならず者部隊」モノを踏襲しているだけ…のように見える「バスターズ」だが、ひとつ間違うと彼らの方が残虐に見えかねない描写になっているのは、偶然ではあり得ない。彼らはヒーローでもなければ、実は「正義」の側でもないのではないか? 

 「バスターズ」が本作の「作戦」を直接実行していないように設定されているのは、ちゃんと意味がある。彼らが作戦の中心にいてもらっては、作戦そのものが「正義の行い」に見えなくなってしまう。これでは娯楽映画としてはちょっとマズイだろう。そこで「バスターズ」を作品のメインストリームから注意深くズラしているのだ。タランティーノは必ずしも「バスターズ」たちを肯定していないのである。

 こうなってくると、「名誉なき野郎ども」という本作のタイトルも、非常に含みのある言葉に見えてくる。これは反語的な意味で使われているのではない。そのまんまの意味、「不名誉な連中」という意味で使われているのではないか。

 では、ヒーローであるはずの連合軍側、ユダヤ人側の連中が「正義」でないとはどういうことだろうか?

 その秘密は、先に挙げたダニエル・ブリュール扮する若いドイツ兵ツォラーを見ているうち、何となく分かってきたような気がする。

 先にも述べたように、「グッバイ、レーニン!」の好青年ブリュールが演じているこのドイツ兵、最初に画面に登場してきた時には決して憎々しい「ナチ」とは思えない。むしろそのフレンドリーな態度が好感さえ持てるほどで、だから逆にメラニー・ロラン扮するショシャナにつっけんどんにされている様子が、気の毒にさえ思えるほどだ。

 その後、この青年が連合軍兵士を何百人も皆殺しにしたこと、それによって「英雄」となっていることが明かされるが、その時ですらドイツ兵ツォラーはそれほどイメージを落としていない。むしろ「あっち」側にいるとこれが何を意味して、聞き手にとってどう聞こえるかなんてことは分からなくなるのだなぁ…と同情的に思えてしまうかもしれない。

 しかし、そんなツォラーが「正体見たり」の状態をさらす瞬間が、映画の終盤にやってくる。

 試写会の途中で客席を抜け出したツォラーは、コッソリと映写室を訪れる。ツォラーは惚れた娘ショシャナと「よろしくやりたい」気持ちでやって来たわけだが、当然のごとく「作戦進行中」のショシャナは嬉しいわけがない。思い切り素っ気ない扱いをされるが、そこでツォラーはいきなり豹変。「黙って聞いてりゃいい気になりやがって」的な態度を露骨に出してくる。自らが「優位」に立っていることを前面に出して、傲慢な本性をモロにさらけ出すのである。

 あの好感度の高かった彼ですら、結局他のナチどもと同じだった

 ただし、これについては過去ドイツとともに「連合国の敵」側だった我々ならば、何となく分かる気がする。むしろツォラーはあの好青年ぶりこそが本来の姿だったのではないか。彼を無神経にも傲慢にもしたのが、「戦争」というシチュエーションだった。

 戦争が彼に「ナチという役」を与えたのである。

 一方で「正義」側に立って暴虐の限りを尽くす「バスターズ」は果たして善なのか…という疑問がすでにあり、こちら側には悪のようで善のようでやっぱり悪だった…というドイツ兵がいる。どっちもどっち、目クソ鼻クソ(笑)の類。こうなってくると、何が善で何が悪なのかが分からない

 というより、すべてが「悪」ではないかと思えてくる。

 「大義名分」を得て嬉々としてナチを殺しまくる「バスターズ」の彼方に、ユダヤ人国家イスラエルが今日に至るまで何をやってきたかということまでが透けて見える…と言ってしまうのはいささか乱暴で強引な話かもしれないが、正直言って僕はそれに近い感慨を抱いたことは確かだ。戦争だの民族浄化だのなんてことは、どんな旗の下でやったところで似たようなモノなのだ。

 だから、どっちが善どっちが悪と言うより、すべてが「悪」だ。なぜなら、それが「戦争」というものだから。戦争という状況が、人に「悪」という役を与える。「戦争」こそが究極の「絶対悪」なのだ。

  戦争に関わるとき、人はみな「不名誉な連中」となってしまうのである。

 だからこの作品を見終えた時には、たっぷり楽しんだと思いながらも複雑な後味が残る。何となく割り切れないものが残るのだ。それって、オチャラけながらオタク的なジャンル映画への偏愛に耽っているように見えて、実は意外にマジメな「戦争観」をさりげなく提示しているのではないか。

 タランティーノの明らかな成熟は、こんな点にも確実に見えているのである。

 

 

 

 

 

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