「脳内ニューヨーク」

  Synecdoche New York

 (2009/11/23)


  

見る前の予想

 この作品のことは劇場チラシで知った。

 マルコヴィッチの穴(1999)、アダプテーション(2002)、エターナル・サンシャイン(2004)…などの脚本家チャーリー・カウフマンの監督デビュー作。で、このタイトルならば、またまた奇想天外かつ複雑な構成の作品だと察しがつく。

 そもそも「脳内ニューヨーク」ってタイトルがイケている。

 しかも主演がアブラの乗りきったフィリップ・シーモア・ホフマンと来れば、見ずにはいられない。大体、「脳内ニューヨーク」ってシロモノは、どう映像化されているんだろう?

 

あらすじ

 ケイデン(フィリップ・シーモア・ホフマン)は画家の妻アデル(キャスリン・キーナー)、幼い娘オリーブ(セイディ・ゴールドスタイン)と暮らす劇作家。新作の稽古に明け暮れる多忙な日々のなか、視力に異常が起きたり神経に問題が出たり、歯周病に悩まされたりと近頃何かと体調不良をおぼえている

 毎日のように電話してくる妻の友人マリア(ジェニファー・ジェーソン・リー)のズケズケとした態度に辟易したり、ケイデンを外からじっと観察しているような人影を見付けて動揺したりしながら流れていく日々。それでもグチをアレコレと妻にこぼしつつ、平々凡々と日常は過ぎていくように思われた。

 それが少しずつギスギスとしたものを感じさせ始めたのは、いつの頃からだろう。

 女性セラピスト(ホープ・デイビス)の前で、妻からあからさまに自分への失望を聞かされた時だろうか。それとも舞台の初日に行けないとアデルに言われた時だろうか。舞台初日の翌朝帰宅してみたら、アデルがマリアとツルんでいたのを発見した時だろうか。ともかく、それは突然に訪れた。アデルの個展に合わせて一家でベルリンに行くはずだったのに、なぜかケイデンはそこからハズされた。

 つまり、ケイデンは妻に逃げられたのだ。

 体調はますますおかしくなり、カラダに妙な湿疹が出来はじめる。追い詰められたケイデンを慰めるのは、何かと彼に好意を持って近付いてくれた劇場のチケット係ヘイゼル(サマンサ・モートン)だけ。しかしそんな彼女の熱心なアプローチにも関わらず、アデルへの未練を断ちがたいケイデンは不甲斐ない態度に終始。結局、二人の関係も不発に終わる

 絶え間ないカラダの不調と孤独に苦しむケイデンだったが、突然そんな彼に「朗報」が!

 それは「マッカーサー・フェロー賞」の受賞である。卓抜した才能の持ち主に与えられる、この賞の賞金は莫大なもの。ケイデンはこの賞金を使って、未だかつてなかったほどのスケールの作品に取り組もうと思い立つ。それは、さまざまな人々の人生がリアルに交錯する壮大な物語だ。

 それを実現するためには、数多くのキャストが要る、さらに壮大なドラマを再現するための巨大な「舞台」が要る。ニューヨークの一角に建っていた巨大な廃倉庫が、それにはうってつけだった。

 かくして意欲満々のケイデンは勢揃いしたキャストの前で、その野心的な構想をブチ挙げるのだった。いわく、舞台の中で実人生を再現し、生きなければならない。そんな彼の姿に大いに共感した出演女優クレア(ミシェル・ウィリアムズ)は、いつしかケイデンと深い仲になり、ついには妻となって娘ができる。

 しかしケイデンの心は癒されなかった。アデルやオリーブへの想い、さらにはヘイゼルへの想いは断ちがたかった。

 失業したヘイゼルをこの舞台の助手に起用してからは、さらにそんな混乱が増した。「実人生」の再現をめざすこの舞台の方向性はエスカレートする一方で、舞台の中にもう一人のケイデンであるサミー(トム・ヌーナン)、もう一人のヘイゼルであるタミー(エミリー・ワトソン)が登場。舞台のセットも本格的になるにつれて、ホンモノの街の様相を呈してくる。

 出演者は十数年も続けられるこの舞台のリハーサルにいいかげん焦りを覚え始めるが、ケイデンの混乱は止まらない。やがてこの「街」の中にもう一つの「倉庫」が出現するに至って…。

 

見た後での感想

 あの面白くて共感できた「アダプテーション」、「エターナル・サンシャイン」の脚本家の最新作、しかも初監督作とあって、期待で頭がパンパンになりそうな状態でスクリーンと対峙。今回は主人公が劇作家という設定に、「クリエイターが主人公の話にハズシなし」という僕のジンクスを思い出す。こりゃあ絶対に面白くなるしかないという気持ちでワクワクしていたのだが…。

 どうもヘンだ。

 な〜んとなく不愉快な主人公の佇まいや言動、な〜んとなくうまくいってない家族間の空気にイヤ〜な予感が漂ってくる。グチュグチュとグチばかり言っている主人公は皮膚病やら歯周病になり、視覚的にも不快さを感じさせるキャラクターとなっていく。案の定、妻子は彼のもとを去ってしまう。

 そうなると、その不快さはさらにエスカレート。彼に好意を抱く女性に対しても不快かつ無神経な態度をとり続け、しかも自分はデリケートかつ可哀相な人間だとばかり一方的「被害者」意識に凝り固まってますますグチュグチュ。最初はこの主人公を理解し共感すべきなんだろうなと思って見ていたが、あまりの不快さにだんだんイヤ気がさしてきた

 しかも壮大な舞台を始めるにあたっての「所信表明演説」みたいなコメントをあっちこっちで撒き散らすのだが、それがどれもこれも頭でっかちで上滑りで、田舎の映研のガキどもだって言わないような青臭いセリフばかり。劇中でサマンサ・モートン扮する女も相手にしていない描写が出てくるが、理屈がスゴい割には何言ってるのか意味が全然分からない。内容が空疎。

 何より困っちゃうのは、こんな分かっちゃいない頭でっかちな人物が、どうやらすごく自分は賢いと思ってるフシがあることである。う〜ん、これって作り手の自画像なんだろうか。だとしたら、エライ勘違い男で頭が痛くなる。

 しかも、稽古が始まった舞台そのものも「実人生の再現」とやらで、現実とゴチャゴチャになって何が何だか分からない。

 ここまで来て、僕は今さらながらに気づいた。確かに「アダプテーション」、「エターナル・サンシャイン」の2本は大好きだったけど、そういや僕はこの脚本家が初めて名を挙げた「マルコヴィッチの穴」を見たとき、えらく当惑したんだっけ。いや、当惑したなんて表現は控えめ過ぎる。本当はワケが分からなかったし、実は全然面白いとも思わなかったんじゃなかったっけ。

 

「マルコヴィッチの穴」を想起させる「あの感じ」

 「マルコヴィッチの穴」って傑作ってことになっているし、世評でケナしている人はいない。

 実際、僕もすごくユニークな作品であることは認めるし、それが単なる思いつきのレベルで作られているわけではないということも分かる。しかし正直言ってあの映画が分かるかと言えば、ぶっちゃけ言って分からない。だから面白くもないし共感もしない。いかにも自分が楽しみそうな映画だと思って見に行ったから、見て愕然としたものだった。

 しかももっと愕然としたのは、世間であの映画にネガティブな評価を与えている人がいないこと。分からないって人も全然いないのだ。

 でも、本当にそうなのか? みんなアレを分かって見ているの? みんなのホメているコメントを読んでみても、具体的にはどこが良かったのかちっとも分からない(笑)。これって本当に良かったのかい。ホントにホントに聞きたいんだけど、みんな本当にあの映画を分かったし、面白いと思ってるのかい(笑)。

 結局あの映画の公開当時(そして今に至っても)、あの映画をケナしたり「分からない」と明言するのは、なかなか出来ないムードってのはあった。ハッキリ言って「バカ扱い」されそうな雰囲気があったのでね。だけど、やっぱりピンと来ないものは来ないよ。

 そうだそうだ、今回もあの「マルコヴィッチの穴」と同じモノを感じる。実は今回の「脳内ニューヨーク」もそれととても似ていて、何しろ劇場パンフレットの中のレビューなどにも、「観客の脳のキャパシティを増大させる(笑)」云々などと書いてあったりする。どこまで大げさなんだ。ってことは、オレの脳のキャパシティが狭いのか。単にそれぞれの人の脳のセンサーに引っかかって来る来ないの違いではないのか。

 こういう「コレが分からなければバカ」的なコメントが発せられる映画に限って、大体がロクな映画じゃないんじゃないか。それを粉飾するために、「コレが分からなければバカ」とか「非国民」とか言うんじゃないか。後ろめたいモノを持っている奴のやることは、大概いつも同じだからねぇ。そんなあたりからして、何だか胡散臭いんだよなあ。

 そもそも劇中劇というか実人生を舞台で再現し始め、倉庫内にもう一つの実世界をつくるってお話自体が分からない…ってだけなら、僕もここまでイヤな感じはしないだろう。だから、イヤな感じの正体はそれじゃない。冒頭からどんどんエスカレートする主人公の不快さ、グチュグチュ未練たらしくてグチっぽくて自分には敏感なくせに他人には無神経なところ、さらに舞台を始めるにあたっての空疎な理屈っぽさ…に辟易させられたから、僕はイヤ〜な気分になったに違いない。

 立派で高級で知的で、しかも「観客の脳のキャパシティを増大させる」作品なのかもしれないが、単純に僕は好きになれないなぁ。これを読んでいるみなさんはどうせ、「こいつはジェリー・ブラッカイマーの映画ぐらいしか理解できなくなったアホ」としか思わないだろうけど(笑)、自分を偽らずホンネを言えばこれが正直な感想だ。よく分からないしつまらない。不快だし共感できない。

 そもそも作り手が「オレって利口だろ? ついて来れない奴はバカ」って言いたいだけの作品にしか思えないのだ。チャーリー・カウフマンって男自体が好きになれないんだよね。僕にとっては、ここが致命的だ。

 

一見「リアル」に見えることこそ

 そもそも燃えている家を不動産屋から買って、住んでいる間も家が燃え続けている…なんて奇想天外な設定(これ自体は卓抜した発想だと思う)があちこちに散見される映画なんだから、いちいち目くじら立ててアレコレ言うつもりはない。

 それでもヤケに理屈が勝ってる作品だなぁ…と、いささかシラけ始めて見ていた僕は、途中の主人公のコメントに、さらにその意を強くしてしまった。

 「そうだ、実人生に脇役やエキストラはいない、その人にとって誰もが自分は主役なのだ…」

 当たり前なんである。

 当たり前といえばあまりに当たり前なセリフを今さら言われて、僕のシラケはますますエスカレート。何を寝言いってるんだよと言いたくもなった。手垢のつきまくった陳腐なメッセージ。分かり切ってるだろうそんなことは。今さら大発見みたいに言われても苦笑するだけだ。あんな理屈っぽい大演説ぶったあげく、やっと分かったのがこんなことかよ。

 しかし、待てよ?

 これに近い気持ちは、確かに僕も最近どこかで抱いた感じがある。そうだ、確かにある。「分かっているようで分かっていない」…そんなことが結構あったよなと改めて思わされる。

 そんな瞬間が、年齢を経ていくと結構あるモノなのだ。

 まだ社会に出るか出ないかの頃、世間のオトナたちがみんなやりたい仕事に就いているわけではないし、仕事を面白いと思っているわけでもないとは聞いていた。だから理想は理想としてあっても、大半はやりたくもない仕事を黙々とやるのが「現実的選択」であると思っていた。そして不満は私生活で発散すればいいと思っていた。そんなふうにモノ分かりよく、自分は「分かっているつもり」になっていた。大体、そっちの方がリアルで本当のことに思えたものだ。「やりたい仕事など就けるわけもない」と安易に仕事を決めた。

 しかし実際には、そんな「現実的選択」で手痛いしっぺ返しをくらう羽目になる。

 本当にやってみて初めて分かるが、人間そうそう興味もないし面白みもないし、やりたくもない仕事で身を立てていけるもんじゃない。それではちゃんと仕事をやり遂げられない。そもそも長くは続かない。「やりたい仕事、面白みのある仕事に就けるほど人生甘くない」というセリフは一見リアルに見えるが、実際には「やりたくもない仕事に就いて、やっていけるほど人生は甘くない」というのが正しいのである。ついでに言えば「仕事そのもの」がそれほど甘くない。自分としては辛口で現実的な選択をしたつもりで、むしろまったく逆に甘っちょろいことを考えていたのである。僕は一種の「耳年増」だったのだ。

 あるいは、女と付き合っていくことでも同じことがあった。まったく自分にピッタリの女、自分が本気で求めている女と出会うことなどマレだし、実際にそんなものが存在しているかどうかも怪しい。だから多少のことは目をつぶり、手の届く範囲、ソコソコで手を打つべきだ…などと、若い頃から姑息なことを考えていた。賢明なみなさんなら噴飯モノの発想だろうが、当時の頭でっかちで若かった僕はそう思っていたのだ。なぜそんな歪んだ考えを持ったか分からないが、それが「現実的選択」だと思っていた。

 しかし、実際にはそんな気持ちで女との仲が続くわけがない。その程度の気持ちで女を愛せるわけもないし、その程度の気持ちでは女のために何かを犠牲にする気にもなれない。だから、ちょっとしたことでも苛立つ。やってられない。何より、そんなこちらの気持ちをすぐに女に見透かされる。「こいつは誰よりも自分を大事にしてくれる男ではない」と、すぐにバレてしまうのだ。これではうまくいくはずがない。相手に対しても失礼だ。「自分が本気で求めている女と出会って、その女と付き合えるほど人生甘くない」と思っていたのが大きな間違いで、「自分が求めてもいない女と付き合っていけるほど、人生は甘くない」というのが正しかったのだ。一体何であんなバカな考えを「現実的選択」だと思っていたのだろう。今考えてみればバカげた話だ。しかし、その時にはそんな間違った考えの方が、リアルで「もっともらしく」見えたのである。

 さらに、この件については続きがある。

 「自分が求めてもいない女と付き合っていけるほど、人生は甘くない」という「真理」を悟ったつもりの僕は、その後まさに「理想の女」と思える女と出会った。ここで会ったが百年目。これぞ求めていた女。その女を振り向かせることに成功した時、これぞ人生最高の瞬間と思ったものだ。

 しかし、それはすぐに悪夢に転じた

 「理想の女」とはあくまで僕の、それこそ「脳内恋人」だった。だから実体がない。メシも食わなければ屁もしない。ある意味でフィクションで実体は欠落していた。

 そんな実体部分まで備えてみたとき、それは本当に「理想」たり得るだろうか

 そしてもっと大事なことがある。相手が「理想」だとして、その女と実際に対峙する僕の方は、自分から見て「理想」の姿になった自分だろうか? いやいや、そんなことはあるまい。フィクションではないリアルの自分は、とても「理想」たり得ない。その時点で、すでに二人の関係に無理がなくないか

 だから彼女との関係は、アッという間に悪夢に一直線。破滅へと突っ走っていった。人生破綻の一歩手前まで落っこちてしまった。元々がそんな「理想の女」とは、半日と一緒にいられない。それ以上一緒にいると息が詰まって窒息死しそうだった。まるで無菌室にいるようなモノだ。しかもその「理想の女」自体が、実際には無菌状態かと言えばそうではなかった。

 悟ったはずの「真理」には「二重底」があった。今度こそ僕は別な意味でのリアルを考えるべきだったのだ。「理想をそのまま持ち込めるほど、人生は甘くない」と思うべきだった。

 それって誰にも自明なことで、決して目新しいことではあるまい。これを読んでいるみなさんも、何でそんなことが分からなかったのだと思われるかもしれない。

 しかしその「分かり切ったこと」が、意外に分からないものなのだ。

 分かったつもりにはなれる。しかし本当に分かるためには、そこを一回通過しなくてはならない。でなければ、それは単に「そういう目に遭う機会に遭遇しなかった幸運な人」…というだけのことに過ぎない。

 耳にタコで手垢がつきまくった凡庸な教訓を、リアリティがないと退けるのもいい。だが、本当にその意味を実感を伴って理解するのは、かなり難しいことなのだ。

 そして一方で世の中には、または人生には、「一見もっともらしい」こと、「リアルに見える」ことが、溢れかえっている。人は得てしてそっちの間違った選択を、「現実的」と錯覚して選んでしまう。

 それこそ、脳内「真理」というかエア「現実的選択」(笑)とでも言おうか、人は結構そんな間違った判断をしてしまうものなのだ。

 そうでなければ、戦前の日本にも政治・経済その他で優秀な人材がたくさんいたにも関わらず、みんながみんな間違っていると自明の「戦争」という選択をした理由が分からない。当時の人々には、それが「現実的選択」で「リアル」だと思えたのだろう。単なる「まやかし」だったのに、そっちの方がホンモノに見えたのだ。このように、「リアル」に見えるものこそクセモノなのである。

 しかしそれを理解するには、自分の状況を客観視できるための「場」とそれなりの「時間」が必要だ

 この「脳内ニューヨーク」を見ていて、僕はふとそんなことを考えていた。この映画の中盤から出てくる、倉庫内の虚構の「街」、「実人生」は、そんなことの比喩ではないか…と、だんだん思えてきたのだ。そう思えば、この映画の内容が分からないながらも、何となく納得できないでもない。

 まぁ、これがこの映画の正しい解釈かどうかは分からない。というか、全然違うんだろうな。でも、映画冒頭部分での「自分じゃ全部分かってるつもりに見えていて、実は分かっちゃいない頭でっかちさ」は、確かにそんなものを思わせる。この映画を正確に把握できた人にとってはバカげた解釈なんだろうが、少なくとも僕にはそう思えた。それに気づいたとたん、この映画は僕にとって価値あるモノに変わったのだ。

 もう一度繰り返すと、そんな「本当のこと」と「一見もっともらしいこと」の境界線を知るまでには、長い時間と多くの犠牲が必要だ。それでも、例え一生かかっても、それは知る価値があるモノなのだ。

 今なら「マルコヴィッチの穴」もまったく別の見え方がする気がする。さぁ、果たしてどうなんだろう?

 

 

 

 

 

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