「グッド・バッド・ウィアード」

  The Good, the Bad and the Weird

 (2009/10/26)


  

見る前の予想

 この映画のことは、うちのサイトの掲示板に来てくれるお客さんから教えてもらった。韓国映画きっての3大スターが、どう見てもマカロニ・ウエスタンとしか思えない世界で大暴れ。そんな予告編ムービーを見たとたん、僕の血が騒いだことは言うまでもない。

 僕は元々、懐かしい西部劇の世界に親しんで映画を好きになっていったクチ。僕が映画に目覚めた頃はとっくにスクリーンから大西部は消え去っていたけれど、テレビの洋画劇場ではまだまだガンマンたちが大暴れしていたのだ。

 そんな僕だから、ハリウッドが何年に一回かの割合でバカの一つ覚えのように唱える「西部劇復活」というかけ声にも素直に反応してしまうし、アメリカ以外の映画人が過去のハリウッドへの憧れを込めて創り上げて、大抵は見事に失敗してしまう「なんちゃって西部劇」もキライになれない。

 正直言って凋落著しい韓国映画ではあるけれど、イ・ビョンホン、チョン・ウソン、ソン・ガンホというエース級のスター3人を投入してこの題材だったら、これは見るしかないだろう。そうなれば、僕も元々は韓国映画好きだ。カネや太鼓で歓迎したくもなる。

 唯一ちょっとイヤな予感がするといえば、その予告編ムービーでサンタ・エスメラルダの「悲しき願い」がBGMとしてガンガン流れていたこと。「悲しき願い」といえば、あのタランティーノのキル・ビルVol.1(2003)で久々に取り上げられ、話題になった曲だ。それって同じくタランティーノの「パルプ・フィクション」(1994)冒頭で流されたサーフィン・ロックみたいな「発掘」曲を、リュック・ベッソンが「TAXI」(1996)で「まんま」パクった時のような恥ずかしさがあるではないか。中学生の作った自主制作映画じゃないんだから、こういうのはやめにしてくれないだろうか。

 不安があるとすれば、そんなところか。いや、それだけか?

 

あらすじ

 1930年代の日本軍に制圧された中国・満州

 訳ありの「大物」キム・パンジュ(ソン・ヨンチャン)は、秘密の地図を使者に託して日本軍の上層部に送った。しかし返す刀で盗賊団のボスであるパク・チャンイ(イ・ビョンホン)を呼び寄せ、日本軍に送ったその地図を秘密裏に奪い返すように命令を下す。そこはそれ、「腹にイチモツ」の大物ならではの企みだったわけだ。

 極悪非道で冷血の権化のようなパク・チャンイは、手下たちと共に馬を駆りに駆る。そしてパク・チャンイは、荒野のど真ん中を突っ走る大陸横断鉄道の、線路のまっただ中に仁王立ちだ。これに驚いた運転手は列車を急停車。そこに手下たちがなだれ込んでくるからたまらない。たちまち列車内は阿鼻叫喚。悪党どものやりたい放題となる。

 ところがその一足先に、列車内で不穏な動きをする男が一人。その変な男ユン・テグ(ソン・ガンホ)もまた、列車で盗みを働く泥棒だった。ただしユン・テグの場合はあくまで単独犯。パク・チャンイたちの起こした騒動より前に、「一仕事」やろうと先頭車両へ忍び込んだ。

 そこは日本軍の幹部が陣取る特別車両。どうも訳アリのお宝の臭いを嗅ぎつけたユン・テグは、大立ち回りのあげくにその「お宝」…秘密の地図にありついた。ちょうどそんな折りもおり、ちょうどパク・チャンイが大騒動を引き起こしたため、ユン・テグも大いに慌てることになったわけだ。

 ところがその列車には、偶然にもう一人、ある意味で厄介な男が乗り込んでいた。その男は寡黙でやたら腕の立つ男パク・ドウォン(チョン・ウソン)。無駄な殺生はしたくはないし、下らぬ争いに関わりたくもない。しかし、かかってくる火の粉は払わねばならぬ。おまけにパク・チャンイ一味の行状の悪さは目に余る。そこでパク・ドウォンは、黙々とケチな悪党を倒していく。

 こうして運命のいたずらで出会った3人の男は、たまたま行きがかり上、銃火を交えることになった。

 結果、ユン・テグは「お宝」をつかんで嬉々として荒野を走り去り、それを仕留めようと銃を構えるパク・チャンイは、行きがかり上パク・ドウォンとドンパチやり合うことになり、ユン・テグを取り逃がしてしまうハメになる。

 お宝を持ち帰ったユン・テグは、弟分のマンギル(リュ・スンス)と一緒に地図を紐解き、これが本当に価値のある「お宝」の隠し場所を描いた地図であると知る。

 こりゃツイてた! 一攫千金だ!

 狂喜乱舞するユン・テグとマンギルだったが、実は地図を追っていたパク・チャンイも、そう簡単にお宝を諦めるような男ではなかった。ましてまんまと出し抜かれるなんざ絶対に我慢できないし、されたことは倍返しがモットーの冷血漢。ユン・テグたちをこのまま見逃してくれるはずもなかった。

 しかも寡黙な男パク・ドウォンも、決してただ者ではない。この男は腕利きの賞金稼ぎで、カネになる無法者の首を放っておくような輩ではなかった。

 かくして3人の男たちは、追いつ追われつのデッドヒートを繰り広げていくのだったが…。

 

世界の「西部劇もどき」映画の潮流

 ハッキリ言って、韓国製のウエスタン。こういう作品はゲテモノ映画といわれても仕方ないのだが、僕はどうしてもキライになれない。っていうのは、映画好きなら…そして非ハリウッドの映画人なら、きっと一度はやってみたい題材だと思えるから。

 何しろ世界のどの国にもウエスタンもどきの映画って必ずある。

 そのあたりは、うちのサイトで以前取り上げた荒野のウエスタン劇場という特集を見ていただきたいが、今では堂々と西部劇の一潮流となったマカロニ・ウエスタンも、元はといえばイタリア製バッタもんウエスタン。その幕開けとなった「荒野の用心棒」(1964)の元ネタは、ご存知黒澤明「用心棒」(1961)だ。黒澤のジョン・フォードへの傾倒がウエスタンもどきの時代劇を創り上げたことは、有名すぎるくらい有名な話だ。

 中国には「双旗鎮刀客」(1990)という西部劇テイストの作品があったが、これには黒澤の「七人の侍」(1954)の影響もあったようにも思える。マカロニ・ウエスタンの影響は本家ハリウッドの西部劇にも現れて、サム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」(1969)みたいな作品が登場したが、そもそもペキンパー映画で血がブーッと噴き出すあたりは黒澤椿三十郎(1962)の影響でもある。そういえば香港ショウ・ブラザースにはチャン・チェ監督の英雄十三傑(1970)なる作品があったが、これは何となく「七人の侍」やらマカロニ・ウエスタンの残酷味やらの影響を受けたものだった。…ってなわけで、どうせこれを読んでいるみなさんは「あいつまたぞろクロサワを引き合いに出しやがった」と笑っていることだろうが、ここに黒澤が出てくるのは必然で決して無理な話をしているわけではない。

 そして巨匠・黒澤からしてウエスタンもどきをつくっているわが日本では、東映で高倉健主演の「荒野の渡世人」(1968)、日活で和田浩治主演の「俺の故郷は大西部」(1960)なる「もどき」作品もつくっている。ただしこれらの作品は黒澤作品のようにちゃんと「消化」されたものではなく、特に後者などはかなりフザけたモノだったようだ。

 もうひとつついでにいえば、旧ソ連のニキータ・ミハルコフにも光と影のバラード(1974)というウエスタンもどきの作品がある。コレは冒頭に列車強盗が出てきて音楽もエンニオ・モリコーネ風というあたり、どう考えても「狙ってる」感がアリアリだ。もっとも旧ソ連のモスフィルムには、ウエスタンもどきどころか本当にアメリカ西部を舞台にした「西部劇」が冷戦時代から存在していたらしいので、これだってあながち不思議なことではなかったのかもしれない。

 さらにマカロニ・ウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネ「ウエスタン」(1968)には、何と脚本にベルナルド・ベルトルッチダリオ・アルジェントが参加しているというから驚きだ。つまり、よほどのアート系のへそ曲がりでもなければ(笑)、映画作家というものはみんな一度は「西部劇」とやらをやってみたいと思うものらしいのだ。

 ところがこと韓国映画については、この「西部劇もどき」ジャンルの作品を聞いたことがない。怪獣映画ですらあるというのに、西部劇もどき作品なんて知らない。歴史上のすべての韓国映画を見たわけでもないので偉そうなことは言えないが、確かにそんな作品聞いたことがないのである。

 ところがこの映画のパンフレットを読んでみたら、かつて1970年代に韓国映画にも「鎖を断て」という戦前の満州を舞台にした「西部劇もどき」作品が存在していて、今回の作品はそこからヒントをもらったとのこと。そんな映画があったとは不覚だった。と、同時にぜひ見たいと思わされたが、それはまた別の話。

 そんなわけで、今回のこの作品には期待するところ大。確かに今では下火になって冴えないジャンルではあるが、僕も昔の映画への郷愁から、西部劇にはちょっと惹かれるものがある。久々に新作西部劇が公開されると聞けば、見てみたいなと思うのだ。

 ところが僕がいよいよ見ようと思った時点では、この映画に対する映画ファンたちからの評価は芳しいとは言い難いものだった。内容空疎とか冗漫とか、酷評の嵐と言ってもいい。これは果たしてどうしたものだろうか。僕は不安を押し隠しながらこの映画を見に行ったわけだ。

 

見た後での感想

 映画が始まってすぐに、広々とした荒野に列車が走る。そこにイ・ビョンホン率いる盗賊団が襲いかかるという「お約束」の設定だ。

 中国ロケした甲斐あって、このだだっ広い荒野の「絵」は圧倒的で、シネマスコープ・サイズの大画面によく似合う。そんな「広さ」を大画面に余すところなく収めたかと思えば、その一方でイ・ビョンホンら登場人物の顔を画面一杯にどアップで収める。この画面づくりの両極端、ミクロとマクロの振幅の激しさ。このあたりで、僕はすっかり嬉しくなってしまった。

 やってるやってる。

 この大画面の両極端な使い方というのは、「荒野の用心棒」をつくったマカロニ・ウエスタンの祖、セルジオ・レオーネの意匠なのだ。

 まぁ、そんなことは見る前から分かっていたといえば分かっていた。「The Good, the Bad and the Weird」という英語題からして、レオーネ作品「続・夕陽のガンマン」(1966)の英語題「The Good, the Bad and the Ugly」のイタダキだ。そこに照準を狙ってくるのは最初から明らかだったわけだ。

 それでも、この横長大画面を使っての「やってますよ」と言わんばかりのハッタリ演出には、個人的にうれしさを隠しきれなかった。

 しかもこの映画では、もうひとつのレオーネ・カメラテクニックをチャッカリと頂戴していた。それはカメラの長回し。溝口健二などの長回しとはまたひと味違って、どか〜んと構えた大画面のカメラを、ど〜んと三脚でブッ立てて延々長回し。僕ら観客がシビレを切らしてしまうほど、じ〜〜〜〜〜っと忍耐強く回すのだ。

 しかしそこでは意味ありげな登場人物が、寡黙に意味ありげに突っ立っていたりする。時折、先に述べたように顔のどアップが挟まれ、意味ありげな視線や意味ありげな表情がデカく映しだされるから、どうしたって「何かが起きそうだ」という胸騒ぎが起きてくる。ところがいつまで待っても目を凝らしても、カメラは退いたまんまで誰も動かない、何も起きない。

 じっと待って待たされて、それでもカメラは微動だにせず、ようやく観客がしびれを切らした頃になって、「勝負」は一気に決まる。

 これが、セルジオ・レオーネの演出の真骨頂だ。延々とカメラを回して、観客がじれるまで待たせる。このあたりの長回しの呼吸は、僕が書いたミスター・ノーボディ(1974)の感想文(この作品はセルジオ・レオーネの監督作品ではないいわゆる「プレゼンツ」作品だが、限りなく制作の主導権を握っていたといわれる)の冒頭部分を読んでいただければお分かりいただけるかもしれない。おそらくこのテクニックは、「椿三十郎」終盤の三船敏郎VS仲代達矢の対決場面にあるのだろう。あの緊張感みなぎる微動だにしない長回しが、発想の原点にはあるはずだ。

 この映画ではそこまでやらかしてはいないけれど、そこそこ「原典」が分かるようにコピーしてくれているので、僕はこれまたうれしくなった。こいつら「アレ」もやろうとしてくれているのか。気分出してくれてるなぁ。

 そんなこんなで、すっかり冒頭からゴキゲンになった僕だったが、列車強盗のくだりが終わったあたりで、実は「ある疑念」が脳裏をよぎったのだった。

 ひょっとしてこの映画の評判が悪い理由は、まさに僕が喜んでいた「要素」にこそあるんじゃないだろうか?

 

風呂敷が畳めないキム・ジウンの弱点

 どか〜んと退いたカメラワークと対照的な、意味ありげな「どアップ」の多用。そしてひたすら延々と長回し。それはマカロニ・ウエスタンが好きで、最近でもレオーネ作品のDVDを買ったりする僕のような人間なら、「やってるやってる」とうれしくなるかもしれない。しかし、何の前情報もなしにコレだけ見せられたら、果たして観客としてはどう思うだろうか。

 やたら思わせぶりで、やたら冗漫・冗長だと思うのではないか。

 実際にこのテクニックをセルジオ・レオーネが自作で使った時も、長ったらしいとか大げさだとか言われて必ずしも好評ばかりではなかったと言われる。「本家」ですらこれだったのだから、本家抜きにこのテクニックだけ見せられたら、「いかがなものか」と思われてしまっても仕方ないのではないか。

 僕がふと思い出してしまったのは、今でこそ大絶賛のグリーン・デスティニー(2000)を試写会で見た時のこと。ミシェル・ヨーがふわりふわありと空に舞い上がるや、観客から笑い声があがるではないか。僕はたまたま過去の香港の剣劇映画などを見ていたから「あれだな」と理解したものの、そういうモノにまったく触れていない人々にとっては、アレを最初に見せられた時は理解を超えていたのではないだろうか。少なくとも、「グリーン・デスティニー」をファンタジーではなく時代劇ととらえるなら、アレはどう見たって「掟破り」としか思えない。

 西部劇が廃れてから早や何十年か。その中でもマカロニ・ウエスタンは、「亜流」であったが故に風化も早かった。ましてセルジオ・レオーネは寡作家で知られ、今となってはその作品に触れている人もわずかだ。DVDででも見たいと思う人は、かなり限られた人々だろう。

 それで「あれ」をやられたって、分かれというのが無理というものだ。

 しかもそれらのテクニックは、映画的に成功しているわけでもなければ、必然性があって使われているわけでもない。つまり「これ」は「アレ」ですよ…という約束事を知っている観客だけに、「目配せ」として置かれたものでしかない。だから知っている者にとっては「やってるやってる」と嬉しくなる仕掛けだが、そうでない人にとってはただただ退屈。ダラダラともったいつけて長いだけということになってしまう。

 これは映画として、決して健全なことではないだろう。

 なるほどこの映画が、あれほどみんなに不評だったわけも分かる。一部の人間だけがヒソヒソとささやき合って喜んでいるような、どこか不健康な自己満足的映画だからだ。「分かる奴だけ分かればいい」という、何ともイヤ〜な特権階級意識もチラつく。つまりは「映画マニア」「映画ファン」のための、「サロン」的なお楽しみ映画というわけだ。残念ながら、僕もその罠にどっぷりハマってしまったというわけだろう。

 予告編でサンタ・エスメラルダの「悲しき願い」が流れたことも、故なきことではあるまい。当然この映画の原点には「キル・ビル」があって、そこでカンフー映画や東映アクション映画とともにマカロニ・ウエスタンにもオマージュが捧げられたことが、この映画の制作動機になったはずだ。サンタ・エスメラルダの「悲しき願い」を流したのは、そんな「キル・ビル」とタランティーノへの単純素朴な賛同を表明したかったんだろう。

 そしてタランティーノがよくやる「これ知ってだろ?」「オマエも好きだよな?」的引用は、ヘタをすると「知ってる奴だけ楽しむ」不健康さと背中合わせの状態になりかねない。それをそうさせないのはタランティーノが原典を知らない観客をも楽しませる「芸」を持っているからで、これはそうそう誰にも真似ができることじゃない。現に当のタランティーノでさえ、デス・プルーフ in グラインドハウス(2007)あたりでは、さすがに平均台から落っこちてしまった感が強い。確かに楽しいんだけど、コレだけでは映画本来の楽しさとは言えないのだ。

 実は僕は前述のタランティーノの「デス・プルーフ in グラインドハウス」も楽しんだクチだし、今回の作品も結構楽しんでしまった。だから偉そうなことは言えないが、実はそれって映画の出来とは違うところにあるような気がしてならない。しかも今回の作品の「それ」は、タランティーノの「引用」ほどセンスの良さを感じない。せいぜい「新春スターかくし芸大会」での、芸能人たちによる「中国語劇」とか「英語劇」ぐらいのもの(笑)でしかないだろう。

 大体が実際のところ、韓国3大スター共演といっても、その魅力が活かされていたのはソン・ガンホだけではないだろうか。イ・ビョンホンの悪役もG.I.ジョー(2009)とイイ勝負のパッとしないものでしかなかったし、チョン・ウソンと来たら印象激薄のイメージしかない。何を考えてるのか分からないし、血が通っているように思えない。これが黄金カードと見えないのはさすがにツライ。

 何より…観客をこれだけ気を持たせて引っ張っておいて、最後には何が待っているのかと思えば、つまんない共倒れだけ…ってのは何とかならなかったのか。メリハリもなくグズグズとした幕切れに、いくらそれまで「楽しんだ」僕でもがっくりした。

 監督・脚本のキム・ジウンはここ数年のヒットメーカー。だが、その作品群を見渡してみると、クワイエット・ファミリー(1998)、「反則王」(2000)、箪笥(2003)…と、どれもこれも面白そうなイイ題材をつかまえているんだけど、最後はいつも腰砕けというパターン。この人、「オレは才人」とか思っていそうな感じが作品から漂ってくるし、実際いろんなジャンルの作品を面白そうにつくる人なのだが、どうしても映画の終盤に破綻してしまうのである。思い切りよく風呂敷を広げても畳み方が分からないのか、かつてのドリフの「8時だヨ!全員集合」の前半コント終了間際、ドタバタてんやわんやで舞台が暗転してゲストの歌が始まる…というくだりにも似た、事態の収拾ができない終わり方の作品ばかりなのだ。残念ながら今回もそのパターンは踏襲されてしまった。

 しかも今回は先に述べたような「知っている人だけ」に向けた「目配せ」で作品が作られてしまったから、一般の観客にはイマイチ楽しめない、ダラダラと冗漫なだけの作品となってしまった可能性がある。そういう意味では、この監督さんってどうも「詰めが甘い」「脇が甘い」ところがあると言われても仕方ないだろう。

 

それでも白状させてもらえば

 とは言っても、実は何だかんだ言って、僕はこの映画を楽しんでしまった

 こんな各方面で不評の作品をホメるのは勇気が要る。実は僕も決してホメはしないのだが、楽しんでしまったのは間違いない。そんなことを言ったら、「あいつ映画を見る目がない」とか言われそうだが、これは本音だから仕方がない。最近じゃうちのサイトを注目している人もいないだろうから、何を書いても文句は来ないだろうと思うが…やっぱり僕はこの手の映画をキライになれないのだ。

 先に「印象激薄」と酷評したチョン・ウソンだって、ライフルをくるりとぶん回しながら撃ちまくる姿は、なかなかカッコよかった。結局は冒頭の列車強盗のくだりが一番ワクワクさせられたが、尻すぼみでもその列車強盗場面で楽しませてくれたから「良し」としたい気がする。

 何より「西部劇ごっこをやらかしたい」という気持ちに、ウソはなかったんじゃないかと思う。何だかんだ言って「西部劇」は映画の原点。映画好きなら、そこのところは避けて通れないと思うのだ。いささかバランスが悪かったとはいえ、キム・ジウンのそういう気持ちが見てとれたのは、僕としては好感が持てた。

 そういう意味で、今までのキム・ジウン監督作品よりは好き…と白状しなくてはならないだろうね。

 

 

 

 

 

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