「レスラー」

  The Wrestler

 (2009/08/24)


  

見る前の予想

 この映画のことは、確か何かの海外ニュースで知った。

 あのミッキー・ロークが劇的カムバック…というのが、そのニュースの内容だ。ただしミッキー・ロークって確かすでにシン・シティ(2005)で一度「劇的カムバック」をしてるんじゃないの?…ってちょっと意地悪な気分にもなったが、確かにその後彼のキャリアが回復した兆しもなかったから、確かにあれはまだまだ「カムバック」とは言えないのだろう。

 しかも今度は彼が演じているキャラクターが、落ち目になったプロレスラーというのも絶妙。ロークと言えば一時プロボクサーになろうとしていたことが知られているように「格闘技」系のイメージがあるし、「落ち目」だったことは先に述べた通りだ(笑)。インパクトの度合いが違う。

 さらにこの作品でミッキー・ロークはオスカー主演賞候補にもなったというのだから、「復活」のレベルもひと味違う。あまりに劇的過ぎるのだ。

 そんなわけで大いに期待が高まる本作だったが、唯一不安要素は監督がダーレン・アロノフスキーということ。

 あの壮絶なレクイエム・フォー・ドリーム(2000)はともかく、近作のファウンテン/永遠につづく愛(2006)のトンデモぶりには、確かにかなりまごつかされた。僕は珍品好きだからアレでも大いに楽しんだが、今回もあの調子でやられたらちょっと困っちゃう。

 それと、僕には僕なりの…ちょっと複雑な個人的事情もあった。

 そんなわけで僕はこの映画が公開されてからしばらくの間、どうしても劇場に足を運ぶことができなかったのだ。ようやく意を決して見に行ったのは、公開から2ヶ月近く経ったある日のことだった。

 

あらすじ

 プロレス界におけるランディ「ザ・ラム」(ミッキー・ローク)の、1980年代から1990年代にかけての活躍ぶりは目覚ましかった。熱狂的なファンの歓声を浴びながら、必殺技「ラム・ジャム」をキメるという十八番のパターンがウケにウケて、専門誌も大絶賛。超満員のマジソン・スクエア・ガーデンも沸きに沸いた。いつだって「ザ・ラム」は人気の的だった。

 そして、幾年月。

 控え室代わりの町の公民館の一室、子供のオモチャなどが散らばっているその部屋で、ランディ「ザ・ラム」はグッタリとカラダを休めていた。もう若くない彼には、正直試合はキツイ。しかもそうやって肉体を痛めつけながら、得られる報酬は微々たるモノだ。

 「すまんな、入りが悪くて」

 そう言われれば、黙ってそのスズメの涙のギャラで甘んじるしかない。

 あちこちガタが来たオノレのカラダをクルマに収めて、真夜中に戻って来た自分の寝ぐら。それはしがないトレーラーハウスだ。それでも何とか帰宅してこれで何とか休めると思いきや、家賃滞納でカギかけられて閉め出されるアリサマ。かくして痛む身体をいたわることもできず、クルマの中で縮こまって眠るランディだった。

 もういいかげん初老の身。それなのに、いまだにランディはそんな暮らしをしていた。独りぼっちのトレーラーハウス暮らし。つましい生活でもカネが足りなくて、近くのスーパーで荷物運びのバイトに汗を流す。それでも、まだまだ「現役」…。ただし往年の華やかさはすっかり過去のもの。場末のショボい会場で、それでもかつての人気と名声をよすがに、レスラー稼業を細々と続けているのが現実だ。

 それでもランディ、何だかんだ言って「現場」にやって来ればイキイキする。対戦するレスラー同士、まずは再会を喜んで談笑だ。そして早速、今日の「段取り」の打ち合わせ。ここでそっちが凶器攻撃をかけて、そしたらこっちがお約束の必殺技をキメる…。やたらめったら物騒な話題を、大真面目かつビジネスライクに語り合う。これこそ、プロの仕事の現場なのだ。

 一旦リングに出たら、進行は打ち合わせの上で展開するものの、カラダに加えられるダメージはホンモノだ。額を割られたという設定で、自ら額をこっそりカミソリで傷つけるランディ。そうは言っても、流される血にはウソはない。試合が終わった後の楽屋では、敵味方関係なくお互いの健闘を称え合ってまた談笑。しかし、ランディは自らのダメージから立ち直りが遅くなった。やっぱりさすがにツライのだ。

 それでもランディは、次の試合のための準備に余念がない。長い髪を金髪に染め、カラダを日焼けサロンで健康色に焼き、ステロイド剤をジャンクフードのようにバリバリと頬張る。それはランディが、もう何十年も続けてきた習慣なのだ。

 そんなランディのつかの間の安らぎは、町のストリップ小屋に出掛けて一杯引っかけること。そうは言っても、裸の女でコーフンしようというトシでもない。古い馴染みのストリッパー、キャシディ(マリサ・トメイ)と気の置けない会話をするのが、今のランディの唯一の楽しみなのだ。ランディにとって、こんな商売をするにはもはや若いと言えないキャシディの境遇は、とても人ごとだとは思えなかったのかもしれない。

 そんなある日、ランディはいつものようにリングに立った。ただし、今回はちょいと相手が違っていた。凶器攻撃何でもござれ、しまいには工業用ホチキスまで持ち出す男と戦うのだ。事前の打ち合わせでもつい「お手柔らかに頼む」と口走るランディ。しかし、一旦試合が始まったら何も止められない。試合は大いに盛り上がり客はエキサイトしたが、それでなくてもくたびれきったランディの肉体は、試合後に限界に達していた。ロッカーに向かってゆっくり歩いていったものの、途中で思わず嘔吐してその場に倒れ込むランディであった。

 気づいた時には病院のベッドの上。しかもすでにザックリ胸を切り裂かれ、傷口を痛々しく縫い合わされた後。手術を担当した医師は、ランディに冷徹に宣告するのだった。「軽いスポーツぐらいなら大丈夫です。しかし試合をやろうというのなら、命は保障できません!

 何とか「現役」にしがみついて生きてきたランディ。それを取り上げられて、何をどうしたらいいのか分からなくなる。

 とりあえず前々からの約束のサイン会に顔を出すと、これまた侘びしい公民館の一室が会場だ。そこに「往年の名選手」たちが何人か席をあてがわれ、客が来るのを待っているアリサマ。自分の前のテーブルに往年の名試合を収録したビデオソフトを置き、時々やって来るモノ好きなファンにサインの筆を走らせる。時には一緒にインスタント・カメラのレンズの前でポーズをとってやる。しかしほとんどは、退屈そうにただ待つだけ。ランディ以外の「往年の名選手」たちも、いずれもくたびれきった連中ばかり。サイン会主催者には自分がもう試合ができないことを言いそびれたものの、さすがに「ここらが潮時」と思わざるを得ないランディだった。

 悶々とした思いを抱いていたランディは、ついついストリッパーのキャシディに会いに行く。心臓の病で引退を余儀なくされた境遇を知ったキャシディは、ランディに「家族に会いなさい」とアドバイスした。

 「家族」…確かに昔はそんなものがあった。

 ムチャクチャな生活ぶりに愛想を尽かし、女房子供はとっくに彼の元から逃げ出していた。娘ステファニーとも長く会っていない。親らしいことを何もしてこなかった報いで、彼女が自分を嫌っていることは察しがついていた。

 でも、会いたい

 キャシディの言葉に触発されて、娘の住む街までクルマを飛ばすランディ。しかし突然の父親の訪問に、娘ステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)は当惑、かつ激怒。「何を今さら」と怒り狂うのは当然。おまけに「心臓が悪い」などと言ったのも逆効果で、「私に世話をしろと言うの?」とさらに怒りに油を注ぐ結果になってしまう。

 さすがにへこむランディ。

 そんなランディを見かねて、キャシディがいつもの「仕事と私生活は別」というモットーを返上。店の外で彼と会って、一緒にステファニーへのプレゼントの服を見立ててくれると言った。元々、彼女に淡い好意を抱いていたランディは大喜びだ。

 素顔のキャシディは、店での彼女よりもずっと魅力的に思えた。買い物に付き合ってくれたキャシディを、バーに誘うランディ。そこで思いがけずランディはキャシディと口づけを交わすが、ふと我に返った彼女は店を飛び出して行ってしまう。それでも何らかの情が通ったと、手応えを感じるランディだった。

 こうして手に入れたプレゼントを持って、再び娘の元に乗り込むランディ。すると今度はプレゼントと熱意が功を奏したか、ステファニーは以前の頑なさをかなぐり捨ててくれた。

 すべてがうまく行き始めた。

 こうして先行きの明るい兆しを感じ、人生の立て直しを本気で考えるようになったランディだったが…。

 

見た後での感想

 この映画に接した後に僕が感じた印象は、すでに各種マスコミや映画ファンから発信されていた、怒濤のような好評と寸分違わないものだった。

 壮絶だが美しい映画。ミッキー・ロークの捨て身の熱演。

 特にミッキー・ロークは、誰がどう見たって実際の彼と主人公のキャラクターが二重写しになってしまう。かつて最盛期を誇ったものの、今はすっかり落ち目。それもこれも、自分の身から出たサビということは、誰よりも自分が一番よく知っている。整形失敗とボクシング稼業で傷ついたミッキー・ロークの顔が、そっくりそのまま主人公に刻まれた心のキズとして活かされる。監督ダーレン・アロノフスキーがスタジオの反対を押し切ってロークの主演を死守した…というのがこの映画の美談として伝えられているが、この結果を見るとどうしたってロークを使いたかったことが分かる。それは決して「お情け」でも何でもない。

 ズバリ言ってお話そのものは「新味のない話」だ。

 確かにプロレスの実際と裏側を描いたディティール描写は興味深く、従来の映画で見たこともないものだ。しかしお話の骨子となる、「かつて栄華を誇った王者が年老いて落ちぶれる」という話は、実は取りたてて新しさなどない。驚きもユニークさも微塵もない。これほどありふれたお話もないのだ。

 どこがスゴイかと言うと、そのお話をそのままリアルに体現したミッキー・ロークで具体化したのがスゴイのだ。

 ミッキー・ロークの肉体がそれを視覚的に物語っているし、何よりロークその人の実人生が物語そのものだ。リアリティなどと言うのも甘っちょろい。それはリアルそのものだ。実際のところ、このお話をロークが演じたら、本来は「シャレにならない」シロモノなのだ。それをとにかく万難を排してロークその人に演じさせたという点で、確かにダーレン・アロノフスキーの着眼点は素晴らしい。それに尽きる。

 そして月並みでありふれたお話ということは、ある意味で何度も語られてきた揺るぎないお話ということでもある。その唯一のウィークポイントである「使い古され、陳腐化してしまった」という点をミッキー・ロークのリアリティで補ってしまえば、これは動かしがたい力強さを持つ物語となるのだ。

 どうしようもない避けられない運命によって、どうしようもなく決定的な結論へと導かれていく主人公。最後に残された「希望」であったはずの女の愛も、帰りの橋を焼き捨てるかのように手放してしまう。こうして最後、エンディングに向かって飛翔する主人公は、悲壮でもあるが同時に至福の時を迎えているようでもある。結局「オレにはコレしかない」というのが結論で、それに向かって主人公はすべてのしがらみとためらいを捨てて身を投じるからだ。

 (1998)でデビューした異色の映画作家アロノフスキーは、続く「レクイエム・フォー・ドリーム」でも才人ぶりを見せ付けた。しかしその作品世界には、「情け容赦ない」冷たさも感じさせられた。さらに放った「ファウンテン/永遠につづく愛」はトンデモ映画だったが、これもどこか「才人、才に溺れる」的なものをどこか感じさせた。

 しかし今回のこの作品は、以前の彼の作品とどこか一線を画するものを感じさせる。かつては冷徹に突き放すように人を描いて来たアロノフスキーだったが、今回の彼の視点にはどこか暖かいものを感じずにはいられない。「ファウンテン」制作時の苦難が彼を成長させたのか、今回の作品は確かに何か「一皮むけた」ものを感じさせるのだ。

 そんなわけで、見る者に深い感銘を与えるこの作品…そのようにまとめてしまえば、僕も他の人々と同じくこの作品を大絶賛して気持ちよく終われたのだが…。

 しかし僕には、ちょっとそうは出来ない事情があったのだ。

 

素直に感激できない結末

 オレには結局この道しかない、帰りの橋も今焼き捨てた、不器用な男の生きざま見せる、バカな男の浪花節…。

 この映画のエンディング、確かに感銘深いことは感銘深いのだが、見ていてどうも素直に感激しちゃいけないような気がしていた。いや、結局は感激しちゃったのだが、本当はそうしちゃいけない気がしていた。ここで感激してる場合じゃないような気がしていた。

 なぜなら、この男ってドツボにハマったのも自業自得なところがあるからだ。

 最初に落ちぶれているのも、家族と疎遠になっているのも、全部元はといえばこの男の自業自得。実際に主人公自ら、娘に向かって「自業自得だ」と言っているくらいだから間違いないだろう。

 それでも何とか娘との関係を再構築しようとして、再構築しかかって…これまたダメにしてしまうのも、結局はこの男の自業自得だ。そうとしか言えない。ヤケを起こしてバカをやりたくなる気持ちも分かるが、それをやっちゃオシマイだろう。

 ストリッパーとの恋愛がうまくいかないったって、中学生じゃないんだからヤケを起こされても困る。そもそも真剣に家庭を守ろうと考えている女なら、こんな不安定で生活力ゼロの男なんぞ選ばないのだ。テメエをよく見ろと言いたい。

 あげくの果てにスーパーでの仕事をムチャクチャにして逆ギレ。誰が悪いんでもない、テメエが悪いのである。そのあげく、結局毎度おなじみの自分のテリトリーに逃げ込む。

 確かに「外の世界の方が痛い」ってのは現実だろう。「死が待っている」と知りつつ、それでもやってしまう気持ちにもウソはないだろう。しかし、悲壮感タップリに大見得切って死地への旅に赴く主人公は…こう言っちゃ何だが「いい気なもんだ」って気がしちゃうのだ。

 「いい気なもんだ」って言い方が悪いなら、「自己満足」と言い直してもいい。っていうか、こっちの方がかえって悪いか(笑)。でも「自己陶酔」というか「独りよがり」というか、そんな主人公の甘さを感じざるを得ない。

 むろん「そうならざるを得ない」経緯はちゃんと描かれている。「主人公の心情が分からないのか」と言われれば、分かりすぎるほど分かる。

 と言うより、「分かってしまう」からこそ、それを認めたくはない

 真っ当な人生を歩んできた人が、この主人公の生きざまに共感しようと感動しようと構わない。それはそれでいいし、そういう風によく出来た映画だと思う。僕もそれは否定しない。

 だが、少なくともこの僕は…この作品にドップリ溺れて、主人公に感情移入をし、さらにその結末に陶酔してしまってはいけないように思う。

 なぜなら…この主人公の人生は、僕にとってシャレにならないからだ。

 

僕がこの主人公に共感しちゃマズイ

 バブル期の末期、調子に乗っていた僕は、傲慢にも自分の実力がどこでも通用すると勘違いした。そこから始まった転職に次ぐ転職の日々は、結果的にちょうど10年間に及んだ。

 その時の自分と来たら、まったく身の程知らずもいいところだった。実力もないのに自分を高く売りつけようとして、結局どこにも相手にされない。やっとありついた職場でもすぐにトラブルを起こす。かつて見た「いい目」が忘れられず、今の自分の境遇に我慢が出来ない。そして結局、ヘタな博打打ちのようにジリ貧状態を続ける

 そんなこんなしているうちに、世の中の風向きはすっかり変わり、転職してステップアップなんて夢のまた夢と化した。いや、元々そんなうまい話などどこにもなかったのだ。物事を勝手にテメエに都合良く解釈していただけだ。

 そのうち、うまくいかないのを経済情勢や周囲の無理解のせいにも出来なくなっていく。会社や上司や同僚が悪かったんだとも言えなくなってくる。人のせいには出来なくなってくる。

 気が付けば、自分の年令は転職など望めぬほどに上がっていた

 どこに行っても冷ややかな言葉を浴びせかけられる。「こんな年令までどうしてフラフラしていたんだ?」…返す言葉がない。心底ミジメだ。とてもこんな状況を知っている人には見せられない。

 実際、これほどの年令になって転職を成功させようなんて、何かの奇跡が起きなければ不可能に思えた。世間相場では、それは「不可能」なことだった。絶望感だけがつのったが、もはやどうしようもなかった。

 そんなどん底状態を這い回る日々は、今から4年前の夏に終わった。唐突に「奇跡」が起きたのだ。大げさでなく、それは本当にラッキー以外の何者でもなかった。何も見栄を張るつもりはない。僕はラッキーだった。

 その反面、僕の人生の貴重な10年間…職業人としてアブラが乗っていたはずの10年間は、虚しく空費されてしまった。それはどうやっても取り返しがつかない。

 でも、すべては自分のせいなのだ

 他の誰のせいでもない。世の中のせいでもない。時代が悪かったわけでもない。一時は被害者意識に取り憑かれていた時もあったが、ホントのところはそれは間違いだと薄々感づいてはいた。

 すべては自分のせい。僕が大バカだったからなのだ。

 そんな僕の「空白の10年間」は、完全にこの映画の主人公の人生と重なる

 と言うか、まったくシャレにならない。テメエで墓穴を掘って苦況に陥っていくアリサマは、まるで人ごととは思えない。アレを客観的に「観賞」するような余裕は僕にはない。

 ならば、あの男の生きざまを「陶酔」して見てしまうのは、まるで自分に無反省で愚かってことにはならないか?

 だから僕は他の人のようには、あの映画を素直に感激して見ていられない。それをやっちゃマズイと思わずにはいられないのである。

 

 

 

 

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