「サガン/悲しみよこんにちは」
Sagan
(2009/07/20)
見る前の予想
「サガン」である。「悲しみよこんにちは」である。
ハッキリ言って、何を今さら…というのが正直な気持ちだ。まぁ、絶対に見たくないし見ない映画だ。実際に見ないつもりでいた。
ところが映画館でチラシを見たら、ちょっと僕の中の気持ちが変わった。
むむっ、このヒロインの顔、どこかで見たな…。
そして、不意に気が付いた。このサガン役の女優は、「ビヨンド・サイレンス」(1996)や「点子ちゃんとアントン」(1999)という大好きなカロリーヌ・リンク監督作品の女優さん、シルヴィー・テステューではないか。
ちょっと鼻がデカめで決して美人ではないが、個性的でどこかチャーミング。そんな彼女がサガンを演じるならば、これはちょっと見てもいいのではないか。というか、見なくちゃマズイ。
そんなわけで僕はそれまでの考えを翻して、いそいそ劇場へと向かったわけだ。
あらすじ
2004年、ノルマンディーの古い別荘に一人のカメラマンが訪れる。
この別荘に有名な作家フランソワーズ・サガンが住んでいると聞いてやって来たようだが、家政婦は「そんな人はいない」と素っ気ない。結局、カメラマンはスゴスゴと帰っていくが、別荘の中では年老いたサガンその人(シルヴィー・テステュー)がひっそりと息を潜めてその様子を見ていた…。
サガン…その本名はフランソワーズ・クワレールという。
まだ18歳の若さで処女作をモノにしたこの少女は、その「夏休みに書いた」小説を持って、堂々と出版社へ乗り込んだ。
この「悲しみよこんにちは」は大ベストセラーになり、文壇の話題を独占。誰もが彼女に会いたがり、彼女はたちまち「名士」となった。むろん巨額の富が転がり込んだことは言うまでもない。
ついでにそんな彼女に群がる「取り巻き」の人々まで付いてきた。作家のベルナール・フランク(リヨネル・アベランスキ)、ジャック・シャゾ(ピエール・パルマード)、フロランス・マルロー(マルゴ・アバスカル)などなど。中には一生の付き合いになる人物もいたが、彼女の富と名声が目当ての「茶坊主」も少なくなかった。
しかしサガンはお構いなしで、カジノで金を使いまくり。稼いだカネでノルマンディーの別荘を衝動買いするアリサマだ。
サガンの名声はアメリカにまで轟き、宣伝にニューヨークまで訪れるほど。そんな時、同郷フランスの編集者ギイ・シェレール(ドゥニ・ポダリデス)と出会い、強く惹かれる。
そんな華やかな栄光の日々の中で、取り巻きの「茶坊主」たちにヨイショされまくりのサガンに、兄ジャック(ギヨーム・ガリエンヌ)だけは辛口の直言をする。しかしサガンはそんな兄の言葉を受け付けない。それでも動揺したサガンは、取り巻きたちを乗せてクルマで暴走し、運転を誤って大事故を起こしてしまった。
取り巻きたちは無事だったが、ハンドルを握っていたサガンは生死の境を彷徨った。何とか助かったものの、痛み止めのモルヒネのせいで薬物中毒に生涯祟られることになる。
それは若くして栄光に包まれたサガンの、波乱の後半生を予感させる出来事だった…。
「男らしい」女性監督ディアーヌ・キュリス
映画館に着いてパンフを買った時に、僕は初めてこの映画の監督を知った。
ディアーヌ・キュリス。
何と!この映画は僕の昔からのご贔屓、ディアーヌ・キュリス監督の新作ではないか! なぜ、まったく気が付かなかったのか。いやぁ、見逃さずに済んでよかった。
何せ、あのディアーヌ・キュリス監督久々の新作だからなぁ。ご贔屓とは言ったものの、実は僕が彼女の作品を見るのは、もう10数年前の「彼女たちの関係」(1994)以来じゃないだろうか。当然このサイトでも、新作としては彼女の作品の感想文は取り上げていない。わずかに「My Favorite Directors」というコンテンツの「ディアーヌ・キュリスの巻」でザッと展望しているだけだ。それも、アップしたのはサイト開設当初の1999年5月。つまりここ最近、僕はずっと彼女の作品とはご無沙汰だったのだ。
そんな彼女の作品のどこに僕が惹かれたのか…フランスの女性監督なんていかにも僕の好みから遠そうなのに…を説明するには、先に挙げた「My Favorite Directors」の文章を読んでいただければ手っ取り早い。早い話が「ア・マン・イン・ラブ」(1987)で見せたフランソワ・トリュフォーと「アメリカの夜」への傾倒ぶり、そしてどこかチラつくアメリカ映画への憧れ。「女ともだち」(1983)でオスカー外国語映画賞にノミネートされたのも、そのへんがハリウッドの映画人の嗅覚をとらえたのではないだろうか。
そしてスペクタクル場面が出るわけでもないしアクションを撮るわけでもない、CG特撮を使うわけでもないのに、なぜかチマチマした感じがなくてダイナミックな作風。市井の女たちの普通の話を描いても、「いかにもヨーロッパの女性監督が撮りました」…的な、家の中でゴキブリを追い詰めるような発展性のなさがまったくない。ドカッとしたスケール感と面白さがある。そのへんアメリカ映画と相通じるところがあると僕は思っているのだが、フェミニズムなんか微塵に感じさせない「太さ」が感じられるのだ。
今回の「サガン」の劇場パンフには「ディアーヌ・キュリス監督の最大の関心事は『女たち』である」…な〜んてもっともらしく書いてあるが、これではまるでキュリスがフェミニズム・ヒステリー女みたいではないか。バカも休み休み言っていただきたい。そんなひ弱で頭でっかちな市民団体みたいな人ではない。キュリスは女を男のように描く…というと語弊があるが(笑)、男以上に男らしく潔く気っぷがいい、映画をつくる時もスカッとつくる人だ。
何しろイザベル・ユペール扮する女流作家が男から男へ奔放に恋をする「愛のあとに」(1992)な〜んて映画ですら、いかにもおフランス映画でございという感じのこの設定この物語にも関わらず、キッパリサッパリとして気持ちがいい。どこが他の女性映画と違うかと言えば、当然二枚目である主人公がみっともないアホな面も見せるし笑っちゃう面も見せる、そんなところがどこか「男らしい」のだ。こう言っては大変申し訳ないが、女性がつくった女性映画の場合、主人公はしばしば美化され正当化されるだけ。バカになれないし笑い者にできない。ヘタをすれば「女はエライ」としか描けない。その点、ディアーヌ・キュリスの描く「女たち」はどこかが違う。一歩踏み込んで言えば、男でも「こいつってオレみたい」と共感し理解できる、血の通った人間としての女を描けるのが、ディアーヌ・キュリスという映画作家なのである。
ある意味で、先に挙げたドイツのカロリーヌ・リンクなどと通じる「男らしい」女性監督だとも言える。
これについては、いかに女性映画ファンから異論や非難を浴びようと、一切反論は受け付けない。やかましい、黙らっしゃい。とにかくディアーヌ・キュリスはそんな素晴らしい「映画姉御」なのである。
見た後での感想
しかしながら…実はこの映画を見ていて、シルヴィー・テステューの意外な「サガンそっくりさん」ぶりに驚かされたり、華やかさばかり知られていたサガンの晩年の悲惨さに驚かされたりはしたが、映画としてはあまり面白みを感じなかったと白状しなくてはならない。
あの「素晴らしい1960年代」の空気を伝えてくれたり、シルヴィー・テステューがチャーミングだったりして見ていて退屈はしなかったものの、最初は大して面白いとも思えなかった。
何よりサガンその人にあまり感情移入できなかった。
正直言って若い頃から大成功、カネを使いまくって増長し放題。周りは茶坊主だらけで好き勝手にやってる女。共感しろと言われても無理だ。それが自動車事故を境に人生の坂を転がり落ちていくのも、ぶっちゃけ自業自得としか見えない。これは見た人の多くが抱く感想ではないだろうか。
何より、一体どうしてディアーヌ・キュリスは、イマドキ、フランソワーズ・サガンなんて映画にしようと思ったのだ。
ともかく、ディアーヌ・キュリスならではの「映画としての面白さ」というのは、残念ながらあまり感じられなかったのがツラい。最近の作品は見てないので何とも言えないが、ちょっと作家としてピークを過ぎちゃったんだろうか。
サガンはオヤジである
だが、これはディアーヌ・キュリスらしくない作品か…と言えば、それは間違いだ。
最初見ていた時には「らしくない」と思っていたが、よくよく考えてみると合点がいく。確かに映画としての面白みにはいささか欠けているかもしれない。お話もうまみやコクに乏しく、どちらかというとサガンの半生をダイジェストすることだけに追われてしまっているかもしれない。しかしよくよく細部を見直してみると、映画を構成する要素そのものは、いつものディアーヌ・キュリスそのものなのである。
確かにサガンは傲慢にもカネを使いまくり、名声を欲しいままにして、茶坊主に取り巻かれてゴキゲンになる。成功の香りに酔いしれる。
それは確かにあまり感心できるアリサマではないが…ある意味で「ガハハ笑いをするオヤジ」並みに「男っぽい」。
そういや、成功の階段を駆け上がる男を主人公にした物語も、後半その主人公が挫折したり反省させられたりするにしろ…この「サガン」と五十歩百歩かもしれない。つまり、ヒロインの言動は実に「男っぽい」のである。
そして「男ども」を従え、時に「女」を引き連れて享楽にはしる。これこそ、まさにアブラギッシュなオヤジ像ではないか(笑)。サガンはオヤジなのである。
そして、彼女は言い訳をしない。
カネを使いまくる時も、栄光を楽しむ時も、恋に落ちる時も、そこに言い訳がましい理屈は持ち出さない。楽しいから楽しむ。使いたいからカネを使う。豪快にして奔放。そして天衣無縫。
後年になって麻薬中毒になり借金に苦しむようになっても、それに対して言い訳もしなければ恨み言も言わない。いわんや誰かのせいになど絶対にしない。
言い方を変えれば、タフでマッチョでハードボイルド。
そういう意味では、誰よりも男よりも「男らしい」のがサガンだった…とこの映画では描いているのだ。
そして、そこまでやりたい放題、好き放題にやる主人公ではなかなか好感が持たれにくいと踏んだディアーヌ・キュリスは、だからこそファニー・フェイスでチャーミングなシルヴィー・テステューをサガン役に起用したに違いない。
そんな「やんちゃ」し放題のまま人生を終えて、何ら悔いを持たなかったサガンにこそ、ディアーヌ・キュリスは深く共感したのではないか。
ならば、やはりこの映画は間違いなくディアーヌ・キュリス作品そのものなのである。
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