「スター・トレック」

  (J・J・エイブラムス監督作品)

  Star Trek

 (2009/07/06)


  

見る前の予想

 正直に言うと、僕は熱心な「スター・トレック」ファンでは決してない。

 だからWOWOWとかあのへんの有料テレビでやってる「その後のスタートレック」モノなんぞ見たこともないし、実はよく分かっていない。「ネクスト・ジェネレーション」だとか艦長がオンナになったやつとかも知らない。ただし、これでも子供の頃から一応SFファンだからして、それなりに興味はあったわけだ。つまり僕が「スター・トレック」に興味を持っていた段階は、正直言って子供の頃に見た最初のテレビ・シリーズ「宇宙大作戦」(1966〜1969)で止まっている。

 そんな状況の僕なんで、ぶっちゃけ劇場の予告編でまたぞろ「スター・トレック」と称する新作が公開されることを知るや、「またかよ」という気分にさせられたことを告白しなけりゃなるまい。いくらネタ切れハリウッドと言っても、これほどとはねぇ。

 ところが、よくよくその予告編をじっくり見てみると、どうもスポックが若すぎやしないか? というより、主役級の若者も「カーク」と呼ばれているのに気づく。しかも、劇中でまだハンパ者、青二才呼ばわりされているみたいなことに気づく。ややや、これって「スター・トレック」の「ビギニング」とか「エピソード1」に相当するものなのか?

 確かに続編、リメイクが蔓延するハリウッドでは、イマドキ「ビギニング」モノなどザラと言えるかもしれない。しかし、だからこそ…すでに作りつくされ研究しつくされた「スター・トレック」を今作り直すにあたって、あえて「ビギニング」をやるというのは面白い発想かもしれない。

 そう思い始めて監督は誰かと思ったら、何とJ・J・エイブラムスではないか。

 「ではないか」と言うほど僕はこのJ・J・エイブラムスって奴をよく知っているわけではない。どうもテレビでの活動が長いようだが、僕はアメリカのテレビには疎いので全然知らない。M:I:III(2006)の監督でその名前を知ったわけだが、残念ながら「M:I:III」はシリーズを活性化するには至らなかった作品だ。

 しかし僕にとっては、J・J・エイブラムスはあのクローバーフィールド/HAKAISHA(2008)のプリデューサーとして強烈に印象づけられている。この時に、「どうもこの男はクセモノらしい」と思い知ったわけだ。タダモノじゃないぞ、と。

 ならば今回の「スター・トレック」も、ただじゃ済まないんじゃないか?

 

あらすじ

 西暦2233年、宇宙空間を航行中の宇宙船「USSケルヴィン」は、いきなり前方から現れた奇妙な宇宙船に囚われ、ボコボコに攻撃されてしまう。いまや「ケルヴィン」は手も足も出ない。

 そこに敵宇宙船の船長ネロ(エリック・バナ)から「ケルヴィン」の船長に、たった一人で敵宇宙船に来るように…との連絡が入る。どう考えても、生きて帰れる見込みはあるまい。意を決した船長は、「ケルヴィン」のその後を若いジョージ・カーク(クリス・ヘンズワース)に託して敵宇宙船に向かう。案の定、船長は敵船に乗り込んだとたん、奇妙な質問の後に命を落とすこととなった。

 船長の生命反応が消えたと見るや、ただちに乗員の全員避難を命じるジョージ。その中には出産間近に控えた彼の妻もいた。妻は避難船の中で出産。ジョージも脱出するはずだったが、「ケルヴィン」の自動操縦機能は失われ、避難船もすべて放った後だった。覚悟を決めたジョージはそのまま「ケルヴィン」を謎の宇宙船に体当たりさせて、宇宙に散っていく…。

 それから幾年月。

 避難船の中で生まれたジョージの息子ジム・カークは、アメリカの田舎アイオワで、手の付けられない悪ガキになっていた。ある時は義父のヴィンテージ・カーを盗んで無免許かつスピード違反で運転。そのあげく、谷底にクルマを突っ込んで自分は間際に脱出。わざと危険に身をさらし、刹那的なスリルに身をゆだねた。

 一方、地球から遠く離れたバルカン星。バルカン人の父(ベン・クロス)と地球人の母(ウィノナ・ライダー)との間に生まれた混血児スポック(ザッカリー・クイント)は、同年代の純血バルカン人たちから陰湿ないじめに合っていた。母親を侮辱されては、怒りに燃えてケンカに荒れ狂うスポック。しかしいつも冷静で感情を抑制することを良しとするバルカン人にとっては、それは異端な振る舞いだった。こうして再三再四感情の抑制を求められたスポックは、長い間にそれを自分のモノとすることに成功する。しかし、この星が自分の居場所ではないと感じるスポックは、周囲の反対を押し切って宇宙艦隊に志願するのだった。

 その頃、再びアメリカのアイオワ。青年になっても、ジム・カーク(クリス・パイン)は大人しくなるどころか危なっかしくなるばかり。宇宙艦隊の荒くれ者がたむろする酒場に現れて、いきなりイケてるいい女ウフーラ(ゾーイ・サルダナ)をナンパだ。そこを荒くれ者どもに目をつけられるが、ひるむどころか「望むところ」とフテぶてしく突っ張る。当然、多勢に無勢でボコボコにされるカークだが、そこに割って入った一人の男がいた。

 宇宙艦隊の大佐パイク(ブルース・グリーンウッド)だ。

 この男、例の「ケルヴィン」の悲劇を知っていたし、そこで10分間だけ指揮を執った伝説のジョージ・カークにも深く傾倒していた。だからその遺された一人息子のことも知っていたし、何かと関心を抱いていたのだ。自分が何者か、したいことは何なのか…を分からず、野良犬のように荒れ狂う若きジム・カークに、パイク大佐は驚くべき提案をするのだった。

 「艦隊に入れ。オマエを待っている」

 艦隊など知ったことかとフテ腐れたポーズのカーク。しかし心は揺れていた。結局バイクで艦隊の基地にやって来ると、同じようなはぐれ者の男が艦隊に志願してシャトルに乗り込んでいるではないか。

 「宇宙なんて行きたかないが、離婚してカネがないから仕方がない」…そんな皮肉をうそぶくマッコイ(カール・アーバン)と、カークは思わず意気投合。見れば、同じシャトルにツンと澄ました例のウフーラも乗っているではないか。

 こいつは面白くなってきたぜと、肝の据わったところを見せていたカークだったが…。

 

自慢にならないわが「スター・トレック」歴

 先に僕の「スター・トレック」興味は、子供の頃のテレビ・シリーズ「宇宙大作戦」で止まっていると書いたが、それはまるっきり大げさな話ではない。ホントにそうだから仕方がない。

 逆に言うと、子供の頃から「映像のSFファン」だった昔の僕にとっては、このオリジナル・シリーズは結構好きな番組だった。

 実際のところ、日本の怪獣映画などは「アレはSFじゃないよな」とあまり当時好きになれなかったクチだ。一方、僕の子供の頃などはSF番組やSF映画が目に触れる機会なんてそんなにない。だから「宇宙大作戦」はそれなりに楽しんで見た記憶がある。

 しかしもう一方で、この当時は「ミステリー・ゾーン」(1959〜1965・今じゃ「トワイライト・ゾーン」か)や「アウター・リミッツ」(1963〜1964・こちらは僕が見た当時は「ウルトラ・ゾーン」といっていた)など、よりハードなSFテイストのドラマもやっていた。で、やっぱりSF的な刺激はこっちの方が強かったのだ。特に後者「アウター・リミッツ」にはかなりドップリのめりこんで、毎週毎週欠かさず見ていた記憶がある。それと比べると、残念ながらこちとら「宇宙大作戦」にはそれほど熱心になった記憶がない。実際、覚えているエピソードもそんなに多くはないのだ。

 それでも、僕の中には「スター・トレック」といえば「宇宙大作戦」というイメージがある。

 その後、「スター・ウォーズ」(1977)大ヒットで始まったハリウッドSFブームの中、このテレビ・シリーズがホコリをはたいて「スター・トレック」というタイトルで映画化(1979)されたのは、まぁ時代の必然なのだろう。当然のことながらテレビ・シリーズのメンバーが総出演。監督は「サウンド・オブ・ミュージック」(1964)などを放った巨匠ながら、オリジナル版「地球の静止する日」(1951)や「アンドロメダ…」(1971)など当時としては珍しくSF映画にも造詣が深いロバート・ワイズ。全体的に超デラックスになって、スクリーンに帰ってきた。

 ただ、全体的にデカくなったなぁとは思ったけれど、別に面白くもなかったしどうってことはなかった。僕自身、熱心な「スター・トレック」信者でもないから特に感慨もない。とりあえず「見た」って感じだった。

 ところが「スタトレ」ファンも同じようなことを考えていたのか、映画は何とか続編が生まれてシリーズ化されたものの、路線はかなり方向転換された。つまり前作の過度なデラックス化から、かなりコンパクトに生まれ変わった。実は、これが正解だったのだ。

 その映画版続編こそ「スター・トレック2/カーンの逆襲」(1982)。前作でただただ「カネかかってるぞー」ということを見せびらかすために撮影されていたような場面を極力排除。実際、予算的にもかなりのリストラが行われたはずだが、「スタトレ」に限ってはそれが正解。そもそもこれはテレビ・シリーズだったんだから、かけられた予算だって知れたもの。だから、これでいいのだ。

 映画自体も結構面白くできていて、チェコフが危機一髪になるわ、スポックが…と、まるで「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)を上回る衝撃的エンディング。こりゃ面白い!…と期待しないで見てびっくりした僕が、改めて監督のクレジットを見てみたら…何となんと、H・G・ウエルズが現代にやって来たら…という楽しい趣向のSFコメディ「タイム・アフター・タイム」(1979)を生んだ才人、ニコラス・メイヤーが手がけているではないか。そりゃあ面白いわけだ。

 ハッキリ言うと、「スタトレ」映画はニコラス・メイヤーがかんでないと面白くない。続く「ミスター・スポックを探せ!」(1984)は前作のお話の続きだが、「おいおい」…と本気でガッカリするご都合主義な展開。前作、あれほどオレが感心したのは何だったの?…といいたくなる「だまされた」感満点の物語だった。これはミスター・スポックことレナード・ニモイの監督だったが、「まだまだだな」と言いたくなるつまらなさだった。

 ところが懲りずに「スタトレ」映画は続く。そして、その「故郷への長い道」(1986)が、これまた面白いんだから分からない。何とカークはじめ「エンタープライズ」クルー一同が、何を血迷ったか現代(1986年当時)のサンフランシスコに現れるから笑っちゃう。この映画はSFアクションというより、ほとんど「クロコダイル・ダンディー」(1986)などのカルチャー・ギャップ・コメディに近い。それをあのお馴染み「スタトレ」レギュラー陣がやるからおかしいのだ。ちょっと「クジラちゃんを救え」などといかにも西欧的偽善テーマもチラつくのでシラけないでもない(こう言われちゃうと僕は、「牛ちゃんだってかわいそう」とか「野菜ちゃんだって愛してほしい」とか言いたくなっちゃうのだ。)が、それを埋め合わせて余りあるナイス・アイディア。何しろ「スタトレ」レギュラーが現代のサンフランシスコをウロチョロするだけの話だから、お金だって全然かからない。おそらくシリーズ中で最低の制作費だったんじゃなかろうか。こんな面白い映画をあのレナード・ニモイが撮れるなんて…とすっかり見直したら、ちゃんと脚本にニコラス・メイヤーが入っているではないか。何のことはない、彼は快作「タイム・アフター・タイム」のアイディアを「スタトレ」に応用しただけなのだ。何たる才人なのか。

 ところが次の「新たなる未知へ」(1989)では、今度はウィリアム・シャトナーが監督に回った。いくら何でもこいつに監督は無理だろ。それを聞いた僕はさすがに付き合えなくなって、この映画から「スタトレ」映画は見なくなってしまった。

 ところがその次の「未知の世界」(1991)は、何とニコラス・メイヤーが監督に再登板しての、旧「宇宙大作戦」レギュラー陣によるシリーズ最終作だったらしい。そうと知っていたら見たのになぁ…と、今頃になって残念に思う。これってきっと面白い映画だったに違いない。

 その後の「ジェネレーションズ/STAR TREK」(1994)とかになると、もう何が何だか分からないので遠慮させてもらった。そういう人は結構他にもいたのかもしれない。その後も次々つくられた「スタトレ」映画もしまいには「ネメシス/S.T.X.」(2002)なんて「スタトレ」だか何だか分からない形でドサクサに紛れて公開するようになった。「S.T.X.」って誰も「スター・トレック10」だって分からない。「SEX」と間違えられてポルノ扱いされるぞ(笑)。

 たぶん、正直言って「スター・トレック」はもういいよって雰囲気が、日米どっちにも漂いつつあったんじゃないだろうか。もはや熱狂的ファンしか見なくなっちゃったとか。

 それでも企画手詰まりのハリウッドが、手垢がつきまくった「スタトレ」を「何とかならないか」と考えた末に、今回の新作登場となったのだろう。まぁ、そんなわけだから、普通の発想ではつくるわけにいかなかったはずだ。

 

見た後での感想

 映画が始まっていきなり、カークの父ジョージと宇宙船「USSケルヴィン」の受難が描かれる。その場面を見ていて、実は僕はかなり衝撃を受けていたのだった。それって当たり前の話なのだが…まるで戦争映画で艦船が攻撃を受けている場面のように…本当に宇宙船が攻撃を受けているみたいじゃないか!

 何となくこう書いていて、自分がすごくバカなことを書いているようで気が退けるのだが(笑)…正直言ってSF大作を見てきて、今まで本当に主人公たちの乗っている宇宙船が「ヤバい」目にあっていると実感できたことはない。SFXが素晴らしければ素晴らしいほど、余計に絵空事のように見えてしまう。だからある意味で安心して、人ごととして見ることができたわけだ。ところがこの映画の場合、いきなり事件の渦中に放り出された気がした。これにはさすがに…見る前に「ただじゃ済まないんじゃないか?」と期待していたものの…こんな「攻撃を受ける宇宙船」なんぞというありふれた場面で驚かされるとは、ちょっとこいつはひと味違うんじゃないか?

 たぶんこの映画冒頭の「USSケルヴィン」攻撃場面が僕にとって鮮烈な印象を持っていた理由は、「攻撃を受ける宇宙船」というシチュエーションを主にSFXによる破壊や被害状況の描写ではなく、ライブ・アクションの撮影による宇宙船内の脱出や阿鼻叫喚やパニック状況の描写で描こうとしていたからではないだろうか。つまり、戦争映画などでの描写では当たり前の描き方で、「普通の映画」のように描いたからだ。

 それが、SF映画的には新鮮に見えてしまう。

 この映画ではどうもSF映画を、特殊効果を使った映画としてではなく、本当に宇宙船などがある時代に普通に戦争映画を宇宙で撮ったかのように描こうとしている。そいつが、どうも今回の作り手の姿勢のようなのだ。つまり、それが今回の映画のルールだ。ここまで僕の言っていることが、何となくお分かりいただけただろうか。

 すると、そんな僕の考えを裏付けるように…まるでSF映画らしからぬ光景が画面に展開する。舞台はアイオワの田舎。そこでヴィンテージ・カーをぶっ飛ばす悪ガキ、カーク少年が登場するのだ。何となくこんな場面、今まで何度もいろいろな映画で見たような気がする。しかも、それって1950年代、1960年代の映画じゃなかったっけ? この「既視感」が、懐かしいアメリカ映画ファンにはたまらない。僕はますますワクワクしてしまった。お話はどんどん「スター・トレック」らしからぬ方向に向かっているように見えるが、僕は大いに気に入った。

 さらにお話が進むと、アイオワの田舎でのヤング・カークと、バルカン星のヤング・スポックのエピソードが平行して描かれる。さすがにバルカンでのエピソードは「スター・トレック」めいて見えるし、そこにスポック母役でウィノナ・ライダーが出てくるのに二度ビックリ。それと、アイオワとバルカンが「同格」で画面にクレジットされるのはいかがなものか…アイオワって「星」じゃないぞ(笑)…ってこともあることはあるが、ヤング・カークが宇宙艦隊の荒くれ者たちの出入りする酒場で大立ち回りを演じ、いかにも自信たっぷりで鼻っ柱が強くて生意気な若者ぶりを発揮。さらに何か胸に期するモノを抱きながら、「未来型」とはいえバイクをぶっ飛ばし、建造中のエンタープライズを遠くから仰ぎ見る場面が出て来るや…またしても、確かに僕はこれに似たような「絵」を見たことがあると思わざるを得なかった。たぶんいろいろな映画に似たような場面はあっただろうが、おそらく誰もが連想するのは…やっぱり「トップガン」(1986)でバイクにまたがった、若く生意気だったトム・クルーズその人ではないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校の文化祭前夜の「熱さ」

 その後も生意気な若者カークが大活躍。これが結構楽しいのだ。

 艦長の適正検査でナメ切った行動に出るあたりもゴキゲン。見ていてとても嬉しくなった。若きスポックとの対立も含めて、これぞ「青春映画」のお約束。やっぱり「青春映画」はこうじゃなくっちゃあ…。

 ん? 「青春映画」?

 そうなのだ。この映画はまさに「青春映画」としての面白さに満ちている。

 ヴィンテージ・カーをぶっ飛ばす悪ガキぶりも、酒場での大立ち回りも、「トップガン」もどきにバイクでキメるあたりも…僕がここまで「既視感」と言っていたものは、すべて過去のそうした「青春映画」を連想させる「既視感」だったのだ。なるほどぉ…うまいところに目をつけやがったな。

 しかし、それっていうのは、昨今大流行の「ビギニング」モノをつくる上では王道ではないか。ならば、別に驚くまでもない。その手の「ビギニング」モノと同じことをしているだけだ。むしろイマドキありふれた手だと言うべきかもしれない。

 ところが…これは見ていてびっくりしたのだが、この映画って正確には「ビギニング」モノではなかったのだ。

 確かにカークの若き日が描かれる。スポックの若き日も描かれる。マッコイもチェコフもみんな若い。しかしながら、この映画は単純に時代を遡った作品ではないのだ。見るまで想像もしていなかったが、これはロミュラン人の悪漢ネロが招いたタイム・パラドックスによる「パラレル・ワールド」内での「過去」なのである。つまりは別の歴史だ。

 それは、「スター・トレック」の歴史に基づきながら、ある程度「自由」を得ることもできる設定だ。

 見ていて、僕は「なるほど!」と膝を打ちたくなった。確かにこの手は今までまだなかった。新しい。単なる続編でもリメイクでも「ビギニング」モノでもない。まったく新しいシリーズ続行だ。しかも、SF映画としての必然もある。J・J・エイブラムス、やってくれるではないか。

 そのために、かつてのオリジナル・シリーズとのつながりとして「スペシャル・ゲスト」も登場する。このあたり、「スタトレ」ファンならたまらないのではないだろうか。僕も嬉しくなった。

 それも単なるゲストではなく、意味のある登場だ。今回の設定のミソであるタイム・パラドックスの原因がこの「ゲスト」であり、かつそのあたりの面倒くさい説明を、この「ゲスト」に一手にしゃべらせて片づけている、正直言ってよく分かったような分からないような説明で、しかも長すぎる説明。しかし、それもこの「ゲスト」が言うから許される。この計算は実に巧みだ。

 そしてこの「ゲスト」の登場が、前の話をいったんご破算にしてオリジナル・メンバーを総取っ替えにしてつくる新作に対する、ファンへのエクスキューズにもなっている。「彼」が出てくるから許せる…というところが確実にあるんじゃないだろうか。

 そして、「青春映画」にしたことにも必然がある。

 この作品は確かに正確には「ビギニング」モノではないが、「ビギニング」モノの一変形であることは間違いない。だとしても、「ビギニング」モノにしたが故に「青春映画」になってしまった…とだけは言えない一面があるのだ。

 それは映画の後半、「エンタープライズ」内で内輪もめが一段落して、とりあえずカークが指揮を執ることになったあたりを見れば分かる。

 まだ若い面々…カークもスポックもマッコイも…チェコフなんて幼さすら感じさせる顔だが、そんなまだ青二才の彼らが口からツバ飛ばしながら、「エンタープライズ」の司令室で今後の作戦についてああだこうだワイワイガヤガヤ言い合うあたりが、まるで高校の文化祭前夜のやりとりを思わせて実に微笑ましいのである。

 そして、実に「熱い」。

 こんな前向きに「熱い」場面を、僕はアメリカ映画で久しぶりに見た。

 それは、明るい未来を信じているからこそ出来る、真っ当で真っさらで前向きな「熱さ」なのだ。そして、僕はこんなアメリカ映画が見たかったのである。

 そして、元々「宇宙大作戦」ってそんなドラマじゃなかったか?

 そもそもオリジナル・シリーズ放映当時、ウィリアム・シャトナー扮する「エンタープライズ」の「若き艦長」はどこかケネディ大統領を思わせる面影だったし、クルーは各国の人種混交メンバーという布陣。使命はケネディの政策を連想させる「フロンティア」的な宇宙開拓となれば、一体何を描きたかったのか明白だろう。オリジナル・シリーズには、1960年代当時のアメリカの希望や夢が託されていたのだ。それは、まだ1960年代当時に小学生だった僕でも分かる。

 その後、オリジナル・メンバーを起用しての映画版は、ファンには嬉しかったが懐かしの面々の腹芸大会にしかなっていなかった。昔を知っている人々には嬉しかっただろうが、それは彼らだけの「閉じた」お楽しみの世界だった。続編が作られれば作られるほど、微妙に最初のオリジナル・シリーズからズレていったに違いない。

 大いに若返り「青春映画」と化した新「スタトレ」には、オリジナル・シリーズに元々あった「前向きな夢と希望」がよみがえっている。

 僕も、おそらく「スタトレ」ファンも、そして…厳しい時代に直面している今のすべての人々も、きっとそんな「前向きな夢と希望」こそを求めているのである。

 

 

 

 

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