「グラン・トリノ」

  Gran Torino

 (2009/05/18)


  

見る前の予想

 近年、俳優としてより監督としての名声がとみに高まるクリント・イーストウッドだが、ひょっとしてもう俳優業から足を洗うのかと思っていたら、ひょっこりまた監督・主演兼任で帰ってきた。

 ところがこの久々の監督・主演作、彼の生涯最大のヒットをかっ飛ばしたと聞いて、さすがに僕も驚いてしまった。「スペース・カウボーイ」(2000)より…いやいや、あの最大の当たり役を得た「ダーティハリー」(1971)よりもヒットしたというのか。だってイーストウッドってもう70代というより80近い高齢だろう?

 それが「イーストウッド史上ナンバーワン」なんだって(笑)?

 そもそも「イーストウッド史」(笑)っていう言い方をすべきなのかどうか分からないが、ともかくキャリア中のベスト。それを人生の後半戦もかなり後の方になって達成しちゃうってんだから、話は穏やかじゃない。

 確かにイイ映画っていえばいい映画なんだろう。伝え聞く物語も何となくそんな感じだ。だがイーストウッド映画の場合、世間の受けとめ方に「好意的誤解」が多分に含まれているため、見るときにはそれを念頭に見ないと痛い目をみることがある。世間で見ているほど、イーストウッドはいつも「イイ味出してる」わけじゃない。結構毒も出してるし歪んでもいるのだ。

 それでもこの映画、何となく見る前の佇まいからして「いい感じ」を放っている気がする。これは理屈ではない。映画ファンとしての「勘」だ。それでも、こういう感覚が意外にバカにならない。そんなわけで、深夜の映画館に滑り込んだ次第だ。

 

あらすじ

 ここはアメリカ中西部の小さな町。教会ではある葬儀が営まれていた。

 それは、年老いた男ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)の妻の葬儀だ。しかし当のウォルトは、葬儀の最中も苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

 本来、厳粛なはずの葬儀にふざけてばかりの孫ども。特に孫娘(ドリーマ・ウォーカー)ときたら、ヘソ出しにピアスとナメているとしか思えない出で立ち。肝心のウォルトの息子二人(ブライアン・ヘイリー、ブライアン・ハウ)はといえば、それをたしなめるどころか…ウォルトの偏屈ぶりに辟易といった様子。

 そう、ウォルトは「偏屈ジジイ」として、親族からいささか持て余されている存在だった。

 葬儀が終わって自宅でのささやかな集いに移っても、周囲の賑わいから浮きまくるウォルト。ウォルトもウォルトで、集まった客たちに「どうせハムを食いに来ただけだろう」と毒づく始末。まだ若いヤノビッチ神父(クリストファー・カーリー)がウォルトに話しかけても、あからさまに迷惑そうな態度を隠そうとしない。

 「奥さんから、ご主人のことをよろしくと頼まれました」

 「ふん、余計なことを」

 あげく懺悔に来るように勧める神父に対して、「頭でっかちで童貞で、バアサンを相手に理屈を言ってるだけ」と罵声を浴びせるウォルト。そんなウォルトがガレージで例のピアス娘を見つけた時…それも彼女がウォルト自慢のヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」を眺めている姿を見つけた時…の胸中をご想像いただきたい。

 「イカス! ねえ、おじいちゃんが死んだ時、これもらえない?」

 ウォルトはそんな時、例え相手が孫娘であろうとも、その場にツバを吐いて侮蔑の表情で立ち去ることを躊躇はしない。

 そんなこんなで葬儀後のパーティに居場所がないウォルトは、ウンザリした顔で家の回りを見渡す。もっとも、家の回りはもっとウンザリだ。不況の波をまともに食らって、町は変わった。本来の住人たちはとうに越してしまい、周囲は見知らぬアジア系の住民たちで溢れかえっていた。連中ときたら、訳の分からぬ言葉をゴチャゴチャしゃべって、ロクに庭の手入れもしない。

 「まったく米食い虫の黄色い連中が!」

 そんなウォルトの隣家に、東洋系の若者タオ(ビー・バン)がいた。

 彼は姉のスー(アーニー・ハー)を筆頭に女ばかりの家の中にいるせいか、はたまた彼本来の性格のせいか、どこか気弱で頼りないところがあった。今日も今日とて庭いじりのタオ。そんな彼に声をかけてきたのが、従兄のスパイダー(ドウア・モウア)たちの不良グループだ。

 「おい、オレたちとツルもうぜ、家族じゃねえか。そんな女々しいことやってねえで男になれや!」

 相手にしないタオだが、スパイダーたちもしつこい。タチの悪い相手だけに無視するわけにもいかない。結局連中の言いなりに「男になる」ことを強いられるタオだった。では、一体何をやらされるのか?

 深夜に物音で目を覚ますウォルト。さすがに昔取った杵柄か、サッと銃に躊躇なく手を伸ばす。物音はガレージから聞こえていた。ウォルトが銃を構えながらガレージに入ってみると…そこには例のタオが、「グラン・トリノ」を盗みに忍び込んでいるではないか。

 「貴様っ!」

 勇ましく発砲したのはよかったが、はずみでその場にコケてしまったウォルト。慌てたタオは脱兎のごとく逃げ出した。こうしてタオは何とか無事に済んだのだが…。

 そんなウォルトの元に寄りつくのは、「グラン・トリノ」目当ての若造ばかりではなかった。あのヤノビッチ神父も、あれだけウォルトに邪険に扱われているのに、懲りずに説得にやって来ていた。

 「オーケイ、じゃあ生と死の話をしよう。あんたはそれが何か知っているのか?」

 むろんウォルトは知っていた。朝鮮戦争に出兵した時、イヤというほどそれを見てきた。何人無垢な若者を殺してきたことか。今の今までそれを思い出さない日とてない。

 「誰でも赦しは得られます。上官に無理強いされて手を汚したとしても…」

 「確かに赦される者もいるだろう。だが、ひとつ違うな。オレが手を汚したのは、上官に強いられたからじゃない。自分で好んでやったのさ。だから忌まわしいんだよ…」

 そんなある日、庭いじり中のタオに、またしてもスパイダーたちが絡んでくる。しかも再度「グラン・トリノ」の盗みを持ちかけるに至って、さすがにタオも「イヤだ!」と拒絶。こうなるとスパイダーたちも退くに退けない。タオを追い詰めて無理難題を吹っかけてくる。いよいよタオに危害が加えられようというちょうどその時…。

 そこには怒りに燃えた表情で、銃を構えたウォルトが立っていた。

 「オレの庭から出て行け!」

 スパイダーたちはタオを追い詰めているうちに、ウォルトの家の庭に踏み込んでいたのだ。自分の領域を侵されたとあっては黙っていられない。盛んにイキがるスパイダーたちではあったが、ウォルトは断固として連中を叩き出した。喜んだのは隣家の住人。タオの姉のスーや親戚たちが、次々と花や食べ物を持ってやってくる。だが、ウォルトは別にタオを助けたかった訳ではない。結局いつもの偏屈さを発揮して、彼らも断固として庭から追い出すウォルトであった。

 しかし偶然は重なるもの。今度はクルマで往来を行く途中で、黒人不良連中に絡まれているスーを助けるウォルト。しかも、なかなか気っぷのいいスーとは、意外にも会話がはずんだから世の中分からない。「黄色い奴」「米食い虫」一点張りだったウォルトに、彼らが米国に移民してきたモン族であることを教えたのもスーだった。

 それに引き替え…久しぶりに訪ねてきた息子夫婦が誕生日祝いをしてくれたかと思いきや、この家を処分して老人ホームへ入れという何とも「有り難い」お話。ウォルトが激怒して二人を叩き出したのは、言うまでもない。憮然としていたウォルトの元にやって来たのは、例の気が置けない娘スーだった。

 「誕生日ならうちに来ない? ビールだってあるわよ」

 例えビールが欲しかったとしても、それまでのウォルトだったら決して隣家に足を運ぼうとは思わなかっただろう。彼をそうさせたのはスーの気さくさか、それとも彼自身の中で何かが変わったのか。ともかく、親戚一族郎党で所狭しと賑わう隣家の中に、ウォルトはおっかなびっくり足を踏み入れる。さすがに最初は勝手が分からず、いつも以上に浮きまくるウォルト。しかしスーにあちこち引き回されている間に、徐々にこの雰囲気に慣れてきた。慣れてきてしまえば元々身内の中でも孤立しているのだ、多少の浮きっぷりなど気にならない。おまけに食い物もうまいと来る。

 思わず咳き込んだウォルトは、吐いた血をスーの目から隠そうとトイレに籠もる。実はここ数日、ウォルトはイヤな咳と血痰に悩まされているのだ。確かに何かが自分の身体を蝕んでいる。

 だが、それより…これはどうだ。すっかり心が通わなくなった身内より、ここの連中の方がずっと親しく感じるってのは、一体どうしたことなんだ? 偏屈が「売り」だったはずのウォルトは、この状況にすっかり当惑せざるを得ない。

 おまけにモン族の祈祷師に占いを見てもらい、自分の暗い心の内を見透かされるウォルト。そんなこんなで、彼の心の垣根はひとつ、またひとつと取り除かれていく。

 一方、スーはウォルトに弟タオのことを相談する。心根が優しいのはいいとして、今ひとつ頼りない弟。そんな話を聞かされるに及んで、ウォルトのタオを見る目も徐々に変わっていかざるを得ない。

 それから間もなくのこと、スーと母親がタオを連れて、ウォルトの家にやって来る。例のクルマ泥棒の一件のお詫びに、タオを一週間働かせてくれ…と持ちかけるスーと母親。面倒くさいことになったと苦り切るウォルトだが、一族の名誉がかかっていると来れば穏やかではない。最初は頑なに拒絶の構えだったウォルトだが、尻込みするタオが「本人もいいって言ってるんだから、無理しない方がいいよ」と言うや態度を翻した。

 「オマエは黙ってろ。よし、明日から来い!」

 そうはいっても、初日は彼を持て余してしまうウォルト。そのうち隣近所の家のオンボロぶりに目をとめたウォルトは、それらを次々とタオに直させた。すると、不思議なことに徐々にタオもそれを嬉々としてやり始める。こうして隣家、そしてタオとの不思議な交流が始まったウォルトは、いつの間にかそこに新たな喜びを見出していたのだった。

 さらにウォルトはタオを長年の悪友であるイタリア系の床屋の元に連れ出し、「男の会話」を実践させる。仕事のない彼に、建築現場の仕事を世話する。美女とのデートには自慢の「グラン・トリノ」を貸してやる…と、男の「先輩」としてさまざまな事を教えてやるウォルト。

 しかしそんなタオの様子を面白く思っていないスパイダーたちが、彼ら一家を黙って見ているはずがなかった…。 

 

見た後での感想

 この作品、とてもいい映画だと思う。

 僕がイーストウッド映画をストレートにホメるなんて意外と思われるかもしれない。いつもだったらイーストウッド映画は変態だとか、実は演出していないとか(笑)、ファンを激怒させるようなことばかり書いているので、どうしちゃったんだ?と思われるかもしれない。…もっとも、「変態」だとか「演出不在」とか言っているのも、あれはあれで僕なりのイーストウッド映画へのホメ言葉のつもりだったのだが、読み手にはなかなかそうは伝わっていないかもしれない。いや、伝わっているわけないな(笑)。

 実際のところいい映画で、僕はすっかり気に入った。いや、実は気に入った…だけでは済まない部分もあるのだが、それはまた後の話。ともかくそれだと大方の世評の通り。何も僕があえてここでアレコレ言うこともない。「千本ノック」の短いレビューでチョイチョイと語っておけば済むことである。なのに、なぜわざわざ長々とここに感想を書こうとしているのか。

 話かわるが、この映画、前にも語ったように「イーストウッド史上ナンバーワン」のヒットなんだそうである。

 そのこと自体に何もケチをつけるつもりはない。それどころか、いい映画なのは間違いないと思う。世評がホメるのも無理はないと思う。

 ただ…そんな怒濤の大成功に対して、ちょっとした違和感を感じないわけでもない。

 いや、「そんなイイ映画じゃないだろう」とか「面白くない」とか、そんなケチをつけようというわけではない。世間の連中の目は節穴だと言うつもりもない。僕が感じた「違和感」は、そんなところにあるわけではない。

 ただ…この作品って、そんな「賑々しさ」「華々しさ」「晴れやかさ」とは、ちょっと違ったところにあるんじゃないかって気がするのだ。

 つまりは「イーストウッド史上ナンバーワン」なんて言葉とは極北の、もっとひっそりした佇まいを持っている映画じゃないだろうか。「イーストウッド史上」(笑)とか「ナンバーワン」とかって言葉ほど、この映画に似つかわしくない言葉もないような気がする。

 ぶっちゃけ、この映画って「小品」だろう。

 「イーストウッド映画人生総決算」的な宣伝が行き届いちゃってるから、何だか妙にスケール感が出ちゃったり、「傑作」「名作」「話題作」「ヒット作」のデカさが貼り付いちゃっているが、実はお話の規模も、制作費も何もかも、思いっ切りちっちゃい作品だ。

 仮にイーストウッド映画としても、近年は監督としても俳優としても「神がかったカリスマ」が漂っているものの、これがまだ「許されざる者」(1992)で「巨匠化」する前だったら、ヘタしたら「センチメンタル・アドベンチャー」(1982)とかあのへんの作品と一山いくら扱いで片付けられちゃったかもしれないくらいの「小ささ」である。もちろん味わいはその頃の作品とは比べモノにならないものの、その評価の半分は「巨匠化」「神がかったカリスマ」でいささか過剰に膨らんでいるきらいがなきにしもあらずなんで、いろいろさっ引いてみると、やっぱり地味〜な小品であることは間違いない。

 お話も実に地味だ。イーストウッド・カリスマをとっ外してみれば、かなりこぢんまりとした作品でしかない。頑固ジイサンを巡るご近所との和解と諍いのドラマだ。スケールでっかくなりようがないのである。

 それでは、この映画が身の丈以上の「大きさ」を獲得したのは、すべて近年のイーストウッドの「神がかり」的イメージのおかげ…なのだろうか?

 いや、僕はむしろこの映画の真価は、近年のイーストウッド・カリスマ…あまりに偉くなりすぎて神棚に祭り上げられているようなイメージよりも、もっと別の要素に根ざすものだというような気がする。

 それは、むしろ俳優イーストウッドの「総集編」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イーストウッド総集編と「原点」黒澤イメージ

 今回イーストウッドが演じるのは、東洋人や黒人にも人種偏見を隠さない、およそ偏屈で扱いにくいガンコ老人の役だ。

 しかも映画のエンディングでは、悪者をバッタバッタとやっつけ叩きのめして終わるかと思いきや、確かに彼が演じるヒーローとしては異例な行動に出る。これが「意外」といえば「意外」だ。

 その意味で、それまでのイーストウッド・イメージと大きく違った役を演じているとも言えるが、実際のところそう思っている人はこの地球上にはいないだろう(笑)。

 むしろ、またまた「毎度おなじみ」イーストウッド。イーストウッドはイーストウッドしか演じないし、できない。それは今回も変わらなかった。

 それどころか、今まで以上に「イーストウッド」だった。

 今までよりもずっと「イーストウッド度」が高い。さすがに「イーストウッド史上ナンバーワン」はダテじゃない(笑)。「イーストウッド度」が最高に高いのだから、「イーストウッド史上ナンバーワン」になるのも無理はないのだ。いやいや、これは別に笑い話で言っているんじゃない。本当に今まで以上に、純度100パーセントの「濃いいイーストウッド」が打ち出されているのである。

 まずは今回のイーストウッドの役どころ、偏屈で扱いにくいガンコ老人というキャラクターはどうか。確かに人種偏見むき出しって役柄は「らしく」ない。黒人ガンマンのモーガン・フリーマンが相棒で、そのフリーマンがリンチにかけられて殺されると、町の連中にキッチリと落とし前をつけさせる「許されざる者」のイーストウッドを例に挙げるまでもなく、そんな彼は確かに今まで見たことがないのである。

 しかし、その「偏見」部分を取り除いた偏屈で扱いにくいガンコ老人キャラとなると…実はここ最近、僕らはそんなイーストウッドしか見せられてないのではないか。「スペースカウボーイ」の彼をあえて見るまでもなく、近年のイーストウッドは文字通りガンコジジイそのもの。すでに年齢が年齢なので、そうにしかなりようがないのは確かだが、スカッと無条件にカッコいいヒーロースターとしての彼は、もうとっくの昔に消えている。強いて言うなれば「マディソン郡の橋」(1995)がその最後だと言えなくもないが、あれはあれで「コワモテでないイーストウッド」だから、それこそ異例と言えるだろう。つまり、イーストウッドはもうとっくの昔からガンコジジイだったのである。

 劇中の彼は、朝鮮戦争当時の忌まわしい記憶に囚われている。その偏屈さの原因の大きな部分も、戦争のトラウマが生んだものだ。そんな戦争の残像に苛まれているキャラクターとしてまず思い出すのは、時々戦争後遺症がうずいて意識を失い、危機に陥る「ファイヤーフォックス」(1982)の主人公。他にもあったような気がするが思い出せない。ともかく、あの時のイーストウッドを連想させる。

 そんな「イーストウッド度」の高さを感じさせるこの作品、例外的に思えるのは、前述した「人種偏見」の部分と結末の「意外」性の2つ。

 ところが、この例外的な部分ですら、実はより「イーストウッド度」を高めているからビックリだ。

 今回の主人公は、相手構わず「黒いの」だの「黄色いの」だの「米食い虫」だの、口を開けば差別用語をバシバシぶっ放す。それも、相手に面と向かって言っちゃうから、正直言ってかなり困ったジイサンだ。ところがお話がかなり進んでくると、僕らはその事実の意外な一面に気づかされる。

 主人公と馴染みの床屋との、憎まれ口叩き合う食えないやりとりがそれだ。

 イタリア系のこの床屋に、主人公は「イタ公」だの何だの言いたい放題。「オマエがいなくなりゃ、もうちょっとはマシな床屋がやって来るさ」とか何とか、ムチャクチャな言いようだ。だが床屋はそれを嫌がる風でもなく、悪口を聞いてもまったく動じない。それどころか、床屋の方も負けてないのだ。「このポーランドのジジイが!」

 結局ここへ来てこのやりとりを目の当たりにしているうち、僕らもそれまでの考えを改めなくてはならなくなる。後になって主人公が隣家のモン族の少年に「男の手ほどき」をし始める時、まずこの床屋に連れて行って悪口雑言のレッスンを行うところを見よ。そこで主人公は、これが「男の話し方」だと言っている。

 人種偏見に満ちた発言を連発し、愛想もない男。しかし、それが相手が東洋人であろうと黒人であろうと、そしてイタリア人であろうと…白人であろうと、さらには気に入らない相手にだろうと気に入る相手にだろうと…相手構わず放たれる言葉だったとしたら、僕らはそれを「人種偏見」のしるしとして見る既成概念から、ちょっと考え方を変えねばならないだろう。彼はどんな相手にも分け隔てなく…何と聖職者に対してですら…平等に悪口雑言をまき散らすのである。

 だとすると、それはいわゆる「悪口雑言」ですらないのではないか。

 その手がかりは、たまたま主人公が隣家の少年を「助けた」後、その親戚の女たちが料理やら花やらを次から次へと持ってくる場面にある。たまりかねた主人公は「やめてくれ」と怒鳴り、花をゴミ箱に捨ててしまう。確かにそれこそが「人種偏見」であり「偏屈」なところのように見えるが、実はそれってそんな忌々しさとはちょっと違う感情のせいではないか?

 彼は、照れているのである。

 確かに元々は少年を「助ける」つもりはなかった。自分の庭を荒らされたくないと思っていた。ただ、それだけだったのかもしれない。しかし偶然から自分が行ってしまった「善行」に対して、思いもかけず照れてしまったとしたらどうだ。あるいは、それを賞賛されることに対して照れてしまったとしたら。何しろ、それまで万事コワモテで売って来た男だ。あるいはイタリア人の床屋とのやりとりのように、悪口雑言を言い合うことが「男らしい態度」だと思っている男だ。「いい人」と言われ、感謝をされるなんてことは、こそばゆくって恥ずかしくって、居ても立ってもいられないだろう。だからこそ自分に好意や賞賛を持って近づいてくる人にまで悪口雑言を放ち、わざと悪ぶって吠える。

 僕はそんなイーストウッド演じるウォルトを見ているうち、ある別の映画を思い出した。

 悪党の魔手から助け出された女郎とその亭主が、感謝の気持ちを込めてしたためた手紙。しかし助けた当の素浪人は、居酒屋でそれをもらってもちっとも喜ばない。手紙を邪険に扱うばかりか、イライラと怒りを露わにするアリサマだ。

 実はこれ、黒澤明の娯楽時代劇「用心棒」(1961)の一場面である。

 ここで三船敏郎が演じる主人公の素浪人・三十郎こそ、僕がイーストウッドのウォルトの振る舞いを見ていて思い出したものだ。

 そのあたりは「用心棒」と同じく三十郎が登場する姉妹編椿三十郎(1962)を語った僕の感想文をご参照いただきたいが、そこにも書いたように“「わざと悪く言う」「わざと気に障る言い方で言う」ような男”で、“言わば「偽善者」の正反対に位置する「偽悪者」”…が主人公・三十郎である。まさしく…さすがにソコソコ「もうすぐ四十郎」程度の三十郎だから、さすがに偏屈なガンコジジイとまではいかないまでも…好意や賞賛を持って近づいてくる人にまで悪口雑言を放ち、わざと悪ぶって吠えるウォルトそのものではないか。

 そして三十郎こそ、イーストウッドの出世作「荒野の用心棒」(1964)の原型ではないか。

 つまりイーストウッドは今回、自らのイメージの最原点に立ち戻ったわけだ。いや、この手のキャラなら前々から繰り返して演じていたが、それを今回は極限までデフォルメして演じきった。だからこそ、今までになく「濃いいイーストウッド」(笑)になったわけである。

 さらに話を脱線させていくと、大いなる先達と青二才の「師弟関係」とか、子に背かれた男が死期を意識しての「生き甲斐探し」とか…実はこの映画には、それ以外にも黒澤映画的キーワードがゴロゴロしているのである。これには驚いた。

 しかしそれも、イーストウッドの原点が「荒野の用心棒」であることを思い起こせば、まったく不思議ではない。イーストウッド映画の本質に根ざした部分に、元々「黒澤映画」のDNAが注入されていたのだと考えれば、別に驚くには当たらないことなのである。

 ともかく黒澤=「荒野の用心棒」連想から、主人公の過度な偽悪的ポーズには理由がつく。なるほど、これで「例外的な部分」の前者は解消した。では、後者の“結末の「意外」性”はどうか。

 これはもう、主人公がチンピラに指で銃を撃つポーズを見せて威嚇するあたりで分かるではないか。

 この指でバ〜ンと銃を撃つポーズは何度も劇中繰り返され、その都度チンピラどもを挑発するかたちで行われる。これが最終的な悲劇の前兆となり、かつ、エンディングの「意外」性を生むわけだが、イーストウッドのこのポーズを見て、マグナムをぶっ放すハリー・キャラハンの姿を思い出さない人はいないだろう。

 この設定は、かつてマグナム44をブッ放していた元ダーティ・ハリーことイーストウッドだからこそ絵になるし、映画としても成り立つ。あれがそこらのジイチャンじゃ、チンピラに対する威嚇にならない(笑)。そもそもあの「衝撃のエンディング」が、見ていて「意外」だとは思えないはずだ。実はあのエンディング、作劇上は大して意外ではない。あれが別の老俳優だったら充分想定内だし、別に衝撃もおぼえまい。元ダーティ・ハリーが選択した「あの結末」だからこそ衝撃的なのである。そこには後年の「神がかり」的カリスマとは異なる、もうちょっと生臭かったスター=イーストウッドの残像が活かされているのだ。

 従来のイーストウッドからすればハズレたエンディングも、そこに従来のイーストウッドならではの積み重ねがあるから成立している。

 この映画が今まで以上に「イーストウッド度」が高い、「濃いいイーストウッド」が充満しているというゆえんはそこにあるのだ。

 

ただ一点を除いて独創性も突出したところもない映画だが

 このようにこの「グラン・トリノ」は、過去のイーストウッド作品の残像があちこちに散見される。むろんこれまでのイーストウッド作品もそういう傾向がままあったが、特に今回はその度合いが強いように思われる。

 そしてそれがなければ、実はこの作品…先にも言ったように、世間で鐘や太鼓で「傑作」「名作」「話題作」「ヒット作」とドンドコうたわれているように構えがデカい作品でも何でもなくって、ごくごくちっちゃい「向こう三軒両隣」的な作品だと思う。

 そしてもっと突っ込んだ言い方をすれば…ごくごくありふれたお話に過ぎないと思えるのだ。

 偏屈な老人と絶対的「他者」である隣人、それが知り合い和解し合う過程。そして良好に進み始めたと思われた人間関係に、横からじゃまが入ってくる…。

 まったく驚きがない。

 展開の妙もない。語り口の鋭さもない。みんながみんな「見事」「うまい」とホメ言葉を連発しているが、僕自身はこのお話自体は悪いものじゃないとはいえ、さほど独創性も傑出したところもないお話だと思う。先に述べたように「衝撃のラスト」でさえ、本来だったら観客にそれほど驚きを与えないだろう。少なくとも、本来はビックリするような勢いで「傑作だ!」などと叫ばれるような作品ではないはずだ。

 確かどこかの海外メディアがこの作品を評して、「どうやったらこんな傑作を作れるのか分からない」とか言っていたようだが、僕に言わせれば「どうやったらこれがそこまで傑作だと言えるんだか分からない」と言いたいくらいだ。

 こう言ったら、この文章を読んでいるみなさんは、僕が「グラン・トリノ」をあまり評価していないと思われるだろう。世間で言ってるほどの映画じゃないと言いたいんだと思われるだろう。

 実際そのはずなのだ。この映画ならば。

 悪い映画じゃないけど、それほど怒濤の勢いでホメられる映画じゃない。そう思うのが自然だ。まぁ、いいんじゃないの…ってくらいが関の山な映画。そんなとこだろう。

 ところがそうではないから、映画ってのは分からない。

 素晴らしいのである。特別なのである。理由はよく分からないのだが、見ていて鬼気迫るものがあって、見ていてのめり込まされるのである。

 ひとつには、こんな結末を迎える話のわりにユーモアがある点がいいのだろう。

 イーストウッドと隣家の女の子との交流、少年との交流は、その会話が機知に富んでいて結構笑える。最初は邪険に扱っていたのに、その食い物のうまさを知ったとたん主人公が隣人を無下に追い返さなくなるあたりもなかなかおかしい。イーストウッド映画でこんなに笑えたのは、ひょっとしたら「ブロンコ・ビリー」(1980)以来ではないだろうか。そういう意味で、笑いがエンディングの悲劇性を浄化したとも言えるだろう。

 そして登場人物の気持ちよさ。むろんモン族の人々の描かれ方には、とても好感が持てる。「すっかり心が通わなくなった身内より、ここの連中の方がずっと親しく感じる」っていう台詞は、見ている者の心に残る言葉だ。

 さらに、特に素晴らしいと思ったのは若い神父の扱い。最初は青二才扱いしてコケにしたあげく画面から退場させるのか思いきや、何とこの神父も懲りずに何度も主人公のもとにやって来る。すると忌々しげに応対している主人公も、その「不屈」の態度には明らかに敬意を示し始めるではないか。最初こそ完全にバカ扱いで門前払いだったものが、徐々に両者に会話が成立してくる。ついにはこの神父の元々の勧めに従って、教会に懺悔にまで行ってしまう。それはつまり、「オマエを認めた」ってことだろう。

 最初なんて「ウォルト」と名前で呼びかけたら「コワルスキーさんと呼べ!」と剣もほろろだったのが、最後には「ウォルトでいい」と言うあたりの細かい配慮が嬉しい。「男」が相手を「男」と認めるあたりのサジ加減が、実に「らしい」のである。

 しかしそれも…嬉しい配慮であり味わいではあるが、映画全体はやっぱり驚きや独創性に欠ける。では、この映画のどこが傑出して独創的なのかと言えば、それはたった一点に集約されるのだ。

 すなわち、これをクリント・イーストウッドがこの年齢で演じているということだ。

 今までの映画人生の集積をその背後に感じさせながら、年老いたイーストウッドが…しかもいつ俳優業を引退してもおかしくない状況下で…これを演じているというところが最大の独創性なのである。それがなければ、言っては悪いがこれは「ありふれた映画」である。イーストウッドがこの年齢、この状況下で演じている映画だから、この映画は特別な意味を持ち得たのだ。

 そしてイーストウッド自身もそれを大いに意識して、自らの俳優としての「総決算」として演じているように見える。

 今まで以上に「イーストウッド度」が高い、「濃いいイーストウッド」が充満しているのは、そのためなのである。

 

ごくごく個人的な感想

 というわけで…というわけで、僕は一体何を言いたかったのだろうか?

 どうも最近、映画の感想文を書いていると、どう終わらせたらいいか途中で忘れてしまって困る。というか、どういう結論にしていいのか分からなくて困るというのが本音だろうか。

 昔なら無理矢理に力業で結論らしきものに持っていき、それが「自論」であるってな文章にしちゃっただろうが、正直言ってもうそんなことをしようという気力も意志もない。それが本当に自分の感じたこと、自分の言いたかったことだったんだろうかって気持ちもある。

 10年もやってりゃ気分も変わる。

 何だか思いついたことだけを並べておければ、それでいいんじゃないかと思い始めてもいる。正直言って自分のために映画感想文なんぞを書くとしたら、そんなものだろう。それでいいんじゃないかと思う。

 で、この映画に関して言えば、世間じゃバケツの底が抜けたような大絶賛だし、僕もすごくいい映画だなとは思うけれど、本来はそれほどの映画じゃないんじゃないだろうかってことを言いたかった。

 この映画がスゴイとすれば、それはこの年齢のイーストウッドの映画だからスゴイのだ。

 あとは…そうだなぁ。僕のごくごく個人的な感想のことだろうか。

 実はこの映画を見ていて、僕はそれ以外の個人的な感慨をいろいろ持った。それはいつでも「個人的」な感慨ってのはあるんだけど、今の「それ」はまた特別。この年齢、この状況下の「今年の僕」だからこその感慨だ。そう書けば、ここをずっと見てくれている方ならピンと来るかもしれない。「またそれかよ」と言われても仕方がないけれど、今年の1月に亡くなった父親に関することだ。

 この映画の主人公ウォルトは人生の最後に隣家の少年を教え導き、命をかけて何かを守った。

 うちの父親は別にそれほど大層なことはやっていないし、本人もそんな気概を持ってはいなかった。ヒロイックに振る舞うはずもない人だったし、三十郎やダーティ・ハリーの残像がチラつくわけもない。第一、最後の最後まで僕らも本人も亡くなるとは思っていなかった。おまけに出来たセガレも、いい歳こいて職も転々とするわ女房ももらわないわの出来損ない。

 しかしいつまでも大人になり切れていなかったこの僕も、「父の最後」にはかなり教えられるものがあったように思う。

 特に亡くなるまでの3日間と亡くなってからの1週間…この10日ばかりの日々からは、ずいぶんいろいろなものを受け取った。それは父自身も意識していなかったことだろうが、父が僕に残した最大の「遺産」のような気がする。これからの人生をどう生きていくかについて、ヒントというか示唆というか…そんなようなものだ。父は自らの死を以て、間違いなく僕に何かを教えてくれたのである。

 そんなアレコレを、またこの映画で思い出させてもらった。

 そんなことは、この映画の意図や出来栄え云々とはまったく関係ないことだろう。関係ないが…そのことこそ、実は僕にとって最も重要なことなのである。

 

 

 

 

 

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