「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」

  The Curious Case of Benjamin Button

 (2009/04/27)


  

見る前の予想

 この映画の存在は、映画館の予告編で知った。たぶんオスカー・ノミネーションの発表直前の1月末か2月初めぐらいだろう。

 ファイト・クラブ(1999)以来の…そして「セブン」(1995)から数えて3作目のブラッド・ピットデビッド・フィンチャーのコラボ。しかも相手役はアブラの乗りきったケイト・ブランシェット。オスカー有力候補にならなくっても、映画ファンなら見たくなるのが当たり前。僕だって、そりゃ見たくてたまらなくなった。では、公開されたら映画館にすっ飛んでいったかというと…。

 ヒットしてるだろうから混んでいるかなぁ。もうちょっと長くやっているだろうし。今ちょうど仕事が忙しくて…てな感じでついつい放置しちゃったのだろうか。上映館が1館また1館と減ってきても、僕は重い腰を上げようとはしなかった。そんなこんなしているうちに、都内でもやっている映画館は1館だけ。それも今週(4月20日〜24日)一杯で終了というところまで来てしまった。

 さぁ、どうする?

 忙しいのは山々だが、ここで見なければ後悔する。僕は慌てて上映館に駆け込んだという次第。

 

あらすじ

 それは台風が接近中のある日のことだった。キャロライン(ジュリア・オーモンド)は病室で、年老いて死期が間近い母親デイジー(ケイト・ブランシェット)の看病をしていた。窓の外は大嵐。この病院にも今に避難勧告が出ようという勢いだが、デイジーの容態もいよいよ深刻になっている感じだ。意識も混濁しているおうで。時折理解不能な話を口走り始める。

 盲目の時計職人のガトー氏の息子は、第一次世界大戦で戦死した。悲嘆にくれたガトー氏は、かねてから依頼されていた駅の大時計の製作に没頭。出来上がった時計は、なぜか逆回転する時計だった。しかし、これこそガトー氏の作りたかったもの。時計が逆に回転し時が遡れば、戦いで死んだ若者たちも亡くなる前の時点に戻る。そして出征する前に戻るから、みんな我が家に戻ってくる。ガトー氏が作りたかったのは、まさにそんな時計だった…。

 それは単にデイジーの乱れた意識が生み出した妄想だったのか、それともこれから語られる長い長い物語の前振りだったのか。ともかく息も苦しそうなデイジーは、持参した分厚い手帳の中身を読んでくれ…とキャロラインに頼み込む。キャロラインはその年期の入った手帳をめくりながら、声に出して読み始めた。

 「私はベンジャミン・バトン、風変わりな人生を歩んできた…」

 彼、ベンジャミン・バトンが生まれたのは、1918年のこと。第一次大戦が終わり、街中がお祭り騒ぎに沸いていた夜のことだった。彼の父にあたるトーマス・バトン(ジェイソン・フレミング)が慌てて屋敷に帰ってきた時、妻の出産に立ち会った医師たちは一様に暗い顔をしていた。まれに見る難産だったために、妻の身体は衰弱して死を待つばかり。トーマスに「あの子をよろしくね」と言い残すのがやっとだった。唖然呆然のトーマスが生まれたばかりの「我が子」を見てみると…。

 こいつは化け物か?

 まるで死の床にいる老人のように、シワくちゃで張りのない肌。どう見ても新生児には見えない。妻が命を賭けてこの世に生み出したのが「これ」なのか。すっかり動転したトーマスは周囲の制止を振り切り、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえて屋敷を飛び出す。

 いっそ、川に落として殺そうか。しかし幸か不幸か、それは警官に見つかって危うく未遂に終わる。追ってくる警官から逃げて逃げて逃げて、トーマスが逃げきった先は、とある老人施設の中。中から人が出てくる気配を察しながら、トーマスは建物の入口前の階段に赤ん坊を置き去りにした。

 降りて来たのは、施設で働く黒人女性のクイニー(タラジ・P・ヘンソン)。こんなめでたい日に置き去りにされた気の毒な子、しかもシワくちゃでどう見ても訳ありの子。そんな赤ん坊に深い同情を寄せたクイニーは、この子を自分の子供として育てようと決心する。元々、ここ老人施設でお年寄りたちの面倒を看てきた彼女は、世話をすることには何の抵抗もなかった。それがシワくちゃの異形の赤ん坊でも同じ事。

 しかし確かに異形は異形だったが、ここ老人施設ではシワくちゃなのが当たり前。そんなわけでこの赤ん坊は、老人たちに「オレたちの仲間が増えた」ってな扱いを受けて、成長することになる。

 普通なら外で遊ぶ年頃なのに、ベンジャミン(ブラッド・ピット)は歩けずに車椅子生活。相変わらずシワだらけの肌にわずかな白髪の頭。見てくれはどう考えても「老人」だ。そんな中でもわずかながら「奇跡」は起きる。ある日クイニーが連れて行った神懸かり伝道師の力かはたまた偶然か、ベンジャミンは車椅子から立ち上がり、わずかながらも歩けるようになった。その代わりのように、伝道師はその場で神に召されたのだったが…。

 不思議なことにベンジャミンは老人としてこの世に生まれ、他の人たちとは逆にどんどん若返っていったのだ。

 そんなある日、ベンジャミンは運命的出会いをする。施設に収容されていた老女の孫娘デイジーと出会ったのだ。二人はなぜか通じ合うものを感じる。

 またある時には、ベンジャミンは豪快なマイク船長(ジャレッド・ハリス)と知り合い、彼の船で働くことになった。そこで初めてカネを稼ぎ、初めて酒を飲み、初めて女を知る。そしてそんな女郎屋で、たまたま一人の初老の男と知り合う。親しげにベンジャミンに話しかけてきたその男こそ、彼の本当の父親トーマスではないか。しかしその時はまだ、ベンジャミンはそのことに気づいていなかった。

 さらに「青年期」になったベンジャミンは「我が家」を出て、マイクの船に乗って外洋へと乗り出した。別れ際にデイジーに手紙を出し続けることを約束したベンジャミンは、世界各地に旅をしながらその約束を守り続ける。長くロシアに投宿していた時には、英国の政府関係の仕事をする男の妻エリザベス(ティルダ・スウィントン)と知り合い、恋に落ちたこともある。しかしその関係は、突然終わりを告げることになった。

 戦争が始まったのだ。ベンジャミンも船と共に戦争に参加することになる。そして、乗組員の仲間たちとマイク船長を失った。こうして独りぼっちになったベンジャミンは、懐かしい我が家に帰ることになった。

 そしてそこには、美しく成長したデイジー(ケイト・ブランシェット)が待っていた。

 その頃には、ベンジャミンはすっかり若々しくなり、大人の男となっていた。ニューヨークでバレエダンサーとして活躍し始めていたデイジーは、ベンジャミンに胸をときめかせる。しかしまだまだ若い二人は、結ばれるタイミングを逃してしまう。まだ彼らは、ちょうどいい「時」を迎えていなかったのだ。

 やがてベンジャミンはあのトーマスと再会し、彼が自分の父であることを知る。不治の病にとりつかれていたトーマスは、自分の持つボタン工場などの資産をすべてベンジャミンに譲りたがっていた。しかしベンジャミンは、トーマスの言葉に無言でしか応えない。それでもトーマスの最後の時には、さりげなく寄り添ってやるベンジャミン…であった。

 一方、バレエダンサーとして絶頂期を迎えたデイジーだが、公演先のパリで思わぬ事故に遭い、ダンサー生命を断たれるハメになる。慌ててパリの病院に向かったベンジャミンだが、あまりのことにショックを受けていたデイジーは、ベンジャミンの想いを素直に受け止めることができなかった。

 それでも、「時」はいつかやってくる。お互い粋も甘いも噛みしめ、ちょうど見た目の年齢も釣り合う頃合いを迎えた頃…久々の再会を果たしたベンジャミンとデイジーは、ようやく結ばれる。ちょうど今が一番、ちょうど今が最高。

 これが永遠であればいいと願う二人だったが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 先に書いた文章で、なぜ僕がこの映画を見るのが遅くなったのかを語っていなかった。

 確かに仕事が忙しかったことも確かだし、最初の頃には混んでいて見に行きたくなかったのも事実。何となく見るチャンスを逃していたということに間違いはない。しかしながら、僕にはこの映画を見ることに躊躇する理由もあったのだ。

 ご存じの通り、今年の1月の初めに僕は父親を亡くしている

 この映画は、別に父親の死をテーマにした映画ではない。しかし何となく伝え聞く内容から考えると、どうも人の生き死にについて考えさせられる内容ではあるようだ。正直言って、今そんな内容の映画を見たいかと言えば、「微妙」としか言えない。そんなことを言っていたら映画なんか見れないと言われても仕方がない。それが本音なんだから、どうすることもできないのだ。

 そんなわけで、どうも気が重くて見る気になれなかったこの作品だが、いよいよ公開が終わるとなればそうも言っていられない。慌てて映画館に飛び込んだ次第だ。

 ところが…ここで思わぬ人物にばったり出くわしたから、人生は分からない。

 誰ということはあえて言わないが、うちのサイトの初期の頃に深く関わっていた人物で、この人がいたからうちのサイトがこれほど多くの人に親しまれた…と言ってもいい、当時何かと世話になった人物だった。しかしそれもサイト初期の2〜3年間に限った話で、ここ数年間はほとんど没交渉だったというのも事実。うちのサイト10周年に際して久々にコンタクトをとったものの、久々のやりとりの中で過ぎ去っていった年月を改めて感じさせられることになった。

 何だかんだ言っても、10年という月日は長い

 そのうちには人と人との関係も、人が置かれた立場や状況も変わるのだ。そしてその10年には、多くの人々が忽然と現れ、僕と深く関わったり一緒に時を共有したりしたあげく、現れた時と同じくらい唐突に消えていった。

 ところがそんな人物に…それもその10周年企画が始まったまさにその週に、何の偶然かこの映画館でたまたま出くわすとは! 正直言って、これには心底驚かされた。

 そんな感慨にふけりながらも場内が暗くなり、問題の映画が始まってみると…。

 シワくちゃの特殊メイクで、死を間近にした老婆を演じるケイト・ブランシェット。そんなブランシェット演じる母親とジュリア・オーモンド演じる娘のやりとりから始まる物語。

 ヤバイ。

 何のことはない。一番恐れていた場面から始まるではないか。あの状況は、3ヶ月半前の僕の置かれた状況そのものだ。あの時の僕も、まさにこれとまったく同じだった。

 すっかり冷静さを欠いてしまった僕は、そのまま映画にグイグイと引き込まれることになる。

 

人はみな、ただ消えてしまう

 この映画について映画評めいたことをクドクド言うのは、どうも気が進まない。

 まずは「映画サイト」らしいコメントを、先にあれこれと並べてみようか。まずはデビッド・フィンチャーのこと。最初の頃はヤケに奇をてらったような挑発的な作風が目立ったフィンチャーも、前作ゾディアック(2007)あたりから円熟の度合いを深めてきたような気がしていた。しかし、まさかここまでとは。

 ブラッド・ピットケイト・ブランシェットも、特殊メイクとCGの力を借りているとはいえ、ここまで一人の人間の人生を演じきるとは驚きだ。特にブラッド・ピットについては、僕は今までずいぶん彼に失礼なことを言い続けてきたが、正直言って今回は脱帽の一言だ。外見は年老いているのに子供…なんて役柄を、コッケイにもしていないしモンスターとしても演じていない。極めてオーソドックスに抑えめに演じているのが素晴らしいのだ。そういえば前作ジェシー・ジェームズの暗殺(2007)でも、すでに凄みのある演技を見せていたっけ。それにしても、ここまでやるとは思わなかった。

 この映画の場合、他のハリウッド作品のようにCG批判をするのは当たらない。この映画のCGは「必然」だ。これは「CG」を使って表現しなければならない映画だ。あの「リバーランズ・スルーイット」(1992)当時の瑞々しさを持つ表情を見せるブラピが必要だったし、何よりそんな若返ったブラピと久々の一夜を共にするブランシェットの背中に、中年女の無惨なたるみがなければ成立しない。あのワン・ショットはどんな書き込んだ台詞や深刻な芝居より、痛烈に見ている僕らの胸を打つ。時の流れの残酷さと取り返しのつかなさを、痛々しく思い起こさせる雄弁なワン・ショットだ。技術というものはこう使うべきだ…という見本のようなショットだ。

 それから、それから…言いたいことは何だったっけ?

 この映画では、コロコロと人が次々と死んでいく。少年ベンジャミンにハンドパワーを与えて歩かせた伝道師が、それで力を使い果たしたみたいに息を引き取る。戦争に協力すると意気込んでいた船長が、自慢の身体の刺青に穴を開けられて死んでいく。何より…ベンジャミンの育った「我が家」である老人施設は、次々と新しい老人がやって来ては…施設とこの世の両方から去っていく。

 何だかんだ言っても、人間にとって他者とは忽然と現れる存在であり、どんなに深く関わろうと一緒に時を共有しようと、またいつか忽然と消えていく存在でしかない。結局みんな誰もが消えていく。

 でも、それでも…それだからこそ「一期一会」がかけがえのないモノとなる。

 これは本作の脚本エリック・ロス「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994)を手がけたから…ってな冗談で言っているのではない(笑)。本当に僕はそう思っている。

 確かにどんな深く関わっても長く関わっても、いつかは他者は消えていく。ついでに自分も消えていく。

 こんな映画サイトを10年間やっていてもそうだ。あんなに親しかった人がもういない。いろいろ手伝ってくれた人の消息は、もう分からない。ひょっとしたら怒らせてしまったのかも…と思っても、それがなぜだか分かる術はないし、謝ることすら出来ない。たぶん永遠に謎のままだろう。

 僕が一生を共にしようとした女も、今はどこでどうしているのかさえ分からない。このままでは本当に二度と会えなくなってしまう…と関係に暗雲がたれ込めた時には恐れたものだが、それは現実のモノとなった。たぶん、もう二度と彼女と会うことはないだろう。離れたくない、別れたくない、彼女なしの人生なんて考えられないと思っていたのに、今は彼女が本当に存在したのかすら怪しい。僕と付き合っていたかどうか…じゃなくて、そんな人がいたかどうかがもう分からない。ただ、単に僕の前から消えてしまった。何もかもが消えた。

 そして…父ですらいなくなった

 その3日前ぐらいまでは、死ぬなんて僕らも…本人だって思っていなかったはずだ。きっと家にすぐ戻れると思っていた。僕は父が再入院する際に、大好きな甘いお菓子を食べさせてあげた。まさかあれが、父にとって最後の「甘いモノ」になるとは思いもしなかった。

 だけど、いざ亡くなってみると…火山が大爆発するわけでもなく地球が壊滅するわけでもなく、不意にただ「いなくなって」しまうだけだ。

 本当に人って消えてしまう。ただいなくなってしまう。放っておいたら、気づいてみたら、みんなス〜ッと消えてしまっているのだ。これってホントにそうなのだ。

 不思議なものだ。人は消えてしまうのだ。

 しかし、だから虚しいとか、だから無駄だとは思わない。その時にその人と出会ったことは「必然」だったと思うし、そこで助けられたり何かを得たりしていたはずだ。おそらく向こうもそうだろう。そして、再び「必然」があって消えていった。そういうことなのだろうと思う。

 この映画には、そんな実感がこもっている

 劇中で主人公ベンジャミンの「母親」レイニーが「人生は何があるか分からない」という言葉を言う。この言葉は劇中何度か出てくるが、これこそ人生というものの不思議さを見事に言い表しているではないか。この映画での主人公のさまざまな体験は確かにかなり奇想天外なものだが、振り返ってみると相当平凡なはずの僕の人生でさえも、結構アッと驚く瞬間が数多くあった。まさしく「人生は何があるか分からない」のだ。人と人との出会いと別れもまた、そんな「何があるか分からない」要素に他ならない。それは決して、虚しいものでも無駄なものでもあり得ないのだ。

 この映画のお話の中心は、どんどん若返ってしまう主人公ベンジャミンとヒロインのデイジーだ。この二人の人生が、最後に噛み合わなくなって別れがやってくる…その哀しみこそが物語の勘どころであるように思える。確かにそれはその通りなのだが、それは別にベンジャミン・バトンの一生が「数奇な人生」だったからではない

 それどころか、彼の一生はむしろ「ありふれた人生」だ。

 赤ん坊は誰だって、生まれたては老人のようにギコチなくて不自由なものだ。そして老人は年老いて、いつか子供の心に返っていく。別にそれはベンジャミン・バトンの専売特許じゃない。

 父もそうだった。2005年の夏に脳梗塞を起こしてからは、どこかが変わって何かが失われていった。僕は最初それを受け入れたくなくて、何とか元に戻したいと無駄な抵抗をした。だが、いつかそれを受け入れるようになった。人生とはそういうものなのだ。

 そして、消えていった。

 永遠などない。人と人というものは…ベンジャミン・バトンとデイジーでなくても、どうしたってすれ違いの運命にある。哀しいけれども、そういうものだと言うほかはない。それでも、そこにこそ価値があると今なら僕は言える。

 ベンジャミンの人生は、赤子に戻った彼がデイジーの存在に気づいた瞬間に息を引き取って、静かにその幕を閉じる。

 僕は、この場面に見覚えがあった。

 父が亡くなった時に、僕はこのサイトにそのことについての一文を寄せた。そこにも書いたことだが、僕は父が意識を失った直後に、父に別れを告げられたような気がしたのだ。話してしまえばお笑いぐさかもしれないが、たまたま乗り込んだ電車で、赤ちゃんに「バイバイ」と言われた。それがとても偶然とは思えなかったのだ。

 今回、この映画を見て、ますますあれが「偶然」とは思えなくなった。妄想と思っていただいて構わない。でも、あの時の赤ん坊の目は、確かに僕に「気づいて」いた。あれは赤ん坊の目ではない、僕が誰だか分かっている人間のまなざしだったのだ。

 

 映画が終わって場内が明るくなった時、久々に会ったネット上の知人の目は濡れていた

 僕も目がグショグショになっていたけれど、それを見せたくなかったからメガネをかけた。老眼鏡は今でもどうも好きになれないが、こういう時には都合がいいし便利だ。

 そして、僕とその人物は映画館の前で別れた。

 どこかでお茶でも飲んでいこうとか、話をしようとは思わなかった。それでよかった。たぶん、その人もそう思っていたと思う。ただ僕らの脳裏には、過ぎ去っていった10年の歳月が横たわっていた。僕はただ一言だけ告げると、深く頭を下げてその人物と映画館前で別れたのだった。

 「長い間、本当にお世話になりました」…と。

 

 

 

 

 

 to : Review 2009

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME