「フロスト×ニクソン」

  Frost/Nixon

 (2009/04/20)


  

見る前の予想

 見応えのありそうな映画だとうことは、チラシひとつ見ても分かる。

 実在の人物を扱ったシリアスドラマ。それも、元アメリカ大統領ニクソンだ。ならばドラマもヘビー級にならざるを得ないだろう。そして二人の男の顔がド〜ンと対峙している絵柄を見る限りでは、濃厚なディスカッション・ドラマでもあるらしい。どこかの雑誌か何かに「対談は格闘技だ」的なコメントが書いてあったことからしても、そうした火花散るやりとりが見せ場の映画だと分かる。

 問題は、「フロスト×ニクソン」の「フロスト」って誰だ(笑)?

 単にオレが知らないだけなのか。それとも、この「格」の違いこそが映画のテーマだったりするのか。そのへんも気になる。

 そういえば、ニクソン役にフランク・ランジェラってのは意表を突いたキャスティングだ。オスカー・ノミネートには驚かされたが、チラシの写真や映像を見てみると、「なるほど」ニクソンの感じを出している。しかも、実は実物の写真と並べて見ると、本当はあまり似ていないからビックリ。つまり「あの感じ」をうまく出しているということなんだろう。これぞ名優というものかもしれない。

 それにしても、やっぱり「フロスト」は誰だか分からない(笑)。

 おまけにもうひとつ不安要素が…。監督があのロン・ハワードだというではないか。

 いや、誤解してもらっては困るが、僕はロン・ハワードがヘボ監督だと言っているのではない。むしろ好きな監督の方だと言うべきだろう。今は少なくなったアメリカ娯楽映画の良質な部分を体現している存在として、僕は結構この人を評価しているのだ。世間がダヴィンチ・コード(2006)を袋叩きにして喜んでいる時に、あえてロン・ハワードを擁護したのもそんな理由からだ。別に「ダヴィンチ・コード」に大して感心したわけでもないが、だからといって親の敵みたいにケナす自称映画ファンたちがウザったくて仕方なかったのだ。あれほどケナす映画でもあるまい、普通の娯楽映画だろう。そもそも原作小説からして大したモノではないだろうが。

 僕はこの人の映画をごく初期の「ラブ IN ニューヨーク」(1982)から見ている。もちろん出世作「スプラッシュ」(1984)も大いに楽しんだ。彼の映画には、先ほども述べたようにアメリカ映画本来の健全さが宿っている。そこを評価したいのだ。

 しかしそんなロン・ハワードの資質と、「フロスト×ニクソン」…実話であり、ディスカッション・ドラマであり、おそらく政治ネタでもあるだろうし、何よりニクソン元大統領のような歴史的人物を扱った硬派のドラマ…とが、どうにも今ひとつダイレクトに結びつかない。これって果たしてどうなんだろう?

 それにしても、「フロスト」って一体誰なんだ(笑)?

 

あらすじ

 1974年、アメリカ大統領ニクソン(フランク・ランジェラ)は、アメリカの歴史上初の「辞任」した大統領として、ホワイトハウスを離れようとしていた。

 その歴史的映像を、全世界がテレビから固唾を呑んで見つめていた。その中に、イギリスのお笑いワイドショー司会者デビッド・フロスト(マイケル・シーン)もいた。彼は自分の人気番組の録画撮りの最中にも、この世紀の瞬間をテレビで目撃していた。そして、根っからのテレビ人間である彼は、アシスタントにこう頼むのだった。

 「この映像の、全世界の視聴率を調べておいてくれ」

 その時、この男の頭の中に、とんでもない野望が駆けめぐり始めた。何とこの男、ニクソンとの単独インタビューをやらかそうと思いついたのだ。

 そうと決まれば即実行。それがこの男の身上だ。早速、旧知のイギリス人テレビ・プロデューサーであるジョン・バート(マシュー・マクファディン)に番組の仕切りを頼み込む。当然、バートは当惑せざるを得ない。「ジャーナリストでもアメリカ人でもないオマエが、なぜ?」

 しかしフロストは気にしない。これはチャンスだ。ここでためらってはいけない。こうしてフロスト側は、大胆にもニクソンにオファーを出した。

 受けたニクソン側は「フロスト」なる人物が何者なのかも知らなかったが、ニクソンにはニクソンの事情があった。彼は不本意な形で政治の世界から失脚したことを悔やみ、何とかもう一度政界に復活することを臨んでいたのだ。そのためには、一連の事件について釈明する「場」が必要だった。そして、代理人のリザール(トビー・ジョーンズ)がこの話を強く推した理由は、インタビュー相手のフロストがイギリスの一介のワイドショー司会者という点だった。これはいかにも御しやすいではないか。

 それにニクソン陣営としては、当座のカネが喉から手が出るほど欲しかったという事情もある。ニクソンの片腕として復活を画策する腹心ジャック・ブレナン(ケビン・ベーコン)も、「この話は乗るべきだ」とニクソンに迫る。むろんニクソン自身だってまんざらではなかった。

 ともかくアメリカに飛んで仮押さえだ。そんなバートとの渡米の飛行機内でも、テカテカ笑いのフロストは美女キャロライン(レベッカ・ホール)をナンパという余裕ぶり。何と彼女を従えて、カリフォルニアのニクソン邸へと乗り込むテイタラクだ。

 しかし私邸でフロストを迎えたニクソンは、実に余裕綽々。過去の栄光までチラつかせて早くもメンコの数の違いを見せつける。そんなことに怯むフロストではないものの、実はニクソン陣営ではフロストのフトコロ具合までそこそこ見当をつけていた。

 その通り。ニクソンに契約金20万ドルを支払ったフロストは、実は余裕こいている場合ではなかった。「フロストVSニクソン」インタビュー企画を持ち込めば、すぐに3大ネットワークが飛びつくと思っていたフロスト。しかし、世の中そんなに甘くない。アメリカのテレビマンたちは、そんなイギリスのワイドショー司会者などお呼びでなかった。何よりジャーナリストでもないこの男に、満足にニクソン直撃インタビューなどできるわけがない。そう踏んだ3大ネットワークは、フロストの売り込みににべもなかった。それを察したニクソン陣営のブレナンは「20万ドルもらい得かも」とほくそ笑む。

 かくなる上は開き直るしかない。フロストは番組を自主制作すると決意し、金策に走り回った。その一方で、具体的なインタビューの準備に入るフロストたち。構成を練るための人材が必要になってきたため、ジャーナリストのボブ・ゼルニック(オリバー・プラット)とノンフィクション作家のジェームズ・レストン・ジュニア(サム・ロックウェル)をホテルの作戦本部に迎え入れる。

 しかし顔合わせの初日、部屋にやって来たレストン・ジュニアは、いきなりフロストに強烈なジャブを食らわせる。

 「オレは逃げを打ったニクソンを謝罪させ、裁きを受けさせたい。そのためにこの仕事を受けたんだ。しかるに、あんたはこんなデカい仕事をこなせるのか?」

 早い話がいつもの話…ジャーナリストでもないこの男に、満足にニクソン直撃インタビューなどできるのか…という毎度おなじみの疑問をぶつけてきたわけだ。「やる気あるのか? 勝てると思ってるのか? 生半可な気持ちじゃできねえんだぞ!」

 こんないきなりの攻撃に、さすがにタジタジのフロスト。むろん彼の自信もプライドも揺らぐ。それでも何とかなけなしの自信を総動員して、何とかこう告げるフロスト。「気に入ったよ、あれくらいじゃないといけない」

 そしてさんざ吠えたレストン・ジュニアも、大嫌いなニクソンを叩ける絶好のチャンスを、みすみす逃すわけもなかった。

 こうして「フロスト」チームは一丸となって、強敵ニクソンを迎え撃つための準備を進める。しかしバートとレストン・ジュニア、ゼルニックの3人は連日打ち合わせを続けていたが、その場にフロスト本人が加わることはまずなかった。これにはレストン・ジュニアならずとも、不安にならざるを得ない。打ち合わせに出る代わりに例のキャロライン嬢を連れてチャラチャラ遊び回っているようにしか見えないから、レストン・ジュニアあたりはどうしたって苛立たずにはいられない。

 しかしフロストとて、ただ遊びほうけていた訳ではない。彼には彼の大事な仕事、金策という重大任務があったわけだ。

 それでも大事な調べモノをしたい…というレストン・ジュニアに「今、君にいなくなられちゃ困るんだ」と引き留めるフロストは、これから自分が対峙する相手がどれほど強敵なのか、とても分かっているとは思えなかった。

 そして、ついにインタビュー初日がやってくる…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まずびっくりしたのだが、見たこともないフロストなるイギリス人ワイドショー司会者…こいつが似ているのかどうか分からないが、やけにテカテカした顔してやがるなと思っていたら、何とクィーン(2006)でブレア首相役を演じたマイケル・シーンではないか。これには本気で驚いた。

 しかも今回の「フロスト×ニクソン」って元々が舞台劇だったらしいのだが…そして、なるほどいかにも舞台劇らしい題材なのだが、その原作を書いて映画化脚本も書いたのが、やっぱり「クィーン」の脚本を書いたピーター・モーガンと聞いて二度ビックリ。この作品、実はロン・ハワードの作品と言うよりも、どちらかというとマイケル・シーン&ピーター・モーガンの作品として考えてみたほうがいいんじゃないだろうか。

 そしてこのピーター・モーガンがラストキング・オブ・スコットランド(2006)の脚本も手がけていたと聞いて、またまた驚くと共に納得もした。この人、実話の有名政治キャラものを手がけたら、ピカイチってことなんだねぇ。

 ただこの作品にロン・ハワードの痕跡がまったくなくて、すべてはピーター・モーガンの功績かと言えば、それはやっぱり間違いだ。確かにロン・ハワードはアメリカ映画本来の健全さを体現している映画作家ではあるけれど、いつまでもそれだけの人ではなかった。「スプラッシュ」はもうすでに何十年も前の作品だ。確かに昔は「バックマン家の人々」(1989)などヌルい映画も撮ってはいたが、今のロン・ハワードの作家性はもっと先までいっている。

 よくよく考えてみれば、それは「バックドラフト」(1991)や「アポロ13」(1995)あたりから表面化していたし、ビューティフル・マインド(2001)でも前面に出ていた。僕もうっかり忘れていたが、ロン・ハワードはもうとっくに大人の映画作家になっていたのだ。そうでなければ、シンデレラマン(2005)があんな渋みのある映画になるわけがない。それを考えると、今回のロン・ハワード演出を心配したのはまったくの杞憂だったと言うべきだろう。

 それに気づかなかったというのは、僕もすっかり焼きが回ったと思わされたね。いやはや、申し訳ない。

 そんなわけでこの「フロスト×ニクソン」だが、ここまで読んでいただければお分かりの通り、僕はすっかり感心した。

 むろんフランク・ランジェラのニクソンぶりにも驚かされたし、マイケル・シーンとランジェラとのやりとりも見応えがあった。「対談は格闘技だ」的な評価もダテじゃなくて、むしろ最初の頃などニクソンに完全に手をひねられて、フロストがてんで手も足も出ない様子など実に迫力があった。二人の男が向き合って座りながらしゃべるだけの映画で、これほど「バトル」を実感させるとは驚くではないか。そして演じるマイケル・シーンのどう考えてもメンコの数もキャパも足りない余裕のなさ、フランク・ランジェラの堂々たる老獪さには、見ていてワクワクさせられた。それがどこでひっくり返るんだろう?…と、見ていて思わず固唾を呑んだ。

 そして、もちろん僕も…この映画を見た他の方々同様、「あの場面」が最も心に焼き付いた。

 それはこの映画の勘どころとでもいうべき、すばらしい場面。ニクソンの圧倒的優位で進んでいるインタビュー…その最終日を前にして、敗北感に打ちのめされつつあったフロストの元にかかってきたニクソンからの電話。あの秀逸な場面のことだ。

 

すべての核心に触れるニクソンの言葉

 そこでニクソンは、何を思ったのか自分の対峙する相手に対して、思いもかけぬ真情を吐露する。決して恵まれていたとは言えない家庭環境から、努力で這い上がってここまで来た男。そんなやっとつかんだ栄光を、出来心とでも言いたくなるような自ら掘った墓穴で、すべてフイにしてしまった男…。ニクソンは老練な政治家である自分に無謀にも挑戦をしかけてきたフロストに対して、意外なほどの親しみをさらして本音をさらしてきたのだ。そして、すべての核心に触れる言葉を口にする。

 「君も、私と同じだろ?」

 確かに、そうなのだ。それまで思ってもみなかったことだが、彼フロストもニクソンとある意味で同じ境遇だった。イギリスでは人気司会者だったかもしれないが、アメリカでは一負地にまみれシッポを巻いて逃げ出さなければならなかった。しかも人気あるイギリスでさえも、彼は「たかがワイドショー司会者」として軽く見られている。いかに闊達に楽しげに振る舞っても、自分がナメられているという事実には気づかないわけにいかない。平チャラな顔をしているのは、別に無神経だからではない。落ち込んでいるところを人に見られるなんて、彼のプライドが許さないからだ。

 たぶんイギリスのことだから、何か元々の出身の問題があるのかもしれない。でなければ教育程度の問題か。単に生まれついてのキャラクターの問題かもしれないが、だとすると事はもっと深刻だ。

 ともかくどんな理由があれ、人は彼を「重みのある人間」とは見てくれない。仮に親しげにはしてくれても、利口だとか立派だとか…いやいや、それより何より価値のある人間とは思ってくれない。

 ニクソン・インタビューを仕込んだ時でもそうだ。ニクソン陣営は、御しやすい相手とハナっから完全にナメてかかる。三大ネットワークは勝負にならないと企画を買おうとしない。金策に回っても、どこも色よい返事をしてくれない。誰も彼もフロストを軽視して、バカにしているからである

 それどころか、自分を援護させるために雇おうとしたスタッフからも、いきなり初対面でバカにされる。フロストが「それくらい言ってくる奴がいい」と彼を起用したのは、別に彼の度量が広かったわけではあるまい。むしろ度量の広さを周囲に見せつけ、自分にも言い聞かせるためにそうせざるを得なかったというのが正しいはずだ。彼のプライドがそうさせたのである。

 それなのに、彼はスタッフを見返すことができない。それどころか、ますます失望の種を増やすだけだ。実際のインタビューが進めば進むほど、ニクソンとのキャパの違いを見せつけられるばかり。「だから、所詮はワイドショーの司会者なんだよ!」とまで言われそうになって、プライドはグラグラ。自分の誕生パーティーにみんなを誘うのが精一杯だ。プライドがグラグラといっても、もうこの段階ではみんなにバカにされて辛いなどということは問題ではない。むしろ、自分でもニクソンと比べての器の小ささを痛感させられていることの方が、十倍も二十倍も辛いのだ。

 彼は、見事に小物である

 そしてインタビューは最終日を残して、ここまでの内容は圧倒的にフロストのボロ負け。スタッフも諦め顔だ。番組の売れ口はどこも決まっていないのに、制作費はすべて自腹と借金で賄ってしまった。資金回収のメドなど立つわけもない。しかも泣きっ面にハチとばかりに、貴重な収入源だったオーストラリアのショーが打ち切りと決定。もはや土俵際一杯。しかも起死回生の術などどこにもない。後は奈落の底。

 そんなどん底決定のフロストに、なぜか深夜、「敵」ニクソンから電話がかかってくるのだ。

 「君も、私と同じだろ?」

 おそらく真剣勝負のインタビュー「闘論」で相まみえるうちに、ニクソンは相手フロストに「共に闘う相手」としての一種の親近感を感じたのかもしれない。何より自分と同じ臭いを、相手に感じたのかもしれない。生まれた時から恵まれてもいない、祝福されてもいない、人からもてはやされてもいない…常にどこか「下」に見られ続ける人間として、自分と同じものを感じたのかもしれない。

 先に述べたように、ニクソンその人がそうだった。苦労してつかんだ大統領の座。最初に大統領戦を戦った時には、「カッコいい」か悪いかだけでケネディに敗れた。何て世間は不平等なんだろう。彼が再選が堅かったにも関わらずウォーターゲート事件などを起こしてしまったのは、そんな焦りがあったからなんだろうか。

 だからニクソンは、自分にガツガツと卑しい本性丸出しで挑戦してきた、この「小物」然としたイギリスの司会者に「親しみ」を感じたのだろうか。

 「君も、私と同じだろ?」

 その時、見ている僕も思わず身震いした。まるで、その時の僕の心の中を見透かされたようだったから。

 僕も、彼らと同じだったからだ。

 

僕の運命は死ぬまで変わらない

 前にもどこかで同じ事を書いたかもしれないが、僕も自分の中に「何か」が足らない人間だと思っている。

 それは人間的キャパなんだろうか、それとも人間的魅力、それとも「ディグニティー」とでもいうべきものだろうか。

 人には、生まれついての「格」というか「器」があるものだ。

 昔から、人は僕に敬意を払わない。親しみは感じてくれているようだし、僕も敷居の低い人間であろうとしてきた。やたら偉そうにしている人間はコッケイだし、卑しむべき存在だと思ってきたからだ。実際、そういう人間は思いきりバカにしてきたし、ひどい目にも遭わせてやった。

 しかし、自分が度を超して軽んじられるというのは、決して気持ちのいいものではない。

 なのに、僕は子供の頃から何か感じていたのだ。自分はどこか「二流」の人間だと。少なくとも人からはそう見られていると。尊重されないし、ナメられてもいると。だが、腹を立てるわけにもいかない。なぜなら、僕には人として「何か」が欠けているからだ。

 きっと人は深い意味を持って、そんな言動や接し方を僕にしているわけではあるまい。逆に、それが親しみの表現のつもりなのかもしれない。しかし、そこに深い意味がないからこそ問題だ。自然と僕にそういう態度をしてしまうことの方が問題なのだ。

 正直な話、恥をさらすようで情けない話だが、50歳を前にした今でも僕はそんな気持ちから逃れられない。

 いまだに周囲の人々から親しげにタメ口をきかれることはあっても、敬意を持った態度で接せられたことはまず、ない。彼らは「それはFさんが親しみやすいからだ」などと言っているが、それを真に受けるほど僕もバカではない。

 要はナメられているのである。

 彼らだって僕をバカにしているつもりはないのだろうが、自然とそう振る舞ってしまうからなおさら問題の根は深いのだ。

 そんなことは今始まったことではないから、慣れているといえば慣れている。誰も僕を怖がりはしないし、むしろ親しみを持ってくれているのかもしれない。しかし人間として一番大事な…敬意を持って僕に接してはくれない。子供の頃からそうだし、今までずっと、今でもそうだ。たぶん、死ぬまでそうだろう。

 僕は小物なのである。

 他の人たちと比べても、どうしようもなく小物だ。他の人々だって大して大物ではない。むしろ大したことのない奴の方が多いかもしれない。しかし、それでも僕は…何をどうしたってどう頑張ってみたって、理屈抜きで単に「小物」なのである。

 これは生まれついてのもので、どうしようもない。

 努力しても仕方がないし、むしろ器に見合っていないことをやったら見苦しいだけだ。だから人が僕に対して、それを親しみだと勘違いして無礼なことを言ってこようがやってこようが、一向に平気だという顔をして笑ってきた。そうでもなければ惨めでやっていられない。フロストと同じだ。自分のプライドがそうさせたのである。

 そして、いつか見返してやろうと頑張った。少しでも浮かび上がろうとして無理もしてきた。自分の人生を賭け金にして、かなり無謀なバクチも打ってきた。しかし、何をどうやってみても変わらない。僕に対する人の接し方は変わらない。僕の運命は変わらない。ニクソンが大統領まで這い上がっても変わらなかったように、何をやっても変わりはしないのだ。死ぬまで、いや、死んでも変わるまい。

 だから僕は、ニクソンがこう言った時にギクリとしたのである。

 「君も、私と同じだろ?」

 映画はその後も続き、ドラマティックなフロストの逆転劇を見せる。その後でフロストがニクソン邸にやって来て、共に戦った者同士だけが感じるであろう思いを共有しつつ、感慨深い幕切れを迎える。それはそれで実に心に残るエンディングだが、実はその時点では、僕にとってのこの映画は終わっていた。ニクソンが僕の胸に突き刺さる一言を放った、まさにあの時点で…。

 「君も、私と同じだろ?」

 

 

 

 

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