「ワルキューレ」

  Valkyrie

 (2009/04/06)


  

見る前の予想

 実際、ここんとこのトム・クルーズは今ひとつだった。いや、今ひとつどころか苦境に陥っていたと言うべきではなかったか。

 作品コンセプト的には、実はラストサムライ(2003)あたりで旧来のトム・クルーズ映画のコンセプトは行き詰まっていた。その後の何作かは新たなコンセプトの模索に費やされたが、コラテラル(2004)も宇宙戦争(2005)もそれぞれマイケル・マン映画、スピルバーグ映画という「作家映画」にはなっていたものの、トム・クルーズの「スター映画」としてはいかがなものだっただろうか。

 窮余の策とでも言うべきか、極めつけのヒット・シリーズ第三弾M:I:III(2006)まで引っ張り出してきたものの、これもエディ・マーフィーの「ビバリーヒルズ・コップ3」(1994)ほどひどくはなかったものの、何だかイマイチ元気がない。

 さらに、そんなスターとしての行き詰まり感に加えて、ニコール・キッドマンとの離婚からこっち、トム・クルーズのプライベートにはロクな話がなかった

 元々入っていたインチキ宗教の話、新しい嫁さんにメロメロで常軌を逸しているという話…あげくの果てには長年契約を交わしていたパラマウントからクビを言い渡されるアリサマ。スターが映画会社から「クビ」にされるんだよ。実際のところはどうか分からないけど、どう贔屓目に見ても「落ち目」感を醸し出させるではないか。

 そんなトム・クルーズは一転して攻めに回り、長く低迷していた名門ユナイテッド・アーティスツの経営に関わることになるとは、正直言って僕も驚いた。しかもそれが自らのキャリアの上り坂の段階とは言えない時期に行われたというのが、さらに二度ビックリ。これが凶と出るか吉と出るか、かなり際どい賭けだと思わされた。

 ところがそんな新生ユナイテッド・アーティスツでの第一弾、大いなる陰謀(2007)の出来栄えが思わしくない。

 ロバート・レッドフォードの政治メッセージが生硬すぎて、映画として硬直してしまっている。あまりに性急にメッセージを伝えたいという気持ちが先走ってしまって、どうにも面白くないのだ。いくらいいコト言おうとしても、映画として駄目ではやっぱりダメだろう。せっかくレッドフォード、メリル・ストリープとの豪華共演が実現したというのに、この出来の悪さは悲劇的ともいえた。ホメてる人はメッセージだけ受け取っているんだろうけど、映画はあくまで映画なのだ。あの映画としてのダメさ加減は弁解の余地がないよ。

 もっとも、あれはレッドフォード映画だ。クルーズは客演に過ぎない。

 ならば、勝負はユナイテッド・アーティスツにおいての初めての主演作、この「ワルキューレ」にて着くと考えるのが自然だろう。

 初めてのブライアン・シンガー監督との顔合わせ、久々の実話もの、しかも初のナチス・ドイツものだ。

 ところが、こいつが最初からモメにモメた。インチキ宗教なんかに凝っているハリウッド・スターに、ドイツの実在の「英雄」を演じられてはかなわない。ドイツ側からいろいろイチャモンがついたというのだ。

 確かにインチキ宗教云々はともかく、ドイツとしてはドイツ人の話をハリウッド資本で、しかもハリウッド・スターに演じられるというだけで愉快ではないかもしれない。おまけに監督のブライアン・シンガーは、X-メン(2000)やスーパーマン・リターンズ(2006)をつくった人物だ。大丈夫なのか…と言いたくなるのも分かる。

 それより何より、これはヒトラー暗殺計画についての映画だと言うではないか。

 その中でも最も有名な計画を描く…となると、僕だってその内容や結果は知っている。作戦室のテーブルの下に爆薬を仕掛けたにも関わらず、そしてうまく爆発したにも関わらず、ヒトラーが死ななかった…という「あれ」である。つまり、結果は失敗と分かっている

 最初からネタが割れているお話を、どうやって面白がれというのだ。

 人気スター、トム・クルーズ主演でつくると決めた段階で、これは良心的なミニシアター系映画ではあり得ない。どうしたって娯楽大作映画にせざるを得ないのだ。なのに最初から結末が分かっていて、どうして楽しめるというのだ。何となくイヤ〜な予感がしてくるではないか。

 これでトム・クルーズ起死回生の決定打になるのか。どうにも暗い気分になりながら、僕は公開後すぐに劇場に足を運んだわけだ。

 

あらすじ

 ナチスの猛威がヨーロッパ中に荒れ狂っていた1943年のこと。

 ナチス一色に染まったかのように見えるドイツの中にも、実はヒトラーのやり口に眉をひそめる人々がいないわけではなかった。

 トレスコウ陸軍少将(ケネス・ブラナー)もそんな一人。彼は陸軍内に同士をつくり、秘かにヒトラー暗殺を画策していた。

 その最初のチャンスは、比較的早くやって来た。トレスコウのいる基地に、ヒトラーが軍用機に乗ってやって来たのだ。その帰り、トレスコウは一緒に搭乗する兵士に、ヒトラーに献上する酒の箱を渡す。しかし実は中味は酒ではなく、ヒトラーを暗殺すべく仕込まれた高性能爆弾だったのだ。

 軍用機がヒトラーを乗せて飛び立った後、ドキドキしながら無線を傍受するトレスコウたち。しかし、なぜか軍用機は遭難せず、ヒトラーは無事にベルリンに辿り着いた。結局、トレスコウは慌ててベルリンへと赴き、暗殺計画の「証拠」となってしまう酒の箱を回収しなければならない羽目になってしまう。生きた心地がしなかったトレスコウだが、何とか最悪の事態だけは免れた。

 しかしトレスコウや同士であるオルブリヒト将軍(ビル・ナイ)が苦虫を噛みつぶしているうちにも、状況はますます厳しくなりつつあった。彼らの同士のうち重要な一人が捕らえられてしまうに及んで、どうにも行き詰まりを認めざるを得ないトレスコウだった。

 一方、こちらはナチスが軍勢を展開するチュニジア。

 シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)は、不毛なナチスの戦いにホトホト嫌気がさしていた。彼は祖国に忠誠を誓ったのであって、ナチスやヒトラーに忠誠を誓ったつもりはなかった。部下を犬死にさせるだけの命令にもウンザリしていた。上官に熱心に進言して、無駄な進軍を取り消させたちょうどその時…。

 連合軍の空爆に巻き込まれ、シュタウフェンベルク大佐はアッという間に瀕死の重傷を受けることになってしまう。

 生死の境を彷徨い、病院で意識を取り戻したシュタウフェンベルク。だが彼の左目は奪われ、右手首と左手の2本の指を失ってしまう。これでますますヒトラーへの嫌悪感がいやが上にも増したシュタウフェンベルク。あんな狂人さえいなければ、こんな目に遭わずに済んだのだ。

 そんなシュタウフェンベルクの思惑を透かして見たかのように、トレスコウとオルブリヒトが彼に目を付けていた。作戦のキモとなる人物、ヒトラーに接近して、うまく仕留めることのできる人物が必要だった。それが彼だった。

 かくしてトレスコウやオルブリヒトらに声を掛けられ、ヒトラー暗殺計画に誘われるシュタウフェンベルク。彼らの秘密の会合に出席したシュタウフェンベルクは、そこで暗殺〜クーデター成功後には国家元首に就任することになっている元・陸軍参謀総長のベック(テレンス・スタンプ)、首相に就任することになっている元ライプチヒ市長のゲルデラー(ケビン・R・マクナリー)ら、組織の幹部たちとも接触した。しかしシュタウフェンベルクは彼らの計画を聞いて、今ひとつ腑に落ちない印象が拭えなかった。何となくこの計画、肝心の「詰め」が甘いのではないか?

 「それで、暗殺に成功した“その後”についてはどうなっているんです?

 ヒトラーさえ暗殺すれば世の中元通りになる、ヒトラーさえ暗殺できれば後はどうでもいい、ヒトラーに反抗する勢力がドイツにいることを示せればそれでいい…出てくる言葉といえばそんなテイタラク。シュタウフェンベルクにとって、彼らの計画はとても「計画」とは言えなかった。暗殺成功後にどうやってドイツを掌握するか…そのことについての明確なビジョンがどこにもなかったからだ。これでは絵に描いた餅。

 いきなりやって来たあげくに一同の計画にケチをつけ始めたシュタウフェンベルクに、正直愉快ではない連中もいた。しかし「その後」が何も見えていない…という指摘は、図星としか言いようがなかった。何とも気まずい雰囲気。そんなわけで暗殺計画に深い関心を抱きながらも、彼らへの積極的な参加の意志は保留したシュタウフェンベルクだった。

 しかしシュタウフェンベルクとて、この話に乗りたい気持ちはやまやま。そんな折りもおり、自宅でかかっていたレコードの「ワルキューレの騎行」を耳にしたシュタウフェンベルクは、探していた「何か」にようやく思い当たる。

 「これだっ!」

 徹底的に恐怖政治で国を掌握していたヒトラーは、それゆえにSSたちの力の突出を恐れていた。そこでヒトラーは自分や国家に「万が一」のことが起きた場合を想定して、ドイツ国内の反乱勢力を鎮圧するための計画「ワルキューレ作戦」を策定していたのだ。これを逆手に利用すれば、暗殺の「その後」をうまく動かせる…。

 だが現行の「ワルキューレ作戦」そのままでは、ヒトラー後の国家を掌握するために都合がよくない。一部を改訂しなければ、そのままでは使えない。

 そして、その改訂にはどうしてもヒトラーの承認が必要だった…。

 

見た後での感想

 考えてみると、最近のアメリカ映画ではこの手の第二次大戦を背景にした映画をあまり見ない。映画が始まってすぐ、ナチのマークが入った巨大な軍用機が飛んでくる場面を目にして、ふとそんなことを思い起こした。

 今回の作品は久々にハリウッドが制作した、ナチスが出てくる第二次大戦ドラマだ。

 出てくる俳優たちの大半は、ドイツ人ならぬイギリスの名優たち。ドイツからのスターは戦場のピアニスト(2002)以来ドイツの新しい「顔」となったトーマス・クレッチマンぐらいのものか。しかし、考えてみればこれはアメリカ・ハリウッド映画で、英語で撮らなければならないのは必至。そのことの善し悪しはともかくとして、英語で撮らなければ「娯楽大作」にはならなかっただろう。そして英語で撮ることを大前提とすれば、発音が混乱しないようにできるだけアメリカ、イギリスの俳優で固める必要があったはずだ。そこでヨーロッパ・テイストを漂わせるイギリス名優の大量起用…ということになったのだろう。そのこと自体をとやかく言う気は、僕にはまったくない。

 そして、そんな俳優陣の中心に、トム・クルーズがいる。

 これが、意外にハマっているのだ。

 おまけに、何より心配していた意外性のないストーリー展開だが…、これが結末が最初から割れているにも関わらず、驚くべきことにかなりスリリングで面白いのだ。

 確かにヒッチコックか誰かが言った言葉だと思うが、主人公に観客が感情移入してしまったら、例え主人公が悪人であったとしても、観客はその主人公の悪事を成就させたいと思う。そして、失敗しそうになるとハラハラドキドキする。ならば仮に結末が分かってしまっていても、感情移入の度合いさえ強くできればハラハラドキドキは可能なのではないだろうか。そして名優揃いのキャストならば、観客の感情移入をより強く促すことも可能だろう。

 確かにそうかもしれない。僕はかつてそんな作品をすでに見ている。それこそ手に汗を握って見た、フレッド・ジンネマン監督の「ジャッカルの日」(1973)だ。あれは成功したはずのない、ドゴール暗殺計画を描いた作品だ。どう考えても、計画は失敗しなくてはならない。それなのに僕らは見ていてハラハラしてしまう。主人公は暗殺者という悪人で、計画は失敗に終わると分かっているのに、「この計画は失敗してしまうんじゃないか」と心配してドキドキしてしまうのだ。

 映画には、そんな魔力がある。

 この「ワルキューレ」もみんな計画は失敗すると分かっているのに、なぜか主人公たちの行動をハラハラドキドキしながら見てしまう。それはやっぱり、先に語ったような「映画の魔力」の為せる業なのだろう。

 そして、実は「分かり切っている」と語ってはいたが、実はこの映画には想定外の「意外性」がかなりあるのだ。

 「ワルキューレ計画」が発動され、レーマー大佐率いる警備大隊がSS鎮圧に乗り出すあたりなど、ゾクゾクするような迫力。僕はヒトラー暗殺が失敗して計画はショボく終わるものと思っていたから、この展開に正直驚かされた。あわやベルリン制圧までいきかかっていたとは、この映画を見るまでまったく知らなかったのだ。見ていて何となく、「これはうまくいっちゃうんじゃないのか?」と思ったほどだ(笑)。こんな知られざる史実を今日に再現できたことが、今回の作品の「勝因」だ。

 この「意外性」こそが、「どうせ結末は分かり切っている」と思っていた観客を「おおっ」と驚かせて、グッと引き込むことに貢献している。だからサスペンス映画として秀逸なのである。

 そのあたりも含めて、今回の映画は監督が「先の読めないサスペンス映画」の傑作「ユージャル・サスペクツ」(1995)を撮ったブライアン・シンガーだったということも大きかったかもしれない。そうそう、最近もっぱらアメコミ映画の監督と化していたシンガーだったが、元々はこちらの方が本職だったのだ。

 さらにブライアン・シンガーといえば、あの「X-メン」にすらナチスをチラリと出しているし、そのものズバリのナチが出てくる「ゴールデンボーイ」(1998)まで撮っている。元々そっちには関心が深い人のはずだ。それも単に「ナチ」への関心というだけでなく、「パブリック・アクセス」(1993)などを見ると、“邪悪と分かり切っているのに人間を陶酔させる「狂気」”…に対する深い関心だということが分かる。ならば、確かにこの「ワルキューレ」の監督にはもってこいだ。

 「狂気」に国民がみな踊らされるような国もあれば、そんな国にいながら「狂気」を終わらせようと立ち上がる者たちもいる。ブライアン・シンガーの興味は、まずはその一点にあったのではないだろうか?

 そして先にも述べたように、大丈夫なのか…と心配していたトム・クルーズの「スター」的な部分、実在のドイツ人が演じられるのかという危惧は、単なる杞憂でしかなかった。

 それでも、「トム・クルーズが出たとたん、スターにしか見えなかった」などと言う人はいるだろう。実際、トム・クルーズはトム・クルーズにしか見えない

 しかしこの映画はそれでいいという気持ちになった。

 なぜなら、映画スターとしてのトム・クルーズには常にジャンルとコスチュームが必要だったからだ。そして、この映画にはまさにそれがあった。

 それは、第二次大戦下のナチスの軍服だ。

 

トム・クルーズ勝利の方程式の復権

 「ラストサムライ」の感想文以降、何度も何度も繰り返し僕が書いてきていることだが、基本的にトム・クルーズ映画の作り方というのはあるひとつのパターンしか持っていない。

 才能と実力はあって頭角を現してきてはいるが、人間的成熟度に欠けた「青二才」。その天狗の鼻がへし折られた時から、主人公の真の成長が始まる…。

 トム・クルーズは出世作「トップガン」(1986)以降…実はもうちょっと前からそうかもしれないが…基本的にこのパターンの映画しかつくっていないと言っていい。異例的な客演のマグノリア(1999)でさえ、よくよく見ればこのパターンの踏襲しかやっていない。

 しかし、こればっかり繰り返し演じているだけでは、さすがにスター・イメージは維持できても観客に飽きられてしまう。そこで彼がとった作戦は、巧妙かつ興味深いものだった。

 つまりはアメリカ映画史の縦断だ。

 バディ・システムのロードムービー、ベトナム戦争映画、カーレース映画、法廷映画…など、アメリカ映画の十八番であるジャンル映画に次々出演。しかし背景と設定は違っても、基本的にお話と演じる主人公は例の「勝利の方程式」のまま。それを繰り返し繰り返し、驚くほど毎回のように演じていく。それが作品を興行的成功に導き、トム・クルーズ自身のスター・イメージを巨大化していったことからみて、作戦は間違いなかったと言っていいだろう。

 その中で微妙な軌道修正があったとすれば、初期はポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、ジーン・ハックマン、ジャック・ニコルソンなどの大物スターの胸を借りて演じていたのが、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994)あたりからピンで出てくるようになったこと。これはもはやクルーズのスター・イメージがあまりに巨大化して、誰かの「胸を借りる」というかたちをとりにくくなったことが原因だろう。実はこのあたりが、近年のトム・クルーズ低迷の遠因であるとも言えるのだ。

 それでも「ミッション:インポッシブル」(1996)シリーズなどの好調で、前途は揚々に見えたクルーズ。しかしながら彼としても避けられない事態が徐々に進行しつつあった。

 それは、人が誰しも避けられない「加齢」である。

 「青二才」は、若いからこそ成立する。「若気の至り」という言い訳は、もうイイ歳したオッサンには使えない。ましてハリウッドのトップに立つ「超大物」にはますます似合わない。そうなると、それまでトム・クルーズのスター・イメージを決定づけていた「勝利の方程式」が使えなくなる。

 事実、トム・クルーズが旧来パターン作品に出演した現時点での最終作は、日本を舞台にした「ラストサムライ」だ。この選択は、僕にはなるほど合点のいくものだった。なぜならトム・クルーズの「勝利の方程式」…才能と実力はあって頭角を現してきてはいるが、人間的成熟度に欠けた「青二才」。その天狗の鼻がへし折られた時から、主人公の真の成長が始まる…は、よくよく考えると「姿三四郎」に始まり「赤ひげ」に収束する黄金期の黒澤明の作品群とピタリと呼応するからだ。

 典型的ハリウッド映画人のトム・クルーズにしてみれば、日本映画といえばイコール黒澤と来るのが自然だろう。その日本に乗り込んでハリウッド製時代劇を制作するとすれば、彼一流のジャンル映画…黒澤時代劇を制作するということとイコールに違いない。しかもそれは、クルーズのスターとしての「隠しテーマ」=「若気の至り」を総決算する意味合いも持っていた。

 案の定、それ以降のクルーズは例の「方程式」を封印して奇策を繰り出していく。

 「コラテラル」(2004)はマイケル・マンのスタイリッシュなアクション映画…というジャンル映画ではあるが、彼としては異例の悪役であり、その外見も思い切り老けさせて変えていた。その努力は認めたいとは思うが、外見の変貌については少々無理があったと言わざるを得ない。というか、これならクルーズである必要はないんじゃないだろうか。

 さらに「宇宙戦争」(2005)はどうか。これは逆にトム・クルーズの従来からの「若気の至り」イメージを逆手に使って、いい歳こいてるのに「青二才」というダメ父親を好演。結果、僕は大正解だと思ったが、正直言ってスターとしては何度も使える手ではないのは明らかだ。

 その後については冒頭に書いた通り。唯一好評だったのがトロピック・サンダー/史上最低の作戦(2008)のムチャなメイクでの怪演というのは、本人としては忸怩たるものがあったのではないか。あれは最近では唯一クルーズではイイ話題だったけれど、ハッキリ言って本人のスターとしての将来にはまったく貢献しない役だ。

 お先真っ暗。

 そうなると、ここ一番の勝負作…というより、もう後がないトム・クルーズの新作「ワルキューレ」には、一体いかなる意図があったのか?

 僕はこの作品を、トム・クルーズの「原点復帰〜軌道修正」と考える。

 考えてみよう。実はトム・クルーズは、アメリカ映画の中でやっていないジャンルがもうひとつあった。それは第二次大戦を背景にした戦争モノだ。ここであえてこのジャンルの作品に身を投じるということは、従来のトム・クルーズの「勝利の方程式」映画で行ってきた「ジャンル縦断」をまた(一時的にでも)再開することに他ならない。

 そしてナチスの軍服は、実は男性スターの魅力を思い切り際だたせる。実にけしからんことだが、男の魅力を引き立てる装いとして、ナチスの軍服ほど素晴らしいものはないのだ。

 そもそも、いろいろなジャンルの作品に挑戦するということは、スターとしていろいろなコスプレに挑戦して、その魅力をいろいろと引き出すことでもある。ここでトム・クルーズは、男性スターとしての究極のかっこよさを体現するナチス・コスプレに挑戦したと見るべきだ。

 近年のクルーズは、「コラテラル」で実年齢より歳のいった男を演じながら、恐ろしいほど味わいが出なかった。おそらくクルーズは単にカッコいいピカピカなスターではなく、渋い中年男性スターの道を模索していたのだろう。しかしクルーズという役者は、年輪が味わいとなって出にくい俳優…あるいは、いまだその段階まで達していない俳優なのだ。だから、そっちの路線は諦めざるを得なかった。

 では「宇宙戦争」はというと、おそろしく人間的キャパと教養の低い、ダメなオッサンとして好演してしまった。映画にとってはそれでよかったものの、クルーズのスター・イメージとしてはそれでいい訳があるまい。こっちも「新生面」としては使えまい。

 そうなると「大いなる陰謀」の野心家政治家はどうか…と言いたいところだが、こちらは作品そのものが消化不良を起こして評価には値しない作品になってしまった。そもそも脇に回った客演ということを考えても、今後のクルーズの方向を指し示すとは思えない。

 ならば「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」の「あの役」にしたって、先にも述べたように彼の将来があそこから開けてくるわけもないだろう。確かに面白かったが、僕は見ていて何となく痛々しくなってしまった。売れなくなったアイドル・タレントが「必然性があれば脱ぎます!」とか言っているみたいで。

 だから、もう一回トム・クルーズというスターをカッコよく再生する必要があった

 それも文句なく、理屈抜きで、カッコよくなければならなかった。おまけに、そこに「従来のようにカッコいい」けれど、どこか「新生面」も見えるようなモノにしなければならなかった。

 つまりは「ワルキューレ」でのドイツ貴族が見せるナチス・コスプレとは、そんなトム・クルーズ側の要請をすべてカバーしたものだったのだ。問答無用で見た目カッコいいナチス・ルックに、演じる本人は反ナチのために立ち上がる理想主義者…とくれば、カッコ良さの点では文句のつけようがないではないか。これはなかなか巧妙な作戦だ。

 そして、もはや「青二才」が似合う年令ではなくなったクルーズのために、当初の「黄金パターン」を変形させた。得意の絶頂から天狗の鼻をへし折られ…というくだりの「挫折感」だけを抽出したのだ。実はこれに近い作戦をとったのが「ラストサムライ」で、クルーズがそこで非アメリカ人衣裳…和服コスプレを披露している点にご注目いただきたい。おそらく今回の作品は、「ラストサムライ」の成功例を検証した上での作品なのだ。

 ちょっと話題がそれた。それでは今回の映画における主人公の「挫折」とは何か。それは主人公シュタウフェンベルクがヒトラーに踊らされる祖国に忸怩たる思いを抱きながら何もできず、おまけに連合軍の空爆で片目、片手、指2本を失うことだろう。

 そして容姿にダメージを食らうという点が、実はいかにもクルーズらしい。

 カッコいいクルーズだからこそ、容姿の損傷が深い深い心のキズとなり得る。今回はカッコいいクルーズの復権を掲げているからこそ、この設定が効いてくる。おまけにクルーズは、すでにこの容姿のダメージというテーマをバニラ・スカイ(2001)で演じているのだ。

 そしてドラマの基本はサスペンス。しかも、宣伝コピーで「作戦は10分」なんてうたっている。実際に作品も、ギリギリの際どいミッションを遂行していくくだりが見せ場だ。…となると、それこそ「ミッション・インポッシブル」などを演じてきたクルーズならお手のもの。

 このように本作は、近年の迷っていた作品群での試みを一旦帳消しにして、黄金期の一種の再現を狙った「原点復帰〜軌道修正」の作品となっている。ズバリ言えばトム・クルーズ・グレーテスト・ヒッツだ。

 そのおかげか、今回の作品は近年のクルーズ作品の中でも久々に活気が感じられる作品に仕上がった。堂々たる風格もあるし、実際に面白い。クルーズもスターとしての華を取り戻した。

 そんなわけで、確かに万々歳といえる作品なのだが…正直言ってこれも背水の陣ではあるだろう。

 俳優としての難しい時期に差しかかったところへ、私生活のスキャンダルやら映画会社からのリストラ…と、あまりにタイミングの悪い巡り合わせ。しかも新生面開拓を目指して頑張ってはみたものの、打つ手打つ手が裏目に出てしまう。そこで今回は何とか「原点復帰〜軌道修正」で乗りきろう…ってあたりがホンネではないか。

 だが、それは結論を先送りにしているだけに過ぎない。いずれはやらなきゃならない夏休みの宿題を、延ばし延ばしにしているようなものだ。

 そういう意味では、トム・クルーズの前途はまだまだ多難といわなくてはならないだろう。

 

 

 

 

 to : Review 2009

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME