「チェンジリング」

 (クリント・イーストウッド監督作品)

  Changeling

 (2009/03/30)


  

見る前の予想

 クリント・イーストウッドの新作である。

 オスカー受賞の「許されざる者」(1992)以降は新作が発表されると当然のごとく絶賛の嵐。そいつは大変結構だ。確かにイーストウッド作品のは大好きなものも多いし、ホメちぎりたいものも少なくない。例のオスカー以降は、「巨匠」のスケールすら出てきた感じだ。オスカーとったら滝田洋二郎監督の新作「釣りキチ三平」ですら「全世界注目!」と宣伝されるのには少々苦笑してしまうが、イーストウッドに限ってはこの扱い決して不当なものとは思えない。実際、昨今の彼の監督作には円熟の香りが漂う。風格もあって立派なものである。

 しかしその一方で、イーストウッド作品には妙にイビツで歪んだものも数多く感じられる。実はそう思っているのは僕だけでないはずだ。

 元々、かなり発言力を得てから主演した作品や主演とプロデュースを兼ねた作品にも、どこかダークな香りが漂うイーストウッド作品だった。これが監督に回っては「歪み」も全開。オスカー監督で「巨匠」になってからも、その「歪み」指向はますます高じこそすれ衰えることはなかった。だからミスティック・リバー(2003)なんてイヤ〜な感じの作品も生みだしてしまう。

 問題はこうしたイーストウッドの元々の「歪み」を、世間は無視しているか勘違いしていること。あるいは好意的に誤解しているきらいもあって、だから彼の作品は毎度毎度大絶賛というわけだ。

 確かに得難い映画作家ではある。僕も彼の作品は好きだ。しかし「病んでいる」という気持ちは今も変わっていない。そして、そんな「病み」が変な方向に暴走すると、何とも気色の悪い映画が出来上がる。だから新作がやってくると聞いても、両手放しで喜ぶ気持ちにはなれない。またぞろ「ミスティック・リバー」みたいな胸くそ悪い映画は見せられたくない…というのがホンネなのだ。

 そこに届けられたこの新作は、誘拐された息子を巡るトラブルで、ロサンゼルス市警を相手に圧力に屈せず戦った母親の実話モノとくる。途中、警察に不当に精神病院に入れられたりして、かなり見ていて血圧が上がりそうな「社会派」ネタみたいだ。う〜ん、正直言ってあまり見たいとは思えない

 男社会に真っ向勝負を挑んで不当に精神病院に監禁された映画女優を描いた、ジェシカ・ラング主演の「女優フランシス」(1982)を思い出す。アレも立派な映画だとは思うが、見ていてかなり気が滅入った。おまけにそこにイーストウッドの「歪み」が加わったら、またぞろ「ミスティック・リバー」のイヤ〜な感じが甦ってくるのではないか。主演のアンジェリーナ・ジョリーも別に好きな女優さんではないので、ますます気乗りがしてこない。

 ところがある映画ファンの知人から、今度の作品はイーストウッドの「歪み」がいい具合に作用していると聞いたのだ。そうなると、これは見ないではいられない。いや、見なくちゃいけない。

 そこで慌てて劇場に飛び込んだというわけだ。

 

あらすじ

 1928年、ロサンゼルス。クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)は、電話会社の交換手を勤めながら9歳の一人息子ウォルター(ガトリン・グリフィス)を育てていた。

 ウォルターの「父親」は、クリスティンの妊娠を知るや彼女と子供を捨てて去っていったような無責任な男。女手ひとつで息子を育てていくのは楽ではないが、クリスティンはそんな無責任な「父親」の分まで頑張ってウォルターを育てていた。

 待ちに待った休日、ウォルターを映画館に連れて行く約束をしていたクリスティンは、いきなり職場からの電話に呼び出される。人手が足らないので出勤してほしいとの依頼に、無下に断ることができないクリスティン。仕方なく彼女は、ガッカリする息子を自宅に置いて職場に駆けつける。てんやわんやの仕事が終わり、上司に待遇の改善を約束されたクリスティンは、喜びながらも心ここにあらずで自宅へと急ぐ。

 ところがそんな自宅には、彼女を待っているはずの息子の姿がいない。

 もはや暗くなって、子供たちはみな家に帰っている時間だ。しかしウォルターはどこにもいない。これはおかしいと警察に電話してみても、困惑するクリスティンの願いなど聞き入れてくれない。どうせ子供のことだ、一晩経ったら戻ってくるはず…と、翌朝になるまで動く気配がない。

 翌日から警察がようやく重い腰を上げたものの、何一つ手がかりもなければ解決の糸口もない。クリスティンの焦る気持ちをよそに、ウォルターの行方が分からないまま時は過ぎていく。長老教会の牧師ブリーグレブ(ジョン・マルコビッチ)もそんな彼女に同情を寄せて祈りを捧げるが、やはりウォルターは帰って来ない。日頃からロス市警の腐敗を告発しているブリーグレブ牧師は、「残念ながらこんな警察では事件解決も期待できない」と吐き捨てるように公言するのだった。

 ところが、それから5ヶ月後。晴天の霹靂のように、事件は思わぬ展開を見せた。ロス市警少年課のジョーンズ警部(ジェフリー・ドノバン)から、ウォルターが発見されたとの知らせが届いたのだ。心をはずませロサンゼルス駅に駆けつけるクリスティン。ロス市警はこれを日頃の名誉挽回とばかり、本部長デイビス(コルム・フィオール)まで出てきてマスコミにサービスこれ勤める。駅のホームでの母子感動の再会場面は…。

 この子は私の息子じゃない…。

 列車から降り立ったのは、ウォルターとは別の子供(デボン・コンティ)。困惑するクリスティンの訴えに、ジョーンズ警部以下警察関係者もうろたえる。周囲には報道陣も集められていて、「感動の対面シーン」を取材しようと待ちかまえているのだ。

 「あなたは今、気が動転しているんだ。これは息子さんに間違いない!」

 しかもマズイことに、人違いの少年当人が「自分はウォルター」と自称しているのだ。とにかくその場をハッピーエンドに納めなければ…と必死のジョーンズたち警察関係者の剣幕に押されて、ついついクリスティンも強く意義を唱えずウヤムヤになってしまう。そして無理矢理この見知らぬ少年を、自宅に引き取ることを強いられるのだった。

 しかし、違うものは違う。

 毎日一緒に暮らしていた母親が、間違えるわけがない。外見、しぐさ、しゃべり方…大体、柱に刻みつけたウォルターの背丈より、縮んでいるというのはどういうことなのだ。

 さすがにこれはおかしいとクリスティンは市警を訪れ、「ホンモノのウォルターを探して欲しい」と訴える。しかしジョーンズ警部は聞き入れないどころか、「母親としての義務から逃げようとしている」とコキ下ろすテイタラクだ。そのジョーンズ警部の指示で少年を見に来た警察医も、背が縮んだのは精神的なモノというキテレツ「診断」を下すアリサマだ。そして母親に問題ありと断言する始末。クリスティンはどんどん追いつめられていく。

 しかしそんなクリスティンに、助け船を出す人物も現れた。例の長老教会の牧師ブリーグレブだ。長年の市警の腐敗を批判し続けたブリーグレブは、彼女を取り巻く警察の動きに、毎度おなじみの胡散臭さをかぎ取っていたのだ。

 「警察と戦うならば、私が力になります」

 「私は戦いたいわけじゃない。息子を取り戻したいだけなの!」

 確かに彼女の願いはそれだけだった。しかしロス市警は、息子を取り戻すよう執拗に求めるクリスティンに、恐るべき圧力を行使してくるのだった…。

 

見た後での感想

 実はこの映画、当初予想されていたような「社会派」映画かというと、必ずしもそういうわけではない。

 いや、ストーリー上ではそうなっているし、実際そういう展開だ。この映画を見に行ったお客さんが「なんてひどい警察なのっ!」と怒っても無理はないし、そういう警察の非道ぶりを告発している映画と思うのも自由だ。

 しかし、どうも監督であるイーストウッドの関心は、そんなところにはない感じなのだ。

 それは、この映画のところどころに漂う「あるムード」からも伺える。この映画では結局、ヒロインの息子は連続児童猟奇殺人の犯人につかまり、どうやらその毒牙にかかってしまったらしいと描かれる。

 ところがその猟奇殺人犯の描き方が、何ともイヤ〜なムードなのである。

 むろん猟奇殺人犯だからイヤ〜なムードなのは当然。しかし、それにしたって…警察が初めて殺人犯の自宅を訪れるくだり、さらに何度か捜査のためにやってくるくだりの、あのどんよりとしたイヤ〜なムードはどうだろう。あの気色悪さは単なる犯罪映画やサスペンス映画を超えて、ホラー映画などの「それ」に近いのではないだろうか。

 そしてもっと気色悪いのは、ヒロインが警察にダマされて、精神病院に閉じこめられるくだり。そこでヒロインに危害を加えようとする医者や看護婦たちの描き方は、もう完全に「異常者」のような扱いである。ここでは入院患者なんかよりも、医者や看護婦の方がよっぽど「異常者」であると描かれている。ヒロインが理不尽でひどい目に遭わされることで観客に「社会派」的な怒りが植え付けられるというより、明らかにホラー的な恐怖の方が勝っている。繰り返していうけど、例えばあの病院の看護婦の描き方を見ると、完全にイッちゃってる顔してるのだ。変態、キ××イ扱いなのである。

 そして、これはまさにイーストウッドの資質が生んだ処理だろうと思わされるのだ。

 実はイーストウッド、映画界広しといえども、この人くらい異常心理やホラーが好きな人はいない。何しろ監督デビュー作「恐怖のメロディ」(1971)の時点で、アブないストーカー女を登場させている。主演作でも「白い肌の異常な夜」(1971)では、アブない集団の中に捕らえられ、閉じこめられる恐怖を描いている。「タイトロープ」(1984)ではズバリ猟奇殺人犯を登場させてもいる。サイコな犯罪者はお手の物なのだ。

 しかもホラー風味といえば、異色西部劇「荒野のストレンジャー」(1972)がまさにホラーではないか。おそらく「幽霊」と思われる流れ者ガンマンが主人公の西部劇なんて、他では誰も作ろうとしまい。これなど、まさにイーストウッドならではの作品なのだ。

 そしてそのホラー趣味が、単に「コワい映画」を作りたいが故というより、まさに「病んだ」体質から生まれているように思えるのもイーストウッドならばこそ。ミリオンダラー・ベイビー(2004)感想文でも書いた通り…世間じゃどう思っているか知らないが偉大なるヒーロー=イーストウッドはかなり「変態性」が高い。先に挙げた「恐怖のメロディ」「白い肌の異常な夜」「タイトロープ」だけにとどまらず…イーストウッド自身が女にレイプされる「ルーキー」(1990)なども含めて…ヒーロー・スターの割には「変態」に対するこだわりがハンパじゃないのだ。実際に「タイトロープ」では異常性格の犯人を追っているうちに変態セックスに溺れ、「ミイラとりがミイラ」になる主人公を自ら演じ、ついでに自身の「変態性」も暴露していた。だから今回の映画が「社会派作品」にはならず「変態ホラー」映画と化したのも、イーストウッドとしては「確信犯」なのである。

 そして今回最も感心したのが、それがロサンゼルスという街の持つ「暗黒性」とうまくマッチしたこと。

 イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」じゃないけれど、元々がロサンゼルスという街には、どこか「爛熟」とか「退廃」とか「腐敗」といったものを思わせるところがある。雨もあまり降らず、太陽サンサンの土地柄なのに…いや、むしろウソっぽいほど太陽サンサンだからこそ、どこかそんな退廃感が充満している。

 そんなカリフォルニア、ロサンゼルスのヤバさを、イーストウッドは実にうまくすくい取っているように思える。特に猟奇殺人犯の隠れ家に刑事が赴くあたりの、白昼陽光ギンギラの下での気色悪さこそが、まさにそんなイメージなのだ。

 だから僕としては、イーストウッドにこのテイストでブラック・ダリア(2006)をぜひとも撮ってもらいたかった。ブライアン・デパーマ監督で完成した「ブラック・ダリア」は、いかにも「血塗られた映画」を撮ってきたこの監督に向いている題材のように思えたが、実はブライアン・デパーマは世間で言われているほどホラー趣味な監督ではない。だから出来上がった作品も中途半端な出来で、得体の知れなさや気色悪さが今ひとつ描けていなかった。つまり、太陽サンサン照りつける下に放り出されている、女性の胴体ブッた切り全裸死体という…いわゆる「カリフォルニアの病んだコワさ」が表現できていなかった。

 この映画のイーストウッドなら、きっとこの「ブラック・ダリア」の世界をズバリと表現できていたのではないかと思う。僕もそんな「ブラック・ダリア」が見たかった。こいつは、返すがえすも残念だ。

 

見た後の付け足し

 そんなわけで「社会派」というよりイーストウッド本来の得体の知れない「変態ホラー」趣味に傾いた感のある本作。しかしそこには、単なるホラー趣味以上の作家的モチベーションが感じられるのも事実だ。

 例えば、ヒロインの一人息子をさらって…おそらく殺したであろう猟奇殺人犯は、文句なしに「変態」で「異常者」だ。これに疑いを差し挟む人は誰一人いまい。やってることがやってることだから、これは断言しても間違いない。

 だがイーストウッドは、この猟奇殺人犯の隠れ家の描写と同じくらい熱のこもったホラー趣味演出で、ヒロインが閉じこめられる精神病院の場面も撮っている。いや、精神病院だけじゃない。そもそもヒロインをそこまで追い詰めていく警察の連中からして、ある意味で「カリフォルニアの病んだコワさ」そのもの。まさに変態ホラーな奴らだ。

 つまりイーストウッドは、猟奇殺人犯と警察が同じくらい「変態」で「狂人」だと言っているわけだ。かなり大胆な言い分だが、このストーリーなら確かにこうも言いたくなる。このあたりまでは、この作品を見た誰もが感じることだろうし、納得していただける点だろうと思う。

 しかし、この作品における「変態」で「狂人」な人物は、果たしてその両者だけだろうか。

 正直に言うと…僕はこの作品を見ていて、2カ所ほどちょっと引っかかった点があった。それはいずれもヒロインを助けるこの作品中の「善玉」、ブリーグレブ牧師に関する場面だ。

 事件は解決に向かい、警察は告発を受けて悪人は裁きを受けつつある。そこでヒロインを支え続けてきたブリーグレブ牧師は、ある意味で当然といえば当然な言葉を告げるのだ。

 いわく「もう事件も片づいたのだし、いいかげん現実を受け入れて、息子さんの死を納得したらどうです?」…と。

 確かにこの状況下なら、誰でもそう言うだろう。どう考えてもすべての条件は絶望的だ。誰がどう考えても、ヒロインの息子は死んでいる。もはやそれを受け入れなくてはならないはずだ。

 しかし、よく考えてみよう。これってヒロインの望んでいることなんだろうか。ヒロインはあくまで息子の生還を望み、ウヤムヤにせず最後まで探すことを望んでいた。それなのに、「もういいかげん諦めろ」と告げて片づけようというのは…。

 ヒロインの「宿敵」でありこの作品の中で「変態」で「狂人」であると断じられた、警察側の言っていたこととどこが違うのか。

 警察の連中は替え玉息子をあてがってきた点がムチャだったが、最終的に「これで納得しろ」とヒロインの望みを断ち切らせようとした点ではこのブリーグレブ牧師と変わりがない。ブリーグレブ牧師もヒロインの意向を曲げようとしている点では、何ら警察と違わないのである。

 ならば一見善意の人と見えるブリーグレブ牧師も、他人の意志を曲げてもいいと思い込んでいる点において、「変態」で「狂人」であるとは言えないか。ここでブリーグレブ牧師を演じているのが、他の作品では「凶悪犯」なども演じることが多いジョン・マルコビッチであることは、非常に暗示的に思える。

 さらにイーストウッドの変態ホラー演出という点では、もう一カ所気になる場面がある。それは猟奇殺人犯の死刑の場面だ。

 怯えきりながらも階段を上がり終えた犯人は、結局、首にロープを巻き付けられて吊される。その執拗なまでな描写もさることながら、吊された犯人がピクンピクンとケイレンするくだりまでをじっくり見せる。ストーリー上そこまで延々見せなきゃならない場面でもないように思えるのだが、イーストウッドはこれまたかなり熱を込めてこってり見せるのだ。そして注目すべきは、ヒロインをはじめ死刑の模様をじっと見ている多くの見物人の姿がそこに描かれていることだ。

 僕は西欧「先進国」のみなさんとは少々意見を異にしていて、決して「死刑反対」だとは思っていない。これが野蛮性の証明だと言われれば反論する材料も何もないが、死刑制度そのものをなくしたいと思ったことはないし、そういうメッセージを生硬に押し付けてこられるとシラけずにはいられない。

 しかしこの映画で描かれたように、死刑の状況をじっと見物する「観客」の存在には、いささか悪趣味なものを感じないわけにいかなかった。

 例えば殺人被害者の遺族などにしてみれば、あそこで刑の執行を目撃するのは意味があることかもしれない。僕はそれを西欧「先進国」の人々みたいに「敵討ちなんて野蛮」などと言う気はない。たぶん僕も遺族の側に立ったら、同じように思うだろうからだ。しかし、それ以外の…何でその場に立ち会っているのか分からない人々ってのは、やっぱり人の死をどこか「楽しんでいる」ってことなんじゃないだろうか。それって、やっぱり同じように「変態」で「狂人」ではないか。

 いやいや、イーストウッドはもっと突っ込んだことを言っている。

 支持者であるブリーグレブ牧師たちに「もう諦めたら?」と言われても、いつまで経っても息子の生存を疑わないヒロイン。たまたま何年も経ってから生存していた被害者が現れ、その証言を聞いたヒロインは「息子もきっと生きている」と心の支えにして生きていく…というのがこの映画のラスト。劇場で買ったパンフレットでは、それを「淡い希望が見えるエンディング」だとか書いていた。

 しかし、それは「淡い希望」なのだろうか?

 実は生存者の証言は、ヒロインの息子にも言及していた。ヒロインはそれを「生存者がいたのなら、息子だって」…と解釈したようだが、実はそれって第三者的に見れば、ますます息子の生存を絶望視させかねない証言でもあるのだ。普通に考えれば、そこでヒロインの息子は殺されちゃったのだろうと思わされる話だ。

 しかし、ヒロインは「これで希望が確信に変わりました」と満足げに微笑み、そのまま警察署を去っていく。そこに「彼女は生涯息子を待ち続けた」と文字が出てくるエンディングだ。

 これのどこが「淡い希望」なのか。

 それよりも、彼女の「息子を取り戻したい」という願い、「息子を待ち続ける」という意志は、もはやこの段階で一種の「妄想」の域に達してしまっているとは言えないか。

 むろん「人の親」なら誰でもそうなる…とは言えるだろう。しかしこの映画での描かれ方…満足して笑みを浮かべながら去っていくヒロイン…を見ていると、明らかに作者はこれを「狂気の沙汰」として描いているように見てとれる。

 つまり、ヒロインですら「狂人」として描かれているのだ。

 異常犯罪者のみならず、法の番人である警察や、狂人を治療する側である精神病院スタッフですら「狂人」。それどころかヒロインの数少ない支持者の牧師も「狂人」なら、死刑執行を楽しんで見る一般の人々も「狂人」。そもそも、もはや妄想の世界に生きるヒロインそのものが「狂人」…。

 こうなってしまうと、もう狂っていない奴なんていないって事になりはしないか。

 どいつもこいつも狂った奴ばかり…というより、「人間というものは、みんなどこか狂っているものなのだ」というペシミズムにさえ思える結末。この「思いこみ」と「決め付け」の強烈さ。

 そんな、あまりに強引な結論づけを行うイーストウッドの言い分こそ、実は「狂気」じみているとは言えないだろうか。

 

 

 

 

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