「チェ/39歳別れの手紙」

  Che Part Two

 (2009/03/02)


  

「F27歳の転職」&「F36歳ドツボの手紙」

 僕が社会人になって以降、何度も何度も度重なる転職を経験していることは、このサイトでもみなさんがウンザリするほど繰り返し語ってきたと思う。

 ただし、僕は自分が何度も転職を経験する身になるとは、実際にそうなるまでまったく考えていなかった。というか、僕が子供であり学生だった当時は、そういう考え方をすることが一般的ではなかった。あの頃は「終身雇用」が普通であり、一部の人々を除いてみんなそれが当然だと思っていた。さすがに僕が就職した1983年頃にはそれも崩れつつあったものの、まだまだ全体的にはそういう考え方が支配的だった。

 僕が一番最初に入ったのは、航空代理店の会社。そこで輸出航空貨物の営業をやった。しかし僕はそこで自分の仕事にまったく熱心になれず、先々に何の展望も持てないことに気が付いた。まったく芽が出ずミソッカスのままで歳をとり、使えない営業マンとして一生を終えてしまうかも知れない。これは恐怖以外の何者でもなかった。強調しておきたいが、僕は自分がいた会社を悪く言える立場にいなかった。むしろ僕なんかを社員にした会社が気の毒だった。どこをどう見ても、僕はこの仕事に不向きでしかなかった。

 そんなある日、中学時代からの僕の知り合いが会社を辞めて新たな道を探すと聞き、自分の目の前の閉塞感がパッと解消されるような気がした。

 たぶん、僕は何かがヒントとして提示されるのを、どこかでジッと待っていたのだ。友人の話を聞いた僕は、「その手があったんだ」と両膝を打ちたい衝動に駆られた。それから間もなく、僕は最初の会社に辞表を出すことになる。それは僕が27歳の年末のことだった。

 しかし年が明けて就職活動を始めても、仕事など一向に決まるわけがない。それはそうだ。それまでのキャリアとはまったく関係のない、ライターや編集の仕事ばかり探していたのだから、スンナリ決まる方がオカシイだろう。

 それでもそろそろ1年を経過しようとする頃、とある業界新聞に拾われた。最初の会社で働いていた航空業界での知識が買われて、航空記者として新たな人生をスタートさせられたのだ。

 そこからの僕のキャリアはラッキーそのものだった。ひょんなことから声をかけられ、某航空会社のPR誌の仕事に就き、それを1年ほど続けたところで会社が空中分解すると、綱渡り的に別の広告会社に引っかかることができた。ここでコピーライターとして働き始めた時、僕は30歳になっていた。 結果的に僕は、業界紙記者〜PR誌編集ライター〜コピーライター…と、自分なりのステップアップを実現することができたのだった。

 それから6年、僕はコピーライターとしてそれなりに経験を積んだ…つもりになっていた。すべて順風満帆。僕はその会社がキャリアの終着点だと思っていたし、待遇もまぁ悪くはないと思っていた。自分なりに自信もついた。

 しかしその頃、日本経済を持ち上げるだけ持ち上げたあげく、バブルがはじけた。

 最初は少しずつ、そして段々と加速度的に、会社の業績は悪くなっていった。それと同時に会社内の雰囲気も悪くなった。余裕を持って仕事に取り組む環境は失われ、世知辛い話ばかり聞かれるようになった。外部から怪しげな人材が入り込み、海千山千ぶりを発揮して社内を疑心暗鬼に陥れた。

 それまでここを最後の勤め場所だと考えていた僕も、あまりの周囲の環境悪化に考えを改めざるを得なくなった。これではいけない。かつてのあのいい仕事場の雰囲気は失われた。ならば、改めてそれを求めに外に出なければならないだろう。

 それに、僕は心のどこかで…コピーライターとしての自分の技量がどこまでのものなのか、自分で試してみたいという気持ちも起きていた。むろん、それは自分がある程度のモノだと思っているからそう考えたわけだが、ともかく自分の力を証明したいと考えたわけだ。

 一度できたことだ、もう一度できないことはあるまい。

 そんなわけで、自分としては志も高く意気揚々と会社に辞表を叩き付けた。それは36歳になる直前の夏のことだった。

 誰も僕を止めなかった。止めないどころか惜しみもしなかった。

 それから僕の身に起きたことは、とても一言では語り尽くせない。ただ一言いえるのは、僕は自分を分かっていなかったということだ。僕の実力などお粗末そのものだったし、よそですぐに飛びつきたくなるような要素は何一つなかった。そもそも僕がそこまでステップアップできたこと自体、バブル期の神様の気まぐれが生んだ幸運にすぎなかった。そのバブルの残照さえ、今は遠くかすんでいくばかりだ。そして僕は、いまや決して若くなかった。

 こうして履歴書を出し面接を繰り返しても、次々断られる日々が続く。ようやくありついた仕事もロクなものではなく、結局すぐに嫌気が差して辞めることになる。その過程で人には裏切られたし踏みにじられた。自信もキャリアも銀行預金もはぎ取られた。そして年令ばかり重ねていった。景気は良くならず、もはやキャリアの挽回もままならないまま、僕はいつの間にか40代の半ばになっていたのだった。

 一度できたことだ、もう一度できないことはあるまい…。

 思えば何と愚かなことか。以前うまくいったのは、単に僕がラッキーだっただけだった。だから同じことをやればまたうまくいくなんて、全く何の根拠もない自信だったのだ。それに、実は自分も周囲の状況も前とは変わっていた。それに気付かなかった僕は、きっとどうかしていたのだろう。

 僕が今の職場に拾われて編集の仕事を始めたのは、そんなある日のことだった。しかし、それも単なる偶然だったと今では僕にも分かっている。ひょっとしたら…というより、そのまま現状を打開する手だてが見つからないままだった可能性の方が高かったはずだ。

 ともかく僕のこの「空白の10年間」は、出口のない絶望の中を這い回るような日々だったのである。

 

見る前の予想

 正直言って、僕は前作チェ/28歳の革命(2008)の出来栄えをあまり高く評価していなかった。

 前評判はめっぽう高かったし、公開されてから聞こえてくる評価も素晴らしいものばかり。正直言ってその映画の「どこ」がそんなに素晴らしいのかを伝えてくれる評価は見受けられなかったが、たぶんみんながホメているのだからいいのだろう。ここだけの話、別にチェ・ゲバラについての知識もなければシンパシーもない僕としては、普通に…例えばレイ・チャールズやブルース・リーやハワード・ヒューズについての伝記映画を見るときと同じスタンスで劇場に向かったのだ。

 そして、首をかしげた。

 力作であることは確かだ。作り手の誠実さも感じる。決して箸にも棒にもかからない映画ではない。だが、僕はこの映画が何を言わんとしているのか全く分からなかった。

 何しろいきなりチェ・ゲバラはキューバに行ってしまう。いきなり山籠もりだ。何でそんなことをしなくちゃならないのか、まったく説明がされない。革命の理由も…言葉では説明されているが、映画としての必然性を持って描かれはしない。ゲバラがなぜそこに身を投じるのかも分からない。

 そんなこんなで山の中でゲリラ作戦が展開され、うまくいくこともうまくいかないこともあり、良いことも悪いこともあるうちに状況は好転。最後は高揚感の中で勝利を収める。

 時代色も申し分なく描写もリアルだ。後半の戦いも緊張感がある。

 それは分かるのだが…何で革命をやらねばならないのか、何でゲバラがそれをやろうとしたのかが、一向に「映画として」説明されないままなのだ。一体こりゃ何だ?

 にも関わらず、世間じゃこの映画を絶賛。これまた僕には不可解でならなかった。別に意見が違ってもいい。ただ、知りたいのだ。みんな一体この映画の「どこ」を絶賛しているのか。映画評を読んでも分からない。みんなゲバラがエラかったとか、そんなことしか言っていない。ゲバラがどうだろうと関係ないだろう。「この映画」はどうだったんだ。ホントにみんなこの映画を見たのかよ。

 何だかそれじゃゲバラの顔がプリントされたTシャツなんかと変わりないんじゃないの?

 正直言って「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)から「オーシャンズ」まで撮っちゃうスティーブン・ソダーバーグという男も、「ぬえ」みたいに捕らえどころがなくて信用できない。そんなわけで僕はますます、この「チェ」二部作について疑問を持たずにいられなかったのだ。

 しかし…そう、この「チェ」は二部作だったのだ。

 前編が気に入らなくても、こうなると乗り掛かった船。後編も見ないわけにはいかない。僕はまったく気乗りしなかったのだが、イヤイヤ劇場に足を運んだのだった。ともかく作り手の言いたいことを、最後まで見極めなくてはなるまい。そうは言っても寝ちゃいそうだったので、何とポップコーンまで持って劇場に入ったわけだったのだが…。

 

あらすじ

 1965年10月、キューバ共産党発足の場で、フィデル・カストロ(デミアン・ビチル)は演壇から誰もが気にしていることに言及した。その輝かしい場に、いるべきはずの「功労者」チェ・ゲバラの姿はなかった。カストロはそのことについて触れた後、ゲバラから送られた手紙の内容を披露する。

 「今、世界中のさまざまな国が、僕の力を求めている。君はキューバの責任者だからできないが、僕にはできる。いまや別れの時が来たのだ…」

 それに先立つ数ヶ月前、髪を剃りメガネをかけて中年男に変装したゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)が、妻アレイダ(カタリーナ・サンディナ・モレノ)や子供たちと食事をとっている。つかの間のくつろぎの時。それから間もなく、ゲバラは中年男ラモンとしてボリビアに入国する。 むろんこの国で革命の狼煙をあげるためだ。

 そんなゲバラの入国と時を同じくして、この国の反政府勢力も秘かに活動を開始した。その中にはボリビアの上流階級に潜入して独裁者バリエントス大統領(ヨアキム・デ・アルメイダ)の知己を得るに至った、反政府側スパイのタニア(フランカ・ポテンテ)もいた。

 やがて山の中に入るゲバラ。待ち構えていたゲリラ志願の人々は、目の前にいる男が「あのゲバラ」だと知って興奮した。例によって陣地をつくり訓練を開始。キューバ革命と同じように、また一から手作りで始めるのだ。

 しばらくするとタニヤもやって来て、いよいよ本格的に闘争を開始させようとするゲバラ。そのためには支援の受け皿として、ボリビア共産党のサポートは欠かせない。そこで山の中の陣地に共産党書記長のモンヘ(ルー・ダイアモンド・フィリップス)がやって来るが、どうもイマイチ煮え切らない態度だ。要はモンヘたち共産党幹部は、武装闘争を好ましく思っていないらしい。また指揮を執るゲバラが外国人であるということも、この国の人々の感情的に良くないと指摘する。これにはさすがにゲバラも苦々しい思いを隠しきれない。

 それでも何とか貧しい人々と触れあい、支援を呼びかけながら準備を進めるゲバラ。こうして政府軍と初めて衝突したゲバラのゲリラ軍は、初陣を勝利で飾ることになる。

 戦意を喪失した政府軍の兵士たちに、ゲリラ軍はすかさず自分たちへの参加を呼びかける。しかし彼らはもう戦いはたくさんだと語り、誰一人参加せずに去っていった。これには愕然とせざるを得ないゲリラ軍たち。ゲリラの呼びかけに賛同者が皆無だったという事実は、彼らにその前途多難さを改めて実感させた。

 そしてこの勝利は、結果的にゲバラたちの首を絞めることになる。ゲリラの脅威に危機感をつのらせたバリエントス大統領はアメリカの支援を得て、ゲリラ討伐に本腰を入れ始めたのだ。

 しかもゲバラたちは、いまだに民衆の支援を得られずに孤立していた…。

 

見た後での感想

 今回もまた、ゲバラはいきなり何の説明もなしに革命に乗り出す。「また」である。何の説明もない。何で革命に行かなきゃならないのか、一切語られない。

 しかし僕らはすでに前作を見ている。だから、すでにゲバラは他人ではない。その胸中も、分からないながらも推察されないでもないのだ。

 ひとつは…革命が終わってみると、共産党のお偉いさんとして座っているのは居心地が悪かったのではないかということだ。特にキューバにはカリスマ=カストロがすでにいる。「両雄並び立たず」とはよく言ったもので、おそらく「平時」となった時、そこにゲバラがいたらカストロだってやりにくかろう。そのへんをゲバラが推し量ったのか、あるいはすでにそれが表面化していたのか。そのくらいの事は、ある程度社会経験をしている人間だったら想像は付く。

 あるいはもうひとつは…よくよくゲバラが「現場主義」の男だったということではないだろうか。実はかく言う僕も「偉くなるより現場主義」って気持ちがどこかにある。というか、現場を離れた「管理職」になれない。さらに突っ込んで言えば、革命ってのはいざ成就して立ち止まってみると、とたんに腐敗が始まってしまうものかもしれないのだ。これらはいずれも憶測の域を出ないが、何となくこのへんの気持ちが働いてゲバラがキューバを後にしたのではないかという想像は成り立つ。それなら僕にも、説明されずとも分かるのだ。

 しかし、それもこれも、僕ら観客が前作で「進行中の革命の高揚感」を味わっていたからこそ。

 そういう意味ではこの後編は、当然ながら前編を見なけりゃ理解できない作品になっている。そして前編とのつながりで見ていくと、何とも不思議な相乗効果を味わえる作品なのだ。

 実は映画が始まってすぐにゲバラがいきなり革命に旅立つあたりも前作と同じなら、そこでやることも同じ。地元の連中を集めて陣地をつくり、訓練を開始する。なかなか外の支援を得られないのも同じなら、軍規を乱して言うことを聞かない連中が出てくるあたりも同じ。

 デジャヴとでも言おうか、不思議な既視感を感じるのが今回の映画なのだ。

 しかし今回は、前作と同じことをやって同じようなことが起きているにも関わらず…前作はどんどん状況が好転していったのに、今度はなぜかどんどん良くない方向に話が転がっていってしまう。支援はいつまで経っても受けられない。それどころか裏切られる始末。ジリ貧状態で士気はどんどん低下。食料も武器弾薬もなくなっていく。またしてもゲバラは喘息に苦しむが、クスリさえ底をつく始末だ。

 分かる。この気持ちは分かる。

 おそらくゲバラは、こう思ったのだろう。また同じようにやればうまくいく…と。しかし以前の成功は、ハッキリ言えば幸運に過ぎなかった。これは決してゲバラを軽視して言っているのではない。そもそも人間の行いなんて、努力と実力で為せる部分は1パーセントぐらいのものだ。成功したとして、そのほとんどは運が良かったと考えるべきだろう。むろん努力や実力ナシに運は巡ってこないのは言うまでもないが。

 それだからと言って、僕はゲバラを愚かだと言うつもりはない。誰だってそう思ってしまうのだ。オレが動けばすべてが動き出す。前だってうまくいったんだ、同じことをもう一度やることだって出来るだろう。

 でも、うまくいくもいかないも、すべては偶然でしかないのだ。

 この感想文の冒頭で僕が長々と自分の転職話を並べたのは、このあたりのことを言いたかったからだ。むろん、自分の転職なんてシケた話を、ゲバラの革命と比べようなんて思っていない(笑)。しかし正直言って僕はこの映画のゲバラを見ていて、転職にあくせくしていた頃の自分を思い出さずにいられなかった。そして当事者のゲバラに現実が見えないのもよく分かった。同じことをやっているのに、なぜうまくいかないんだろう…と焦る気持ちもよく分かった。

 それがこの映画の正しい見方なのかは分からない。というか、違う気がする(笑)。ゲバラを神格化する人々からは批判を浴びそうだ。オマエのつまらない人生の話と一緒にするなと言われそう。でも、僕にとってはこう考える方が「人間ゲバラ」を実感できる。こんなゲバラなら理解できる。志はあったんだ、頑張ってもいる、このままじゃ駄目だからこうしなきゃいけないと信じている。そして確かな成功体験もあるから、それに沿って実行もしている。なのに、どうしてうまくいかないの?

 動かなくなった馬を焦り狂ってドツキ倒すゲバラの姿は、僕にとっては切実に思えた。あの気持ち、僕には他の誰よりよく分かる。

 それもこれも、前作の「成功体験」の記憶が観客にも残っているから、ゲバラの焦りを疑似体験できるのだ。これは巧妙な作戦だ。確かに前後編二部作の必然性はそこにあった。なるほど、そういうわけだったのか。やっと僕にもその意図がおぼろげに分かってきたよ。

 

チェ・ゲバラの本当の偉大さ

 そんなわけで、どんどん状況が苦しくなっていくゲバラ。その頂点に達するのは、むろん彼が捕らえられて処刑されるくだりだ。

 そこでは「主観カメラ」でゲバラの処刑を観客自らが体験するという、今まで見たこともない演出もほどこされている。ショッキングといえばショッキング、沈痛といえば沈痛。高揚感に包まれた前作と比べると、かなり見ていて悲痛な作品だ。

 では、シンドイばかりの映画なのかと言えば、実はそうではない。むしろ見終えた後に奇妙な希望が感じられる映画になっているのだ。

 えっ、だってジリ貧になって悲痛な思いをしたあげく、志半ばでゲバラが殺されちゃうんでしょ? どこに希望が感じられるの?…ここまで読まれた方は、そう思われるかもしれない。しかし実際の話、この映画を見終えた後には、不思議な後味の良さをおぼえるのだ。悲痛ではあるが、明るいエンディングなのである。

 それは、終始一貫しているゲバラの思想に秘密がある。

 といっても…「思想」という言葉を使ったからといって、僕は何もここで政治的なことを言おうとは思っていない。革命とは何たらとかアメリカ帝国主義がどうのとかを並べるつもりもない。第一、ゲバラの思想そのものがよく分かっていない(笑)。

 僕が言いたいのは、ゲバラの「楽観主義」だ。

 特に今回の後編で、ゲバラはずっと苦境に追い込まれている。かなり苦しい。だから時に焦って馬をドツイたりもする。しかしゲバラは最後まで、自分の行為について悲観的になることはない。ヤケも起こさないし、投げ出したりもしない。それどころか、かなり終盤でこんなことも言ったりしているのだ。

 「この状況は、我々に人間として成熟する機会を与えてくれているとさえ言える」

 さすがにこれはヤセ我慢なんじゃないの(笑)…と言いたくもなるが、本人は至って本気。無理して言っているわけではない。

 しかも、敵に捕らえられ風前の灯の身となった時でさえ、彼は自分の犠牲がムダにはならない…と言っている。そして、それは後日ある意味で現実になっているのだ。

 この、決して諦めない…そして悲観しない気持ち。これはさすがにスゴイ。

 一番素晴らしいのは、彼が分かったようなニヒリズムやシニカルな達観などに陥らないことだ。志がブレない。自分を信じている。彼の革命思想がどれほどのものだったかは分からないし、ハッキリ言ってそれをどうこう言うつもりもないが、この「悲観しない」意志の強さはさすがに感心した。

 そして、今こそ僕にはこの映画の意図が分かった。

 革命の目的が何だったのか、何が彼を革命に駆り立てたのか…この二部作ではそんなモチベーション部分が描かれなかったが、それにもちゃんと意味があったのだ。そんなものを描く必要が、この映画には最初からなかったからだ。そんなことを言ったらゲバラ・ファン(笑)に怒られてしまうかもしれないが、こうなってみると意図はそれしかないだろう。共産主義がなんたらとかアメリカ帝国主義がどうのこうのとか、そんなものは人々を身構えさせる。そこにチェ・ゲバラの偉大さがあったわけではない。志のために行動することを躊躇わず、自分を信じ、決して悲観的にならなかったことが偉大だと言っているのだ。それは必ずしも武装闘争に賛同できない人でも、十分うなずける「思想」ではないのか。

 僕も最後の最後のところで、自分を信じることだけは捨てなかったから、今こうして好きな仕事ができている。先にはどうなっているか分からないが、とりあえずのところはそうだ。投げなかったから、人生を捨てずに済んだのだ。

 きっとゲバラも、彼のやろうとしたことが命のやりとりにまで関わることでなかったら、あんな結末は迎えなかったのではないか。いや…確かに彼は死んでしまったけれども、彼の「理想」は生き延びた。ならば、それはそれでハッピーエンドとは言えないか。

 それならば、チェ・ゲバラは僕にとって意味のある存在だ。本当の革命とは、僕らの内面で起こっているものなのだ。

 

 

 

 

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