「PARIS/パリ」

  Paris

 (2009/02/23)


  

見る前の予想

 セドリック・クラピッシュといえば、おそらく現代フランス映画で最もイキイキした映画をつくる男だろう。初めてクラピッシュ作品を見た「猫が行方不明」(1996)以来、毎回毎回大いに楽しませてもらっている。僕のごひいき監督の一人でもある。

 しかし前作「ロシアン・ドールズ」(2005)に限っては、スパニッシュ・アパートメント(2002)の続編ということもあって、油断しているうちに見逃してしまった。不覚だ。だから今回はどうしたって見なくちゃいけない。

 とはいえ、今回の作品がそのものズバリ「パリ」と来たのを見て、いささか不安がよぎらないでもない。「パリ」…確かにすばらしい街なんだろうが…。

 それと今年冒頭のプライベートないろいろで、ズルズルと2月まで見ないで来てしまうテイタラク。慌ててあまり好きではない映画館ル・シネマに飛びこんだ僕だったが…。

 

あらすじ

 今日も今日とて、パリの空の下にはさまざまな人生が交錯する。

 ムーラン・ルージュのダンサーとして活躍していたピエール(ロマン・デュリス)は、病院で予想以上の深刻な診断結果を告げられる。なんと心臓病で余命わずかだというのだ。助かる方法は心臓移植しかなく成功率も五分五分と聞いて、さすがにショックに打ちのめされるピエール。悩み抜いた末に姉エリーズ(ジュリエット・ビノシュ)に相談すると、最初はいつものように「どうしてすぐ言わないの?」とまくし立てるが、「だから言いたくなかった」とピエールに返されて、我が身を振り返り愕然。働けず療養するしかない弟のために、エリーズは彼との同居を決意する。エリーズはソーシャルワーカーとして働きながら3人の子供を育てる「シングル・マザー」。男には失望しかなく、これからの人生に何らかの期待を持ってもいない。そして、ピエールの今の楽しみは…といえば、自宅ベランダから街を行き交う人々を眺め、その人生を想像してみることだという。

 一方、高名な歴史学者ロラン(ファブリス・ルキーニ)はテレビで歴史番組のキャスターをやるように頼まれ、大いに迷う。そんな俗っぽいことなどやりたくないと思いながら、結局カネのために引き受けてしまうロラン。しかし彼がテレビの仕事を引き受けた理由のうちには、書斎の虫のように引きこもって老いていくのがイヤだという気持ちもあった。そんな彼が大学で行っている授業の途中、美しいソルボンヌの大学生レティシア(メラニー・ロラン)に一目惚れする。それだけならいいが、たまたま携帯の番号を知った彼は、彼女に匿名のメールを送りつけるようになる。そのうち病が高じて、テレビの収録途中で煮詰まってしまうロラン。そんなこんなで悶々とするロランは、父の死以来、頻繁に顔を合わせるようになった弟フィリップ(フランソワ・クリュゼ)に漠然とした悩みを打ち明ける。妻と二人暮らしの建築家フィリップは、そんな自分の暮らしを幸せだと感じている男。しかしロランに「オマエはいいな、普通の人間で」などと決めつけられるや、言葉に出来ない悩みに落ち込んでしまう。オレだって悩みのひとつやふたつはある、単なる「フツウ」な男なんかじゃない…!

 市場で八百屋を出しているジャン(アルベール・デュポンテル)は、とっくに別れたはずの女カロリーヌ(ジュリー・フェリエ)と一緒に働いている。カロリーヌは向かいの店のフランキー(ジル・レルーシュ)に色目を使われて、その気がなくもない。そんな状況で働いているのはウンザリなジャンなのだが、それでも生来の人の良さか気の弱さか、カロリーヌと切れるわけでもフランキーに抗議するわけでもない。そんな彼はいつも買い物に来るエリーズに好意を持つものの、そこからなかなか踏み出せない。

 そんなパリを目指して、アフリカはカメルーンの故郷を後にしてきた男もいる。彼の名はブノワ(キングズリ−・クム・アバン)。バスからバスを乗り継いで、田舎の町から海辺をひたすら目指す。すでに兄がパリで暮らしていることから、それを頼りに不法入国しようと考えたわけだ。おまけに、フランスからバカンスで遊びに来たモデルのマルジョレーヌ(オドレ・マルネ)とも親しくなっていたので、いざとなれば彼女が力になってくれるとも思っていた。

 そしてピエールとエリーズの家の近所にあるパン屋のババア(カリン・ヴィアール)は、口うるさく地方出の人間をバカにしてばかり。それが客にヒンシュクをかっているとは気づかず、今日も店員に応募してきた女の子をコキ下ろす日々。

 そんなどう考えてもバラバラ雑多な人々が、パリという街の中で今日も肩を寄せ合って暮らしていたのだが…。

 

見た後での感想

 一言でいって、僕の好みの映画である。前々から何度も言ってきたように、僕は「人間群像劇」やいくつものエピソードやストーリーが平行して流れる「パラレル方式」のドラマが好きなのである。

 そして、元々がごひいきのクラピッシュの映画だ。面白くならないはずがない。

 デリケートな人間感情を描いて、いつも身につまされて共感させられてしまうクラピッシュ映画。しかしクラピッシュ映画はデリケートではあっても…フランス映画には珍しく、理屈っぽくもなければ遠回しで回りくどくもない。スノビッシュでも上から目線でもない。極めて親しみやすく分かりやすくてユーモラスだ。娯楽映画としてもよく出来ている。チマチマとした狭っ苦しさよりスケールのデカさを感じさせる。フィルモグラフィーの中にパリの確率(1999)なんて近未来SF仕立ての作品があるあたりからしても、そんなショボさとは無縁な映画作家なのだ。

 そこへきてクラピッシュは、「百貨店大百科」(1992)、「青春シンドローム」(1994)、「家族の気分」(1996)、そして「スパニッシュ・アパートメント」…と群像劇もお手のもの。面白くならないわけがないどころか、面白くて当たり前なのだ。

 では、なぜ僕は見る前に「パリ」というタイトルを見て不安に思ったのか?

 「パリ」という街はニューヨークと並んで、世界のアイコンとして思い浮かべられる街。残念ながら「東京」にはそんな芸当はできない(かといって、「だから東京はクソだ」と大阪や札幌の人間に言われるいわれはないし、言われたくもないのだが)。確かにパリは風情も伝統もあって、すばらしい街なんだろう。

 しかしフランス人が「フランス」とか「パリ」を前面に出してくる時、正直言ってちょっと辟易しちゃう時もある…と言ったらマズイだろうか?

 先日もテレビで「フランスと日本では、こんなに違う」的なレポートをやっていたが、それがまた見る前から想像がつくような内容。結局、「こんなに日本はクソだ」という内容で、実際にクソなんだろうから言われても仕方がないのかもしれないが、正直愉快な気分にはならなかった。

 取材を受けているフランス人の主婦とやらが「私たちの政府はすばらしい!」とか「フランス人に生まれてよかったわ!」などと目をむいて言っているのを聞いていると、「おやおや!」と意地悪な気分にならざるを得ない。おそらく取材しているのは日本のテレビ局なんだろうから、相手が外国人と分かってこの台詞を言っているんだろう。確かに我々の政府は情けないテイタラクだし、ダメな国でもあるんだろう。ローマの記者会見やバチカン博物館で泥酔した、われらが大臣サマのザマを見ていれば、悲しいかなそれもうなづけなくはない。

 だが逆に考えてみて、これっていかがなものだろうか。我々日本人が、例えどんな話題であったとしても、外国人に向かってこう言っている構図は…。

 「日本人に生まれてよかったよ、オマエら外国人と違ってな!」

 ちょっとこいつは恥ずかしくはないか。何となく…これに近いデリカシーのなさを感じちゃうのだ。

 そもそも、それがどこの国であれどこの街であれ、テメエんとこがサイコー…って言い草は聞いていて気持ちのいいもんじゃない。

 なぜかいつまでもパリを売り物にしている岸恵子とか中村江里子とかフランソワーズ・モレシャンとかも同じようなもんだ。「おそ松くん」のイヤミが連発する「おフランス」だって、笑えるだけもうちょっとマシだろう。モレシャンなどのゴタクを聞いていると、そんなに日本がクソでフランス最高なら早く帰ればいいのに…とさえ言いたくなってくる。こうなると、僕もすっかり偏狭な右翼みたいな言い草になってきちゃうのだが、確かに「よその人」にそんなことを言われたくはない。率直に言うということと無神経なこととは違う。「言うべきことを言う」のと「言わなくてもいいことを言う」のも違う。「言わない方がいいことを言う」のはなおさら違う。テメエのことに無批判で他人だけコキ下ろすなんざ、ガキだってやっちゃいけない恥ずかしいことだ。

 昨今はどこの国にも、そういう人ばかり多いような気がする。周囲の国を見下してコキ下ろし、自分たちがいかに優秀かと言い張ってばかり。ここであえて日本に限って言えば、こういう類の意見の人々って何かといえば「慎み深く謙虚なのが我々日本人だけの美徳であり品格」とか言っているのに…そしてその点においては僕も大いに賛成なのに…何でこんなに謙虚さも慎みもないの(笑)? 日本人として寂しいと思うけどねオレは。

 閑話休題。同じように、あんまり「てめえんとこサイコー」なんて言うのはカッコのいいもんじゃない気がするのだ。だって、自分で自分の首すじにキスするみたいな気色悪さがあるではないか。ハッキリ言えば見苦しい。

 だから、ちょっと前にパリ、ジュテーム(2006)なるオムニバス映画が公開された時も、こりゃ見ちゃおれないものになるな…と警戒したが、実は外国人監督に結構辛辣なことも言わせていて、逆に見応えのあるオムニバス映画になっていた。そういう懐の広さもあるんだよな。

 しかし、生粋のフランス人にしてパリジャンのセドリック・クラピッシュが、ドカンと「パリ」と銘打った映画をつくったとなれば、ただごとではない。デリカシーのあるクラピッシュのこと、目をつり上げて「フランス人に生まれてよかったわ!」などと叫んでいるフレンチ主婦と一緒にしては失礼ながら、それでも何だかんだ言ってフランス人に変わりはないからなぁ。イヤな予感がする。フランス人が「パリが好き」って言ってる時って、ウディ・アレンが「ニューヨークが好き」って言ってるのとは微妙に違って、どこかエラソーで上から目線な気がするのだ。これって必ずしも偏見ではないように思えるんだよね。

 だから、真っ正面から「パリ」と言われると、どうにもケツがかゆくなってきたりもするのだ。

 

みんな幸運に気付いていない

 では、クラピッシュの「パリ」は実際のところどうだったのか?

 結論からいえば、フランソワーズ・モレシャン的な鼻持ちならなさは、さすがにクラピッシュは持ち合わせていなかった。クラピッシュの「パリ」はサイコーでも何でもなかった。そこは多くの人々がうごめいて、日々生活をして、喜怒哀楽を味わっている「街」…としての象徴以上でも以下でもなかったのだ。おそらく彼が「街」を思いうかべる時、まず頭に浮かんでくるのが「パリ」だったということではないか。それは僕が「街」を考えた時に、まず「東京」が浮かんでくるのと同じ。ことさらに「パリ、サイコー」なんて言うつもりはなさそうだ。

 そんなクラピッシュの意図は、この「パリ」の物語に時折なぜかアフリカのシークエンスが割り込んでくるあたりからも明らかだ。「パリ」が舞台の「パリ」の映画としては、どう考えても反則技であるこの場面。しかしクラピッシュがそんなバランスを崩してもあえて入れた理由は、やっぱり単細胞的な「パリ、サイコー」映画をつくりたくなかったからだろう。良くも悪くも移民たちがやって来て、あまりありがたくもない問題も起きて、それでも仕方なく彼らを受け入れて、そこには必ずしもキレイごとばかりもなくて…そんなこんなも「パリ」の一部だと、クラピッシュは言いたかったに違いない。

 それくらいこのアフリカ移民のエピソードは全編から浮いている。だってストーリーラインから言えば、決してなくたって困らないエピソードなのだ。物語巧者であるはずのクラピッシュが、バランスが崩れることを分かってないはずがない。それ以外にも地方出の人間に必要以上にイヤミなパン屋のババアなんかを何度も出してくるなど、必ずしも「パリ、サイコー」じゃないぜと暗に言っているようなところもあるのだ。さすがクラピッシュ、ちゃんと「分かってる」んだよね。

 では、この映画ってどんな映画だったのか…と言われると、実は僕としては心許なくなる。

 映画サイトの管理人としては、この感想文で作品分析とやらをしなくちゃならないんだろうが、実はそんなことをする気はサラサラない。元々クラピッシュ映画は好きだから、その作品世界を心地よく味わってはいたが、それ以外の細々とした事には気をとめていなかった。

 それというのも、今回はそんな事より気になることがあったからだ。

 いつまでそれを引きずっているんだと言われるかもしれないが、この映画を見た時には僕はいまだ父の死からひと月経っていなかった。だから、どうしても「人の生き死に」が気になる。僕はこの映画を見ていて、作中のそんな部分ばかりに目がいってしまった。そしていろいろ考えてしまった。これは正しい映画の鑑賞法ではないのだろうが、今はそうにしかならないのだから仕方がない。僕はこの作品を見ていて、父の死についてあれこれ連想せざるを得なかった。

 だが、それは必ずしも僕の精神状態のせいばかりでもないかもしれない。

 実際にこの映画では、そんな「人の生き死に」にまつわるエピソードが、一種のアクセントのように何点か配置されているのだ。

 まずは主人公ピエールが、死と隣り合わせの病人であるという点が重要だろう。彼はそれ故に人生に自覚的になり、周囲の人々にも「もっと人生を楽しめ」と訴えるのだ。それだけなら「人生は一度きり」という、少々紋切り的なメッセージとも言えなくないが、物語の中盤で八百屋のカロリーヌがバイク事故で死亡し、それが周囲の人々に有形無形のインパクトを残す…という展開は、明らかに作者が「人の生き死に」を念頭に置いて作っているからではないか。そう考えてみると、歴史学者ロランと弟フィリップが最初に一緒に出てくる場面が、彼らの父の葬儀場面であることも象徴的だと言える。

 そしてラスト、心臓移植手術のために病院に向かうタクシーの中で、主人公ピエールが吐露する一言がすべてを語っている。

 「みんな、自分がどれだけ幸運か気付いていない」

 実際、人間ってものは「人の死」に直面しないと「人生」を直視しない。むろん僕だってそうだった。「死」を意識しないと、自分の「生」を自覚できないのだ。それは、窒息しそうにならなければ自分が普段酸素を吸っていることを自覚しないのと同じだ。

 

 父が亡くなるなんてことを初めて考えたのは、実際の死の3日前だった。

 それまでは今までの入院と同じで、最終的にはまた家に戻ってくるんだと思っていた。実際のところ、父は4日前まで意識もハッキリしていたし、僕らと会話も交わしていたのだ。そんなこと、家族の誰も考えてもいなかった。

 それがいきなり、朝、病院からの呼び出しだ。それからは脈拍、呼吸、酸素濃度が不安定に上がったり下がったり。ひとつが安定しても他のどれかが不安定になるという「モグラたたき」のような状態に陥った。それでも容態が急変してから最初の1日は意識があった。2日目にはその意識もとぎれがちになり、3日目はほとんどないも同然だった。

 亡くなったのは、4日目の朝だった。

 父はひどく気の小さい人で、入院するたびかなりハイテンションな状態になった。それもきっと、病院が恐かったからだろうと今では思う。がんが発見されてから10年間、おそらくずっと怯え続けてきたのではないだろうか。

 そんな怖がりの父だったが、おそらくこの最後の日々には、自分が死ぬかも知れないなんてことは考える間もなかったと思う。僕らが夢にも思わなかったように、父も考えていなかったはずだ。そうであってほしい。今となってみれば、それがせめてもの救いだ。

 ただ…すべてが終わってみてみれば、心の中にはかなさが残る

 つい4日前まで会話を交わしていた相手…また家に戻って一緒に暮らすんだと思っていた人が、アッという間にいなくなってしまう。「死ぬ」というのはドラマティックなことでも深刻なことでもなく、とにかく「いなくなってしまう」ことなのだ。

 僕は初めて、人生ははかないと心の底から思った。

 そんなことを文字で何度も読んだし自分でも分かっているつもりだったが、今ならそれらが「まるで分かっていなかった」ことが手に取るように分かる。人生は本当にはかない。そして父に起こったことはこの僕にも起こる。僕はいつか消えてなくなってしまう。いなくなってしまう。僕は生まれて初めて、自分は寂しいと実感した。独りぼっちだと思ったよ。

 だからピエールの言葉が身に染みた。僕らはみんな、自分がどれだけ幸運か気付いていないのだ。

 

 

 

 

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