「我が至上の愛/アストレとセラドン」

  Les Amours d'Astree et de Celadon
  (The Romance of Astrea and Celadon)

 (2009/02/16)


  

見る前の予想

 僕がこのサイトを開設してから10年。その間には、大抵の現役ご贔屓監督、主要な映画作家の作品を見ることができたし、ここで取り上げることもできた気がする。近年はイマイチだったウォルター・ヒルやジョン・カーペンターだって登場した。スタンリー・キューブリックだって、最後の1本をリアル・タイムで紹介することができた。イングマル・ベルイマンだってヒョッコリ戻ってきてくれた。「鬼門」だったマノエル・ド・オリヴェイラやアレクサンドル・ソクーロフでさえ取り上げた。

 しかし、まだこの大物映画作家の作品を取り上げることができていなかった。

 エリック・ロメール。

 とっくに取り上げていたような気がしていたのに、意外や意外。そういや、まだ一回もロメール作品は取り上げていない。

 実は僕はエリック・ロメールの映画に、一時期結構ハマっていた時があったのだ。そんなことを言うと、「Fがエリック・ロメール好きなんていう方がよっぽど意外」と言われそうだが、本当のことだから仕方がない。ただし僕がロメール映画に凝っていた時期は、このサイトの開設以前。1980年代後半から1990年代後半の10年間。その大半は今はなきミニシアターシネヴィヴァン六本木で上映されたものだ。

 実は日本におけるロメール作品紹介はシネヴィヴァン六本木が火を付けたといっていいし、東京に限っていえばシネヴィヴァンが一番精力的に上映していた…というより、ほぼ単独で行っていたフシすらあるのだ。だからシネヴィヴァンが路線変更してすぐに倒れると、ロメール作品の紹介もパッタリ行われなくなった観があった。

 実際にはこの時期、ロメール自身の制作ペースも落ちたらしく、おまけに21世紀に入ってからのロメールは、その作風を微妙に変化させていたようなのだ。だから必ずしもシネヴィヴァンがなくなったことがロメール作品を縁遠いものにさせていたわけではないのだが、ともかく僕はそれらから長く遠ざかってしまった。せっかく久しぶりにロメール作品が公開されても、僕はなぜかそれらを見逃してしまった。そして僕も「縁がなくなった」かなと思うくらいで、あまり気にも留めていなかったのだ。

 しかし今回久方ぶりに公開されるロメールの新作は、毎度おなじみなかたちでパスするわけにいかなくなった。

 どうやらこの作品、ロメールの最後の長編作品になりそうだというのだ。

 確かにロメールはもう 80代も最後の頃で高齢もいいとこ。確かにそろそろそのキャリアも終焉間近と考えるべきだろう。そして今回は、ロメール自身が「これで最後」とコメントしているらしいのだ。これはさすがに僕としても見届けなくてはなるまい。

 しかし、実際に公開されてみると、やっぱりなかなか足が運ばない。

 何しろ宣伝コピーがスゴイ。「巨匠エリック・ロメールが贈る、5世紀フランスの究極の愛と官能」である。おまけに「君が望むなら、僕は君の元を去る。君が望むなら、僕は、君に触れたい」である。こちとら「君が望むなら」とくれば「ヒデキ!」と掛け声をかけるのが条件反射として身についている(笑)ような案配だからして、正直言ってこの宣伝コピーには鳥肌が立つ。「こんな映画なんか見たくない」とおっしゃるアナタ、ご安心ください。マトモな男ならそれは健康な反応です。

 実際のところ、後述するようにロメール作品はそんなヤワなシロモノじゃないと知っているから、この宣伝コピーも額面通り受け取れないと知ってはいる。しかし僕が凝っていた頃のロメール作品は、その大半が現代の普通の女の子のリアル・ライフを描いたものだった。それを考えると、時代劇だという本作にはいささか食指がそそらないのも事実

 しかし、ウカウカしていると上映が終わってしまう。そんなこんなで、僕は気乗り薄なまま慌てて見に行ったわけだ。

 

あらすじ

 時は5世紀のローマ時代、ガリア地方。羊飼いの娘アストレ(ステファニー・クレイヤンクール)と青年セラドン(アンディー・ジレ)は、純粋に愛し合っていた。問題は、セラドンの両親がアストレの家を毛嫌いしていたこと。そのため親孝行なセラドンは、アストレと愛し合っていることを内緒にしていたのだ。むろんそのことはアストレも了解のことだったのだが…。

 それは村祭りの日。アストレは友人セミール(アルチュール・デュポン)に誘われてその場にやって来た。どうもセミールは、セラドン一途のアストレに何やらお節介な忠告をしたがっている様子。問題のセラドンは、両親の前で「親公認」の女の子と楽しげに踊っている。むろんこれもアストレの「想定内」の出来事だ。しかしこの女の子がセラドンを森に引っ張っていくに至っては、さすがにアストレも承知しているとは言えなくなった。そこで二人がキスしているのを見た時点で、アストレはマジギレ。実はそれも女の子が強引にセラドンに迫ったからなのだが、そんなことをアストレが知る由もない。

 翌日、原っぱのど真ん中でアストレのもとに駆け寄るセラドンだが、アストレはまったく剣もホロロ。セラドンにとってはまったく理不尽な振る舞いなのだが、アストレはまったく取りつくシマもない態度を取り続ける。おまけにこんな口を叩いてきたから、セラドンも為す術がない。

 「私の前にもう二度と現れないで! 私の許しなしに近付かないで! これは命令よ!」

 一体そういう権限で「命令」なんて口が叩けるのか知らないが、この女はセラドンにまったく言い訳をさせずに追いやってしまう。これに絶望したセラドンは、一切弁解をせずにその場を立ち去った。さすがにマズイとアストレが後を追った時にはすでに手遅れ。

 川に向かったセラドン。もしやとアストレが案ずるその時、たまたま川の側で見ていた人々が、アストレに告げる。「セラドンが川に飛び込んだ」「川下に流されていった」

 何と怒っていたことは怒っていたが、かくも最悪の事態を引き起こすとは。それでもセラドンの兄リシダス(ジョスラン・キヴラン)が呆然としているアストレの前にやってくると、まだ「セラドンは気が多かったみたいだし」とか何とかイヤミたらたら。これにはさすがにリシダスはブチギレ。恋人のフィリス(マチルド・モニエ)に「今後はあの女はオレの敵だ!」とまでブチまけるアリサマだ。

 そしてアストレはこのリシダスの言葉から、川のほとりの木の幹にセラドンのメッセージが書いてあるのを知り、今更ながらにセラドンの真意を悟ってヨヨと泣き崩れるテイタラク。「私がバカだったの」…そう、バカはオマエだけ、他に誰がいる(笑)。しかしながら相手の言葉を聞かないでテメエ勝手な主張を一方的にブチまけるなんざ、大抵の女なら誰でもやることだ。別にアストレの専売特許ではない。驚くに当たらない。そんなことでいちいち死んでいたら男は勤まらない。マジメに耳を貸すのがアホなのだ。

 さてその頃、川下の森では荷車をゴロゴロと転がしながら三人の女たちがウロウロ。その三人…女主人のガラテ(ヴェロニク・レーモン)とレオニード(セシル・カッセル)、シルヴィー(ロゼット)…は高貴なニンフたちで、僧侶の予言の鏡で溺れるセルドンの姿を見たらしい。そこで荷車を引っ張って、彼を助けに来たというわけだ。こうして、川下に打ち上げられて気絶しているセラドンを無事回収。彼は荷車に乗せられ、彼女たちの城へと連れて行かれる。

 さて城でセラドンの看病を始める三人のニンフたちだが、女主人のガラテは彼を独占したいという気持ちを前面に出してギラギラ。さすがに平民の男と高貴なニンフの関係ではマズイでしょう…とレオニードは忠告するが、ガラテはまるで言うことを聞かない。それどころか、セラドンに手を出すなと言わんばかりの態度。これにはさすがにレオニードも辟易した。

 ようやく快方に向かい意識も戻ったセラドンも、最初こそ喜んで感謝していたものの、ガラテの一方的な愛情の押し付けにウンザリ。せっかく出てきた食欲も失せた。おまけに自分に好意を寄せなければ城から出さないと言い始めるに至って、さすがにこれはいけないとレオニードも言い出す。

 かくしてレオニードはセラドンに女装させ、まんまと城の外に脱出させることに成功する

 それでは村に戻って、アストレに無事を知らせるのかと思いきや…村には戻らないとウジウジ言い出すセラドン。彼はアストレに「近付かないで!」と命じられた以上、その「命令」に従うと言い張る。何を言っているのかとレオニードは当惑するが、セラドンは大真面目。これからは森で暮らして草でも食うなどと言い張るので、結局レオニードはセラドンを森の小屋に連れて行き、ずっと面倒を看る羽目になってしまう。

 しかし、さすがにこのままではマズかろう。レオニードは僧侶アダマス(セルジュ・レンコ)に相談して、何とかセラドンの説得を試みる。それでも何度言っても首をタテに振らないセラドンだった。

 しかしセラドンとアストレの再会は、思わぬかたちで実現するのだった…。

 

僕にとってのエリック・ロメール作品総括

 エリック・ロメール作品と僕との関わりを語るとすれば、それはやっぱりシネヴィヴァン六本木を抜きにしては語れない。

 実際のところ、ロメールが日本に紹介された最初の作品はフランス映画社配給によって1985年に公開された「海辺のポーリーヌ」(1983)。ロメール自体はヌーヴェル・ヴァーグ一派の映画作家なのになぜかタイミングを逸し、結局ミニシアター時代の到来まで日本で紹介されることはなかった。こうしてやっと公開された「海辺のポーリーヌ」はそれなりに話題になったし評価もされたようだが、僕はこの作品を公開時に見ていない。僕が初めてロメール作品を見たのは、前述したシネヴィヴァン六本木で公開された「満月の夜」(1984)からだ。そして、この「満月の夜」からシネヴィヴァンでロメール作品が連続して公開され、日本でもロメール作品が映画ファンの間で一定のポジションを得ることになる。

 その時期は、ちょうど僕もヨーロッパ映画に目覚めていた頃で、その原動力となったのがこのシネヴィヴァンという映画館だった。シネヴィヴァンは今考えるとかなりハイブロウな作品選定をしていたはずなのに、なぜか僕にそんな敷居の高さを感じさせない映画館だったのだ。そんなわけで僕は、この映画館でジャン=リュック・ゴダール、ニキータ・ミハルコフ、ジョン・セイルズ、イ・チャンホ、ホウ・シャオシェン、セルゲイ・パラジャーノフ、ジョン・カサベテス、アベル・フェラーラ、アレクサンドル・ソクーロフ、アキ・カウリスマキ、ツァイ・ミンリャン、エドワード・ヤン、ケン・ローチ…などの映画作家に巡り会うことになるわけだが、とりわけシネヴィヴァンと縁が深く、ある意味シネヴィヴァンでないと見ることができなかった映画作家で、なおかつ僕のお気に入りだったのがエリック・ロシャンとエリック・ロメールの二人だった。中でもエリック・ロメールは、僕にとってほとんどこの映画館とイコールのイメージで印象づけられている。

 その時期に見たロメール作品は、前述の「満月の夜」に始まり、「緑の光線」(1985)、「レネットとミラベル/四つの冒険」(1986)、「友だちの恋人」(1987)、さらに旧作「クレールの膝」(1970)などの作品群。同時にシネヴィヴァン以外で上映された旧作「モード家の一夜」(1968)なども見て、すっかりロメール映画に入れ込んだのを覚えている。ともかくこの時期の僕は、ロメール映画を見てその新鮮さに驚かされたのだった。

 ちょうど僕が入れ込んでいた時期のロメール作品は、ある種の傾向で特徴づけられる。それは粒子の粗い16ミリ・フィルムの使用と徹底的な同時録音無名の新人俳優起用によるドキュメンタリーのようにリアルな作風で、現代のそこらへんにいる女の子に関する題材を扱った作品だ。

 これは、実は元々のロメールの作風とばかりは言えない。例えば「モード家の一夜」ではジャン=ルイ・トランティニャンやマリー=クリスティーヌ・バローなどのスター役者を起用しているし、「O侯爵夫人」(1975)では時代劇を撮っている。作風ではかなり「満月の夜」以降と共通する「海辺のポーリーヌ」にしても、名手ネストール・アルメンドロスを起用して35ミリ・フィルムで撮影している。この一点だけでも僕は「海辺のポーリーヌ」はそれ以降の作品と一線を引く必要があると思うのだが…ともかく僕がハマっていた時期のロメール作品とは、そんなドキュメンタリーのようなリアルさで、イマドキの普通の女の子の日常をスケッチするような映画だったのだ。

 では、それらが本当に「ドキュメンタリー」のような作品だったのかというと、おそらくそれは違う。おそらく即興性などとは無縁の、ロメールの練り上げられた話術による作品だったに違いない。具体的に説明するのは極めて難しいのだが、一見サラリと流し撮りしているように見えるものの、実際にはかなりデリケートな内容が語られているからである。

 これを説明するといろいろ差し障りがあるのだが…つまりこの時期のロメール作品は、一見して作品に漂っているイメージ、つまりもっとハッキリ言うと作品の売られ方と、その作品としての実体が微妙に…そして決定的にズレていたのである。

 大方の映画ファンの受けとめ方も、配給会社の売り方も…そしてヘタをすると批評家の受けとめ方も、おそらくはこんなもんではなかっただろうか。すなわち…「イマドキの若い女性の愛に揺れ動くリアルな姿を描く」、あるいは流行の「自分探し」だとか、これが「フランスの若い女性の日常」とか「等身大の女の子」とか。これが日本での売られ方だとすると、おそらくは売る側も見る側も「オシャレ」なフランス映画、「等身大の女の子」が描かれている映画…の延長線上でとらえていたのに違いない。

 だが当然のことながら、僕はそんな「オシャレ」な映画として受けとめていたわけではないし、そんなモノに惹かれるはずもない。僕にとってロメール映画とは、そんなイメージとはまるで裏腹のモノだった。

 そんなロメール作品の神髄を語るに絶好なのは、この時期に公開された作品の中でも「友だちの恋人」だろうか。

 この映画のお話たるや、何とも他愛のないものだ。舞台は新興住宅地の街。ヒロインはもうイイ歳しているのにウブでシャイな女の子。ちょっと日本人好みのキュートさだが、女にはブリっ子と言われかねない内気な子だ。彼女がたまたま知り合った女の子は割とズケズケものを言う子で、恋愛にも奔放。カレシはいるけどイマイチ満足していない。一方、ヒロインのブリ子はイイ人を見つけたものの、自分の気持ちを伝えられず悶々。そんなこんなしているうちに、奔放娘に置いてけぼりを食らわされたカレシとデキちゃって…ってな話。ストーリーだけ話すとくっだらねえと辟易する向きもいらっしゃるに違いない。

 しかしロメールはこの映画を、独特の話術で語ってみせる。例の16ミリの粒子の荒れた画面、ノイズまで収録した同時録音方式、しかもスターとしてのイメージなど定着していない無名俳優を起用しているので、前述したようにまるでドキュメンタリー映画でも見ているような気分になってくる。いや、それはちょっとお上品に言い過ぎた。つまり、隣の女の子の日常をのぞき見しているような気持ちになってくるのだ。

 だから女の子の観客が、「イマドキの若い女性の愛に揺れ動くリアルな姿を描く」とか「等身大の女の子」とか、そう受けとめちゃったのは分からぬでもない。「アレってまるでワタシみたいィ〜」…ってなところだろう。

 だが、実はここからがロメール映画の真骨頂。この男、映画の中に実に食えない仕掛けを施しているのである。

 大体がヒロイン女性は自分のことや人生について愛について、アレコレ考えているし語っている。そこは議論好きのフランス人だから…というわけではない。おそらくこの程度のことなら、我々日本人も語っているだろう。だからこそ日本の観客のネエチャンたちも、映画を見てこう思ったはずだ。「アレってまるでワタシみたいィ〜」

 実際、ヒロインたちはよく語る。言っていることはいちいちごもっともで、ひどくご立派なことばかりだ。自分がいかに悩んでいるかを深刻に語り、いかに聡明でよく考えているか、どれだけ「分かっているか」を訴える。言ってることだけ聞いたら、マジメで賢明で健気な女の子だ。

 ところが実際には、そんな思っていたり語っていたりするようには物事はいかない。それだけならよくある話だが、そもそも自分がその言葉通り動いていない。思っていたり語っているのとは裏腹に、アホなこと、みっともないこと、見苦しいことをやっちゃったりしてる。明らかに矛盾と思える言動をするのだ。つまりは、ホンネとタテマエである。しかも、自分でその矛盾に全然気付いていなかったりする。これは相当カッコ悪いしバカだ。

 一応映画のラストにそれなりの救いは用意されているのだが、ヒロインたちのバカのさらされようは尋常ではない。それを作りモノ然としたコメディ映画のようではなく、まるでリアルなドキュメンタリーのようなタッチで描かれているからたまらない。まるで映画を見ている観客に対して、「オマエらもっともらしい事ばっか言ってるけど、こんなにアホじゃねえか」と言っているようなのだ。

 ところが大半の観客はそんなロメールの意図も気付かずにいる場合が多いように思える。このへんがロメール映画のさらに食えないところだ。例えば「友だちの恋人」ではエンディングに登場人物が「愛」だの「誠実さ」だのもっともらしいことを言ってるそばから疑似スワッピング(!)みたいになっちゃって苦笑…ってな状況になるが、この時はあまりに分かりやすいシチュエーションだったためか劇場内で大爆笑となった。しかし、これは例外中の例外。大半の場合、観客の大多数はそんなロメールの作りだしたコッケイ味にあまり気付かないようだ。

 しかも、それらが観客自身に向けられたものだということも気付いてないようだから始末に悪い。むろん、それもロメールの計算のうちだ。観客は自分が直接バカにされるのを好まない。「アレってまるでワタシみたいィ〜」…ってのも、それが「イマドキの若い女性の愛に揺れ動くリアルな姿を描く」程度に収まっているから楽しんでいられるのであって、「オマエらまるっきりバカなんだよ」と面と向かって言われたらみんな怒って席を立ってしまうだろう。それが図星だったらなおさらだ(笑)。

 僕はロメール映画が支持されているうちのかなりの部分は、観客の美しい誤解によるものなんじゃないかと思っている。そのくらい…一見ソフトな見てくれとは裏腹に、皮肉で辛らつな内容を持っているロメール映画なのだ。

 逆に言うと、だからロメール映画には、本当に僕らのありのままの姿が映し出されているとも言える。僕らは皆もっともらしい事を言っているし、自分じゃ大真面目にそれを信じたりしているけれど、反面それはタテマエの部分であって、実はかなり格好悪かったりみっともなかったりセコかったりして、言っていたり思っていたりするほど「もっとも」な事は出来ていない。だから、結構恥ずかしい主人公たちの振る舞いに、「ダッセ〜ッ!」と思いながらも身につまされたりもするのだ。

 だから、ロメールには毎回脱帽させられたし、その人間観察眼に心底感心もした。作品に描かれている人物たちがまるで自分のように思えることも多かった。ただし、時としてそのどこか「上から目線」なところに、少々イヤ〜なものを感じないわけでもなかった。

 一見イマドキの若い女に媚びているかのような「ふり」をしているあたりが、何とも意地が悪いではないか。若い女性たちに対して「私はみなさんの理解者だよ」ってな素振りを見せつつ、実は腹の底でバカにしている。すごい映画、面白い映画を撮るけど食えない「ヒヒジジイ」…ってのが、僕のロメール・イメージだった(笑)。

 しかしそんなロメール作品が、なぜかいつの頃からか少しずつ鮮度を失っていく

 いや、他の観客にとってはまだまだ面白かったのかもしれないが、僕にとってはどんどん何かが失われていったように思われた。それは一言で言えば「マンネリ」ってことなんだろうか。「春のソナタ」(1989)、「冬物語」(1991)、「木と市長と文化会館 または七つの偶然」(1992)、「パリのランデブー」(1994)…あたりは確かに見たはずなのに、今となってはまったく覚えていない。この時代の作品ではわずかに「夏物語」(1996)だけが立ち直りを感じさせたものの、後はどれもこれも五十歩百歩としか思えなかった。まぁ、毎度毎度ヒロインがもっともらしい事を言いながら言動と裏腹に馬脚を現し、それを皮肉に見る作り手の視線がどこかにチラつくという作品ばかりとなると、さすがに飽きてきたということなんだろうか。それに、作品自体にも「緑の光線」や「友だちの恋人」あたりの頃の作り手の緊張感が失われているような気がした。

 そんなこんなとシネヴィヴァン六本木の衰退と閉館…という事態がダブってしまい、何となくロメール作品を見たい…という気分に一区切りついてしまった気がした。僕にとってのエリック・ロメールとの蜜月時代は、こうして終わりを告げたのだった。

 さらに…ここからは大半のロメール作品ファンとは無関係な要素だろうと思うが、ちょうどそれらと同時に、僕がロメールに代わるに足る映画作家を発見してしまった…という事情もある。1999年に東京で行われた韓国映画の未公開作連続上映の中の1本に、まさに「ロメールの再来」としか形容できない作品を発見してしまったのだ。それは江原道の力(1998)という作品で、作ったのはホン・サンスという男。その瞬間、僕にとってエリック・ロメールは完全に「過去の人」となった。

 そこに出てくる主人公たちが、口じゃもっともらしいこと言ってる割にはやってることはセコさ満点なあたりとか、結局は頭の中では「いい思いがしたい」「やりたい」で一杯なあたりとか、おまけにノイズがたっぷり入った同時録音の流し撮りの映画であるあたりとか…どこを切ってもどう考えても、エリック・ロメールを意識しているのは間違いない。そして普通は「亜流」はどこまでも亜流で「本家」を超えられないはずなのに、このホン・サンスはひょっとしたらエリック・ロメールを超えちゃったかもしれないから穏やかではない。狙っている点は確かに同じようなあたりなのだが、僕はこのホン・サンスの方が達成度はやや高い印象を持ったのだ。

 特に続く気まぐれな唇(2002)を見て、その気持ちは確信に近いものになった。

 ただし、これにはちょいと「?」マークを付けなきゃならないかもしれない。まずはどこをどう見たって考えたって、ロメールの撮っているフランス映画はやっぱり腐っても「おフランス」。一見おッシャレ〜なフレンチ娘が出てきてイケメンなフレンチ男と恋を語れば、やっぱりいくら言動がバカでもセコくともオシャレになってしまう。少なくとも、我々日本人にとっては。いかにこいつらがアホでセコくとも、我々の目には理屈抜きでパリのエスプリとかヨーロッパのエレガンスとかが薫っちゃう(気がする)のである。だから、今ひとつ我が事としてバカやセコさが迫って来ない。迫っては来ても「身につまされ度」がイマイチ弱い。

 おまけにロメールのターゲットはほとんどが若い女とくる。だから、頭空っぽとはいえ若くて可愛い娘を、いい歳して経験も積んだジイサンがまるでなぶりものにして、小バカにしているように見えてしまう。僕のような男の目からすると、どうもスッキリしなくなってくるのだ。やっぱりヒヒジジイにしか思えないし、最初は面白くても何本も見てると「いいかげんにしろよ」と言いたくもなるのである。ちょっとジイサン、大人げなくねえか?

 その点、ホン・サンス映画では主人公は男で、そんな男のバカさ加減が露呈されるわけだから、最初から身につまされる度合いが違う。おまけに韓国人が主人公の韓国の話だから、同じ東洋人である僕らにもピンと来る。大体が、東洋人ってのは女は可愛いから「輸出」に耐えられる(笑)が、男はブルース・リーやジャッキー・チェン、ジェット・リー、最近じゃトニー・レオンあたりも加えられるだろうか、さらにはトシロー・ミフネぐらいしか需要がなさそうだ。それは、街角で見かける日本人&西洋人カップルの大半が西洋男&日本女であって、その逆の日本男&西洋女ってのはまず見かけない…ってことから考えても明らかだろう。東洋男は問答無用でカッコ悪いのである。だからロメール映画みたいにオッシャレーになりようがない。そしてバカさが一際きわだつ。見ていてシミジミ自分の事として受け止められるのだ。

 だから、とてもじゃないけど渋谷Bunkamuraル・シネマに見に行くような女にはウケそうもないが、逆に言えば、それが「気取ってばかりで内容空疎」な映画ではないという「品質保証」ともなっている(笑)。ホン・サンス作品とはそんな映画なのである。

 そんなわけで…見ている僕が「東洋人」の「男」であるという点で、ホン・サンス作品には幾分アドバンテージがあった(笑)とも言えるのだが、それをさっ引いても1990年代に入ってからのエリック・ロメール作品は鮮度が落ちていた。これはどう考えても認めざるを得ない。

 さらにこれ以降、エリック・ロメールがいきなり扱う題材や映像スタイルを変えたということも、僕をロメール作品から縁遠くさせた理由のひとつかもしれない。フランス革命を背景にした「グレースと公爵」(2001)は、現代劇でない時点で違和感を感じさせたし、おまけに油絵の中に実写の人物をCG合成することで当時のパリの街を再現するなどと聞いたら、それでなくても関心がなくなっていたロメール作品から腰を退かせるに十分。その次の「三重スパイ」(2004)などという作品は日本ではホール上映のみだったようだが、仮に公開されたところで見に行きはしなかっただろう。そんなわけで、僕はますますロメールとは縁遠くなり、ホン・サンス作品を見るたびにロメールを引き合いに出す…くらいの関わりしか持たなくなってしまったのだ。

 まして今回は「5世紀フランスの愛と官能」(笑)…何だか昔の恋愛おとぎ話みたいなものを映画にしたらしいと聞いたら、ますます見たくもない気が高まるばかり。これで「最後の作品」と聞かなければ、僕は到底劇場に足を運ぶこともなかったかもしれない。ともかく、そのくらいの関心度と興味でしか、僕はこの作品を見ていなかったわけだ。

 

見た後での感想

 映画の実物を見る前に、広告に載っている各界名士スイセン文を読んだのがマズかった。ますます映画を見る気が失せてしまうような文言ばかりだったからだ。

 いわく「純愛とは、かくもエロティシズムに満ちたものだったのかと感動させられる」(池田理代子センセ)、「爆笑をこらえてこの艶笑喜劇を楽しむには、映画のいい加減さに対するまともな感性を備えていればそれで充分だ」(蓮實重彦大センセ)…とまぁ、大変な賛辞がパチンコ屋の新装開店の花輪さながらに並べられている。本来ならこれらの文句を見ただけでゲンナリしそうだし、事実ゲンナリもしたのだけれど、見終えた今の偽らざる感想を言えば…気取っている割に何を言っているのかサッパリ分からない池田センセの賛辞はともかく、いつもは鼻につく蓮實センセの言葉が今回だけはズバリとマトを得ていたのに驚かされた。ただ、もうちょっと回りくどくなく、偉そうでない言葉は言えないのかな…と愚痴のひとつも言いたくなるのだが(笑)。

 もっと簡単な言葉で言えば、この作品は笑っちゃう映画だしバカ映画だ

 誤解しちゃいけない。僕はこの「笑っちゃう」とか「バカ映画」という言葉を、完璧にホメ言葉として使っている。僕はこの映画をかなり楽しんだ。ある意味、ロメール翁は健在だったと感心もした。

 ただし正直言って、この映画の最初のイメージは、何度も言っているように最悪だった。

 そもそもこの映画を見る前にゲンナリさせられたのが、主役二人のカップルの魅力のなさ。それなりに美男美女を配しましたという感じのキャスティングではあるが、どう見ても見た目キレイではあるかもしれないが中身カラッポな感じ。特にセラドンを演じるアンディー・ジレなんて、田舎のホストだってもうちょっと中身ありそうな感じがするだろうと思わされるほど安っぽいイケメンでバカっぽい(笑)。そんな連中ばかりが集まって、肩から服がズリ落ちちゃってオッパイをポロリしそうな衣装を着て、ローマ時代の田舎芝居かお遊戯をやるみたいなイメージ。実際にやたら女優がビーチク見せてるスチール写真もあって、うまいこと言って結局はエロが狙いなのか。もうロクでもない雰囲気が濃厚なのだ。一体何を考えているのか。ロメール翁、さすがにボケちゃったのか。そりゃあ映画監督廃業も無理ないところ。ついでに運転免許も人を殺しちゃう前に返した方がいいぜ。

 ところが映画が始まったとたん、僕はそれまで抱いていた意地悪な考えをどこかにやってしまったのだった。

 ありゃりゃ、粒子の粗い16ミリ・フィルムの映像ではないか!

 ノイズがバッチリ入ってる同時録音ではないか!

 そうなのである。今回は5世紀当時の雰囲気を探すべく、豊かな自然の残ったロケ地を探すのが大変だった…とかロメール翁盛んに言ってたのに、フタを開けてみたらそんな自然を活かせる35ミリ映像やハイビジョン・デジタル映像ではなく、何が悲しくて16ミリの粒子モロ見え映像。おまけにピーチクパーチクひっきりなしに鳥の鳴き声なんか入って自然を活かしたと言えるものの、ノイズばかりでうるさいと言えなくもない同時録音。いずれもわざわざ現代劇でなくコスチューム・プレイを撮るには、最適とは言いかねるフォーマットだ。

 しかし僕は、このチマッとした16ミリ映像、鳥のさえずりばかりでうるさいノイズだらけの同時録音サウンドトラックに、思わず膝を打ちたくなるほど嬉しくなった。

 これだこれだ、これこそオレが見たいと思ったエリック・ロメールだよ!

 昔、シネヴィヴァン六本木で何本も見て気に入って…だけどマンネリ化して賞味期限切れしたところで、シネヴィヴァンも閉館となって縁が切れたロメール作品。その「黄金のフォーマット」が帰って来たではないか!

 違うところは現代のありふれたネエチャンの日常を描いていないところだが、その理由はすぐに僕には思い至った。ジイサンがイマドキのネエチャンをバカにしてイジメているような印象と、さすがに同じネタばかりやりすぎたマンネリの両方を解消するために、今回あえてこんな題材を取り上げたに違いない。

 ある意味では、本当の豊かな自然をあえて粗末な16ミリでとらえ、自然音がバリバリうるさいほど入った同時録音で聞かせる今回の作品…それはスタンリー・キューブリックがNASAの開発したレンズまで駆使して18世紀ヨーロッパをリアルに再現した「バリー・リンドン」(1975)と、真逆な方向からではあるが、ある意味で結果的に同じようなアプローチかもしれない。それって「シネヴィヴァン時代」の諸作と、その発想においてそんなに違っていないんじゃないか? つまりは…5世紀が舞台と言っても、当時の「イマドキの若い連中」をドキュメンタリータッチでとらえた作品ってことじゃないだろうか。

 そう考えたとたん「我が至上の愛」なる寒いタイトルも気にならなくなり、この映画は僕にとって俄然楽しめる映画に変貌した。

 何しろ主役二人のホザいている台詞が、あまりにバカすぎる(笑)

 あまりに軽率に別の女とツルんでいる男と、それをあまりに軽率に誤解する女。後日、あまりにも軽率に一方的に非難する女に、あまりに軽率に弁明もせずその場を立ち去る男。立ち去るだけでなく入水自殺という念の入りよう。ハッキリ言ってバカすぎて何も言えない。

 元々がお話が、ドラマトゥルギーも確立していない頃の昔話だ。無理があるのは仕方がない。しかし普通はそれをもうちょっと現代的にアレンジしたり、口当たりのいいものにしたり、無理のないように補強したりするだろう。ところがロメールは、どうやら一切そんなことをしていないようなのだ。無茶を無茶なまま、そのまま映画にしちゃってる。だからイマドキとしては無理でコッケイで、不自然で笑っちゃうようなシロモノにしかなっていない。

 それを見た目だけキレイキレイで、いかにも頭カラッポそうな安っぽい若い男女が言ったり演じたりするのだ。これこそバカ丸出し。この時点で「5世紀フランスの愛と官能」とか「純愛とは、かくもエロティシズムに満ちたもの」とかを期待してきたお客さんは、怒って席を立ちそうな気がする。まぁ、ベルばらのオバチャンなんかの言うことを信じたのがいけなかったのだ(笑)。

 ここまで書いてきて、「Fはこの映画をどう思っているのか分からない」とみなさんは思われるかもしれない。懐かしのロメール・タッチである16ミリ粒子バレバレ映像とノイズ満点の同時録音に、僕が嬉しくなったと言っておきながら、映画そのものについてはキャストが外面だけキレイでバカっぽい(笑)とかお話が不自然で無茶なシロモノとか、どう考えてもバカにしているとしか思えない書き方しかしていない。ならば、この映画をホメているとか楽しんだってのは、どう考えても矛盾ではないのか?

 いや、ロメール映画に限って言えば、それは矛盾じゃない

 

世紀のバカップル、アストレとセラドンを笑えるか?

 お話は後半に至って、さらにバカバカしさを増していく

 横恋慕したニンフの女主人の城からやっとのことで解放されたセラドンは、サッサと村に戻ってアストレの元に戻ればいいものを、なぜか悶々と「帰らない」と言い張る。それも、「アストレが二度と近付くなと言ったから」という、ガキの屁理屈みたいな理由でだ。

 ここで話を再度整理させていただくと、この時点でセラドンは、アストレが彼を誤解して自殺に追い込んだことを後悔していると知っている。にも関わらずこの男は、アストレの命令だからと頑として戻ろうとしない。まるでこれではイヤがらせみたいではないか。セラドンが死んだと思い込んでいるうちは許すことだってできない、どうやってそれを知らせるんだ…とレオニードに言われても、「分からない」とこれまたガキみたいな反応を繰り返すばかりだ。おまけにメシも食う気がしないとか訳の分からないことをホザいて、結局思いっ切りレオニードや僧侶の世話になっている情けなさ。こいつマジでバカか?

 あげくの果てに、それでもアストレとサシで会いたいとムチャを言い出して、僧侶の発案で女装するというアホなプランを実行する。別にそんな事をしなくてもいいのに、やらなくてもいいヤセ我慢みたいな事を押し通すのだ。お話としては完全に破綻している。マトモに考えたらついていけない。

 事実、見ていたお客の中にも明らかに呆れかえっている様子の人が多数いた。僕はそういうお客さんのことを、ロメールの意図が分かっていないセンスのない客だとは思わない。むしろ「5世紀フランスの愛と官能」とか「純愛とは、かくもエロティシズムに満ちたもの」とか言ってる奴よりも、よっぽど健全でマトモな精神の持ち主だと思う。はっきり言ってくだらない話だし、くだらない登場人物だ。

 だが、そこで例のロメール・フォーマット…16ミリの粗い粒子の映像とノイズだらけの同時録音が効いてくる。

 思い出してみよう。かつてのロメール十八番のお話の数々を。イマドキの若いネエチャンが、口を開けば「愛って」とか「人生って」とか「自分って」とか、頭でっかちで聞いた風な屁理屈をまくし立てていた。いかにもフレンチーなエスプリっぽい、知的で思慮深いようなことを並べ立てていた。しかし実際には、現実はそんな立派な言葉通りいかない。そもそもよくよく耳を傾けてみれば、それらの屁理屈はどれもこれも内容空疎な机上の空論でしかない。実はこいつら何も分かってない。

 そんなアホ丸出しの主人公たちの日常が、16ミリ同時録音でまるでドキュメンタリーのように撮られていたからリアルだった。だからこそ身につまされて、「こいつらオレたちみたい」と思わされたわけだ。

 翻って今回の作品は、背景こそ「5世紀フランス」ではあるが…それを16ミリ同時録音でとらえようということは、ある意味で当時をドキュメント・タッチでとらえようということではないか。自然の残ったロケ地を一生懸命探したということは、当時のリアルを再現しようとしたのではないか。

 つまり21世紀と5世紀の違いはあれど、同じくらい人間ってアホってことを言いたいのではないだろうか。

 ヒロインのアストレは、映画の後半で自分でも言っているように「自分でこうと思ったら絶対に曲げない」ことを身上としている女の子だ。それはいかにも素晴らしいことのように言っているけど、実はそれがセラドンを身投げへと追い込んだ。しかも、まったくの勘違いにも関わらず頑として譲らなかった。頑なに思い込んだが故の愚かな結果だったのに、それでもまだそれが素晴らしいことのように話す馬鹿らしさ。こうなってくると、この女のシケたオッパイを見せられただけで腹が立ってくる(笑)。そんな粗末なもん見せるんじゃねえ。

 さらにさらに、彼女は「そんな自分がバカだった」…と、実は一度アッサリ信念をコロリと翻してもいる。何といいかげんなことか。それなのに「自分でこうと思ったら絶対に曲げない」などとぬかしているとは、全然自分のことが分かっていない。そして、くだらない「信条」とやらをプラカードみたいに掲げているおかげで、自分ががんじがらめになっているのに気付かない。それは自分の「信条」であるはずなのに、自分の正直な気持ちまで裏切るのである。だったら、一体何のための「信条」なのか

 セラドンの方に至っては、さらにバカさがエスカレート。せっかく命を拾って囚われの身からも逃れられたのに、「アストレに拒まれて、許されていないから」などという愚にも付かない理由で身を隠し、一人でフテ腐れている。自分でどうにかしないとアストレの気持ちも変えられないし、そもそも彼女の真の気持ちだって分からないのに、為す術もなく悶々とするばかり。どうでもいいような「彼女が拒んだから」とか「彼女の言いつけを守るのがボクの真心」とか、くだらないルールを後生大事にぶら下げている。結局この男も自分の気持ちを、何の役にも立たずトクにもならない「信条」でがんじがらめにしているのだ。

 これはハタで見ていて実に愚かに見える。そして映画の昔話的な外見から、現代的でないからアホ臭く見えるのだろうと観客は考える。

 しかしよく考えてみよう。実際のところ、僕らもこれと五十歩百歩のことをやってはいないか

 恋愛の渦中の男女というものは、ハタで見ていて実にアホである。理屈に合わないことを言ったりやったりしている。うまくいっている時でもそうだが、うまくいっていない二人なら、なおさらムチャクチャなことをやっていたりする。でも、彼らの「頭の中」ではそれらは矛盾がない。実にスジが通っているから始末に負えないのだ。

 どう考えてもこいつといると不幸になると思われる相手を、どうしても切れない人がいる。もうとっくの昔に自分から心が離れているはずの相手を、まだまだ取り戻せると思っている人もいる。かく言う僕も、どう考えても自分に合っていないし、自分を幸せにしてくれるわけもない相手との関係を、諦めきれずにズルズル続けていたことがある。どうせ先は見えているし、そのために月々かなりのカネを注ぎ込んで、近いうちにどうしたって行き詰まることは分かっているのに、自分から切って捨てることができない。目の前の楽しさにすがりついてしまう。

 そんなことはよくある話だ。恋愛は人間をバカにするのである。

 いやいや、色恋沙汰ばかりじゃない。見え透いた投資の話やふりこめ詐欺に、いつまで経っても引っかかる人がいる。経営が苦しいからと社員をクビにしたり給料を下げたりして、結局消費を低迷させてもっと経営を苦しくしているアマチュアみたいな経営者がいる。「実力主義」が流行ると自分にはその実力があると思い込んで大賛成し、結局その「実力主義」のおかげでリストラされたあげく、今度は「格差」だとブーブー文句を言うシモジモの連中。右翼も左翼も与党も野党も自分が属しているセクトのポリシーばかりを後生大事にして、ホンネや血の通った感覚やマトモな考え方を手放してしまう。人間とはかくも自分が見えない生き物なのだ。

 そして人間をそんな「盲目」の状態にするのが、実は「信念」や「ルール」や「理屈」というクセモノなのである。

 それらを考えたり語ったりしていると、何だか賢いことをしている気がする。実はそれらは単にどこかからの「借り物」であることが多いのだが、なぜか人はそれを自分のオリジナルの考えであるかのように思い込む。そして後生大事にそれを守ろうとする。時に何の得も理由もないのに、その「信念」や「ルール」や「理屈」を押し通そうとするのだ。

 だが、どんな「信念」や「ルール」や「理屈」も、本来は人間の「こうしたい」「こうなりたい」「こうあるべき」という思いのためにあるはずだ。究極は、人間が幸せになるためにあるはずのものだろう。だから「目的」でなくて、あくまで「手段」だ。ところがしばしば人間は、「信念」や「ルール」や「理屈」を「目的」にしてしまう。それで自分を縛って不幸になってしまう。

 その、何たる愚かさ

 いやいや、実は僕も人のことを言えない。いろいろ僕も屁理屈を並べたが、今いきなりそれが不毛だったと気付いた。僕もしっかり愚かだった。ただ一言、こう言いさえすればよかったのだ。

 これは「裸の王様」の物語なんだ…と。

 それはアストレとセラドンだけでなく、周囲の人物によっても補強される。セラドンの兄リシダスと、刹那的でカル〜い道化のような男とのやりとりを見れば、それは明らかだ。リシダスは理想主義で過度に美化された恋愛論をブチまくり、「やりたくなったらやっちゃいな」が身上の道化男にさんざバカにされる。大変お気の毒ながら、現代人の目から見てリシダスの理想論はまさしく空論。生真面目に恋愛の純粋性や美徳を説いてはいるが、それらは頭の中で考えただけのお題目に過ぎない。

 一方で、ではカル〜い道化男が正しいのかと言えば…確かにリシダスとの比較においては言ってることは正しいのだろうが、彼とても屁理屈から自由なわけではない。彼は彼で、一種の「刹那主義」や「唯物論」や「快楽主義」などのプラカードに縛られていることに変わりはない。愚かさでいけば、他の人物たちと大差ないのである。

 こうして見ていくと、どうしてどうしてロメール翁まだまだ腕の冴えに狂いはない。ボケどころか、一時の迷いも吹っ切ったかのようだ。これなら何だかんだ言って、またスクリーンに戻ってくるんじゃないか。「監督業から引退する」などと言っておきながらシレッといきなり戻ってきたサラバンド(2003)のイングマル・ベルイマンみたいに(笑)。

 ともかく「ありがたい古典」を敷居高く映画化すると見せかけて、これだけ人間のアホらしさバカさ加減を笑い飛ばしているあたり、エリック・ロメールまだまだ健在と言うべきだ。

 そして、そのバカバカしさが頂点に達するのが、セラドンが僧侶の娘に化けての女装コスプレ・ショー。演じるアンディー・ジレの「安さ」もあって、ほとんど場末のおかまバーもいいとこ。何でこんな事までやって自分を隠すのかとバカらしくなるが、セラドンはこれでアストレへの忠誠を大真面目に守っているつもり。どう見たってコッケイでバカなのに、彼が大事にしている「信条」に従えば、それは正しいってことになってしまうからヘンなのだ。

 つまりは、やっぱり「裸の王様」なのである。

 それでも気持ちを抑えきれなくなって…しまいにはお互いイチャイチャベタベタし始め収拾がつかなくなって、もうどうでもよくなったあげく、「セラドン、生きてちょうだい!」「分かった、ボク生きてるよ!」…ってな調子で、テメエらいいかげんにしろとハタで見ていてバカらしくて相手にしてられなくなるような結末を迎える。

 僕の周囲の観客はみな狐につままれたような表情で席を立ったが、それも無理はない。高尚な文芸作でも見ようかと映画館にやって来たら、安っぽいおかまバーと愚にもつかないバカップルのゴタクに付き合わされたんだから、そりゃ文句のひとつも言いたくなるだろう。何しろ映画の結論からして実もフタもないものなんだから…いわく、人間がムキになって信じてるポリシーなんてアホもいいとこってか。

 いやいや、冗談ではない。実はそれがこの映画の大真面目なテーマなのだ。そしてその大真面目さ加減ときたら、高尚な文芸作もハダシで逃げ出すほど。

 なぜなら大概の場合、僕らはアストレとセラドンを笑えないのである。

 

 

 

 

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