「英国王給仕人に乾杯」

  Obsluhoval jsem anglickeho krale

  (I Served the King of England)

 (2009/02/09)


  

見る前の予想

 チェコのイジー・メンツェル監督の久々の最新作である。…な〜んて書くといかにも僕が詳しいみたいに思われるかもしれないが、自慢じゃないがイジー・メンツェルなんて名前、パッと頭に浮かんでくるほどよく知っているわけではない。そもそもチェコ映画そのものに明るくない。

 それでもイジー・メンツェルの名前を聞いて「見てみようか」と思った理由は、この監督の数少ない日本公開作「スイート・スイート・ビレッジ」(1985)を見ていたから。そして恥ずかしながら、僕はこの映画について、とあるサイトにちょっとした短い文章を書いたことがあった。今年はうちのサイトも10周年。そこで過去のいろいろを振り返りつつある毎日なのだが、その中でこんなエピソードもつい思い出したのだった。

 それは2000年の2〜3月頃。イギリスに暮らす日本人高校生たちがつくっていたサイトと関わりを持った僕は、そのサイトの主宰者に「チェコ映画について記事を書いてくれ」と頼まれてしまったのだ。本来だったら僕が語るべくもない題材。イチも二もなく断るはずのところだったが、実はその前に、僕の方がこの主宰者に記事の執筆を依頼していたのだった。これでは断れない。運がいいんだか悪いんだか、たった一本チェコ映画を見ていたこともあり、結局、僕は苦し紛れの一文を執筆して送ったのだった。

 今はそのサイトも閉鎖され、高校生だった彼らも20代後半のはずだが、ここでその文章の一部を採録してみよう。

 

戦後チェコ映画について私が知る二、三の事柄

 今回、「ScrapYard」編集長のさなだ氏よりチェコ映画のついての原稿を依頼された私。自分なりに自らのチェコ映画体験を振り返ってみましたが、果たして今回の主旨に合った原稿を作成する資格が私にあるか否か。恥ずかしながら私は今までチェコ映画と称するものを、たったの一本しか見ていないということを白状しなければなりますまい。ささやかながら自分を弁護させていただければ、まずわが国におけるチェコ映画紹介というもの自体が、ほとんど皆無に近い状態であるという理由が第一に言えるでしょう。

 元々わが国では、著しく商業性に欠けるという理由で、東欧諸国の映画が紹介されにくいという土壌があります。いまや昨今のミニシアター氾濫やビデオ市場の成長によって、世界でいちばん多くの国々の映画が流入する状況のわが国ですが、それでも東欧諸国の作品は数少ない。しかも、ポーランド、ユーゴなどの国々と比べてでさえ、チェコ映画はさらに知られていないのです。これはどうしたことでしょうか?

 まずそれに触れる前に、私が知る唯一のチェコ映画について語りましょう。「スイート・スイート・ビレッジ」(1985)がそれです。チビデブのトラック運転手とまぬけなのっぽの助手のコンビに起こったささやかな仲違いを中心に、チェコの田舎町に住む人々をユーモラスで暖かい視点で描き、あくまでメッセージ性は抑えて楽しく描いている作品です。この監督イジー・メンツェルは「厳重に監視された列車」(1966・日本未公開)でアカデミー外国語映画賞を獲得するなど海外でも認められましたが、不遇の時代をかいくぐりながらもチェコ国内にとどまり、再起を果たした人。1960年代後半に各国で盛り上がったいわゆる映画のヌーベルヴァーグ(新しい波)運動のチェコでの立役者の一人でもあったようです。しかしながら、同時期にチェコ・ヌーベルヴァーグで勇名を馳せた映画人で国内にとどまった人は、実は極めてまれなのです。・・・・・

 

 …と、まぁこんな調子。たった一本…それもその国の映画史の中でどこに位置づけられているかも分からない作品をネタにして、ひとつの国の映画について語るという無茶をやらかしたのも、まだネットが古き良き時代だったからこそ。今じゃすぐに「炎上」とやらでムチャクチャな目に遭わされそうだ。

 ともかくこんな縁があったからこそ、僕はイジー・メンツェルの新作と聞いて「見たい」と思った次第

 それでも年末年始は父親の病状悪化〜急死でてんやわんや。とても映画なんか見ている場合ではなかった。見る時間ができても、ほかに見るべき映画は山ほどあった。だからこの作品がずっと気になっていても、なかなか見ることができなかったというわけ。ある地方都市の映画館で捕まえて、やっとこ見れたのがつい先日のことだった。

 

あらすじ

 1960年代、共産主義体制下のチェコ、プラハ。今まさに一人の初老の男が監獄から釈放されたところだ。

 彼の名前はヤン・ジーチェ(オルドジフ・カイゼル)。彼の人生はまさに「幸運と不運が背中合わせ」なものだった…。

 若き日のヤン(イヴァン・バルネフ)は、そのキャリアを駅のソーセージ売りからスタートさせた。今日も今日とて列車の窓から恰幅のいい紳士が札びらを出して、ソーセージを注文してくる。それに対して念入りにおつりを勘定するヤン。念入りに勘定しすぎて、怒り狂う男を乗せて列車は走り去ってしまった。後にはおつりを手に持ったヤン。むろん、ヤンがわざとそんなことをしてわけではない。そんなことは、断じて、ない

 しかしヤンが常に「念入りに」おつりを勘定したおかげで、彼の手元にはたちまちかなりのお金が貯まり始めた。ご機嫌になった彼はついつい小銭を間違えてバラまいてしまい、そこで思わぬ光景を目にすることになる。

 駅のホームにいた紳士も貴婦人も、自分の格好も体裁も構わず、ほんのはした金に群がっているではないか。「世の中こういうものか」と意を強くしたヤンは、さらに自分のキャリア・アップを目指す。

 次に彼が勤めたのは田舎町のビアホール。店長にデカい面されてひっぱたかれる日々ながら、そこでも彼は独自の人生勉強を続けた。ここには町の名士たちが集まってきたが、彼らもヤンがこっそりコインをバラまくと、もっともらしい姿をかなぐり捨てて飛びついた。

 そんなある日、かつてヤンが駅でお釣りを渡し損なった恰幅のいい紳士ヴァルデン氏(マリアン・ラブダ)が、客としてやってきたから驚いた。しかし彼は、決してヤンを怒らなかった。それどころか、背の低い者同士として共感を抱いたようだった。

 彼は行商人で、この町でも早速機械を売って一稼ぎしたところだ。ホテルの彼の部屋を訪ねると、ヴァルデン氏は部屋にぎっしり札を敷き詰めて、ヤンにこう語るのだった。

 「おまえは小さな国の小さい男。カネさえあれば、世界はおまえのものになる!

 ある日、そのビアホールに一人の若く美しい女が現れる。店長からお客の名士たちに至るまで、その場のすべての男たちの眼をクギづけにした彼女こそ、最近「天国館」に入った“その道のレディ”…ヤルシュカ(ペトラ・フシェビーチコヴァー)。他の男たち同様彼女にクラクラしたヤンは、やっとのことで貯めた金を握りしめ「天国館」に突撃。脇目もふらずにヤルシュカをご指名だ。その素晴らしい肉体にヤンはノックアウト。そして一途なヤンにほだされた彼女も、彼が働くビアホールにやって来て好意を前面に出した。しかし、店長や名士たちを差し置いて「身の丈」に過ぎたオイシイ思いをしたとなると、彼はもうここにはいられない。かくして彼はヴァルデン氏の紹介を得て、またひとつステップアップすることになる。

 次に彼が勤めたのは、郊外の高級ホテル…というより高級娼館の「チホタ荘」。ここには実業家や軍人などのホンモノの紳士が集い、飲みかつ食べて美女たちを抱いた。まさに天国のような場所。ここでしがない給仕を勤めていたヤンも、ウェイトレスの女とシケ込むという余録を頂戴できた。

 だが、やっぱり良いことは続かない。ある日、将軍のちょっとした気まぐれから、彼はたった一人「身の丈」に過ぎたチップをもらってしまう。そうなると、彼はもうここにはいられない。かくしてまたしてもヴァルデン氏の紹介により、プラハ最高のホテル「ホテル・パリ」での仕事にありつく。

 ここでの仕事は最高だった。彼を毛嫌いしてイヤがらせを続ける同僚もいたが、この世の中イヤな奴はつきもの。何より上司である給仕長スクシーヴァネク氏(マルチン・フバ)が、経験も知識も豊富な人物で素晴らしかった。「英国王にも給仕した」との氏の言葉に、ヤンはひたすら感激。ヤンはこの尊敬すべき人物の下で働けることを、無上の喜びに感じていた。

 しかしその頃、周囲の様子がキナ臭くなっていたのを、ヤンは理解していなかった。ヒトラーがヨーロッパ支配に野心を燃やし、チェコにもその食指を伸ばしつつあった。そして為す術もなく、チェコはズデーテン地方をドイツに併合されてしまう。

 そんなドイツ人たちへの反抗心として、ズデーテンのチェコ人の若者がドイツ人の白い靴下を奪い取ることが日常化していた。そして、たまたま小柄のドイツ娘リーザ(ユリア・イェンチ)が襲われているのを見かけたヤンは、彼女を救おうとして駆け寄る。それがヤンとリーザとの恋の始まりだった…。

 

見た後での感想

 牧歌的なのんびりした笑いに包まれた人間賛歌。「スイート・スイート・ビレッジ」を見たときの僕の感想はそんなところだ。それに比べると…確かにこちらものんびりした笑いに包まれてはいるものの、どこかブラックでほろ苦いものも感じられる

 もっとも、この人のたった一本しか作品を見ていないので、そうデカい口は叩けない。あと、この人の映画を見たのは、10ミニッツ・オールダー/イデアの森(2003)の中の1エピソードのみだが、それはたったの10分。しかも「ザッツ・エンタテインメント」風とでもいおうか、名場面集を編集したようなもの。それはそれで見応えのあった作品だが、それとひとつの劇映画とを同じ土俵にあげるわけにもいくまい。

 ともかく、どこかすっとぼけた笑いが広がる作風という点では共通するものの、僕が見ている唯一のメンツェル作品「スイート・スイート・ビレッジ」とは、かなり趣が違うことも事実だ。それもそのはず、ここには暗黒のヨーロッパとチェコの現代史が描かれているのである。

 映画の冒頭で、共産主義時代の再教育監獄から釈放される年老いた主人公が出てくるが、それを見た時に僕はとっさに、ベルナルド・ベルトルッチが中国皇帝・溥儀の激動の半生を描いた「ラストエンペラー」(1987)を思い出した。なるほど、語り口はまったく違うが、確かに扱っている題材には共通するものも多い。この作品、イジー・メンツェルのチェコ版「ラストエンペラー」と言えなくもないのだ。

 主人公の小柄な若者ヤンはチャッカリした奴ではあるが、邪気も悪気もない男でもある。たまたまコインをバラまいたら人が飛びついてきた光景から「世の中すべてカネだ」との哲学を身につけたが、だからといって別に斜に構えたわけでも唯物論者になったわけでもない。ただ彼は自分の体験からそれを実感しているだけだ。

 だから自分がカネを儲け、いい思いをして何が悪い…と思ってもいる。純粋に「カネを儲けていい思いをしたい」ということだけを考えている彼は、変に偽善やイカサマめいた理想主義を振り回さないだけ善人だ。それに、彼の哲学でありモットーである「世の中すべてカネだ」や「カネを儲けていい思いをしたい」は、誰でも大なり小なり思っていることでもある。問題は、彼がそのことだけを考えていて、周りの状況の変化にあまりに疎かったことだ。

 ナチが台頭し、世の中がキナ臭くなってきても、彼はそんな状況がまったく読めない。というか、読めなさすぎて、かえって時代の空気をかぎ取って狡っ辛く立ち回る連中と同じ結果になってしまう。その何たる皮肉。別にナチに迎合したわけでもゴマをすったわけでもない。彼としては、ドイツ人だからといってイジメられているように見えたズデーテン地方のドイツ娘を助けたかっただけ。そしてその娘に惚れただけで、別に政治的にトクだとか損だとか考えたわけではない。なのに、結果的には彼はチェコ人としては売国奴であり、卑劣なことをしたことになってしまう。

 確かに、あまりに考えがなさすぎたとは言えるだろう。オレは悪くないと言ったところで、それでそれなりの恩恵もオイシイ思いもしているなら、「自分は無罪だ」では済まされまい。ヤンも恩人が列車で強制収容所に連れて行かれるのを目の当たりにしたあたりで、さすがにマズイと気づき始める。そして老いてから自らを振り返って、後悔と自責の念にかられ始めるのだが、その時にはもう遅いのだ。

 この単純素朴さ、邪気のなさ、あまりの思慮の足らなさのせいでファシズムの波にはからずも乗っかってしまい、そのあげく墓穴を掘ってしまうあたり…やはりイジー・メンツェルは本作の制作にあたり、「ラストエンペラー」をかなり意識していたのは間違いないのではないだろうか。後に主人公が共産化した祖国で「再教育」され、改めて時代に翻弄されるあたり、その「現代」のエピソードが過去の「栄光の時代」のエピソードをブックエンドのように挟んでいる構成、何より主人公を時代が見えていない「無垢」の人であると描いていること…やはりこの作品は、「ラストエンペラー」との符合で考えるのが適切ではないだろうか。捕らえられ釈放された「現代」の映像が、どこか冷え冷えと青い色調であるあたりも、どう見ても意識しているとしか思えないのだ。

 

世の中の「常識」ほど危ういものはない

 しかし、本当に彼が「思慮が足らない」男で、彼のやったことが「悪い」ことだったのかと言うと、実は微妙なものが残る。事はそれほど単純ではないのだ。

 劇中でも象徴的な台詞が語られる。「ここでは最初ずっとドイツ人とチェコ人が一緒に仲良く暮らしていた。ところがドイツによって、チェコ人が追い出された。そして次にドイツ人も追い出されて、誰もいなくなった…」

 チェコ人が追い出されたのはナチの横暴だ。しかしこの映画では、それと同列でドイツ人が追い出されたことまで語られる。となると…従来からの「ナチス・ドイツとその国民=絶対の悪で加害者、それ以外=すべて善で被害者」というステレオ・タイプの考え方と、この作品は一線を画している…と考えなくてはならないだろう。

 その意味で興味深いのは、ヤンの妻となるリーザの存在だ。ヒトラーの信奉者で子づくりの時も「総統」で頭が一杯、連れ去られて殺されたであろうユダヤ人の財産を奪って何とも思っていないデリカシーのなさ。ベッドインの際にその顔が一瞬CGで「総統」その人に変わってしまう場面などもあり、歪んだ考えの持ち主であると描かれているのは間違いない。

 しかし基本的にこの映画は、彼女を残虐で冷酷で無神経な女とは描いていない。コッケイに笑い者にされてはいるが、むしろ可愛げも優しさもある娘と描いているのが面白い。彼女が道を誤ったのは、その時代の考え方に無批判に染まったためだ。しかし、その時代のドイツ人でそうならなかった人々がどれだけいただろう?

 同じように、ナチへの反抗心からドイツ娘の靴下を奪おうとするチェコ人の若者の振る舞いに対して、憤ったヤンの考え方のどこが間違っていたのか…と言われると非常に危うい。

 時代の風向きや空気を前にして、人はどうしてこうも無力なのか。時代にバッチリ迎合しても過ちを犯すが、このヤンのように無垢といってもいい気持ちで時代の気分と無関係に生きても、それはそれで変なかたちで時代に巻き込まれてしまう。そんな人間存在の儚さ、危うさ、脆さを描いて、この映画には見事な普遍性がある。ナチの台頭だけでなく共産主義の支配など、時代に翻弄されまくったチェコや東欧、そしてメンツェルだからこそ語れる、実感のこもった物語に違いない。

 そういえば、世の中の「常識」ほど危ういものはない

 昔はマラソンをしながら水を飲んだら良くないと言われた。今では飲まない事が良くないと言われる。それと同じくらい、いつも「善」とされるものなどない。価値観は時の流れと共に移ろうものであり、人は常にそれに翻弄される哀れな存在なのだ。

 そんな物語の主役ヤンを演じたイヴァン・バルネフの容貌がどこかチャップリンのようであり、その仕草や演技スタイルもまたチャップリン喜劇やサイレント映画風であるというのは、おそらく偶然ではあるまい。むしろ、あからさまに「狙っている」はずだ。言うまでもなく、ヒトラーもどきの独裁者にそっくりで取り違えられるユダヤ人…という悲喜劇「独裁者」(1940)を演じたのが、チャップリンなのだから。

 

見た後の付け足し

 この映画、バラまいたコインが空から札になって降ってくる…という描写や、箱から切手が飛び散っていくという描写などに、あちこちCGを使っているのに驚いた。

 アートシアター系の映画やヨーロッパ映画を好きな連中などは、ハリウッド映画の害毒の象徴としてCGをこっぴどく槍玉に挙げるが、このチェコ映画の巨匠はそんなケチ臭いことは微塵も考えていない。それどころか「新しいテクノロジーが好きで、CGもいつか使ってみたかった」などと言っているらしい。

 やっぱり70歳を過ぎてこれだけエネルギッシュで瑞々しい映画を撮れるだけあって、使えるテクノロジーを使うべきところに使っている。ケツの穴の小さいことなど言わない。くっだらない「清貧」のイデオロギーの虜になんかなっていないあたり、やっぱこの人はホンモノだわ。

 

 

 

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