「007/慰めの報酬」

  Quantum of Solace

 (2009/02/09)


  

最後に信じられるのは一人だけ

 年が明けて間もなく、悲しんでいるヒマもないほど唐突に父は亡くなった。

 実はその4日前までは、亡くなるなんて夢にも思っていなかった。ひょっとしたら病状は進んでしまうかもしれないが、まだまだ弱りながらも生き続けてくれると思っていたのだ。そして、これからの看病は今までよりずっとキツくなる…と、僕も母も内心覚悟していた。それなのに…。

 後には、僕と母だけが残された

 実は、悲しんでいるヒマはいまだに訪れてはいない。父の死の後にやって来たのは通夜と告別式だ。そして終わってホッとする間もなく、お寺とお墓と役所と金融機関にモミクチャにされた。今はそこに税務署まで加わって、毎日毎日頭を抱えている。

 何しろみんなバラバラにテメエ勝手なことばかり言ってくる。そして判で押したように「これが常識」と言ってくる。よく言われることだが、常識というものは人の数だけ存在するものらしい。そして、さも親切そうな顔をして僕らを振り回す。振り回すだけならいいが、税務署に至っては平気でウソをついてカネを巻き上げようとする。どうしてこれを詐欺と言わないのか分からない。こいつらには、一人として死者に対する敬意などない。一発で地獄行き決定みたいな連中ばかりなのだ。

 だから正直言って、僕は去年より忙しい。というより、去年は自分の技量でどうにでもなる忙しさだったから、まだ良かったのだ。今度の忙しさと煩わしさは、僕にはどうすることも出来なかったり、どうすればいいか分からないものだ。これほど神経をすり減らすものはない。

 そんな毎日を、僕は今までにないほど母と会話を交わしながら暮らしている

 それは当たり前だ。父の今までの人生がかかっている。僕らのこれからの生活がかかっている。何より、キレイごとでは済まされないほどのお金がかかっている。役所にも金融機関にも、お寺にも墓地にも、すべて母を同伴して、母との合意の下に決めていかねばならない。だから僕は今までにないほど母と会話をして、母と力を合わせて問題の解決のために奔走している。でも思い起こしてみると、十代の後半になって以降、こんなに母と一緒に何かをやったことなどなかったのではないだろうか。

 それどころか、僕と母とは…あまり仲が良くなかったと言えるかもしれない。

 どう説明すればいいのか、ともかく僕と母とはウマが合わなかった。母の「外面ばかり整えよう」とするような…僕にはそう思えてしまった…そんな性分がイヤだった。何かを説明する時に要点を絞って説明せず、いちいちすべての無関係なやりとりや出来事をダラダラと語っていくモノの言い方がイヤだった。自分の過ちを絶対に認めず、いつも自分が正しいと言わんばかり…と、僕には感じられてしまった…そんな態度もイヤだった。ホントにイライラさせられた。

 逆に母の方では、僕の男らしくない態度やグチグチした性分がイヤだったのだろう。そして僕のだらしなさがイヤだったはずだ。とにかく僕と母は、事あるごとに衝突した。それも、父がよく本気で止めていたのだから、親子げんかなんて可愛いものじゃなかったのかもしれない。性が合わないとはまさにこの事だろう。

 実は僕が今まで結婚しようと思わなかった一因も、そこにあったと言えば酷だろうか。どんな女を連れてきたところで母とは衝突するだろうし、そうなったら僕が板挟みになるだろう。かといって、母と絶縁してしまうというのも、僕の流儀じゃない。そして仮に女が母とうまくやっていけたとしても、今度は僕がウンザリするだろう。それに、いつ女房が母みたいに化けるかも分からない(笑)。母は一人いればたくさん。二人もいたらとても我慢できない…というのが本音だった。

 だが父が病気に倒れてから、事情は少しずつ変わりだした

 仕事に行かねばならない僕は、何だかんだいっても父の看病を母に依存していた。ある意味で、わが家の生活は母の犠牲の上に成り立っていたのだ。自分勝手な僕も、さすがにこれは見て見ぬふりができなくなった。僕のできることなど知れたものだったし、実際大したこともやってはいなかったが、それでも多少なりとも母に協力せざるを得なくなったのだ。

 いつの間にか、僕は母と諍いを起こさなくなった。

 そして、父の死。その後に待っていたゴタゴタだ。もはや母と言い争っている余裕などない。それどころか、家族は僕と母の二人だけなのだ。僕らからプライドも尊厳も大切なお金もはぎ取ろうとしている邪悪な連中と、力を合わせて戦わねばならない。相手は心底恥知らずで老練で情け容赦なく手強い奴らばかり。油断も隙もありはしない。

 そんな時、最後に頼りになるのは母だけだ。

 父と一緒に過ごした時間や父がいなくなった喪失感を共有しているのも母だけ。分かり合えるのも母だけ。どんなに仲違いし罵り合っても、また顔を合わせることができるのは母だけだ。その上で母は、僕が知る由もない父との長い歴史を持っていた。人生で培ってきた理屈抜きの知恵も持っていた。今更ながらにして、僕はそれに気がついたのである。

 我ながらバカげた話だとは思うが、恥ずかしくても本当の話だから仕方がない。僕はすでに中年も終わりにさしかかる年令に至って、ようやく母との和解を受け入れたのかもしれない。

 

見る前の予想

 ピアース・ブロスナンが降板して、新たにボンド役に決定したダニエル・クレイグが世界中からボロクソに叩かれていた時、僕自身もそれに荷担したことを告白しなくてはならない。

 どう考えたって、あの金髪がボンドに似合うとは思えなかった。妙にガツガツとした余裕のなさも気に入らなかった。何であんな男にしちゃったんだろう。一体イオン・プロダクションの連中は何を考えているのか。

 そんなクレイグ=ボンドがヴェールを脱いだ007/カジノ・ロワイヤル(2006)を見た時、僕は自分の「見る目のなさ」を恥じた。

 ここで僕が改めて言うまでもないが、ダニエル・クレイグはボンド映画を変えた

 彼が演じることでボンド映画がよりリアルで人間味溢れるものになったことについて、誰も疑う者はいないだろう。むろん前のボンド役者ピアース・ブロスナンが悪かったとは思わない。むしろ彼は素晴らしいボンド役者だった。少なくとも、僕はロジャー・ムーアよりはいいと思っている。しかしブロスナン=ボンドが素晴らしいと言えるのは、従来よりお約束の「ボンド映画」というワク内での話だ。「ボンド映画」とは…少なくともリメイク版「カジノ・ロワイヤル」以前までは…アクション映画であるともヒーロー映画とも言えなかった。「ボンド映画」は「ボンド映画」だ。それはすでに、ひとつの映画ジャンルとなっていたのである。

 だから「ボンド映画」を見る時には、僕らは本来のアクション映画やヒーロー映画を見るときとは違った、独自のルールで見ることを要求された。いや、要求されなくても自然にそうして見ていた。これは一種の大人のおとぎ話であり、そこではボンドは絶対傷つかず恐れず動揺せず、し損じなしでミッションを遂行させていた。必ず女にモテたし、彼女たちをベッドへとお持ち帰りした。そういうジャンルなのだった、「ボンド映画」というものは。

 しかしピアース・ブロスナンが降板する頃…いや、おそらくもっと前から、「ボンド映画」というジャンルの賞味期限はとっくに切れていた。もはやマンネリなどという言葉も生やさしいくらい、そういうお約束で映画を見せるというルールには無理があったのだ。そもそもこのシリーズだって、スタート当初にはそんなルールは持ち合わせていなかっただろう。それが長く続くに従って、あるはずのなかったルールが存在してしまった。それは、ハッキリ言って作り手と観客との「馴れ合い」でしかなかったのだ。

 ボンド・シリーズの作り手たちが、ダニエル・クレイグ起用によって破棄しようとしたのは、そんな「金属疲労」を起こしていたシリーズのルーティンだった。

 ここでのボンドは従来通り派手なアクションを見せるが、実はかなりシンドそうだし痛そうだ。だから前は軽業をのんびり見ている感じだったアクション場面が、ハラハラドキドキの緊迫感に包まれる。だって、ここでのクレイグ=ボンドは実に危なっかしいのだ。ハラハラせざるを得ない。

 おまけに荒削りで洗練されていなくて、タキシードも初めて手を通したみたいだ。敵にはダマされるし危うく死にかけるし、拷問されれば「タマがかゆいぜ!」などと下品な事も口走る。今までの絵に描かれたマンガのようなキャラクターではない、血の通った生身の人物だ。そして何より、本気で女に惚れる!

 惚れた女の死とその後に知った真相が、ボンドをボンドたらしめる幕切れには、思わず膝を打ったしシビれた。ダニエル・クレイグ、本当に大した男だよ。あれだけの逆風を見事にひっくり返した。

 そして、ボンド・シリーズも確実に再生した

 あれだけ長い間に培われ、固定したさまざまなルーティンを木っ端微塵にしながら、シリーズそのものを台無しにせずに活性化した。まるで奇跡のようなことを成し遂げたのだ。僕はこのシリーズから、こんな驚きをもらえるとは思っていなかった。

 そんなダニエル・クレイグのボンド第2弾だ。誰だって期待しないわけがない。今度もきっとやってくれるに違いない。映画ファンならみんなそう思って劇場に駆けつけるはずだ。…しかし僕には、ひとつだけ引っかかる点があった。

 監督が、マーク・フォースター

 たぶん映画ファン的には、これも今回の大きなお楽しみなんだろう。よりリアルで本格的な映画となった「ボンド映画」に、いよいよ作家的な映画監督が参入する。これで「ボンド映画」のクオリティーは、さらにグレードアップするに違いない…そんな風にみんな思うんじゃないだろうか。

 確かにそれは、ピアース・ブロスナンのボンドが活躍していた頃からチラチラ見えていた。それまでガイ・ハミルトンとかジョン・グレンといったような、シリーズ生え抜きの職人監督がこさえていた「ボンド映画」。そこにロジャー・スポッティスウッドマイケル・アプテッド、さらにリー・タマホリといった、単なる娯楽映画の職人とは言いかねる独自の持ち味をもった監督を起用し始めていた。

 さらに前作「カジノ・ロワイヤル」では、ミリオンダラー・ベイビー(2004)、父親たちの星条旗(2006)、硫黄島からの手紙(2006)…とイーストウッド作品近作の脚本を手がけ、クラッシュ(2004)では監督にも進出したポール・ハギスが脚本を手がけた。当初、「ボンド映画」をハギスが手がけると聞いて、あまりのミスマッチに思わず耳を疑ったものだ。そのハギスは見事シリーズ再生の原動力となって、今回も脚本に参加している。

 だから今回の監督に作家性の高いマーク・フォースターを起用すると聞いても、まったく驚くにあたらない。驚きはしないが…僕としてはフォースター起用は、正直言ってやめてほしかったのが本音だ。

 なぜなら僕にとってフォースターは、作家風を吹かせてガッカリさせる、典型的コケ脅かし監督の一人だったからだ。

 ハル・ベリーがオスカーをとった出世作チョコレート(2001)こそ、一見興味深い映画作家と見えたものの、エンディングでは解釈に苦しむ「陰り」を残した。今思い起こせば、あれこそがフォースターの見せた「しっぽ」だったのだ。それは、続くネバーランド(2004)で前面に出た。まさに「正体見たり」。普通の平凡な人々を見下し、「創造的でイマジネーションを持った奴はエライ」的な発言を平気で振り回す。そこでの「創造的でイマジネーションを持った奴」とは、言うまでもなくフォースターその人に違いない。さらに主人公は僕だった(2006)に至っては、「創造的行為」のためなら平凡な市井の人物など踏みにじられても死んでも構わない…とまで作中でほのめかした。繰り返して言うが、そんな犠牲を払っても構わない「創造」を行う人物は、明らかにフォースターその人である。逆に言えばこのフォースターという男、「創造」を行うオレはエラくて素晴らしくて、オレのためには平凡な市井の人間など犠牲になっても仕方がない…と思っているらしいのだ。ここまでの作品を見ていると、どうしてもそうとしか思えない。あまりに吐き気のするようなメッセージに恐れを成して、僕はさすがにその次の「君のためなら千回でも」(2007)は見逃した。こんな男の言う「君のためなら」などという言葉は、ウソに決まっているのである。

 さぁ、そんな男が撮る「ボンド映画」、いかにシリーズの救世主ダニエル・クレイグがボンドを再演し、ポール・ハギスが脚本を書こうとも、果たして両手放しで喜んで見ていられるだろうか

 そうは言っても、無視できるはずもない。公開間もないある日、他の作品をうっちゃらかしても見に行った…というのが本当のところだ。

 

あらすじ

 静かな湖畔の道路を爆走するクルマ…それはジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)が操るアストン・マーティンだ。そのボンド・カーを怪しいクルマが猛追。周りに他のクルマがいるのも構わず激突してくるわ銃撃してくるわ。イタリアの古都シエーナで、場違いなデッドヒートを繰り返す。

 そんなカーチェイスぶりを目撃した地元警察が追いかけてくるが、結局巻き添えをくってひどい目にあうばかり。それでも追跡者たちを振り払ったボンドは、とある地下の隠れ家へとやってくる。アストン・マーティンのトランクを開けると、一人の初老の男ミスター・ホワイト(イェスパー・クリステンセン)が閉じこめられていた。誰あろう、前作「カジノ・ロワイヤル」のエンディングでボンドに捕まえられていた男だ。

 地下の隠れ家には、ボンドのボスであるM(ジュディ・デンチ)も待ちかまえている。これから始まるのは、このミスター・ホワイトに対する尋問だ。しかしミスター・ホワイト、絶体絶命の状態にも関わらず余裕かまして高笑いだ。

 「そこは名門MI-6、当然我々ごときの存在は先刻承知と思いきや、まったく我々のことをご存じないとくるから拍子抜けしましたよ」とミスター・ホワイト。「我々の組織のメンバーは、あらゆるところに潜んで食い込んでいるんですよ、あらゆるところにね…」

 あらゆるところ…ボンドとMがその言葉に何となくイヤ〜な予感を感じたその時、その予感は運悪く的中することになる。

 その場を見張っていたはずのMI-6メンバーの一人が、いきなり銃を持ち出して発砲。危うくボンドとMは射殺されるところだった。Mは避難用の階段で脱兎のごとく逃走。怒りに燃えたボンドは、裏切り者の後をしゃにむに追いかける。地下から地上へ、建物の屋根から屋根へ…追って追って追いまくったあげく、ボンドはこの男を射殺してしまう。

 不可抗力といえ、この男の口を割らせず殺してしまったのはまずかった。ロンドンのMI-6本部に戻ったボンドは、この件でMにしこたまお灸を据えられる。

 「あんたは関わる者すべてを殺さなきゃ気が済まないの?」

 Mの機嫌が悪いのも無理はない。何しろこの裏切り者、MI-6に入り込んでかなりの年数になっていたし、その最終キャリアはMの警護役というテイタラク。今年の誕生日にはM直々にプレゼントまで買ってやったというから、お人好しにも程がある。さすがのMもイラつかざるを得ないというものだ。多少八つ当たりのきらいがなきにしもあらず。

 Mがヒリヒリしている理由はもうひとつ。今回、ボンドが任務を果たすのをいいことに、私怨を晴らそうとしているのではないかとMは疑っているのだ。

 ボンドが愛した女ヴェスパーが殺された。彼女もまた、何者かに操られていた。その何者かこそ、現在ボンドたちが追っている相手だ。

 前作からその荒っぽさに頭を痛めていたMとしては、どうもボンドがドサクサに紛れて好き勝手無茶し放題をやらかすんじゃないかと気が気じゃない。今ひとつプロとして信頼も安心もできないのが、今のボンドなのだ。

 それでも切れたと思った糸口は、まだ切れていなかった。カネの流れをたぐっているうちに、この裏切り者がハイチに何かつながりを持っていたことがわかる。Mのお小言を話半分に聞き流しながら、ボンドは早速ハイチへと飛んだ。

 ハイチの小さなホテルにやってきたボンドは、そこで待ちかまえていた男と大立ち回りを演ずる。結果はまたしてもボンドの圧勝。男は死んで、ボンドの手元に男のアタッシェ・ケースが転がり込んだ。ところがホテルを出たところで、いきなり一台のクルマが横付けされるではないか。

 「乗って!」

 ハンドルを握るのはセクシー美女カミーユ(オルガ・キュリレンコ)。女に「乗って」と言われて据え膳食わないボンドではない。早速クルマに乗り込むものの、女が一方的に話しかけてくる内容はからっきし見当もつかない。ついついアタッシェ・ケースを開けて中身を見せてしまったのがマズかった。中にはこのカミーユの写真と拳銃。これにはカミーユもボンドに銃口を向ける有様で、ボンドはあわててクルマから降りなければならなかった。それでも立ち直りの早いのがボンドのいいところ。彼らを追ってきたバイクの男をやっつけると、そのバイクを奪ってカミーユのクルマを追跡するのだった。

 一方、カミーユはクルマで港へとやってくる。そこで待ちかまえていたのは、妙に目つきだけが鋭いドミニク・グリーン(マチュー・アマルリック)という男である。カミーユは彼にまるで恋人に対するような態度で近づいていくが、彼女は自分を殺させるように命じていたのがこのグリーンであることを知っていた。一方、グリーンのほうも、彼女が自分に近づいてきたのは何らかの利害が絡んでいることを知っていた。

 そんなグリーンのもとに、一人の怪しげなVIPがやって来る。亡命中の元ボリビアの独裁者メドラーノ将軍(ホアキン・コシオ)だ。政権を転覆されて一度は野に下った将軍だが、一度知った支配者の味は忘れられない。そこでこのナゾの男グリーンの力を借りて、再びクーデターを起こそうと画策していたのだ。

 そして、カミーユの狙いもこの将軍だった

 彼女の肉親は、この残忍な独裁者に目の前で殺された。その復讐を遂げるため、グリーンに近付いたというわけだ。それを百も承知のグリーンは、今日の商談の席にカミーユを同席させる。カミーユには復讐の機会を、そして将軍には商談の「手みやげ」を…というわけだ。「どうぞ、ご存分にお楽しみ下さい」

 こうして将軍の豪華クルーザーに乗り込んだカミーユは、復讐のタイミングを虎視眈々と狙い始める。ところが彼女の思惑は、思わぬ闖入者のおかげで大きくはずされることになってしまった

 あのジェームズ・ボンドが、小さなボートでクルーザーを追い掛けてきたのだ!

 

見た後での感想

 静かな湖畔の空撮から、いきなり激しいカー・アクションへ。このコントラストの激しいオープニングひとつとってみても、この作品が「いわゆる」ボンド映画…いやいや、凡百のアクション映画とは一線を画しようとしていることが分かる。

 しかも、そこで描かれているのはかなり激しいカー・アクションではあるが、ボンドの愛車アストン・マーティンからはロケット弾も特殊装置も出てこない。ボンド・カーといえば十八番の秘密兵器は一切仕込んでいない。当然のことながら、この作品は「カジノ・ロワイヤル」からの流れをそのまま踏襲した、徹底したリアリズムのボンド映画なのである。

 しかも驚くなかれ、前作「カジノ・ロワイヤル」がシリーズ初のリメイク作品ならば、本作はその「ロワイヤル」のお話をそのまま受け継いで続いている、シリーズ初の「続編」映画。そこらあたりからして、本作がいかに意欲的な作品かが分かるだろう。

 ちなみに今回もMGMマークの後にコロンビア・マークが登場する両社共同作品。元々がユナイテッド・アティスツ配給のこのシリーズは、UAのMGMへの吸収合併に伴ってMGMのライオン・マークで始まることとなり、MGM/UA作品の日本配給を20世紀フォックスが手がけることになってからはフォックスのファンファーレから始まるようになった。もはやどこの会社の映画だか分からなくなったこのシリーズだが、前作からはなぜかMGMとコロンビアの「合作」。前作の場合、原作「カジノ・ロワイヤル」の映画化権をコロンビアが保有していたからだろう…と思っていたのだが、今回もコロンビアがくっついてきたというのはいかなる理由からなのだろうか? やはり「ロワイヤル」の続編…というスタイルを持っているからだろうか?

 映画を見続けていると、そのリアリズムたるゆえんがさらに強く印象づけられる。何しろボンドと悪漢とのカー・チェイスに警察が介入してくる。今までもそんな場面はあったような気もするが、それらは極めてマレだったし、確かコミカルな扱いで出てきただけのような気がする。今回の警察登場は、「あれだけ派手なことを天下の公道でやっていれば、当然警察に目を付けられるはず」という、当たり前な発想から出てきたものだろう。勝手御免の大人のおとぎ話だったボンド映画とは、もはやそのあたりの心構えからして違うのである。

 映画にはその後、やはり「ロワイヤル」に登場したマティス(ジャンカルロ・ジャンニーニ)が再登場。その思わぬ末路に、ボンドも悲嘆に暮れる…というこのシリーズとしては極めて異例な場面も出てくる。「ゴールドフィンガー」(1964)での殺しの趣向を彷彿とさせるように、石油まみれで殺される味方の女が出てくるが、そこでもボンドはショックを隠しきれない。さらに今回のヒロインであるカミーユとボンドが、お互い心にキズを持ち、復讐を誓った者同士として共感を持つ…などなど、今回も人間くさい、いや、あまりに人間くさすぎるボンドではある。このあたりは間違いなく、前作からポール・ハギスが持ち込んだ要素だろう。それは今回も、作品のグレードを確実に上げている。

 その反面、アクションはその激しさの度合いを増している。冒頭のカー・アクションに始まり、地下の隠れ家から裏切り者を追っていくくだりなど、息をつかせぬ猛烈さ。その一方で、ボンドはこれらのアクションを楽々こなしているわけではなく、常にいっぱいいっぱい。ゼイゼイ息を切らしながら体を動かしているのである。しかも、アクション場面はどれもこれもかなり痛そうだ。実際、ボンドはこの映画の全編にわたって、常に生傷が絶えない。

 このあたりもまた「ロワイヤル」に引き続いての新趣向であり、「生身の人間ボンド」を描こうとする意図があることは明らか。これはこれで分かるし、悪くない。

 

前作ほどのストレートさに欠ける点が残念

 あと気になっていたのは、懸念されていたマーク・フォースター監督の悪影響だが…これははっきり言ってあまり影響がなかったと言って間違いないだろう。

 そして、それは同時に…「マーク・フォースターでなければ出来なかった」という部分も、この映画の中に見いだせなかったことを意味する。

 先にも述べた徹底的なリアリズム、危うさ弱さも含めたボンドの人間味…という特徴は、確かにボンド・シリーズ全体を見渡せば異彩を放っているが、どれもこれも前作「カジノ・ロワイヤル」で強く打ち出された要素ばかり。今回はそれを踏襲し、その延長線上で物語を展開しているように見える。だとすると、それらをこの作品に持ち込んだのはマーク・フォースターでなく、脚本に参画したポール・ハギスであると考えるのが妥当だろう。

 今回は題材が題材だけに、マーク・フォースターが常に陥りがちな独善性が陰を潜めている。さすがにボンド映画ではそれはできなかったのか、「テメエが一番エライ」的な鼻持ちならない趣向はこの作品からは透けて見えてこない。むしろ毎度おなじみボンド映画や毎度おなじみアクション映画のルーティンに陥らないための一種の「保険」として、フォースター起用がいい方向に作用しているように思える。その意味で、今回の彼の起用は正解だったのではないか。そしてフォースターにとっても、「ボンド映画」というワクがプラスに作用したと考えるべきかもしれない。

 そのままやりたいようにやらせると、はっきり言ってフォースター作品は見るに耐えないイヤらしい悪臭を放ち出す。正直言って今のアメリカ映画界で僕が最も警戒している2大監督が、ダークナイト(2008)のクリストファー・ノーランとこのマーク・フォースターなのだ。どちらも「いかにも作家的」意匠をチラつかせて映画ファンをまんまとダマくらかす達人で、実は内容空疎だったり我慢ならない独善性を発揮したりする。何でこんなにもインチキ臭い連中なのに、世界の映画ファンが呆気なく手玉にとられてしまうのか理解に苦しむのだが、何となくやっていることが高級そうに見えるあたりで、みんなありがたいものを見せられているような錯覚に陥るのだろう。

 そのノーランは「バットマン」というワクをハメられながらも、それを逆用して自分のインチキのアリバイに利用した。そのぶんしたたかでタチが悪いともいえる。そしてフォースターは…と言えば、「ボンド」というワクがうまく作用して、いつもの言いたい放題がいい感じに封じられた。僕は初めてフォースター映画を見て、イヤ〜な気分に陥らずに済んだよ(笑)。今後もフォースターは好きに映画をつくるのではなく、キッチリとしたフォーマットと管理者の下で映画をつくった方がいいのではないか。

 そんなわけで、「ロワイヤル」に続いてボンドのリニューアルは大成功…と言いたいところではあるが、細かいところに目を向ければ少々難がないわけでもない。

 先にも述べたように、今回は「カジノ・ロワイヤル」の続編として、さまざまな話が続いたまま進行している。そのことは分かっていたものの、あえて見る前に事前のおさらいなどする必要もないだろうと、僕は何も考えずに劇場に行った。

 すると、確かに「おさらいしなくても分からないでもない」展開ではあるが、何となくはっきりしない点がいくつか出てくるのだ。途中で、「何でこいつは出てきたんだっけ?」とか、「こいつの役割は何だったっけ?」とか、よく分からないまま話が進んでいく。むろんそんな事はディティールまで分からなくても困らないし、どっちが善玉でどっちが悪玉か…ぐらいが分かれば後は問題ないとも言える。しかし、そのあたりのスッキリしない感じが最後まで残るのは事実だ。

 さらに、前作とのつながりとは無関係に、お話がこんがらがって複雑すぎるきらいは否定できない。

 だからボンドの人間性にストレートに焦点を合わせた前作と比べると、どこかモヤモヤして今ひとつ明快さに欠ける印象になってしまっているのだ。弱さ至らなさを前面に出してボンドの人間味を強調していた、前作「ロワイヤル」を踏襲していることは間違いないだろうが、それが前作ほどダイレクトに胸に迫ってこないのだ。このあたり、ダニエル・クレイグのボンドはまたまた大熱演でよかっただけに、ちょっと残念な結果だったのではないかと思えてならない。

 

本当に信頼できて、最後に頼れるのはこの人だけ

 相変わらずボンドのやっていることは荒っぽいし、そのあたりを上司Mは快く思っていない。何しろ彼の行く先々で死体ばかりゴロゴロ転がってしまう。ムチャばかりする。

 おまけに今回は、どうもボンドが死んだ女の弔い合戦をしようとしているフシがある。プロに徹して任務を遂行してもらいたいMとしては、今ひとつ信頼性に欠けるボンドなのだ。したがって、任務の途中でクレジットカードからパスポートからすべて止められてしまうという憂き目にも遭う。そんなことをしても止められないのがボンドなのだが。

 さらに付け加えるなら、冒頭にいきなりMI-6に潜入していた敵スパイが姿を現したことから、Mも疑心暗鬼にならざるを得ない状況がある。おまけにボンド自身が私怨に取り憑かれていて、ひとつ間違うと敵側に転びかねない危うさがある…とMは見ているわけだ。

 当然、「自分は組織(上司)から信頼されていない」ということはボンド自身察していて、それ故にことさらに反抗的に行動しているようにも見える。「任務に私情をはさむな」という言い草は、あまりに冷淡で「人ごと」っぽく聞こえるではないか。彼もまた、自分を雇っている組織と上司を何となく信用できない。

 しかも、ボンドは愛した女の復讐に燃えているように見えるものの、その女が本当はどのようなオンナで、本当に自分を愛していたのかどうか確信が持てない。おまけにその女も、別の男に利用され捨て駒にされたらしい…というテイタラクだ。自分を駆り立てている原動力の因って立つところからして危うい…ということが、ボンドにさらに無茶をやらせているようにも見える。

 結果として、カミーユの復讐を成就させてやったボンド。しかし「事を済ませた」後の彼女のコメントが、極めて暗示的だ。

 いわく、「死者は復讐を喜んでくれる?」

 これまで「復讐は空しい」などというメッセージは、古今東西の映画や物語で腐るほど発せられてきた。今更新鮮味のかけらもない言葉だ。しかしここで言われる「復讐は空しい」…は、それらとは一際違った鮮烈さで、僕らに迫ってくる気がする。

 事ここに至って、ボンドは改めて悟ったに違いない。冷徹であまりに非人間的にさえ思えた組織とMの言葉こそ正しかったのだ…と。「任務に私情をはさむな」という言葉は、必ずしもビジネスライクな非情さだけを語っているわけではない。「情」を最優先にして行動することが、必ずしもいい結果をもたらすとは限らないからだ。

 ここでの「任務に私情をはさむな」は、手垢のつきまくった「いかにもハードボイルド的なお約束の台詞」などではない。むしろ先人の語る深淵な真理のごとく的を得た言葉として、新しい意味合いを吹き込まれて使われているのが新鮮だ。

 かくして…清濁すべて併せ呑んだ末に、冷静で完全無欠のスパイ「007」が完成するのである。

 そんなボンドは映画のエンディングで、Mのもとに戻ってきた。その時の台詞がまたいい。Mの「復帰して」という言葉に応えて、ボンドはこう言い返すのである。

 「私が任務を退いていたことがありますか?」

 そんな言葉を返されたMも、実は最終的にボンドを信じる方に賭けていた。トラブル続きで音信不通。味方側からも狙われて孤立無援だったボンドを、「私は彼を信じるわ!」とMは劇中で明快に支持しているのである。

 ガミガミと小うるさくボンドをののしっていたMも、ボンドが今ひとつ頼りなくて…心配だからこそ小言ばかり言っていたのではないか。そしてそんなMをうるさいババアとしか思わず、あちこちでフテ腐れたり「やんちゃ」を繰り返していたボンドも、思っていた以上のMの器の大きさと、知恵の深さを思い知ったのではないだろうか。そして、こう思ったのかもしれない。

 自分が本当に信頼できて、最後に頼れるのはこの人だけ…。

 それは孤児として生まれ育ち、強引さで「ダブル・オー」としての頭角を現しながら誰にも心を許せず、唯一愛した女の死でさらに頑なになったボンドがついに辿り着いた、完全無欠スパイへの道のりの終着点なのかもしれない。この二人の和解と信頼のやりとりは、僕がこの映画で一番気に入っている要素だ。

 そして…それを暗示する場面は、映画中盤のボンドとカミーユのやりとりに現れていた。

 裏切り者がいきなりMとボンドに向かって銃を向けた映画冒頭でのエピソードを、カミーユに説明するボンド。彼はその時のMのことを「親しい人」と表現していた。するとカミーユは「それってお母さんのこと?」と、意表を突いた発言をするのだ。

 それに対してボンドは、その顔に何とも複雑な苦笑いを浮かべながらこう答えるのである。

 「まぁ、そんなようなもんかな…」

 

 

 

 

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