新作映画1000本ノック 2008年12月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ワールド・オブ・ライズ」 「デス・レース」 「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」 「D-WARS/ディー・ウォーズ」 「レッドクリフ Part I」 「ディスコ」

 

「ワールド・オブ・ライズ」

 Body of Lies

Date:2008 / 12 / 29

みるまえ

 ハッキリ言って説明の必要がない。映画館でこの作品のチラシを見た時、アメリカ映画嫌い以外の大抵の映画ファンなら、素直に食指をそそるのではないだろうか。レオナルド・ディカプリオとラッセル・クロウがリドリー・スコットの映画に出る。近年最高の黄金カードだ。ディカプリオは「タイタニック」(1997)以後の低迷と中傷と過剰な背伸びの時期を経て、近年は安定したスター性を発揮。「ブラッド・ダイヤモンド」(2006)では予想外にハードな男の味も出てきたところ。そんな彼が「ブラッド・ダイヤモンド」に引き続いて国際政治の背景を持つアクション映画に出るとなれば、それだけで注目できる。おまけに相手役はラッセル・クロウ。そのクロウとリドリー・スコットといえば、「グラディエーター」(2000)、「プロヴァンスの贈り物」(2006)、「アメリカン・ギャングスター」(2007)に続いてこれで4度目となる顔合わせ。どれもこれもアブラの乗りきった名コンビぶりをじもとの見せてくれるハズシなしの作品ばかりだ。そしてハズシなしといえば…そもそも近年のリドリー・スコットの作品は、クロウとのコンビ作以外も「ブラックホーク・ダウン」(2001)、「マッチスティック・メン」(2003)、「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)…と傑作佳作揃い。そういやリドリーの弟トニー・スコットが撮った「スパイ・ゲーム」(2001)も本作と似たような題材で、かなり面白い映画に仕上がっていた。これはもう絶対に面白いに決まっている。見ないわけにはいかんだろう。

ないよう

 イギリス・マンチェスターの安アパートの一室。テレビの中のビデオ映像では、アラブ系の中年男が熱弁を奮っている。「イスラムに対するアメリカの暴虐に、報いを与える」…それを食い入るように見つめるのは、これもアラブ系の男たちだ。しかしその安アパートは、かなりの数の警官隊に包囲されていた。しかし踏み込まれる前にそれに気付いたアラブ男たちは、躊躇うことなく自爆スイッチを押した。それは西欧各国で連続する報復テロの一環だった…。舞台変わってイラクのサマラ。CIA工作員フェリス(レオナルド・ディカプリオ)は地元の相棒バッサーム(オスカー・アイザック)と活動中。ある日、バッサームが耳寄りな話を持ってくる。組織の構成員の一人が「殉教」を命じられたため、裏切って情報提供してくれるというのだ。フェリスはこの男に接触してから、携帯でアメリカ本土・CIA本部の上司ホフマン(ラッセル・クロウ)に彼の保護を頼み込む。しかしホフマンはそれを冷たく却下。「もう奴に価値はない。それより裏切り者の奴を誰が殺しに来るか、それを見張るんだ」…結果的にこの男をダマすことになるフェリス。案の定、その男はフェリスの目の前でナゾの男たちに拉致され、フェリスはやむなく口封じのために捕らえられた男を狙撃する。さらに組織の本拠地に乗り込んだフェリスは、そこで連中がCD-ROMなど証拠を廃棄しているのに出くわす。たちまち始まる銃撃戦と爆破。CD-ROMを何枚か回収してバッサーム運転のクルマで逃げるフェリスだが、たちまち敵のクルマ2台が追跡してきた。フェリスの通報で米軍ヘリが現れ、追い掛けてきたクルマに攻撃をしかける。しかし一瞬遅く、敵のクルマから発射されたロケット砲がバッサームとフェリスのクルマを直撃。クルマは大破する。病院で目が覚めたフェリスはバッサームが爆発で粉々に粉砕されたと知る。事実、フェリスの身体には吹っ飛んだバッサームの粉々の骨の破片が埋め込まれていた。しかし、バッサームの家族への補償を求めるフェリスの頼みもホフマンは却下。ウンザリするフェリスにアンマンへの赴任を命じる。例のCD-ROMの情報解析の結果、敵のアジトがアンマンにあることが分かったのだ。だが今度はフェリスも黙っていない。ホフマンの意志に反してヨルダン情報部のトップっであるハニ・サラーム(マーク・ストロング)に情報を提供し、協力を頼み込む。ハニは切れ者で油断のならない男だが、フェリスの辣腕ぶりを気に入ってその申し出を快諾。ただし、こう付け加えることも忘れなかった。「いいか、私にだけはウソをつくなよ」…しかし、せっかくうまく滑り出した諜報活動を、事もあろうにホフマンがジャマをする。勝手に自前の「協力者」を動かして、敵の一人に怪しまれるヘマを犯したのだ。慌てたフェリスはこの敵を追い詰め、狂犬に足を噛まれながらまたしても口封じをするハメになる。当然ハニに頭を下げることになり、ホフマンに対して怒り心頭のフェリスだが、当のホフマンは屁とも思っていない。そんなやり切れない思いのフェリスを癒したのは、狂犬病予防の注射を打ちに足を運んだ診療所で、彼に注射を打ったイラク人看護士のアイシャ(ゴルシフテ・ファラハニ)の美しさ。最初は剣もホロロだった彼女だが、彼女目当てに診療所に通うフェリスに、徐々に心を開いていく。しかしオランダで連続爆破事件が発生し、CIAも焦りの色を濃くしていた。そこでホフマン自らアンマン入りし、ハニに敵の組織内の二重スパイを貸せ…と無理難題を突きつける。相手にされないと知ったホフマンは、さらに無茶なゴリ押しをした結果、敵に感づかれてアジトを撤退されてしまう。これにはハニも激怒して、フェリスの弁解も聞かず問答無用に国外退去。アメリカに帰国したフェリスは、現場が分かっていないホフマンに怒りをぶつけるが、その代わりに敵をおびき出す妙案も見つけだす。これぞウソと謀略渦巻くスパイ活動の中でも究極のウソ。架空の組織をデッチ上げてウソの爆破テロを起こさせ、連続テロを起こしている敵が接触してくるのを待とうというのだ…。

みたあと

 今回もヒゲのディカプリオがいい。それまでは「大人俳優」への脱皮を試みて背伸びしている感じが強かったディカプリオのヒゲだが、「ブラッド・ダイヤモンド」あたりからそれがピタリとハマってきた。今回の作品でもハードな男臭さを出していて、なかなかいいのだ。対するラッセル・クロウはといえば、完全に「インサイダー」(1999)での中年男キャラを踏襲した役どころ(ただし内面ではなく外見的な部分だけだが)。大体が電話でのやりとりばかりの二人だが、途中でちゃんとご両人が対面する「共演」場面も用意されているから、スター映画としての楽しさは最低限担保されている。中東(実際にはモロッコにおける撮影)の珍しい風物、緊迫感溢れるアクション、ハラハラするサスペンスに加えて、クセモノ揃いのキャラクターたちの腹芸もあり、娯楽映画としてのお膳立てはキッチリ揃っている印象だ。

こうすれば

 ならば、さすが作る映画作る映画ハズシなしのリドリー・スコット、今回もキッチリ入場料のぶんだけ楽しませてくれる…と言いたいところだが、残念ながら今回は少々今までと事情が違う。今回の映画はウソがウソを呼んでエスカレートし、ダマした相手にダマされる…というような生き馬の目を抜く権謀術数の世界を描いたもののはずで、実際そのようなストーリーが展開しているのだが、その割に観客である僕らにハラハラやビックリがない。明らかに登場人物がお互い裏をかき合ってハラハラドキドキってお話を狙っているにも関わらず、意外と淡々と見てしまうってのはマズイだろう。アクションやサスペンスなどは場面ごとバラバラに楽しめるものの、油断できないようなダイナミックな面白さはあまり感じられない。これは一体どうしたことだろう。まずは主人公のディカプリオがこんな世界に身を置きながらかろうじて「良心」を保っている存在として描かれてはいるものの、実はこいつも結構ひどいことを平気でやっているからあまり共感できない。自分の良心と任務の板挟みにあっているという辛さが感じられないし、そもそもこの男自身がやっていることのひどさを大して痛感しているように思われない。ラッセル・クロウの非情指令にブーたれながらも、自分も協力者を切り捨てることにさほどの痛みを感じているように見えないのだ。また一応「悪者」ということになっているラッセル・クロウも、わざわざ作戦に茶々を入れてきてブチ壊しにしてばかりいるのが理解できない。その理由も説明されないので、単なるアホにしか思えないのだ。これは明らかに脚本の誤算ではないのか。見ていて退屈はしないものの、どうにもピンと来ないお話。この題材だったらもっと面白くなったはずだ。もうひとつついでに言えば、こんな役ならわざわざラッセル・クロウを持ってくるまでもなかったのではないか。今回は終始守りに回った役どころとなったため、せっかくのラッセル・クロウがもったいない。ずっと好調だったリドリー・スコットだが、今回はちょっと残念だった気がする。

さいごのひとこと

 「ウソの世界」ってタイトルはウソです。

 

「デス・レース」

 Death Race

Date:2008 / 12 / 22

みるまえ

 あのロジャー・コーマン作品「デス・レース2000年」(1975)をリメイク…と聞いたところで、別に胸もときめかないし期待もしない。正直言って「デス・レース2000年」の存在は初公開時から知っていたが、SF映画好きの僕でもあまり見たいとは思わなかった。実際、シルベスター・スタローンの無名時代の出演作として知られているこの映画を、僕は今日に至るまで見てはいない。人心が荒廃しきった管理社会の近未来、見世物として殺しも何でもありのカーレースを開催するお話。何だかシュワちゃんSF「バトルランナー」(1987)のカーレース版みたいな印象しか持っていなかったのだ。しかしこの映画が、あの「イベント・ホライゾン」(1997)のポール・W・S・アンダーソン監督の作品と聞いたら、もう僕は黙っている訳にいかなくなった。そのくらい「イベント・ホライゾン」は傑作だったし、その後、彼が発表した「バイオハザード」(2002)も「エイリアンVS.プレデター」(2004)も、それぞれ僕としては本来まったく食指をそそらない題材だったが、それなりに見応えのある作品に仕上げたから見上げたものだ。そんな彼の新作となれば、これは見ないわけにはいくまい。主演はジェイソン・ステイサム。近年メキメキ売り出しハリウッド映画にも進出。「トランスポーター」(2002)では主役に躍り出て一気にハジケた。そのツラ構えからしてこの作品に持ってこいだろう。これは見なければ。

ないよう

 アメリカの経済が破綻し、治安が悪化する一方の2012年。犯罪者の激増に耐えかねて、刑務所は民営化された。そんな中、陸とたった一本の道路だけでつながれた、凶悪犯ばかりを収容する孤島の刑務所「ターミナル・アイランド」では、経営の健全化をめざして新たな試みを行った。それは囚人同士の戦いをテレビ中継で見せるというもの。その試みは成功して大受けするが、やがてすぐに飽きられてしまった。そこで「ターミナル・アイランド」ではさらに装いも新た。刺激性もエスカレートした見世物を用意した。それが囚人たちを使った「死のレース」だ。今日も今日とて廃墟のような「ターミナル・アイランド」では、その「死のレース」が展開されている。天下無敵のダーティ・ヒーロー、レース中の事故で焼けただれた顔をマスクで隠した「フランケンシュタイン」が、愛車フォード・マスタングを駆ってぶっ飛ばす。ただしマスタングといってもただのクルマじゃない。車体全体を防弾仕様の鉄板で覆い、マシンガンを搭載したゴツいマシンだ。この「死のレース」は単にドライビング・テクニックを競うだけでなく、ルールに従って武器や防具の使用権を勝ち取り、競合者を蹴落とし抹殺することも構わない究極のバトル・レース。見事5勝すれば釈放という囚人にとって最高の賞品を得ることができるが、そのあまりの難度の高さゆえ今まで誰も達成した者がいない。それでも今「フランケンシュタイン」は5勝目めざしてブッちぎりでレースを展開。しかし彼を敵視する最大のライバルマシンガン・ジョー(タイリース・ギブソン)が、グイグイと猛追してきたからたまらない。早速、武器や防具を使うようにナビをつとめるセクシー美女ケース(ナタリー・マルティネス)に告げる「フランケンシュタイン」だが、ケースはどれも使えないと叫び返す。このままではやられっぱなしだ。クルマももたない。「フランケンシュタイン」はクルマの後部を守る巨大な防御板、通称「墓石」を車体から切り離すことを決断した。クルマから切り離された「墓石」は、真後ろを走っていたマシンガン・ジョーのクルマを直撃。作戦は見事図に当たったものの、これで「フランケンシュタイン」のマスタングの後方は丸腰になった。ゴールまであとわずか。しかしマシンガン・ジョーの放つ銃弾が、無情にもマスタングに襲いかかる。「フランケンシュタイン」はナビのケースに「もう逃げろ!」と言い放ち、ケースは脱出装置でクルマから飛び出した。次の瞬間、ゴール目前にして「フランケンシュタイン」のマスタングは猛火を放って大爆発した。その頃、街の鉄工所では、重労働を強いられていた男たちに給料が支払われていた。屈強な肉体を持つエイムズ(ジェイソン・ステイサム)もそんな男たちの一人。しかし相変わらず支払いはシブい。当然、労働者たちの不満は爆発したが、そんな状況を見透かしたかのように手回し良く警官隊が導入される。アッという間に武力で鎮圧される労働者たち。そんな中、エイムズは何とか難を逃れて家路に就いた。家では妻と幼い娘が帰りを待っている。ところがエイムズが目を離した隙に、妻は台所で倒れているではないか。驚いて駆け寄ったエイムズも、何者かに後頭部を強打されて倒れる。意識が朦朧とする中、怪しげな男が立ち去る姿だけは脳裏に焼き付けたエイムズ。次に彼が意識を取り戻した時は、妻は腹を刺され血まみれ。エイムズの手には血染めのナイフが握られ、警官隊に羽交い締めにされているところだった。かくして殺人者に仕立てられたエイムズは、凶悪犯ひしめく「ターミナル・アイランド」へと送り込まれる。新入りのエイムズは当然札付きの男たちににらまれ、入所早々手厚い歓迎を受けることになる。そんなエイムズは、いきなり所長のヘネシー(ジョアン・アレン)に呼び出される。ヘネシーはエイムズに「死のレース」への参戦を頼み込んだのだ。…いや、それは命令と言っていい。人気絶頂だった「フランケンシュタイン」が事故で出られなくなってから、さすがの「死のレース」も人気が低迷。起死回生の切り札として、「フランケンシュタイン」を復帰させたいというのだ。しかし、当の「フランケンシュタイン」は例の事故で即死。そこでエイムズに白羽の矢が立った。エイムズはかつて本職のレーサーとして鳴らした過去がある。「フランケンシュタイン」のマスクをかぶって出場すれば、誰にも分かるわけはない。そんな所長ヘネシーの思惑に乗る気はさらさらなかったが、あと1勝すれば自由の身になれるというニンジンは拒みきれなかった。おまけにこのまま手をこまねいていたら、幼い娘は知らない他人の子として引き取られてしまう。それだけは何としても阻止したい。この際手段は選べない。ヘネシーの書いたシナリオに、とりあえずは乗ってみることにするエイムズだった。こうして「死のレース」参戦が決まったエイムズは、早速、「フランケンシュタイン」チームのクルーたちに引き合わされる。何十年ものメカニック歴を誇る重鎮コーチ(イアン・マクシェーン)、その助手であるガナー(ジェイコブ・ヴァルガス)、リスト(フレッド・コーラー)も、みんな「ターミナル・アイランド」の囚人だ。いよいよ三日間続くレースの初日を迎えると、女子刑務所からナビを勤める女囚たちがやってきた。むろん「フランケンシュタイン」のナビをつとめてきたケースもやってくる。こうして「死のレース」の火ぶたが切って落とされることになったわけだが…。

みたあと

 まずは面白い。CGなどを極力使っていないらしく、実際のマシンのぶつかり合いと火薬の使用による、ガチンコ勝負の戦いは見ていて爽快感がある。「ターミナル・アイランド」の荒廃した風景は廃墟ファンとしては心惹かれるし、いかついツラ構えの男たちのコワモテなお話はキライじゃない。いかにも1970年代映画然とした設定も、僕としては懐かしい感じがある。さすがにポール・W・S・アンダーソン監督。見せ方のツボも心得ているし、実際に面白く見せている。予想通りジェイソン・ステイサムも男臭くてバッチリとハマっている。「ターミナル・アイランド」に限定されたこぢんまり感も、この映画のB級的佇まいには合っていていいではないか。思った通り、予想した通り、ハズシなしの面白さだ。

こうすれば

 こういうと「言うことナシ」といいたくなりそうなところだが、実は僕としては大いに不満がある。テレビ視聴率を上げるために、ルール無用の死のゲームを行うといえば、冒頭に挙げた「バトルランナー」がどうしたって脳裏に浮かぶ。あるいは何でもありの近未来プロ・スポーツを描いた「ローラーボール」(1975)、またはそのリメイク版(2001)あたりも同様。さらに荒廃した近未来が舞台で外界から切り離された島が凶悪犯刑務所という設定は、ジョン・カーペンターの「ニューヨーク1997」(1981)を想起するなという方が無理だろう。廃墟を突っ走る武装した装甲車と来れば、これまた誰だって「マッドマックス2」(1981)を思い出さざるを得ない。つまりこの映画自体が「デス・レース2000年」のリメイクである以上に、これらの近未来SF映画の残像を引きずっている。というか、むしろ「デス・レース2000年」よりもこれらの作品のイメージやコンセプトしか想起されない。もっとズバリ言えば、「デス・レース2000年」なんかどうでもいいみたいだ。「デス・レース2000年」にさほど知名度があるとも思えないし、わざわざ「リメイク」にする必要ないんじゃないの? おまけにこれらの作品は数々の類似作品を生みだしており、それらのビジュアル・イメージやコンセプトはもはや手垢がつきまくった状態だ。新鮮さ・驚きはまったくない。こんなに「新しさ」のない映画も珍しい。すべてが想定内で…その範疇からハミ出す部分がない。確かに「思った通り、予想した通り、ハズシなし」であることは間違いないが、ハッキリ言って「ハズシようがない」というのが正しい。かなり凡庸な監督がダメ脚本を使って撮ったのでなければ、この材料だとソコソコ撮れてしまえないか。それを裏書きするように、映画としての語り口もあまり工夫が感じられない。所長たちがレースを盛り上げるために作った巨大装甲車が、大した意味もなく早々に破壊されて退場しちゃうあたりなども、「アレって何のために出てきたの?」と言いたくなる呆気なさ。お話が盛り上がりそうで実はなかなか盛り上がらないのだ。そして、いわゆる「B級映画」の佇まいから一歩も出ようとしてない時点で、映画の在り方としてひどく不健全な気がする。才人のWSアンダーソンともあろう者が、この程度の面白さでいいんだろうかという気になる。テレビ・ゲームの映画化の次には既存モンスター同士の「VS」モノ、そしてこの新鮮さのカケラもない「すでにどこかで見たような設定・アイコン」のオンパレードみたいな映画…アンダーソン監督、これでいいんだろうか? ちょっと志が低すぎやしないか?

みどころ

 それでも先に述べたように、金属と金属のガチンコ勝負の重量感は捨てがたい。理屈抜きで惹かれてしまうのは確かだ。そして今この手の役をやらせるとなると、ジェイソン・ステイサムを置いて他にはいない。あと、「タロットカード殺人事件」(2006)、「光の六つのしるし」(2007)、「ライラの冒険/黄金の羅針盤」(2007)の声の出演、ついでにいうと…僕は見逃してしまった「カンフー・パンダ」(2008)での声の出演など、なぜか昨今「狂い咲き」のように出演作が急増しているイアン・マクシェーンが、今回もイイ味出しているのが見逃せないところだ。

さいごのひとこと

 このレースで視聴率とれるとは思えん。

 

「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」

 Tropic Thunder

Date:2008 / 12 / 22

みるまえ

 この映画のチラシやら予告編を初めて目にした時には、かなり期待に胸が高鳴った気がした。あのベン・スティラーが、今やノリにノッてる売れっ子ジャック・ブラック、そして「アイアンマン」(2008)で復活を遂げたクセ者役者ロバート・ダウニー・ジュニアを従えて、ハリウッドやベトナム戦争映画をオチョくったような作品をつくる。キャラクター設定を見ると「いかにも」モデルが想像できそうな主要人物ばかりで、それだけで笑ってしまう。元々「バックステージもの」が大好きな僕としては、大いに期待できそうな作品だった。ところが公開間近になってみると、やれこの映画のどこが何の映画のパロディだの、主人公は誰がモデルだのとやたらにマスコミに露出。それだけならまだしも、超大物スターのアッと驚くゲスト出演なんてのが公然と報道されるではないか。「アッと驚くゲスト出演」を事前に公表しちゃったら「アッと驚けない」っつーの(笑)。そんなこんなで、この映画って見る前に見た気になってしまいそうな危うさがあった。もし思いつきだけの映画なら、見てもそんな事前情報の「確認」だけで全部終わってしまいそうだ。それに、ベン・スティラーって「ズーランダー」(2001)あたりを見ても分かるように、やたらギョーカイ・ネタの話が多いしお仲間引き連れての出演が多い。今回の映画の題材が題材だけに、内輪だけで楽しんでいる映画になりかねない。劇場パンフにも、いかにも「アメリカン・コメディ通」の「自称」映画ライターによる「これはどこが面白いかと言うと…」的な林家三平のギャグみたいな解説が並びそうだ。うへ〜、ウンザリする。こういう映画はとにかく鮮度が高いうちに見た方がよさそうだ。でないと、どうせ深みや味わいがあるわけでなし、賞味期限がすぐに切れそうだし。

ないよう

 地球を救う究極のヒーロー映画「スコーチャー」シリーズで売りながら、そこからイメージ脱却できずに袋小路に入ったアクション・スターのダグ・スピードマン(ベン・スティラー)、おならが売り物のお下劣幼稚コメディ映画「ファッティーズ」シリーズで人気爆発ながら、ドラッグ絡みのスキャンダルでも知られるコメディ俳優ジェフ・ポートノイ(ジャック・ブラック)、さらにアカデミー主演男優賞を5度も受賞する実力派ながら、その常軌を逸した役作りと粗暴な振る舞いで問題児扱いのオーストラリア出身の名優カーク・ラザラス(ロバート・ダウニー・ジュニア)。この異色の3人が共演するベトナム戦争映画「トロピック・サンダー」が、現在、ベトナム現地ロケで撮影たけなわ。と言いたいところだが、実は撮影は難航を極めていた。英国人の監督デミアン・コックバーン(スティーブ・クーガン)の段取りが悪いのか、それとも特殊効果マンのコディ(ダニー・マクブライド)が調子に乗って爆薬を使いすぎるのか、いやいや…それでなくても難アリのスター連中の息が今ひとつ合わないからか、ともかく撮影開始5日目にして予算オーバーというアリサマ。今日も今日とてダグが熱演中のところを、カークに「オマエ泣く芝居できないんじゃないの?」と図星突かれて大モメ。役作りに凝りすぎなのはいつもの事として、白人のくせに黒人役を演じ、そのために手術まで受けたというカークの偏執狂的役づくりがいいかげん鼻についていたこともあって、ダグもここは一歩も退かない。そこに、キレた監督のデミアンのジタバタぶりを勘違いしたコディが、大金をかけてセッティングした爆破セットを一瞬にして炎に変えてしまうというテイタラクだ。この作品で頭打ちのキャリアを何とかしたいダグは焦りに焦るが、彼が信頼できる唯一の人間であるエージェントのリック・ベック(マシュー・マコノヒー)が国際電話で様子を聞いてきても、ついつい強がりを言ってしまう。もっともリックはそんなダグの思惑よりも、自分が契約時に明記させた備品がちゃんとダグのもとに届いているかどうかが気になっていただけのようだが…。そんなこんなで、宿舎の大広間にスタッフ・キャストが一同に会した制作会議の席上、衛星回線でハリウッドからテレビ出席したプロデューサーのレス・グロスマンは、監督のデミアンの弁解を許さずツバ飛ばしながら罵倒。状況を打開できなければ製作中止…をほのめかす。そんな困り果てたデミアンに「悪魔の誘い」が…。ベトナム戦争の生き残りでありこの映画の原作者…原作は自らの体験談とあって、両手が義手という一種異様な人物…ジョン・テイバック(ニック・ノルティ)が、彼にとんでもない事を提案したのだ。「甘ったれたハリウッド役者どもに地獄での体験を演じさせるには、本物の地獄に放り込むしかない!」…ほとほとスターたちのワガママにウンザリしていたデミアンは、この言葉に思わず膝を打つ。かくしてデミアンはダグ、ジェフ、カークと映画俳優への進出をもくろむラップ・スターのアルパ・チーノ(ブランドン・T・ジャクソン)、オーディションで選ばれた新人ケビン・サンダスキー(ジェイ・バルチェル)を映画のコスチュームのままヘリコプターに乗せ、向かった先は「魔の三角地帯」と言われるジャングルの奥。映画のための撮影現場でなく真のジャングルで、役者たちに本物の戦場を体験しながら演じさせるというのがその目的だ。そのためジャングルには事前にコディの手によってあちこちに爆薬とデジタル・ビデオ・カメラがセットされ、役者たちの一部始終をとらえることになっている。とんでもないところに連れてこられた一同は文句タラタラながら、それまで元気のなかったデミアンは役者たちに活を入れつつ元気いっぱい。何とかこの作品で浮上したいダグも、ここはこの話に乗る気になった。「それでは頑張って欲しい!」と得意満面でその場を去ろうとした監督デミアンだが、足を一歩踏み出したとたん、地雷を踏んでボンッと爆発。一瞬にしてその場から消え去った。さすがに様子がおかしいと騒ぎ出す役者たち。だが何とか撮影を成功させたいダグは事情がまったく飲み込めず、バラバラ死体になったデミアンの首も「ハリウッド特殊効果マンの作り物」だと笑って蹴飛ばす始末。おまけにジャングルの奥には、彼らの誰もが想定していなかった危ない連中がうごめいていたのだった…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 やっぱり面白い。他でも散々語られていることとはいえ、単純に僕が映画界裏面モノ的題材を好きということもあるが、主人公3人の「どこかで見たような」設定が笑わせる。実際にチラシや予告編で見た内容そのままなのに、ちゃんと楽しませてくれるのは、主役3人の芸の賜物といえるだろう。彼らを見ているだけで楽しいのである。そうでなければ、「思いつき」の部分が割れた段階で「すでに見ちゃった」気分になって興ざめだっただろう。ロバート・ダウニー・ジュニアの「黒人を演じている白人」ぶりなど、実に堂に入っているのである。そんなこの映画の最大の見どころは、冒頭の数分間だ…と断言したら怒られちゃうだろうか。この映画の冒頭では映画館での上映よろしく、CM映像の他に3本の映画の予告編が付く。それらが主人公たちの出演作なのがミソで、いずれも結構力の入った内容なのだ。それぞれユニバーサルやニューライン、フォックス・サーチライト・ピクチャーズなどのロゴ映像まで入った本格派(カーク・ラザラス主演作はアート系作品らしく、ご丁重にそっち系の映画専門のフォックス・サーチライト配給になっているのがご愛敬)。例えば「ラブソングができるまで」(2007)における冒頭のミュージック・ビデオ場面とイイ勝負の、リアルな予告編になっているから嬉しいのだ。笑っちゃうけど、これが実に「ありそう」でシャレになっていない、その「シャレにならなさ加減」がおかしいのである。

みどころ

 そんなわけで、さんざスターたちや昨今の映画をオチョクって笑う映画だが、実は見終わった印象は意外にもそんな人をナメたようなものではない。ここに主人公として出てくるスター俳優たちは、大した実力もないくせに傲慢で自意識過剰で自己過信がひどく勘違いも甚だしい連中ばかり。だからどいつもこいつも使えないしハタ迷惑で、英国人監督が「いっそ本物のジャングルに置き去りにしてやろか」と思いたくなるような連中だ。ひどい目に遭っても自業自得。しかし彼らがそんなミソッカス野郎どもになっているのにも、それはそれなりに理由がある。実態を伴っていない過大評価を背負ったり、そんな過大評価は実は自分が一番分かりすぎるほど分かっていたり、やっと手に入れた成功が儚いものだと薄々感ずいていて、しかもそれを自分が失いかけていることも分かっている。何がどうあろうとも、移り気で気まぐれで無慈悲な「他人の目」に常に裁かれ続けている…そんな俳優という因果な商売に就いたがゆえの、精神の不安定さなのだ。この映画の主人公たちやそれを取り巻く世界を笑い飛ばしながら、あくまで自分もそこに含むものとして笑っているから、それが決してイヤミにならない。決して「上から目線」にならないのだ。そして、そこに共感さえ漂わせる。そんな俳優たちと映画商売全体を、ベン・スティラーはホロ苦さも含めてすべて愛している。そんなくだらない連中だしくだらない稼業だけれど、そこに時として「それ以上」のものが生まれることもある…と、意外に真顔で語っているのだ。正直言ってこのあたりが、「映画って素晴らしい」と両手放しで無防備に言えちゃう「僕らのミライへ逆回転」(2008)のミシェル・ゴンドリーの単純素朴さ…言っちゃ悪いが「幼稚さ」との違いだろうか。あっちはあっちで悪くはないのだが、正直言って成熟の度合いが違うのである。出演者はみんななかなかの好演だが、中でも傑作なのは…かつての「ビバリーヒルズ・バム」(1986)あたりから近作のアン・リー版「ハルク」(2003)などで見せた「世捨て人」的イメージをここでも引っさげながら、それをアッと驚くかたちでひっくり返して見せるニック・ノルティ。それ自体がニック・ノルティ出演作のパロディみたいだ(笑)。そして、それよりもっと感心したのがマシュー・マコノヒーの特別出演。もう特別出演という域を超えてる出番の多さで、これはハッキリ助演と言えると思う。そこで見せているマコノヒーのアホ演技は、日頃の彼のイメージを塗り替えるアッパレさ。元々はいつもスティラーとツルんでいるオーウェン・ウィルソンが起用される予定だったらしいが、ハッキリ言ってここはマコノヒーに交替でよかった。彼が出たおかげでハリウッド内幕モノとしての豪華さが出たし、彼が出たからこの役もふくらみが出た。オーウェン・ウィルソンならベン・スティラー演じる主人公を裏切るなんて考えられないが、マコノヒーならどうなるか分からないではないか!

こうすれば

 あえて気になった点を挙げるとすれば…ここは天の邪鬼な映画ファンとして言わせてもらえれば、世評の高いトム・クルーズによるカメオ出演場面だろうか。もちろん事前情報なしで見たとしたらアッと驚いただろうし喜びもした。知っていてもあの扮装と大熱演には楽しませてもらった。しかし…いくら何でも少々ホメ過ぎだし、いささか出番も長すぎやしないか? ここんとこあれだけクルーズをケナしていた世間がいきなりこれだけベタホメってのは、「オマエはこんなバカなブ男役でもやってりゃいいんだよ!」という気持ちの表れのように思える。というか、ええカッコ俳優がバカ役やダサ役やったら「素晴らしい」…っていう、劇中のダグ・スピードマン主演作として紹介される「シンプル・ジャック」並みの、至って凡庸な発想に思えてしまうのは僕だけだろうか。確かに僕もあれを楽しんだものの、正直言ってもっと短かったら良かったのに…と思った。いささか長すぎるしクド過ぎる。僕には、最近落ち目のクルーズの必死さに見えて痛々しかった。その意味では、トム・クルーズ出演場面に関してこの「トロピック・サンダー」は全くシャレになっていない。エンディングに延々踊ってる姿を見せているのも僕には笑えなかった。

さいごのひとこと

 クルーズは本業頑張った方がよくないか。

 

「D-WARS/ディー・ウォーズ」

 D-War : Dragon War

Date:2008 / 12 / 22

みるまえ

 この映画のことは、いきなり劇場の予告編で知った。アメリカとおぼしき大都会を怪獣が大暴れ。それをオールCGで見せる特撮SF映画だ。一見アメリカ映画のようだが、監督名を見て「ははぁ」と察しが付いた。監督の名前はシム・ヒョンレ。韓国人だ。この映画はアメリカを舞台にしてはいるが、アメリカ映画なんかじゃない。純然たる100パーセント韓国映画だ。実は僕はこのシム・ヒョンレなる人物、その名前に聞き覚えがあった。かつて「怪獣大決戦ヤンガリー」(1999)という映画が公開されたことがあるが、その監督がこのシム・ヒョンレだったのである。韓国映画や怪獣映画に関心のある方ならもうお分かりかもしれないが、この「怪獣大決戦ヤンガリー」は韓国SF怪獣映画の金字塔である「大怪獣ヨンガリ」(1967)のリメイク版。それならば僕としては大いに食指をそそるところだったが、なぜかシム・ヒョンレ監督はこの映画の登場人物をアメリカ人俳優で固め、セリフも英語という疑似アメリカ映画スタイルで制作した。これがとにかくヒドイ出来という評判を聞いていた僕は、この時点でオリジナル「ヨンガリ」も見ていなかったこともあり、この作品を見るのをやめた訳だ。そのシム・ヒョンレ監督の怪獣映画ということになれば、いかにタイトルが「D-WARS」だろうと主演者がアメリカ人だろうと、どう考えたってアメリカ映画な訳がない。またしてもトンデモ映画、アメリカもどき映画に違いない。それなのに今回見ようと思った理由は、「ヤンガリー」のようにオリジナル作品がある訳ではないし、予告編で見たCG特撮場面がなかなか迫力がある仕上がりだったから。ひょっとしたらこのショットだけがスゴイのかもしれないが(笑)、ここはひとつダマされてもいいと思って見に行った次第。

ないよう

 現代のロサンゼルス。その郊外に巨大な陥没の跡が出現し、FBIや警察、マスコミ各社がごった返す。イケメンTVジャーナリストのイーサン(ジェイソン・ベア)と相棒のカメラマン、ブルース(クレイグ・ロビンソン)も早速駆けつけるが、FBI捜査官フランク(クリス・マルケイ)やジューダ(ジョン・アレス)たちに追い返される。しかしイーサンは、そこで巨大な「ウロコ」が発見されたことを見逃さなかった。その不可思議な「ウロコ」を見た途端、イーサンの幼少の頃の記憶が甦る。それは父親に連れられ、とある骨董品店にやってきたときのことだ。イーサン少年は店の奥にしまってあった大きな箱のフタが突然開き、中から光が溢れてきた瞬間を目撃する。それに気付いた店主のジャック(ロバート・フォスター)は、イーサンに驚くべき物語を話して聞かせるのだった。それは古くから韓国に言い伝えられている伝説…。天空に存在する大蛇たちの中の一匹「イムギ」が500年に一度「竜」に昇格できるチャンスを得る。その昇格のためには「ヨイジュ」というパワーが必要で、それは地上の人間の娘の中に宿され、この娘が20歳にならないと手に入れることができない。それは500年前の韓国に降臨していた。とある村に生まれたナリンという娘に、「ヨイジュ」が宿されていたのだ。その目印は、娘の肩にある「竜」のアザだ。そしてナリンを守るべく生まれてきた男の子ハラムとその師である老僧が、彼女の成長を見守っていた。しかし大蛇の中でも邪悪な「ブラキ」とその仲間たちはこの「ヨイジュ」を横取りしようと画策し、ナリンが20歳になった日に村に総攻撃を仕掛けてくる。その阿鼻叫喚の中、いつしかナリンを愛するようになったハラムは、ナリンの邪悪な「ブラキ」の魔手から守りつつ、「イムギ」に捧げることも拒絶して、彼女を連れてどこかへ逃げようとする。しかし「ブラキ」に追いつかれた二人は、来世で結ばれるべく崖から身を投げるのだった…。こんな物語を聞かせたジャックは、自分が伝説の老僧の生まれ変わりであり、イーサンがハラムの生まれ変わりであると説明した。そしてサラという名前で生まれ変わったナリンの生まれ変わりを見つけ出し、彼女を守るように告げた…。そんな幼い頃の記憶を思い出したイーサンは、ブルースに「肩にアザ」があり、「今年20歳」になる「サラ」という娘を検索させる。その頃、同じロサンゼルスに暮らしていたサラ(アマンダ・ブルックス)は、例の「陥没」事件のニュースを見て不思議な胸騒ぎを覚える。彼女の身辺には不思議な事件が起こり、いつしか肩のアザが熱を持って腫れ上がるではないか。こうして病院に入院するサラだったが、そんな彼女を邪悪な「ブラキ」たちが虎視眈々と狙っていた…。

みたあと

 いきなりロサンゼルス郊外に巨大な痕跡が登場。しかしながら…僕はそれを「陥没」と書いたものの、実はその表現は劇場パンフの受け売りでしかない。劇中ではその「痕跡」が何なのかまったく説明されないままだ。この映画にはところどころこんな独りよがりな部分が顔を覗かせるが、全体としては一見普通のB級アメリカSF映画っぽい外見を持つ。ところが映画が始まって何分も経たないうちに、お話はとんでもない方向に脱線する。いきなり韓国のむかしの伝説に切り替わって、まるでイム・グォンテク監督の韓国製時代劇映画みたいな映像が展開されるからビックリだ。CGを多用し現代のロサンゼルスを舞台にしたアメリカ映画的外見を持つSF映画の中に、いきなり超ディープな韓国製時代劇の世界が混入してくるから、見ていてものすごい違和感なのだ。ある意味では戦国時代のお話と雄琴のソープ嬢(当時はトルコ嬢だったが)とスペースシャトルと宇宙空間が同居する、橋本忍の発狂作「幻の湖」(1982)も裸足で逃げ出す展開と言えなくもない。ひとつだけ確実に言えることは、よくも悪くもこの作品って類似するものが見つからないってことだろうか。先に挙げた「幻の湖」のようなブッ壊れちゃった映画しか、例えられるものがないのである。いや、見ていてもうひとつ、思い出した作品があったな。それはいきなりイントロからインチキ臭い韓国のむかしの伝説を引っ張り出してきて(おそらくそれは作り手のデッチ上げだろうが)、それの伝説が現代のロサンゼルスでそのままムリヤリ展開する…M・ナイト・シャマランの「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006)だ。

みどころ

 お話としては単純な怪獣映画に過ぎない作品なのに、何とも不思議なテイストを醸し出すこの作品。現代ロサンゼルスの場面はといえば、向こうのユニオンを通してスタッフ&キャストを雇っているらしく、かなり本格的アメリカ映画の外見を持っている。「ジャッキー・ブラウン」(1997)などにも出ていたロバート・フォスターが「スター」格で助演しているし、何とすっかり脇役扱いで「ニューヨーク東8番街の奇跡」(1987)や「ラ・バンバ」(1987)などのエリザベス・ペーニャまで出てくるのだ。これが本当にちっちゃい役なんで泣けてくる。もちろん根本的には韓国映画なので泥臭さは免れないのだが、一見して見た目にはアメリカのB級映画ぐらいの感じには見える。そんな現代ロサンゼルスの物語の中に、いきなり韓国時代劇が割り込んでくる(しかも作り手が韓国の人だから、むしろそっちの方が堂に入っている)。それだけでも十分不思議な感じなのに、その韓国時代劇パートにまるで「ロード・オブ・ザ・リング」(2001)の化け物軍団みたいな連中がCGで襲いかかってくるからますますヘンな感じ。先に「類似するものが見つからない」と書いておきながら矛盾しているようで気が退けるものの、一方でこの作品は、どこか別の映画で見た光景がやたらに散見されるのだ。そういや骨董屋で何か見つけるって「グレムリン」(1984)や「ドラゴン・キングダム」(2008)を連想させる(どっちも東洋絡みってところもミソだ)。肝心の怪獣出現のくだりは、きっとローランド・エメリッヒ作品あたりを参考にしているんだろう。そういう一つひとつのイメージはありふれていて「典型」なのだが、組合せがすごくミスマッチなので不思議な気分がする。まぁ、一言でいえばかなり「ヘン」なのだ。それが珍品を好む向きにはすごく興味深く感じられるかもしれない。しかし何度も繰り返すようだが、見た目はいかにもアメリカ映画。CGやVFXもそれなりに頑張っていて目立ったボロが見つからない。何よりロサンゼルスの目抜き通りで、白昼堂々モンスター軍団と米軍との市街戦を映像化しているのだから、これにはかなり驚かされる。本物のロスの中心部で、激しい戦闘が行われるのだ。どのくらい潤沢な資金があったのかは知らないが、ここまでやるならアッパレと言わざるを得ない。そのあたりも含めて珍品好きには見逃せない作品であることは確かだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ただし先にも述べたように、この作品は本格的アメリカSF映画の外見を持ってはいるものの、その語り口やキャラクター設定にはどうしても泥臭さや野暮ったさが拭えない。「グエムル/漢江の怪物」(2006)レベルの内容を期待するような「ないものねだり」をするつもりはないが、ちょっと目をつぶったくらいでは見逃しきれない穴だらけ。根本的には脚本演出がヘタクソなので、やたらイライラさせられるのだ。特に主人公であるイーサンはヒロインのサラの「守護者」たる宿命を持っているはずなのに、まるっきり彼女を助けられない情けなさ。いつもやられちゃって気絶したりひっくり返ったりしていて、第三者の助けや単なる偶然で危機を逃れるという設定。こいつってカッコつけてるだけで、まったく必要がないではないか。演じるジェイソン・ベアがいかにもイケメンでございという感じの優男なもんだから、なおさら外見だけの中身カラッポ男に見える。「バタフライ・エフェクト」(2004)や「守護神」(2006)、「ベガスの恋に勝つルール」(2008)などに出ているアシュトン・カッチャー並み(笑)の空疎で使えない男にしか見えないのだ。これは脚本と演出のダメさが災いしているものの、役者の選択も間違っていたのではないか。元々、ロバート・フォスターの骨董屋店主がいきなり「オマエは守護者で守るべき娘の名前はサラ」などと告げるのも、あまりに単刀直入すぎてビックリだが(笑)。名前まで分かっているなら事前に見つけておけよと言いたくなる。さらに悪党も悪党で、ヒロインをほぼ手中にしそうになるとなぜか変な余裕をかますもんだから、結局毎度ジャマが入って取り逃がしてしまう。何ですぐに襲いかかってさらっていかないのか、単なるバカにしか思えない。元々、悪党にこれといったカリスマも突出した個性も感じられないが、そこへ来てこのバカっぽさは致命的だ。エンディングで結局ヒロインが「昇天」してしまう幕切れも、普通の感覚ではやり切れない結末だ。何だか見ている側も主人公もとんでもない「無駄骨」だったという気にさせられる。こういう「ヒロインの犠牲」による幕切れはいかにも一昔前の韓国映画的発想で、僕には「韓流」以前のいくつかの韓国映画…封建主義の中で女性が虐待されるドラマの数々…が頭に浮かんできた。しかしなまじっかアメリカ映画的外見を持っているだけに、その空疎な「実体」が丸見えになってしまった観がある。僕は見ていて「無駄死に」とか「徒労」とかいう言葉しか浮かんでこなかった。このエンディングにはみんな脱力するんじゃないだろうか。 さらにこのエンディングで、ハリウッド映画音楽的なオーケストラ・サウンドの中に唐突に韓国の「アリラン」が流れるのにも恐れ入った。別に「アリラン」に何の恨みも偏見もないつもりだけど、何でここで流さなきゃならないのか理由が分からない。作り手が「韓国製」であることを強く主張したいのだろうか。ホントにこの意味が分からないのだ。これは一体どう解釈すればいいのか。見ていて困ってしまったよ。

さいごのひとこと

 エリザベス・ペーニャの無名同然の扱いは悲しかった。

 

「レッドクリフ Part I」

 赤壁 (Red Cliff)

Date:2008 / 12 / 22

みるまえ

 すっかりハリウッドでの大家となった観があるジョン・ウーが、長年の企画だった「三国志」映画化に取り組むと聞いて、期待した映画ファンは少なくなかっただろう。大してジョン・ウー・ファンでもない僕でもそうだったのだから、香港時代からのファンはなおさら。特に彼らはハリウッド時代の作品を過剰に口汚くケナす傾向があったから、今回の中華製新作に諸手を挙げて大歓迎だったはず。僕は「作品の出来以前」にただハリウッド製ってだけでケナしているように見えるこれらの傾向には、少なからず「???」と思ってはいたが…それはともかく、念願の企画始動となれば、香港時代からの盟友であるチョウ・ユンファも当然出演するはずとみんな思ったわけだ。ところが製作開始まもなく、とんでもない話が飛び込んでくる。何とこのジョン・ウー版「三国志」である「赤壁」から、チョウ・ユンファが降板したというではないか。この二人に何が起こったのか? どうもギャラが気に入らなかったとか、チョウ・ユンファ側にイイ話は聞かれない。おまけにちょうど出たのが「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」(2007)のろくでもない役。まぁ、キース・リチャーズですら出た(笑)のだから本人の勝手ながら、あの「パイレーツ〜」のくだらない役を演じるくらいなら「赤壁」に出ろよ…という文句のひとつも言いたくなるシロモノだった。そして「赤壁」もまた、その船出に黒澤明の「影武者」(1980)のごとくケチがついた感じがしてしまったのは否めない。そもそも、チョウ・ユンファにやらせようとしていた役をトニー・レオンにするってことがあり得るのか? スターとしての輝きは勝るとも劣らないが、全然個性が違うではないか。「ラスト、コーション」(2007)のアクロバティックなセックス場面を演じるユンファが想像できるか(笑)? スターなら誰でもいいのか? 何となく「いいかげん」だとか「ミスキャスト」だとかイヤ〜な予感が漂い始める。元より巨費を投じた勝負作と聞いているだけに、ジョン・ウー大丈夫か?…と心配になってきちゃうのだった。ところが作品が完成しフタを開けてみると、アッと驚く大ヒット。そうなってみると…本来の天の邪鬼な性格が災いしてか、サッパリ劇場に足が運ばない。そもそもよくよく考えると、僕は「三国志」なんか満足に読んだ覚えがない。自慢じゃないけど何の思い入れもない。世の中には「三国志」検定なんてのを受ける人さえいるのに、僕はまったく興味がないのだった。そこへ来てこの作品には、「三国志」ファン、香港映画ファン、ジョン・ウー・ファンなどの熱烈かつ排他的な人々が、それぞれ熱い思いを語ることが目に見えていた。今さら僕がこの映画を見て、改めて語ることなんぞない。こうした面倒な連中に「アレが違ってる」だの「オマエは分かってない」だの、グダグダと絡まれるのがオチだ。あ〜ヤダヤダ。関わりたくないよ。悪いけどそれが正直な気持ちだった。オレそういうの本気でヤになってるんだ。それともう一つ気になる点が、昨今のスペクタクル映画に付き物の「CG」。別にCGを使うなとは言わないが、例えば「トロイ」(2004)など無数の軍船が大海原を進んでいくスペクタクル・ショットが出てきたものの、それらは同じ船の画像をいくつもいくつもコンピュータ上でコピー&ペーストした結果だとミエミエに分かってしまう。そして予告編を見ると、今回の「レッドクリフ」にも同様の場面が出てきそうな気配なのだ。あれをやられちゃうとちょっと興ざめだよなぁ。だが、そうは言っても…明らかに今年最大の話題作のこの作品を、見逃せるわけもなかった。アレコレ理由をつけて見るのを引き延ばしながら、12月半ばのある日、ガラガラの地方都市の映画館でやっとこ見る機会を得たわけだ。果たしてその結果は…?

ないよう

 およそ1800年前の中国。長い繁栄を保っていた漢も崩壊へと向かい、各地で反乱や蜂起が始まった。そんな群雄割拠の世で力を得た曹操(チャン・フォンイー)は、ついに漢の朝廷をも手中に収めた。まだ若い皇帝を実質上の支配下に置き、「朝廷のため」との大義名分を得た曹操は、ここからやりたい放題の野心を満たし始める。まずは、目障りな南方の劉備の軍勢と孫権の治める呉の国を叩きつぶすべく、若き皇帝にこの両者を謀反の罪で討伐するとまくし立てた。むろんそんな事は曹操のハッタリであることはミエミエ。しかし後ろ盾は曹操しかない若き皇帝は、ビビりながらもそれを認めざるを得ない。見かねた皇帝の側近の一人は身を挺してこれに異議を唱えるが、彼が曹操出陣の生け贄となったことは言うまでもない。かくして曹操の軍は南進し、まずは劉備の軍勢を倒すべく猛追した。劉備の軍は勇猛な闘将揃いながら、その数わずか2万。80万の軍勢で押し寄せる曹操軍に敵うわけもない。必死に敗走を重ねる劉備軍だが、民を守るために撤退が遅れ、今にも追いつかれかねない状況だ。途中の村で逃げ遅れた劉備の夫人は、忠誠心に厚い趙雲(フー・ジュン)の孤軍奮闘にも関わらず、戦禍の中で命を落としてしまう。それでも趙雲は、何とか幼い赤子だけは守り通した。大音声を挙げるヒゲもじゃの張飛(ザン・ジンシェン)、雲霞の如き敵を前にしても一歩も退かず仁王立ちの関羽(バーサンジャプ)、そしてまだ若いながらも天才的な軍師・孔明(金城武)たちは、何とかこの場を逃げ切ろうと苦慮していた。さらに1000人の軍勢をもらえれば守りきれると主張する張飛だが、主君の劉備(ユウ・ヨン)は民を守るのが先決だと譲らない。そんな主君だからこそ従ってきた彼らは、知力体力を振り絞って防戦。かくして何とかその場を乗りきったものの、このままではもたない。そんな弱り切った劉備たちを前に、孔明は大胆な提案を行う。防戦一方ではジリ貧になるばかり。そこで呉の国の君主・孫権と同盟を結ぼうと主張したのだ。しかし、こちらがいいとして孫権側ではどうか? それでもひそかに勝算のあった孔明は、単身呉の国に乗り込むのだった。案の定、呉の国は孔明を迎え入れたものの、劉備軍との同盟については議論が紛糾。若き君主・孫権(チャン・チェン)の目の前で、保守的な臣下たちは不戦論を唱えるばかり。ところが孔明にとっては、そんな状況はとっくに想定内。彼に協力してくれている軍師・魯粛(ホウ・ヨン)が固唾を飲む中、孔明は孫権の本音を見透かすかのように一席ぶつのであった。「曹操が呉に迫るのは自明の理。彼の支配下に収まってもいいというのなら、降伏するのも悪くはないでしょう」…それは偉大な父や兄の影響下、今まで臣下たちが手かせ足かせになって何もなしえなかったという忸怩たる思いを抱く、孫権の気持ちを挑発するための発言だった。さらに孔明は魯粛の助言を得て、呉のもう一人の要人に会いに行くことにする。それは呉の軍事上の拠点である「赤壁」において、軍勢を率いて日夜演習を行っている司令官・周瑜のことであった。早速、「赤壁」に赴いた孔明は、甘興(中村獅童)率いる軍勢の訓練ぶりにも目を見張るが、何より粋を知り情に厚い周瑜(トニー・レオン)の将としての器の大きさを知り、深い感銘を受ける。周瑜もまた、妻の小喬(リン・チーリン)が心配していた愛馬の出産を、孔明が手助けして無事に済ませたことをキッカケに、急速に心を通わせる。その夜の周瑜家での宴席で二人は琴の連弾を行い、その音色でお互いの意志を確かめるのだった。その頃、孫権のもとには、あの曹操から降伏を求める親書が届けられていた。戦いか不戦かで悶々としていた孫権を、男勝りの妹・尚香(ヴィッキー・チャオ)ともども虎狩りに誘う周瑜。その場で周瑜より否応なしに戦わねばならない時があることを悟らされた孫権は、ついに剣をとって劉備軍との同盟を決意するのだった。念願叶ったり。奮い立つ気持ちを胸に周瑜たちを劉備軍陣地へと招き入れる孔明。しかし突然の同盟で勝手の違う両者は、危うく一触即発の争いに発展しかねないこともあった。だが周瑜はその場にあった草鞋を編むためのワラを手に取ると、一同に向かってこう言い放つ。「一本なら切れるワラも、こうして編めば強くなる。我らも同じです!」…こうして一気に意気上がる孫権・劉備連合軍だが、その頃、曹操は新たに彼の軍門に下った圧倒的な数の水軍を率いて、呉の制圧に赴いていた。そんな曹操の思惑には、中国天下統一以外に、驚くべき目的があったのだ。それは周瑜の妻にして絶世の美女、小喬を奪い取ることだった!

みたあと

 大体こんなところでストーリーの説明はできただろうか? 間違っていないことを祈るが、おそらく「三国志」好きな人からは、すでに映画に何らかのクレームが寄せられているのかもしれない。やれ、あの人物がでてこない、この事件が描かれていない…って、ハリー・ポッター・ファンのゴタクみたいに(笑)。まぁ、そんなことは僕はどうでもいいので話を先に進めると、見る前は何だかんだケチつけていたものの、見ればすっかり僕もノセられていたという情けない話。やっぱり無条件で話が面白いのである。ただバカ力みたいにアクションの連打だけ見せられたり、圧倒的なスペクタクルの物量だけ見せ付けられても、実はそれってあまり面白くない。この映画はアクションもスペクタクルもふんだんにあるが、それ以前にお話の面白さで持って行かれる。そのあたりになると、それってひょっとしたらジョン・ウーの力じゃなくて「三国志」そのものが面白いからじゃないか…という疑いもあって、「三国志」そのものに明るくない僕としてはそのあたり判然としないものがある。まぁ正直言って、元々のお話が面白いんだってことは多分にあるだろう。しかし訳の分からない漢字の名前がゴマンと出てきて、誰が誰やら分からないって大混乱にはならなかったのだから、これはやっぱり映画としての語り口のうまさを認めなければなるまい。そしてお話の面白さとは、この物語の場合は登場人物の面白さであって、非常に魅力的な人物が次々現れて見せ場をさらうあたりが、見ている僕らを興奮させるのだ。その意味で、限られた時間内で多数の重要人物を説明するために、すでにキャラがある程度確立しているスターをズラリ並べるというジョン・ウーの作戦は成功だったのかもしれない。最初は「何でチョウ・ユンファの代役がトニー・レオンになるんだ?」との疑念が拭えなかったものの、実はそれぞれの登場人物のキャラクター設定は、一部を除いてかなりユルかったのではないだろうか? 最終的には決定したスターのキャラクターに役を合わせたのではないか…という印象を強く感じた。これはこれで、アリだ。ここはともかく魅力的な男たち(一部は女もいるが)がそれぞれの個性を発揮して男気を発散してくれればいい。ジョン・ウーはそのくらいの気持ちで開き直ってキャスティングしていたのかもしれない。

みどころ

 先にも述べたように話の語り口ありき、登場人物の魅力ありきの映画。そんな中で主役を張るのが、現在、世界一インテリジェントでカッコイイ男であるトニー・レオン。今回もまたまた素晴らしい。これを見ちゃうと、申し訳ないけど昨今貫禄ばかり付いちゃったチョウ・ユンファでなくて良かったという気になってしまう。「パイレーツ〜」のドジョウひげ海賊見せられちゃった後なら、なおさらだ(笑)。意外だったのが金城武の孔明で、この僕ですら知っているあまりにも有名な人物を演じて、なかなかいい感じなのである。最初は大根役者の彼がこんな知的な役柄に合うのか…と心配だったのが本音だが、これが驚くほど好印象を残す。若々しく軽さとユーモアを持った孔明という解釈が、この映画に現代的な感覚をもたらしているのだ。でなければ、中小企業の社長なんかが読んでいる「三国志に経営を学ぼう」みたいな本に連想される、オヤジ臭い権謀術数のイヤらしさばかりが目立っていた可能性もある。僕は「三国志」とか戦国武将とかプロ野球チームとか山本五十六に経営や管理職の極意を学ぼうなんて、あの手の本やゴタクが大嫌い。そもそも、そんなところに学んで分かったような気になっているからオマエらダメなんだよ(怒)。ところが大根(笑)…もとい、腹芸が似合いそうもない金城の場合、そこにドロドロした算盤ずくの印象が漂わない。むしろその若さが幸いして、一途にその知力を活かそうと努力する風に見えるのだ。このキャスティングは大成功だったのではないだろうか。僕も初めて金城が素晴らしいと思った。「モンゴル」(2007)のチンギス・ハーンの父親役バーサンジャプや中村獅童などのオール・アジアン・キャスティングは、おそらくツラ構えだけを買われての起用だろう。でも、この映画は見た目がすべて。だからそれでいいのだ。なぜならこの作品は知力を振り絞って戦う映画ながら、そこには変な計算や腹の探り合いはないからだ。楽天の野村監督が詰め将棋みたいな野球をやるような、そんなジメ〜ッとした屁理屈はない。彼らは確かに知力を尽くすものの、その言動はすべて真っすぐだ。そしてすべてオモテに出ている。誰一人本音と違うポーカー・ゲームをやる人間はいない。この物語では「悪」の代表とされている曹操も含めて、誰もが自らの思いに向かってまっすぐに生き、そのために戦うのである。そういえばジョン・ウーの映画って、みんながボロクソにケナす「M:I-2」(2000)のトム・クルーズの役どころですら、その性根はまっすぐだったはずだ。たぶんここがジョン・ウーの描きたかったことではないのか。そのあまりに性根の入ったまっすぐさ故に、そしてそれを名だたるアジアン・スターが演じているだけに、本来なら陳腐に聞こえてしまいかねないこんなセリフも説得力を持つのである。「一本なら切れるワラも、こうして編めば強くなる。我らも同じです!」…実際にこの映画では一騎当千、強烈な個性とそれぞれの卓抜した能力を持った男たちが、ひとつの目的に向かって連帯し、見事なチームワークで共闘する。最初は波風立っていたものの、前述のトニー・レオンのセリフを境に団結を見せる。そこでのチームワークの在り方は、ある意味で割れ鍋に閉じ蓋とも言えるかたち。まさにお互いにないものを補い合い、持てるものを分け与える…ある者が役割をキッチリ果たしたら、次に別の者が新たに分担を果たす。その戦いっぷり、お互いの補完ぶりは…何となくマーティン・スコセッシが撮った「シャイン・ア・ライト」(2008)における、ローリング・ストーンズの有り様そのものではないか! ひとつの目的のために集まった、良くできた人間集団というものは、やっぱりどこか同じような形をとるものなのか。何だか言っていることが、先にさんざケナした「三国志に経営を学ぼう」本じみていてちょっとイヤなのだが(笑)、不思議な符合に改めて驚かざるを得なかったのである。う〜む、ジョン・ウーにまんまとしてやられた。

こうすれば

 そんな「レッドクリフ」ではあるが、懸念されていた「トロイ」的コピー&ペーストCGスペクタクル映像から逃れられたかと言えば、残念ながらそうはいかなかった。大河に広がる無数の軍船の映像は、いかにもなCG映像であることは否定できない。しかしながらこの映画はいわゆる中華講談の一席…であって、「白髪三千丈」的な描写は逃れられない。だとすれば、これは開き直ってこういうものだと受け入れる以外ないだろう。そのバカバカしさも「三国志」の一部なんだろうという気がする。しかもこのCG表現がなければ、巧みな戦術の数々を俯瞰して視覚的に見せることができなかった。例えば「墨攻」(2006)ではまるでダメだった戦術の面白さの表現が、この作品では見事に映像に昇華されている。このあたり、ジョン・ウーの映像作家としてのうまさ、メンコの数の違いを痛感させられるのだ。これはなかなか出来そうでは出来ない。

さいごのひとこと

 本当にオイシイところは続編までおあずけ。

 

「ディスコ」

 Disco

Date:2008 / 12 / 08

みるまえ

 聞いたことのない監督・主演者の名前が並んだフランス映画で、タイトルが「ディスコ」。もうこの時点でこれが泥臭くて野暮くさいフレンチ・コメディと一目瞭然。ハッキリ言ってフランス映画が高尚で洗練されてオシャレなのはミニシアター・レベルまで。娯楽映画とくると一気に鈍くさくなって、とてもじゃないけどハリウッドをバカに出来なくなる。それは一頃氾濫したいわゆる「リュック・ベッソン・プレゼンツ」映画ともちょっと違う、見ていて恥ずかしくなりそうな泥臭さなのだ。だがここだけの話、僕はそんな泥臭いフレンチ・コメディを恥ずかしく思いながらも、なかなか嫌いになれないのが正直なところ。そんなフレンチ・コメディ好きの僕でも、知らない監督・主演者でタイトルが真っ正面から「ディスコ」とくる芸のなさでは、さすがに腰が退けてしまうところだ。だがちっちゃい新聞広告をよくよく見れば、エマニュエル・ベアールやジェラール・ドパルデューなどの「大物」の名が書いてあるではないか。この二人の名だけ見たら、ミニシアター向け映画かと勘違いしてしまいそうなところだ。なぜこの二人で、なぜ「ディスコ」? これは見るなと言われても見たくなる。少なくとも僕は(笑)。

ないよう

 ここは港町ル・アーヴル。港湾労働者たちのストライキで、港の機能はストップ。ポーランドから来た船も港に立ち往生したままというテイタラクだ。そんな街の中を、寝間着のようなユルい格好でほっつき歩く中年男が一人。この冴えない男ディティエ(フランク・デュボスク)は仕事もうまくいかず失業中。イギリス人の女房はこいつの甲斐性のなさに愛想を尽かし、一人息子を連れて故国に帰ってしまった。そんなわけでディティエは年老いた母親(アニー・コルディ)と二人暮らし。今日も今日とて中学生のガキみたいに小言を食らう日々だ。そんなある日、すっかりヤキのまわったディティエに親しげに声を掛ける男が一人。それは彼の昔なじみで、クラブ「ジンフィズ」のオーナーであるジャクソン(ジェラール・ドパルデュー)。かつては繁盛していた「ジンフィズ」もここ最近はサッパリ。そこで心機一転カツを入れようとリニューアル。往年の活気を取り戻すべく、すっかり1980年代スタイルに立ち戻っての新装開店だ。ついては新規オープン記念のビッグ・イベントとして企画したのがダンス・コンテスト。「当然オマエも出るだろ?」とディティエに直々のお誘いだ。実はディティエ、「ジンフィズ」と同じく以前はそれなりの栄光があった。友人二人と「ビー・キング」なるダンス・チームを組んで踊りまくり、「ジンフィズ」の文字通りキングとして君臨していたのだ。しかし骨の髄までショボくれていたディティエは、そんなジャクソンの誘いにもノッてこない。そんな湿ったディティエの心に火を付けたのは、一等がお二人様オーストラリア旅行というダンス・コンテストの賞品だった。これさえ獲得できれば、今は離ればなれの息子とも再会できる! そうと決まれば行動は早いディティエは、早速かつての「ビー・キング」の仲間に声を掛けることにした。まずはスーパーに勤める小柄な男ヌヌイユ(アベス・ザーマニ)。しかし彼は、今では妻子のために実直に働く男になっていた。スーパーの昇進試験を目前にしていた恐妻家のヌヌイユは、ディティエの誘いに首をタテに振らない。そしてもう一人のメンバー、ウォルター(サミュエル・ル・ビアン)はといえば、今は港湾労働者の労働組合の委員長。闘争の真っ最中でそんなことに構っていられる訳もなかった。そんな二人が結局ディティエの話に乗る気になったのは、彼の息子への思いの胸打たれたこともあるだろうが、彼らもまた過去の栄光を忘れがたかったからだろうか。久々に活気づく息子の様子にぬか喜びした母親も、「ビー・キング」のバカ三人組の復活に頭を抱えた。さらに自分の踊りに「磨き」をかけたいと思ったディティエは、街のバレエ教室で子供たちに踊りを教えるフランス(エマニュエル・ベアール)に目を付ける。「オレの名はディティエ・トラボルタ!」と自分じゃカッコいいつもりでキメるディティエに、元々は「いいトコ」のお嬢様だったフランスは面食らいながらも、彼の「レッスンをつけてくれ」という頼みを快諾した。こうして満を持して望んだ第一次予選。海辺の仮設ステージに上がった彼らだが、たまたまこの海辺に妻子がやってきたためヌヌイユが途中リタイア。おまけに踊りも古臭いと見られて散々な出来栄え。ジャクソンが手心を加えたので何とか予選を通過したものの、「このままでは危ないぞ」と脅かされる始末だ。しかしそんな事より、ディティエの心はどう見ても不釣り合いなフランスへの想いで一杯。果たしてディティエ率いる「ビー・キング」は、「ジンフィズ」の王者の座に復帰することができるのか…。

みたあと

 チャウ・シンチーの「ミラクル7号」(2008)からさほど経っていないにも関わらず、またまたボニー・Mの「サニー」を聞くハメになるとは(笑)。冒頭から見れば分かるとおり、この映画の全編に往年のディスコ・ヒットがガンガン流れる。こうなると悲しいかな、どうしても身体が無条件に反応してしまうところがあるからどうしようもない。別に若い頃それほどディスコに夢中になったわけでもないんだがなぁ。肝心の中味はといえば、主役のフランク・デュボスクの面構えのショボさに「こりゃ大した映画じゃないな」とつい油断してしまったが、何と何とジェラール・ドパルデューもエマニュエル・ベアールもゲストどころか、ほぼ出ずっぱりの助演格ではないか。考えてみれば、ドパルデューは「ミッション・クレオパトラ」(2002)などくっだらないコメディ映画への出演も多いし、アメリカ映画に出ても「102」(2000)では股間にトラの顔が描かれたパンツをはいて嬉々として踊っていたっけ(笑)。そこへいくと新鮮なのはベアールで、深刻な役が多い彼女のバカ映画出演はなかなか楽しい。アート系映画でも「Mの物語」(2003)みたいなトンデモ映画(笑)にも出ている彼女なので、「こっち」の目も元々あったのかもしれないが…。そして映画そのものも、見ていてなかなか楽しいのだ。この映画の内容には、どうしたって「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)へのオマージュ作品「フォーエバー・フィーバー」(1998)を連想させられる。実際のところは、本作には「フォーエバー・フィーバー」ほどのセンスの良さも志の高さも感じられないが、やっぱり見ていてウキウキさせられる。主人公のあまりのアホさに時々辟易させられながらも、「あの時代」や「ディスコ文化」への愛情が感じられるので好感が持てるのだ。

こうすれば

 ただしこの映画、その泥臭さや鈍くささ以前の問題として、あちこちに内容のヌルさを感じさせるところがある。例えば主人公3人はいきなり20年ぶりぐらいでダンスに取り組むのに、そのあたりの肉体的ギャップがあまり出てこない。「時代遅れ」だとバカにされはするが、腰が痛んだり思うように動けなかったりはしないのだ。このあたり、当然この手のドラマならおいしいネタになりそうな部分を思い切りスルー。せっかく「いい歳したオッサンが青春回帰」というオイシイ題材を手に入れながら、素材をあまり活かしていないのだ。また「ビー・キング」のメンバーであるウォルターが、組合の委員長として闘争しながらディスコ・ダンスに精を出しているあたりも、もっと組合員から突き上げをくってしかるべしだろう。しかもヤマ場直前には勝手にスト破りする(直後、再びストに戻ったらしいが)というテイタラク。当然ここでモメるのがドラマとして当然うまみのあるところのはずだ。しかしこの映画では何もなくスルー。このあたり、この映画の脚本にはまったく「うまみ」というものがない。むしろヘタクソというべきかもしれないのだ。また、本家「フィーバー」ではラストにトラボルタが「このままじゃいけない」と目覚める幕切れを見せるが、ここでの主人公は仕事を見つけようとか思っていないみたい。この男のあまりの発展性のなさ、志の低さにも情けなくなる。エマニュエル・ベアール扮するフランスへのアプローチの仕方も、あまりにレベルが低くて笑うに笑えない。娯楽映画としての脚本のツメの甘さは、ハリウッド映画ならぬフランス映画ならば仕方がないとはいえ、ちょっともったいない気もする。

みどころ

 だが、それでつまらないかといえば、そうとも言い切れないから映画はオモシロイ。先にも触れた主人公のあまりのバカさ加減、発展性のなさは仕方がないものの、それでも劇中で若干の反省を見せるので好感が持てる。開き直ってアタッシェ・ケースを海に放り投げる場面は、「オマエ結局仕事に就く気がないのかよ」と少々呆れるが…。そして何より、クライマックスのダンス・コンテスト決勝場面が圧巻! そこまでの展開については僕もブツブツ文句を言いたくなったが、この場面だけはすごい迫力。これは間違いなく、踊りが別に得意でもない主演俳優たちが、自分で本当に踊りこなしている…からこそ生まれる迫力なのだろう。ここだけは、まるでドキュメンタリーみたいな熱気がある。アース、ウィンド&ファイアの「セプテンバー」に乗って主演三人が踊りまくるこの場面は、そこまでの映画のすべての不備を吹っ飛ばす素晴らしさだ。ここまで見てきた甲斐があった。さらに幕切れの後味も悪くない。監督のファビアン・オンテニエンテの名は、ちょっと覚えておきたいところだ。

さいごのひとこと

 特大アフロヘアのドパルデューは見もの。

 

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