新作映画1000本ノック 2008年11月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「センター・オブ・ジ・アース」 「アイアンマン」 「TOKYO !」 「崖の上のポニョ」

 

「センター・オブ・ジ・アース」

 Journey to the Center of the Earth

Date:2008 / 11 / 24

みるまえ

 SF映画ファンの僕がお恥ずかしいことに、この映画のことはまったく知らなかった。ジュール・ヴェルヌ原作「地底探険」は何度か映画化されているが、その最新版がつくられているとは聞いていなかったのだ。しかも驚くなかれ、3Dによる映画化だという。なるほど、それなら今また映画化する意味もあろうというものだ。昨今の3D映画のスゴさは「ベオウルフ/呪われし勇者」(2007)で体験済み。それでなくても3Dと聞いたら見ずにはいられないタチの僕だが、「ベオウルフ」の3D効果は群を抜いていた。あんな体験ならぜひまたしたい。3D版上映は吹き替え版で、字幕版は2Dのみとのことだが、吹き替え大いに結構! どうせ昔テレビの洋画劇場で映画のシビレた頃は、映画と言えば全部吹き替えだったんだ。それは一向に差し支えない。それより3Dだ3D! あの「地底探険」の世界を立体で見せると来れば、そりゃぜひ見たい。何と素晴らしい企画ではないか。おまけに主演がブレンダン・フレイザーと来る。つい先日の「ハムナプトラ3/呪われた皇帝の秘宝」(2008)はトホホの出来栄えだったけれど、その「ハムナプトラ」シリーズの前2作では冒険モノとの相性の良さを見せていた。こりゃきっとオモシロイぞ。オモシロイに決まってる。絶対に見るしかない!

ないよう

 男が慌てふためいて逃げている。背後から迫ってくるのは恐竜だ。あたりは激しい地震で揺れ動き、男の行く手を阻んでいる。すると男の足下で深い地割れが生じて、男は奈落の底に真っ逆さまだ。男は断末魔の叫びを上げる。「トレバー!」…その瞬間、トレバー(ブレンダン・フレイザー)は汗びっしょりで飛び起きる。彼がこの悪夢で飛び起きるのは、何も今朝に始まったことではない。10年前に兄マックスが姿を消してから、彼は毎朝のように同じ夢を見るのだった。彼は地質構造学の科学者として大学に籍を置いているが、そこで彼は、兄が生涯を賭けて追い求めていたテーマを引き継いで研究していた。それは地球内部に空洞が存在することを立証する研究だった。兄マックスはその調査のためにアイスランドのスネフェルス山に行き、そのまま消息を絶ってしまったのだ。しかしその遺志を継ごうというトレバーの志は見上げたものだったが、結果は思わしくなかった。大学側からは研究室の閉鎖を言い渡されていて、まったく先の展望が見えないトレバーだった。うなだれて帰宅してみると、今日は義姉のエリザベスに頼まれて、マックスの息子で13歳の甥っ子ショーン(ジョシュ・ハッチャーソン)をしばらく預かることになっていたことに気づく。慌てて汚い部屋を片づけて、何とかギリギリでエリザベスとショーンを迎えるのに間に合ったものの、何年も顔を合わせていないショーンを預かるのは気が重かった。案の定、とってつけたかのような愛想の良さで接するトレバーに、ショーンの方もシラケ気味。男二人の寄り合い所帯は、最初から何やらすきま風状態だ。ところがそれもつかの間。エリザベスが置いていったマックスの「遺品」の中に、ジュール・ヴェルヌの「地底探検」の古い本が入っていたことから、すべては始まった。目をギラギラさせて本を開くトレバーと対照的に、ショーンはシラケ気味。「バッカだなぁ、面白えんだぞこの本は」…などと言いながらトレバーが開いてみると、本には何やらメモがしたためてあるではないか。それはトレバーの兄マックスが書いたメモだ。調べてみると、何やら細かい数値がびっしり書いてある。おそらくはマックスが世界数カ所に設置した、地震センサーの数値のことに違いない。早速コンピュータでチェックしてみると、本のメモの数値と現在のセンサーの数値が見事に合致しているではないか。これはマックスのたどった道…地底の空洞を探査する旅を「今こそ」行うべきということではないのか。少なくとも、アイスランドへの探査はしなけりゃならない。こうなりゃ甥のショーンは誰かに預けて一人で探査行に…と思ったトレバーだが、ショーンも事が面白くなりかかったところで追っ払われてはかなわないと食い下がる。それに彼としては、この際、顔も覚えていない父親の跡をたどってみたいという思いもあったに違いない。ともかくトレバーがびんにギッシリ貯め込んだ小銭貯金を使って、にわかコンビの男二人珍道中が始まった。まずはマックスのメモに残された、「地球空洞説」仲間の「先進火山学研究所」へと赴く。辺鄙な土地を道に迷いながらウロついていたトレバーとショーンだが、何とか寂れた「先進火山学研究所」にたどり着く。ところが扉を開けて出てきたのは意外にも若い金髪美人ハンナ(アニタ・ブリエム)。聞くと、マックスが頼った仲間とはこのハンナの父親だったとか。しかし、そのハンナの父親も今はこの世にいない。そしてハンナは、父親やそのお仲間、さらに「地球空洞説」について耳にすると、たちまち態度を頑なにした。彼女は父親がその風変わりな学説に夢中になっていたおかげで、相当肩身の狭い思いや苦労をしてきたのだろう。ハンナは「地球空洞説」などヴェルヌ・マニアの妄想とばかりに、思い切り目の仇にした。ともかくトレバーとショーンはマックスの足取りを辿りに、こんなアイスランドくんだりにまで来てしまった。今さら後戻り出来ない。とりあえず明日、マックスが地震計を取り付けた場所であり、マックスが消息を絶った場所、そしてヴェルヌの「地底探険」で地底への入口があるとされている場所…スネフェルス山へと出掛けることにする。ハンナは父親の信じていた学説などハナっから相手にしていなかったが、彼女が山岳ガイドということもあり、彼女を雇って出掛けることにする。さて、大冒険の始まりは…というと、トレバーは最近ロクに身体を動かしたこともないため、完全な足手まとい。ハンナはなかなかの美人だが、まるっきり付け入るスキがない。おまけにまだガキのショーンに、「オレが先にコクるからね!」と言われてしまい、まるっきり形無し。そもそも「コクる」って何なんだよ、「コく」ならよく知ってるけど(笑)。そんなこんなでともかく山の頂上まで行ってみると、目的の地震センサーを発見。装置からデータを引っこ抜いて…と思っていたら、いきなり「山の天気」らしく雲行きが怪しくなってきた。ウカウカしているうちに稲妻があちらこちらに落ちてくる。地震センサーなんて持ってウロウロしていたら、そこ目がけてカミナリが落ちるではないか。一足先にハンナとショーンは近くの洞穴に避難。センサーを持って慌てふためいていたトレバーも、間一髪で洞穴に飛び込んだ。しかしその瞬間に起きた落雷が、洞穴の入口を直撃。アッという間に入口が崩れ落ちて、三人は中に閉じこめられるハメになった。こうなったら仕方がない。ここはかつての廃坑の一部のはずなので、洞穴はどこかに通じているはずだ。こうして洞穴の奥深くに入っていく三人だったが…。

みたあと

 ストーリー紹介が、肝心の地底に行く前までで申し訳ない。しかしこの映画、むろん一種のアトラクション・ムービーであることは間違いないのだが、本題に入るまでにいろいろ楽しげな設定を設けていることをちゃんと説明しておきたかった。好漢ブレンダン・フレイザーをはじめとする主演の三人が、実にいい感じ。おまけに冒険映画の楽しさが、見事に醸し出されているのだ。これは3Dでなくてもソコソコ楽しいはず。

みどころ

 実は今回の映画、肝心の地底世界に行くまでが結構長い。まずは廃坑でウロウロしたあげく、「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(1984)のトロッコ場面を10倍派手にしたようなトロッコ場面が展開。これが3Dで突っ走るんだから、まさにスリル満点だ。今回の3Dはもちろんかつての立体効果も怪しげな、目が痛くなっちゃうようなシロモノではなく、「ベオウルフ」以来のスゴイ技術でつくられたすぐれモノ。だから見ているだけで楽しい。やがて火口を一直線に転落。お約束の巨大キノコの森をくぐって、イカダで海に乗り出せば特大ピラニアが襲ってくる。その他にも人食い植物やら空中に浮かぶ磁石岩やら、不思議なアイテムが次々出てきて大いに楽しませてくれるのだ。見ていて嬉しくなる。監督のエリック・ブレヴィグは何しろあのディズニーランドのアトラクション「キャプテンEO」(1986)にも関わった人物で、「その道」のプロらしい。さすがに3D映画の見せ場のツボを心得た演出ぶりだ。

こうすれば

 ただしこの映画、お話の展開はかなり行き当たりバッタリだ。吹き飛ばされた帆と一緒にショーン少年が空高く飛んでいってしまっても、「きっと南で合流できる」の一言で納得。一体この地底世界ってどの程度の広さなのだ? 沸騰した川による「間欠泉」に乗って地上に脱出しようと思っていた一行だが、すでに川の水は枯れていて万事窮す。すると、たまたま火口付近の岩盤の向こう側に地下水脈があって…と、これまたご都合主義な設定。設定にも妙な点があって、この地底世界は一定のローテーションで灼熱地獄になってしまうようだが、ならば太古の生き物はなぜ現代まで生き延びてきたのか? このあたり、お話はかなりいいかげんだ。またお話は単純かつスピーディーに展開するので、今ひとつ地底世界のスケール感が出ない。獰猛な恐竜がたったの1匹しか出てこないのも、そんなショボさを助長する要素のひとつだ。例えばかつての「地底探険」(1959)などの地底世界の「広さ」と比べると、こっちの地底世界はせいぜい新宿地下街程度の広さにしか感じられない(笑)。オールナイトを劇場で見た後に通る深夜の歌舞伎町は、立ちんぼなんかもウロついてこの地底よりコワイかも(笑)。それでも素直にこの映画は楽しい。お話が弱くても許せる。こっちが期待してるのも、見世物としての楽しさなのだ。それのどこが悪い。ストレートにお客さんを楽しませようという健全なサービス精神が感じられるから、後味まで爽やかだ。

さいごのひとこと

 イイ意味でのテーマパーク映画。

 

「アイアンマン」

 Iron Man

Date:2008 / 11 / 17

みるまえ

 全米大ヒットの「なんとかマン」とくれば、どうせまたアメコミの映画化だろうと思っていたら、案の定そうだった。そのくらい…その題名とヒットしたという事実を聞いても、驚きも何もなかった映画だが、主演者の名前を聞いたらちょっとビックリ。ロバート・ダウニー・ジュニアではないか。ダウニー・ジュニアといえば、若手演技派として将来を大いに嘱望されながら、麻薬で身を持ち崩してしまった男。近年の出演作も、「ゾディアック」(2007)などもっぱらその「持ち崩し」イメージで起用されていた観が強い。それだけに、アメコミ・ヒーロー映画への登板は意外だったし、だからこそオモシロイ。脇にジェフ・ブリッジスやら「ブレイブ・ワン」(2007)でオイシイ役回りだったテレンス・ハワード、さらにさらにお久しぶりのグウィネス・パルトロウまで出てくるとなれば、これはぜひとも見ておきたいではないか。昨今は正直言って「なんとかマン」にはいいかげん食傷気味ながら、今回に限っては少々事情が違う。この主演者の顔ぶれに惹かれて見ることにした。

ないよう

 アフガニスタンに、一人のVIPがやって来る。米軍のスタッフが恭しく接待するこの男、その名をトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)。巨大兵器メーカーであるスターク・インダストリーズのCEOというのがその肩書き。ここで少々時を巻き戻して説明すると、スタークは偉大な兵器開発者であり兵器メーカーの社長である父を持ち、子供の頃から「神童」と呼ばれるほどの天才的発明を連発。父親は若くして他界したが、そのパートナーだったオバディア(ジェフ・ブリッジス)がスタークの育ての親になり、かつ彼が成長するまでスターク・インダストリーズを仕切っていた。そしてスタークが大人になってその才能を完全に開花すると同時に、CEOとしてスターク・インダストリーズに迎えたのである。それでスタークは、この日も駐留米軍のお歴々に開発したばかりの新型ミサイルのデモンストレーションを見せるべく、わざわざこのアフガンくんだりまでやって来た次第。しかしCEOといっても、世間の大企業の枯れちゃった社長・会長の類とは訳が違う。まだまだ若いし精力的。おまけに根っから人生享楽派らしく、ゴシップには事欠かない。この日は軍とのパイプ役でもあり友人でもある軍人のローディ(テレンス・ハワード)のクルマに同乗せず、あえて若い兵士たちと装甲車に乗って移動中だったが、兵士たちはみな「ウワサのセレブ」スタークに興味津々。最初はオズオズ…そのうちズケズケと、スタークの私生活について聞いてくる。ところがそこにロケット弾が命中! 前のクルマが大破したかと思えば、同乗している若い兵士が蜂の巣にされた。慌てて装甲車から脱出し、物陰に隠れるスターク。しかし間近で爆弾が炸裂し、彼は記憶を失った。次にスタークが目覚めた時、彼は薄暗い地下のテロリストの隠れ家の中にいた。やはりこの隠れ家に捕らえられていた医師インセン(ショーン・トーブ)が説明するには、ラザ(ファラン・タヒール)率いるテロリスト集団が、例の新型ミサイルをスタークに作らせるために誘拐したらしい。そしてテロリストの巣窟には、スターク・インダストリーズ製の兵器がゴマンと鎮座していたのだ。自分の会社の作った兵器が、凶悪なテロリストの道具になっているとは…さすがのスタークも愕然とせずにはいられない。そんなスタークの胸には何やらゴツイ人工物が埋め込まれ、そこからバッテリーまでケーブルが伸ばしてある。例の爆発の時に砲弾の破片が胸に刺さり、放っておくと心臓に突き刺さってしまうところを、インセン作によるこの「磁力発生装置」のおかげで生き延びているとのこと。そんな自分の身体に起きた異変と、自分に被さってきた忌々しい状況に、スタークが困り果てるかと思いきやさにあらず。この男、チャランポランに見えて反骨精神は旺盛で、意外に逆境には強い。まずはかねてより小型化が望まれていながら果たせなかった巨大動力源発生装置「アーク・リアクター」を、天才的なひらめきによって手の平サイズに圧縮して完成。人工心臓代わりに自分の胸に埋め込んだ。そして医師インセンの手を借りながら、テロリストの目を盗んでミサイルとは似ても似つかぬモノを作り始めた。それはパワード・スーツ…戦闘能力や飛行能力を持ち、なおかつさまざまな攻撃にも耐えうる…さながら「着る要塞」だ。隠れ家にある中古品の装置や兵器などを使って作るので見てくれこそ悪いが、パワードスーツがそれなりの形に出来上がってきたある日、さすがにスタークがやっていることに気付いたテロリストたちが騒ぎ出す。こうなると、もうグズグズできない。早速、脱出計画を実行に移さなくては。その渦中で、医師インセンはスタークを逃がすために自らがオトリとなって命を落とした。こうしてパワードスーツで大暴れしたスタークは、ヨレヨレな状態ではあるが何とか脱出を果たすのだった。そんなスタークは捜索中の米軍の手で助けられ、無事に本国に帰還することになる。スタークをまず出迎えたのは、彼の身の回りの世話まで見る秘書のペッパー・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)。雇い人と雇われ人という関係ながら憎まれ口を叩き合う二人の間には、余人をもって代え難い関係が芽生えていた。スタークの育ての親にして片腕のオバディアも、彼を暖かく迎える。しかしスタークは帰国記念の記者会見で、いきなり関係者を震撼させる発言を行う。「今後、当社は兵器の製造から撤退する!」…まさに青天の霹靂の発言に慌てふためいたオバティアは、その場を適当にごまかして会見を終了させた。しかしスタークは本気だった。自分が作った兵器が、この世に悪を撒き散らしている。それに気付いた彼は、どうにも耐えられなくなったのだ。そして自宅の作業場において、まるで取り憑かれたように新型パワードスーツの開発に取り組む。テロリストの隠れ家では限られた材料しか得られなかったが、ここでは豊富な資材と設備、恵まれた環境があった。こうしてスタークは着々と新型パワードスーツの開発を進めていたが、その足下では恐るべき陰謀が進行していたのであった…。

みたあと

 面白かった。楽しかった。まず、それは言っておかねばならない。大体イマドキは、苦悩するヒーローとかダークサイドを持つヒーローとか、こう言っちゃ何だが所詮アメコミ・ヒーローなのに「単なるアメコミ・ヒーローじゃござんせん」と言わんばかりのヒーローたちがゴマンとスクリーンを闊歩していて、いいかげんウンザリしていたところだ。まずはアッケラカンと戦い、アッケラカンと悪を倒すヒーローとして出てきてくれたことに感謝だ。大体アメコミ映画をつくってるのに、何で「単なるアメコミ映画」じゃいけないんだよ。ただしこのヒーロー、その活躍ぶりには一点の曇りも見られないが、その正体たるトニー・スタークという男はかなり人間くさい人物。優等生とはいいかねる。そこが昨今の「大人の鑑賞に堪えるアメコミ・ヒーロー映画」としては望ましい点なんだろうか。そして何より…活躍ぶりには一点の曇りもない…と言ってはみたものの、アイアンマンはその成立過程そのものが矛盾と言えなくもない。自分のつくった兵器が人を苦しめているのに気付いたスタークが、それらを叩きつぶすためにつくった究極の「兵器」がアイアンマンなのだ。兵器を抹消するために「それを上回る兵器」を持って来るという発想そのものが偉大なる矛盾。しかもスタークが悠々とアイアンマンなんか作っていられるのも、兵器づくりで稼ぎ出した潤沢な資金ゆえ。スタークの豊かな暮らしも何もかも兵器がつくったものだ。「今後、当社は兵器の製造から撤退する!」…なんて発言は、どう考えても寝言でしかない。物語の矛盾の最たるものが、アイアンマンそのもののはずだ。

みどころ

 だが、それが昨今の「ダークなんとか」とか「なんとかナイト」とか(笑)…みたいな「大人の鑑賞に堪えるアメコミ・ヒーロー映画」という名の下に展開する深刻な話や、主人公が自己の矛盾に苦悩する陰々滅々なドラマにならなかったのは…そして、そうならなかったのにも関わらず、作品設定に存在する「矛盾」が見るに耐えないバカバカしさとならなかったのは…おそらく、ひとえに主人公をロバート・ダウニー・ジュニアが演じたからではないだろうか。矛盾を矛盾としてそのまま体現できる男。そして正義に目覚めても熱くならず、見ている側にどこまで本気だか疑わせるくらいの体温の低さを持つ男。さらにアイアンマンとして正義を行使することより、アイアンマンをつくること自体やアイアンマンを使いこなすことの喜びの方が、実は勝っているように見える男。そんな男を演じてピタリとハマるロバート・ダウニー・ジュニアだからこそ、このキャラクターそのものが抱えているデカい矛盾が矛盾のままで放置されていても、「それもこのキャラならアリか」と思わされる。何しろ「ゾディアック」にのめり込んだあの熱心さでパワードスーツにのめり込む。モロモロの矛盾よりもダウニー・ジュニアが夢中になってこしらえているパワードスーツの仕掛けの方に、こちらもついつい目を奪われてしまう。実際、ここでつくられているパワードスーツには、男の子が誰でも持つ「オタク心」を刺激されてしまう。それこそ日本製アニメなどでもイヤというほど出てくるであろう「パワードスーツ」なるシロモノ、ハッキリ言って僕なんかまったく関心がなかったが、それでもこの映画でのパワード・スーツ開発場面にはワクワクさせられた。ディティールがキッチリ描かれているから、本来はマンガそのもののシロモノがバカバカしいものに見えないのだ。このあたりのディティールへのこだわりは、同じくオタク心の発露が見られた「ザスーラ」(2005)のジョン・ファブロー監督ならではのものというべきだろうか。そして意外にも良かったのが、久々登場のグウィネス・パルトロウ。彼女は「恋におちたシェイクスピア」(1998)でオスカー受賞後、めっきり作品数が減ってしまい、たまに出る作品も地味なモノばかり。こんな娯楽大作に出るとは思っていなかった。しかし一方で「スカイ・キャプテン/ワールド・オブ・トゥモロー」(2004)なんて作品に出たりもしているところを見ると、この手のSFもどき、マンガっぽい作品がキライじゃないのかもしれない。今回のダウニー・ジュニアとのおっとりとした品のいいやりとりは、見ていてなかなか楽しかった。この映画のパルトロウは、予想外の拾いモノかも。というわけで、ダウニー・ジュニア、パルトロウに、珍しい悪役のジェフ・ブリッジス、さらにテレンス・ハワード…と、役者の良さでもった映画といえるだろう。

こうすれば

 この映画のエンド・クレジットが終わった後で、ちょっとしたオマケの場面が出てくる。詳しくは語れないが、ちょうど同じマーベル・コミックスの映画化である「インクレディブル・ハルク」(2008)と同じような趣向だ。つまりは、ゆくゆくはマーベル・コミックスのマンガを次々映画化して、それぞれのキャラを共演させるような作品と世界観をつくりあげようというハラのようだ。それは大変結構だが、そんなにアメコミ・ヒーロー映画ばっかりつくられてもねぇ。正直言ってすでに飽和状態で供給過剰気味に思えるんだが、いかがだろうか。アメコミ・ヒーロー映画があってもいいけど、そればっかでなくてもいいんじゃないの? この「アイアンマン」は良かったけど、付き合ってられるのもここまでってとこが正直なところだが。

さいごのひとこと

 アメコミ映画はそろそろ打ち止めにして。

 

「TOKYO !」

 TOKYO !

Date:2008 / 11 / 10

みるまえ

 欧米の個性派監督や俳優たちがパリを舞台に短編映画をこさえたオムニバス映画「パリ・ジュテーム」(2006)は、期待していなかったら意外にも面白かった。そのプロデューサーたちは「パリ」の成功に味をしめたか、続編として「NY・アイ・ラブ・ユー」とか「トーキョー」だとかを制作したいと語っていたが、僕はてっきり日本の映画ファンへのリップ・サービスかと思いきや、ホントに「トーキョー」オムニバス映画ができちゃったではないか! もっともスタッフのどこを探しても「パリ・ジュテーム」プロデューサーらの名前など出てこないから、これはあっちとは無関係。たまたま偶然にできた映画らしい。ただ、こっちはこっちでたったの短編3本ながら、個性的な監督の顔ぶれが揃ったから興味深い。特に注目すべきは、これが「ポーラX」(1999)より9年ぶりの新作となるレオス・カラックス監督だろうか。しかし、これだけの顔ぶれが揃った東京を舞台にしたオムニバスなのに、なぜかこの作品の評判はどこからも聞こえて来ない。一体なぜなのか。まるっきりスカな映画になっちゃったのか。そんなわけでコワゴワ見に行った次第。

ないよう

(1)ミシェル・ゴンドリー監督「インテリア・デザイン」:二人が東京にやってきたのは、そぼ降る雨の夜だった。クルマでやって来た彼らは、自主制作映画の監督アキラ(加瀬亮)とその恋人ヒロコ(藤谷文子)。今回は、アキラの新作を花の東京の映画館を借り切って上映するために上京。そのため当座は高校の同級生アケミ(伊藤歩)の部屋に泊めてもらい、いずれ住みかを探そうという計画だ。その夜は再会を喜んだ3人。しかしアケミにせがまれ、ビデオで見ることになったアキラの「作品」はヒロコとアケミを速攻で眠らせるシロモノ。それでもヒロコは恋人アキラに献身的に尽くした。一方、アパート探しをスタートする二人だが、乏しい予算で住めるいい家は、東京ではなかなか見つからない。資金稼ぎのため仕事探しを始めると、なぜかアキラは意外な才能を発揮するが、ヒロコは仕事が見つからない。使えないクズ映画監督でしかないアキラにあれほど尽くしながら、「志が低い」などと言われて落ち込まざるを得ない。そんなこんなで上映会がやって来る。サクラも含めてそれなりの観客を呼び、チヤホヤされたアキラは悪い気がしない。そんな中で、ヒロコは何となく違和感を感じずにはいられなかった。そんなある日、ヒロコの身体にとんでもない異変が起きる…。

(2)レオス・カラックス監督「メルド」:白昼の銀座。突如マンホールからひとりの男(ドゥニ・ラヴァン)が現れる。伸び放題でクシャクシャの髪とヒゲ、白人らしいが素性は分からない。この男は街の中をズカズカと歩いていくと、通りがかりの人々に次々襲いかかる。菊の花を食い散らかすなどやりたい放題のあげく、またマンホールに帰っていく。この男はマンホールの奥に広がる下水道と、そこからつながった地底の空間に住んでいた。そこには戦争遺跡が残り、戦車や武器が打ち捨てられていた。男はそこから手榴弾を取り出し、次に渋谷に出現する。そして手榴弾で人々を殺傷して再び姿を消す。さすがにこうなると放置しているわけにもいかず、当局は地下道を捜索して男を逮捕。しかしこの男「メルド」は独自の言語を話すため、何を言っているのか分からない。そこでフランスから、「メルド語」を理解するという弁護士ヴォランド(ジャン=フランソワ・パルメ)がやって来る。こうして裁判が始まり、周囲の日本社会ではメルドに死刑を求める連中とカリスマ視する連中とが意見を戦わせる始末…。

(3)ポン・ジュノ監督「シェイキング東京」:男(香川照之)は10年間、この家を出ていない。トイレットペーパーや水など生活に必要な物資は電話で注文できる。決まった時間に決まった店にピザを注文し、その箱をキッチリ計算したように並べて積んでいる。男は外の世界と人々との煩わしいやりとりに疲れ、この家から一歩も出ないと誓ってしまった。そして計算したかのような生活を続けている。ところがある日、青天の霹靂としか言いようのない事態が起きる。ピザを配達しに来た娘(蒼井優)と思わず目を見合わせてしまったのだ。おまけに突然地震が起きて、配達娘は失神。戸惑う男はそれまでの禁を破って、彼女を自宅に上げてしまう。しばらくして目を覚ました彼女は、何から何まで整っている男の家に感心して帰っていった。この出来事が気になって、悶々としながら翌日再びピザを注文する男。しかし彼女は出前に現れず、代わりにやって来たのはえらく不機嫌な店長(竹中直人)だった。何でも例の娘はピザ屋を辞めてしまい、自宅に引きこもってしまったという。悩みに悩んだ男は何とか娘の家の住所を聞き出すと、フラつく足取りで家から一歩を踏み出した…。

みたあと

 「パリ・ジュテーム」もオムニバスにしては面白い作品だったが(何しろオムニバスには「チューブ・テイルズ」(1999)みたいな愚作も平気でゴロゴロしているから油断できない)、この映画もなかなか面白い。まずは外国人監督が撮っている日本・東京というハンデがありながら、おかしなシロモノになっていないのは大したモノだ。まずは一本目のミシェル・ゴンドリー監督は、「エターナル・サンシャイン」(2004)が素晴らしかったものの、一歩間違うと「恋愛睡眠のすすめ」(2006)みたいな甘っチョロくてヌルい作品をつくってしまうので、今回も大いに心配した。途中で東京での家探しの難しさを描くくだりでは、ははぁ、またまた「東京の家はウサギ小屋」みたいなワンパターンの日本批判をやるつもりだな…と思いかけたが、そういう訳でもない。自主映画監督のつくった映画をあくまでクズ映画として描き、この監督を自分が見えてないアホとして描いている時点で、もう「恋愛睡眠」のヌルさは感じられない。この監督らしいファンタジックな結末ながら、これをハッピーエンドととるか否かは微妙なところ。そのあたりの「苦み」みたいな点も大いに買える作品になった。次の二本目レオス・カラックス作品は、さすがに三本の中で最もインパクトが強い話。しかもこの作品、カラックスの盟友だったドゥニ・ラヴァンの主演ではないか! 「ポーラX」には主演してなかったから、何と16年ぶりの顔合わせ! これは大いに期待せざるを得ない。ところが…これが何と受け取っていいのか困る作品なのだ。確かにインパクトは大きい。ラヴァンの怪演もスゴイ。だが、そこで提示されるさまざまなアイコン…いまだ解決されていない戦争、菊の花、死刑の是非…などが、いかにも「ガイジン」が日本を断罪する時の紋切りのキーワード然としてナマで出てくるので、正直言っていささか萎えてしまったのだ。むろん途中に出てくるテレビ・ニュースのチープな「ジャパネスク」ぶりから、あえてカラックスが「ガイジン」としての自分を客観視して表現しているのだ…と受け取ることも可能と言えば可能。しかしこれまでの一連の作品で、素晴らしい映画センスの冴えとは裏腹に、必ず「大好き」なデビッド・ボウイーの歌を選曲しては、思いっ切りロック・センスのないところを見せ付けてくれたカラックス。この人の「意外なダサさ」を考えると、この紋切り「日本批判」も結構マジなんじゃないかと思わされてしまう。実際、最初のインパクトはあるんだけど、お話はどんどん面白くなくなるのだ。やっぱり「ポンヌフの恋人」(1991)で映画会社つぶしちゃったトラウマから、いまだに抜け出していないのだろうか。今回の日本での短篇制作は、少しはリハビリになったのだろうか。何だかまだダメっぽい感じだが…。三本目のポン・ジュノは、デビュー作から二作目と驚嘆させられてきたものの、三作目「グエムル/漢江の怪物」(2006)は僕としては買えなかった。世評は高かったけど、僕としては「正体見たり」って気分にさせられちゃったのだ。そんなポン・ジュノの今回の作品は、オムニバス三本の中では最も日本人キャストが豪華かも。お話も単純っていえば単純だが、可愛らしさがあって愛すべき作品だ。月並みなラストでも僕は許す。「グエムル/漢江の怪物」みたいに「奇をてらえばいい」とでも言いたげな「作り手のエゴイズム」を感じさせなかったからだ。これは重要なんじゃないだろうか。

さいごのひとこと

 パリと比べるとオシャレじゃないね。

 

「崖の上のポニョ」

 Ponyo on the Cliff by the Sea

Date:2008 / 11 / 03

みるまえ

 宮崎駿って引退するって言ってなかったっけ?…ってな意地悪な言葉は、もう言わないことにしよう(笑)。僕は邦画がダメでアニメがキライということで定評があるし、そう言うと死ぬほど喜ぶ人もいるのでこの称号を返上する気もサラサラない。だが、そんな僕でもここ何作かの宮崎作品については公開時に見るようになったのだから、まったくもってめでたいことだ。そして前作「ハウルの動く城」(2004)はいろいろ偉そうな屁理屈が鼻につく宮崎作品にして、そんなイヤミをあまり感じさせないところが気に入っていた。当然新作も大いに気になるところ。しかし伝わって来た新作のウワサは、「崖の上のポニョ」という不可解な題名から察するにかなり子供向けという話。そりゃあちょっと僕には向いてない。ここは邦画好きアニメ好きで映画に偏見をまったく持っていない(笑)ような、素晴らしい人々にお任せしようと決めてかかっていた。仕事が異常に忙しいこともあって、公開後しばらく放っておいたのはそんなわけだ。ところが久々に映画を見ようと新宿に来てみれば、映画館の様相も街の様相も変わっていた。おまけに時間の都合で、見れる作品は「ポニョ」しかない。しかたなく…といっては巨匠・ミヤザキに申し訳ないが、そんな気乗り薄の状態でスクリーンと対峙した次第。

ないよう

 海の底。奇妙ないでたちの男フジモト(所ジョージ)が、水の中に命の源を放っている。そんな彼の周囲をしもべのように取り巻く魚介類たち。しかしフジモトの住処の窓から、何者かがこっそり抜けだそうとしている。それは真っ赤な身体の魚・ポニョ(奈良柚莉愛)だ。ポニョはウジャウジャ群がる妹たちをおとなしくさせると、フジモトの目を盗んで住処を抜け出した。クラゲをまるで編み笠のようにかぶり、別のクラゲの上に乗っかって、一緒になって海面めざしてまっしぐらだ。ポニョは海の外が見たかった。そして人間の世界が見たかった。ところがひょんなことから頭がガラスのびんにハマりこみ、浚渫船の網に引っかかってゴミと一緒に持って行かれるハメに。気が付けば頭をびんにハメたまま、海岸に打ち上げられるというテイタラク。そこにたまたまやって来たのが、すぐ近くの崖の上の一軒家に住む、宗介という5歳の少年(土井洋輝)だ。宗介はグッタリしたポニョを見ると、びんを石で割って自由にした。しかし宗介は、そんなポニョの様子を遠くからじっと見つめていた者がいたのを知らない。それは例のフジモトという男だ。フジモトはポニョが人間の手に渡ったことを恐れ、手下である海の生き物や魔物たちを使って何とか奪い返そうと慌てふためいた。そして波打ち際の宗介に襲いかかるのだが、間一髪で宗介は難を逃れた。彼はフジモトが虎視眈々と狙っているとも知らず、ポニョを緑色のプラスティックのたらいに入れてかわいがることに決めた。ガラスを割った時に宗介の指にできたキズを、ポニョがなめて治してしまったのにもビックリ。そのことだけでもかわいがる甲斐があろうというもの。そして母親のリサ(山口智子)がハンドルを握るクルマに飛び乗って、ポニョを連れたまま出発。リサはここからクルマで飛ばして「ン分」の養護老人ホームで働いていて、宗介はそのホームに隣接した保育園に通っているのだ。ポニョと片時も離れたくなくなった宗介は、ポニョのたらいを近くの木の下に隠すが、ポニョが保育園の女の子に水をぶっかけるやら、老人ホームで憎まれ口ばかり叩くバアサン(吉行和子)には「人面魚」呼ばわりされるやら、もうテンヤワンヤ。それでも宗介は「僕が守ってあげるからね」と宣言。ポニョも信じがたいことに「ポニョ、そうすけ好き」とまんざらでもないのだった。しかし楽しい一時もそこまで。ちょっとした隙に、ポニョはフジモトの手で奪い去られてしまう。思い切りガックリの宗介。しかもその夜は船乗りとして家を空けがちな宗介の父親・耕一(長嶋一茂)が久々に帰宅するはずだったのに、都合で家に戻れなくなってしまってリサもガックリ。勢い余ってフテ寝という始末だ。ところがフジモトの住処に戻されたポニョは、おとなしくしているようなタマではなかった。人間とその世界を忌み嫌い、今ではすっかり海の住人となったフジモトは、魔力を使って地球を海が席巻していた古代に戻したいと願っていた。それなのに自らがこの世に生み出した娘ポニョが「人間になる!」と言うことをきかなくなったのに憮然呆然。しかもフジモトが留守の隙にポニョは手足を生やし、徐々に人間に変身しようとしていた。ポニョがなめた宗介の「人間の血」が、彼女に影響を与えていたのだ。しかも彼女がフジモトの家を脱出する際に、フジモトが溜め込んでいたパワー充満する「生命の水」が外界に一気に放たれてしまった。これが海の世界と外の世界に大きな影響を与え、宗介たちの住む町は激しい嵐に見舞われることになる…。

みたあと

 冒頭近く、フジモトの周りに海の生き物たちが群がっている場面にビックリ。大小さまざまな海の生き物たちがウジャウジャ無数に描かれているのだが、その気持ち悪さも含めての手の込んだ作画に驚嘆。また、それらが丁寧に描かれてはいるものの、手書きならではの骨太でどこかラフなタッチであることも興味を惹いた。どこか荒削りな味わい。それは絵のタッチだけでなく、この映画のすべての部分に言えることかもしれない。ハッキリ言ってこの作品、緻密さや繊細さとは程遠い。悪く言えば雑で強引、よく言えばパワフルで素朴。そんな強引な力業が見え隠れする作品なのだ。だから正直言って、ノレる人と乗れない人がいるかもしれない。僕は環境保護だとか屁理屈が大嫌いで、偉そうで説教臭いミヤザキが大嫌いだったから、今回の作品には好感を持った。前作「ハウル」も終盤の展開がかなり破綻していて、そこが批判もされていたが、僕はあのパワフルさに惹かれたのでノー・プロブレム。もちろん「ポニョ」の理屈の通らないお話も何もかも、「面白いから」オール・オッケーだ。ハッキリ言って、僕は相当楽しんだ。邦画がダメでアニメがキライなのにも関わらず(笑)。

みどころ

 実際のところ宮崎駿も、今回は細かいことは抜きにしてブワ〜ッといこう…的な気分でつくったのではないか。主人公の宗介が「ポニョっとしてるからポニョ」なんて、かつての「ガメラ」シリーズの子役のセリフを彷彿とさせるいい加減な命名の仕方を披露するに及んで、僕は本気でそう思い始めた。むろん「雑」につくったはずもないが、あえて「ラフ」に見えるように荒削り感を出そうとしていたのは間違いないと思う。「意識的な大さっぱ」なのだ。考えてみればポニョが原因で起きた大嵐と洪水は、ちょっとやそっとの台風どころじゃない。当然、日本だけの問題であろうはずもなく、あれはハッキリ言って世界の滅亡クラスの大事件だろう。街はケビン・コスナーの「ウォーターワールド」(1995)なみに水没しちゃってるし、文明世界はかなりダメージをくらったはずだ。地球温暖化で世界は破滅…なんてイメージと共通するものを抱く方が自然だ。しかしそれを深刻ぶって説教するわけでなく、まぁとりあえずオール・オッケー…と言ってる宮崎駿のほうが、正直言って僕には好感が持てる。とりあえず今では有名なエンディングの曲「ポ〜ニョポニョポニョ」ってな歌が楽しげに脳裏に残ればいいのではないだろうか。そんなアバウトさはこの作品の隅々にまで及んでいる。例えば、「ハウル」のキムタクなど今まで宮崎作品の声優のオールスター化がかなり批判されてきたが、今回に至っては誰も批判する気もしなくなるのではないか。今回の声のキャストの長嶋一茂、所ジョージなどは、ハッキリ言って投げやりを通り越してズバリ「ヘタ」である。おそらく宮崎は、なまじテクニックのある声優などに「演技」して欲しくないのではないだろうか。声の質さえ思う通りのモノであったら、声の芝居など余計だと言わんばかりの起用ぶりである。うまい「演技」なんて小賢しいマネなどしないでくれ…とでも言いたげである。そんなスピリットが、この映画では作品全体にまで広がっているかのようだ。何だかヤケクソの明るさとも見えなくもないが、こんなアッケラカンのカーとした宮崎駿なら、こっちもオールオッケーだ。

こうすれば

 実はアッケラカンといいながら、作品のあちこちに「ワルキューレの騎行」だとか「海底二万里」登場人物のフジモトだとか…意味ありげなアイコンをちりばめている宮崎。そういう「オレはホントはモノ知りでいろいろ考えていて利口」と言いたげで、かえって教養がないことを暴露しちゃってる押井守みたいなことをするなっていいたくなるが、まぁそんな目配せも最低限度だったから許せる。それより、チキンラーメンの絵が実にうまそう…とか、物理的にどういう状況になっているのか知らないが、波の上をドタバタと全力疾走してクルマを追いかけるポニョの絵…とか、そっちの方がずっと重要だ。言ってることも、実は「世界が終わっちゃったって別にいいじゃん」ぐらいのことにしか読めない。たぶん僕なんかより他の人の方が詳しくてタメになる感想を書いているだろうし、ワーグナーとか宮崎アニメのヒロイン論とかを語っていたりしてるだろう。そっちの方が読み応えもあってマシな内容だろうが、そんなこともうどうでもいいよ。僕自身も今はそんなチマチマしたことを考えている気持ちになれないし、できればブワ〜ッといきたいところだ。映画を楽しみたいと思っていたし、実際この映画を楽しんだ。ひどい手抜き感想だと言われても仕方がないが、正直言ってこれが今の僕の心境なんだからこれまた仕方がない。何しろ見ている途中で「これって人魚姫の焼き直し?」なんてようやく気がつく始末で、まったく分析やら味わうどころの話じゃなかった。そもそも映画サイトなのに今頃この映画の感想文をアップしている時点で、すでにもう誰も読まないだろうし、どうでもいいではないか(笑)。最近じゃ結構評判の作品ですら見逃してしまうし、見ても公開からずっと後の話。感想なんてそれからさらに後になるから、もはや公開から1ヶ月2ヶ月後なんてザラ。それどころか、感想アップした時には大抵公開が終わっちゃってる。もう、どうでもいい。僕は細かいことなどどうでもよくなった。アッケラカンのカーでノー・プロブレムでオールオッケーだ。そもそもが、これはそういう映画だろう。

さいごのひとこと

 ただし海の魚を飼うのに水道水ってのはマズイんじゃないか(笑)?

 

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