新作映画1000本ノック 2008年7月

Knocking on Movie Heven's Door


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「ミラクル7号」 「イースタン・プロミス」 「シューテム・アップ」

 

「ミラクル7号」

 長江7号 (CJ7)

Date:2008 / 07 / 28

みるまえ

 チャウ・シンチーといえば「少林サッカー」(2001)、「カンフーハッスル」(2004)とこの日本でもいきなり派手なビッグヒットをかっ飛ばした香港コメディ映画のスター。「その前から香港ではスターだったよ」と、いきなり香港映画ファンからは多大なお叱りをいただきかねない書き方をしてしまったが、実際のところはそれまでわが国では一部のコアなファンしか知らなかった存在のはず。僕だって偉そうなことは言えなくて、この2作の前には、名前こそ知っていたものの作品はほんの2〜3本くらいしか見ていなかった。それに、見たそれらの作品にもそれほど感心した記憶がない。そういう意味でいえば、香港映画マニアが何といおうと「少林サッカー」、「カンフーハッスル」以前と以後では、明らかに一線を画している感じがあるのは否めないところ。その前まではどうだったのかを語るのは僕の任ではないが、間違いなくCGを多用したコメディ・スペクタクルというど派手路線は行っていなかったのではないか。そしてその2本についていえば、「少林サッカー」にはバカバカしく大笑いしたものの「まぁ、それなり」の感想しか持たなかったが、「カンフーハッスル」には心底感心した。チャウ・シンチーという人の映画に対する愛情やらロマンチストぶり、性根の優しさみたいなものが、あまりにストレートな熱気を帯びて打ち出されていたからだ。こんなことをいうと、「前からチャウ・シンチーは映画愛を出していたし、優しかったよ」との香港コア・ファンのお叱りをまたまた頂戴するとは思うが、僕などのようにチャウ・シンチーと長く深い付き合いをしていない人間にもストレートに届くかたちで、万人に伝わるかたちでそれを言い切れたところが大事なのだ。一部の人たちだけでコチョコチョチマチマと分かったようなことをいってみても、ハッキリ言って不毛だ。これだけの訴求力を持ち得たことが大事なのである。そしてそこでのチャウ・シンチーのストレートな性根の優しさが、どうしたってすべてに冷笑的になりシラケわたっているイマドキの映画や観客の中で、あえてそれらに背を向けるかたちで正々堂々と打ち出されているあたりにも感心した。これは相当勇気がないと出来ないことだし、のっぴきならない気持ちを持っていなければやろうとも思わないだろう。そのあたりのことをみても、チャウ・シンチーは軽視しちゃいけない映画作家だという気がしたわけだ。ところが…あれだけ「少林サッカー」と「カンフーハッスル」の時にまるで生まれた時からチャウ・シンチーを知っていたようなことをいっていた映画ファンたち…むろんそこには僕も含む…が、そんなチャウ・シンチーの久々の新作「ミラクル7号」にはやけに冷たいではないか。全然話題になってない。それこそ香港のコア・ファンたちが頭から湯気を立てそうなくらい、「少林サッカー」と「カンフーハッスル」の時にはみんながチャウ・シンチーをモテはやしていたのに、なぜか今回の作品はひっそり。しかも、様子がおかしいのはそれだけではない。作品そのものに何となく元気がない。そもそも「ミラクル7号」ってタイトル自体にやる気が感じられない。「少林サッカー」、「カンフーハッスル」ときて「ミラクル7号」…どう見てもインパクトに乏しい。どうやら「E.T.」(1982)あたりのいただきみたいな話だってことは分かるが、「で〜?」とかいう言葉を広告やチラシにでかく出している時点で、宣伝も的を絞り切れていない気がする。前の「カンフーハッスル」の時は「ありえねー」だったっけ? 別にアレがいいとは全く思わないが、元気のあるなし、的を絞り切れてるかどうか…という点で、明らかに今ひとつ活気が感じられない。「で〜?」…っていってるだけじゃコピーにすらなってねえじゃねえか。この映画を見たという報告も、ネット上ではあまり見かけない。そうなってくると、ますます無視できなくなってくるのが僕の悪い性分だ(笑)。そこで何とか時間をつくって映画館に駆け込んだわけだ。

ないよう

 いいトコの子供ばかりが通う名門小学校。しかし、ここに通っている男の子ディッキー(シュー・チャオ)の靴には穴が開いている。どこをどう見たって貧乏人のセガレだ。そのせいか、学校のキザ先生(リー・ションチン)などは不潔だと目の敵にする始末。そんなディッキーを暖かく見守るユエン先生(キティ・チャン)の励ましがあるから何とかもっているものの、他の先生たちも冷たければ金持ちのクソガキ・ジョニー(フアン・レイ)たちもイジメてくる…という四面楚歌状態。穴の開いた靴では体育の授業もできず、今日も今日とて立たされるハメになる始末だ。そんな彼を熱い視線で見つめるのが、ものすごい巨体の持ち主ながら内気な少女マギー(ハン・ヨンホア)。しかしさすがのディッキーも、彼女の優しい心根はありがたく受け取るものの、おつきあいの方は勘弁願いたいというのが正直なところだった。では、何でディッキーのような貧乏人の子がこの名門校に通っているかといえば、日雇い労働者の父親ティー(チャウ・シンチー)が建築現場で身を削るように働いてお金を稼いでくるから。ただし、どう考えても華奢でトシも若くないティーにはキツイ仕事だ。口は悪いが情に厚い現場監督(ラム・ジーチョン)がいるから何とかもっているものの、元々少ない稼ぎがディッキーの教育費でほとんどなくなって、二人の暮らしは文字通りの赤貧生活。崩れかかったバラックに暮らしていて、靴もティーがゴミ捨て場から拾ってくるような状態だ。それもこれも自分が無学なため…と思い詰めるティーは、だから息子には最高の教育を受けさせたいと、いささか背伸びした学校に通わせているといった次第。だが、貧乏はつらい。あまりに寝苦しい夜が続くためなけなしのカネをはたいて扇風機を買ってくれば、悪い業者にダマされて羽根が回らない。貧乏人は割を食うのは世の常。それでもティーは恨むわけでなく、ディッキーにこう教え諭すのだった。「ウソをつくな。ケンカをするな。勉強しろ」…そうすれば尊敬されるようになるというのがティーの考えだが、いいかげんディッキーにとっては耳にタコな言葉だったのも確かだった。やっぱりそこは子供。金持ちのジョニーがオモチャのロボット犬「ミラクル1号」を見せびらかせば、自分だって欲しい。デパートのオモチャ売り場で、ついついティーに駄々をこねることだってある。そんなこんなでスネたディッキーを何とかしようと、今夜もゴミ捨て場に足を運んだティー。そこでディッキー用の靴を物色していたティーは、彼の目の前で巨大なUFOが静かに離陸していったのに気づかない。それでもティーは、UFOが残していった奇妙な緑のボール状のモノは見逃さなかった。ちょうどいいとこいつを家に持ち帰ったティーは、ディッキーにこれを「ミラクル7号」だと渡すのだった。喜び勇んだディッキーは、よせばいいのにこれを学校に持っていったが、案の定ジョニーににらまれたあげく、その手下のデカい図体のガキにぶん投げられる始末。シャツもボロボロの状態で帰ってきたディッキーに、今度はティーからのお説教が待っていた。ところで、例のボール状の「ミラクル7号」には奇妙なスイッチがついていたが、はずみでディッキーはこれを本体に押し込んでしまう。すると例のボールが奇妙な変化を起こすではないか。そんなこととは知らないティーは、ワーワー騒ぐディッキーをこのボールと一緒に暗い押入に押し込んでしまう。するとボールはどんどん変形を遂げて、押入の中に広大なバーチャル宇宙空間を作り上げる。どうやらこのボール、どこか地球外からやってきたものらしい。結局このボール「ミラクル7号」は思いもかけずフサフサの毛を生やした愛くるしい犬状の生物となって現れる。そうなれば腐っても宇宙からの訪問者だ、何でもできるに決まっているだろう。今の学校でのディッキーのトホホな状況も、この「ミラクル7号」否、「ナナちゃん」がスーパーパワーで何とかしてくれるに違いない。夢の中では「ナナちゃん」パワーで勉強もスポーツもヒーロー、憎い先公もやっつけてるご機嫌な自分がいた。朝になって「ナナちゃん」を連れて登校したディッキーは、すっかり「その気」になっていたが…。

みたあと

 他愛ないお話で他愛なく笑おうとしていた僕だったが、映画が始まってすぐに、そんな思惑通りにいかないことに気づく。とにかく主人公のディッキーと父親ティーの置かれた困窮ぶりが、尋常のものではないのだ。まったく笑えない。そういえば、今までもチャウ・シンチー映画の主人公たちは、何だかんだと苦境に立たされていた。嘲笑を浴びたり侮辱されたりという描写も多く、それがあまりにあざといので「娯楽映画として、ここまでコテコテにやるのはいかがなものか?」と思ったりしたものだ。しかし今回の主人公父子の貧困は、明らかに笑いの要素が少ないこともあってシャレにならない。そもそもチャウ・シンチーは、これをシャレで描いていないのではないか。僕は中国・香港映画にもあっちの事情にも明るくはないが、今回の映画が明らかに香港を舞台にしていないことだけはよく分かる。どうも中国本土の新興都市か経済特区みたいなところらしく、街にはどんどん高層ビルが建ち並び、金持ちのガキが通う名門小学校とやらも出来ているような場所なのだ。これはある意味で、今の中国を描く上ではかなり象徴的なことではないだろうか。

こうすれば

 実は笑いに乏しいというのは冒頭だけでなく、今回は全編通してこの状態。ギャグが不発…ではなく、そもそも最初から熱心にギャグを入れようとしていない。チャウ・シンチーといえば、特に近年の大作化した作品群では、CGやVFXを取り入れてバカバカしさをエスカレートさせたようなところが売りだったが、今回はそうしたバカバカしいCG、VFX描写も影を潜めている。そしてひたすら貧しい父子の関係、そして少年と宇宙犬「ミラクル7号」との交流を、ペーソスを込めて描く方向にシフトしている。実は「7号」も思ったほど活躍せず、お話しもそれほどエスカレートしないので、映画は呆気ないほど簡単に終わりを迎えてしまう。このへん、趣向的にも見せ場的にもお話も「これでもか」と詰め込んでコテコテに描ききった「少林サッカー」や「カンフーハッスル」と比べると、「モノ足りない」と思う人は少なくないのではないのだろうか? あの宣伝コピーの「で〜?」という「どう売ったらいいのかサッパリ分からない」風のやる気のなさは、やっぱりこの映画のこうした弱さから来ているのではないだろうか。そういう意味で、今回の映画がいろいろな意味でパワーダウンしていることは否めないように思われる。

みどころ

 しかし、それだから今回の映画がダメかというと、これが実際はそうではないから映画ってのは面白い。アッサリしていて濃さもしつこさにも欠けるものの、それが今回の映画のいいところにもなっている。以前はバカバカしいマンガ描写に費やされていたCGは、今回たった一点…「ミラクル7号」の造形だけに集中して使われている。この可愛さ、ちょっと抜けている愛嬌に、チャウ・シンチーはすべてを賭けているのである。これは普通でない思い切りぶりだ。そして肝心のその「ミラクル7号」の出来映えが、そんなチャウ・シンチーの期待にバッチリ応えているのが素晴らしい。こいつなかなか可愛くて場面をさらうんである。さらに子役のシュー・チャオって子がなかなか達者。しかもこの子が女の子って聞いて二度ビックリ。他の子役たちも女が男、男が女ってキャスティングが行われているらしくて、チャウ・シンチーが何でこんなことやったのかは理解不能ながら感心してしまった。そして子供たちが最初はイジメや陰湿な仕打ちをしていながら、最後は「大人には内緒だからな」と子供同士の連帯をするあたりの展開も、後味がよくって嬉しくなる。甘いと言えば甘いのだが、この映画はそれでいいって気がしてしまうのだ。面白いのは貧しい主人公たちがそれだけを免罪符に完全肯定されるわけでなく、例えばディッキーが勝手に「ミラクル7号」に一方的な期待を抱いてしまい、それが実現されなかったからといって酷い仕打ちをしてしまうあたりにも感心した。陳腐な映画などでは、貧しい主人公たちが「貧しい」だけで善人扱いされるものだが、この映画ではそんなことは許されない。このあたりにチャウ・シンチーの弱者に対するまなざしのリアリティを感じてしまうがいかがだろうか? 例えば「ミラクル7号」の「善行」は、実は誰にも見られていない、知られない状況ですべて行われている。扇風機が何で直ったかを誰も知らないし、チャウ・シンチーの親父がなぜ生き返ったのかも誰も知らない。誰もそれを見ていないし、もっとハッキリ言えば誰もそんなこと気にしていない。そういう意味では、貧しい人々も恩恵を受けたら喜びはするが、その恩恵が誰からどうして受けられたかについては恐ろしいほど無頓着なのだ。そのあたりが、結構過去に辛酸をなめてきたらしいチャウ・シンチーの本音のようにも思えるがどうだろう? 興味深いのは、この映画にはあちこちで拝金主義やエゴイズムが批判されているが、それらは威勢良く糾弾されるというよりは、苦い思いで苦笑気味で描かれている感が強いこと。もっというと、金持ちによる貧乏人への差別みたいなものが描かれながら、その金持ちも階級的に上とは見えない。エゲつなくて下品で、ついこの前まで貧乏だったヤツらにしか見えないのがミソだ。そのあたりに、「現代中国」への彼なりの意見みたいなものもチラついて見えるが、果たしてそのあたりはどうなんだろう? そして、一方でそんな「見返り」や「賞賛」を一切求めない「ミラクル7号」にこそ理想を見いだしているものの、それは人間には難しいのではないかと達観しているような、一種の諦念にも似たものを感じてしまう。ラストは懐かしい大ヒット曲「サニー」で締めくくって「ちょっと泥臭いなぁ」と思わせながら、それってひょっとしたら今回は柄にもなく真面目に意思表示してしまったチャウ・シンチーの、一種の照れか諦めなのかもしれないという気もするのだった。

さいごのひとこと

 笑えないけど愛すべき映画。

 

「イースタン・プロミス」

 Eastern Promises

Date:2008 / 07 / 21

みるまえ

 デビッド・クローネンバーグが新作であのヴィゴ・モーテンセンとまた組んだと聞いて、これはちょっと期待できるかも…と思った。実は、僕はクローネンバーグがモーテンセンと組んだ前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)が結構気に入っているのだ。もっとも、僕はそれまでもクローネンバーグの映画はキライじゃなかった。ホラーやSFの味付けで…もちろんホラーでもあるしSFとしても楽しめるんだけど、そこかそれにとどまらない味わいがある。ズバリ言うと、人が生きていく上での「哀しみ」みたいなものを、ホラーやSFのカタチに託して描いているような気がする。そんなクローネンバーグ作品が好きだった僕だが、世間のクローネンバーグ・ファンはそれとはちょいと違っていて、あのギトギトグチョグチョの生理的嫌悪感がいいと思っているみたい。クローネンバーグもクローネンバーグで、そんなファンにどんどんおもねっているような作品をつくるようになっていった。そんな、どこかわざとグロ感を強調してウケを狙っているかのような「これみよがし」な感じがいただけない気もしていたのだ。ところが「ヒストリー〜」ではそれまでのクローネンバーグ作品とは違って、一見フツーの映画のような感じ。ところどころちゃんと彼らしいグロ感も隠し味に使いながら、もっと大きな視野で映画をつくっている…ある意味では、元々の彼の持ち味である「哀しみ」に立ち返ったような気がした。そこが映画の「格」をグッと上げているような気がしたのだ。そんなクローネンバーグ=モーテンセン・コンビがまた組むとなれば、これは見ないわけにはいかない。今回はロシアン・マフィアの話というから、やっぱり見た目はフツーのサスペンス犯罪映画っぽいんだろう。これはまた絶対見てみたいところだ。

ないよう

 クリスマス間近の夜、ロンドンの下町でのこと。床屋のオヤジが他愛もない世間話をしながら、客の頭の手入れをしている。客はといえば、見るからにパリッとしたいでたちの「いい顔」の男。そこにいささか頼りない若者が帰ってくる。オヤジが世間話でグチっていたのは、この若者のことだったのだ。「よお、若いの」と客の男が声をかけるかかけないかのその時…いきなりオヤジに抑えつけられたこの客ののど元を、若者のカミソリが深々と切り裂いたからたまらない。たちまちあふれ出る鮮血。そしてその夜は、別の場所でも鮮血がほとばしっていた。いきなり局部から激しい出血を起こした妊娠中の若い娘が、病院に担ぎ込まれてきたのだ。助産師アンナ(ナオミ・ワッツ)が彼女の出産に立ち会って赤ん坊は助けたものの、母親は残念ながら息を引き取ってしまう。彼女の身元も名前も分からないため、このままは赤ん坊も名無しの孤児だ。そんなアンナが目に留めたのは、死んだ娘が持っていた日記帳。すべてロシア語で書かれた日記帳に、アンナは不思議な縁を感じずにはいられなかった。なぜなら彼女もまたロシア移民の子供だったから。しかしながら、彼女自身はすでにロシア語が読めなくなっていたのだが…。恋に破れて母(シニード・キューザック)の家に戻ってきた彼女は、偏屈な伯父(イエジー・スコリモフスキー)の無神経な言動に居心地の悪い毎日を送っていた。アンナは何とか死んだ娘の手がかりが得られないかと日記を自宅に持ち帰るが、悪いことにそれを伯父が目にとめてまたぞろアレコレとゴチャゴチャ。そんなこんなですっかりウンザリしてしまうアンナだったが、日記に挟まっていた「トランスシベリアン」というロシアン・レストランのカードに気が付いた。彼女は父親の形見のバイクにまたがって「トランスシベリアン」へ。その店の前に立っていると、ちょうどそこに一台のクルマが横付けされるではないか。クルマから降りてきたのは、チンピラ風情のキリル(ヴァンサン・カッセル)。ただしこの男、いかにも威厳も知恵もなさそうなくせに、それなりの地位にはいるらしい。さらにもう一人クルマから降り立ったのは、黒いスーツに身を固めた寡黙な男ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)。彼は「運転手」という肩書きで、キリルの手下として働いているらしい。どちらも「あっちの世界」のお兄さんたちだ。それはともかく、例の娘の手がかりを得ようと中に入っていったアンナは、そこでレストランの店長セミオン(アーミン・ミューラー=スタール)に相談する。するとこの店長セミオンは「日記を訳してやるから持って来なさい」とやさしく答えてくれるではないか。とりあえず安心したアンナは、帰宅するためにバイクのエンジンをかけようとするが、思うに任せない。そんな彼女に、いかにも「札付き」の観があるニコライが声をかけてきた。そして当惑するアンナをクルマに乗せて、家まで送ってやるという、意外な一面を見せるのだった。しかし「意外な一面」というならニコライだけではない。例のやさしそうな店長セミオンも、実は単なる店長ではなかった。ロンドンの闇に隠然とした力を持つロシアン・マフィア「法の泥棒」の大ボス…それがセミオンの真の姿だったのだ。あのゴロツキそのもののキリルはセミオンの息子で、そのあまりのだらしなさ、頼りなさ、思慮の足りなさに、セミオンは毎日忸怩たる思いを抱いていた。ところが父の心子知らず。キリルはまったく懲りずにバカを繰り返している状況だった。そこに「運転手」として雇われた新顔がニコライというわけだ。そうとは知らずに日記の存在を教えてしまったアンナだが、彼女もすぐに事情に気付くことになる。日記の中味を読んだ伯父が、その内容に驚愕したからだ。いわく「この娘は売春組織にダマされ囚われていた」「レイプされて妊娠した」…というあまりに過酷な内容。伯父はすぐに事情を察して「この件に深入りするな」とアンナに忠告するが、彼女はもはあや後戻りできないところまで深入りしていたのだった…。

みたあと

 クローネンバーグは一皮むけた。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の時にも思ったことだが、今回はさらに強くそう思った、いや、誰しもそう思っているのではないか。それまでの作品系譜と比べると、明らかに「真っ当」になった感が強い。いや、僕は別にホラーやSFなどのジャンルを蔑視してはいない。むしろそっちのジャンルを好んでさえいる。だが「イグジステンズ」(1999)あたりを見ると、何となく描きたいことのためというより「グロ」のための「グロ」描写みたいになってきて、ちょっと不毛な気もしていたのだ。それが前作「ヒストリー〜」では違った。いつもの「ケレン味」を封印して、人間の持つ「暴力性」という普遍性のあるテーマを扱い、「アメリカ社会」やらヘタをすれば「現代社会」そのものまでが透けて見えるような作品に仕上げたのだ。それは今回も同様だといえる。ロンドンの「魔界」とでもいうべきロシアン・マフィアの世界をかい間見せて、そこにうごめく「他に行き場のない人々」を見事に描き出す。これはロンドンに限らず先進諸国の大都市ならばどこでもある問題ではないだろうか。そうした普遍性のある話を、今までのような「いかにもクローネンバーグ」的意匠を封印して、「クセ球」ではなく「直球」で勝負したのが、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」と今回の作品の特徴なのだ。今回は特にロンドンのロシア移民たちの描写にリアリティが充満していて、同様にロンドンにおける移民がらみのダークな世界を描いていた「堕天使のパスポート」(2002)との共通性を強く感じたが、何とこの両作の脚本家は同じスティーブ・ナイトではないか。このへんのリアリティは、おそらく脚本家ナイトの功績ではないか。

みどころ

 そうはいいつつ、やっぱりクローネンバーグならではの味はある。先に“いつもの「ケレン味」を封印”…とは書いたものの、それは決してクローネンバーグが弱くなったとか妥協したとかヌルくなったということではない。何しろ冒頭いきなり床屋の客がノド元ザックリで血がドバドバという、「いかにも」な描写が真っ正面から出てきてドッキリ。この衝撃はクローネンバーグでなけりゃ出せないだろう。主人公ニコライが身元を分からないようにするために遺体の指をチョキチョキと切ってしまうという、グロくもユーモラスな場面もクローネンバーグらしいといえばらしい。そういう意味で圧巻なのが、孤立無援のニコライが全裸のままで、サウナの中で刺客と素手で戦う場面。見ていてヒリヒリと肌が痛くなってくるくらい、緊迫感が伝わってくる秀逸な場面だ。これまでもいろいろ「怖い」描写を作ってきたクローネンバーグだが、この場面はどんなホラーよりも怖い。こうして、今までのクローネンバーグ「らしさ」もちゃんと随所に活かされているのだ。しかも素晴らしいのは…それらがすべて、主人公たちの生きる世界のおぞましさを描くための「手段」となっていること。これらの描写があるからこそ、主人公たちの世界ののっぴきならないヤバさと非人間性、そして甘っちょろくないリアリティが伝わってくる。これらの描写には必然があるのだ。そんなふうに、もはや「グロ」「怖さ」が「目的」化していないところが、クローネンバーグの成熟とはいえないだろうか。元々クローネンバーグのホラーはどこか人の哀しみを描いたものだったが、それが誰にでも分かるようにストレートに打ち出されたのが、ここ最近の2作ということなのだろう。そう考えると、この2作で組んだヴィゴ・モーテンセンの存在がいかに大きかったかが伺われる。今回のモーテンセンは「ヒストリー〜」とはまったく様変わりした印象で、ロシアやくざになりきっているから驚いた。そして、またしても「裏のある」設定。よくよくこの人は「裏のある」役柄が似合うのだろう。ラストは…結局大ボスを倒すことができたのだろうが、この世界に深入りしすぎていた主人公ニコライは、もはやそこから足を洗うことができなくなっていたということなのだろうか。その前に出てくるニコライとアンナの別れの場面…想いを断ち切ろうとするかのようなニコライとアンナの口づけの場面の切なさといい、ニコライの「どうにもならなさ」がにじみ出すように伝わる好場面だ。そして、あくまでリアリズムが基調となっている作品ではあるが、このあたりのヴィゴ・モーテンセンには、ちょっと「ヤクザ映画」みたいな悲壮なヒロイズムが感じられて悪くない。もはや魔界に身を沈めるより他ない主人公といい、ロシアから憧れの西欧に出てきながら悪党に食い物にされた女の子といい、デキが悪いのは確かながら「エライ」親父の存在にスポイルされ続けてきたバカ息子といい…そういったモロモロも含めた「移民」たちの状況そのものからして「どうにもならない」「出口無し」という辛い結末だが、その中で一服の清涼剤といえるのがアンナと赤ん坊。先に「クローネンバーグの成熟」といったが、単に「お先真っ暗」「どうしようもない」「絶望的」な結論で片付けるだけでなく、そこに微かながらも未来への希望を託したあたりが、本当の意味で「クローネンバーグの成熟」といえるのかもしれない。

さいごのひとこと

 このコンビでもう一本お願い。

 

「シューテム・アップ」

 Shoot'em Up

Date:2008 / 07 / 14

みるまえ

 この映画は予告編を劇場で見てシビレた。クライブ・オーウェンの主演作ってだけで「おおっ」と来るのに、その彼が二丁拳銃で撃ちまくる。「シン・シティ」(2005)なども映画としてはあまり好きではないが、あのアブラギッシュなオーウェンの魅力にだけは逆らえなかった。あのダメ映画「エリザベス:ゴールデン・エイジ」(2007)でも、ケイト・ブランシェットのエリザベス女王を魅了するオーウェンにはフェロモンがむンムン。彼が出ているだけで男臭さが充満するところに、今度はアクション映画だ。その暑苦しさを最大限に発揮して、熱い映画を見せてくれることは間違いないはず。そこに悪役は名脇役のポール・ジアマッティとくる。いつも「いい人」の役が多いジアマッティの悪役とは珍しいが、これがまた何となくキレた男っぽいのが嬉しいではないか。オーウェン、ジアマッティでアクション映画なら見ない方がおかしい。しかもそこにモニカ・ベルッチが一枚かむと来ている。これでも見たくない奴っている?

ないよう

 深夜のニューヨークの裏町。スミスという風来坊(クライブ・オーウェン)が、生のニンジンをかじりながらボンヤリとベンチに座っている。そんなスミスの前を、大きなお腹をした妊婦(ラモーナ・プリングル)が慌てて通り過ぎる。さらにそんな彼女を追って柄の悪そうな男が通り過ぎるに至って、傍観者のはずのスミスも知らないふりはできなくなった。案の定、オンボロのビルの中では、例の柄の悪い男が妊婦にナイフをかざすではないか。ところが危機一髪の直前、スミスのあまりにも意外な「武器」がこの男を直撃。男は情けなくも絶命した。しかしこの男には仲間がいた。こいつらはいきなりスミスと妊婦に銃を乱射し始めたが、スミスとてただ者ではない。殺した男の銃を奪ってこいつらと互角…いやいや、明らかに余裕で応戦だ。そんなこんなしているうちに、妊婦が産気づくというアクシデントも発生。スミスは撃ちまくりながら、彼女の赤子を取り上げるという離れ業まで見せる。こうして出産直後の女と生まれたての赤子を抱えて逃げ回るハメになったスミスだが、女は流れ弾に当たって死んでしまった。仕方なく彼女の亡骸をその場に残したスミスは、赤ん坊を抱えて階段を駆け上がり、屋上へと躍り出た。当然、悪漢どももスミスを追う。そんなこんなで銃弾雨あられと降り注ぐ中、スミスは赤ん坊を抱えて隣のビルの屋上へと大ジャンプ。銃弾でビル屋上のネオンサインに粋なメッセージを残したスミスに、憮然とした表情で見送る悪漢たちのボス・ハーツ(ポール・ジアマッティ)も銃弾の返礼をした。これでスミスと赤ん坊は危機から脱したかと思いきや、一体どうした事情かは分からないが、街には他にも例の赤ん坊を狙う輩がウヨウヨ。気配を察して公衆便所に逃げ込んだスミスに、妙なスーツ男が襲いかかる。こいつも絶妙の機転と腕っ節で倒したスミスは、さらに安全な場所を求めて移動する。それは街はずれの女郎屋だ。両手に余る巨乳を活かしたミルク・プレイが売り物の娼婦ドンナ(モニカ・ベルッチ)がスミスのお目当て。元々ドンナの馴染み客だったスミスが彼女を見込んだのは、彼女が不幸な出来事で自らの赤子を失い、溢れる母性本能の持って行き場に困っていたから。そして溢れる母乳も行き場に困っていた。しかしいきなり赤ん坊を連れてきて「面倒みてくれ」と言われても、はいそうですかとはいかない。おまけに「母乳」だけを見込んでの頼みと思ったドンナは、そんなスミスの頼みを拒絶した。そもそも警察には頼めないとまるっきりポリをアテにしていないスミスの口振りでは、この赤ん坊がヤバイのは間違いない。ならば関わりたくないと来るのが相場ではないか。そんなわけでスミスと赤ん坊を叩きだしたドンナだが、ハーツはスミスの立ち入り先を察していた。ハーツたちは女郎屋に殴り込むと、ドンナを脅しまくる。そして何とか彼女の口を割って赤ん坊の居場所を聞き出そうと、今にも荒っぽい手を使うちょうどその時…。「先」を読んでいたスミスが現れ、男たちを片っ端からかたづけるではないか。こうなると、もはやドンナにも選択の余地はない。そもそも赤ん坊の世話をしたいという気持ちは抑えきれなかった。こうして子連れのスミスとドンナはこの場を引き払い、スミスのヤサに引きこもろうということになったが…そもそもこの赤ん坊、一体どういう理由で男たちに狙われているのだろうか…?

みたあと

 面白い! 思った通りだ! 予告編で感じたあの予感はホンモノだった。アブラギッシュなクライブ・オーウェンの魅力が全編に炸裂。この男が生ニンジンをポリポリやっているというのもおかしい。ポール・ジアマッティの小物感ムンムンのボスが、目一杯大物ぶってキレまくってるおかしさもいい。いやぁ、もうこれだけで感想終わらせちゃダメ(笑)? こういう面白い映画って感想は書きにくいなぁ。別に何か人生に得るものなんかない映画だけど、本来、映画はそれでいい。面白くて100点。それ以上何かあってプラス・アルファというもの。「面白いだけ」の映画があっていいし、何度も言うけど映画は本当にそれだけでいいのだ。元々いい味出してる役者が何人も出てきて、彼らがまたまた揃いも揃って気持ちよさそうに思いっきり善玉悪玉を演じていて、派手に活劇をやらかしてくれると来れば気持ちがいいではないか。そして「面白い」以外に言葉がないではないか。これ以上ホントに言うべき言葉がないな。だって見てもらうより他に、この映画の良さを分かってもらう方法がないからねぇ。

みどころ

 誤解がないように言えば、この映画は確かに派手な見せ場の連続だが…ただ派手な見せ場が続けばいいってもんじゃない。この映画の場合はアクションもあの手この手と工夫されていて、しかも出し惜しみなしに見せ場の連続。だから楽しくなるし、見ていてワクワクしてくる。宣伝文句じゃ銃弾何万発とか書いてあるが、そんなことだけじゃ映画は面白くはならない。クライブ・オーウェンが次から次へと「そこまでやる?」とばかりのアクロバティックなアクションを見せるから面白いのだ。この派手な銃撃や非現実的とも言うべきスタイリッシュ性、クライブ・オーウェンが好んで二丁拳銃を撃ちまくるあたりから、「ちょっと前の香港のアクションの再来」などと評する向きもあるようだが…そして、それは決して的はずれな評価だとは思わないが、影響こそ受けているが、ここまで来るとこれは「別物」と思うべきかもしれない。アクションの荒唐無稽さはすでに「香港」を通り越して、もはやマンガの域まで達している。それはアクションの描写もそうだし、物語や設定からしてマンガだ。病弱の大統領候補までが絡んでくる政治的謀略話にまで大風呂敷を広げ、それがまた何とも荒っぽくも無茶な設定で描かれるあたりが、マンガそのものって感じではないか。赤ん坊がヘビメタ・ロックを聴くと泣きやむから、母親の胎内でヘビメタ聴いていたはず…というムチャクチャな推論も相当なものだ。むろんアクションの「マンガ性」も相当なもので、パラシュートをつけての空中での撃ち合いまで飛び出すに至っては、もう大笑いする以外ない。これは決してバカにしているのではなくホメている。これ以上マンガ的表現を映画に忠実に移した作品ってないのではないか。あの暑苦しくて妙に「通」ぶった「シン・シティ」などと比べれば、この映画のスコ〜ンと抜けた爽快感と「問答無用」ぶりが際だつ。あんな「シン・シティ」みたいにいちいち「凝って作ってるだろ?」「センスいいだろ?」的な力みを感じながら見なけりゃならない映画なんて、ハッキリ言ってどこか勘違いしているとしか思えない。「これはどこが面白いかと言うと…」などと、いちいち客への説明を入れる林家三平のギャグみたいなものだ。三平は分かってやっていたが、「シン・シティ」は分かってなくて大マジで偉そうにやってるから始末に負えない。…それはともかく、終盤で手をつぶされたクライブ・オーウェンが意表をついた反撃をみせるあたりは、まるでマカロニ・ウエスタンみたいな趣向でもあり、見ていて本当に嬉しくなる。以前の作品など全く知らないマイケル・デイビス監督。今後が大いに期待できるではないか。

おまけ

 モニカ・ベルッチの小股の切れ上がった姉御ぶりは、彼女の今まで出演したアメリカ映画の中でも随一の絶品ぶり。やっぱり「マトリックス」とか出ちゃいけなかったのか(笑)。それにしても、クライブ・オーウェンとつながったままで銃撃戦(笑)という見せ場はいかにもベルッチらしいが、そこであのビックリするぐらいの巨乳を遺憾なく発揮しているのはともかく、それでいてその一番大事な部分だけはしっかり隠し通した役者魂には恐れ入った。あれだけ見せていて、あそこだけ完璧に隠すってのはスゴイ技術だ(笑)。

さいごのひとこと

 あれだけ弾丸は撃っても乳首は見せないスタイリッシュさ。

 

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