みるまえ
この映画は予告編が気になっていた。やけに楽しげな音楽に乗って、おめでたいC調の田舎議員トム・ハンクスがホロ酔い気分で適当に議員生活をやっていたが、ひょんな事から大金持ちのご婦人ジュリア・ロバーツに煽られて、思ってもみなかったアフガニスタン問題に首を突っ込むことになる。そうなると見て見ぬふりが出来なくなって、CIA職員フィリップ・シーモア・ホフマンを仲間に引き込みつつとんでもない国際政治の渦中に身を投じることになる…。どうやらそんなお話らしい。ハンクス、ロバーツ、シーモア・ホフマンと顔合わせが超豪華なコメディとなれば、これは安心して楽しめる作品ではないか。監督がマイク・ニコルズというのも、この手の作品なら信頼のブランドだ。ニコルズはコメディもうまいし、政治的なネタを扱った作品もいくつかある。ただし気になるのは…アフガニスタンへのアメリカの政治的介入を肯定的に描いていること。むろんソ連の侵攻に対しての…ということなんだろうが、イラクがご存知のようなテイタラクの今日この頃、たとえその時の世界情勢がどうあれ、アメリカの他国への介入を肯定的に描く映画ってのは少々違和感がある気がする。気になる点はこの一点だけ。あとは安心しきっている…というより、見る前からもう見ちゃった気になっているというのが正しいかも。
ないよう
それは一人の男を表彰する式典だった。男の名はチャーリー・ウィルソン(トム・ハンクス)。「たった一人で世界を変えた男」として讃えられているこの男、果たして一体何を成し遂げたのだろうか? それを語るには、1980年に遡らなくてはならない。ラスベガスの破廉恥なパーティー会場で、ストリッパーたちとジャグジーに身を浸しているチャーリー。彼はテキサス州選出の下院議員だが、そう自称してもストリッパーたちは彼の身分を信じない。彼自身も人生享楽型の人物で、酒と美女が大好き。この夜もそんな彼を後ろ盾に映画製作資金を集めようと考えた、映画プロデューサーに誘われてのお楽しみの一夜だった。それでもパーティー会場のテレビがアフガンからのレポートを伝えると、思わず耳をそば立てて画面に見入ってしまうチャーリー。ソ連軍に蹂躙されているアフガニスタンの現状を、心秘かに憂いていた彼だった。そんなわけでワシントンに戻ったチャーリーは、国防歳出小委員会が陰ながらアフガンに加勢している資金がごくわずかだと知るや、それを倍額に増やすように働きかける。それが「チャーリーズ・エンジェル」と異名をとる美女秘書軍団を率いる、彼のささやかな貢献のはずだった。ところがそんな彼の行動は、思わぬ反響を生む。テキサスでも指折りの大金持ちセレブ、ジョアン(ジュリア・ロバーツ)から突然の電話を受け取るハメになったのだ。早速、筆頭秘書のボニー(エイミー・アダムス)を連れて彼女のお屋敷を訪ねるチャーリー。ガチガチの反共主義者であるジョアンに反発を感じるボニーだったが、チャーリーは彼女の権力と潤沢な資金…何より彼女の女としての魅力にまいっていた。ジョアンにアフガン支援・ソ連軍撃退を強く訴えられたチャーリーは、とりあえず彼女の希望を満たすため行動を開始する。まずはジョアンのお膳立てでパキスタンに飛び、ジア・ウル・ハク大統領(オーム・プリー)と会見。単なる表敬訪問のつもりだったチャーリーだが、ここでアフガン支援への米国の及び腰をチクチクやられてすっかり針のムシロ。支援のための資金を倍増させて鼻高々だったチャーリーに、すっかり冷水を浴びせる。おまけに連れて行かれたアフガン難民のキャンプの悲惨な状況を見て、さすがにいつもの楽観主義もすっかり影を潜める。「これはマズイ」と思い知ったチャーリーは、現地のCIA支部を訪ねるが、ここではまったく危機感が感じられない事なかれ主義の様子。これに憤りを感じたチャーリーは、彼の事務所にアフガン問題の専門家を派遣するよう命じる。こうしてやってきたのが、エージェントのガスト(フィリップ・シーモア・ホフマン)。彼は能力はあるがキレやすい性格が災いして、CIAでずっと冷や飯を食わされていた男だった。そんなガストの能力に目を付けたチャーリーは、例のベガスのパーティーでのコカイン摂取を疑われて尻に火がつきながらも、大胆なアフガン支援の大作戦をスタートさせる。アメリカがアフガンを軍事支援しようにも、時は米ソ冷戦下でのこと。表だってやらかしたら冷戦が一気に全面戦争になってしまう。そこでチャーリーが画策したのが、イスラエル、サウジアラビア、エジプト、パキスタンという、本来なら水と油のソリが合わない国々を担ぎ出しての極秘作戦。果たしてその首尾やいかに…?
みたあと
映画が始まってすぐ、ハダカの女たちとジャグジーに漬かる主人公が出てくるや、なるほど思っていた通りにお気楽議員だわい…と納得。あとはこいつがどう「改心」して、アフガン支援に乗り出すかだ…と勝手にお話を先読みし始めた。ところがこの男はジャグジーの中に漬かりながら、意外にもアフガンを扱ったテレビ・ニュースを見たがる。それでは、あながち政治への意識がない頭カラッポ議員というわけでもないのか…と僕が思い始めると、今度はこの男がワシントンに戻るや否や、国防歳出小委員会に働きかけてアフガン資金を倍増させるではないか。何だこれは。政治なんて関心のない、頭の中には美女と酒だけの議員じゃなかったの? もうこの時点で、予告編はまったくこの映画の実際を伝えていないことが分かった。第一、予告編で流れている楽しげな歌は、本編にはただの一瞬だって流れない。ハッキリ言って、チャーリー・ウィルソン議員は予告編で見られるほどバカではない。おめでたくもない。最初からアフガン問題にそれなりの関心を持っている男なのだ。テキサスでも指折りの大金持ち女に煽られるのも、まったく理由のないことではなかった。ちゃんと元からチャーリーというこの男に、そんな下地が存在しているのである。ただ、それでもチャーリー…ならびにアメリカの認識は甘かったと難民キャンプ視察で思い知らされ、それ以降、主人公はアフガン支援に奔走する。このように、予告編から発想するイメージとは、ほぼ180度違う作品として展開するのがまず驚きだ。
こうすれば
全くの脳天気お気楽議員の奇想天外な物語と思いきや、意外にも政治のプロの駆け引き映画に変わって来たこの作品の印象。それはそれで「アリ」かとは思ったが、どうにも見ているうちに引っかかりが出てこないでもない。本来、利害が噛み合うはずもないイスラエル、サウジアラビア、エジプト、パキスタンの連中を、同席させてツルませてしまう強引なやり口は痛快と言えば痛快だが、彼らが最終的にツルむことになった共通のキーワードは「反ソ」。確かにアフガンでの旧ソ連のやり口は感心しなかったものの、今の視点でそれをボコボコにすることを一方の当事者「アメリカ」に完全肯定されても、正直言って何だかすっきりと楽しめない。事あるごとに「ロシア人をブチ殺せ!」と単純に楽しげに言われると、何となく複雑な気分にならないでもないのだ。そもそもテキサス大富豪のジョアンは魅力的な好人物として描かれているが、どうやら生粋のキリスト教原理主義者でガチガチの右翼らしい。そこで唱えられる「アフガンを支援しよう」も、実は本当のところ「ロシア人をブチ殺せ!」でしかないことがミエミエ。実はこの時点で、僕はこの映画の監督マイク・ニコルズの意図も、それに出演したトム・ハンクスやジュリア・ロバーツの真意も疑わしいもののように感じてしまった。何だこれは…レーガン政権下のスタローン映画だってこれほど露骨な事は言わなかったんじゃないの? これはアメリカ右翼映画なのか?
みどころ
ところがそんなこんなで複雑な気持ちで映画を見ていると、終盤近くなって映画は奇妙な「ねじれ」みたいなものを見せ始めてくる。それがフィリップ・シーモア・ホフマン演じるCIAエージェントの引き合いに出す、「老人と少年の話」だ。少年が馬をもらって喜んでいると、老人が「いずれわかるさ」とだけ言う。やがて少年は落馬して骨折をするが、老人はまた「いずれわかるさ」とだけ言う。さらに戦争が起こると少年は骨折のために徴兵を免れ、老人はまたまた「いずれわかるさ」とだけ言う…。この「例え話」の言わんとしていることは、最後の最後に出てくる。結局その結果が廻りまわって、「9・11」という形でアメリカに返ってくる皮肉。アフガンからのソ連軍の撤退を勝ち取った主人公が高揚感に浸っていると、「反ソ」でイケイケの時にはアフガン支援にあれだけ賛同が得られたのに、それが終わったらみんな潮が引いたように反応がニブくなる。結局アメリカはソ連の出鼻をくじきたかっただけで、アフガンなんかどうなっても良かったのだ。そしてその結果は、因果応報で自分たちに返ってくる。「私たちは世界を変えた。しかし、最後にしくじってしまった」…画面に文字で出てくるチャーリーのコメントは、この映画の言いたいことを端的に伝えている。おそらくマイク・ニコルズは、この部分が言いたかったのではないか。だからこの映画の味は、非常にデリケートで一筋縄ではいかない。決して「お気楽な田舎議員が世界を変えた」なんてお話ではない。かなり苦い苦いお話なのである。そしてそれは、決して過去の過ちの記録などではない。どこぞの国を「支援する」などと言えば聞こえはいいが、実際には別の意図があって盛り上がっているだけで、どっちかと言えば他の国をボコりたいというのが本音。そのための大義名分が欲しいだけで、本当はそのどこぞの国なんぞどうなろうと知ったことじゃなかった…な〜んてことは、今だって世界のどこでも実際に起きていることではないのか。そういう意味で、この映画の言わんとしていることはかなり辛いのである。
それでもやっぱり
しかしながら…やっぱりそれでも疑問は残る。例えば前述のジュリア・ロバーツ演じる右翼富豪女を、エイミー・アダムスの秘書に一度ケナさせているのは、一応の作り手の良心なのかもしれない。それでもどう見たってこの映画でのあの富豪女は、肯定的に魅力的に描かれているとしか思えない。僕などの感覚では、どう見たって偏っているアブない人物のはずだが、この作品ではそうは描かれていない。ジュリア・ロバーツを持って来た時点で、どう見ても「肯定的」に描こうとしていると思われても仕方ないだろう。これって主人公も富豪女も実在の人物でしかも存命中だから、それに配慮して「魅力的」に描かなければならなかったのか? やったことも「一見肯定的」に描かなければならなかったのか? それともマイク・ニコルズ以下スタッフ・キャストの面々が、元々心底から彼らに肯定的な考えを持っていたのだろうか。このあたりは、どっちにもとれるのでぜひ真意を確かめたい気持ちだ。だから見ていてどうしてもスッキリしない。そもそもチャーリーが「しくじった」のは最後だけなのだろうか? 映画では必死にアフガンに学校を作ろうとしていたチャーリーだったが、そんな事で果たして「9・11」は回避できたのか? 大体、大国の論理で人の国に介入しようとすること自体が、傲慢だと思わないのだろうか。他国を手玉にとるその事自体に問題があると、一度でも考えてみたことがないのだろうか? 確かにソ連は悪い。だがアメリカの他国への介入も、実はそれとどこも変わりはしない。しかし…どうもマイク・ニコルズは、最後は「しくじった」もののそこまでのアフガンへの介入自体は正しかったと思っているらしいのだ。いつも知的で誠実な映画作りの姿勢を見せていて、政治にもそれなりのバランス感覚を持っているように見えるニコルズ。そんな彼にして、「アメリカは自由と民主主義の申し子として、世界のどんな国にも正義を行使すべき」などと考えているとしたら、この国の人たちの思い上がりには計り知れないものがある気がしてくる。だからどうしても、見た後にイヤ〜な後味が残るのである。
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