新作映画1000本ノック 2008年6月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「Mr.ブルックス/完璧なる殺人鬼」 「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」 「モンゴル」

 

「Mr.ブルックス/完璧なる殺人鬼」

 Charlie Wilson's War

Date:2008 / 06 / 16

みるまえ

 この映画の存在は公開前日の新聞に掲載された、ちっちゃい広告で初めて知った。久々ケビン・コスナー主演のサイコ・キラーものらしい。コスナーが「JFK」(1991)ばりにメガネをかけた写真が載っているところを見ると、彼がFBI捜査官でもやるのだろうか。ともかくコスナーとサイコ・サスペンスという組み合わせもさることながら、その扱いの小ささに唖然とした。しかも上映館が、都内でも指折りの…上映即ビデオ発売の運命の作品ばかり公開するミニシアター。この作品への配給会社の期待のほどが分かるではないか。しかし、それも当然と言えば当然、最近のコスナーってどう考えても落ち目だ。それでも題材が面白そうなので、何とか見てみたいとは思った僕だった。しかし仕事が忙しいこともあって、見たいと思っても見に行けない。こうしてこの映画の公開第一週があっという間に過ぎてしまった。すると…こんな映画に早くも敏感に反応したネット上の映画ファンの人たちが、いち早く見て感想を発信し始めるではないか。それによれば…何とコスナーは捜査側ではなく犯人…殺人鬼の役だという。落ち目にはなったと思ったが、まさかそこまでやるとは。しかもウィリアム・ハートが共演と聞いて二度ビックリ。これは何としても見なくてはなるまい。実はコスナーって落ち目になってからの作品こそ粒ぞろいで、近年でも「コーリング」(2002)、「ワイルド・レンジ/最後の銃撃」(2003)が地味ながら出色の出来だった。前作「守護神」(2006)はその大げさなタイトルに辟易して見に行かなかったものの(邦題の横のほうに原題名でもないのに「SHU-GO-SHIN」と書いてあったのが恥ずかしかったってこともある)、実は落ち目になってからのコスナーは、僕にとってなぜかハズシなしなのだ(笑)。そこで「これは絶対に見なければ」…と居並ぶ話題作を横目にこの作品に飛びついた次第。

ないよう

 「もう私を放っておいてくれ。そそのかさないでくれ」「堅いことを言うな、ちょっと羽根を伸ばすだけだよ」「この2年、やっと抑えつけてきたんだ。もう私を構わないでくれ」…そんな切羽詰まったやりとりが、どこからともなく聞こえてくる。ここは豪華なホテルのトイレ。タキシードに身を固めたメガネの紳士、ミスター・ブルックス(ケビン・コスナー)が、火照った顔を冷ますように顔を洗っている。それにしても先ほどのあのやりとりは…。トイレを出たブルックスは、何もなかったかのように壇上に上がり、宴会場の一同の拍手を一身に集める。この夜は地元の名士ブルックスの、街への長年に渡る多大な貢献を表彰する集い。そこで列席者の賞賛を浴びるブルックスを、美しい妻エマ(マージ・ヘルゲンバーガー)が誇らしげに見上げる。帰宅途中のクルマの中でも、ブルックスはエマと何気ない会話を続けていたが、実はその内面では人知れぬ葛藤が…。「頼むよ、ちょっとでいいんだ。あそこへ寄って行こうぜ。たまにはお楽しみもいいだろう?」…ブルックスには見える。彼が運転するクルマの後部座席に座るあの男…マーシャル(ウィリアム・ハート)の姿が。そんなマーシャルに憮然とした表情のブルックス。実はマーシャルはブルックスにしか見えない、彼の「分身」ともいえる人物なのだ。だから隣に座る妻のエマも、マーシャルの存在には気づいていない。「お願いだ、ちょっと寄っていこう」…そんなマーシャルの「誘い」に頑強に首を横に振るブルックスだったが、ついには妻のエマにこう話しかけるのだった。「なぁ、ちょっと途中で寄っていかないか?」…妻は帰り道の途中で甘いモノでも食べようという誘いだと素直に受け取ったが、ブルックス(とマーシャル)の狙いは違っていた。野外のカフェでアイスを食べながら妻と話をしていても、その目は頭上のビルのダンス教室の窓辺に吸い寄せられる。帰宅後に妻には夜更かしをすると言って自室に引っ込むと、そこに備えてあった特別な衣装に身を固め、こっそりと家を出ていくブルックスだった。その行き先は、例のダンス教室に通っていた男女のアパート。妻とアイスを食べながら、こっそり目をつけていた二人だった。部屋に忍び込んで寝室を覗くと、そこでは二人が組んずほぐれずの真っ最中。ビニール袋で完全防備した銃を構え、ブルックスはゆっくり都心室に入る。そんなブルックスを見て、ベッドの二人が驚かないわけがない。慌てて悲鳴を上げようとする女の額にまず一撃。次いで男にも一撃。あっという間にブルックスは二人を葬り去った。完璧なまでの犯行だ。ブルックスは殺すことに喜びを感じるのか、それとも完璧な犯行を遂行することに喜びを感じるのか、たぶん両方だろう。ところがうかつにも大きな窓にカーテンが開いたまま。「オマエらしくないな、随分といいかげんじゃないか。見られていたらどうする」と、当然その場に「同行」していたマーシャルが言う。だがブルックスは憮然と「内心そうなって欲しいと思っていたのかもな」とつぶやいた。さて翌朝のこと、この殺しは警察の知るところとなり、女刑事アトウッド(デミ・ムーア)が相棒ホーキンス(ルーベン・サンティアゴ=ハドソン)を連れて現場に駆けつける。すると、二人は殺された時と違うポーズでからみ合い、枕元の電気スタンドには女の血染めの指紋が残されていた。この「芝居がかった」演出…これぞ神出鬼没のシリアルキラー、ポートランドの街を震撼させた「指紋の殺人鬼」の犯行のしるしではないか。この2年ほど鳴りを潜めていたので安心していたのに、また戻ってきたのか。アトウッド刑事は険しい表情で現場を見つめるうち、思わず部屋の大きな窓に目をつける。発見された時はカーテンが閉まっていたというこの部屋、しかし彼女には、犯行当夜このカーテンが開いていたことについて、なぜか確信に近いモノを感じていた。そんなアトウッド刑事はホストかヒモみたいな年下亭主との離婚調停がこじれにこじれ、鬱屈したモノを抱えながら捜査に従事していた。そんな思いの丈をブチまけるように、気乗り薄の相棒のグチをよそに「指紋の殺人鬼」追跡を続けるアトウッド刑事。一方、2年間の封印を解いて「現場」に復帰したブルックスには、新たな心配事が舞い込む。大学にやったはずの娘ジェーン(ダニエル・パナベイカー)が、なぜか大学を辞めて戻ってきてしまったのだ。直接家に戻ると母親に怒られるから…と、ブルックスを会社に訪ねてくるジェーン。果ては「自分がパパの仕事の跡取りになる」などとテメエ勝手な都合のいいヨタ話を持ちかけるジェーンに、何か胡散臭いモノを感じていたがブルックスだが、娘を愛するが故にあえて触れなかった。だがそんなジェーンの次に社長室に面会に来た男は、まさにブルックスの悪夢となり得る人物だった。その若い男ミスター・スミス(デイン・クック)が差し出したのは、何枚もの写真の束。このスミスこそ、例のあの晩に犯行現場の窓から、ブルックスのやった一部始終を見ていた男だった。しかしこの男はブルックスを警察に突き出すつもりもないし、カネをゆすろうという気もないようだった。では…一体何しに来たのか? 何とこの男、有名な「指紋の殺人鬼」の犯行実演を見学したいという、とんでもない事を要求してきた。ある意味では警察に通報したり恐喝したりするよりタチの悪い男だが、マーシャルともども「それならそれで」この男を付き合わせることに決めるあたりブルックスの肝っ玉も太い。そうは言っても、その夜しっかりスミスのアパートの部屋に忍び込み、敵の「キンタマ」をしっかり握っておくあたり、ブルックスはさすがメンコの数が違っている。ところがブルックスの心配の種はそれで尽きなかった。何とか母に泣きを入れて家で暮らすことになったジェーンだが、何と妊娠しているというではないか。どうも「腹にイチモツ」あったような気がしたわけだが、そんなジェーンについてマーシャルは「まだ何か隠しているぜ」と直言する。確かにブルックスも、そのイヤな予感は感じていた。そんなこんなのブルックスの自宅に、突然警察が大挙して押し掛ける…。

みたあと

 いきなりコスナー扮するブルックスが自らの分身であるマーシャルに話しかけるのを見て、「なるほど、ウィリアム・ハートはこういう役だったのか!」と思わず膝を打った。もちろんコスナーが殺人鬼というのもかなり興味深いが、そこに内面の役としてハートを置くことで、この男の邪悪さがさらに補強されている。これはうまい設定だ。しかもハートは、ここでも「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)での極悪ヤクザを彷彿とするワルぶりを見せつける。コレは見応えがあるよ。最初はケビン・コスナーもジリ貧の末に悪役に手を出したか…というイメージがぬぐいきれず、これで悪いイメージがついちゃったらスターとしても失墜だろうと思っていた。例えは悪いが、ナイーブな青春スターのアンソニー・パーキンスが、「サイコ」(1960)の後に二度とマトモな役ができなくなっちゃったのに似ている。しかしここでのケビン・コスナーは、むしろこれまでの彼のイメージに忠実過ぎるくらい忠実だ。蝶ネクタイを丁寧に締めて、実直に誠実に生きている。妻も愛しているし神経質なくらい善良な暮らしを守っている。そして善良だからこそ、自分をそそのかしてくるマーシャル=自分の本当の願望…に対して、「もうやりたくない」と葛藤するのだ。逆に言うと、この役は「アンタッチャブル」(1987)で正義と秩序の人を演じたコスナーだからこそやれた役でもある。その落差があるからこそ、このキャラクターには深みと面白さがあるのだ。

みどころ

 もっと驚いたことに、意外にもいい味出していたのがデミ・ムーア。「セント・エルモス・ファイアー」(1985)などで出てきた時の彼女はそれなりに好感が持てたが、彼女が「ゴースト/ニューヨークの幻」(1990)で第一線のスターになった時には、「それほどのもんじゃないだろ」って思ったのが正直なところ。だからいつの間にか落ち目になっちゃったのにも別に驚きはしない。「素顔のままで」(1996)でサイボーグみたいな肉体さらしてストリッパーまで演じちゃった後は、もう「チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル」(2003)みたいにイロモノの役しかできないだろうと思っていた。だから今回、ちゃんとマトモな役を演じているのにビックリ。彼女にこの役を持っていったプロデューサーの度胸にも二度ビックリだ。そういえば「ボビー」(2006)でも、因縁深いエミリオ・エステベスと「捨て身の共演」をしていたが、この映画でもいかにも安っぽい年下男に引っかかった女刑事という、こう言っちゃ申し訳ないがご本人の荒れた生活を彷彿とさせる役どころ(笑)。コレが妙にハマっているのである。そしてハマっていると言えばやっぱり主演のコスナーで、悪党キャラは分身役のウィリアム・ハートに任せたとはいえ、ラストにニヤリとするあたりの底冷えした不気味さは大したものだ。この映画はオモテには誠実な顔を持った男の邪悪な内面との葛藤を描いたシリアスな作品と見えて、実は終盤にいくに従って、そんなコスナーの「悪」がまんまと勝利するアンチ・ヒーローものの痛快さが勝ってくる。ラストのニヤリ…はそんなこの映画の面白さをハッキリと感じさせる瞬間だ。しかもこの映画はそんな一方で、主人公が自分の娘に「殺人鬼としての血が受け継がれている」と実感していくドラマも進行している。それはそれで主人公にとってシビアな設定だが…その一方で何となく笑っちゃう設定でもある。アリバイ工作などが稚拙な娘のために父が一肌脱いでやるくだりなど、よくよく考えてみるとナンセンスの極地だ。しかも父としての主人公は、自分が助けてやった「後継者」である娘に寝首をかかれる可能性も考えざるを得ない。そんなこんなでブラックユーモアの味も漂うこの作品は、なかなか一筋縄ではいかない作品だ。「スターマン」(1984)、「スタンド・バイ・ミー」(1986)の脚本も手がけたというブルース・A・エバンスという監督、なかなかクセモノなのではないか。

さいごのひとこと

 コスナーとデミ・ムーアの敗者復活戦。

 

「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

 Charlie Wilson's War

Date:2008 / 06 / 09

みるまえ

 この映画は予告編が気になっていた。やけに楽しげな音楽に乗って、おめでたいC調の田舎議員トム・ハンクスがホロ酔い気分で適当に議員生活をやっていたが、ひょんな事から大金持ちのご婦人ジュリア・ロバーツに煽られて、思ってもみなかったアフガニスタン問題に首を突っ込むことになる。そうなると見て見ぬふりが出来なくなって、CIA職員フィリップ・シーモア・ホフマンを仲間に引き込みつつとんでもない国際政治の渦中に身を投じることになる…。どうやらそんなお話らしい。ハンクス、ロバーツ、シーモア・ホフマンと顔合わせが超豪華なコメディとなれば、これは安心して楽しめる作品ではないか。監督がマイク・ニコルズというのも、この手の作品なら信頼のブランドだ。ニコルズはコメディもうまいし、政治的なネタを扱った作品もいくつかある。ただし気になるのは…アフガニスタンへのアメリカの政治的介入を肯定的に描いていること。むろんソ連の侵攻に対しての…ということなんだろうが、イラクがご存知のようなテイタラクの今日この頃、たとえその時の世界情勢がどうあれ、アメリカの他国への介入を肯定的に描く映画ってのは少々違和感がある気がする。気になる点はこの一点だけ。あとは安心しきっている…というより、見る前からもう見ちゃった気になっているというのが正しいかも。

ないよう

 それは一人の男を表彰する式典だった。男の名はチャーリー・ウィルソン(トム・ハンクス)。「たった一人で世界を変えた男」として讃えられているこの男、果たして一体何を成し遂げたのだろうか? それを語るには、1980年に遡らなくてはならない。ラスベガスの破廉恥なパーティー会場で、ストリッパーたちとジャグジーに身を浸しているチャーリー。彼はテキサス州選出の下院議員だが、そう自称してもストリッパーたちは彼の身分を信じない。彼自身も人生享楽型の人物で、酒と美女が大好き。この夜もそんな彼を後ろ盾に映画製作資金を集めようと考えた、映画プロデューサーに誘われてのお楽しみの一夜だった。それでもパーティー会場のテレビがアフガンからのレポートを伝えると、思わず耳をそば立てて画面に見入ってしまうチャーリー。ソ連軍に蹂躙されているアフガニスタンの現状を、心秘かに憂いていた彼だった。そんなわけでワシントンに戻ったチャーリーは、国防歳出小委員会が陰ながらアフガンに加勢している資金がごくわずかだと知るや、それを倍額に増やすように働きかける。それが「チャーリーズ・エンジェル」と異名をとる美女秘書軍団を率いる、彼のささやかな貢献のはずだった。ところがそんな彼の行動は、思わぬ反響を生む。テキサスでも指折りの大金持ちセレブ、ジョアン(ジュリア・ロバーツ)から突然の電話を受け取るハメになったのだ。早速、筆頭秘書のボニー(エイミー・アダムス)を連れて彼女のお屋敷を訪ねるチャーリー。ガチガチの反共主義者であるジョアンに反発を感じるボニーだったが、チャーリーは彼女の権力と潤沢な資金…何より彼女の女としての魅力にまいっていた。ジョアンにアフガン支援・ソ連軍撃退を強く訴えられたチャーリーは、とりあえず彼女の希望を満たすため行動を開始する。まずはジョアンのお膳立てでパキスタンに飛び、ジア・ウル・ハク大統領(オーム・プリー)と会見。単なる表敬訪問のつもりだったチャーリーだが、ここでアフガン支援への米国の及び腰をチクチクやられてすっかり針のムシロ。支援のための資金を倍増させて鼻高々だったチャーリーに、すっかり冷水を浴びせる。おまけに連れて行かれたアフガン難民のキャンプの悲惨な状況を見て、さすがにいつもの楽観主義もすっかり影を潜める。「これはマズイ」と思い知ったチャーリーは、現地のCIA支部を訪ねるが、ここではまったく危機感が感じられない事なかれ主義の様子。これに憤りを感じたチャーリーは、彼の事務所にアフガン問題の専門家を派遣するよう命じる。こうしてやってきたのが、エージェントのガスト(フィリップ・シーモア・ホフマン)。彼は能力はあるがキレやすい性格が災いして、CIAでずっと冷や飯を食わされていた男だった。そんなガストの能力に目を付けたチャーリーは、例のベガスのパーティーでのコカイン摂取を疑われて尻に火がつきながらも、大胆なアフガン支援の大作戦をスタートさせる。アメリカがアフガンを軍事支援しようにも、時は米ソ冷戦下でのこと。表だってやらかしたら冷戦が一気に全面戦争になってしまう。そこでチャーリーが画策したのが、イスラエル、サウジアラビア、エジプト、パキスタンという、本来なら水と油のソリが合わない国々を担ぎ出しての極秘作戦。果たしてその首尾やいかに…?

みたあと

 映画が始まってすぐ、ハダカの女たちとジャグジーに漬かる主人公が出てくるや、なるほど思っていた通りにお気楽議員だわい…と納得。あとはこいつがどう「改心」して、アフガン支援に乗り出すかだ…と勝手にお話を先読みし始めた。ところがこの男はジャグジーの中に漬かりながら、意外にもアフガンを扱ったテレビ・ニュースを見たがる。それでは、あながち政治への意識がない頭カラッポ議員というわけでもないのか…と僕が思い始めると、今度はこの男がワシントンに戻るや否や、国防歳出小委員会に働きかけてアフガン資金を倍増させるではないか。何だこれは。政治なんて関心のない、頭の中には美女と酒だけの議員じゃなかったの? もうこの時点で、予告編はまったくこの映画の実際を伝えていないことが分かった。第一、予告編で流れている楽しげな歌は、本編にはただの一瞬だって流れない。ハッキリ言って、チャーリー・ウィルソン議員は予告編で見られるほどバカではない。おめでたくもない。最初からアフガン問題にそれなりの関心を持っている男なのだ。テキサスでも指折りの大金持ち女に煽られるのも、まったく理由のないことではなかった。ちゃんと元からチャーリーというこの男に、そんな下地が存在しているのである。ただ、それでもチャーリー…ならびにアメリカの認識は甘かったと難民キャンプ視察で思い知らされ、それ以降、主人公はアフガン支援に奔走する。このように、予告編から発想するイメージとは、ほぼ180度違う作品として展開するのがまず驚きだ。

こうすれば

 全くの脳天気お気楽議員の奇想天外な物語と思いきや、意外にも政治のプロの駆け引き映画に変わって来たこの作品の印象。それはそれで「アリ」かとは思ったが、どうにも見ているうちに引っかかりが出てこないでもない。本来、利害が噛み合うはずもないイスラエル、サウジアラビア、エジプト、パキスタンの連中を、同席させてツルませてしまう強引なやり口は痛快と言えば痛快だが、彼らが最終的にツルむことになった共通のキーワードは「反ソ」。確かにアフガンでの旧ソ連のやり口は感心しなかったものの、今の視点でそれをボコボコにすることを一方の当事者「アメリカ」に完全肯定されても、正直言って何だかすっきりと楽しめない。事あるごとに「ロシア人をブチ殺せ!」と単純に楽しげに言われると、何となく複雑な気分にならないでもないのだ。そもそもテキサス大富豪のジョアンは魅力的な好人物として描かれているが、どうやら生粋のキリスト教原理主義者でガチガチの右翼らしい。そこで唱えられる「アフガンを支援しよう」も、実は本当のところ「ロシア人をブチ殺せ!」でしかないことがミエミエ。実はこの時点で、僕はこの映画の監督マイク・ニコルズの意図も、それに出演したトム・ハンクスやジュリア・ロバーツの真意も疑わしいもののように感じてしまった。何だこれは…レーガン政権下のスタローン映画だってこれほど露骨な事は言わなかったんじゃないの? これはアメリカ右翼映画なのか?

みどころ

 ところがそんなこんなで複雑な気持ちで映画を見ていると、終盤近くなって映画は奇妙な「ねじれ」みたいなものを見せ始めてくる。それがフィリップ・シーモア・ホフマン演じるCIAエージェントの引き合いに出す、「老人と少年の話」だ。少年が馬をもらって喜んでいると、老人が「いずれわかるさ」とだけ言う。やがて少年は落馬して骨折をするが、老人はまた「いずれわかるさ」とだけ言う。さらに戦争が起こると少年は骨折のために徴兵を免れ、老人はまたまた「いずれわかるさ」とだけ言う…。この「例え話」の言わんとしていることは、最後の最後に出てくる。結局その結果が廻りまわって、「9・11」という形でアメリカに返ってくる皮肉。アフガンからのソ連軍の撤退を勝ち取った主人公が高揚感に浸っていると、「反ソ」でイケイケの時にはアフガン支援にあれだけ賛同が得られたのに、それが終わったらみんな潮が引いたように反応がニブくなる。結局アメリカはソ連の出鼻をくじきたかっただけで、アフガンなんかどうなっても良かったのだ。そしてその結果は、因果応報で自分たちに返ってくる。「私たちは世界を変えた。しかし、最後にしくじってしまった」…画面に文字で出てくるチャーリーのコメントは、この映画の言いたいことを端的に伝えている。おそらくマイク・ニコルズは、この部分が言いたかったのではないか。だからこの映画の味は、非常にデリケートで一筋縄ではいかない。決して「お気楽な田舎議員が世界を変えた」なんてお話ではない。かなり苦い苦いお話なのである。そしてそれは、決して過去の過ちの記録などではない。どこぞの国を「支援する」などと言えば聞こえはいいが、実際には別の意図があって盛り上がっているだけで、どっちかと言えば他の国をボコりたいというのが本音。そのための大義名分が欲しいだけで、本当はそのどこぞの国なんぞどうなろうと知ったことじゃなかった…な〜んてことは、今だって世界のどこでも実際に起きていることではないのか。そういう意味で、この映画の言わんとしていることはかなり辛いのである。

それでもやっぱり

 しかしながら…やっぱりそれでも疑問は残る。例えば前述のジュリア・ロバーツ演じる右翼富豪女を、エイミー・アダムスの秘書に一度ケナさせているのは、一応の作り手の良心なのかもしれない。それでもどう見たってこの映画でのあの富豪女は、肯定的に魅力的に描かれているとしか思えない。僕などの感覚では、どう見たって偏っているアブない人物のはずだが、この作品ではそうは描かれていない。ジュリア・ロバーツを持って来た時点で、どう見ても「肯定的」に描こうとしていると思われても仕方ないだろう。これって主人公も富豪女も実在の人物でしかも存命中だから、それに配慮して「魅力的」に描かなければならなかったのか? やったことも「一見肯定的」に描かなければならなかったのか? それともマイク・ニコルズ以下スタッフ・キャストの面々が、元々心底から彼らに肯定的な考えを持っていたのだろうか。このあたりは、どっちにもとれるのでぜひ真意を確かめたい気持ちだ。だから見ていてどうしてもスッキリしない。そもそもチャーリーが「しくじった」のは最後だけなのだろうか? 映画では必死にアフガンに学校を作ろうとしていたチャーリーだったが、そんな事で果たして「9・11」は回避できたのか? 大体、大国の論理で人の国に介入しようとすること自体が、傲慢だと思わないのだろうか。他国を手玉にとるその事自体に問題があると、一度でも考えてみたことがないのだろうか? 確かにソ連は悪い。だがアメリカの他国への介入も、実はそれとどこも変わりはしない。しかし…どうもマイク・ニコルズは、最後は「しくじった」もののそこまでのアフガンへの介入自体は正しかったと思っているらしいのだ。いつも知的で誠実な映画作りの姿勢を見せていて、政治にもそれなりのバランス感覚を持っているように見えるニコルズ。そんな彼にして、「アメリカは自由と民主主義の申し子として、世界のどんな国にも正義を行使すべき」などと考えているとしたら、この国の人たちの思い上がりには計り知れないものがある気がしてくる。だからどうしても、見た後にイヤ〜な後味が残るのである。

さいごのひとこと

 チャーリーの…だろうと何だろうとウォーはウンザリ。

 

「モンゴル」

 Mongol

Date:2008 / 06 / 03

みるまえ

 今年のオスカーは俳優組合のストライキばかり話題になって、作品そのものはいささか華やかさや派手さに乏しいものだったのは確か。そんな中、なぜかこの日本だけは今回のオスカー授賞式に熱くなっていたわけだが、その理由が何を隠そうこの「モンゴル」。カザフスタン代表として外国語映画賞にノミネートされていたのだが、そこでチンギス・ハーンを演じていたのが、誰あろう日本の浅野忠信だというから大騒ぎ。日本では、まるでこの「モンゴル」がオスカーの最有力作品みたいな騒ぎようだった。まぁ、それって渡辺謙の時も菊池凛子の時もそうだったんで、今始まったことではない。しかし、何しろ今までの浅野という俳優のありようが、およそオスカーやハリウッドに似つかわしいものではなかった。それより海外作品でチンギス・ハーンをやろうという男に思えなかった。そのへんの意外さ…というより違和感のほうが大きかったので、僕としては応援するより戸惑う気持ちのほうが強かったわけだ。それより何より、僕にとってこの映画の驚きは、監督がロシアのセルゲイ・ボドロフだということだった。ボドロフの映画は「モスクワ・天使のいない夜」(1992)を見たのが最初だったか。それを見た頃はロシアにも新しい感覚の映画作家が出てきたわいと思ったものの、それほどビックリはしなかった。ところがこの人、その後はアメリカ映画に関わってみたりフランス映画に関わりを持ったりと東奔西走。それだけでもバイタリティ溢れる映画人だと感心させられるが、僕がこの人のことを鮮烈に記憶に焼き付けたのは、監督作「コーカサスの虜」(1996)が抜群に素晴らしかったから。以来、この人の動向がすごく気になったものの、肝心のこの人の活動が鈍くなっちゃったので、半ば忘れていた状態だった。その後、彼の作品で主役を演じていた息子さんセルゲイ・ボドロフ・ジュニアが亡くなったりしたこともあって、セルゲイ・ボドロフの動向はあまり伝わってこなくなった。そんなこんなで、僕も彼の名を忘れかけていたのだ。そんなボドロフがオスカーという華々しい話題を伴って、僕らの前に帰ってきた。それも、なぜかモンゴルを舞台にしたチンギス・ハーンの物語。しかも今回パートナーに選んだのが、日本の浅野忠信というから何とも不思議だ。しかも浅野といえば、これが海外出演の最初というわけではない。実は彼にはウォン・カーウァイと撮った変な短編とかクリストファー・ドイルの初監督作とか、タイで撮った「世界で最後のふたり」(2004)などがすでにある。しかしウォン・カーウァイの短編は何て読むんだか分からない、田舎の映研だって付けないようなタイトルの青臭い自主映画丸出し臭い作品だったし、クリストファー・ドイルの初監督作なんて「パリ、ジュテーム」(2006)での奴の短編の無惨な結果を見れば、その出来栄えが容易に想像できるだろう。おまけに「世界で最後のふたり」に至っては、完全にマスターベーションみたいな出来損ない映画だった。海外に出て行った時の浅野は、どれもこれも自己満足としか思えない映画ばかりに出ているのである。これはヤバイのではないか。何とも不安な気分を味わいながら、この作品の公開を待った僕だった。残念ながらオスカー受賞は実現しなかったが、肝心の「モンゴル」はこの話題もあって日本でも公開。僕はタイミングが合わずになかなか劇場に行くことが出来なかったが、ようやく公開終了ギリギリになって滑り込むことができた次第。果たしてその出来栄えは?

ないよう

 それは1192年のこと。長髪、ヒゲぼうぼうのモンゴル男テムジン(浅野忠信)は、異国・西夏(タングート)の地で虜囚の身となっていた。砦の壁面につくられた狭苦しい牢獄につながれ、見世物のような扱いを受けるテムジン。その数奇な運命は、彼がまだ少年の頃に遡る。それは少年テムジン(オドニャム・オドスレン)が父イェスゲイ(バ・セン)に連れられ、花嫁を選ぶ旅に出た時のことだ。部族の頭領であるイェスゲイはかつてメルキト族から女を略奪し、自分の妻にした過去があった。それがテムジンの母だ。しかし、そのおかげでイェスゲイの部族とメルキト族とは敵対関係となり、常に戦いの危険にさらされることになった。そこで息子のテムジンの妻をメルキト族から選ぶことにして、何とか両部族間の融和を図ろうというわけだ。しかし道中の途中で立ち寄った村で、テムジンはある少女と出会うことになる。その少女ボルテ(バヤルトセトセグ・エルデネバット)はテムジンに、「あなたは私を妻に選ぶべきよ」と語るのだった。この言葉に強烈な印象を受けたテムジンは、結局彼女を許婚に選んでしまう。これで和平の話が御破算になったイェスゲイだったが、それでも彼はテムジンを責めはしなかった。それどころか、「オマエは正しい。男は自分で妻を選ばねばダメだ」…とテムジンを励ますのだった。しかしその帰路、テムジンの運命は暗転する。別の部族と鉢合わせしたイェスゲイたち一行。ここでこの部族の長と杯を交わしたのがまずかった。毒を盛られたイェスゲイは、帰路の途中で息絶えた。すると、それまで従順にイェスゲイに仕えていた側近タルグタイ(アマドゥ・ママダコフ)が、手の平を返したように態度を変える。イェスゲイの家畜を奪い家財をはぎ取り、自らを頭領と名乗って権力をわがモノにしてしまう。復讐を恐れてテムジンを殺そうとするタルグタイだったが、「まだ子供なのに」と罵るテムジンの母親の手前、何とか思いとどまる。しかし、冬になったら殺しに来る…と捨て台詞を吐いて去っていくのだった。そんなわけで、家を離れて一人逃亡を続けることになるテムジン。ある日、彼は凍った湖の氷を踏み抜き、危うく命を落としかける。そんなテムジンを救ったのは、また別の部族のたくましい少年ジャムカ(アマルボルド・ツブシンバイヤー)。彼は弟が止めるのも聞かず、テムジンと義兄弟「安達=アンダ」の杯を交わす。しかし運命は過酷だった。タルグタイの追跡は執拗で、テムジンは何年も逃げ回る日々を送らざるを得なかった。いつしか立派な青年となったテムジンは母親と妹の暮らすわが家に戻り、婚約の日からずっと便りもないままにしていた婚約者ボルテを迎えに行くことにする。あれから成長したボルテ(クーラン・チュラン)も、じっと彼のことを待っていた。こうして二人だけの暮らしを始めたテムジンとボルテだったが、そんな彼のことを追いかける一団が現れる。それはテムジンの父に女を奪われた、因縁のメルキト族の連中だった。彼らは結ばれたテムジンとボルテの元に現れ、多勢に無勢で襲いかかってくる。必死に逃げるテムジンとボルテだが、メルキト族の放った矢がテムジンに深手を負わせる。傷ついた彼を乗せて馬が去っていくのを見定めたボルテは、自らメルキト族の手中に落ちることでテムジンを守るのだった。こうして娶ったばかりの新妻を奪われたテムジンは、彼女の奪還をはかるべく成長したジャムカ(スン・ホンレイ)の元を訪ねる。テムジンは何とか手勢を集めたものの、まだまだ数が少ないのでメルキト族攻撃には人数が足らない。そこで義兄弟「安達=アンダ」のジャムカを頼ってきたわけだ。そう言われれば、元々義侠心の強いジャムカは一肌脱がないでもない。ただし戦いを有利に進めるべく、テムジンは一年を待たされることになった。そして、ついにメルキト族撃滅に立ち上がる日がやって来る。油断していたメルキト族を次々打ち倒すジャムカとテムジンの軍勢。一足先にメルキトの集落に忍び込んだテムジンは、そこに男の寝首をかいて彼のことを待っていたボルテの姿を見つける。しかし彼女の腹の中には、メルキト族の子供が宿っていた。しかしそんな事は気にもせずに、ボルテとその子供を受け入れるテムジンだった。そして戦いで得た敵の武器や蓄えを、自分の軍勢に惜しみなく分け与えるテムジン。ジャムカの軍勢の男たちの中にも、そんなテムジンのフトコロの大きさに心酔する者が現れる。そんな二人の男たちは、テムジンの軍勢と行動を共にしてジャムカの元から去っていく。これにはジャムカとその弟も激怒した。しかし抗議するジャムカに「モンゴルでは人は主を自由に選べるはずだ」…と、あくまで原則論で答えるテムジン。これがすぐに我が身に祟ってくるとは、まだテムジンも気付いてはいなかった…。

みたあと

 いきなりチンギス・ハーンことテムジンが、幽閉されている場面でスタートするのでビックリ。こちとらチンギス・ハーンの伝記やらモンゴルの歴史とかにはちっとも明るいとは言えないが、それでもこの映画の描くチンギス・ハーンが、「史実」とはいささか違うモノらしいくらいのことは分からないでもない。そんなこんなで描かれていくテムジンの生涯は、波瀾万丈なんてモノでは語り尽くせない。ともかくムチャクチャに上がったり下がったりが激しい人生だ。だからこの映画は、「天上草原」(2002)や「モンゴリアン・ピンポン」(2005)など他のモンゴルやこの付近の辺境を描いた作品のようには、淡々として枯れた味わいを見せていない。物語性を放棄したような前出の作品群とは一線を画して、かなりメリハリの効いた物語になっているのだ。しかもこの映画に描かれている部分だけ見ると、上がったり下がったり…の下がってる方がかなり多いように見受けられる。冒頭の幽閉だけでなく、親父が殺されたら側近に身ぐるみはがれて命は狙われるわ、結ばれたばかりの嫁さんさらわれたあげく孕ませられるわ、かなり苦難の人生を歩んでいるのだ。しかも不思議なことに、それにも関わらず主人公だけは…なぜか淡々と黙々と、そんな人生を受け入れているのである。

みどころ

 で、ここが不思議なところだが、そんな何があっても黙々と受け入れる主人公…というのは、浅野本来の…声を荒げるわけでもなければ感情を顕わにするわけでもない、ハッキリ言って掴み所のない個性に実にピッタリしている。実は最初少年時代のテムジンからいきなり浅野に変わったとき、かなり違和感があるんじゃないかと身構えて見ていたのだが、これが全くないのに驚いてしまった。よくよく思い起こしてみれば、なるほど浅野はモンゴル顔。あの薄汚く見える(笑)長髪も無精ヒゲも、実にモンゴルっぽく見えてくる。そこへ来て、今回ボドロフが描いたテムジン像がひたすら黙々と受け入れる男というものだから、これはもう浅野のための役と言ってイイ。しかもセリフは極端に少ないところへ、元々がうまくしゃべれるわけもないモンゴル語。しかも映画の基本的スタイルとしては馬に乗って敵を斬り殺すという剣戟アクションだから、誰がどうやったって「世界で最後のふたり」みたいな頭でっかちな田舎の映研スタイルになりっこない。いつもの屁理屈臭さはすっかり影を潜めて、思い切り無骨に男臭く野太いキャラクターに生まれ変わってしまった。これには正直言って驚いたね。もっとも浅野本人もある程度の年齢になって、俳優としてこれまでと同じでいかなくなったことは自覚していたのではないか。僕は残念ながら未見に終わったが、彼が山田洋次の「母べえ」(2008)なんて作品に出たこと自体がその現れだろう。映画自体もどっちかというとアート系というよりエンターテインメント系の映画に仕上がっていたからビックリ。これについては賛否両論あるだろうが、元よりロシアにとどまらず西欧…アメリカ映画まで体験しているセルゲイ・ボドロフ監督ならではの作品だと言えるだろう。

こうすれば

 しかしそんな骨太娯楽作品ではあるが、実はこの映画、チンギス・ハーン伝と考えるといささか困った部分が多い。何しろ彼がなぜこれほど大きな権力を持つに至ったか、肝心の部分が抜け落ちているのだ。何しろすべてを奪われて子供の頃から逃げ回っていたはずのテムジンが、奪われた妻を奪還したいとジャムカの前に現れたときには、すでに10人ほどの手勢を持っている。問題の長い長い幽閉の後に復活した時も、いつの間にかかなりの軍勢を抱えている。本来ならチンギス・ハーンがどのように勢力を拡大したかを描くべきところを、この映画ではほとんど説明せずに通過している。元々セルゲイ・ボドロフは、そんな「英雄伝」などに何の興味もなかったのだろうか。そういえば僕はこの映画を見ていて、正直言って登場人物の言動には驚かされることが多かった。まずは冒頭、テムジンの父親が毒殺されるや、その側近が権力だけでなく家財道具や家畜まで奪い取っていくあたりに唖然呆然。しかも、確かにそれを行った人物は非人情の男と描かれてはいるが、描かれ方から察するに…そうした行為はあまり珍しいことでもないらしいように見えるから二度ビックリだ。ものすごい裏切りが行われたわけではなく、ごくありふれたことが起きたようにしか描かれていないのだ。さらに先にも挙げたエピソードだが、テムジンが盟友ジャムカの力を借りて敵から妻を奪還するくだりでのこと…テムジンに心酔したジャムカの部下が、チャッカリとテムジンの部下に鞍替えしてしまう。当然ジャムカはこれにカンカンに怒るが、テムジンは平然と「モンゴルでは人は主を自由に選べるはずだ」…と答える。まったく悪びれていない。確かに原則としてはそうなのだろうが、それでは済まないのが人の世ではないか。そもそもテムジンは今回の戦いで、ジャムカに大いに世話になっているのだ。それなのに、結果的に裏切りともいえることを起こしながら、平然としている神経がよく分からない。また、何かあるたびに妻の腹の中には別の男の子供が宿っているという状況になりながら、テムジンがそれに少しも動じていないのも不思議だ。フトコロが広い男だからそんな事に動じないというより、元々そんな事を考えない性格として描かれているようなのだ。というか、それは作劇上の問題というより…あえて誤解を恐れずにいえば、モンゴルの人々の国民性というかメンタリティーのように描いているところが驚きだ。良くも悪くも、あまり細かいこと考えない。他者への配慮とかもあまりない。コレ言っちゃうと妙な偏見になっちゃう気がするし、僕には本当にそうなのかどうかは分からないが、少なくともセルゲイ・ボドロフはそう思ってこの映画をつくっているように見える。この映画のタイトルが「チンギス・ハーン」でも「テムジン」でもなく「モンゴル」というやけにスケールがデカくて、しかもどこかぶっきらぼうなものになっているのも、そうした意図があるからではないか。

おまけ

 しかし、それではこの映画の物語がまったくどこかの知らない人のお話としか受け取れず、まるで共感できないものだったのかと言えば、少なくとも僕はそうは思わなかった。テムジンは浮き沈みの激しい人生を送り、その都度かなりのダメージもくらうものの、なぜか不思議な巡り合わせと出会いが幸いして、したたかに逞しく浮上してくる。それというのも、なぜかいつも彼を助ける人物が偶然に現れるからだ。実は僕もこれに似たような体験を多くしていて…さすがにチンギス・ハーン並みとはいかないが、僕も今まで大したことがないなりに浮き沈みの人生を送ってきた。そんな人生の中で「ここぞ」という時に、必ず僕を助けてくれる人物に出会ってきたのだ。だから僕には、この物語がリアルに見える。人生というのはかくも不思議なものだというのは、僕にとっても「実感」なのだ。

さいごのひとこと

 横綱朝青龍が日本で不評なのも分かる気がする。

 

 to : Review 2008

 to : Classics Index 

 to : HOME