新作映画1000本ノック 2008年5月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ネクスト」 「フィクサー」(ジョージ・クルーニー主演) 「アイム・ノット・ゼア」 「大いなる陰謀」

 

「ネクスト」

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Date:2008 / 05 / 12

みるまえ

 2分先の予知能力を持っている男のお話。演じるのがニコラス・ケイジってだけで僕は「買い」だ。何しろケイジと来たら、アメコミ・ヒーロー演じてもバイクにまたがった燃えるドクロというアホっぷりの「ゴーストライダー」(2007)とか、イギリスのキテレツ映画のハリウッドリメイク「ウィッカーマン」(2006)だとか、ディズニーの健全娯楽冒険ものに出てもオタクで危ない奴という「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」 (2007)だとか、その出てる映画の幅の広さと何に出ても基本的に同じキャラ(笑)というクセの強さ。で、僕はそんな彼がとっても好きなのだ。原作は「ブレードランナー」でおなじみフィリップ・K・ディックと聞いても、この題材じゃどう見たってB級にしかならない。それでもニコラス・ケイジがやると聞いたら見たくなる。ちょっと「ジャンパー」(2008)っぽい安っぽいお話も、ニコラス・ケイジならナントカなるのではないか。いや、その安っぽさがピッタリかも(笑)。

ないよう

 その男の脳裏には、今日も鮮やかにそのイメージが浮かんでくる。それは一人の若い女が、今まさに角を曲がってこのダイナーに入ってくるイメージだ。その男、クリス・ジョンソン(ニコラス・ケイジ)は一杯引っかけながら、腕時計を見つめつつ「その瞬間」を待つ。しかしダイナーには誰も現れない。それでもクリスには分かっていた。それが予感ではなく、来たるべき「事実」だということが…。そんなクリスはその名もフランク・キャデラックという芸名で、ラスベガスのクラブでショボくれたマジック・ショーを演じていた。ウケも冴えないし拍手も少ない。それでもフランクことは満足だった。彼の才能… 2分先の「将来」を見る能力を、ささやかながら活かせる仕事だからだ。しかし、それを人に気取られてはいけない。もし分かってしまったら、人は彼を利用するか彼を化け物扱いするから。それに彼の能力の及ぶ範囲は、あくまで自分に直接関係のあることだけに留まる。だから厄介事に巻き込まれないためには、極力自分の能力を知られない方が都合がいいのだ。ところがそんなパッとしないマジック・ショーを、客席から食い入るような目で見ている人物が二人。それはFBI捜査官のカリー・フェリス(ジュリアン・ムーア)と部下のキャバノー(トリー・キトルズ)。果たして彼らはクリスの正体を見極めたのか。そんなこととは知らず、クリスはショーがはねたその足でカジノにやって来る。ここでクリスは再び自らの能力を活用し、ささやかな稼ぎにありつこうというわけだ。そんな彼の都合のいい勝ちっぷりに、監視カメラで見ていた警備スタッフは思わず注目するが、先に何が起こるか分かるクリスは、一足先にその場をトンズラ。ところがそんなクリスの脳裏に、換金所にいる男が銃で周囲の人の命を奪い、金を盗んでいくイメージが浮かんだのが運の尽き。ついつい「まだ起こっていない犯行」を未然に阻止して男を取り押さえたことから、その存在が目立って墓穴を掘ってしまう。かくしてクリスは追っ手の先手先手を読みつつ、神出鬼没でクラブから逃げ出すハメになるのだった。そんなこんなで、何とか戻ってきた寝ぐらで、数少ない理解者である老いぼれアーブ(ピーター・フォーク)の出迎えを受けるクリス。ところが今度は、そこにFBIのカリーの訪問だ。しかし彼女はクリスをしょっぴこうという訳ではなかった。実はロシアから核兵器を手に入れたテロリストが、ロサンゼルスを爆破しようと企てているという。それを突き止めて阻止する協力を…と、クリスに頼むためにやって来たというわけだ。だがクリスにとってはヤブから棒の話。おまけに自分に関わりのないことは皆目見えない「能力」なのだ。おまけに今まで自分の能力がらみで近づいて来た人間には、ロクな目に遭わされたためしがない。幸いなことに、今クリスが見たカリーの登場は例の「2分後」の未来。カリーの出現とその理由を知ったクリスは、カリーが出現する一歩前にその場を立ち去るのだった。こうしてFBIを煙に巻いたクリスだが、そんな彼を追い回している連中がもう一組。明らかにヨーロッパから来た風情の男スミス(トーマス・クレッチマン)は、自分たちを追い回しているFBIが、このクリスも同時に追いかけていることに注目していた。さて、そんなクリスは街を引き払うわけでもなく、またしても例のダイナーへ。すると…今日こそは例の若い女が現れるではないか。「2分先」しか見えないはずのクリスが、なぜかずっと前からこの女の出現は感じていた。その縁の不思議さも手伝って、彼女は「運命の女」じゃないかと思い詰めているクリス。ところが現れたこの女リズ(ジェシカ・ビール)の後を追って、店にすぐ一人の男が現れる。どうやらこの男は彼女につきまとうストーカーらしく、彼女はホトホト迷惑しているようだ。さぁ、ここでオレの出番…と勢い込んだものの、出会いを失敗したら元も子もない。コワモテで男をやっつけたら…彼女に怖がられてストーカーと一緒に追っ払われる。ああでもないこうでもないと、持ち前の2分先を見る能力でシミュレーションしたあげく、男にわざと一発殴られることで彼女の心を引きつけることに成功したクリス。こうして警戒心を解いたリズのクルマで、クリスはロスめざして出かけることとなる。そしてFBIもすぐに二人がクルマで移動したことを確認。そのFBIの動きから、テロリストたちも一気に動き出した。今やテロリストたちも、クリスの能力に関心を持ち出したのだ。旅の道中でお互い惹かれ合い、崖っぷちの山荘でついに結ばれる二人。しかしそんな二人を、FBIが、さらにテロリストたちが監視していたのだった…。

みたあと

 映画が始まってすぐに、ニコラス・ケイジの脱出劇が始まる。警備員たちに追われるケイジが、カジノの中を逃げ回る場面だが、これが「一歩先」を読む能力を生かしての脱出劇なので、何ともおかしい。ケイジはまったく慌てず騒がず、堂々とスタスタ歩いてはパッと身を隠し、絶妙のタイミングで相手の視線をかわすのだ。その堂々としていながらどこか奇妙な身のこなしは…何となく「リベリオン」(2002)におけるクリスチャン・ベールの身のこなしに似ている。銃弾が雨あられと降り注いでいるのにまったく動じないで、パッパッと大げさにポーズをキメながら身をかわす、「ガン・カタ」なるテクニックに似ているのだ。もうそのあたりのいいかげんさから、僕は何となくおかしくてすっかり嬉しくなってしまった。超能力を扱った映画なら、前述した「ジャンパー」が記憶に新しいが、あれなんか面白くもおかしくもなかった。瞬間移動をCGでいくら派手に描かれても、CGなんだからピラミッドが出ようがロンドンが出ようが当たり前…ってな気分にしかならず、ありがたみはゼロ。その点こっちは、人をバカにしているような隠れんぼを見せてくれるだけで楽しい。まるで往年のドリフ「8時だヨ!全員集合」のコントでも見ているかのような、人を食った隠れんぼ&鬼ごっこ趣向が実に楽しいのだ。これだけで僕はすっかりこの映画を気に入った。

こうすれば

 ただしお話はというと、かなり行き当たりバッタリと言わねばなるまい。クリスの能力は確かに凄いものだが、それと核兵器が結びつかない。FBIがなぜこの男に目をつけたのか、まったく理解できないのだ。結果的にクリスがテロリストに行き当たったのも、自分の愛する女がさらわれたから。しかも女がさらわれた理由は、FBIがクリスを追い回したからだ。こんな無茶苦茶があるだろうか。そのくせFBIがクリスに迫る手口は、ほとんど脅し寸前のイヤ〜な感じのやり方。ハッキリ言ってここ最近、「フォーガットン」(2004)、「フリーダムランド」(2006)と作品の水準が一気に下降しているジュリアン・ムーアが、ここでこんな印象の悪い役を演じていていいのだろうか。彼女がケイジに言う「正直者はバカを見る」というセリフは、ハッキリ言って最高に感じが悪い。また、最初は「2分先」が見えるだけの能力だったニコラス・ケイジが、後半でかなり先まで見通せるようになってしまうのはいかがなものか。何だか随分ご都合主義でいいかげんな設定だなと呆れてしまった。ニュージーランド出身のリー・タマホリ監督は、デビューこそ「ワンス・ウォリアーズ」(1994)で社会派・硬派の監督かと思わせたが、その後はすっかり商業娯楽監督に徹してしまい、ついには007シリーズ「ダイ・アナザー・デイ」(2002)まで手がけるアリサマ。それが悪いとは決して言わないが、この映画のお話の展開はいささか無茶苦茶だと気づかなかったのだろうか。

みどころ

 それでも先に挙げたように、ニコラス・ケイジの不思議な身のこなしは笑える。クライマックスでも周囲のFBIの連中は、どこから弾丸が飛んでくるか分からないので腰を落としながら銃を構えて、かなり緊迫した雰囲気で対処している。それなのに一緒にいるニコラス・ケイジだけは、堂々と背を伸ばしてズカズカ歩いているおかしさ。それでいて、一生懸命身構えているFBIの連中はバタバタ倒れても、彼だけは一発も銃弾が当たらないから笑ってしまう。その周囲から浮きまくっている様子が、いかにもニコラス・ケイジらしく変だから楽しいのだ。それこそ、いつも「どこかヘン」なニコちゃんならではの個性ではないか。彼がジェシカ・ビールを口説くために、一人で次々「2分先」をシミュレーションしてみるくだりなどは傑作。これはアクション映画やサスペンス映画ではなく、コメディと考えた方がいいのではないか。あと、懐かしいピーター・フォークが出てきたのは嬉しかったものの、ほとんど芝居のしようがない役どころですぐに退場。そもそも恐ろしいくらいヨボヨボだったのがショックだった。

さいごのひとこと

 タイトルは続編をつくるぞってことか。

 

「フィクサー」(ジョージ・クルーニー主演)

 Michael Clayton

Date:2008 / 05 / 12

みるまえ

 今年のオスカー・レースで有力作品として名乗りを上げていて、ティルダ・スウィントンに助演女優賞をもたらした作品。ジョージ・クルーニー主演の硬派作品と聞けば、僕としてはちょっと見たくなる。正直言って「オーシャンズ」シリーズには興味はあまりないが、それ以外のクルーニー映画はハズレなし。しかもどっちかと言えば、ちょっと懐かしいアメリカ映画の味がするのである。「シリアナ」(2005)しかり「グッドナイト&グッドラック」(2005)しかり、社会派のニオイを漂わせながらキッチリ娯楽映画としても楽しませる、男臭いアメリカ映画…いわゆる僕が映画を好きになった頃、1970年代のアメリカ映画のニオイがプンプンするのがジョージ・クルーニーの映画なのだ。これは見ずにはいられないだろう。

ないよう

 その夜、マイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)は、場末の賭けポーカーの賭場にいた。大手法律事務所に勤める彼が、何でこんな場所でくすぶっているのか。そんなマイケルの勝負が佳境に入ろうというところで、携帯に連絡が入る。それは、毎度おなじみ「もみ消し」の仕事。彼はウンザリした表情でゲームを中止し、携帯からの指示に耳をすます。どうやら大手顧客が何やらトラブったらしい。早速クルマを飛ばして、その大手顧客の屋敷へと向かう。実際に屋敷に着いてみると、この「大手顧客」氏は興奮状態。どうやらクルマで人をはねてしまい、そのまま逃げ帰ったらしい。「私は悪くない、突然飛び出した向こうが悪い!」…事情が分かってきたマイケルは冷静に別の弁護士を紹介するが、「大手顧客」氏はそれを聞いて逆上するばかり。「キミが何とかしてくれるんじゃないのか? “奇跡の仕事人”と聞いていたぞ!」「私は単なる“もみ消し屋”です。出来ることだって限りがある。あなたのその状況じゃ、私に出来ることは適切な弁護士を紹介することぐらいだ」…まったく不毛な仕事だ。今夜もウンザリしながら帰宅。その途中、夜明けの小高い丘に差しかかったところで、マイケルは何頭かの馬が気高い姿でじっと立ちはだかっている姿を見つける。思わずクルマから降りて馬たちに駆け寄ったマイケルだが、その時、彼の乗ったクルマが突然爆発炎上するではないか。一体誰が何のために?…それを知るためには、それから数日前に遡らねばなるまい。…マイケルが勤める大手法律事務所は、農薬メーカー大手の「U・ノース」社の大型訴訟事件を扱っていた。同社の農薬で被害にあったという農民たち原告団と、協議が大詰めに差しかかっていたところ…その席上で同社のベテラン弁護士の一人が、いきなり錯乱して服を脱ぎだしたというのだ。そうなると早速マイケルの出番。法律事務所の経営者でマイケルとも長い付き合いのマーティ(シドニー・ポラック)に請われたマイケルは早速現地の警察に出向き、その「錯乱」弁護士アーサー(トム・ウィルキンソン)の話を聞く。すると…確かに言っていることは常軌を逸していたが、彼をそう追いつめたのは良心の呵責であることが分かる。「U・ノース」社の農薬は明らかに有害で、それが農民たちの命を奪ったのは間違いないのだ。なのに自分はその「U・ノース」社側の弁護士として働いており、いまや裁判は「U・ノース」社に有利に進んで示談は目前だ。さらにアーサーは原告側の娘アンナ(メリット・ウェバー)に惹かれてしまったから、彼の感情は引き裂かれてしまった。かくして協議中の珍事に発展してしまったというわけだ。ともかくマイケルはアーサーの身柄を引き取ってホテルに連れていくと、次に現地入りした「U・ノース」社法務担当のキレ者、カレン・クラウダーなる女(ティルダ・スウィントン)をなだめにかかる。しかし辣腕で知られるカレンは事態を重く見て、マイケルを厳しく叱責するのだった。死に物狂いでつかんだ現在の地位を守るため、カレンにとってはどんな間違いもあってはならないのだ。そんなこんなでカレンにボロクソに言われて疲れ切ったマイケルだが、ホテルの部屋に戻るといつの間にかアーサーは姿を消していた。だがその一方でマイケルもまた、いろいろ問題を抱えていたのだ。不規則な仕事のせいで結婚生活はとっくに破綻して、息子と過ごす時間もままならない。何とかマトモな弁護士の仕事に戻りたいと願っても、経営者マーティは彼を「もみ消し」以外の仕事で評価するつもりはない。不安な老後を支えるために用意したレストラン経営は、任せていた従兄弟の失敗で巨額の借金をつくりだしていた。そのカネを早急につくらねばヤバイ。正直言ってアーサーどころではなかったところだが、それでもマイケルは彼のただならぬ様子が気になっていた。ところがアーサーは、実は「U・ノース」社の大変な秘密をつかんでいた。例の農薬が有害だったという、同社の社内文書をつかんでいたのだ。そこでアーサーは、これを原告の娘アンナに手渡そうとしていた。しかし、それはすぐに「U・ノース」社法務担当のカレンの知るところとなった。彼女は配下の人間に命じて、アーサーの電話を盗聴させていたのだ。ここでアーサーにそんなコトをされたら、「U・ノース」社有利に進んでいる裁判が吹っ飛んでしまう。そうなったらカレンもタダでは済まない。それはカレンにとって、何としても耐え難いことだった。やっと辿り着いた現在の地位を、そんなコトで失うわけにはいかない。今や手段を選んでいる場合ではない。そこでカレンはアーサーが行動を起こす前に、先手を打って彼のアパートに配下の男たちを忍び込ませた…。

みたあと

 最初は何がどうなっているのか、正直言ってよく分からなかった。冒頭のトム・ウィルキンソンの独白のセリフと、画面で展開している映像とが頭の中でリンクせず、何がどうなっているのか分からなかったからだ。しかし途中から事情が飲み込めてみると、硬派で辛口の物語がなかなかイイ味出している。これはいかにもジョージ・クルーニーらしいお話だ。法律事務所に在籍しているのに弁護士ではなく、いわゆる「便利屋」のように働いている男という設定も面白い。意味は分からないまでも、冒頭でいきなりクルマの爆発という驚きもあるから、思わずドキドキしながら映画を見てしまうのだ。

こうすれば

 しかしながら、こうした興味深い仕事を強いられている男のお話というには、この映画の構成にはいささか難がある。何せ冒頭に極めて不完全なかたちで主人公の「もみ消し屋」ぶりがチラッと出る他は、彼のその仕事ぶりはまったく紹介されないからだ。一体どのように仕事をしているのか、僕らはほとんど映画から見せてはもらえない。しかし、この仕事ぶりがキチンと描かれないのでは、映画の進行上いささか無理があるのではないか。こうした汚い仕事をやってきた男だけにやり切れない思いや人生への疲れも滲み出るだろうし、男の反骨心や意地というものが首をもたげてこようというもの。また、こうした危ない橋を渡ってきた男だからこそ、最後のハッタリ勝負をかますだけの度胸もある。それらのことを過不足なく描き出すためにも、主人公のスゴ腕の「もみ消し屋」ぶりを、じっくり見せておく必要があったのではないだろうか。また、冒頭で主人公が馬の姿に見とれて命拾いするくだりも、あれだけだったら何のことだか分からない。どうも息子の読んでいたファンタジー本が関わっているらしいが、正直言って映画を見ている時にはそんな事には気付かなかった。そもそもあのファンタジー本はかなり意味ありげに劇中に出てくる割には、あまり効果的にドラマと噛み合ってはいない。そもそも、ドラマの時制を狂わせていきなりクルマ爆発にいたる部分を冒頭に持ってきた構成が、果たしてこの映画にとって適切だったのか。単に分かりにくくしただけではないのか。しかしよくよく考えてみると、アレがなければこのお話って、実はものすごく単純な話になってしまう。そう考えると、元々のドラマに弱さがあるのかもしれない。本作の監督トニー・ギルロイって例の「ボーン・アイデンティティー」(2002)に始まる「ボーン」三部作の脚本家として名を挙げた人物らしいが、脚本家上がりにしてはちょっとズサンな脚本ではないだろうか。

みどころ

 そうは言っても、この映画が放つ1970年代の告発モノ映画風のニオイには、正直言って惹かれてしまう。そもそもジョージ・クルーニーがそういう映画を好きみたいだが、僕もあの時代が映画体験の原点だけに、この手の映画には抵抗できない。そして主人公が口封じのカネをフトコロに入れずにはいられないあたりは、社会に出てから長く経って多くの妥協も強いられてきた方なら、ついつい我が身に引き寄せて見ずにはいられない。だから最後にケツをまくっての大どんでん返しをキメた時の爽快感がたまらないし、その直後タクシーに乗り込んでからの、クルーニーの何とも言えない無言の表情が身につまされる。「よぉ〜し、やってやった。どんなもんだ、オレはやったぞ。やってやったんだ。そうだ、ついにやった。ついにやっちゃったよ、あ〜あ、トホホホ。これからどうしようオレ?」…とでも表現するべきだろうか。あの勝利感半ば、諦め半ば、今後への不安半ば…とでもいうような、微妙で複雑な表情が何ともたまらない。スカッとした勝利感だけでは終わらないあの複雑な味わいは、若い俳優では出せない。ジョージ・クルーニーという役者の持つ辛口のオヤジ味だけが出せる、独特の雰囲気だ。このラストのクルーニーの表情こそが、この映画最大の見せ場ともいえる。さらにティルダ・スウィントンの単純な悪役とはいえない、弱さモロさの表現も素晴らしい。この映画は脚本はいささかザルだが、そうしたキャラクターの描き方にリアルさがあるから、ついつい引き込まれてしまうのだ。

おまけ

 監督のトニー・ギルロイについて、“「ボーン」三部作の脚本家として名を挙げた人物らしい”…などと醒めた言い方で語った僕だが、実はこれに先立つ15年ほど前に、僕はすでにこのギルロイの初脚本作品を見ていたから驚いた! その作品は「冬の恋人たち」(1992)。ひょんな事からフィギュア・スケートのペアを組むことになりながら、大金持ちと労働者階級というクラスの差もあっていがみ合っていた男女が、徐々に惹かれ合っていく姿を描いた作品。なかなか好感の持てる小品佳作の青春ラブストーリーだった記憶がある。少なくとも脚本家としては、今回より上だったんじゃないだろうか?

さいごのひとこと

 勝ってただ喜んでいられるのは若いうちだけ。

 

「アイム・ノット・ゼア」

 I'm Not There

Date:2008 / 05 / 05

みるまえ

 ボブ・ディランを6人の個性派スターたちがそれぞれのスタイルで演じる映画が来る…と聞けば、1960年代のロック・ミュージックに関心がある人なら、ぜひ見たいと思うのではないか。ましてそのスターたちというのが、ヒース・レジャーやクリスチャン・ベール、リチャード・ギアに…何とケイト・ブランシェットまで!という豪華版。これはさすがに見ずにはいられないだろう。監督は…といえば、「ベルベット・ゴールドマイン」(1997)のトッド・ヘインズ。ならばロックへの造詣の深さは申し分ない。ただ、肝心の「ベルベット〜」の印象はといえば、1970年代のグラム・ロックのムードはムンムンに漂ってはいたが、映画として面白かったかどうかは曖昧な記憶しかない。そこに一抹の不安がないと言えばウソになるか。

ないよう

 ある時は、彼はギターを抱えたウディと名乗る黒人少年(マーカス・カール・フランクリン)として、貨物列車に飛び乗った。まだ子供のクセにいっぱしの口をきくこの少年。ウディがウディ・ガスリーのことであるのは明白だ。後に病床の本物のウディに会いに行ったりもする。それでもご厄介になった家のビッグママに「“今”を歌いなさい!」と一喝されればシュンとなってしまうから、やっぱりまだ子供なんだろうか。またある時は、社会派フォーク歌手ジャック(クリスチャン・ベール)として話題を呼びながら、不用意な発言でマスコミの袋叩きにあったりもする。それが彼を「同士」だと思っていた女性フォーク・シンガー(ジュリアン・ムーア)の当惑を招いたりもする。だが実は彼自身、誰かとツルむのが苦手のようだ。だから熱狂的に支持されると思えば、一転して極端に敵視されることも多い。常に変わり身が激しい彼は、こういう言葉を投げかけられることに慣れっこだ。「裏切り者っ!」…1960年代半ば、ある野外フォーク・コンサートでロックバンドを従えて演奏した時が、まさにそれだった。その時の彼はジュード(ケイト・ブランシェット)。フォークからロックへの転向が、世間はお気に召さなかったようだ。だが生ギターから電気楽器に変えたことの、どこがそんなに腹立たしいのか。ロンドンに渡ってビートルズに会ったり、傍若無人に振る舞う彼ではあったが、実はそんなファンの罵倒や無礼なジャーナリスト(ブルース・グリーンウッド)、さらにそんな喧噪から逃れようと多量に摂取したドラッグが、彼を徐々に疲弊させていく。一方、フォーク歌手ジャックの自伝映画に主演した新進映画スターのロビー(ヒース・レジャー)もまた、もう一人の彼とは言えまいか。フランス人の妻(シャルロット・ゲンズブール)との関係は最初こそうまくいっていたが、スターとしての成功で彼が変わっていくうちに、次第に二人の間柄はうまくいかなくなっていく。そんなこんなしていくうちに元フォークシンガーのジャックは、教会にこもってすっかりゴスペル・シンガーへと変身。ますます周囲の人間はついていけなくなる。そんな彼は、ある時は西部のアウトローのようだ。ひなびた村で暮らす老カウボーイのビリー(リチャード・ギア)がその姿。勝手にハイウェイを通して村をつぶすという無茶な話に、宿敵パット・ギャレットを向こうに回して立ち上がる決心をする。そんな彼は、ある時は自らをアルチュール・ランボー(ベン・ウィショー)と称して、無理解な周囲の人々を煙に巻いていたが…。

みたあと

 実はこれって本当は「ボブ・ディラン」の映画でもないのだ。冒頭のクレジットに「ボブ・ディランの人生と歌に触発された」と書いてはあるのだが、登場人物にボブ・ディランなる人物はいない。確かにそれっぽいヤツは何人か出てきて、ディランの生涯を何人かの俳優で分担して演じるというのは間違いないのだが、彼らはすべて「ディラン」という名ではない。しかも「これがディランなの?」と思っちゃう設定のキャラまで出てくる。ディラン信者やマニアなら分かる部分もあるんだろうし、エピソードもあるんだろうが、ハッキリ言って僕には何のことやらチンプンカンプン。よく考えてみれば、いかに1960年代ロックに親しんできた僕も、ボブ・ディランをアルバムごとちゃんと聞いたことなどなかったのだ。せいぜい有名なヒット曲を聞いたぐらい。これじゃ分かるわきゃない。しかし、果たしてそれでなきゃ「分かるわきゃない」ものなんだろうか?

みどころ

 そんな僕でも、ジュリアン・ムーアの役はジョーン・バエズなんだろうな…とか、ヒース・レジャーとシャルロット・ゲンズブールがツルんで歩いている場面は有名なアルバム・ジャケット写真なんだろうな…とか、ディランが脇役で出演して浪花節みたいな歌をうたっていたサム・ペキンパーの映画「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」(1973)をイメージした西部劇調の場面だな…とか、ナレーションもその「ビリー・ザ・キッド」のクリス・クリストファーソンだな…とか、それなりにディランとの接点を見つけることはできる。それらはそれらで面白いし、何だかフェリーニ映画みたいな楽しさもないではない。特にケイト・ブランシェットの出てくるフォーク・ロック移行期らしきエピソードは、僕自身興味深かったので面白く見た。ファンから罵倒されまくったと言われる伝説のステージの、その片鱗みたいなものは見ることができた。またあの時代のロック・シーンの雰囲気も漂っていたし、感じをつかんでいるような気がした。総じて…意外にも「女のディラン」役という度肝を抜かれる設定となったケイト・ブランシェットのパートが、皮肉にも最もディランに似ていたから面白い。しかもエピソード的にも分かりやすくて面白かった。だから、このあたりをもうちょっと見せてもらえれば個人的には楽しかったんだろうが、実際にはそうはいかないから世の中は厳しい(笑)。

こうすれば

 実は冒頭近くに黒人少年が出てきて、「おいらはウディだ」とかやたらと偉そうな口を叩き始めたあたりから、ディランがどうの…という以前の問題でついていけなくなった。ビッグママが出てきてこのチビ助を「おだまり!」と一喝してくれてスッとしたくらい(笑)。この時点で、「おいおい、ヤケに大げさな描き方だな」と思い始めてしまったからいけない。確かにディランってどんどん変貌を遂げて、つかみどころのないヤツだったのかもしれないが、6人のまるっきり個性の違う俳優にやらせるほど「神秘的」だと見なすあたりが「大げさ」なんじゃないだろうか。「パフューム/ある人殺しの物語」(2006)に主演したベン・ウィショーが「アルチュール」なんて自称するディラン分身なんて、ブツブツどうでもいい事を言っているだけで噴飯もの。ディランを知らないと分からない、トッド・ヘインズ作品は一筋縄じゃいかないから分からない…って言いたいところだが、単純に描き方が大げさで田舎の高校の映研がつくった自主映画みたいな、独りよがりで幼稚で気取った内容でしかないんじゃないだろうか(笑)。だってケイト・ブランシェットのパートのディランははっきり「自分を神格化するな」的な態度を貫いているし、「自分は単なる歌の作り手で歌うたいでしかない」と言っている。それなのにトッド・ヘインズがやろうとしていることは、どう見たってディランの神格化以外の何モノでもない。これ以上の矛盾はないではないか。僕が知っているディランは「ウィー・アー・ザ・ワールド」のセッションでどうしていいのか困った顔をして、あの歌をディラン・スタイルでうたえず立ち往生。何とスティービー・ワンダーにディラン風にアレンジしてもらって、やっとこ汗かきながらうたっていた姿が目に浮かぶ。そんな人だったはずだよディランは(笑)。神様でも6つの頭があるキングギドラでもないはずだ。トッド・ヘインズはこんな映画がつくれるオレってスゴイって思ってるのかもしれないが、ちょっと何かのクスリのやりすぎじゃないのか(笑)?

さいごのひとこと

 こんなに大げさに描かれちゃ本人も困るんじゃないか?

 

「大いなる陰謀」

 Lions for Lambs

Date:2008 / 05 / 05

みるまえ

 この映画の情報は、だいぶ前からいろいろと知っていた。ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ、トム・クルーズの共演でレッドフォード監督作。ちょっと前ならすごく話題になっただろうし、僕も見たくてたまらなくなっただろう。しかも監督としても腕に定評があるレッドフォードだから、作品的にもそれなりの出来映えが期待できそうなところだ。かつての僕なら、何の疑いもなく映画館に飛び込んだことだろう。しかしそんな豪華な顔ぶれの作品の割には、この映画の周辺は何やらえらくひっそりしている。全然話題になっていない。話題になっていないどころか、むしろみんな話題にしたくないみたいだ。そしてそんな元気のなさは、予告編自体にも何となく漂っていた。どうやら反戦メッセージみたいなことを言いたいようなのだが、何となく画面からは鮮度の悪さがヒシヒシと伝わって来る。若い兵士たちがヘリでアフガンの戦場に投げ込まれるくだりもあるにはあるようだが、何となくそれ以外…つまりレッドフォード、ストリープ、クルーズらビッグスターが出てくるところは、部屋の中でしゃべってるだけみたいな印象なのだ。そして何と言ってもレッドフォードのあの整形失敗の目(笑)! 2002年の第74回オスカー授賞式で名誉賞をもらった時の彼もスゴかったが、こうやって改めて見るとやっぱり異様だ。誰がどう見ても違和感アリアリの彼の目を見ただけでも、何となくイヤ〜な感じがしてくるではないか。実はそんなレッドフォードだけでなく、トム・クルーズもかなり微妙なところにさしかかってる感じ。だからちょっと前なら文句なしに豪華メンバーと喜べたところを、何となく寂しい扱いになってしまった気がする。ハッキリ言ってハズしちゃった感じが濃厚だ。実際アメリカではコケたとの評判も聞く。しかしそう聞いてしまったら、逆に見捨てるわけにもいかない。そんなこんなでコワゴワ映画館に向かった僕だった。

ないよう

 いきなり呼び出され、新進上院議員アーヴィングの事務所にやって来るテレビ・ジャーナリストのロス(メリル・ストリープ)。何やら話したいことがあるとのメッセージに、彼女は特ダネの臭いを嗅ぎ取る。そして彼女を自室に迎え入れたアーヴィング(トム・クルーズ)は、人を魅了せずにはおかない満面の笑顔で、彼女に十分なインタビューの時間を与えると宣言した。彼はかつて政治家として駆け出しの時、ロスに「次代のホープ」と賞賛されていた。その恩返しに大ネタを提供するとの話だが、ロスとしてはこの野心的な政治家の言葉は話半分にしか聞けない。そんなアーヴィングは、対テロ戦争でアメリカはどうあるべきか…という話から、アフガニスタンで進行中の新たな作戦を語り始める。敵を凌駕するには戦略的に有利に立てる高地を押さえるべきだ、そのための新たな作戦が始まったというのだ…しかも10分前に! その頃、アフガニスタンのとある空軍基地から、一機の米軍ヘリコプターが飛び立っていた。出撃前に作戦に参加する新兵アーネスト(マイケル・ペーニャ)とアーリアン(デレク・ルーク)の二人は上官に作戦への疑問を投げかけるが、それは軽くいなされる。こうして二人は真夜中のアフガン高地を、戦友たちと共にヘリで移動していった。さらにその頃、大学の政治学教授マレー(ロバート・レッドフォード)は、大学構内の自室に一人の生徒を迎え入れる。その生徒トッド(アンドリュー・ガーフィールド)はアロハを着たいかにもC調の学生。かつてはマジメに政治学の授業に取り組んでいたにも関わらず、最近ではロクに授業にも出ずにサークル活動とナンパに精を出す日々。それを惜しんだマレーが、彼に話を持ちかけたというわけだ。しかしドッチラケのトッドとではなかなか話が噛み合わない。それでもマレーが巧みに彼を挑発すると、トッドはついに本音を語りだした。「こんな世の中で、政治学なんてモノに何の意味があります?」…腐敗した社会にシラケたトッドの気持ちはマレーにもよく分かる。それでも彼は萎えずに政治に向き合うべきだ…と、彼のかつての教え子について語り始める。それは今まさにアフガンで出撃中の二人…アーネストとアーリアンのことだった。彼らはシリアスに社会と関わることを模索し、勢い余って兵役に志願してしまった。それはマレーがまったく望まないことだったが、二人は初志を貫き戦場へと旅立ってしまう…。上院議員アーヴィングの部屋では、独善的なアメリカの対テロ戦略と今回の無謀な作戦について、アーヴィングとロスが激論を戦わせている。そんな最中、アーネストとアーリアンたちを乗せた米軍ヘリは、その場にはいないはずの敵の集中砲火にさらされていた…。

みたあと

 正直に言うと、予告編で受けた印象そのものの映画だった。言いたいことは主に2つで、元々その傾向はあったものの、「9・11」以降に顕著になったアメリカの対テロ政策の独善性への批判がまずひとつ。そして、そんな由々しき事態にも関わらず、若者を中心に一般のアメリカ人の(そして世界中の)若者たちが政治にシラけてしまっていることへの批判がもうひとつ。それをほぼディスカッション・ドラマの形で構成したお話だった。で、レッドフォードとシラケ生徒のやりとりと、トム・クルーズ上院議員とストリープ記者とのやりとりは、画面上まったく合流することはない。それはいいとして…これらの2つのディスカッション・エピソードと、両者に微妙に関わっている若者二人のアフガン参戦エピソードが、あまりに芸のないやり方で組合わさる構成にはちょっと驚いた。そして…予告などを見ている人ならダマされるわけもないだろうが、もし仮に3大スター夢の共演を楽しみに見に来たお客さんがいたとすれば、この作品の出来栄えには大いに失望するのではないだろうか。むろんこの映画を見に来たほとんどのお客さんはそんなことを期待せずに、真面目な主張を期待して見に来たのだろう。だからそんな心配は杞憂だとは思うが、実は問題はここから。この映画がそんなシリアスなメッセージ映画だと覚悟して見に来た人をも、大いにガッカリさせてしまう恐れがあるからマズイのだ。

こうすれば

 正直言ってこの映画、いろんな意味で不幸な出来だと思う。レッドフォードというとスーパースターではあるが、実はここ数年作品には恵まれない。唯一の例外は愛弟子のブラピと組んだ「スパイ・ゲーム」(2001)だが、その直後どうも整形をしたらしいのは、その容貌の激変ぶりを見れば明らか。何でそんなコトをしたのか理解に苦しむが、ハンサム・スターとして売った栄光の過去は、いかにインテリなレッドフォードでも忘れられなかったのか。しかし以後ますます作品的に低迷してしまったのは、この整形が大きく影響したからであるように思えてならない。そんなレッドフォードの久々の新作である本作は、監督兼任でビッグスター共演作。だから本来だったら劇的な復活となるべきところが、組んだ相手もイマイチだったのが計算違い。絶対安全パイだったはずのトム・クルーズは、「ラストサムライ」(2003)、「コラテラル」(2004)あたりからキャリアが曲がり角。おまけに変な宗教にかぶれていたことも災いしてパラマウントに切られ、新生ユナイテッド・アーティスツと組んでの第一作がこの作品だった。さらにメリル・ストリープも近作「プラダを着た悪魔」(2006)が久々の「主演スター」としての成功作。まだまだ本調子とは言い難い。そんな主演者たちのスターとしての「鮮度」「イキの良し悪し」が作品の出来栄えに関係があるのか…と疑問を感じる方もいるかもしれないが、実際にそれが画面に出てしまっているのだから仕方がない。そんな要素がまったく無関係とは思えない、映画全体の元気のなさなのだ。そしてディスカッション・ドラマが映画的ではない…などとは口が裂けても言うつもりはないが、この映画のそれは決して成功しているとは思えない。丁々発止のやりとりで目が離せないという緊迫した会話劇になっているならまだしも、そこでは最初から最後まで分かり切ったことがクドいほど繰り返し言葉にされているだけだ。おまけにそのドラマ構成…上院議員と記者が極秘作戦の話をして、その作戦にたまたま新兵として参加している大学生が、たまたま同じ時に教え子と対話している教授の元教え子で、その場でこれまたたまたま話題になっている…ってお話の構造はどうだ。抽象的で寓話的な舞台劇か何かならまだしも、このような普通のリアルな作劇法でつくられている劇映画では、あまりに図式的すぎるし不自然すぎる展開ではないだろうか。ついでに言えば、大学から志願してやってきたペーペーの新兵ごときが、出撃直前の説明時に上官に作戦への疑問をぶつけてお咎め無しなのも不自然だ。いくらアメリカといえども、そこまで開かれてはいまい。この映画はそのあたりからして「作り物」っぽくないか。しかしそんなこの映画の疑問点も、実際の語り口の苦しさと比べたらまだまだ大したことはない。メリル・ストリープ記者はトム・クルーズ上院議員に対して、アメリカの対テロ戦略の愚劣さと無謀さを「セリフ」として逐一発言してしまう。レッドフォード教授は教え子のアンドリュー・ガーフィールドに、イマドキの若者が政治にシラケているのはいかがなものかと「セリフ」で発言してしまう。そんな教え子ガーフィールドは「いかにもチャランポランに遊んでます」的なアロハ姿だ。そこで話題になっている元教え子のマイケル・ペーニャとデレク・ルークは、「絵に描いたように誠実に」現実と対峙して軍に志願し、「バカでも分かるくらい無謀な」作戦で「いかにも悲惨な」最後を遂げる。さらにダメ押し的に、テレビ局に帰ったストリープ記者と上司との間で「ジャーナリストはこれでいいのか!」と語られる、中学生のホームルームでも展開されないくらい「まっすぐ」な論争。これだけハッキリ見せたり聞かせたりすれば、どんな鈍感な観客だって言いたいことが分かるだろうというくらいの露骨なメッセージだ。もうみなさんは、僕が何が言いたいか分かるだろうか。映画というのは、いくらいいメッセージを語っていても、それが即イイ映画だということにはならない。いい素材を集めただけではうまい料理とは言えない。そこにちゃんとした包丁さばきや腕の冴えがなければ、それはプロの仕事とは言えない。この映画はただの「アジ演説」であり「お説教」でしかないのである。

みどころ

 だからこの映画は、ズバリ言うと「失敗作」だ。伝えたいメッセージを伝えるべき相手に伝え損なっている。おそらくレッドフォードは、ここに出てくるような政治や社会にシラケた人々に「理想を持って現実を直視しろ」と言いたいのだろう。というか、そのようにダイレクトに言っちゃっている。でも、そんなに露骨に説教されたら、誰だって素直には受け止めないだろう。それを言うレッドフォードが、整形の目でにらんだだけでシラケを誘う。レッドフォードだけでなく関わったスターたち全員が、それぞれキャリアの危うい節目に差しかかっているだけに、これは見ていて余計痛ましい。レッドフォードといえば監督として「普通の人々」(1980)でオスカーを受賞し、「リバー・ランズ・スルー・イット」(1992)でブラピを発掘したほどの男なのに、何でこんなヘタクソな語り口の映画をつくっちゃったのか。スターとしてもあの「追憶」(1973)では、赤狩りマッカーシズムの告発メッセージ映画ながら、ちゃんとキリリとした軍服姿を見せてメロドラマを楽しませてくれたではないか。それが分かっているレッドフォードなのに、なぜ?…ただ、逆に考えると、それほど語り口のうまさが際だった映画巧者レッドフォードが、こんなに不器用に口からツバ飛ばして露骨に言わねばならないほど、事態は深刻なところまで行っちゃってると言えなくもない。もう観客に考える余地を与える余裕もなく、「オマエらそれじゃダメだろ!」とわめかずにはいられないのか。そんなあたりにレッドフォードの無骨で不器用な誠実さを感じて、いくばくかの好感を抱いたのも事実。その真摯な気持ちだけは伝わるだけに…そして言ってることに共感しないわけじゃないだけに、こんな生硬な主張だけを振り回す映画になっちゃったことが残念でならないのだ。

さいごのひとこと

 政治より整形が気になっちゃう。

 

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