新作映画1000本ノック 2008年2月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「ウォーター・ホース」 「アメリカン・ギャングスター」 「シルク」

 

「ウォーター・ホース」

 The Water Horse - Legend of the Deep

Date:2008 / 02 / 18

みるまえ

 たぶん東京以外の映画ファンは知らないだろうし、東京のファンだってひょっとしたら知らないかもしれない。一昨年より始まった「東京国際シネシティ映画祭」のことだ。映画街として知られる東京・新宿の歌舞伎町を舞台に行われるイベントで、映画祭といっても3日間しかやらない小規模なもの。作品も映画の配給会社が手持ちの公開予定作品を出してくる、試写会に毛が生えたようなシロモノだ。だから、ひょっとして今年はやらないかもしれない。僕は知人のご厚意で、一昨年の第1回も昨年の第2回も顔を出すことが出来た。ちなみに一昨年見たのは「007/カジノ・ロワイヤル」(2006)。昨年2007年の11月25日に見たのが、今回ご紹介の「ウォーター・ホース」だ。何でもネス湖の恐竜秘話というから、ちょっと見てみたくなるではないか…。

ないよう

 恐竜伝説で世界的に有名なネス湖。ここには今日も数多くの観光客が、世界中から押し寄せてくる。その中に、いかにもお上りさん然とした若いカップル(ネイサン・クリストファー・ハース、ミーガン・キャサリン)がいた。二人は食事でもしようと、湖畔の食堂へと足を運ぶ。その食堂の壁に貼ってある有名な「恐竜写真」を見て、思わず笑ってしまう二人だ。すると、そんな二人に声をかける一人の老人がいた。「その写真はニセモノだ」…その老人(ブライアン・コックス)は、写真はニセモノだがネス湖のモンスターは実在すると語りかける。「私の話を聞きたいかい?」…こうして始まったのは、老人がまだ幼い少年だった頃の物語だ。それは第二次世界大戦の最中、アンガス・マクマロウ少年(アレックス・エテル)は、ネス湖の湖畔で何やら不思議なモノを見付けた。表面にこびりついた泥や藻をはぎとってみると、どうも巨大な青い卵に見える。アンガスはこの卵を自宅にコッソリ持ち帰ることにした。そうは言っても、こんなものを家に持ち込んだら面倒だ。幸い家は広大で、父が使っていた作業小屋もあった。その小屋に卵を持ち込み、様子を見ようと考えたアンガスだった。そんなアンガスは母のアン(エミリー・ワトソン)と姉クリスティー(プリヤンカ・シー)の3人暮らし。父親は戦地に赴いたまま帰って来ない。そんな寂しさゆえ、アンガスは卵を父親の思い出がしみついた小屋へと持ち込んだのかもしれない。ところが夜中のうちに卵が割れて…秘かに「それ」が生まれたではないか。翌朝、割れた卵の殻を見付けたアンガスは、小屋の隅っこに隠れた小さい「それ」を見付けてビックリ。ひっくり返った時の傷を治してやると、「それ」はこちらに不思議な情を持ち始める。そんなこんなですっかり「それ」が気に入ったアンガスは、図鑑にも載っていないこの生き物に「ロビンソン・クルーソー」からとった「クルーソー」という名前を与える。家の台所から残飯も持ち出して、自分の友達にしようと決め込むアンガスだった。ところが、そんなマクマロウ家に招かれざる客が押し寄せてくる。ハミルトン大尉(デヴィッド・モリッシー)率いるイギリス軍の一隊がやって来て、この屋敷を宿舎にするというのだ。どうやら海からネス湖にやって来ると思われるナチの潜水艦を、湖畔から大砲で迎え撃とうと考えているらしい。最初はいやがっていたアンだったが、それなりにイイ男のハミルトン大尉を見て気が変わる。実はアンガスの父親はすでに戦死して、アンは寂しい思いを毎日の雑事で紛らわせていたのだ。そんなわけでアンガスには困ったことに、イギリス軍がこの屋敷に居座ることになった。しかも驚いたことに、例の作業小屋に見知らぬ男が出現。その男ルイス・モーブリー(ベン・チャプリン)は、住み込みの下働きとして雇われたという。作業小屋にこのモーブリーが泊まり込むことになったため、「クルーソー」を隠しておく場所がなくなった。しかも「クルーソー」はもの凄い食欲で、食べると驚異的なスピードで成長するのだった。もはや隠しておくのも困難だ。しかもじっとはしてくれない。勝手に家の中に迷い込み、そのたびにひと騒動が巻き起こった。おまけに乾いてしまうと命に関わるらしく、慌てて「クルーソー」を家の風呂場に放り込むアンガス。しかしそんな無謀な計画が無難に終わるわけもなく、姉クリスティーと例のモーブリーに見つかるハメになる。危機また危機の連続だったが、母親にバレることだけは姉とモーブリーの機転で助かった。モーブリーは不思議な男で、「クルーソー」の正体を知っていたのだ。それはケルト人の伝説の生き物「ウォーター・ホース」だ。死ぬ前にたった一つ卵を産み、それが孵る時には親はこの世にはいない。常にこの世に1匹しか存在しない孤独な生き物…。そんな「クルーソー」をアンガスはいつまでも手元に置いておきたがったが、モーブリーはそんなアンガスをたしなめた。実際この成長スピードでは、「クルーソー」の存在はもはやアンガスの手には余っていた。仕方なくモーブリーが言うように、「クルーソー」をネス湖に放すことに同意するアンガスだったが…。

みたあと

 ネス湖の恐竜秘話…それだけで見たくなる人は見たくなる。僕もSF映画ファンとしては、この映画はハズせないと思った。ただ唯一気がかりだった点は、主人公が少年らしいこと。な〜んとなく生ぬるい話になるんじゃないかと思ったのだ。要はネス湖の恐竜をダシにして、可愛らしいファンタジー映画をつくろうと目論んでいるのか。実はその予想はズバリ的中してしまった。早い話がネス湖の「E.T.」ではないか。父の不在で「引きこもって」しまった少年と「モンスター」との交流を描いたお話。物語の骨子は全く同じだ。う〜む。

こうすれば

 先ほども言ったようにネス湖の「E.T.」のお話。僕は確かに「E.T.」は好きだが、これっていかがなものだろう。正直言って、ネス湖の恐竜使ってまで「E.T.」をやって欲しくはない。このネタならもっと面白い展開がいろいろ考えられそうなものだが、どんどんお話はしぼんでいく一方。予想される展開の最低ラインを突っ走ってしまうのでガッカリだ。僕はイギリス軍がネス湖畔で陣地を張るにが伏線になっていて、最後ネス湖に侵入して来ようとしたナチのUボートを「クルーソー」が蹴散らすという痛快なエンディングを夢想していたが、そんなもの望むべくもなかった。そんなもの望んだオレがバカだった。夢、しぼみまくり。また、主人公の少年がどんどんバカでかくなる怪物を、いつまでも自分の手元で飼えると思っているアホさ加減にもイライラさせられる。実際、この少年は父親を亡くして可愛そうなのかもしれないが、あまりにテメエ勝手なので見ていて腹が立って来る。「クルーソーはお友だち」と怪物可愛さに近づきたいのは分かるが、相手の首根っこにしがみついたまま湖の底まで付き合うってのはどうだろう。おかげで周りはみんな心配して振り回されるだけ振り回される。なのに何かと言えばボーイソプラノの甲高い声で「クルーソー!」「クルーソー!」の連呼。その都度ピリピリと神経逆撫でされてウンザリさせられる。このガキャアうるせえんだよ!…な〜んて書いていると、まるでみなさんに児童虐待男みたいに誤解されちゃうだろうか(笑)。でも、本当に耳障りなんだよね、このガキの声が…。演じるアレックス・エテルはダニー・ボイルの「ミリオンズ」(2004)で出てきた子役らしいんだけど、これほど声が耳につくとは…ハッキリ言って見なくてよかった。ただし、僕が興ざめした点はこの子役だけじゃない。いいトコのボンボンなのをいいことに最前線を逃れた場所でフンぞり返る、イギリス軍のハミルトン大尉にも愕然としてしまった。この男、アンガス少年の母親に目を付けて何とか言い寄ろうと画策。少年に軍隊教育を押しつけたり意味もなく湖に大砲をブッ放したり、アレコレとセコい策を弄する。下働きの男モーブリーが恋敵になりそうだとなると、この男の過去を洗って何とか蹴落とそうとさえするゲス野郎だ。終盤の少年と怪物の危機も、元はといえばこいつのせい。てっきりこの映画では仇役としての役割を全うするものと思いこんでいたら、いきなり最後に「いい人」になっちゃうのはどうだろう。さすがに見た人みんながビックリしたのではないだろうか。確かに僕は登場人物に悪人の出ない「後味のいい話」が好きではある。だが明らかに悪人扱いしていた人物が、前後脈絡もなくいきなり善人化するのはおかしいんじゃないか。世俗感たっぷりに主人公の少年を追いつめていた母親が、同じく最後にコロッと改心してしまうのも解せない。確かにおとぎ話といやぁおとぎ話だが、ジェイ・ラッセル監督はちょっと計算違いをしているんじゃないだろうか。

みどころ

 と、ボロクソにコキ下ろしちゃって申し訳ないくらいだが、本当は普通に見てそれなりに楽しめる映画なのだろう。単に僕が「ネス湖の恐竜秘話」と思って変な期待をしたのがいけないのだ。他のみなさんは、結構退屈せずに見れるのではないかと思う。他に目に付いた点をいくつか挙げれば…主人公の母親を演じるのはエミリー・ワトソンだが、いいトコのボンボンで軍のお偉いさん、おまけにソコソコいい男というハミルトン大尉が現れると、いきなりフェロモン全開で暑苦しく「女」をムキ出しにしてくるのが面白い。この役をワトソンがやっているから…なんだろうが、甘っちょろいおとぎ話の中に、唐突にナマナマしさが漂いだすのがおかしいのだ。あと、いつもはアクの強い個性で売っているブライアン・コックスが、少年の老いた姿として登場するのも意外性の勝利。ヌル〜いお話の最初と最後を、まるでブックエンドみたいに締めてくれた。

さいごのひとこと

 恐竜よりも生臭さ満点な主人公の母親。

 

「アメリカン・ギャングスター」

 American Gangster

Date:2008 / 02 / 18

みるまえ

 この映画は、劇場に置いてあるチラシで知ったのだろうか。それとも予告編か。ともかく最近では「スウィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師」(2007)と同じくらい圧倒的な、バツグンの安定感。何しろリドリー・スコット監督、ラッセル・クロウ、デンゼル・ワシントン…と来る。しかもリドリーとラッセル・クロウは、「グラディエーター」(2000)、「プロヴァンスの贈り物」(2006)と組んで「名コンビ」化しそうな気配。作品全体から絶対ハズさない予感が漂ってくる。ラッセル・クロウの刑事とデンゼルのギャングの対決も見ものだ。これは見るしかないだろう。

ないよう

 1968年、ニューヨークのハーレム。真夜中の街角で、椅子に縛られた男が頭から油をかけられ、火ダルマになって銃弾でとどめを刺される。その手を下したのは、暗黒街で生きてきた男フランク(デンゼル・ワシントン)。彼はこの街を仕切っているボス、バンピー・ジョンソンに仕えて今までやって来た。今では大ボスの信頼も厚い。バンビーは敵に回すとコワイが人情味に溢れた男。そんな彼の傍らで、フランクは「帝王学」を学ばせてもらった。だがバンビーとて寄る年波には勝てない。ある日、バンビーは街に出来たばかりの電化製品の量販店に入り、フランクに懇々と語りかける。「この店を見てみろ。ソニー、トウシバ…みんな日本製の商品を、問屋など通さずに安値で売っている。昔ながらの店や業者は、みんなやっていけなくなる。この国は変わってしまった」…そうつぶやくと、バンビーは崩れ落ちるように息を引き取った。こうして仕える主をなくしたフランク。街で絶大な権力を誇ったバンビーだけに、派手派手ないでたちで登場したディーラーのニッキー・バーンズ(キューバ・グッディング・ジュニア)や葬儀には蒼々たるメンバーが集まった。しかし誰もがそのショバを我がものにしようと、虎視眈々と狙っているのが分かる。そんな中、フランクは自分がのし上がるチャンスがやって来たと悟るのだった。その頃、ニュージャージーに一人の刑事がいた。この男リッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)は仕事優先の生活が祟って、妻ローリー(カーラ・グギノ)に三行半を叩き付けられていた。あげくの果てに息子の養育権も奪われそうな状況に、さすがに苛立ちは隠せない。それでも今日も今日とて相棒のジェイ(ジョン・オーティス)と容疑者の車の張り込みだ。ところがこの車には、100万ドルもの大金が入っていた。もちろんこれは警察として押収しなくては…とセオリー通りに処理しようとするリッチーだが、相棒ジェイはそんな彼に大慌て。どうも世間の常識と警察の常識は違うらしい。カネをバカ正直に押収するなんざ愚の骨頂。サツなら着服してこそ仲間…というムードに、リッチーの反骨の血が騒ぐ。一本スジを通して自分の流儀を通したリッチーではあったが、たちまち警察仲間から浮きまくるハメになる。相棒ジェイはその孤立感から麻薬にはしる始末だ。さて再びフランクはといえば、何とかバンビーのシマを自分のモノとして確立すべく奮闘する日々。アメリカ国内市場で出回る麻薬に比べ、ベトナムの米兵の間に流行っている麻薬はぐっと安い上に品質が高い…と聞いたフランクは、小銭をジャラジャラ握りしめて近くの電話ボックスへ駆け込んだ。電話の相手は、バンコクの米軍にいる従兄弟のネイト(ロジャー・グエンビュー・スミス)だ。アメリカ国内の麻薬はマフィアなどが不純物を入れたり中間搾取しているので、値段は高いし質も低い。それならオレは、もっと質のいい商品を安く提供する…そんな信念に燃えたフランクは、単身バンコクへ飛んで現地の麻薬農場に乗り込み、生産者であるタイの大ボスと直談判した。「しかしヤクを手に入れたとして、どうやって米国へ?」…何とフランクは、とんでもないウルトラCを思いついていた。ネイトを通じて米軍を買収し、軍用機でアメリカまで持ち込もうというのだ。こうして安く純度の高い麻薬を手に入れたフランクは、それに「ブルー・マジック」というブランド名を付けて大々的に売り出した。すると…これが売れるわ売れるわ。たちまちフランクはハーレムの勢力図を…いや、米国内の麻薬マーケットの勢力図を塗り替えるに至る。勢いに乗ったフランクは大枚はたいて立派な豪邸を購入し、失礼ながらこんな家にはまるで不釣り合いな一族郎党を呼び寄せる。やって来た母親(ルビー・ディー)は豪邸に大感激、弟ヒューイ(キウェテル・イジョフォー)も兄フランクへの尊敬の念を新たにした。そしてフランクは、自分を慕ってくる弟ヒューイたちに「仕事」の手伝いをさせる。こうして本来は堅気だった弟たちまで、麻薬稼業にドップリ漬かることになった。ちょうどその頃、リッチーは腐敗した警察仲間に嫌気がさして、司法試験に挑戦してこの場から逃げ出そうと考え始めていた。そんな彼の元に、検察官のルー・トバック(テッド・レヴィン)がやって来る。彼は既存のしがらみとは無縁の「麻薬捜査班」を立ち上げて、麻薬ルートを徹底的に壊滅させようと考えていた。その新設の「麻薬捜査班の責任者に、リッチーを起用しようと考えたわけだ。押収したダーティー・マネーを着服しなかったバカ正直さが買われたわけだが、リッチーには好きな警察から好きなスタッフを抜擢する権限まで与えられた。こうなると俄然やる気を出すリッチー。早速、急造チームによる捜査が始まった。ところがそんなリッチーたちの前に立ちふさがるのは、ニューヨーク市警の悪徳刑事トルーポ(ジョシュ・ブローリン)たち。早くもリッチーたち「麻薬特捜班」に前途多難の予感。さて、麻薬密売の「ギョーカイ」で大いに名を売るフランクではあるが、この世界が長いだけに言動は慎重に徹していた。目立つのが一番よくないと分かっているのだ。だからスーツも一級品でビジネスマンのように紳士然とした行動を心がけていたし、弟ヒューイが派手なニッキーを見習いそうになると厳しく叱責もした。そんな紳士フランクが思わず目をつけたいい女…それが元ミス・プエルトリコのエヴァ(ライマリ・ナダル)だった。こうと決めたらフランクの行動は早かった。持ち前の男の魅力と金力・権力を駆使して、あっという間にエヴァを口説き落とす。さらに「出るクギは打たれる」の心配を回避するため、マフィアのドンであるドミニク・カッターノ(アーマンド・アサンテ)にも接近。いろいろと便宜を図ってやる代わりに、自分の身の安全を保証させた。こうして我が世の春を謳歌するフランクだったが、盲点が一つだけあった。エヴァを連れて出かけたジョー・ブレーザー対モハメッド・アリ戦。暗黒街の大物たちをさしおいて、リングサイド席に堂々と座る見知らぬ黒人男の姿に、その場で関係者の写真を撮っていた「麻薬特捜班」が注目した。「奴は誰だ?」…こうしてリッチーは、フランクの身辺を洗うことになった。フランクにとって悪いことは続く。その存在が目立って来たフランクに、あの悪徳刑事のトルーポが近づいて来て、強引に賄賂を要求してきたのだ。それまで順風満帆だったフランクは、初の屈辱に苦虫を噛みつぶす…。

みたあと

 やっぱり信頼のブランド、リドリー・スコット作品は面白い。ハッキリ言ってこう言ってしまってオシマイにしてもいいくらい。2時間半以上の長尺があっという間だ。驚いたのは…今のリドリー・スコットには、かつての映像のスタイリストぶりが全くないこと。「ブレードランナー」(1982)を例に挙げるまでもなく、「誰かに見られてる」(1987)のマンハッタン、「ブラック・レイン」(1989)の大阪などでも毎度おなじみのようにスモーク炊いて逆光で撮影。バカの一つ覚えみたいに、スモークと逆光がトレード・マークみたいな人だった。ところがいつの頃からかその両方ともスクリーンに出てこないなと思っていたら、「グラディエーター」や「ブラックホーク・ダウン」(2001)などで骨太な作品を連発。かと思えば、「マッチスティック・メン」(2003)や「プロヴァンスの贈り物」のような味わいのある小品もいける…と硬軟自在の大活躍。何をやらせても面白いという怖いモノなしの状態になっていた。今回もいかにもマーティン・スコセッシあたりがやりそうな、長時間に及ぶギャング年代記もの。1970年代という時代背景から当時のヒット曲をBGMにする手つきまで似ているが、スコセッシのギャング年代記ものといえば娯楽大作化した「ディパーテッド」(2006)に至るまで作家的実験精神というか…エッジの尖った表現を随所にチラつかせるが、スコットの場合はまったく危なげがない安定感が売り物。まぁ、ペシミスティックな未来SFからスペクタクル史劇、リアルな戦争映画から詐欺師を描いた小咄までこなしてしまうという守備範囲の広さ…というか節操のなさ(笑)。それもこれも…今のリドリー・スコットの作家的特徴って、何より「語り口のうまさ」ってことなんじゃないかと思うのだ。今回もそのうまさへの期待は、微塵も裏切られることはない。

みどころ

 というわけで、今回はケチなどつける気もない。長尺も楽しんで見ることができた。問題のラッセル・クロウとデンゼルの両雄は…というと、驚いたことに映画の3分の2以上超えたところまで顔合わせがないという大技。それだけに、「アメージング・グレース」流れる教会の前で、両雄が初めてにらみ合う場面は「いよっ、待ってました!」と言いたくなるケレン味たっぷりの名場面。見ているこちらも「やってるやってる」と嬉しくなる盛り上げぶりだ。そして…それでも「スター映画としてはここでオシマイは残念だなぁ」…とこちらが思い始めるちょうどその時に、お話はあっと驚く方向転換を果たす。何と二人で手に手をとって、悪徳刑事をやっつけるのである。なるほどワルの上前をはねるワル…しかも法を守る側にいるはずの人間が悪事に荷担するというのは、単なるワルよりももっと悪い。劇中でもこの悪徳刑事の印象は、他の悪党どもより群を抜いて悪いのである。…というわけで、お話がデンゼル中心に展開することもあっていいかげん観客も彼に感情移入しているところ。最後に彼の逮捕でオシマイっていうんじゃカタルシスも何もないと思ってところに、何とも嬉しい着地点が用意されているのがうまい。もっともこれって実話なので、ファン・サービスのためにつくった展開ではないと思うが、それにしても観客のツボに入ってくる見事な話芸だ。あと、個人的にはマフィアのボス役にご贔屓アーマンド・アサンテ(「Time Machine」をご参照のこと。)が、久しぶりにすっかり老けて出てきたのが嬉しかった。

おまけ

 デンゼルが行った麻薬商法は、冒頭の量販店のシーンで暗示されているように、いわゆる「産直商法」。ここでデンゼルがやっていたような商法が、実はあっという間に世界を席巻したアメリカン・スタンダードなビジネス・モデルだと示唆されるあたりがこの映画の非凡なところ(テレビでやっている「トシとってからでも入れる」「病気でも入れる」「月々の支払いも安い」…だけど「戻ってくる見返りはデカイ」という、あまりに良いことずくめで逆に胡散臭いアメリカンなんとか保険…なんてシロモノまで連想させられる)。「儲かりゃいいんだよ!」「勝ちゃいいんだよ!」で下々の小さい業者や店を見境なく蹴っ飛ばすようなこうしたやり口が、小泉時代を通過した今の日本を支配しているのは言うまでもない。そう考えていくと、一連の「改革」が漂わせる何とも言えないエゲツなさも理解できようというもの。

さいごのひとこと

 いい品物をより安く…とは、何とも「消費者思い」の商法(笑)。

 

「シルク」

 Silk

Date:2008 / 02 / 04

みるまえ

 この映画については昨年の東京国際映画祭で話題になっていたので、大体は知っていた。ヨーロッパと日本にまたがる文芸大作風の作品。キーラ・ナイトレイやら役所広司やらとスターも出ていて、ちょっと豪華な感じもある。面白そうな予感。しかも公開が近づいてチラシを見てみたら、この映画って「レッド・バイオリン」(1998)の監督の最新作ではないか。「レッド・バイオリン」といえば、17世紀のイタリアに始まりオーストリア、イギリス、中国、そして現代のカナダ・モントリオールに至る、一個のバイオリンの変遷を描いた作品。こういう多くの時代やら国々を巡る、さまざまなエピソードが織りなす作品っていうのは、そもそも僕の大好物。僕がいろいろ問題点に気づきながら、「バベル」(2006)をキライになれない理由もそこにある。「レッド・バイオリン」でも、サミュエル・L・ジャクソンと香港女優シルヴィア・チャンが同じ一本の映画に出てくるって発想だけでワクワクする。ただしこの映画ってあまり予算がなかったようで、だから大スケールの作品になりそうな話なのに、なぜか少々チマッとした印象の作品になってしまっていた。それでも、この作品の野心的な試みを、僕は結構気に入っていたのだ。そんな監督フランソワ・ジラールの新作とくれば、期待するのが当然。さらに片やキーラ・ナイトレイが出てきて他方で役所広司が出てくるという、またしても僕好みの複数の国を舞台にする群像劇だ。おそらくジラールという人、毎回こういう題材に惹かれて映画を撮っているんだろう。ますます、これはぜひ見なければ…という気持ちになった。しかしもう一方で、実は僕の胸の内には若干の不安も芽生えていたのだが…。

ないよう

 白一色の水墨画のような世界。彼方には雪が積もった山々が見え、目の前にはもうもうと湯気を立ち上らせている露天風呂。そこに…こちらに背中を向けて湯に浸かっている、一人の東洋娘の姿が見える。それはある男の胸に今も残る、遠い昔、遠い国でのメモワールだ…。その男の名はエルヴェ(マイケル・ピット)。話の発端は、1860年代のフランスに遡る。戦地から休暇で故郷の町に帰って来た若者エルヴェは、美しい娘エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)に魅了される。たちまち戦地などに戻る気はなくなり、彼女とこの地にとどまりたいと思ったが、そんな彼の思いをこの町の町長を務める厳格な父が受け入れるわけもない。エルヴェは仕方なく戦地に舞い戻って行く。ところがその頃、町に一人のやたら押し出しの強い男がやって来た。この男バルダビュー(アルフレッド・モリーナ)はいきなり町長であるエルヴェの父の元にやってくると、絹の記事を彼の目の前に放り出す。「こいつを見ろ!」「い、一体何だ。こんな布っきれを放り投げて。こりゃ女の管轄だろう」「いいや、こいつはカネだ。男の管轄さ」…そう言うやバルタビューはいきなり町長に直談判。「これからはオレはこの町に製紙工場をつくって大儲けする。町も潤っていい話だ。だからオレに邪魔が入らないようにしろ」…と、一事が万事この調子に強気のバルタビュー。しかし、これが図に当たったから世の中分からない。こうしていまにヤマっ気たっぷりのバルタビューは、この町の「名士」となったわけだ。ところが良いことばかりは続かない。欧州全域に蚕の病気が流行し始めたのだ。このままではこの街の蚕も無事には済むまい。かくしてバルタビューが白羽の矢を立てたのは、若く逞しいエルヴェ。軍隊から足を洗わせた彼をエジプトに派遣し、まだ病気に感染していない蚕を入手させるのだ。しかもこの仕事は、エルヴェにとってもメリットがあった。これを引き受ければ、バルタビューがエレーヌとの結婚について父親を説得してくれるというのだ。かくして慌ただしくエレーヌと結婚式を挙げたエルヴェは、新婚生活もそこそこに遙かエジプトをめざす。この旅は比較的簡単で、エルヴェは蚕の卵を手に入れて帰ってきた。しかしその卵も、すでに病原菌に感染していた。かくなる上は…とバルタビューがエルヴェに提案したのは、遙か極東の国・日本への旅。今度はエジプトとはけた外れに遠い国だ。しかも、日本は本来は外国人を受け入れぬ国だ。あくまで密かに密入国を企てねばならない。だが、蚕なしには街の繁栄もない。エルヴェはまたしても新妻を置いて、遠い異国へと旅立つことになった。列車に乗りロシアへ行き、遙かな大雪原を旅して、さらに船に乗って海を渡る。こうして着いたのは日本の酒田の港。ここで事前に手配していた現地の男を頼りに、最上川をのぼって信濃の雪深い山中へと進む。彼らも用心に用心を重ねているようで、途中で案内人が交替するばかりか、エルヴェは目隠しされるという念の入れようだ。こうしてやってきたのは山奥の寒村。ここでようやく卵の買い付けへと話は進む。商談も済んでいよいよ帰ろうというその時…エルヴェは突然ある屋敷に呼ばれるではないか。緊張の極にいたエルヴェの前に現れたのは、ミステリアスな若い娘(芦名星)。彼女は杯に酒を注いでエルヴェに渡した。そして次に現れたのは、この集落のリーダーらしき原十兵衛(役所広司)という男。「オマエはなぜこんな偽金を払った?」…何とエルヴェが支払ったのはニセの金だというのだ。しかしエルヴェは平然と言い放つ。「そちらが出した卵がサカナの卵だったからだ」…この不敵なセリフが気に入ったのか、十兵衛はエルヴェに危害を加えることもなく、約束の蚕の卵を渡すことを約束する。だがもっとエルヴェを驚かせたのは、例の娘がエルヴェが口をつけた杯をそっと飲み干したことだった。こうして無事に卵を手に入れたエルヴェは、ようやく懐かしい町に帰ってくる。待ちかねたエレーヌと抱き合うエルヴェ。この卵は町に活気を取り戻し、エルヴェに莫大な富を与えた。その金でエレーヌのために広大な土地を買い、屋敷と庭をつくるエルヴェ。しかしその脳裏には、常にあの日本のミステリアスな娘が甦る。だから翌年また日本に行ってくれと言われても、エルヴェは拒まなかった。また同じコースを辿り、遠い旅路の果てに例の寒村にやって来るエルヴェ。しかし今回はいささか様相が違っていた。何よりこの村にエルヴェ以外の「西洋人」がいるではないか。どうもこの男、銃を売るためにこの村にやって来たらしい。エルヴェらを迎えての宴会でも、十兵衛や村人たちは何やら不穏な情勢について語っているようだ。そんなエルヴェの宿に、あの沈黙の娘がやって来る。しかし彼女は十兵衛の代理として、村の客人エルヴェを「接待」する女を連れてきたのだ。なめらかな肌の女を抱きながら、エルヴェは扉の向こうに控える沈黙の娘の存在を確かに感じていた。そして彼女は、別の日にエルヴェのもとにやって来ると、黙ったまま小さい紙片を渡して去っていく。そこには毛筆で、彼には分からない言葉が書いてあった。そんなナゾを残して、例の娘に心を奪われながら帰国したエルヴェだったが…。

みたあと

 美しい映画。カラフルなフランスと対照的に、水墨画のように色が抑えられた日本。誰でもこの映像の美しさと、それがかなり意図的につくられたものであることは、早々に気づくことに違いない。もう一つ気づくのが、キャスティングのこと。それなりの豪華さもある顔ぶれだが、今やハリウッドでも大モテのキーラ・ナイトレイはあくまで「脇」に回って、メインは「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」(2001)や「ドリーマーズ」(2003)で頭角を現した若手マイケル・ピットであるところがユニーク。そして、それが逆にナイトレイをちょっと新鮮に見せてもいる。「バベル」(2006)に引き続いての外国映画出演となった役所広司が、すっかり「国際スター」然として登場してきたのもビックリ。

みどころ

風土による視覚的な違いについてはかなりこだわっていたようで、たったワン・カットのためにエジプトにロケしたり、ほんのわずかのショットのためにロシアにロケしたり…と、かなり贅沢だ。まずはその美しさはホメねばなるまい。その中でももちろん日本ロケ場面の美しさは、我々日本人にとっても特筆モノ。そして「ラストサムライ」(2003)以降、外国映画での日本場面にかつてのトンデモ描写はすっかり見かけなくなった。ここでもリアルな描き方(ディティールでは怪しげな部分も少なくないのだが)に危うい点はさほど感じられない。

こうすれば

 しかし、見終わった感想は…と言えば、いささかスッキリしない。というより、分かったような分からないような歯切れの悪さが残る。まずは登場人物の言動の不可解さ。その最たるものは、何と言っても芦名星扮する日本娘で、一体何を考えているのか皆目分からない。西洋人から見たエキゾティックでミステリアスなセンを狙っていることは分かるのだが、それにしたってやりすぎでまるで生きている人間に思えない。やけに「蝶々夫人」みたいな日本娘の設定だなと気になってくる。実は後々になってそれこそが作り手の狙いだったというのが分かってくるのだが、それでは他の登場人物まで心情がハッキリしないというのはいかがなものだろう。何よりキーラ・ナイトレイ扮する妻の考えが、分かったようで分からない。日本娘に成り代わって日本語で手紙を書いてもらって、それで結局どうしたかったのかが分からない。アルフレッド・モリーナのバルダビューもよく分からない男で、片手でビリヤードをやって云々…ってくだりも全く意味不明。マイケル・ピットの主人公もあれだけ犠牲を払って日本に舞い戻りながら、結局日本娘はどうなったのか判らずじまいで帰国してしまう。観客としてはこれくらい欲求不満にさせられる展開もない。元々の原作がそうなんだと言えばそれまでだが、それを映画に移し替える際のやりように問題はなかったのか。これって単に作り手の人間描写が拙いということにはならないか。先に日本場面がそれなりにリアルだ…と述べたが、なまじっかリアルに見える日本場面が逆に仇になったようにも思える。これがすべてマイケル・ピット演じるエルヴェの主観による日本だった…ということだったら、それなりの「作り物」っぽさもあってよかったのではないか。どれもこれも映画的処理の方法が、いささか馬鹿正直過ぎた気がする。そして、そんなこんなのツメの甘さみたいなものを考えてみると、実は脚本・監督のフランソワ・ジラールの前作「レッド・バイオリン」にもそんなところがあったと思い当たるのだ。あの映画では、ラストでサミュエル・L・ジャクソンが行う行為(何をするかについてはあえて語らない)に、見ていて少なからず疑問を感じさせられた。何かがズレている。狙っているものや全体の構想にはいいものを感じるのだが、やっぱりどこか「甘い」としかいいようのない結果に終わっているのだ。

さいごのひとこと

 昔も今も西洋男にぶら下がる日本娘というパターンは不動。

 

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