「シャイン・ア・ライト」

 Shine a Light

 (2008/12/15)


  

見る前の予想

 とうとう…と言うべきか、やっぱり…と言うべきか、ローリング・ストーンズのライブをマーティン・スコセッシが映画にするというプランが発表された時、僕はあまり驚きはしなかった。むしろ、起きるべきことが起きた…と思ったかもしれない。

 マーティン・スコセッシと言えば「ロック通」の映画監督。今までのフィルモグラフィーでも、数多くのロック・クラシックを引用してきた。それらの中には当然ながら、ストーンズ・ナンバーも多く含まれる。いずれも映画の重要なポイントをなった起用ぶりだ。しかもそのキャリアの初期に伝説の「ウッドストック」(1970)の編集を手がけただけでなく、ロック映画の中でも「不朽の名作」と言うべきザ・バンドの解散コンサート映画「ラスト・ワルツ」(1978)をつくった人物でもある。これ以上の適任者はいないだろう。

 スコセッシにとってはディパーテッド(2006)でのオスカー受賞後初の劇場用映画。それだけ見ても力の入れようが分かる。これは大いに期待できるぞ…と完成を心待ちにするのが、映画ファンならびにロック・ファンとしての「正しい態度」なのだろう。

 まして僕は2006年のストーンズ日本公演を見て、複雑な思いに駆られたクチだ。その状況については、本サイトのエッセイ「私が子供だったころ」さよならストーンズの巻を読んでいただければお分かりいただけると思うが、これがまた実に貧寒とした雰囲気のコンサートだったのだ。これにはさすがに悲しくなってしまった。

 まぁ、ハッキリ言ってストーンズは現役バリバリのロックンロール・バンドとはいえ、ここだけの話、1981年の「スタート・ミー・アップ」以降は代表曲と言えるヒット・チューンを生みだしていない。ほぼ毎度おなじみといった印象の曲を並べた、もはやそれぞれの区別が付かないアルバムをポツリポツリと発表しているアリサマだ。まるで暮れの紅白歌合戦でしかテレビで見ない、大御所の演歌歌手みたいなもんか(笑)。ファンとしては認めたくないものの、もはや峠を越えちゃった観もなきにしもあらず。解散こそしていないけれど、ビル・ワイマン脱退以後はザ・フーやレッド・ツェッペリンといった「再結成」組とあまり変わらないのではないか。

 そんな不安を心のどこかで漠然と抱えていたから、まさにそれを絵に描いたような悲惨なコンサートを見せられ、こりゃそろそろお別れかなと思ったわけだ。

 ところが後日聞いたところによると、別の日のコンサートはかなり盛り上がったものだったらしい。いろいろな話を総合してみると、どうやら不慣れな招聘元のセッティングのミスやら諸々の段取りの悪さで、客の入りが異常に悪い冷え冷えしたコンサートにしてしまったということのようだ。そもそもオッサンのファンが大多数のストーンズのコンサートを、平日の東京ドームばかりで組むのがムチャというもの。誰も見に行けないって。

 そんなわけですっかり寂しいコンサートを見せられちゃった無念もあり、元気なストーンズのライブが見たいと思っていた僕なのだ。そこにこの映画がやってくるとなれば、それは絶対に見たいではないか。

 ただし、それが「映画」として見たいのか…となると微妙なところ。

 むろん、あの迫力満点のストーンズのステージだ。漠然と撮影されたものでもエキサイティングに違いない。ただし、それは映画だから面白いんじゃなくて、ストーンズだから面白いのだろう。今までストーンズのライブ映像ならたくさん見てきたし、ライブ・アルバムだって掃いて捨てるほど発表されている。確かに見れば楽しいだろうが、それは単に「ストーンズのライブをまた見ることができる」という喜びでしかあるまい。よっぽど変わったことでもしない限りストーンズのライブはストーンズのライブ。そんなに変わり映えがするわけはないのだ。だったら、そこに大マーティン・スコセッシが出てくることもないんじゃないか。

 そんな期待してるんだか期待してないんだかよく分からない心境でいたところ、先に劇場で実物に接した人から「面白い!」とのお墨付きをいただいた。

 ならば、ここは見ないわけにいくまい。ストーンズ・ファンとして、ここは見ずにいられないのだ。

 

あらすじ

 アメリカ映画界でも有数の映画監督であるマーティン・スコセッシが、ローリング・ストーンズのコンサート映画を撮る。それは確かに夢の実現だったが、当事者にしてみれば悪夢の始まりだった。

 何しろ、ストーンズが捕まらない。ワールド・ツアー敢行中のストーンズは、ロンドン、シカゴ、バンクーバー…などなど、世界各地を転々としていた。それなのに、映画を撮影するコンサートの日取りは間近に迫る。間近に迫っているのに、実はまだ何も決まっていないに等しい。マーティン・スコセッシは、今日も今日とてスタッフと打ち合わせの真っ最中だ。

 「問題はですね、この照明をあまり長い時間当てていると、被写体が発火する恐れがあります」

 「ミック・ジャガーに火がつくっていうのか? ミックを燃やすわけにはいかんよ!」

 映画撮影の会場は、ニューヨークのビーコンシアター。ストーンズのコンサートを行うにしてはこぢんまりとした会場だ。ここに少々クラシックな印象の装置をつくろうというプランだったが、ツアー中のミック・ジャガーはどうもこれに納得していないようだ。セットの模型を持ってきたスタッフにも、思い切り憮然とした表情を見せる。

 「ご要望の通りにつくってきましたが…」「オレはこんな要望出してないぜ。全部マーティーの注文だろう?」

 一方、ニューヨークのマーティン・スコセッシは、セットの模型にミックからイチャモンが付けられたと聞いて、これまた唖然呆然だ。「何だって? ミックがいう通りにつくったのに!」

 早くセットを作らなければならないのに、こんな調子で時間だけが虚しく過ぎていく。

 しかし、セットの話はまだ序の口というべきだろう。マーティン・スコセッシにとってもっと頭が痛い問題は、いまだにコンサートのセット・リスト(曲順表)が出来上がっていないことだ。

 マーティン・スコセッシはこの映画を完璧なものにするために、曲ごとのカメラワークやカット割りを事前にキッチリ決めておきたかった。そのためには「どの曲をどの順番で演奏するか」が分からなければならない。そのためのセット・リストが、いまだストーンズ側から到着していないのだ。

 その頃肝心のセット・リストは、飛行機で移動中のミック・ジャガーによって検討されている真っ最中だった。圧倒的知名度のマスト・アイテム的な曲、ソコソコ知られてはいるがヒットとは言い難い曲、あまり知られていない曲…などを詳細にリストアップした資料から、ミックは慎重に選曲を繰り返す。

 一方、いつまで経っても曲が分からないスコセッシは、仕方なく勝手に曲を想定して準備せざるを得ない。「あれはきっとやるだろう」「これをやらなきゃ始まらない」…とはいえ、40年以上のキャリアを誇るバンドの持ち歌だ。どれをとっても確実に「演る」「演らない」なんて分かるわけがない。曲名を挙げていくだけでアホらしくなってくる。いいかげんスコセッシはキレかかっていた。

 それでも、ともかく当日がやってくる。

 コンサート・スタッフがごった返すビーコンシアター。そこにカメラや照明を従えた映画スタッフが混ざり合う。おまけにこの日は、冒頭に一席ぶつ元アメリカ大統領ビル・クリントンご一行まで登場するから騒がしい。かのコワモテ集団ストーンズでさえも、クリントンの招待客や親族には愛想を振りまかねばならないのだ。挙げ句の果てはヒラリー・クリントンのこんな言葉も飛び出す。「ママったら! ストーンズを待たせてるわよ!」

 そんなてんわわんやの最中も、スコセッシの頭痛の種は増すばかり。何しろ開演を目の前にしても、まだセット・リストが届いていないのだ。

 「頼む、曲順はいいから何の曲をやるのか教えてくれ。それもダメなら最初の曲は何か…だけでもいい。キースのギターで始まるのか、ミックの歌で入るのか、それによってもカメラの配分が変わってくるんだ!」

 しかし楽屋裏の混乱は止まない。スコセッシは仕方なくスタッフと準備を進めるが、以前として漠然としたかたちでしか用意できない。そんな開演直前のこと、スタッフの一人が一枚の紙を掴んでスコセッシのもとに駆けつけるではないか。

 「セット・リストを入手できました!」

 「いいぞ! じゃ、1曲目は何だ?」

 満員のビーコンシアターでステージの幕が開き、キース・リチャーズがあの有名なギターのフレーズをかき鳴らす。おなじみ「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」で幕開けだ!

 

本作に至るまでのストーンズ、スコセッシとロック映画

 実はローリング・ストーンズにとって、ライブを記録することは決して珍しいことではない。

 ライブ・アルバムはキャリア最初期の1960年代から存在しており、その都度、バンドの節目節目でライブ・アルバムを発表していた。正直言うと1982年の「スティル・ライフ」以降は、レコード会社との契約を消化するために出したようなライブ・アルバムも少なくない。そんなわけでストーンズのライブ素材はやたら存在しているので、正直言って今さらあまり有難みも感じられないのだ。

 またストーンズのドキュメンタリー映画もいろいろあって、まず有名なのは1969年のオルタモントでの不幸な事件の映像を含む「ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター」(1970)。フィルムにたまたま写った、ヘルスエンジェルスのメンバーによる殺人の瞬間の方がメインになってしまった作品。正直言って、僕もこの映画についてはあの事件の印象しかない。あと「コックサッカー・ブルース」(1972)という日本未公開の作品もあるようだが、題名から察するにこれもかなりヤバイ内容のようだ。この当時のストーンズといえば、まさに「ドラッグ、セックス&ロックンロール」を地でいく存在。麻薬問題で入国できず、日本公演が幻に終わったというのも、このあたりのイメージを引きずっていたからだ。とてもじゃないけど、体調維持のために皇居前広場でジョギングするミック・ジャガー(笑)なんて、この当時は想像つかなかったのである。

 そういえばコンサート映画ではないものの、ストーンズには何とジャン=リュック・ゴダールとのコラボという贅沢な作品「ワン・プラス・ワン」(1968)があった。当時のゴダールの女であるアンヌ・ヴィアゼムスキーが出てくる「革命がどうしたこうした」とブツブツ言ってる理屈っぽいシークエンスと、ストーンズがスタジオで「悪魔を憐れむ歌」をゼロから創り上げていく過程を記録したシークエンス…これらが交互に出てくるという構成だ。正直言って「革命が云々」というシークエンスは何が言いたいのか分からないし、こっちも興味がないしで退屈(笑)。途中この「革命」がやたら挟まっているので、何だかウンコが出そうで出ないようなもどかしさを感じながらも、ストーンズの創作の秘密をかい間見せるような瞬間があって、ファンとしてはかなり興味深かった。

 ただし、このあたりは僕もまだ幼かった(笑)ためリアル・タイムで接していない。僕がリアルタイムで接した彼らのライブ映像というと、1976年のアルバム「ブラック・アンド・ブルー」発表に伴って行ったワールド・ツアー、そのパリ公演を収録したテレビ・ドキュメンタリーからだろうか。内容的にはほぼライブ・アルバム「ラブ・ユー・ライブ」(1977)と重なるものだ。

 映画はといえば、ハル・アシュビー監督による「ザ・ローリング・ストーンズ」(原題は「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」・1982)もあった。これはアルバム「スティル・ライフ」と内容がほぼ重なる、「タトゥー・ユー」ツアーを撮影したものだ。

 ハル・アシュビーといえばいかにもロックに造詣が深い監督…というイメージが強かったので、さぞや素晴らしいものが出来るだろうと思っていたが…確かに素晴らしいことは素晴らしいが、それはあくまでストーンズのライブの素晴らしさであって、映画としての素晴らしさとは違ったんじゃないだろうか。考えてみるとハル・アシュビーっていかにもロック好きって顔をして映画をつくっていたけど、「帰郷」(1978)などあれだけロック・クラシックを垂れ流していながら、まったく印象に残っていない。そもそも「ロック通」などと名の通った映画監督に限って、ヴィム・ヴェンダースにしてもレオス・カラックスにしても、およそセンスのない垂れ流ししか出来てない。実はビシッと決まったロックの使い方が出来ている監督といえば、詳しくは後述するが…僕はマーティン・スコセッシ、フランシス・コッポラ、スタンリー・キューブリックの3人にトドメを刺すと思っている。そんなわけでこの映画に関して言えば、ハル・アシュビーが余計な事をしてストーンズのジャマをしなかっただけ良かった…といったところだろうか。ストーンズは映画音楽としてはかなり味のある使われ方をしているだけに、もうちょっと「決定版」的な映画があってもいいんじゃないか…と、映画ファンでありストーンズ・ファンである僕なんかは思っていたものだ。

 実際、映画におけるストーンズの楽曲は、ビートルズなんか遠く引き離すほど見事に使われている。ビートルズの場合、使用料がメンバーの老齢年金としてバカ高く設定されているために、映画製作者が使いたくても使えないってこともあるだろう。しかしそんな要素をさっ引いても、ストーンズの音楽は見事に「映画的」だ。何しろストーンズの曲をネタにした映画「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」(1986)、「悪魔を憐れむ歌」(1997)が2本もあるくらい。実際には、前者はウーピー・ゴールドバーグ主演の他愛のないコメディ、後者は実際に劇中に出てきたのは表題曲ではなく、別の意味で初期ストーンズの代表曲である「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」だった…ということからして、「ストーンズは映画的だ」と断じるのはいささか無理があろうかとは思うが、その映画との相性の良さは推して知るべし。映画製作者に「何か」を感じさせるのが、ストーンズの音楽なのだろう。

 そんなストーンズの曲の真価を引き出したのが、一連のベトナム戦争映画。先に挙げた「帰郷」でもふんだんに使われたが、それより印象に残る使われ方をしたのが、フランシス・コッポラの「地獄の黙示録」(1979)における「サティスファクション」だろうか。ベトコンの村をナパーム攻撃で焼き払ったあげくサーフィンに興じるという狂気の沙汰に、このストーンズの出世曲がビシッとハマった。

 さらにそれを上回る衝撃を与えたのが、スタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」(1987)のエンディング。クロージング・タイトルの背景に流れるだけなのに、「黒くぬれ!」が何とも不気味に鳴り響くのだ。これは「時計じかけのオレンジ」(1971)におけるジーン・ケリーの「雨に唄えば」使用を上回る、キューブリックの抜群の選曲センスではないだろうか。

 最近ではVフォー・ヴェンデッタ(2005)のエンディングに流れた「ストリート・ファイティング・メン」が秀逸。映画のラジカルでアナーキーな内容と、1960年代後半のストーンズの「ヤバさ」とがピッタリと合致した、素晴らしい選曲センスだった。

 そんなストーンズの楽曲を自作にふんだんに活用したのが、誰あろうマーティン・スコセッシだ。

 元々スコセッシは、「タクシー・ドライバー」(1976)でジャクソン・ブラウンの「レイト・フォーザ・スカイ」、「グッドフェローズ」(1990)でデレク&ドミノスの「レイラ」の後半(!)を、見事に使いこなすなど、抜群のロック・センスを持っている(それはロックに限らず音楽全般に関するものであるが)。その選曲センスの最高峰ともいえるのが、初期の傑作「ミーン・ストリート」(1973)。ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」の使い方など今見てもシビれるが、この作品の中でスコセッシは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」と「テル・ミー」という2曲のストーンズ・ナンバーを使用。これがどちらも素晴らしいハマり方なのだ。最近でもあのオスカー受賞作「ディパーテッド」で、冒頭から「ギミー・シェルター」を使用。見ている僕らも「やってるやってる」と、スコセッシのストーンズ・ナンバーへの惚れ込みっぷりに嬉しくなったものだった。

 さらにマーティン・スコセッシには、前述したように「ラスト・ワルツ」というロック映画の傑作もある。ザ・バンドの解散コンサートを記録した、まさにエポック・メイキングな作品。途中に挟まる関係者の証言もそれぞれ興味深いし、コンサートに参加したエリック・クラプトン、ニール・ヤングなどの豪華ゲストにも目を見張ったが、何より衝撃的だったのはコンサートのヤマ場…ゲストの中でも大トリ、大御所ボブ・ディランを迎えての「アイ・シャル・ビー・リリースト」の大合唱には鳥肌が立った。これを見ていて、「もうロック・ミュージックは終わっちゃうのかなぁ」と感慨に耽らなかった人はいまい。この映画は、単なる音楽ドキュメント映画を超えていた。

 そんなわけだから、映画と相性のいいストーンズと、そんなストーンズの楽曲の魅力を知り尽くし、ロックを「分かっている」監督スコセッシのコラボは、大いに期待されるのが当たり前。当然、僕だって楽しみにしていいはずだった。

 しかし僕は、同時にこうも思っていた。誰が何と言おうと、ストーンズのライブはストーンズのライブ。あれだけ多くのライブ音源が発表され、映画などの映像作品になっており、なおかつナマのコンサートも何度も自分で見ている今となっては、いかにスコセッシといえどもストーンズのライブ映画で何かやれる余地なんかないのではないか。もし「何かやろう」としても、それはストーンズの音楽そのものの魅力のジャマにしかなるまい。だとしたら、何度も見たり聞いたりしている「毎度おなじみストーンズのライブ」以外の何者にもならないんじゃないだろうか。

 だとしたら、今回の映画も単なる「毎度おなじみストーンズのライブ」として楽しむ以外ないのではないか。

 実際、映画公開に先立って発売されたサントラCDは、聞いていて興奮はするが目新しいものは何もない。まさしく文字通り「毎度おなじみストーンズのライブ」の音だった。当たり前といえば当たり前なのだが…。

 そんなわけで僕は、聞き慣れたストーンズのアルバムでも聴くような気分で、今回の映画を見に行く気になっていたのだ。

 

見た後での感想

 慣れ親しんだストーンズのライブを楽しませてもらおうか…と、おっとり構えて劇場の席に座った僕だったが、映画が始まるや否やスコセッシとミック・ジャガーとの苛立たしいやりとりを見せられるハメになる。

 特にマーティン・スコセッシは、いつまでも曲目が決まらず困り果てているようだ。確か「ラスト・ワルツ」の撮影の際には、スコセッシは全曲の歌詞まで書き込み、カメラのフレームやアングルまで詳細に指示した撮影台本を作成していたと聞く。あのいかにも神経質そうなスコセッシのこと、今回だって大好きなストーンズの映画とあらば、満を持して撮影に臨みたかったはずだ。しかし曲目はいつまでも決まらない。曲目が決まらなければ、撮影プランも立てられない。もうコンサートは開始寸前だ。どうすりゃいい?

 恥ずかしながら、僕も学生時代にヘタクソなアマチュア映画を撮った「映画監督の端くれ」だ。大がかりな撮影を前にして、段取りが決められない不安は痛いほど分かる。しかもこの撮影には、NGやリテイクは許されない。本番一発勝負で失敗はできないのだ。これから撮らなきゃならないスコセッシもそうだが、見ているこっちもイヤが上にも緊張が高まる。

 そんなドキドキの中、ステージの幕が開く! その瞬間、僕は一気にストーンズのコンサートの中に引き込まれた。

 いやぁ、これが実はスコセッシの作戦だったのだなぁ。

 先にも述べたように、ストーンズのライブ素材は音源、映像ともゴマンと存在している。おまけにナマのストーンズさえ、僕はすでに何度も目撃していた。初来日の1990年「スティール・ホイールズ」ツアーに始まって、「ブードゥー・ラウンジ」ツアーの際には1995年の来日公演だけでなくサンフランシスコでのコンサートにも駆けつけた。1998年の「ブリッジズ・トゥ・バビロン」ツアーの来日時も当然のごとく行った。ついでに…あまり気乗りしなかったものの、2006年の「ア・ビガー・バン」ツアー来日時にも出掛けて…その貧寒とした光景にショックを受けたというわけだ。正直言って、もはやストーンズのコンサートに当初のドキドキ感は持っていなかったと言っていい。

 しかし1990年の初来日の時は、そうではなかった。すでにストーンズ来日公演は一回流れており、この時だって何が起きるか分からなかった。見れること自体が事件であり、見る前に興奮は最高潮に達していた。一足先に来日公演を見た「ニュース・ステーション」の小宮悦子が「ストーンズなんて全然知らないけど、コネでアリーナで見て来ちゃいました〜」と愚かにも発言すると、「あのバカ女ブッ殺す!」とマジで激怒した(笑)。あの時の興奮は、今でも忘れることが出来ない。

 悲しいかな、今はそんな興奮状態で接することができなくなっていたストーンズのライブ。そこにスコセッシは絶妙の演出のスパイスを加えて、あの初来日時の興奮を取り戻してくれたのだ。なかなか曲目が決まらないってのは「やらせ」だったのではないかとさえ思わせる巧みな作戦。実際に曲目決定は遅れに遅れ、「やらせ」ということはなかったようだが、それでもこれを逆手にとって活用したスコセッシ演出は実にしたたかだ。いやぁ、すっかりやられた。

 こうして幕を開けたコンサートそのものも、最初の興奮が最後まで持続する。とても「慣れ親しんだ」なんてシロモノじゃない、「熱さ」のこもった内容だ。僕は本当に興奮した。

 しかし、そこに展開されているのはどこかいつもと違ったものなのかといえば、どこをどう見ても「毎度おなじみストーンズのライブ」であり、それ以外の何者でもない。会場を巨大なスタジアムではなくこぢんまりとした劇場に変えた他は、どこも目立って変わったところはない。何がどう違うのか分からないのだ。

 しかし、映画はいつになく熱い内容だ。変な話、比較的最近に見たナマのストーンズより興奮させられた。どこも違わないのにどこかが違う。一体コレはどうしたことだろうか?

 

硬軟両面でロックを極めるストーンズのプロフェショナリズム

 先に「毎度おなじみストーンズのライブ」と評した今回の作品、実際の話、今回はメンバーへのインタビューなども多くはやっていないし、途中に若干過去のフィルム・フッテージなどが挿入されるものの、それらの割合も極めて控えめだ。つまり、余計なことは極力やっていないのである。

 しかし、それでは「毎度おなじみストーンズのライブ」でしかない。なのに、何でこの映画はこんなに興奮させられるのか

 そのわけは、映画をつぶさに見ているうちに分かる。

 映画はかなりの台数のカメラを駆使して、ストーンズのメンバーをていねいに追っていく。それもコンサートで我々が絶対に見れないくらい、至近距離の身近さで見せていく。面白いことにカメラが演奏者ににじり寄っていくと、その演奏者が弾いているギターならギターの音がちゃんと強調され、「至近距離からとらえている」感覚がさらに補強される。カメラが振られた被写体の音響が強調されるという手法は、普通の劇映画の立体音響ならよく行われる手法だ。しかし本作のような音楽ドキュメント映画では、あまり見かけない手法なのではないか。なぜなら、曲としての効果とは無関係なかたちで部分的に特定の楽器の音だけが強調されるというのは、音楽的には決して望ましいことではないと思われるからだ。つまり、この作品でマーティン・スコセッシは音楽的完成度を度外視して、あくまで映画的表現を優先するかたちで制作しているわけだ。ステージ上の演奏者たちの姿を、逐一至近距離から見つめているぞ…と観客にアピールしているのである。

 そんなカメラの凝視の中で、ストーンズのメンバー…特にミック・ジャガーが見せる一挙手一投足が、いちいち意味を持ってくる。

 ラフな印象が強いストーンズのサウンドやステージング。それらは一見、「せ〜の!」で一発でキメられ、後は割と行き当たりばったりに行われているように思われる。しかしこの映画を見ていると、ミックが歌い演奏している間もあちこちに神経をとがらせ、刻一刻変化する状況に対応している様子が見て取れる。そして、アイ・コンタクトで他のメンバーに次々と指示を出していることがハッキリ分かるのだ。

 これを見ていると、ミック・ジャガーはかなりの「完全主義者」だと分かる。彼はコンサート全体が整然と進行し、すべてが計算通り機能するように細心の注意を払っている。そのための努力を怠っていない。どこでどうやれば興奮が最高潮に達するのか、すべて承知してやっている。

 ただし、メンバー全員が同じように振る舞っているかと言えば、必ずしもそうではない

 コンサート中盤、カントリー風の「ファーアウェイ・アイズ」を演奏している際に、ミックとキース・リチャーズが並んでハモるという、ファンならずとも大いに盛り上がる見せ場が登場する。そこでビシッと決めるべきところを、キースが歌詞を間違えて笑ってしまう。この曲自体はストーンズの中心二人ミックとキースが、一本のマイクを分け合って歌う感激モノの光景で頂点に達するが、曲が終わるや否や、ミックは思わず吐き捨てるようにこう言うのだ。

 「トチりやがって!」

 いささか冗談交じりに口を突いて出てきたこの発言。しかしミックは結構マジで言っていたのではないか。一生懸命やってるんだから、もっとマジメにやってくれよ。

 あるいはハシャぐロン・ウッドが茶目っ気を出してミックに体当たりをくらわすが、ミックがそれを一顧だにしないで無視するくだりもある。この時も「マジメにやってるんだから構ってられない」とでも言いたげな表情だ。周囲のメンバーは結構ラフにワイルドに振る舞っているのに、ミック一人は神経張りつめてやっているという感じ。ここだけ見ると、何だかメンバー間の関係がうまくいってないのではないか…と、疑いたくなってしまうような光景でもある。

 しかし、実はここがストーンズというバンドのコンビネーションの妙だと思えるのだ。

 作中でキース・リチャーズがインタビューに答え、ロン・ウッドと自分のギター・プレイについて、こう語っているのが印象的だ。「オレたちは二人とも同じくらいヘタっぴだ。だけど二人揃えば最強だぜ!」

 ロック・ミュージックというものは不思議なもので、「うまい」ことが必ずしも音楽としての質の高さを保障しない。特にローリング・ストーンズというバンドは、テクニック的な「うまい下手」で言えば確実に「ヘタ」に分類される方だろう。しかし、それはこのバンドの個性であり、魅力でもある。

 以前、他のミュージシャンを従えソロで来日公演を実現させたミック。そこでは当然のごとくストーンズ・ナンバーが演奏されたが、どれもこれも…どこかチマッとまとまって味わいに欠けた。一人ひとりのミュージシャンのスキルは高かったのかもしれないが、それを超える「何か」が足らなかったのだ。

 そしてそんなサムシングは、キッチリとした計算や段取りで実現できるものではない。それは主にキース・リチャーズが体現している「ラフさ」に象徴されるものから、自然と生まれ出てくるものなのだろう。ミックも当然、その重要性を分からないわけはない。だから自分はあくまで整然と事を進めても、周囲にはやりたいようにやらせているのだろう。

 一方、それではキース的「ラフさ」だけで突っ走ればいいか…と言えば、これはこれでやっぱり何かが足らない

 それはキースがソロ・プロジェクト「X-ペンシブ・ワイノウズ」で発表した「テイク・イット・ソー・ハード」という曲と、ストーンズがその後発表した「ミクスト・エモーションズ」という曲を比べてみれば分かる。この2曲はどちらもキースの印象的ギター・フレーズが中心になった曲で、並べて聞いてみるとキースの「テイク・イット〜」がストーンズの「ミクスト〜」の原型か何らかのヒントになったと思われる。基本的に非常に似た構造を持った曲なのだ。しかしキースの曲の方は…キース・ファンとしては「これがサイコー!」と思われるかもしれないが、ハッキリ言ってユルユル過ぎてイマイチ締まりに欠ける。「テイク・イット〜」にメリハリと華のようなものをプラスした「ミクスト〜」の方に、どうしたって軍配を挙げざるを得ない。明らかにミックの持つ「完全主義」「几帳面さ」が、何らかの付加価値をもたらしているのである。

 だからキースもやりたいようにやってはいても、いざとなったらミックのサポートをビシッと決める。観衆を盛り上げるためミックが右に左に忙しく立ち回る間、その不在を埋めるべくステージの中央にサッと移動する。その一糸乱れぬ連帯ぶりが、ストーンズの長いキャリアを感じさせるのだ。

 この映画では、カメラのミクロな視線がそんなストーンズ・メンバーの身振りやまなざしのすべてを逃さずキャッチしている点が新しい。

 例えば、動きっぱなしのミックを休ませるためのキースのソロ・コーナーを見れば、スコセッシのそんな意図が浮かび上がってくる。ここで「ユー・ガット・ザ・シルバー」を歌うキース・リチャーズは、何と珍しいことにギターを持たず、スタンド・マイクに向かって歌に専念している。正直言って今までストーンズのコンサートでは、こんな形のステージングをしたことはないんじゃないだろうか。あくまで映画のオリジナルだとすれば、これは何らかの形でマーティン・スコセッシの意図が反映したものと思われる。

 なぜそう思うかといえば、キースのソロ・コーナーが終わった直後、ミックがそれまでにない派手な趣向…客席側のドアからまばゆいライトの「後光」を浴びながら現れる…という登場の仕方をするからだ。思わず苦笑してしまうキースの表情がチラリとカメラにとらえられ、ハッキリと観客に「主役交代」が告げられる。この鮮烈なミック再登場場面は、非常に暗示的だ。

 初めてスタンド・マイクを前に、ストーンズの「フロントマン」としてステージに立つキース。それはそれで、なかなかカッコイイし魅力的だ。本人も「クールだろ?」とご満悦なのも無理はない。しかし次の瞬間にミックが登場すると、ハッキリ言って「フロントマン」としての格の違いを見せ付けられてしまう。ここが肝心だ。それは誰よりも、ミック登場で思わず苦笑してしまうキースこそが痛感していることだろう。やっぱり何と言ってもストーンズの「フロントマン」はミックでないとダメで、その重圧も十分理解できるし、彼の存在があるからキースも自由奔放に暴れられる。キースはそれを、他の誰よりも分かっているのだ。

 そしておそらく…それと同じようにミック・ジャガーも、ストーンズにはキースに代表される「ラフさ」が必要だと知っている。一人でやって、計算し尽くして考え抜いた末の結果の「限界」はイヤというほど身に染みた。悲しいかな自分には完璧にやり遂げるだけのスキルと努力はあるけれど、それを超えた「何か」が決定的に欠けている。だからこそミックは時にボヤきながらも、キースたちの奔放ぶりを止めないのだ。

 彼らは自分たちが完璧でないことを知っている。

 しかも彼らは、そんな自分たちが「割れ鍋に綴じ蓋」よろしく、お互い補完し合って「最強」になれることも知っている。お互いの役割分担を悟って、それを全うしようと努力しているのだ。

 彼らは「プロ」なのである。

 しかしストーンズがここに至るまでには、かなり長い道のりが必要だった。途中控えめに挟まっている過去のフィルムは、そんな彼らの歴史を感じさせるために挿入されているのだろう。そこではまだ生意気な若造でしかない彼らは、おそらくその後、お互いのエゴをぶつけ合ったり葛藤を繰り返したはずだ。そこで自分の限界を悟って諦めたり、相手の技量を冷静に見つめるような作業を続けたに違いない。

 そんなかつての名残りが、まるでミリ単位の動きまで見逃さぬようなスコセッシのカメラにとらえられている。未熟な若者たちだった彼らが、プロ中のプロに成長した姿をキッチリ見せる。この映画はそこが素晴らしいのだ。

 ストーンズは見事なプロ集団だ。そのプロとしての一糸乱れぬ仕事ぶり…一見するとユルユルに見えるが…を観客である僕たちにリアルに見せてくれたあたりに、今回のスコセッシ映画としての最大の意図があったのではないかと思うのだ。

 

 

 

 

 

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