「僕らのミライへ逆回転」

 Be Kind Rewind

 (2008/11/24)


  

見る前の予想

 僕のご贔屓俳優の中でも今一番ピカイチの存在が、ジャック・ブラックである。

 ハイ・フィデリティ(2000)での衝撃的な登場。それからの快進撃は誰もが認めるところだろう。独壇場ともいうべきスクール・オブ・ロック(2003)もさることながら、一見畑違いに見えるホリデイ(2006)でもキッチリいい仕事をする。ピーター・ジャクソンのキング・コング(2005)なんて超大作でも、彼はやっぱり彼のまま。

 そんなジャック・ブラックの新作がエターナル・サンシャイン(2004)のミシェル・ゴンドリーの監督作と聞けば、見たいと思わない映画ファンはいないはず。

 もっともこのゴンドリーの作品、モノによっては恋愛睡眠のすすめ(2006)みたいにユルくて幼稚な作品になってしまうから油断できない。しかも、ミスマッチと思えたナンシー・マイヤーズ作品ですらイイ味出していたブラックではあるが、アクの強い彼と、時としてユルくヌルいゴンドリー作品との相性はどんなものだろう。

 それでも共演が16ブロック(2006)でまったく予想も出来ない素晴らしさを発揮したモス・デフとくれば、見ないわけにはいかないだろう。絶対に見なければ!

 

あらすじ

 何となく寂れた観がある下町、ニュージャージーのパセイック。しかしここは、あの偉大なファッツ・ウォーラーが生まれ育った街なのだ。とは言っても、「ファッツ・ウォーラーって誰?」って言われるのがオチか。

 ウォーラーは伝説のジャズ・ピアニスト。その音楽は確かに一般的には有名ではないかもしれないが、知る人ぞ知る通好みのものだった。彼こそはこのくたびれきった街の誇りだ。

 そんなこの街の一角に、見るからにオンボロなレンタル・ビデオ店がある。品揃えも乏しいし、何よりイマドキのブルーレイなんてシロモノはない。何とDVDすらなくて…あるのはVHSのビデオテープだけというショボさ加減。しかし、そのくらいがこのくたびれた街にはお似合いかもしれない。そんな店でもそれなりに客が来て、それなりにやっていけてる。老いぼれ店長のフレッチャー(ダニー・グローバー)もあまり高望みはしていないようだ。

 それにフレッチャーによれば、この店こそがファッツ・ウォーラーの生家だという。お人好しの店員マイク(モス・デフ)はそんな話を素直に受け取って、ウォーラーの生家であるこの店を誇りに思い、かつウォーラーを街の誇りと思っていた。

 そんなマイクの一番のお仲間は、近くのトレーラーハウスに住む自動車修理工ジェリー(ジャック・ブラック)。このジェリー、悪い奴じゃないんだけどいささか風変わりでクセのある男。悪ノリもするしムチャもやる、愛すべきキャラだけど少々ハタ迷惑な男でもある。もう一つついでにいえば、自宅であるトレーラーハウスの近くの変電所を有害視していて、そこから発生する電磁波で脳がやられる…がお決まりのセリフ。彼はよくこのビデオ店にたむろしては、マイク相手に油を売るのだった。

 そんなある日、店長フレッチャーが突然「ファッツ・ウォーラー生誕祭」に出席するから、しばらく店を留守にすると言い出す。実はフレッチャーは何も言ってなかったが、この店には危機が迫っていた。お役所から立ち退きか改修かの無理難題を吹っかけられていたのだ。

 店の建物は見ての通りの老朽化したシロモノで、当然、イマドキの建築基準に合うはずもない。しかし改修のための金などあろうはずもない。そもそも役人どもは、フレッチャーに本当に改修してもらいたいとは思っていない。早いところこの店を追い出して、新たな都市計画を進めたいと勝手に企んでいたのだ。困り果てたフレッチャーは「ファッツ・ウォーラー生誕祭」を表向きの理由に、しばらく店を離れて考え事をしたいと思っていた。

 さてフレッチャーの留守中はというと、マイクがすべてを仕切ることになる。初めての自分の天下とあって、マイクはいやが上にも張り切らざるを得ない。意気上がるマイクにフレッチャーは、大事なメッセージを残していった。

 「ジェリーを店から遠ざけておくこと」

 悪い奴ではないものの、ジェリーは何しろハタ迷惑な男。触るモノすべてをブチ壊す「壊し屋」でもある。そのメッセージがマイクに伝わるにはいささか時間が必要だったが、店長に忠実なマイクはフレッチャーの言うことを守ろうと決めた。

 そんなマイクの思惑を知ってか知らずか、店に油を売りに来るジェリー。さらに彼の妄想は高じて、有害な変電所をブチ壊すと気勢を上げる。そして、このムチャクチャな企みにマイクを協力させようとするのだった。

 お人好しのマイクは断るに断れず変電所の前まで引きずり出されるが、結局フレッチャーの教えを思い出してジェリーの頼みを断った。これに怒ったジェリーは、よせばいいのに一人で変電所に立ち向かい…。

 まるで「返り討ち」にあったかのように派手に感電するハメになる

 翌朝、ボロボロになったジェリーが店にやってくると、そのやつれきった様子を見たマイクは彼を無下には追い返せない。こうしてフラフラになった彼は店の中をウロ付き回るが、これが取り返しの付かないことに発展するとは、その時は当のジェリーすら想像も付かなかった。

 やがてマイクが張り切って取り仕切る店に、クレームをつけにやってくる客が一人また一人。一体何かと話を聞くと、いずれもテープに何も写っていないと文句を付けてくるのだった。

 そんな、まさか、ホントなのか。

 慌ててマイクが店のビデオすべてをチェックすると、一本残らずおシャカではないか。実は変電所の「電撃」を浴びたジェリーの身体が磁力を帯びて、ビデオテープを片っ端から消去してしまったのだ。

 何もよりによって自分が店を任された時に…と、人の良いマイクは泣くに泣けない。

 しかも泣いている場合でもない。夕方にフレッチャーと親しいファレヴィチさん(ミア・ファロー)が「ゴーストバスターズ」のビデオを借りに来る。ファレヴィチさんにコレがバレたら、店長に連絡が行くに決まっている。困り果てたマイクは知り合いから別の店まで「ゴーストバスターズ」のビデオテープを探し求めるが、いまやDVDが主流でVHSテープなんてない。

 結局、マイクが切羽詰まって導き出した結論は…どこにもないなら、つくるしかない!

 ファレヴィチさんは「ゴーストバスターズ」を見たことがないから、バッタもんこさえたってバレやしない。もう失うモノなんてないから怖いモノもない。時代物のビデオカメラを引っ張り出して、事の発端となったジェリーも付き合わせての「ゴーストバスターズ」づくりだ。

 いきなり図書館に乗り込んで、ゲリラ撮影を開始。全身銀紙を巻いてつくった妙ちきりんなユニフォームに、ヘタクソな手書きの「ゴーストバスターズ」ロゴ。何となく違うような気もするけど、まぁいいか。むろんSFXもCGもないし、そんなことやっている時間もない。手持ちの時間は数時間なのだ。だからゴーストのエフェクトも、自分で釣り竿で釣って動かすテイタラク。有名な主題歌もジェリーがノリノリで歌った。何でもやりゃあ出来るもんだ。

 そんなこんなでファレヴィチさんの来店に冷や汗モノでギリギリ間に合ったものの、ホントにこんなので良かったのだろうか。

 しかし二人は立ち止まってはいられない。もはや躊躇うことは許されない。賽は投げられた。帰りの橋は焼き落とした。もう次の客が現れて、「ラッシュアワー2」をご所望だ。毒を食らわば皿までか。

 再び無茶なリメイクに取り組む二人。しかし、やっぱり女優が要る。早速行き当たりばったりの思いつきで、近所のクリーニング屋のお姉ちゃんアルマ(メロニー・ディアズ)をスカウトだ。このアルマが元々ノリがいいのか、こういうのがキライじゃないのか、単なる女優以上の働きを見せ始めるから助かる。こうして今回も、間一髪のセーフで切り抜けた。

 ところが世の中甘くない。そうは問屋が卸さない。

 ファレヴィチさんちの甥っ子とそのダチ連中が、妙におっかない顔して店に押し掛けるではないか。この連中、街でも札付きのワル揃い。さてはファレヴィチさんちでマイクとジェリー謹製の「ゴーストバスターズ」を見て、怒って殴り込みにやって来たのか。

 もはやこれまで…と覚悟を決めたマイク、ジェリー、アルマの三人だが、ワルガキ連中は意外なことを口走った。

 「コレ面白れえな。もっと見てえんだよ。オレたちも会員にしろや!」

 

見た後での感想

 最高!の「エターナル・サンシャイン」とサイテー!の「恋愛睡眠のすすめ」。このどっちに転ぶか現在のところ皆目見当が付かないミシェル・ゴンドリー作品。

 では、今回の出来栄えは…と問われれば、手っ取り早く言うと「面白かった!」ということになるのだろうか。少なくとも僕は好感を持った。なかなかイイ映画なんじゃないの。

 ハッキリ言って主人公たちの手作り映画が次から次へと出てくるあたりは、映画ファンならやっぱりツボだし、大多数の人は好意的に見たくなるんじゃないだろうか。

 僕なんか昔、自分で8ミリ映画をつくっていたものだから、主人公たちの涙ぐましい映画づくりが人ごとじゃない。アレより変なことやおかしなことが山ほどあった。いやぁ、もう涙チョチョ切れましたよ。

 これをやられちゃキライになれない。他の人がどう思うかは分からないが、とにかく僕は気に入った。

 それに少々理屈っぽいことを言わせてもらえれば…正直言って昨今の映画におけるCG映像の氾濫に関しては、僕も少々いかがなものかと思っていた。

 別に「テクノロジーはけしからん」と怒る頑固ジジイみたいな発想で言ってるんじゃない。テクノロジーや大型予算映画を毛嫌いする向きもあるが、僕はそんなケチ臭いことを言うつもりはない。CGもSFXも大変結構だ。しかし撮れない映像はない、つくれない映像はないということになったら、何が写っていたってスリルなんてないんじゃないか?

 CGだから当たり前って思えば、どんな素晴らしい絵が写ってたって有難みなどないだろう。「どうせCGだろ?」で終わっちゃうんじゃないか。何でも安易にCG化してしまう傾向は、結局は作り手の首を絞めるだけのような気がしていたのだ。「有り難いだろう」と悦に耽っているのは作り手だけ。見る方はとっくの昔にシラケている。

 そこんところをズバリこの映画は突いていたので、わが意を得たりという気分になったのだ。

 アナログならいい手作りだからいい…っていうと「無農薬野菜」とか「有機農業」みたいでそれはそれでイヤミだが(笑)、実際「つくる」楽しさ面白さが伝わってこない映画ってのは寂しい。この映画はそこをやんわりと突いてくる。映画づくりに知恵を絞らなくなってきたから、映画そのものまでがやせてきた。そんな映画における「工夫」の復権を、理屈じゃなくて映画ファンの本能みたいなモノに訴えかけてくるからグッと来る。

 取り上げられているのはほとんどハリウッド大作だから、「こんな映画をどうやって再現するつもりだ?」と興味を湧かされ、思わず見ていて笑っちゃうのだ。で、笑ってはみたものの…自分が若い頃に8ミリカメラ担いでやっていたこととあまり変わってない(笑)。だから思わず共感しちゃうのだ。

 この身につまされ方は、ティム・バートンの「エド・ウッド」(1994)を見たとき以来だろうか。僕が昔、自分で素人映画をつくっていたから点が甘くなるのかもしれないが、映画が好きな人は大なり小なり同じ気持ちになるんじゃないだろうか。

 そしてやっぱり、ジャック・ブラックとモス・デフという好感度抜群の主演者のおかげもある。彼らの持つ魅力が、確実にこの映画の「一般性」…映画オタクだけでなくみんなが好きになるような要素…を増している。前にもちょっと述べたミシェル・ゴンドリー作品特有のヌルさをジャック・ブラックの「アク」が中和して、さらにブラックの「毒」をモス・デフの「善良さ」が中和している。微妙なバランスと相乗効果で、映画の質を確実に上げている。これはなかなか巧妙なキャスティングだ。

 

散見されるゴンドリー作品特有の「甘え」

 ただし、正直言ってすべてが万々歳かといえば、残念ながらそうは言いかねると白状しなくてはならないだろう。厳しいことを言えば、この作品にもゴンドリーの悪い点が散見できなくもない

 まずお話が「手作り映画づくり」という本題に入る前、ジャック・ブラックが変電所を壊すの何だのと言っているあたりが、かなり無理がある。お話の展開上、どうしてもブラックの身体を帯電させて、ビデオテープを消去させなきゃならなかった…ってのは分かるし、ブラックの怪演のおかげで面白く見れることは見れるが、ストーリーテリングという点からはかなりムチャだ。むしろブラックという個性を使って力業で強引に持っていった感じが強い。

 このへんは、お話の前提としてビデオを全部消さなきゃならないんで「分かってくれよ」とお客に目をつぶってもらいたいところなんだろう。しかし、それは作り手の都合でしかない。

 そして、それより何よりもっと重大な問題がある。

 そもそも、あの素朴な手作り映画製作現場の様子は実に楽しそうではあるが、「ゴーストバスターズ」を借りに来た人があのビデオを見せられたら、果たして「こりゃ楽しい!」ってホントに思うだろうか。ハッキリ言って僕なら頭に来るよ(笑)。

 同じボロボロな映画製作の素晴らしさをうたいあげた「エド・ウッド」がどうして傑作かと言えば、あくまでその“素晴らしさ”の共有を「作り手」の中だけでとどめたからだ。だから、それが妄想に過ぎなくても許された。しかし、そんな“素晴らしさ”を見る側までも共有しろと言われたら、そりゃカンベンして欲しいと思うのが普通の感覚だろう。

 その点で、「エド・ウッド」とこの作品のボロボロ映画づくりは、似て非なるものだと言える。

 主人公たちの作ったビデオを見た人々が「楽しい!」と思うのがドラマ上のお約束だとしても、それがあそこまでみんなを引き込むという設定にするなら、本来は観客も納得する範囲内でのリアリティがなくてはいけないはずだ。つまり、ホントにそれを見て「楽しい!」ものなんだと観客を納得させなくてはならない

 しかし残念ながら、あのデッチアゲ手作りリメイクを心の底から楽しいと思うのは、映画づくりを自分でも試みた人や映画ファンなど「限られた人々」になってしまうのではないだろうか。映画というと「アルマゲドン」や「M:I-2」しか見ないって人たちが、アレを楽しめるかというといささか危うい気がする。

 もっとハッキリ言うと…あれは「撮影現場」が楽しげなのであって、出来上がった「作品」そのものまでそうかどうかはアヤシイだろう。多くの人たちは、あんなビデオ見せられちゃかなわないと思うんじゃないだろうか。

 例えばスウィングガールズ(2004)では女の子たちが実際にエキサイティングな演奏を見せる(物語の前半でトホホな演奏場面もあるから、余計そのあたりが生きる)ことで、その“素晴らしさ”を観客に納得させるのだが、今回のこの作品には「それ」がない。出来たモノがそれなりに見ていてオモシロイということを、映画の中で説得力を持って描いていないといけないのだが、残念ながらそこまでは描けてないというのが実際のところだろう。もっと厳しく言うと、それを描こうとする努力をしていない

 みんなが手作りビデオに熱狂して参加したがるという展開は、あくまで物語の「お約束」なのでそう信じてもらわないと困る…なんてことは、これもまたハッキリ言って映画の作り手の勝手な都合でしかない。

 ヌルい部分は他にもあって、ハリウッドの映画会社から訴訟を起こされそうになった一件は、結局どうなったのかということもウヤムヤなまま。そのあたり、結構いいかげんなのである。

 結局…そこがミシェル・ゴンドリー監督の「甘え」ということになるのだろうか。

 「この程度でいいだろう」とか「ここはお約束なんでそう見てくれ」とか、「見ているキミたちもそう思ってくれるよね」とか…ちょっと安易でテメエに都合のいい映画の作り方をしている。そのあたり、「恋愛睡眠のすすめ」の主人公の甘ったれたキャラクターと相通じるものを感じてしまう。

 それは一連のリメイク・ビデオをハリウッドの弁護士たちに没収された後、街のみんなでファッツ・ウォーラーの映画をつくろう…と言い出すあたりでハッキリ露呈する。どう考えても、みんながファッツ・ウォーラーなんてミュージシャンを知っているとは思えないし、まして関心も思い入れもないだろう。しかも、それぞれみんな忙しいであろう市井の人々が、それをネタに映画までつくろうとは思うまい。そこまでは僕もこの映画のホコロビを見て見ぬふりしようと頑張っていたが、さすがにあの場面には少々首筋に寒さを感じないでもなかった

 ゴンドリーって人柄は良さそうだし、そこが好感の持てる部分なのだが…それがクリエイターとしては災いしているところもあって、どこかにこういう甘ったれた部分を残しちゃうんだよなぁ。

 

見た後の付け足し

 しかし言っていることが矛盾しているようだが…そんな「甘さ」を伴った「人の良さ」が、結局はこの映画の美点でもある。

 確かにこの映画のテーマのひとつは、僕が前述したように今日のハリウッド映画…中でもCG万能主義みたいなものへのアンチテーゼであることは間違いない。しかしこの映画における「敵役」であるはずのハリウッドの弁護士(シガーニー・ウィーバー)が、バリバリとローラーで手作りビデオを粉砕しながらつぶやいているセリフにご注目いただきたい。

 「私たち、今回は悪役ね」

 ご承知の通り、本当の「悪役」はこんなセリフは言わない。作り手がこの弁護士や、弁護士が代表するハリウッドを「悪役」と見せたいなら、こんなセリフを言わせることはない。確かに今回の映画はハリウッドの既成の映画づくりにいささか疑問を投げかけてはいるが、大上段から振りかぶって抗議をしたり、真っ正面からバカにしたり非難したりすることはしていないのだ。結果として見ている側にCG万能映画批判を感じさせはするが、それを声高に言っていないし、そもそもそんな事を言うつもりもないのかもしれない。言っていることといったら、せいぜいこんな事ぐらいだろう。

 それも映画。しかし、これも映画。

 これでハリウッド映画を徹底的にとっちめて、それにひきかえ「手作り映画」は素晴らしい…とやっていたとしたら、前述した「甘さ」が災いしていることもあって、ひどくシラケる展開になっただろう。「それほどのもんかい!」と文句のひとつも言いたくなったはずだ。ツメの「甘さ」が無視できないほどの汚点に見えてくるだろう。

 しかしここでゴンドリーは、決してハリウッド映画を追いつめ糾弾することは考えていない。ハリウッド映画に対して「こんな映画があってもいいよね」ぐらいのことしか言ってないのだ。だから、前述したような「無農薬野菜」とか「有機農業」みたいな「こんな野菜をつくっている自分たちはエライ」とでも言いたげなイヤミ(笑)を感じない。あるいは名物煎餅屋やこだわり食堂のオヤジが、さもスゴイことでもしているかのように客に対して威張り散らすような不愉快さが感じられない。ちっとも「ありがたく」もないのに「ありがたさ」を強要するような独善には、陥らずに済んでいる。

 それは、ミシェル・ゴンドリーの「人の良さ」の為せる技だ。

 そんなおっとりとした「人の良さ」…それは転じて「甘さ」にもなっているのだが…が幸いして、この映画のユルい部分やヌルさも許せる気分にさせている。それがこの映画の最大の美点だ。

 そして、みんなが無邪気に映画をつくる喜びに浸っていくくだりを、信じてやりたい気持ちになってくる。

 現実には、こんなことはありっこないと分かっている。僕らが「こうなって欲しい」と思う方向には、現実は決して動いてくれないと、人生の中で分かりすぎるほど分かっている。

 しかしだからこそ…せめて映画の中だけでも「それ」を信じたくなる。作り手の「人の良さ」「善意」が本物だけに、僕らも一丁それにノセられてやろうという気持ちになってくるのだ。実は、ここがこの作品の最も重要な点だ。

 それは、人の心の「美しい部分」…「善意」とか「無邪気さ」や「信じる気持ち」は伝染するものだ…ということを伝えている。「リング」の貞子の呪いだって伝わるなら(笑)、「善意」だって映像を通して人に伝わって来ないはずがない。街のゴロツキにまで感染するのだから、それが冷たい役人にも感染しない道理はないではないか。

 そして、人が至福の時に感じる「幸福感」は、誰もが等しく味わえるものだと言っている。

 そんなメッセージは当然映画を見ている僕らにまで伝わってくる。そして、それこそが「映画の力」だと、作り手は何の疑いもためらいもなしに言っているのである。

 これはあくまで、作り手のゴンドリーが「本気」でそう思っているから伝わるのだ。時として「人の良さ」ゆえの「甘さ」が災いするゴンドリー作品ではあるが、今回ばかりはそんな彼の資質がプラスに転じたと感じずにはいられない。「口先」だけでなく本気で信じているとなれば、言っていることを「甘っちょろい」とばかりも決め付けられないではないか。

 よく出来た映画かどうかは知らないが、少なくとも僕はこの映画が好きだ

 映画のラストにすっかりノセられている自分に気付いてみると、そう思わずにいられないのである。

 

 

 

 

 

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