「ダークナイト」

 The Dark Knight

 (2008/10/20)


  

見る前の予想

 クリストファー・ノーランによる「バットマン」の新シリーズバットマン・ビギンズ(2005)がつくられると聞いて、その出来映えに期待したのは僕だけではあるまい。まして主役のバットマンに曲者クリスチャン・ベールというセンスの良さ。マイケル・ケイン以下ズラリと揃った豪華キャスティングにも注目した。そもそもメメント(2000)で頭角を現したノーラン監督が、まったく新しいコンセプトで「バットマン」をやるというのだから気にならない訳がない。

 そんなわけで、勢い込んで見に行った「バットマン・ビギンズ」。巷の評判も大好評で、誰も彼もがシリアスで上質な出来映えと絶賛だ。ならば僕も…と思いきや、全くノレなかったのはなぜだろう?

 素晴らしいキャスティング、いかにもマンガっぽい題材・設定を大人の鑑賞に耐えるシリアスな作品に仕立てようという発想…それらのどれもこれも大変結構なのだが、なぜか肝心の映画そのものが面白くない。いかにも良さそう面白そうな「要素」は揃っていて、みんなが絶賛するのも分かるのだが、それで映画そのものが本当に良くなるかといえば別問題なのだ。

 そんな激しい違和感を持って、世評とは裏腹の酷評しか出来なかった「ビギンズ」。そこで僕にとってクリストファー・ノーランのメッキがはがれたのか、続くノーラン作品プレステージ(2006)も、見た後で実にイヤ〜な感じに襲われるインチキ臭い作品だった。

 そこに、何と「ビギンズ」の「続編」である「ダークナイト」の登場。

 またまた世評は絶賛に次ぐ絶賛。なぜホメているかは何となく見る前から分かる。アメコミ原作のヒーロー映画なのに大人の鑑賞に耐えるシリアスさ。しかも他のアメコミ・ヒーローものほど「正義」で「単純」ではなく、善悪の境界線が曖昧でダークな内容なのだろう。そもそもバットマン自身がそんな設定を内包しているのだ。そういう風にお話を持っていってるのは想像がつく。そして、そこを世間が「今までの単純・脳天気なヒーローものとは一線を画する複雑さを持った“高級”な映画」と評価しているんだろうということも何となく分かる。

 しかし、そんなに映画って単純なもんだろうか?

 どうも僕は「ビギンズ」の映画としてのダイナミズムやトキメキのなさ、「プレステージ」のインチキ臭さが引っかかって、どうしても今回の「ダークナイト」に食指がそそらなかった。ヒース・レジャーが遺作として怪演を披露しているとも聞いているが、レジャーの死がこの映画に実際以上のハクをつけちゃっているんじゃないだろうか。

 そんなこんなで僕がこの映画を上映している映画館に足を運んだのは、上映も終わりに近くなった頃のことだった。

 

あらすじ

 相変わらずゴッサム・シティには、犯罪のタネが尽きない。

 今日も今日とて凶悪な銀行強盗が発生。こいつらの悪辣さと来たら、犯行を行いながらも「頭数が減れば分け前が増える」とばかりに仲間同士どんどん殺し合っている底なしぶり。

 しかも、この銀行はマフィアのヤバいカネを扱っているところ。普通ならどんなワルでも手を付けないはずだ。ところがこいつら、そんなことにはまったくお構いなし。どこから来るのか、その大胆不敵ぶり。

 そんな強盗たちを率いているのは顔をへたくそにピエロのように塗りたくり、口が大きく切り裂かれている男ジョーカー(ヒース・レジャー)だ。どう考えてもキレてる印象が強いこの男、一体何を企んでいるものやら。

 それでも、日夜ゴッサム・シティを浄化すべく奮闘しているバットマン。賛同し心酔する市民が同じコスチュームに身を固めて活躍しようとしてくれるのは嬉しいものの、ハッキリ言って当のバットマンことブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)にとってはありがた迷惑でもある。

 オモテの顔のブルース・ウェインは、両親から大企業ウェイン・エンタープライズを相続した大富豪だ。なのに日夜の奮闘で身体に生傷が絶えない。そんなブルースの姿を見るにつけ、執事のアルフレッド(マイケル・ケイン)は憂慮に耐えない。それでもブルースの心意気に共感して、憎まれ口を叩きながらサポートに徹するのだった。

 そんなブルースに力を貸す人間は、まだ他にもいた。それはウェイン・エンタープライズの社長に抜擢され経営を任されながら、一方でバットマンのコスチュームや武器の開発に貢献しているルーシャス・フォックス(モーガン・フリーマン)。そしてバットマンと秘かに協力し合い、警察署の屋上からライトで信号を送ってバットマンに出動を要請するジム・ゴードン警部補(ゲイリー・オールドマン)だ。

 そんなゴードン警部補が、ある日、新任の地方検事に呼び出される。それは清廉潔白で街の浄化を訴えるハービー・デント(アーロン・エッカート)。彼は法の世界に生きる人間としては珍しく、バットマンを絶賛していた。

 実はバットマンをヒーローとして持ち上げる者がいる一方で、「法の外での正義」を行使するバットマンを「良からぬ者」と見なす人々も多かった。ところがデントは地方検事という地位にいながら、情け容赦なく悪を叩きのめすバットマンに共感を持っていたのだ。

 そしてそんなデントに対して、バットマンことブルースも興味を持ち始める。最初は「どこまで本気か」と傍観を決め込んでいたブルースだったが、デントの「やる気」と世間からの支持を見るに従い、本気で彼を支援する気になってくる。

 特にブルースの場合、かつての恋人レイチェル(マギー・ギレンホール)がいまやデントの恋人となっていて、心境の複雑さはひとしお。それでもブルースは、この男にゴッサム・シティとレイチェルを託してもいいと考えるようになっていた。

 そんな折りもおり、香港の大企業の経営者ラウが、ウェイン・エンタープライズとの取引を望んで接近してくる。いかにも胡散臭いその男は、実はゴッサム・シティのマフィアの資金運営に絡んでいる人物だった。それを承知でブルースは、ウェイン・エンタープライズとの取引をチラつかせて近づいたのだ。

 そんなゴッサム・シティのマフィア連中はといえば、ナゾの銀行強盗に相次いで資金源を襲われ、怒り心頭に発していた。マフィアのカネと知って、あえて奪いに来る命知らずの悪党ジョーカーとは何者なのか? そんなこんなで慌てて対策協議に集まったマフィア連中の前に、何と大胆不敵にも当のジョーカーがやって来るではないか。思わずいきり立つマフィア連中相手に全くひるまないこの男は、さらに驚くべき発言を行うのだった。

 「オレが、バットマンを殺す!」

 

見た後での感想

 この作品を最後に亡くなったヒース・レジャーのジョーカー役が圧巻…とは話に聞いていたが、なるほど確かにこの映画の彼は突出している。「大熱演」というには体温の低さが際だっているが、ともかくかなりトンがった怪演ぶりだ。まず誰でもその点だけは指摘できるだろう。

 驚いたのは、今回のバットマンが徹底的にリアリズムを志向していること。

 実は元々、原作マンガからして「ゴッサム・シティ」と架空の街を設定。ティム・バートン版の映画化作品から前作「ビギンズ」あたりまで、ずっと閉鎖されたスタジオ撮影やSFXによる人工的な映像で、舞台となる大都市を創造してきた。

 しかし今回は、どちらかと言えばロケ撮影がメイン。それも、登場人物が会話している背景に大きな窓があり、そこから街が一望できる…という場面が続出。これは明らかに意識的にやっていることだろう。明らかにゴッサム・シティが「現実の街」であると見せるための演出が行われているのだ。

 このほかにも、モーガン・フリーマンが「香港」に出かける…など、それまでの「バットマン」映画ではあり得なかった「現実」的な場面が連発。作り手がこの物語を「リアル」なものとして観客に受け止めさせたいということが分かる。

 だから出てくる悪漢もマンガチックな超人・怪人ではなく、あくまで現実の延長線上の凶悪犯か狂人ということになる。ヒース・レジャーのジョーカーも、例えばジャック・ニコルソンが誇張して演じたジョーカー役とは異なり、実際にいそうな異常者として演じられているのだ。

 だから映画の感触は「バットマン」とかアメコミ映画というより、ちょっとホメすぎを承知で言ってみれば、まるでシドニー・ルメットの犯罪サスペンス映画みたいな雰囲気が濃厚。つまりは「実際の世界にバットマンがいたら」…という趣の映画になっているのだ。

 それゆえ、圧倒的にリアルなタッチで演じられているヒース・レジャーのジョーカーが「怖い」。考えられないほど異常だから…ではなく、「いかにもいそう」だから怖いのだ。

 しかもこの映画、何から何までそんなリアリズム志向だから、ヘタしたらバットマンですら情け容赦なくやられてしまいそうだ。実際、普通だったら絶対に死なないであろう「重要人物」まで、アッと驚くほどアッサリと死んでしまう。しかも、見ている方は「当然助かるだろう」と思っているし、実際そう思わされている最中に死んでしまう。だから衝撃も大きいし、見ていて安心できなくなる。誰がやられてもおかしくない空気が漂う。

 そのあたりは、確かに従来のこの手の映画にない緊迫感であり、リアリズムだとは思う。

 確かに面白いし怖いし緊迫しているという点で、この映画が優れていることは指摘しないわけにいくまい。そんなヒリヒリするような怖さを持っている点で、確かにこの映画はなかなか見応えのある作品なのだ。

 

何となくひっかかる「スッキリしない気分」

 そんなわけで世評がかなり高かった「ダークナイト」、なるほど評判がいいのも納得…と諸手を挙げて僕も大賛成したいところだが、なぜか、何となく、どうしても…心のどこかで妙に引っかかってくるところがある

 実はこの映画を見てから感想に取りかかるまでに時間がかかったのは、メチャメチャ忙しかったということもあるが、この「スッキリしない気分」の正体を見極めたいという気持ちが強かった。それがちゃんと捕らえられたかどうかは心許ないが、何となく「スッキリしない」点のいくつかは挙げられるような気がする。

 まずはこの作品、本国アメリカで大ヒットなだけでなく、前述したように日本でも評判はすこぶるいい。指摘されている点も僕がここまで書いてきたこととほぼ同じ、悪のリアルさ、怖さだ。それらがヒース・レジャーの怪演とともに、ほぼどれも同じく次のような言葉で語られる。

 「今までの単純なアメコミ・ヒーロー的世界ではない」

 これらの言わんとしていることも、まぁ分からないではない。だが、このあたりで僕は「ちょっと待てよ」と思い始めたのだ。「何か違うんじゃないの」と。

 そういえばこの映画、「バットマン」映画ではあるが、タイトルに「バットマン」とは冠していない。タイトルの「ダークナイト」はアメコミ・ファンや「バットマン」ファンならすぐに分かる「バットマン」の代名詞だとのことだが、それでも「バットマン」映画に「バットマン」と書いてあるのとないのでは大違いだ。

 では、なぜ「バットマン」映画なのに「バットマン」と言いたくなかったのか?

 それは「バットマン」映画と思ってくれるなという、クリストファー・ノーランの主張に他ならない。なるほど、既存のその手の甘っチョロいアメコミ・ヒーロー映画とは大違いだし、この映画を見て絶賛している人々もたぶん同意見だろう。それはそれで結構だ。

 では、重ねてあえて問いたいが、この映画は「バットマン」映画である必然性があるのか?

 そして「バットマン」映画でなかったとしたら、ホントにそんなにスゴイ映画なのか?

 

あえて世評に意義を唱えさせてもらえれば

 この映画の評価はどれを見てもほぼ絶賛評ばかりだし、それらのどれを見ても「単なるアメコミ・ヒーローものではない」とか「勧善懲悪ではない」とかならまだしも、「単純な娯楽映画じゃない」などと、まるでアート・フィルムも裸足で逃げ出すようなホメ言葉が並べてある。中には「哲学的な内容」とまで持ち上げているモノがあるくらいだから恐れ入る。

 確かに面白い。よく出来ているとは思う。しかし「哲学的」映画…というほど高級な作品かどうかは少々保留した方がいいんじゃないか。

 そもそも、確かに「アメコミ・ヒーロー」映画だったら確かに非凡だろうが、これがアメコミ映画でも何でもない、普通の犯罪サスペンス映画だったらどうだろう。これってそんなに珍しいほどスゴイ映画なのだろうか。本当に「哲学的」なほどの内容なのか? おそらく面白いけど普通の映画の域を出ていないのではないだろうか。

 別に酷評する気はサラサラないが、この映画が非凡で突出しているように見えるのは、あくまで「バットマン」映画だからだろう。

 これは見る側の先入観をうまく利用した作戦なのだが、「ダークナイト」と称して「バットマン」映画でないフリはしていても、この作品はどこまでいっても「バットマン」映画だ。“「アメコミ映画」「バットマン映画」にしては”真に迫っていてリアルで…あえて言うなら「哲学的」である…という作品でしかない。逆に言えば、「アメコミ映画」だからこそ、突出していて非凡でスゴイと見えるのではないか。ズバリ言って、あくまでその域を出ない作品だろう。

 これは別に「アメコミ映画」を貶めて言っているわけではない。「アメコミ映画」はジャンルとしてあってもいい。だが、一見「アメコミ映画」でないフリをしながら、実は「アメコミ映画」の領域の中でつくっていて、実際の中味より膨らまして見せている手つきが胡散臭いのである。

 そもそも、「バットマン映画」である必然性などない…少なくとも作り手がそういう素振りを見せていることが問題だ。究極の「悪」の怖さを表現したいというなら、別に「バットマン」でなくてもいい。しかもタイトルには「バットマン」の「バ」の字もない。ならばそれこそシドニー・ルメット映画のように、ニューヨークのハードな現実などで怖い「悪」の映画をつくればいいではないか。

 リアルな映画をめざしているんだろう? どうしてそうしない?

 ノーランがこの映画に「バットマン」である必然を感じていない理由は、タイトルからわざわざその名前をはずしていることだけではない。そもそも「あの主要登場人物」をドラマの中盤で殺してしまうあたりで明白だ。僕はあの人物が原作アメコミにもいるのかどうか、よく知らない。もし原作に存在しているなら、あの「使い捨て」ぶりはいかがなものかと思う。そしてそのあたりからして、ノーランは「バットマン」なんか撮りたくないんじゃないかと思わされるのだ。

 逆に、「あのキャラクター」が原作に存在していないなら、その安易なデッチアゲぶりが気になる。

 「あのキャラクター」はハービー・デントをドロップアウトさせるため「だけ」に「利用」されている。それは、「あのキャラクター」の死をバットマン自身も大して悲しまないあたりで明らかだ。

 作り手ノーランは、「あのキャラクター」をその程度の存在と見なしている。しかし、あれほど重要なポジションのキャラクターを、あんな使い捨てにしていいのだろうか。作劇的に見ても、あれはいささか解せない。

 一方、「バットマン」ほどのキャラクターならば、取り上げるならばその「必然性」というものが要る。仮に「バットマン」を口実に好きなことをやる…という場合でも、あえて有名キャラや著名な作品を取り上げるならば、後付けの理由であっても「必然」が必要なはずだ。

 しかしこの映画には、「バットマン」である必然が…ハッキリ言って、まるでないんじゃないだろうか。だから何となくジャリッと砂を噛んだような違和感が残るのだ。

 そのあたりの雰囲気も含め、僕にはまるで数年前に映画ファンの間で大絶賛の嵐となった、「クレヨンしんちゃん/嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」(2001)の状況に似ているように思える。

 この作品、僕は結局見ることがなかったので本来なら語れないところだが、それでもあれこれ伝わってくるモノはある。この時もこの映画のキーワードは、それまでの「クレしん」のイメージを覆す「大人の鑑賞に耐える作品」ということだった。世評は圧倒的絶賛。あれほどの絶賛はめったにない。何しろ「戦後日本屈指の作品」ぐらいのことが平気で言われていたのだから。それは全く反論が許されない、仮に反論でもしようものなら叩きつぶされそうなくらい、恐ろしくなるほどの絶賛だった。

 だが僕はそこに何となく胡散臭さを感じて、結局見ることはなかった。一応、僕は世間では邦画音痴アニメ音痴ということになっているので(実際にそう思っていただいて結構だ)、それで見なかったということにしていた。あえて角の立つことを言う必要もない。

 しかしちょっと前の総理大臣やどこぞの知事やらのように、度を超した「圧倒的支持」が持ち上がるモノには常にロクなモノがあったためしがない。というより、まずは間違いなく胡散臭い。それより何より、これって「クレしん」である必然性があったのだろうか? はて、どうなんだろう?

 閑話休題。実際「ダークナイト」がホメちぎられる時に言われる「単なるアメコミ・ヒーローものではない」なる言葉も、実はイマドキ相当アヤシイのではないだろうか?

 エドワード・ノートン演じるインクレディブル・ハルク(2008)やロバート・ダウニー・ジュニア演じる「アイアンマン」(2008)などを例にとるまでもなく、昨今の「アメコミ・ヒーロー映画」で「単純」で「正義丸出し」なものなど、むしろ探すのが難しいくらいなのだ。かの「スーパーマン」ですら、スーパーマン・リターンズ(2006)ではかなり屈折していた。いやいや、そもそも「スーパーマンII/冒険編」(1980)からその兆しはあったではないか。別に「ダークナイト」の専売特許でも世界初の大発明でもない。

 確かにここまでリアルな感触のハードな作品はなかったかもしれないが、そもそもそれなら別に「アメコミ映画」にする必然性がない。大体が、だからこそ「バットマン」の看板を引っ込めたのではなかったか。

 そして仮にこれが「アメコミ映画」でないのなら、別にビックリするほどユニークな作品でもない。ごく普通の、ハードな感触の犯罪サスペンス映画だ。

 今までの話をおさらいすると、そういう事ではないのか。

 それがまるでスゴイもの、ユニークで唯一無比の作品と思わされたのは、巧妙なクリストファー・ノーランのトリックゆえのことだ。

 おまけに一応は「単純な善悪」や「勧善懲悪」とは一線を画しているというスタイルを持った作品だ。逆にこの作品を批判する人間は、「単純な善悪やら勧善懲悪」をありがたがるアホとして葬ることができる。映画ファンは人一倍そんな風に思われたくない人種だから、反論したい人間もみな口をつぐむ。自分と対立する連中は、その主義主張がどうであれすべて「抵抗勢力」とレッテルを貼って片づけた、どこかの誰かがやった手口と完全に一致する。

 しかし、それこそがトリックではないのか

 それはズバリ言って「いい作品をつくりたい」とか「このメッセージを伝えたい」なんて気持ちからではないと断言できる。「オレはスゴイ」と世間に認めさせたいという、激しい増長と度を超した虚栄心や自己顕示欲によるものにしか僕には見えない。「バットマン」というアイコンを「偽装」の隠れ蓑にしたり、「重要なキャラクター」を使い捨てにするような手口からは、クリエイターとして最も大切な資質であるリスペクトや愛が感じられない。作品やそこに関わる要素よりも自分が可愛いという、作り手の歪んだ暗い情熱しか感じられない。

 なるほど、今にして思えば分かる。僕もすっかりノセられた「メメント」も、考えてみれば「奇をてらった構成」がミソの作品だった。「プレステージ」のインチキ臭さも当たり前だ。前作「ビギンズ」のつまらなさも、題材に何の愛も持っていなかったからだろう。しかしこの男、キャスティングや映像スタイルのトリックで、そこに「何かある」と思わせることだけには長けているから始末が悪い。だから世界の映画ファンが、まんまとダマされてしまうのだ。

 故に、この作品の異様な迫力もうなづける。ジョーカーとはクリストファー・ノーランその人であることに間違いないのである。

 

 

 

 

 

 

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