「ドラゴン・キングダム」

 The Forbidden Kingdom

 (2008/08/25)


  

チャン・イーモウに覚えた小さな失望

 去る8月8日に行われた北京オリンピックの開会式は、おそらく映画ファンだったら誰もが見たはずだ。

 特にアジア映画ファンならなおのこと見たのではないか。何しろこの開会式、あの映画監督のチャン・イーモウが演出するというので、前々から大きな話題になっていたからだ。

 チャン・イーモウと言えば、その監督デビュー作「紅いコーリャン」(1987)以来、大胆な色の使い方や構図で大いに名を売った映画作家だ。娯楽大作路線に移ったHERO/英雄(2002)以降は、ダイナミックなスペクタクル映像の作り手としても知られる。それがオリンピックの開会式をやるのだ。どれだけスゴイものを見せてくれるのか…期待はふくらみにふくらんだ。

 途中でチベット問題その他で北京オリンピックが非難に揺れた時でも、チャン・イーモウはこれを好きなだけカネをかけて好きなことができる「国家がスポンサーのスペクタクル・ショー」として割り切ってやっているのだと思っていた。だから僕はその出来映えを全く危ぶみもしなかったし、期待はさらに増すばかりだった。

 確かにヘタをすれば、ナチ主催のベルリン五輪に協力したレニ・リーフェンシュタールの二の舞になる危険性は多分にある。それでもチャン・イーモウには、これを回避するという選択肢はなかったはずだ。回避できないのではない、しないのだ。回避したいなどとは思わないだろうし、これは彼の避けられない運命だ。自分が現代中国の映像文化の最先端に立っているという自負と思い入れが、この開会式に背を向けることを許さない。

 国家が政治に利用しようと画策し、周囲の国々や人々もそれぞれの思惑で政治的にコメントするであろう式典を、彼はむしろひたすら政治を脱色したピュアな「中国美術」で塗り固めようとするに違いない。若い頃に文化大革命のあおりをくって農村に下放された経験を持ち、活きる(1994)で国家の思惑に翻弄された苦い経験を持つチャン・イーモウが、手の平を返したようにオリンピック開会式の総監督を任せてきた国家に対して、飼い犬みたいにシッポを振るわけがあるまい。僕はそこのところだけは、チャン・イーモウを信じていたのだった。

 だからビビッてスピルバーグが降板した時も、むしろ彼がいたらチャン・イーモウ色に濁りが出るだけと思っていたから、かえって良かったと思ったくらいだった。そしてこの世紀の大舞台で、彼が一体どんなことをやらかしてくれるのか、見届けてやろうと思ったわけだ。

 残念ながら開会式当日はゆっくりテレビの前に陣取ってというわけにはいかず、職場の会議室で同僚たちとテレビを見るハメになったものの、その凄さは画面からも十分感じられた

 次から次へと人海戦術で展開するもの凄い光景。なるほど「HERO/英雄」や王妃の紋章(2006)で見せた大スペクタクルは、これの予行演習だったのだ。これだけのスペクタクルを、CGではなくスタジアムで実際に、しかもライブでやってしまう凄さ。巨大な足跡型の花火が北京の夜空にどんどん打ち上がり、スタジアムまでたどり着く演出。これは本当にスゴイ!

 まるでCGみたいだ!

 多少長いと思ったのも事実。中国のさまざまな民族衣装を身につけた子供たちの登場に、少々シラけたのも事実。あまりにわざとらしい可愛い子ぶりっこの女の子に、いささか鼻白んだのも事実。いざとなると「未来への希望」って子供が出てきてお手手つないでっていうワンパターンしかないのか…と思ったのも事実だ。

 しかしそれを差っ引いて余りある豪華なスペクタクル・ショーぶり、中国の文化・伝統・芸術を凝縮させたかのような濃厚さに、僕は心底驚いてしまった。あまり凄くて胸焼けしそうなくらい。

 細部にはいくらでもケチはつけられよう。しかしこの力業は誰にでもできるモノじゃない。天下一品、当代最高の演出家であるチャン・イーモウだからこそ出来た、それはアッパレな光景だった。

 やっぱりスゴイ。やっぱりホンモノだ。僕はそう思って満足してテレビから離れたのだった。

 ところが時が過ぎるにつれて、何とも気が重くなるような知らせが飛び込んできた。

 開会式を何が何でも晴れさせようとして、空に向かってロケット弾を撃ち込んだなんてあたりは、まだ可愛い話。何とあのスタジアムに近づいてくる巨大な足跡花火は、CG映像だったというではないか。

 ここからは、決して結果論の自慢話ではない。何だったらうちの職場の同僚に聞いてもらってもいいが、実は僕はあのテレビ映像を見た時に、「それ」を感じていたのだった。

 それは微妙な感覚だったが、花火の足跡がスタジアムに接近していく様子を、ヘリコプターか飛行機で追いかけて撮影している映像を見た時に感じたのだ。花火を打ち上げる側、ヘリを操縦する側、カメラで撮影する側、これらの三者の呼吸がまったく乱れず、気持ち悪いほどピッタリと合うはずなんてない。多少ブレたりスピードやタイミングがズレたりフレーム・アウトしたりして…それでこその「ライブ」というものではないか。それがあまりにスムースにいきすぎる。それって例えばパール・ハーバー(2001)で真珠湾を攻撃するゼロ戦をピッタリとマークして撮影しているカメラワークや、ゼロ戦から投下される爆弾を一部の狂いもなくフォローするカメラワークに似ていた。あれはどう考えても人間がやっていることではないのだ。

 しかしテレビの中継では、そんなことは一言もいっていない。それに、世界に中継されるオリンピックの開会式だ。まさかそんなイカサマみたいなことをやるはずがないだろう。おまけに演出は天下のチャン・イーモウだ。あるはずがない。僕もその時にはそう思ったわけだ。

 しかし、あろうことかあの映像はCG合成だった

 それを皮切りに続々入ってくる情報は、チャン・イーモウに感服していた僕の気持ちをますます憂鬱にするものばかりだった。まずは可愛い子ぶりっこのわざとらしい表情で歌っていた女の子は、口パクだったという話。なるほど自分が歌っていなければ、無理にでも表情をつくって歌っているふりをするしかない。あの不自然な表情には理由があったのだ。おまけに民族衣装を着て出てきた子供たちは、実はみんな漢民族の子供たちだったとくる。アレが例えば…それぞれ無理矢理各民族の子供たちが動員されて、イヤイヤ「民族融和」を演じさせられたら、それはそれでイビツな気がするが…それでもそこで演出されているモノがモノだけに、「やらせ」と言われても仕方あるまい。あの場面はそれでなくてもシラジラしかったのだ。

 こんな調子で次から次へと「偽装」が発覚していく開会式なんて、今まではなかった。ここで僕はそれらについて、中国はイカサマの国だの何だのとイチャモンをつけるつもりはさらさらない。そういう人は仮にCGや口パクがなかったとしても、どうせチベットとか別のことをネタに同じことを言うに違いない。僕は別にそんなことを言いたいわけではない。

 僕が問題にしたいのは、「表現」として「メディア」としてどうか…ということだ。

 チャン・イーモウは映画監督だ。映画とは、一種のゴースト・マシーンだ。そこにないモノを見せる。あるモノを消したりする。映画は物語の順番に撮影されるわけではない。背の低い者が高くなったりする。ニューヨークが壊滅したりタイタニックが沈没したりする。

 それは「夢」だ。言い方を変えれば「ウソ」とも言える。

 翻ってオリンピックの開会式とは、それは「やり直しがきかない」「本番一発勝負」のイベントだ。「そうでなければならない」とはどこの法律にも書いていないが、そもそもスポーツとはそんなものなのだから、その開会式が「やり直しがきく」のは変だろう。本来イベントとは、すべて「一発勝負」のものなのだ。「一発勝負」だから価値がある。「一発勝負」だから感動がある。もしそうでなければ、開会式のスタジアムで観客にDVDでも配った方がいい。

 チャン・イーモウは、これを知らなかったのだろうか。

 いや、いやしくも「総監督」なのだ。しかも世界的巨匠なのだ。これを知らなかったわけがない。知らなかったとは言わせない。

 そして何が問題だったかと言えば、単にウソをついたからでも作り物だったからでもない。むしろチャン・イーモウの本業である映画とは、ウソで作り物のシロモノなのだ。単にウソをついたというだけなら驚くにあたらない。問題は、それを「どこでやったか」ということだ

 映画というメディアの巨匠であるチャン・イーモウは、映画がウソで作り物であることを誰よりもよく知っていた。だからそんな彼がライブである開会式を演出するということは、ことさらにその「ライブ感」にこそこだわるべきだということを分かっていたはずだ。その違いを、本来のライブの演出家以上に意識せざるを得ないはずだから、だからこそそれを最大限に活かして見せるべきだった。メディアの違いを意識しているに違いない彼なら、もっとそこに敏感になるべきだった。でなければ、彼がやる意味なんてなかったはずだ。

 なのに安易にロケット弾にCG、口パク

 1964年の東京オリンピックの開会式は僕が5歳の時のビッグイベントだが、今でもそのインパクトは僕の中から失われていない。モノクロテレビの画面にはスタジアムが写っていて、その上空には自衛隊のブルーインパルスが飛んでいた。彼らは飛行機雲によって、スタジアム上空に5つの輪を描いたのである。ところがそのテレビ画面から目を移して窓から空を見上げたら、そこには確かに5つの雲の輪が見えるではないか!

 あの時の感動を、僕は忘れることができない

 おそらくあの時のブルーインパルスの隊員たちの緊張たるや、想像を絶するものだっただろう。失敗したら後がない。やり直しがきかない。

 だからこそ、それは素晴らしい。永遠の記憶に残るものになったのだ。

 翻って…映画は「夢」だ。そして「ウソ」だ。「ウソ」だからこそ「夢」は素晴らしい。それは「一発勝負」のイベントとは、まるで違う次元のモノだ。

 だからこそ、チャン・イーモウにはあえて「一発勝負」で臨んでもらいたかった。星野仙一には最初から期待してなかったので失望もないが、チャン・イーモウにはガッカリだ。

 そういや開会式の中で、チャン・イーモウはCG花火や口パクの歌以外にも、すでに撮影済みのビデオ映像などを無造作に放り込んでいた。そういや、それを見た時に僕はちょっとイヤな予感がしたんだよな。チャン・イーモウってひょっとして分かっていないのだろうか。

 いや、分かっていないはずがない。あれだけの映像巧者である彼が、それに無自覚であるはずがない。しかし、それが分かっていながらやってしまうってことは一体何を意味しているのだろうか。

 それは作家としての「怠慢」あるいは「衰弱」を意味しないか?

 そのあたりを考えると、僕は映画作家としてのチャン・イーモウの前途に、少々暗いモノを感じずにはいられない。本来「一発勝負」のはずのイベントで「ウソ」をついた男が、「ウソ」と「夢」の世界に戻って、果たしてうまくやっていけるのだろうか。「ウソ」が白日の下にさらされてしまった後でも…。

 それじゃ「夢」だってしぼむんじゃないだろうか。

 

見る前の予想

 ジャッキー・チェンとジェット・リー!

 この二人の共演と来れば、映画ファンならドキドキせざるを得ないはず。正直言って僕はそれほど香港アクション映画の熱心なファンだったわけじゃないから、「香港映画原理主義者」(笑)のみなさんに「オマエの出る幕じゃない」と言われれば沈黙しなきゃいけないのかもしれない。だけどこの二人のクラスになると、もはやそんな「原理主義」の範疇じゃないだろう。むしろ一般ファンこそ騒ぐべきじゃないか。

 そんな映画が出来上がるということ自体、ちょっとした奇跡に近い。またぞろ引き合いに出す映画が古くて申し訳ないが、スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンが初共演してワーナー・ブラザースと20世紀フォックスが合作するタワーリング・インフェルノ(1974)以来の出来事ではないか。

 もう、これは映画史に残る事件なのである。

 映画としては、「カンフー・パンダ」(2008)などと同じように北京オリンピックによる中国ブーム狙いなのは明白だが、それより何よりも、この二人が真っ正面から共演すること自体が「見る価値」だといえる。

 これはもう見るしかないだろう。

 

あらすじ

 雲の海の中から頭だけ出している切り立った岩山。それらのてっぺんに、えらく元気のいい何者かが仁王立ちしていた。

 それは何を隠そうかの有名な孫悟空だ。

 そんな孫悟空に立ち向かう兵士たちが次から次へとやって来るが、悟空にとっては屁でもない。やって来る敵やって来る敵、すべてがまったく無抵抗のようにやっつけられてしまう。悟空はゴキゲンで自分の武器・金色に輝く「如意棒」を振り回す。そんな調子に乗った孫悟空は、もはや誰にも手の付けられない存在だ。

 ってなところで目が覚めた。

 ここは現代のアメリカ、ボストンの街。中流家庭の平凡な男の子、ジェイソン(マイケル・アンガラーノ)がベッドで目を覚ましたところ。彼の部屋と来たらむさ苦しいのは仕方ないとして、所狭しとポスターやらビデオやら本やら…香港、中国のカンフー映画のグッズが占領しているのが特徴。孫悟空が夢に出てくるくらいだから、彼の頭の中は推して知るべしだ。

 今日も今日とて、カンフーオタクの彼はチャイナタウンの質屋にやって来る。そこはホップという老人の店で、ジェイソンはいつもカンフービデオやDVDを物色していたのだ。

 ところがその日、ふとジェイソンの目に店の奥に置いてある金色の棒が目に入る。老主人ホップが言うには、これはある人物から預かったモノだが、その人物が現われぬままずっと置いてあるのだという。それも老人の父親の父親の代からだというから尋常な古さではない。

 ところがジェイソンは店からの帰り、街のチンピラどもにからまれる。こいつらはジェイソンがホップの店の常連だと知ると、この店を襲うのを手伝えと脅しにかかる。こいつらにこう言われてしまうと、それを拒むことのできない悲しさ。ジェイソンは力も技もないところに気弱とくる文字通りの三重苦の青年だったわけだ。

 そんなわけで、情けないことにあれだけ世話になっているホップ老人の店に、押し込み強盗の手伝いをさせられるジェイソン。ジェイソンの声に何も疑わなかった老人は、まんまと店の扉を開けてしまった。すぐに店の中に乗り込んだゴロツキどもが、老人を蹂躙したのは言うまでもない。おまけに例の金色の棒に目を付けたゴロツキとの間で一悶着。その際にホップ老人は銃弾に倒れ、ジェイソンは行きがかり上この棒を持って逃げ出すハメになった

 しかし強盗と銃撃の「目撃者」を逃がすほど、ゴロツキどもも人がいいわけがない。たちまちジェイソンはビルの屋上に追いつめられ、金色の棒を持ったまま転落するハメになった。

 万事窮す!

 ジェイソンが目を覚ますと、なぜかそこは見たこともない場所だった。むさ苦しい部屋なのは変わりないが、木造の東洋の家のようなのだ。周囲にいるのも東洋人ばかり。話している言葉も分からない。慌てて外に出てみると、そこには広大な東洋の農村風景が広がっている。

 どうやら、ここは昔の中国ではないか!

 何となく事情がのみこめたものの…いやいや、自分がいる場所は分かったものの、まったく事情はのみこめないまま、ジェイソンは呆然と立ちすくむ。そこに突然、邪悪な兵士たちが現れたから二度ビックリ。彼らは農民たちを痛めつけ、人々をさらっていこうとする。慌てて逃げようとするジェイソンだが、兵士たちはそんなジェイソンにも目をつけた。

 しかも彼らは、ジェイソンの持つ金色の棒にも興味を持ったようだ

 ところがその時、ジェイソンたちの前に一人の貧乏臭い酔っ払いが現われる。この酔っぱらい、へべれけにやってフラついているにも関わらず、兵士たちが叩きのめそうとしたら無類の強さで逆にブチのめす。これにはジェイソンまたまたビックリ。何やらジェイソンに話しかけてくるのだが、ジェイソンは言葉がまったく分からない。「何を言ってるのか分からないよ!」

 そのとたん、この酔っぱらいはジェイソンの耳をつまんでこうわめいた。

 「聞こうとしないから分からないんだ!」

 この酔っ払いの名は、酔拳の達人ルー・ヤン(ジャッキー・チェン)。ジェイソンはこのルー・ヤンに連れられ、食堂でメシを食いながら話を聞くことになる。

 ルー・ヤンいわく、この国では将軍ジェイド(コリン・チョウ)によって圧政が行われ、人々が苦しめられているという。さらにルー・ヤンは、ジェイソンが持っている金色の棒にも注目した。彼はこれこそ孫悟空の如意棒だと言うのだ。

 かつて自由奔放に振る舞い、いささかやりすぎながら翡翠帝から愛される存在だった孫悟空。ジェイド将軍はそんな孫悟空を敵視し、騙し討ちにして石に変えてしまった。そして翡翠帝が何百年もの瞑想に入ってしまったのをいいことに、やりたい放題の圧政を敷いた。

 そんな状況を打開するには孫悟空が必要だ。そして孫悟空を解き放つには、如意棒が要る。

 ルー・ヤンはジェイソンに言う。「オマエこそが選ばれし者だ。その如意棒を孫悟空に渡して、この国を救うために遣わされてきた」

 そんな大それた役目などとてもとても…とビビる一方のジェイソンだが、ルー・ヤンはそんな彼にこう言い放つ。

 「そうしないと、オマエは自分の世界に帰れないぞ

 またまた呆然となるジェイソンだが、そうしていられるのも長い間ではなかった。例の兵士たちが襲いかかってきて、食堂が大混乱に陥ったからだ。ルー・ヤンは全く役に立たないどころか足手まといにしかならないジェイソンに手を焼きながらも、兵士たち相手に大奮戦。何とか店を飛び出したところに現れたのは、馬に乗った一人の若い娘だった。

 「さぁ、こっちに逃げて!」

 こうして、またしても旅の連れができたジェイソン。何とか追っ手を振り切って森の中に入り、お互いの身の上を明かすことになる。

 新たに加勢したこの娘の名は金雀子(リュウ・イーフェイ)。投げ矢を得意技とする彼女は、時折持参の琵琶も奏でるという美少女。しかし幼い頃に両親を殺されジェイド将軍への復讐を誓ったという彼女は、どこか暗い陰と頑なさを感じさせた。

 そんな金雀子も唖然としたのが、ジェイソンの「選ばれし者」としてのあまりの頼りなさ。見かねたルー・ヤンがあれこれ特訓を試みるが、モノになるのはかなり程遠そうだ。

 そんなこんなで、ジェイソンが疲れてぶっ倒れるように眠っていたところ、馬に乗った何者かが彼を追ってくるではないか。たまたまルー・ヤンも金雀子もその場にいなかったため、ジェイソンはこの不審な人物に追いつめられて、まんまと如意棒を奪われてしまう。命からがら逃げ出した彼は、近くにいたルー・ヤンと金雀子のもとに何とか転がり込んだ。果たして如意棒を奪ったのは何者か?

 さて、例の人物は…というと、森の一角にある崩れかけた石造りの寺院の中に潜んでいるようだ。ともかく如意棒は奪い返さねばならない。切り込み隊長として、まずルー・ヤンが古代寺院の中に入って行くことにした。

 すると、中ではナゾの僧侶サイレント・モンク(ジェット・リー)が、じっと目をつぶって待ちかまえているではないか…。

 

見た後での感想

 ジャッキー・チェンジェット・リーが初めて顔を合わせるここまででストーリー紹介を切るのが、映画ファンに対する礼儀というものだろう。

 そして、ここからが最高のお楽しみだ。

 それはともかく…まずはこの映画、巷の反応はどうか知らないが、ひょっとしてディープでコアな香港映画ファン、あるいは中国語圏映画ファンには、意外に不評なのではあるまいか?

 その理由はすぐに思い当たるフシがある。いわく、何で二人の初共演がアメリカ映画なのだ?…というあたりだろう。アメリカ映画は、ジャッキー・チェンの魅力もジェット・リーの魅力も分かってない。カンフーの何たるかが分かっていない。そもそもジェット・リーという名前が気に入らない…。

 分かった分かった。アンタらは気に入らないわけね。オッケーオッケー。

 でも、僕はこの映画、ものすごく気に入った

 何が気に入ったって、それは映画が始まって数十秒のうちに気が付いた。いきなり孫悟空が大暴れのイントロも驚かされたが、その後に出てきた主人公の部屋がすべてを物語っているからだ。

 そこには過去のカンフー映画、武侠映画のポスターやらグッズやらが、所狭しと並べられていた。しかもすぐに始まったオープニング・タイトルでは、これらのポスターの絵柄が面白可笑しくコラージュされているではないか。

 いやいや、僕だってディープなファンでもコアなファンでもないから、それほど分かったわけではない。だがそれらのうちいくつかのモノは、僕にだって見覚えがある。僕に見覚えがあるなら、それこそディープでコアなファン…でも何でもいいんだけど、彼らならもっと分かっただろう。

 僕にはせいぜい空飛ぶギロチンだとかキル・ビルVol.1(2003)とVol.2(2004)で一般映画ファンにもおなじみゴードン・リューだとか、そのくらいしか分からなかったが、それでもそれらのコラージュが何を物語っているのか分かった。いやいや、あの大酔侠(1966)のチェン・ペイペイのイラストが、目をキョロキョロさせて出てきた時にはさすがに驚喜した。

 何よりジェイソンが目を覚ました部屋ではテレビが付けっぱなしになっていて、その画面には誰がどう見たってユエ・ホア演じる孫悟空が写っているではないか。僕は第2作鐵扇公主(1966)しか見ていないが、彼主演のショウ・ブラザース制作「西遊記」シリーズは全部で4本あるはず。案の定、エンディング・クレジットまで見たら、この映像はどうもシリーズ第1作「西遊記」The Monkey Goes West(1966)だったようだ。

 もう、これだけで十分!

 アメリカで撮ったジャッキーやジェットの映画はダメだとか、単なる顔合わせ映画だとか、カンフー映画を「ロード・オブ・ザ・リング」みたいにしちゃった映画だとか、所詮はアメリカ青年が主役でダマされたとか、どうせディープでコア…しつこいか(笑)…な連中からはブーイングをくらうんだろうが、これはそんな非難を受けるような映画じゃない。

 ついでに言うと、底が浅い映画だが気楽に楽しめるとか、ジャッキーとジェットの顔合わせだけで喜ぶべき映画…という評価も、歯に衣着せぬ言い方をさせてもらえれば大間違いだ。

 この映画は本気でつくっている。これはホンモノだ。

 僕はこのオープニングを見た瞬間に、正直言って席を座り直した。これはちゃんと画面と対峙して見るべき映画だと悟ったからだ。

 この映画は「映画」そのものに対する愛を表明した映画だからである。

 

カンフー映画に対する愛と敬意が溢れる作品

 まずはこの映画の邦題に賛同したい。配給会社は実に「分かっている」

 「ドラゴン・キングダム」。

 本来なら原題の「フォビドゥン・キングダム」あるいはその直訳題名「禁断の王国」に対してのこの邦題に、ケチのひとつやふたつはつけているであろうところ。なぜ今回ばかりは「ドラゴン・キングダム」という邦題に、この僕が諸手を挙げて賛成なのか?

 なぜなら、「ドラゴン」だからである(笑)。

 日本で初めて本格的にカンフーを紹介した(実はアメリカ資本の映画だったが)「燃えよドラゴン」(1973)以来、怒濤の如く公開される香港カンフー映画には、どれもこれもバカのひとつ覚えみたいにこの「ドラゴン」という単語が付いていた。何しろキン・フー監督の「血斗竜門の宿」(1967)ですら「残酷ドラゴン」とサブタイトルが付いてしまうくらいだから、他は押して知るべし。逆に言えば、「ドラゴン」と付けば映画ファンはそれがどんなジャンルの映画かたちどころに分かった。昨今でこそ「ドラゴン」と来るとファンタジー映画のイメージがあるが、1970年代で「ドラゴン」といえば、香港のカンフーか武侠映画と相場が決まっていた。これは、もはや一種の「映画用語」と化していたのである。

 だから、それから長らくの月日が流れ、もはや「ドラゴン」イコール「カンフー映画」とばかりは言われなくなった時代のこの映画をあえて「ドラゴン・キングダム」と名付けることは、ひとつの強烈な決意表明ともなり得る。

 それは、今ではやや過去のジャンルとなりつつある中国語圏映画(特に香港映画)のカンフー映画や武侠映画に対する、愛を込めたリスペクトであることを意味しているからだ。

 だからこそ、ジャッキー・チェンとジェット・リーという両巨頭の共演が意味を持つ。これは単に2人の中国語圏アクション・スターが初共演するというだけの意味にとどまらない。例えばトム・クルーズとブラッド・ピットとの共演などとは基本的に異なる。それは単に人気スター共演の域を超えている。強いて言うなれば、それはジーン・ケリーとフレッド・アステアの共演…などが当てはまるかもしれない。

 …というより、それしか他に当てはまると思われるものがない

 ジャッキー・チェンとジェット・リーの共演のためにこの映画があつらえられた…という印象は、実はこの作品にはあまりない。実際には二人の共演のためにこしらえられた設定でありストーリーだったのかもしれないが、出来上がった作品からはむしろそのニュアンスは感じられない。どちらかと言えば、この企画ならばこの二人しかないだろう…と、適材として持ってこられたような印象が強い。

 ジャッキーが酔いどれ拳法の達人でジェットが寡黙な僧侶の姿で登場することも興味深い。つまり二人は、それぞれが過去の作品で培ってきたキャラクターの「典型」として存在しているのだ。これはこの作品のとっているスタンスを理解する意味で、重要なポイントだろう。

 なぜならこの映画は、中国語圏アクション映画…中でも香港カンフーおよび武侠映画に対するリスペクト作品だからだ。

 このジャンルに愛を捧げ、実はそれはすでに過去のモノとなりつつあるからこそ…それを甦らせるために、ジャンルの象徴でもあり、しかもどちらも両極端な存在で今まで共演したことのなかった二人を持ってくる。ジーン・ケリーとフレッド・アステアの共演と言った意味はそこにある。彼らはミュージカル映画…それも、その典型であるMGMミュージカルのシンボル的存在であり、実はたった一度、ほんの数分しか共演したことがなかった。それは「ジーグフェルド・フォーリーズ」(1946)でのサービス・アトラクション的出演場面だったが、実際に共演が実現した時よりも、「ザッツ・エンタテインメントPART 2」(1976)での改めての再共演の時の方が話題になったしインパクトがあったものだ。もちろんその時にはMGMミュージカルはとっくに絶滅していたし、そもそも当のMGMが傾いていた。

 この作品には、あの時のケリー&アステアの共演を思わせる興奮がある。

 ジャッキー・チェンとジェット・リーの延々続く格闘場面を見てくれ。あれに対して香港映画マニアやカンフー映画マニアがどう言うか、僕には何とも言えない。全盛期は過ぎたとか、アメリカ映画はカンフーの撮り方を知らないとか、カメラがどうの、フレームがどうの、編集がどうの…あるいはカンフーの「型」についてアレコレ言ってくるかもしれない。だがオレは一介の映画ファンで別に格闘技なんか興味もないし、カンフー映画についてもよく分からんよ。分かろうとも思わない。第一そんなことどうでもいいと思う。

 だがあのジャッキー・チェンとジェット・リーの格闘場面が、まるでMGMミュージカルのようにうっとりするほど美しいということは分かる。手に汗にぎる興奮よりも、陶酔感の方が勝っている気がする。

 それはこの映画全体に、カンフーという映画の一ジャンルに対する愛情と敬意が見られるからだ。

 この映画が今流行のファンタジー映画の体裁をしていることにご不満の方には、むしろ今流行のそうした作品のスタイルに、このカンフー・武侠映画のお約束を結びつけた巧みさを強調したい。古くてローカル色濃いカンフーというジャンルを、流行のファンタジーという風呂敷で包んだところが新しいのである。

 さらに西遊記やら白髪魔女やら…中国のいろいろな伝承や物語が、原型とは違った形で盛り込まれている点を「アメリカ映画ならではのいいかげんさ」とイヤがる向きには、だからこその「ファンタジー映画」としてのウツワだったと弁護したい。まず最初にお断りがなされているではないか。これはそうした中国語圏の物語やカンフー映画にとりつかれたアメリカ青年の、頭の中で生まれた物語なのである。ならば多少のムチャや矛盾、つじつま合わせは当然だろう。そんな合理的なクソ面白くもない説明はせずとも…一言「リスペクト」と言えば事は足りる。

 特に僕としては、主人公たちに同行する少女が「金雀子」ことゴールデン・スパロウと名乗っていることが嬉しかった。あれはおそらく、キン・フー監督の傑作「大酔侠」でチェン・ペイペイが演じていたヒロイン「金燕子」のもじりだろう。あるいは僕が知らないだけで、中国の伝承や物語の中には実際に「金雀子」というヒロインが存在するのだろうか?

 ともかく「金雀子」が最初に登場する場面が食堂なのは、「大酔侠」での「金燕子」の最初の見せ場が宿屋の食堂であることや、グリーン・デスティニー(2000)においてその「金燕子」をモデルにしたチャン・ツィイー演じるイェンが食堂で大暴れすることまでも連想させて、何とも感慨深い。

 そんなこんなも含めて、ジョン・フスコの脚本と「ライオン・キング」(1994)などアニメの監督だったロブ・ミンコフの演出は、驚くほどそのあたりのニュアンスが「分かって」いる。こうなるとロブ・ミンコフに対しては、どうして手塚治虫にはリスペクトでなくパクリという手段に出たのか…と言いたくもなるのだが…(笑)。間違いなく彼らは付け焼き刃の知識などではなく、このジャンルの作品に対して深い愛情と知識、何より敬意を払っていることが伝わってくるのだ。

 それがこの作品を、凡百の娯楽アクション映画と一線を画した趣深いものにしているのである。

 

見た後の付け足し

 というわけで、ここまで述べてきたように、この作品は中国語圏のアクション映画…分けても香港カンフー・武侠映画に対するリスペクトに溢れている。だが、実は「それだけ」でもないと僕は思っているのだ。

 もはやカンフーも武侠映画も、中国語圏だけのものじゃない

 たぶんそういうマニアの方々にとっては、本当のこの物語の主人公はアメリカ青年で、ジャッキーもジェットもインサイド・ストーリー中の人物であることに不満があるかもしれない。だがその点にこそ、むしろこの映画のカンフー映画に対する深い尊敬の念が感じられるのだ。

 この作品における実質上の主人公であるアメリカ青年は、世界中の映画ファン…僕らの象徴だ。かつては香港はじめ中国語圏ローカルのジャンルに過ぎなかったカンフー・武侠映画が、世界中の映画ファン共通の「夢」の対象として描かれていることにこそ注目すべきだ。

 そしてこの映画のメイン・ストーリーも、いわば主人公の「夢」として描かれる。そこで青年の「夢」を体現するかのように、ジャッキーとジェットという両巨頭が激突する。それも映画ファンの「夢」だ。

 そんな「夢」こそが、映画というものの正体なのである。

 

 

 

 

 

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