「スピード・レーサー」

 Speed Racer

 (2008/08/11)


  

YAWARA谷亮子の銅メダルに思う

 いろいろ物議を醸しているものの、何だかんだいって北京オリンピックが始まった。

 チャン・イーモウ演出による開会式の壮大さには目を見張りながらも何となく複雑な気分。そうは言ってもついつい仕事を中断しつつテレビに見入っちゃったりした。そして、早くも日本期待の柔道、「ママでも金」のYAWARAこと谷亮子の登場だ。

 いきなり負けてしまった。

 そういえば、出てきた時から何となく表情が優れなかった気がする。今ひとつ本調子ではなかったのか。それともこうなることを予期していたのか。そんな「イマイチ」な状態のまま、何も出来ずに負けてしまった。この試合の後で猛然と攻撃をしかけて銅メダルは取ったものの…いや、銅メダルだってスゴイことなのに、それでも本人は釈然としていないだろう。

 何せこの人、「最低でも金」なんて言っていたのだから。

 銅だって何だってメダル取れるだけでスゴイはずだ。普通なら喜ぶべきところだろう。いや、出場できるだけで嬉しいって人や国だってある、戦争の真っ直中にあって必死にこの会場までたどり着いた人々だっている。それなのに、どこをどう見たら出てくるのかこの「上から」発言。

 ここだけの話…こんなこと言ったら応援していた人は不愉快だろうし、僕のような部外者が言うべきことではないのかもしれない。子供を抱えての選手活動も大変だったろうと思う。だから敗者をさらにムチ打つようで大変申し訳ないが、前々から思っていたことだから仕方がない。この際ハッキリ言っちゃうけど、僕はこの人のこういう無神経さがイヤだった。

 「ママでも金」って、五輪はこの人のためにあるわけじゃないだろう。他にだって出たい選手はいる。そういや今は政治家センセイになった元スケート選手も、まるでオリンピックを私物化してるような態度だったっけ。「気合いだ気合いだ」ってハタ迷惑顧みず騒ぐ父娘が、どういう訳だか理想の親子像みたいにモテはやされる風潮もいかがなものか。亀田父子と一緒にしちゃマズイだろうが、どうもあまり変わらないような気がしてならない。何か勘違いしてるんじゃないだろうか。どこか違うだろ。悪いけどこういう人たちの価値観には僕はまったくついていけない。

 しかも今回、谷にはスッキリしないことおびただしい出来事もあった。

 北京オリンピックの柔道代表選手の選抜において、誰がどう見たって腑に落ちないことが行われた。代表選考を兼ねた柔道全日本選抜体重別選手権において、 女子48キロ級で谷亮子は決勝で敗れているのだ。それなのに、日本代表は優勝者じゃなくて谷。

 何でも柔道連盟の発表によれば、海外の実績や経験を考慮して谷が選ばれたという。しかし、それってどういうことなのだろう。だったら代表選考の大会などやらなければいい。そもそも海外の実績や過去の経験が最優先されるなら、こんなヘンテコな選考によって経験を積ませてもらえない若手にはいつまでも順番が回って来ない。大体、次は負けるかもしれないのに(実際この時は勝てなかったわけだから)、過去だけ見て選ぶなんてバカげてないか。っていうか理屈に合わない。最初から「スター」を出したいって考えてたんじゃないだろうか。あるいは大金を投じてくれる大スポンサーの顔色をうかがったのか。それならいっそのこと、最初から「代表はYAWARA以外なし」って書いておけよ、「谷」じゃなくて(笑)。

 さすが世界のTOYOTA…おっと、YAWARAの「実力」なのか。

 そこはそれ、しかるべき理由もあったろうし、ちゃんとした選考は行われたのだろうが、これで納得できる奴なんていないだろう。まして勝負に勝ちながら代表から落とされた選手なんて、絶対に不満がないはずがない。どう考えてもおかしいからね。

 だから今回の五輪では、正直言って谷を応援する気はあまり起きなかった。相手が北朝鮮の選手だったとしてもそっちを応援しちゃいそうだった(笑)。そしてこの結果。大変申し訳ないけど、僕はこれは妥当だと思う。いやはや良かったよ、「負けても金」じゃなくて(笑)。

 確かにイマドキ、オリンピックにフェアプレイやスポーツの崇高さを期待するのはピントはずれだとは思う。政治や商業主義はつきものだろうし、競技時間がアメリカのテレビのゴールデン・タイムに合わせられるのも仕方ないことかもしれない。チャン・イーモウ・プレゼンツのセレモニーも時々素直に感激できない部分があったが、アレはスペクタクル・ショーとして楽しめばいいのであって、目くじら立てても仕方ないのかもしれない。しかも僕は切磋琢磨してやってる方じゃないんだから、黙って見てればいいのかもしれない。でも、やっぱり「この一点」だけはハズしちゃいけないことってあるんじゃないか。あまり人をナメたことばかりやってちゃいかんだろう。

 この世の中にだって、「神聖」で「汚すべきでない」ものがどこかにちょっとは残っているんじゃないだろうか。

 

見る前の予想

 まずこの「スピード・レーサー」感想文を読む前に、僕が2001年に書いた処刑人(1999)の感想文の冒頭部分をご一読いただきたい。ただし一番最初ではなく、20〜30行ぐらい過ぎたあたりからだ。それは次のような文章で始まる。

 “例えばタランティーノの「パルプ・フィクション」でエリック・ストルツが着ていたTシャツを見たか? 何とあのアニメ「マッハGO!GO!GO!」のTシャツだったんだ。”

 …問題の箇所を読んでいただけただろうか? いやいや、これは別に僕に先見の明があったと自慢したいわけじゃない。だだ間違いなく、僕は「マッハGO!GO!GO!」マトリックス(1999)のあの革新的なアクションの原型だったんじゃないか?…と思っていたわけだ。そうは言っても、あまり偉そうなことは言えない。こんなこと、ひょっとしたら他にもそう思っていた人はいっぱいいたかもしれない。あの「マッハGO!GO!GO!」のオープニングをリアルタイムに見ていた人なら、おそらく思い付きそうなことだからだ。

 そしてタランティーノはこの「マッハGO!GO!GO!」のハリウッド映画化を狙っていたようで、キル・ビルVol.1(2003)の劇場パンフレットにはそのへんの事情がちょっと書いてあったように記憶している。その時の記載によれば、主人公の三船剛ことスピード・レーサーにはジョニー・デップ、覆面レーサーXにはマイケル・マドセン…などのなかなか魅力的なメンツが書いてあったりもしたが、それは実現しなかったのはみなさんご承知の通り。

 しかし、「マッハGO!GO!GO!」ハリウッド映画化という企画自体は生きていた。しかもそれが事もあろうに、「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟の新作としてお目見えするとは! 自分でも「マッハGO!GO!GO!」が「マトリックス」アクションの原型…などと言っておきながら、このニュースを聞いて改めて「アレは本当だったんだ!」と興奮してしまう始末。実際の話、こうなってみると本当にホント、正真正銘に「マトリックス」アクションはこの日本アニメをヒントにしていたと思うべきだろう。

 こうなると、早く実物が見たい!

 …と当初は僕も思っていたのだが、実は制作ニュースとともにネット上にアップされた、この映画の場面スチールや予告ムービーを見ているうちに、何となく不安ばかりが胸をよぎり始めた。

 一体、何なんだこれは?

 どう見たって全編CGで作り込みまくりの世界。いや、「マトリックス」のウォシャウスキーならそうなるのは当然だと思っていたものの、CGをふんだんに使っているというより、CGの中に実写を埋め込んでいる感じ。変な話、これではピクサーのCGアニメカーズ(2006)の画面の方がリアリティがある。日本のテレビアニメの実写映画化ではなくてCGアニメ化みたいなのだ。これってちょっと違うんじゃないか?

 しかも、そこに描かれているのは妙にケバケバ・ピカピカな原色世界。レーシング場面の背景に描かれている未来都市風の風景を見ていると、これがまるで近未来SFのような気がしてくる。その割に主人公たちがいる部屋のデザインや色合いなどは妙に1960年代風みたいにも見える。

 主人公たち…パパ、ママ、主人公の弟、チンパンジーも含めて、こちらは驚くほどアニメのイメージそのままに造型しているのにビックリ。ただし、それがあまりに徹底しすぎていてむしろ現実味がない。

 あれれ…確か僕はこれとそっくり似た世界観の映画を見たことがあるぞ…と思いきや、確かにあった。それはウォーレン・ベイティ監督主演の「ディック・トレイシー」(1990)だ。

 あれも主人公らはマンガのイメージそっくりに造型し、セットから衣裳から何から何までを人工的な原色世界で構築。確かにその徹底ぶりには恐れ入ったものの、ならば実写でやる必要がないではないかとも思った。

 いや、正確にはそれとも違うな。実はそれって原作のマンガ世界に忠実に見えて…何となく微妙にズレている。確かに「それ」をマンガじゃなくて実写でやるという時点で、もうそれは別物になっている。だとすると、それは一見原作マンガに忠実なモノに見えて、実はまったく異なるモノに化けちゃっているといえよう。そうなると、マンガの世界なら不自然さなく成立しているモノを実写の世界に何のアレンジもなしにそのまんま持ってきても、自然に馴染むわけがない。むしろ思い切り浮いているに決まっている。よく言えばキッチュでシュール、悪く言えばケバケバした悪趣味にしかなっていない。

 そんな「ディック・トレーシー」の「誤算」が、ここでもまた繰り返されているように見える。

 しかも…それだけじゃなくって、これってかなりな勘違いなんじゃないのか。アニメに忠実に作ったつもりで「原色」なんだろうが、「マッハGO!GO!GO!」自体は普通のレース・アクションもので別にケバケバしちゃいない。近未来のお話でもなかった。しかもわざわざアニメを実写版にしようというのに逆にアニメっぽくCGで塗り固めるってのは、全然めざすところが違っているんじゃないのか。

 ハズしちゃったんじゃないのか、ウォシャウスキー兄弟?

 そして、悪い予感が当たっちゃったのか…な〜んとなく公開が迫っても広告にパンチや元気がない。世間の話題にもなっていないし、何しろこの映画の周辺に期待も活気もない。まだ何の結果も出ていないうちにこんな事を言うのもおかしいが、なぜかこういうのってムードとして現れてしまうものなのだ。

 案の定、アメリカでの興業成績のニュースは芳しいものではなかったようだ。それなりに客は入ったようだが、ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」三部作に続く新作で、しかも巨額の制作費を注ぎ込んだ作品が「ソコソコ」じゃ済まされないだろう。

 これはやっぱり失敗なんじゃないか?

 でも、失敗なら失敗で、この作品がどうして失敗したのかを見届けたくなった。そこで忙しい時間を何とかやりくりして、劇場まで足を運んだ次第。

 

あらすじ

 サーキットに新しいヒーローが出現した。真っ白くてユニークなボディの「マッハ5」を駆って、ルーキーのくせにコースを自在にぶっ飛ばすそのレーサーの名はスピード(エミール・ハーシュ)。しかし彼はただのルーキーではない。

 彼の父親のパパ・レーサー(ジョン・グッドマン)はレーシングカーの設計者。このマッハ5もパパのお手製だ。パパはあえて大手自動車メーカーとは一線を画して、独立チームとしてここまでやってきた。新車をつくるとなったら、彼の片腕として働くスパーキー(キック・ガリー)、ママ(スーザン・サランドン)ややんちゃな弟スプライトル(ポーリー・リット)、さらにスプライトルのペットというより相棒のチンパンジー「チムチム」、そして幼なじみでガールフレンドのトリクシー(クリスティーナ・リッチ)まで総動員でこさえるという家内工業ぶり。まさにレースはレーサー家の「家業」だった。

 いや、何よりスピードにレーサーを志させた存在を忘れちゃいけない。かつて天才的なレーサーとしてメキメキ頭角を現したスピードの兄、レックスこそその人。ダイナミックなドライビングを見せたレックスのことは、レーサー一家のみんなも、このサーキットに集まった人々や実況のアナウンサーも鮮烈に記憶にとどめている。…いやいや、今マッハ5と共に弾丸のように突っ走っているスピード自身こそが、誰よりレックスの存在を間近に感じているはずだ。

 しかしレックスの名は、なぜかそれらの人々の脳裏に苦いものを思い起こさせる。特にパパはまるで苦虫を噛みつぶしたような顔で、その名を口にするのもイヤなようだ。

 それもそのはず。レックスは有名になった後でレーサー一家から離反して大企業の傘下に入り、ダーティーなレースばかりやるヒールとなってしまったのだ。あげく「カーサ・クリスト・ラリー」の難所中の難所として知られる雪山のトンネル中で大事故を起こし、いきなりこの世を去ってしまった。一家を裏切り、家名に泥を塗り、愚かな死に方をしたレックスをパパは許さなかった。しかしスピードは、今でもこの兄のことを心のどこかで慕っていたのだった。

 そんな兄レックスと一体になったかのような、奇跡のドライビング。スピードは圧倒的な強さでこのレースを優勝し、一躍レース界の寵児となった。これにはトリクシーもレーサー一家も大喜び。特にパパは大いに鼻が高い。

 そんなこんなで大いに意気上がるレーサー一家だが、一夜明けて早速スピード目当ての訪問者が現れる。それは大手ローヤルトン工業のオーナー、ローヤルトン社長(ロジャー・アラム)だ。彼は新星スピードを、何としても自社の専属にしたいとやって来たのだ。これまで独立独歩でやってきたパパは渋い顔だが、そこはそれスピードの道。自分のことは自分で選べと一任する。かくしてローヤルトン社長は、自家用機にレーサー一家とトリクシーを乗せて、大都会の中心部にある本社までひとっ飛び。

 確かに、そこはレーサーたちにとっては夢の王国だ。

 いずれ劣らぬ名うてのレーサーたちが、しのぎを削って練習できる環境がある。ありとあらゆる富も約束される。ローヤルトン社長直々に熱心に口説かれて、これにはさすがのスピードも心がグラつかざるを得ない。

 しかし家に帰って熟考したスピードは、再びローヤルトン社長を訪ねてこの申し出を断ることにした。パパの家業に賭ける気持ちを知っていたからこそ、ここで大企業になびくわけにはいかなかったのだ。

 「何だと。バカなヤツだ!」

 そんなスピードの言葉を聞いたとたん、ローヤルトン社長の言動が一変した。何と彼はスピードに、レース界の恐るべき秘密をぶちまけたのだ。「レースはフェアだとでも思っていたのか? 愚か者め!」

 ローヤルトンによれば、世界のレースはすべて一握りの自動車メーカーのVIPによって牛耳られているというのだ。しかも、それはレースの歴史が始まってからずっとそうだった。当然レーサーたちも、こうした大物たちの意向を聞かずにはいられない。だからすべてのレースは、クルマがスタートする前に一切筋書きが決まっているのだ…。

 「オレに逆らったらオマエは勝てない。手持ちのレーサーを総動員し、TOYOTAの…じゃなかった(笑)、ウチの総力を挙げてオマエをつぶしにかかってやる!」

 この言葉に愕然としたスピードは、憤然と席を立ってローヤルトン社から去った。彼にとって神聖なレースを、こんな風に汚す人間とは一緒にいたくなかったのだ。

 しかし家に帰って我に返ってみると、ローヤルトンの言葉がいちいち重くのしかかってくる。すべてが不正だったというのなら、自分が今までレースを愛してきたのは一体なんだったのか? そしてローヤルトンに反旗を翻した以上、もう自分にもレーサー家にも「勝ち組」になれるチャンスはないのではないか?

 案の定、次に出場したレースでは次から次へと妨害にあうスピード。さらにパパも設計盗用疑惑がかけられ、世間の風当たりはにわかに厳しくなる。まさに八方塞がりだ。

 ところがそんなレーサー家を、これまた意外な訪問客が訪れる。それは警察のディテクター警部(ベンノ・フュルマン)と…何とナゾの覆面ドライバー、レーサーX(マシュー・フォックス)ではないか!

 何しろレーサーXとくると、レース界ではその名を知らない者は誰もいないほど「悪名」高い人物。抜群のドライビング・テクニックは持っているものの、レーサーXが出るレースは決まってひどく荒れるのだ。そんな「札付き」の人物が何でまたレーサー家へ? なぜ警察の人間と?

 ディテクター警部が持ちかけた話は、スピードたちを驚かせるに十分だった。何とレーサーXは、警察の協力者だというではないか。実はディテクター警部たちはレース界の不正を暴くため、前々からローヤルトンたちに目を付けていたというのだ。

 そしてレーサーXは、今度はスピードに協力を要請しに来たのである!

 

見た後での感想

 キンキンケバケバ。確かにこの映画の視覚的な印象を一言でいえば、そうなってしまう。

 しかも「スピード・レーサー」の世界は、実はオリジナル「マッハGO!GO!GO!」とも微妙に違っている。なぜなら、「マッハ〜」がアメリカで放映され吹き替えられた段階で、内容も微妙に翻案されたはずだからだ。

 あれを見る限りでは、時代は現代(つまり放映当時の1960年代)、舞台はレースがよく行われたヨーロッパとなっているはずだ。風景もそれ風に描かれていた。ただし三船剛(つまり主人公スピード)とその一家は日本人だろうから、住んでいる場所も日本ということになる。そのへんの地理的距離感は非常に曖昧だ。

 映画「スピード・レーサー」は、どうも近未来のような不思議な都市風景が登場する。では近未来なのかと言えばどうもそうとも言い切れなくて、何となく地球ではないパラレル・ワールドでの出来事のように思われる。日本人らしき東洋人がやたら現れるものの、どうもアメリカとも日本とも、他の東洋の国とも何とも言えない場所に見えるからだ。ともかく、そこは僕らが知っている世界ではないらしい。

 しかし、これが「マッハ〜」をアメリカで放映した「スピード・レーサー」に元々あったものかといえば、それも違うような気がする。

 これはおそらくウォシャウスキー兄弟が、このアニメの物語を実写映画に移すにあたって、「リアル」でなくても済むように考えた趣向に違いない。

 そして「マトリックス」の作者らしく、期待通りの目新しい映像が連発する。全編CGだらけというのも予想通りだ。

 では、これは「マトリックス」みたいに革新的な映画なのか?

 実は、不思議なくらい「革新性」は感じない。確かに全編の映像はキンキンケバケバで、あまり実写映画ではお目にかからないような感覚だ。レース場面はほとんど全編CGしか使われていないから、どれもこれも重力の法則も物理の法則も無視したモノになっている。確かにそれは凄まじいといえば凄まじいが、目新しいかと言えばそうではない。「マトリックス」よりも今度の方が違和感のあるユニークな映像が連発しているにも関わらず、それらはあまり「革新的」とは見えないのだ。そして他のお客さんたちも、それらを「革新的」だと思ってはいないようだ。

 ただ、白状すると…当初、僕は「マトリックス」の第一作はあまり評価していなかった。その理由の最大のものはお話の脆弱さだったが、理由のひとつには実はこんなものもあったのだ。

 「世間で言われてるほど“新しく”ないじゃん」

 実は後になってから、他の映画ファンたちに「これがいかに劇映画として革新的なのか」を詳しく説得され、初めて「これってスゴイんだ」と思い当たったものの、最初のうちは世間が「マトリックス」を持ち上げれば持ち上げるほどどこかシラけてしまったのも確か。今では「マトリックス」は確かに娯楽映画のひとつのマイルストーンだと認めるものの、その頃はあの作品のどこが「新しい」のか分からなかった。

 それは…今ならハッキリ分かる。「マッハGO!GO!GO!」に代表される1960年代の日本のアニメシリーズの映像感覚を、巧みに劇映画に持ち込んだからだ。たぶん最初に「マトリックス」を見た時、僕は「こんなの子供の頃からとっくに見ている」と無意識のうちに思っちゃったのに違いない。特に僕は昔マンガ家になりたかったクチだし、無類のテレビっ子だった。だから日本アニメの世界にあまりにドップリ浸かっていて、みんなが驚く「新しさ」が分からなかったのだ。

 そして、今回はその「原点」に立ち戻った。

 ならば、やっていることは今回も変わらない。むしろもっとおおっぴらにやっている。だったら、もっともっと「革新的」に感じていいではないか。なぜ、それがみんなに感じられないのか。

 実は「マトリックス」は、かなりきわどいところを突いたのではないか。…今改めて考えてみると、僕にはそんな風に感じられるのだ。

 「マトリックス」は、誰がどう見ても一見普通のSF映画のように見える。お話もそうなら映像もそうだ。その点に関しては極めてジャンル映画のお約束に忠実だ。

 ところが「ここぞ」という一瞬だけに、「マッハ〜」などで培った日本のアニメ感覚を注入した。おそらく最初これらを見た一般観客は、それが日本のアニメに原点を見いだせるものとは夢にも思わなかったはずだ。だから今まで見たことがない「革新的」なものだと思った。

 しかしその後、「マトリックス」は日本のアニメや香港のカンフー映画など、さまさまな…それまでアメリカの娯楽映画には馴染みのなかった要素を取り込んだ作品だと、一般の映画観客にも徹底的に刷り込みが行われてしまった。

 しかも「スピード・レーサー」はモロに日本のアニメの映画化で、見た目もキンキンケバケバな「アニメ・ルック」をしている。それが1か所や2か所ではない。全編を通じてそんな調子だ。そこで時代も国も超越したようなパラレル・ワールドのような世界観が語られようと、重力や物理の法則を無視したアクションが展開されようと、別にアニメなら驚くに当たらない。見る側としてはそう思ってしまうのは当然なのだ。

 特に今回の映画で顕著なのは、映画の場面の中に登場人物たちの顔のアップがいきなり割り込んでくる描写。出てくる人物たちの顔の向きも位置関係も完全に無視で、ともかくドラマに関わる人々のアップが画面の右から左、あるいは左から右にスーッと移動していく。これは何だ…と問われても困るのだが、アニメというよりマンガの表紙イラストみたいな効果とでも言おうか。

 おそらくウォシャウスキー兄弟は、「マトリックス」に登場した「アクションの途中でカメラ一回転」…みたいな目新しさを、この妙な描写で今回の映画にももたらそうとしたのだろう。しかし、それはまったく効果が出なかったとは言わないが、特に目新しい「革新性」とは受け止められない。何だか風変わりなことをやっているとは思うが、別にビックリはしない。「マトリックス」のようには「とんでもないモノを見た」と感じられないのだ。

 そういう意味では、いろいろな点でウォシャウスキー兄弟もプロデューサーのジョエル・シルバー「誤算だった」と言えるかもしれない。映画観客に「マトリックス」に次ぐ衝撃を与える…ということを目論んでいたのだろうが、それは到底達成されそうもないからだ。

 

ウォシャウスキー兄弟の誤算

 ただし、ではこの映画はつまらないか?…と言えば、僕は「否」といいたい。

 そこに1960年代の日本アニメ、特に「マッハGO!GO!GO!」への郷愁があるのではないかと指摘されれば、僕もいささか心許ない感じだ。しかし、それをさっ引いてもなお、この映画にはどこか見るべき点があるように思える。

 まず、全編CGで固められたレースシーンが、それなりに面白かったし手に汗握ったことを認めねばならない。

 レースが主眼の映画でそれは当たり前だろう…などと言わないでいただきたい。CGで何でも出来るのだから、それは当たり前だろう…とも言わないでいただきたい。確かにCGは何でもできる。だが、何でもできるからこそ、見る側に緊張感の減退をもたらしもするのだ。

 だって考えていただきたい。CGならば何でもできるのである。だったら「CG」だと分かった時点で、見る側はこう思わないだろうか。「いくらスゴくたって、どうせCGだろう? だったらスゴくて当たり前じゃないか。別に驚くに当たらない」

 それなのに、この映画はレース場面が面白く描かれている。他人がやっているテレビゲームみたいに、サメた感覚にはならない。これはちゃんと「演出家」が介在している証拠ではないか。これは出来そうで出来ないことだ。マイケル・ベイの映画ではこうはいかない。

 そしてこの映画の描くお話の、あまりに「真っ当」なこと。

 大企業の横暴に単身戦いを挑むヒーロー。ハリウッドの大資本がCGを駆使して作る超大作映画のテーマとしてはこれほど皮肉なものもないが、そこでは大企業の横暴を個人や家族の連帯が打ち負かすというお話が、真面目も真面目、大マジメに描かれている。何とこの映画のラストは、大企業の社長ローヤルトンが獄中につながれた新聞記事で幕となるのだ。その記事の大見出しは、こう躍っている。

 「悪が栄えたためしなし!」

 実際には、悪が敗れたためしこそ全くないというのが現実なのだが、この映画では堂々と正義の勝利がうたわれている。こんな真っ正面からストレートに「正しさ」を描いたアメリカ映画なんて、最近ほとんどお目にかからないのではないか。今ではアメコミ・ヒーローだって真っ黒なご時世だ。こんなスクエアでクリーンなメッセージなどはどこにも見られない。

 それって…実はかつてのハリウッド映画に横溢していた、フランク・キャプラ的理想主義ではないだろうか。

 確かにイマドキそんなことを言ったら相手にされない。現実とはあまりに剥離した価値観だ。しかし、本来のアメリカ理想主義とはそうだったはず。ここではそれが、大真面目に真っ正面から描かれているのだ。

 ただし、イマドキの目で見るとオタッキーにポップでキッチュな、1960年代日本アニメのフィルターを通して…ではあるが。

 そのポップな味付けを通過させてみれば、そんなメッセージもシラけずに見れる。ひょっとしてここでの「マッハGO!GO!GO!」とは、そんな効果を狙ったものではないだろうか。

 さらに興味深いのが、この映画では一種の「求道精神」が重んじられていること。

 そもそもテレビの「マッハGO!GO!GO!」では、第1回あたりのエピソードはどうか知らないが…シリーズ全編を通しては、主人公が自分と関係のない事件や犯罪を、レースを通して解決していく形に落ち着いている。

 ところが今回の映画版では、事件は主人公にモロに関わっている個人的なものとなっている。で、この脚色が正解だった。

 悪漢たちの陰謀は、主人公に実害となって襲いかかってくる。その実害とは何か? それは主人公のレースが妨害されるというだけではない。主人公が信じてやまない「レースの神聖さ」が汚される…ということなのだ。

 主人公は子供の頃から、レース一筋に生きてきた。母親ですら彼のレースぶりを見ると「まるで芸術家の仕事ぶりのようだ」と言いたくなる。レースが生き方であり、哲学だ。だから主人公は、「レースの神聖さ」を汚す連中を許せない。

 この映画では、レースが「ゲーム」であったり「実利的な勝利」であったりという形では、あまり描かれていないのが特徴だ。それはどちらかというと、武士道のような求道精神に近い。ある意味、黒澤映画の主人公たちのモラルのようでもあり、ブルース・リーなどのカンフー映画のスピリットのようでもある。言ってしまえば、「人は自分の信じるものにトコトン打ち込むべきだし、それを全うするためにも正しい行いをするべきだ」という、これまたあまりに「真っ当」なことを言っているようなお話なのだ。そして、これまたポップな味付けでもなければイマドキは通用しないシロモノだ。

 そういったイマドキ伝えるのに難しいモノを、あえてポップでキッチュな衣で見せようとしたのが今回の作品ということなのだろうか。

 それに何より、主人公たちの造形も含めて…ウォシャウスキー兄弟たちが本気で「マッハGO!GO!GO!」を愛していることだけは、見ていて十分伝わってくる。何とエンドクレジットが始まると、僕にとってはおなじみの日本の「マッハGO!GO!GO!」主題歌が流れてくるからビックリ。すぐにそれはイマドキのヒップホップ風の歌に取って替わられてしまうが、それでも所々日本語が出てきたり「マッハ、ゴーゴー!」(英語読みの「マック」ではなくて)などと合いの手が入ってきたり…と、オリジナルへの愛は十分すぎるほど伝わって来た。何より僕が「処刑人」感想文で指摘した、「マトリックス」に影響を与えたとおぼしき日本版アニメのオープニングの最後…主人公がマッハ号から飛び降りて見せるあのポーズ…を、今回の映画でもちゃんと再現して見せた。これで「マトリックス」の元ネタはバラしたも同然なのだが…ともかく彼らは本気も本気なのである。

 ひとつ誤算があったとしたら、ウォシャウスキー兄弟が「マッハGO!GO!GO!」に愛情を持っていたのは確かだが、残念ながら現在のアメリカ人観客とイマドキの日本観客には、それほどの愛はなかったということじゃないだろうか。結局この映画にみんなが今ひとつノレなかったのは、それが最大の原因のような気がする。

 つまり作り手と対象としての「マッハGO!GO!GO!」、観客と「マッハ〜」、さらに作り手と観客との間の距離感が、正確に把握できていなかったこと。

 「マトリックス」がバッチリとハマった時、彼らに「作り手の気持ち=観客の気持ち」という誤解が生まれてしまったのだろうか。映画としては決して悪くないと思われるだけに、そのあたりのすきま風が何となく残念に感じられるのだ。

 

見た後の付け足し

 そんなキンキンケバケバの見た目といい、ヒップホップと1960年代日本アニメソングが混じり合う主題歌といい、全編にわたってのシュールでキッチュでミスマッチな印象は、国際色溢れるキャスティングにも感じられる。

 ライバル・レーサーたちに混じって、ラン・ローラ・ラン(1998)、素粒子(2006)などに加えて、最近では「ミュンヘン」(2005)などアメリカ映画にもチラチラ顔を出すようになったモーリッツ・ブライブトロイが出てきたり、外国映画出演が相次ぐ真田広之が出てきたり…。正直言って真田はPROMISE(2005)や上海の伯爵夫人(2005)に出ているうちは「さすが」と思っていたが、サンシャイン2057(2007)やラッシュアワー3(2007)に出るに至っては、「外国映画なら何でもいいの?」と言いたくなるほどのトホホな役どころばかり。今回も単に日本のアニメが元ネタだから日本人が必要だったと言わんばかりの、彼でなくてもいいようなパセリみたいな役だった。

 特に妙ちきりんなのは、不自然に東洋人のキャストが多いこと。先に述べたように元が日本のアニメで、自動車産業で日本が大きな位置を占めているからということもあるのだろうが、これほどウジャウジャ出てくる必要があったのだろうか。

 特にトゴカーン・モータースという会社の御曹司でレーサーを務めるテジョという若者に、韓国のアイドル歌手らしいRAINなる人物が起用されている。この男って「RAIN(ピ)」って表記されたりしてるけど、「(ピ)」ってカッコに入っているのは一体何の意味なのかよく分からない(笑)。それはともかく、このRAIN演じるテジョの父親役は日本人俳優で、妹役は役名が「ハルコ」とくる。ならばこいつら日本人と考えるのが自然なんだろうが、RAINの役名があくまで「テジョ」というのは韓国国内向けに日本人役じゃマズイということなのだろうか。そのへん考えると何となくスッキリしないものがチラついてしまうところだが、そいつはともかくとして…。ウォシャウスキー兄弟もわざわざそんなメンドくさいマネまでして日本や東洋イメージを持ち込まなくてもいいのに…と思ってしまう。

 そうそう、その「ハルコ」役を演じているのは、中国映画「トゥヤーの結婚」(2006)の主演女優ユー・ナン。「トゥヤーの結婚」は未見ながら、予告その他でどんな映画かは何となく知っている。内モンゴル自治区の荒野を舞台にした映画で、化粧っけナシのスッピン演技に終始していた女優だ。どう考えてもこの映画の「ハルコ」役は彼女じゃなくっちゃあ…という女優ではあり得ない。ハッキリ言ってウォシャウスキー兄弟がたまたまベルリン映画祭金熊賞受賞のこの作品を見ていて主演女優を気に入って、むりやりこの役に押し込んじゃったってところじゃないのだろうか。そういや「マトリックス・リローデッド」(2003)ではランベール・ウィルソンモニカ・ベルッチを起用していたウォシャウスキー兄弟。オレたちは他のバカなハリウッド人種と違って、いろいろ世界の映画界に目を配っているんだぜって言いたいところなんだろう。ただし、せいぜいベルリン映画祭金熊賞受賞作品どまり…ってところが、自ずから限界を露呈している感じがするが。

 確かにウォシャウスキー兄弟はハリウッドで絶大な権力は持ったのだろうしカネもあるのだろう。やりたい放題できる力もあるんだろうが、そんな映画の作り方をしていていいのだろうか?

 作ってるウォシャウスキー兄弟はゴキゲンみたいだが、見ている側としてはモーリッツ・ブライブトロイもユー・ナンも、ましてRAINなんて知るよしもないし真田広之だって分かっちゃいないだろう。それが全員気づくのは、せいぜい日本のミニシアター映画好きくらい(笑)。しかもそこまでして各国から俳優をかき集めるほどの役でも映画でもない。それが映画にプラスになっているとも思えない。結局作り手の自己満足にしかなっていない。

 そのあたりの「作り手の気持ち」「観客の気持ち」の距離感の違いも、大きな誤算の一端だったような気がするのだ。

 

 

 

 

 

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