「ハプニング」

 The Happening

 (2008/07/28)


  

見る前の予想

 M・ナイト・シャマランがいかにシックス・センス(1999)で華々しく第一線に躍り出て、いかにその後、それと同じだけのパワーで叩き落とされたか…については、僕がシャマランの新作が発表されるたびに何度も何度もバカの一つ覚えみたいに繰り返さなくても、みなさんの方がよくご存じのことだろう。

 毎回毎回予告編は煽って煽って「一体どんなお話になるのだろうか?」と期待を高めるだけ高めて、出来た映画はいつも「ネタ一発」というアリサマ。その「オチ命」の作風がいい加減覚えられ飽きられつつあるのに、それでも毎回懲りずに「そればっかし」という頑なさ。こうなってくると、僕としては逆にその「不器用さ」が愛すべき点に思えてきてしまう(笑)。彼の「主戦場」が僕の大好きな「SF・ホラー」ジャンルであることもあって、世間の目はどんどん厳しさを増しているのに対して、僕はどんどん贔屓にしてやりたい気持ちになってきたから困った。

 実際に映画興行成績もジリ貧になってきたみたいで、前作レディ・イン・ザ・ウォーター(2006)では古巣のディズニーを追い出されてワーナーで制作。それがいい結果を生まなかったことは、今回またまた制作会社が20世紀フォックスに変わったことでも明らかだろう。正直、毎回「なんじゃこりゃあ?」と呆れるばかりのシャマラン映画だが、特に「レディ」では「オチ」にもなっていないというところまで来ちゃっていた。

 そう言いつつ、呆れて苦笑しながらもついつい見ちゃうのがシャマラン映画。それが証拠に、また懲りずにカネを出す映画会社があるから驚いてしまう。今回はマーク・ウォルバーグが主演だが、近年のシャマラン映画の惨状を知っているはずなのに、毎回こうしたスターが引っかかっちゃうから不思議だ(笑)。まさか脚本読んでいないわけはないよねぇ。

 そういう僕らだって、「ハプニング」の予告を劇場で見てしまうと…「また、あのシャマランか」と分かっていながら、ついつい画面に引き込まれてしまう。今度の話は一体どんなものになるんだろう?…と、見たくて見たくてたまらなくなってしまう。どうせくだらないと分かっていながら、やっぱり見てしまうのがシャマラン映画なのだ。

 そしてどうせシャマラン映画を見るなら、「くだらない」ネタがバレる前、公開直後に見ちゃうのが正しい鑑賞法だ。

 そんなわけで、幾多の話題作を見る時間も割けないこの僕が、なぜかシャマランだけは初日に見に行ってしまったという次第(笑)。

 

あらすじ

 ある朝、ニューヨークのセントラルパーク。老若男女、ついでに白いのも黒いのも黄色いのもウジャウジャ散歩している一角のベンチで、女二人が何やら本を読んだか読まないかで雑談をしていた。

 ところが、どこからともかくかすかな悲鳴が…。どうも様子がおかしいと周囲を見回してみると、あれだけウジャウジャ動き回っていた人々が全員呆然と立ちつくしている。さらにベンチの女は、隣に座って話していたはずの友人が、これまた呆然と凍り付いていることに気づく。しかもこの友人は、髪をまとめていたクシを引き抜いて、いきなり自分の首に突き刺してしまうではないか!

 同じくセントラル・パーク近くの工事現場では、労働者たちが他愛のない冗談をダベっているところ。ところがそんな笑い声を断ち切るような変事が勃発。いきなりビルの足場から同僚が転落。慌てふためく現場監督の目の前で、次から次へと工事現場から労働者たちが「身投げ」してくるからビックリ。周囲の野次馬たちは「やめさせろ−!」などと叫ぶが、むろん彼らを止める手だてなどない。

 その頃、フィラデルフィアの高校では、科学の教師エリオット(マーク・ウォールバーグ)がマイペースで授業を進めていた。「アメリカ各地でミツバチが姿を消している。その死骸も何も残さず、とにかくどこにもいなくなったんだ。一体なぜだと思う?」

 ところがそんな最中、女教頭がエリオットの授業を中断しにやって来た。そして全校の教師たちを集めて、校長から重大発表が…。

 「どうやらニューヨークで大規模なテロが起きたらしい…」

 そのテロの詳細は分からないながらも、多くの人々が死に、その発端はセントラル・パークだったらしい。非常事態が起きたということで、生徒たちは全員家に帰すことになったわけだ。そうなると、教師たちだって我が身が心配だ。

 友人で同僚の数学教師ジュリアン(ジョン・レグイザモ)は妻子を連れて街を出ると言い出し、エリオットと妻も同行するように勧めた。願ってもない申し出に自宅に電話するエリオットだが、なぜか妻アルマ(ズーイー・デシャネル)の様子がヘンだ。

 というより、ここのところエリオットと妻の関係はあまりしっくりいっていなかった。そんな様子を察したジュリアンは、エリオットとアルマの結婚式の日に、ついつい目撃してしまった「ある出来事」をポロリとしゃべってしまう。「間違えて花嫁の控え室に入っちゃったら、彼女なぜか泣いていたんだよ。…今だから言うけど、彼女は君の嫁さんにふさわしいとは思えないな

 それでもエリオットは荷造りをしに帰宅することにして、一旦ジュリアンと別れた。

 その頃エリオットの自宅では、アルマが携帯電話の着信音に必死に耳をふさいでいた。その発信音の主は、「ジョーイ」なる男。一体この人物はアルマとどういう間柄なのだろうか?

 そんなこんなで隙間風吹く二人ではあったが、帰宅したエリオットは彼女を連れて駅までやって来る。駅ではジュリアンとその幼い娘ジェス(アシュリン・サンチェス)を連れて、エリオットたちが到着するのを待っていた。本来ならジュリアンの妻も同行するはずが、クルマが渋滞に巻き込まれて間に合わない。そこで彼らだけで先に列車で出発することになったわけだ。

 だがそんな折りにも、ちょっとしたジュリアンの言動でアルマはイラつく。あげく「一緒にいたくない」と一人だけ別車両に乗ることになった。

 こうして列車でフィラデルフィアを逃げ出した一行だが、それからまもなく、フィラデルフィア中心街にある公園のそばで、とんでもないことが持ち上がっていた。やはりニューヨークと同じ。まずは警官が自分の頭を拳銃で撃ち抜いて倒れ、その拳銃を拾った別の者が同じように自分の頭を…というふうに、連鎖的に自殺者が増えていったのだ

 そんな知らせは、列車内のエリオットやジュリアンたちにも届いてくる。こうなると、もう「一緒にいたくない」などと言っている場合ではない。ついにフィラデルフィアまで襲われたとあって、ジュリアンは置いてきた妻が気がかりでハラハラ。携帯でのやりとりで「ニュージャージー行きのバスに乗った」と聞いたので一安心だが、ナゾの脅威はどこまで広がるのか、漠然とした不安が胸をよぎる。

 そんな不安を裏書きするように、列車は唐突に名も知らぬ小さな駅で停車してしまった

 乗客たちが慌てふためいて列車から降りてくる。いきなり何も告げずに停車されて頭にきたエリオットは、何やら協議中の車掌たちを捕まえて、「一体どうなってるんだ!」と怒り心頭だ。しかし車掌たちはそれに反論もせず、ただただ暗い表情でこう答えるのみだった。

 「どことも連絡がつかなくなったんですよ」

 もはや、この見知らぬ小さな街に居座るしかない。街にひとつしかないようなファミレスを占拠した乗客たちは、そこで先行きの不安を語り合うばかりだ。むろんエリオットとアルマ、ジュリアンとジェスも呆然とするばかり。

 そんなファミレスの客たちは、いずこからか送られてきた携帯ムービーの映像に目を見張る。それは動物園のライオンの檻の中に入り、自分からライオンに腕を差し出して噛みちぎられる映像だ。確かにこれは尋常ではない。

 そして店内のテレビでは、ニュースがこの事件について報道を続けている。どうやら事態が進んでいくうちにテロの可能性は薄れ、何らかの自然現象か化学兵器が原因らしいということになったようなのだ。その兆候は訳のわからないことを口走ったり、方向感覚を失ったりするところから始まり、最後に自ら死を選ぶというもの。その被害の範囲はアメリカの北西部全域に拡大しているとのことだった。

 となると、今、彼らはそのまっただ中にいるではないか!

 そこにいる限り、この恐怖からは逃れられない。逆に言えば、このエリアから避難さえすれば逃れられるかもしれない。そうテレビで聞いたとたん、ファミレスに溢れかえっていた人々が、一斉に蜘蛛の子を散らすように席を立った。そしてあれよあれよという間に、ファミレスの駐車場からクルマというクルマが発進していく。エリオットやジュリアンがおたおたしている間に、ほとんどのクルマはその場を立ち去ってしまっていたのだ。

 そんな愕然としていたエリオットとアルマの前に、一台のピックアップ・トラックが止まる。乗っているのは、近くで温室で作物をつくっているという夫婦(フランク・コリソン、ヴィクトリア・クラーク)で、彼らがエリオット夫婦を乗せてくれるというのだ。

 しかし願ったり適ったりの申し出に喜ぶエリオットの前に、深刻な顔のジュリアンが立っていた。彼はバスに乗って行方不明になった妻を捜すため、彼を乗せていってくれるという別のクルマに乗り込むことにしたのだ。ただし、乗れるのは一人だけ。そこで娘のジェスをエリオット夫妻に託したいというのだ。簡単に請け合ってジェスの手を握るアルマに、思い詰めた様子のジュリアンは強い口調で訴える。

 「絶対離さないと思えないなら、その手を握るなよ」

 こうして娘ジェスを残して、別のクルマで去って行ったジュリアン。その行く手には何が待っているのか、誰も分からない。

 そしてエリオットとアルマもジェスを連れて、例の夫婦のトラックでその場を離れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから先は映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずはこの土地を避難する前に、自宅に寄っていきたいというトラック夫婦。彼らが自宅の温室にエリオットたちを迎え入れた時、何とも奇妙な言葉を口走る。

 彼らがいうには、今回の一連の騒ぎは「植物」が引き起こしたものだというのだ。

 植物のある種類には、身を守るために毒素を発散するものもある。彼らがもし、人間に対する毒素を振りまき始めたとしたらどうだ。その毒素は人間が本来持つ生存本能を冒して、自滅行動に出させるようなものだったとしたら…。

 そのあまりに突飛な発言に、「この夫婦は少々アレか?」と辟易し始めるエリオットたちだが、この際背に腹は代えられない。一台のクルマに同乗して、いよいよ危ないエリアを抜け出すことにする。

 ところがしばらく走っていくうちに、道の彼方に人が倒れているのが見えるではないか。この道は行けない。…となると、戻って別の道を探さねばならない。すると、前方から軍の装甲車が走ってくる。乗っているのはオースター一等兵(ジェレミー・ストロング)。どうやら後方にある陸軍基地も、すでに壊滅状態らしい。

 さらにそこに別方向からやって来たクルマの人々も合流して、それぞれ行く手にはすでに異常事態が起きていると報告してくる。もはや万事窮す。八方ふさがりの状態だと認めないわけにいかない。こうなると、この場から動かないのが最も賢明なのかもしれない。

 さすがに頭を抱え込んだエリオットの脳裏に、あの夫婦の戯言のような言葉が蘇る。

 “植物がもし、人間に対する毒素を振りまき始めたとしたら…。”

 

見た後での感想

 予想していたこととはいえ、ある意味、いつも通りのシャマラン映画であったことに安心もしたし、「またか」と苦笑もした。

 最初、みんながバタバタと倒れ出す予告編を見た時には、今度は一体何の話なのか?…とすごくワクワクした。本編冒頭部分を見るに至っても、その印象は変わらない。あのみんながバタバタ死んでいく現象は、何が原因なのか?…というか、どんな原因で話を落ち着かせるつもりなのか? それがどうしても気になって仕方がない。

 もっともシャマランのこと、どうせくだらない話に落ち着くのは見えている(笑)。それでも真相が何か?…ということはこの時点では分からないし、くだらないならくだらないで「どれほどくだらないか」(笑)を見てみたい。そんな「怖いモノ見たさ」も手伝ってワクワクしながら見てしまっていた。

 まぁ、途中まで見た限りでは、順当なところとしては「宇宙人の侵略」「環境破壊」「神など超自然的な力」「政府などの化学兵器」「微生物やウイルス」…などなどが僕の脳裏に浮かんで消えていった。

 そんなこっちの思惑を知ってか、シャマランもあっちこっちに思わせぶりなネタをバラまいている。最初にマーク・ウォルバーグが授業で話している「ミツバチがいなくなった」話などはその最たるものだ。それを聞いて、ついつい僕なんか「な〜んだ、早速ネタバレかよ」と思いそうになってしまった。すっかり「ミツバチの反乱」的な話かと思っちゃったわけだ。でも、それじゃあアーウィン・アレンのスウォーム(1978)と同じじゃないか(笑)。そういや列車で移動する場面なんかも出てくるし…僕なんかあの列車がいつ転覆するかとハラハラしていたよ。だけど、イマドキ「スウォーム」なんかやってちゃマズイよな。

 またテレビのニュースで「CIAが化学兵器を開発していた」的な陰謀説を流しているあたりも、つい先日ミスト(2007)を見たばっかりだから「ありえなくもない」と思えてしまう。実際、劇中でこの事態に対する手がかりは何ら提示されていなので、何とも疑心暗鬼な状態が続くのだ。

 その途中で、温室やってる何となく「アレ」な夫婦の「植物犯人説」が一方的にセリフとして出てくるが、どう考えても唐突だし、主人公たちも「アレな発言」(笑)だと真に受けていない。

 ところがいきなり後半になって、これが「どうもそうらしい」となってしまうからシャマランはスゴイのだ。

 正直言って、この映画の描写を見ただけでは「植物犯人説」が正しいかどうかはハッキリしない。そう言い切るだけの根拠もない。単にあのヘンテコ夫婦がそう言っていたってだけの話なのだ。

 それなのに、どうもそうらしい…と主人公は決めつけて、映画自体もそんな風に言いたげな素振りを見せて、以後そのままでドラマは進行してしまう。その後、それが正しかったという真相解明はハッキリとなされないまま。どうも、そうだったんじゃないの…的な曖昧さでお話は終わるのだ。意外な結末もどんでん返しもない。「植物かと思っていたら〜でした」というオチもない。ただ、「まんま」でオシマイ。

 このへんシャマランは、もうお話にオチをつけることに執着してないように思える。そういやヴィレッジ(2004)もオチっちゃオチだが、アレは普通に考えればオチとは言えないのではないだろうか。そう…よりスケールでっかく拡大した意外性が展開するなら「オチ」と正面切って言えるのだが、実際には逆にショボく矮小化の方向を辿ってしまった。だから見る方は「オチ」とは思えないのだろう。今回も、何となくアレに近い印象があるのだ。

 あるいは何だか分からないけど伝説のお話が現実に進行してしまって…何の根拠もなしに主人公以下登場人物がそれを信じてしまって、ラストまでそれが本当だったと押し通されたまま終わってしまう「レディ・イン・ザ・ウォーター」もそうだ。こちらはオチもクソもない。普通ならば…伝説らしきモノが提示されても、主人公も周囲の人も観客ですら「ホントかな?」と疑い、紆余曲折があった末にリアリティの裏付けを持ったかたちで、しかも壮大な衝撃を伴ったかたちで「本当でした」と提示されて終わる。そうでなければ、お話として成立しがたい。

 ところが「レディ」の場合、「伝説は本当でした」ってのはお話の最初からそれ前提で進められていて、それらを補強する要素も、受け入れやすくする要素も何ら提示されないまま、ラストまでそれを押し通したあげく「やっぱり本当でした」ってまとめ方だ。それにノレない奴は客として期待していないとでも言いたげな作り方。オチも何もあったものではない。

 さすがにこの「レディ・イン・ザ・ウォーター」まで来ると、バカバカしさもここに極まるって感じで、誰もついていけなくなったように思う。そこで「宇宙人の侵略」とか「化学兵器」とかにも思えてくる今回の「ハプニング」をつくったわけなのだろうが、やってることは基本的に変わっていない

 相も変わらず無茶な話の展開と…これは「シックス・センス」からのこの人の悪い癖なのだが、ひとつの話にひとつの「ネタ」しか考えない。その「ワン・アイディア」だけで2時間近くの映画を引っ張ろうという、省エネといえば省エネ、ケチといえばアイディアのどケチぶりが、今回もテキメンに祟っている感じだ。

 なぜならシャマランは「何だか分からないけど人がバタバタ死んでいる」…ってコンセプトだけでお話を持たせるだけで、それにツジツマが合うような理屈も結末も考えていないからだ。シャマランはどうせ「あえて理屈をつけなかった」なぞとヌカすのだろうが、それは大ウソに決まってる。どうせ何も頭に浮かばなかったので、広げた大風呂敷をそのまんまにして自分で閉めようとしなかったのだろう。その知恵すらも惜しんだことは明白だ。こいつ本当にものぐさなヤツだなぁ。

 しかも僕が綴ったストーリー後に続くお話は、いろいろ衝撃的な出来事があるものの、どっちかというとナゾの集団自殺が怖いというより、自分たちの身を守るために躍起になって人を殺しても平気なヤツら…とか、人間不信で頭がおかしくなった老女(ベティ・バックリー)…とかのヤバさで怖がらせている。本筋ではないそっちの方がドラマの原動力になっている。まるで「ミスト」とか宇宙戦争(2005)みたいな展開になっているのだ。だから、ますます集団自殺の真相はどうでもよくなっちゃっている。

 シャマランはやたらにヒッチコックの「鳥」(1963)を引き合いに出して、アレと同じようにこっちの真相も曖昧にしたと言いたいようだが、むしろヒッチコックの場合は「真相」などどうでもいいという作り方だった。ところがシャマランは、どう考えてもコレを「環境破壊に対する植物からの反撃」として見せたい意志がアリアリ。しかし、ちゃんとそれを見せた上でドラマ上に意外性・衝撃性を盛り込むことができなかったので、しょうがなくて放置してしまったのがミエミエだ。ハッキリ言ってストーリーテリング的に問題がありすぎなのである。

 最後も、主人公たちが助かったのは一体何が原因だったのか、まったく分からない。その前に狂ったオバチャンが…しかもそれまでは集団の人々が狙われていたのに、なぜかたった一人でいたところを…ナゾの毒素にやられてしまう。そのくせ主人公夫婦は覚悟して外に出てきたのに、なぜかすでに植物の攻撃は終わっていて助かる。これって単なるご都合主義にしか思えないではないか。何となく「愛が復活した主人公たち」だからこそ助かった…みたいな、変な精神主義のようにも見えるからやっかいだ。それって違うだろ。

 劇中の主人公たちの言動もかなりヘンで、遠くで集団自殺の銃声が聞こえてきた時に、マーク・ウォルバーグが「あわわわ…論理的に考えなければ、論理的に考えなければ…でも考えがまとまらない〜!」みたいにアタフタするあたりの芝居は、見ていてかなり笑っちゃう。そして作り物の観葉植物に向けて、「ねぇ、キミ」なんて話しかけるあたりもおかしい。だけどこれって笑いどころじゃないし、笑わせるつもりでつくってもいないだろう。仮にギャグのつもりだとすると、実はそれほどは笑えないし。何とも不可解な場面だ。かなり変なのである。

 それでも、ウォルバーグの主人公はまだマシ。問題なのはズーイー・デシャネル扮する主人公の妻で、最初に携帯に入ってくる不倫相手のメッセージに当惑している様子が、まるでもうすでに植物毒素に冒されているみたい。この演技指導ってどうやったんだろう? 最初から変な言動ばかりしているのだ。

 しかもお話が中盤を過ぎるあたりから、この女のやることやることが裏目に出る。こいつのおかげで死人まで出るのに、まるっきり反省の色もない。友人ジョン・レグイザモじゃないけど、「彼女は君の嫁さんにふさわしいとは思えないな」…というのが正論に思えてくる。

 正直言って、集団自殺より何よりこの女の方が怪しいし怖い。僕なんか早くこの女が自殺しないかとそればっかり期待してしまった。画面に向かってこの女に「死ね〜死ね〜!」と叫びたくなったよ(笑)。

 だから、あえて危険を冒して植物毒素が充満している(と思われる)外に出て、夫婦が抱き合う「感動のヤマ場」が楽しめない。むしろこの女が少女を連れて外に出ていくあたりに、またまた思慮の足りなさを感じてムカムカしてくる。何でこいつ助かっちゃったのかねぇ。

 しかし、そんなことは序の口。何よりスゴイのが、今回の映画の見どころだ。何しろ人類が滅亡しかねない…という大異変。アメリカ北西部全域にわたる大異変の話なのだ。さぞかしスゴイ大規模撮影やSFXやCGが使われているだろうと思いきや…確かにセントラル・パークなどではソコソコのエキストラを動員したものの、たったそれだけ。あとは何かといえば、マーク・ウォルバーグをはじめとする少数の登場人物が、田舎の原っぱをウロチョロするだけ。人類に対する恐るべき脅威は、何と樹木の葉っぱや草が風でワサワサとなびくだけで描かれるのだ。だから最大のエフェクトは、デカい扇風機を回しているだけというテイタラク。まるでカネのない田舎の高校の映研が撮った、8ミリのSF映画なみのショボさなのだ(笑)。

 この映画、ハッキリ言ってお金はまったくかかっていないと思う。どう考えてもかけようがないのだ。

 だから…というつもりだろうか、なぜかエンディングに無駄にパリのロケ撮影などが入っている(笑)が、これはあってもなくてもどっちでもいいモノだ。基本的に主人公たちはもの凄いことが起きてビビっているような芝居はしているものの、画面に展開しているのは原っぱで草木が風で揺れているってだけの絵。これも考えようによっては、相当にショボいと言えなくもない。

 そういや、僕がまだ学生時代の頃に東京12チャンネル(現・テレビ東京)あたりで浴びるように見た劇場未公開のB級C級SF映画は、みんなこんな感じだったっけ。予算なんかからっきしないので、これといったSFXも使えない。建物もブチ壊せないし爆薬も使えない。仕方なくカメラワークで誤魔化したりレンズにフィルターかけたりで、何となくエフェクトっぽく見せていた(笑)。

 シャマラン映画をこれらのB級C級SF映画と一緒にしたら心外だろうが、何となくやってることは変わらないように思える。役者たちが怯えきった顔して芝居をしているからもっともらしく見えるものの、実際にはは彼らは原っぱみたいなところで必死にジタバタ駆け回っているだけ。すごいモンスターも目を見張る怪奇現象も出て来ないで、草木が風でバサバサ揺れている絵柄だけってのが本当のところなのだ。

 アイディアも省エネなら見せ場も省エネ(笑)。これってハリウッドのA級娯楽作品としては異例のことなんじゃないだろうか?…っていうか、マズイんとちゃう?

 

見た後の付け足し

 というわけでアイディアも出し惜しみなら見せ場も出し惜しみ。壮大なスケールのお話で展開するハリウッド大作の割には規模がショボい「ハプニング」。そんな映画が唯一出し惜しみをせずにふんだんに繰り出して来るモノがある。

 それは自殺者の残酷描写だ。

 冒頭のセントラル・パークで、女が自分の首筋を突き刺す描写から始まり、ライオンの檻の中で自分から両腕を差し出して見事に食われてしまう男やら、芝刈り機の前に寝ころんで頭から刈り取られてしまう男など…今までのシャマラン映画にかつてないほど残酷描写のオンパレード。もちろんスプラッタ映画などに慣れ親しんでいる人々には大したことのない描写かもしれないが、一般映画としては次から次へとショッキングな描写が続く。そのせいか、この映画は「PG-12」に指定されているのだ。

 で、僕はこれら残酷描写の連続を、決して無駄なものだとは思わない

 正直言って主人公たちに襲いかかってくるのは、本当かどうか曖昧な「植物の毒素」。それ自体は緑色の煙でも何でもなく、それに冒されたところで苦しがるわけでも目から血が出るわけでもないのだ。主人公たちはそれを心底怯えていると描かれてはいるが、画面上に出てくるのは…先ほどから何度も繰り返すけれども、ただ彼らが田舎の原っぱを走り回っているという図のみ。そして草木が風でバサバサ揺れる絵柄だけだ。これだけでは、怖くも何ともないのである。

 しかしこの映画では、その合間に前述の残酷描写が挟まる。それは単に自殺するというのではない。見ていて生理的に「痛さ」を伴う残酷描写なのだ。だから僕らは原っぱを駆け回ったり草木が揺れる描写には何も感じないのに、何となくヤバい状態が迫っているということだけは感じる。

 「人類が大変だ」というのよりも「腕がちぎられたり、頭が刈られたりして痛い」という方が、見ている側の切実度は確実に高い。だからこそシャマランは、今回何かというと不条理な残酷描写を持ち出してくるのはないか。草木がバサバサ揺れるってだけじゃ怖がりようもないが、自分の腕がライオンに食われたり頭が芝刈り機に刈られたりするのは、切実にイヤだし痛いし怖いのである。

 正直言って、今回はシャマランの作戦勝ちだし、なかなかうまいなと思った

 今まで散々バカにしてコキ下ろしてきたものの、実は今回の映画、ショボい結末に至るまではなかなかハラハラさせられて面白い。寝言みたいな「植物犯人説」が有力視され始めてからも、それなりに怖いことは怖いのである。これだけショボい話なのに、見ていて退屈はしないし、結構引っ張られてしまうのだ。

 これって脚本家としてはいかがなものかと思うが、監督としてはかなりの力量だといえるのではないか?

 正直言ってシャマランとしては、今回の映画で「エコ」とかそんなことを言いたかったのに違いない。しかし結果としてあまりにトホホな展開だったので、それは宮崎駿のアニメみたいな説教臭さを伴わずに済んだ。そしてアイディアも知恵も見せ場もケチるケチンボのシャマランにしては珍しく、残酷描写だけは惜しみなく次々出してきたのが功を奏した。だからお話としてはイマイチもいいところの凡打なのに、映画としてはなかなか楽しめるものになったのではないだろうか。

 ただし、それでもこれ一辺倒で映画をつくり続けるのは並大抵のことではない。それに、今まで必ずしも成功しているとも言い難い。次あたり、いよいよお金を出してくれる会社がなくなっちゃいそうだけどねぇ。

 

 

 

 

 

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