「アフタースクール」

 After School

 (2008/07/07)


  

見る前の予想

 この映画のことは、劇場のチラシや予告編でだいぶ前から知っていた。

 まずはとにかく運命じゃない人(2005)の内田けんじ監督の最新作だ。これは絶対見ずにはいられない。間違いなく面白いに決まっている。見なくちゃ見なくちゃと予告を見ているときから盛り上がっていた。

 ただし「内田けんじ監督の最新作だ」なんて言ってると、この人がメジャー・デビューする前から詳しいみたいだし、最初から高く評価していたみたいに感じられてしまうだろう。それは恥ずかしながら違う。

 この人が自主制作していた頃なんて知らないし、劇場デビュー作「運命じゃない人」なんて見る気もなかった。大体、タイトルが「自主制作」っぽくってイヤだった。おまけに「ぴあフィルム・フェスティバル」出身なんて聞いて、なおさらイヤになった。

 ほ〜らな、だから気取ったつもりで全然センスのない「運命じゃない人」なんてタイトル付けるんだよ。こんなタイトル付けてるのなんて「自主制作」の連中だけ。こんなの商品としてなっちゃいねえよ。

 てなわけで、まるで見る気なんてなかったのだ。

 うちのサイトの掲示板にこの映画についてホメ言葉が書かれた時も、最初はあまり関心が沸かなかった。「そりゃ見たいですねえ」などと適当にお茶を濁していたのが正直なところだったが、よくよく見ると…映画の中で時制を崩して見せるドラマ展開だというではないか。そうなると現金なモノで、俄然興味がわいた。

 人間群像劇と複数のお話が同時進行するパラレル・ドラマ、そして物語の時制をいじくるお話…は、僕にとってドラマづくりの定石の大きな「ツボ」なのだ。

 こうして見に行った「運命じゃない人」は…。

 面白い! 傑作だ! 何でこれがあまり知られてないの?

 自分もパスしようとしたくせに、まったく不思議なものだ。そして自分以外の映画ファンはみんな知っているかもしれないのに、「あまり知られていない」と思い込んでいるのもおかしな話。これでは勝手に邦画音痴と人に決め付けられても仕方がない。

 しかし僕は心底、日本映画にこんな知的な構成の娯楽映画が出来ていたことに驚いていた。いや、衝撃すら感じていた。

 そして何より、その緻密な脚本に驚嘆していた。情に流されるわけでもなく、根性で遮二無二盛り上げるわけでもなく、ひたすら知的にロジカルに組み上げられたドラマ構成。これは本当に余人を持って代え難い作風だ。そして、これほど「自主制作」映画から程遠い作風もない。自主製作映画といえば、クラ〜くて理屈っぽくて自意識過剰でつまんなくて、何より独りよがりで押しつけがましい。そんなイメージをずっと抱いていた僕だから、この作品の娯楽映画としての成熟度・完成度の高さにすっかりたまげてしまったわけだ。

 そんなわけで、僕はこの監督の最新作を心待ちにした。そうしてやって来たのが「アフタースクール」。当然劇場に飛んで行きたい気持ちは山々だったが、ちょうど仕事が忙しくて映画を見る時間をつくるのがやっとこさっとこ。せっかく映画を見に行けても、うまく時間が合わずに別の映画を見たりしてしまった。そんなことをやっているうちに、公開から1ヶ月以上経ってもまだ見ていないというアリサマ。

 このままでは見ずに終わってしまう。焦り狂った僕はようやく劇場に飛び込んだ次第。

 

あらすじ

 それは誰もが甘酸っぱく…あるいはホロ苦く覚えている青春の一ページ。ある中学校の放課後、下駄箱の所で待ち構えている少女を見て、その少年はひとつの予感に胸をときめかせる。案の定、その少女は少年に手紙を差し出すのだった…。

 それから幾年月。

 かつての少年の名は木村(堺雅人)。彼は今は大企業のサラリーマンだ。彼の目の前には、お腹が大きくなったかつての少女・佐野(常盤貴子)がいた。ニッコリと微笑み合う二人。木村は彼女の手料理を食べると、「いってらっしゃい」と見送られてアパートの部屋を出ていく。

 アパートの前では木村の中学時代からの親友・神野(大泉洋)が、ご自慢の外車をピカピカに磨いていた。そんな神野のクルマを、まるで当然のごとく借りて乗っていく木村。これには神野も大いにボヤくが、そんな神野に木村は、「後は頼んだぞ」と意味ありげにつぶやいて出掛けるのだった。

 神野にとっても、佐野は中学時代の憧れの彼女。彼もまた出産間近の佐野を気遣いつつ、身の回りの世話を焼いていた。

 ところがそれからしばらくして…木村の勤める某大企業では、同僚たちが妙な無駄話に花を咲かせていた。たまたま彼らの一人が仕事で横浜に行った時、ホテルのロビーで木村を見かけたというのだ。しかも彼は意味深な様子で、若い女と一緒だったと言うではないか。

 この同僚はその様子を携帯で秘かに写真に撮ったとのこと。ところが話がそこまでいったとたん、ずっと聞き耳を立てていた男がクルッと振り返る。それは彼らの上司・唐沢だった。

 「キミ、その写真を私にくれないか?」

 唐沢はその後、この某大企業の社長・大黒(北見敏之)と密談を始める。どうも木村が何やら関わっているようだが、かなり胡散臭いムードが濃厚だ。

 さて、お話は新宿歌舞伎町に移る。その街の奥深くにある雑居ビルに、大人のオモチャ屋の奥を住まい兼事務所としている北沢(佐々木蔵之介)という男がいた。この男、エロDVDからヤバいブツまで扱う「なんでも屋」。時には探偵まがいのマネもするという人物だが、今は下手なバクチに手を出したのがアダとなり、この界隈を仕切るヤクザの大物・片岡(伊武雅刀)に多額の借金を抱え込んで四苦八苦。そんなこんなでいつ誰が来ても逃げ出せるようにと、常にビビりまくる身となっていた。

 そんな北沢を訪ねて、やけに場違いな大企業の社員然とした男がやって来たのだから、彼が思わず逃げ出すのも無理のないところ。その訪れてきた男とは、実は例の某大企業の唐沢。北沢に問題の木村という男を探してくれ…と頼みに来たのだという。置いていったのは、あの若い女と一緒の写真。北沢はこの話にヤバさと同時にカネのニオイも嗅ぎ取って、早速調査を開始することにする。

 その頃、神野は自宅にかかってきた突然の電話に大慌て。何とあの佐野から「産まれる!」との絶叫電話がかかってきたのだ。クルマに乗ろうにも、自慢の愛車は返って来ていない。どうやら木村は昨夜戻ってきてないらしい。仕方なく通りかかった人物のクルマに飛び乗り、焦り狂って佐野が待つアパートへ。さらに同じクルマで病院まで直行。何とかギリギリセーフで事なきを得た。

 しかし木村はどこに行ったのだろう?

 翌朝も彼は帰って来なかった。結局、つきっきりで献身的に佐野の面倒を看たのは神野だった。一体、木村の身に何が起きたのだろう?

 さて北沢はといえば、木村の身辺を探るべく彼の履歴書に注目した。個人情報の宝庫…それは、その人物が通った母校にある。そうにらんだ北沢は、彼の母校である中学校へとやって来たのだ

 こうしてこの中学校の職員室に現れた北沢は、自らをこの中学出身の「島崎」と偽って木村のことを探り始める。ところがその瞬間、相手の教師が想定外のことを言い出すではないか。「あぁ、木村の同級生だったヤツなら、今この学校で教師やってるよ。紹介してやろうか?」

 北沢がいいとも悪いとも言わないうちに、その「木村の同級生だったヤツ」は彼の目の前に現れた。だが北沢はまだ心の準備も何もできていないからたまらない。口からデマカセの「島崎」という名前に、いつウソがバレるかとビクビク。ところがその「木村の同級生だったヤツ」…神野は、何も疑うことを知らないような男だった。

 「ごめん。オレ、オマエのことあまり思い出せないんだ

 こいつは好都合。しかもこの神野という男、木村とは今もかなり親しいようではないか。ならばこいつに木村のことを根ほり葉ほり聞いてしまえばいい。ところがそんな北沢の思惑をよそに、神野は勝手に「あぁ、あの島崎か。思い出した!」などと言い出す始末だ。

 「オレの妹にラブレター出したヤツだろ?」

 そんなわけあるはずないのだが、今さらないとは言えない。その「オレの妹」は今や婦人警官らしいと聞いてヒヤリとさせられたものの、北沢は獲物に確実に近づいている実感だけはあった。

 「ところで、オマエは木村がどこ行ったか知らないか?」

 こう言って北沢は、神野にあの女と一緒の木村の写真を見せるのだった…。

 

見た後での感想

 やられてしまった。

 もう一度言う。やられてしまった。前作「運命じゃない人」の時も思わされたことだったし、何かやってくれるとは思っていたものの…やっぱり今回もやられてしまった。それに尽きる。

 僕もこれでも結構長いこと映画を見てきているのだが、本当に内田けんじ監督の作品ほどさりげなくて、なおかつ極上のエンターテインメントになっている作品はない。

 一見どこかつまらなそうな、ぴあ出身、自主制作出身というレッテルまでが、最初から承知の上で狙ってやってる観客向けのワナみたいに思えてしまう(笑)。まさかそんなわきゃーないだろうが、そうでも言わないとこっちの気持ちが収まらないくらい、気持ちよい「やられた」感に打ちのめされるのが、内田作品の持ち味なのだ。まだたった2作しか見ていないながらも、これは本気でそう思う。

 だから、面白い!面白い!面白かった!…と言えば、僕の言いたいことは済んでしまうんで、いっそのこと、これで感想文を終わりにしたほうが潔いかもしれない。

 だってこの作品については、どこをどう面白いかと言ったところで空しいだろう?

 そうは言っても、こうして駄文をダラダラと並べているわけなのだが(笑)…面白すぎて何も言えないくせに、何か言いたくなるのもこの映画の魅力。実は僕はあの「運命じゃない人」以上に今回の映画が気に入ったのだが、その理由はまた後でちょっと語ろう。

 僕は個人的には佐々木蔵之介という俳優さんが大好きで、彼が出てくるだけで嬉しくなってしまうタチだ。あの椿三十郎」リメイク(2007)に彼が小林桂樹が演じた役どころで起用された時も、見ていてすごく嬉しくなった。だから今回内田監督作品に起用されて、しかも探偵役だと聞いて(探偵が出てくる映画ってそれだけで面白そうじゃないか!)、僕はもう狂喜乱舞しそうだった。いやぁ、期待通りだったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから先は映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこの映画のロジカルで巧みな構成の妙をいくらホメてもホメ足りないだろうし、そんなことはとっくにどこかの誰かがやってることだろう。だからそんなことはあえてクドクド書かないが、そんな僕でもいくつか指摘させてもらいたいことがある。

 そのひとつは、この映画の丁重なケリの付け方だ。

 この映画のストーリーがすべてすばらしい伏線の効いたどんでん返しであることは、一見すればすぐに分かることだ。ここではすべての既成概念が覆される。ありがちな先入観がひっくり返される。

 それはほんの些細なことから大きな映画の根幹に関わる要素に至るまで、ほぼすべての点において行われるからスゴイのだが、僕が感心したのはその後のこと…ひっくり返してとっ散らかした後の始末までも、この映画は隅々までちゃんと行っているからスゴイのだ。

 まずは大企業社長がペテンにかけられ、次にヤクザの片岡が情けない状況になる。その場に北沢を裏切った若いチンピラが、ちゃんと一緒にトホホな状況に陥っているのが嬉しいではないか。ちゃんとこのチンピラにも、自らの行いの「代価」を支払わせているあたりがうまい。これは出来そうで出来ないことなのだ。

 佐野への長年の想いを実らせた神野の純情に対して、実は報われない木村の想い…実はヤクザやら大企業やら政治家までが暗躍するこの引っかけ映画の「最大の引っかけ」が、このささやかな初恋のメモワールだったという点が実に素晴らしいのだが、もっと素晴らしいのはそれから後。それを知った神野の妹が同情してマンションの一室に木村を連れて行く…と、木村にもそれなりの「救い」がちゃんと用意されているのだ。それがまたエレベーターの監視ビデオ映像という新たな引っかけになっているあたりが巧みなのだが、それも最後にはきちんと明らかにされている。

 もっと驚くべきはラストのラスト…クロージングのクレジットが終わった後で、佐野が生まれた赤ん坊をあやしている背景では、テレビのニュースでちゃんと事件の黒幕である悪徳政治家が逮捕されているではないか。これには僕も大笑いしてしまった。

 悪いことをしたヤツはそれ相応に罰せられ、良いことをしたヤツはちゃんと救われ報われる。現実はそんなに甘くないなどと野暮は言いっこなしだ。これは現実ではない。娯楽映画だ。それに後で詳しく語るけれど、現実だって本当は言われるほどのもんかどうか怪しいところだ。

 この映画は、このあたりが何から何まで実に見事だ。引っかけがうまく決まっているという点でホメているわけではない。映画が終盤に向かってどんどん物語をまとめにかかっている際に、まるで風呂敷を縛って何かを丁寧に包んでいるように、ちゃんと大きいことから小さいことまで何から何まできちんとケリをつけ、オトシマエをつけて終わらせていることが素晴らしいのだ。一人として不当にレスキューされなかったり、逆に逃げ勝ちしていたりしないあたりが、実に娯楽映画としてスマートなのである。

 これは良くできた娯楽映画には必須の条件だ。

 例えば、第一作より傑作だと思うスーパーマンII/冒険編(1980)。北極にある自らの拠点にゾッド将軍(テレンス・スタンプ)ら悪党どもを誘い込んだスーパーマン(クリストファー・リーブ)。ここで連中を撃退した後でメトロポリスに戻ると、今度はロイス・レイン(マーゴット・キダー)にキスして二人の愛の記憶を消す。ところがこれでお話は終わりではなくて、スーパーマンはひ弱なクラークの姿で田舎のドライブインに現れるのだ。実はクラークはかつて地球人と同じ非力な肉体になっていた時に、このドライブインで下品なトラック野郎にブチのめされていた。何と悪の宇宙人から地球を救った英雄スーパーマンは、このトラック野郎相手にささやかかつ個人的な復讐を行うのである。そしてさらにさらに…ゾッドたちに穴を開けられたホワイトハウスに赴き、修理して去っていくという律儀さ。まさに大きい事件から小さい出来事まで、この映画で起きたすべてのことに対して、キッチリとケリを付けて終わらせているのである。

 例えば、ダイ・ハード(1988)第一作。見事にジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)がテロリストのリーダーをナカトミ・ビル最上階から突き落として、やっとこ事件解決と思いきや…どっこいナマハゲみたいな残党(アレクサンダー・ゴドノフ)が生き残っていた。しかしあわやマクレーンを亡き者にしようとしたこいつを仕留めたのは、これまで拳銃が撃てなかった弱腰警官(レジナルド・ベルジョンソン)。これでこの警官は長年のトラウマからも解放。そこに終始マクレーン夫婦を苦況に追い込んでいた偽善ジャーナリスト(ウィリアム・アザートン)がノコノコ登場するが、今度は女房のホリー(ボニー・ベデリア)の方がこいつに一発お見舞いとくる。そんな夫婦を、駐車場でウォークマン聞いて寸前まで全く事件を気づいていなかった運転手が、ボコボコになったリムジンでお出迎え…と、これまた取りこぼしのない見事な事件解決ぶり。すべてキッチリとケリがついた。

 最近の例を挙げれば、1作目と2作目はハッキリ言って内輪だけが楽しんでる典型的自己満足オナニー映画だったものの、3作目だけは脚本の良さが際だったオーシャンズ13(2007)がそうだ。僕がこのシリーズの名を挙げたらみんな意外に思うかもしれないが、この3作目に限っては本当に出来が良いのだ。ダマされた仲間うちの仇をとるべく、ホテル王(アル・パチーノ)の野望を粉砕。新ホテルの評価をメチャクチャにしたあげくカジノで大散財をさせて、おまけに自慢のダイヤも持ち逃げ。行きがかり上、手を貸すハメになった宿敵(アンディ・ガルシア)にもただトクをさせるようなマネはしなかった。さらに素晴らしいのが、作戦のためとはいえ散々な目に遭わされたホテルの格付け審査員に、最後の最後でちゃんと罪滅ぼししているところ。このエンディングのおかげで、僕のこの映画への評価は確実に跳ね上がった。

 このように真の娯楽映画というものは、最後の最後まで…しっぽまでアンコの詰まった鯛焼きのように、一切手を抜かずにキッチリしかるべきオトシマエを付けるものなのだ。

 この映画は、その「一級の娯楽映画の必須条件」がちゃんと満たされている。だからこそ、僕もバケツの底が抜けたような最大限の評価をしたい。

 この映画は傑作だ。そこにまったく疑いの余地はないのである。

 

見た後の付け足し

 むろん前作「運命じゃない人」も、僕は面白かったし傑作だと思う。

 しかし今回の作品と比べれば、あれも予告編に過ぎなかったのではないかとすら今では思う。作品としての格は、僕にとっては今回の方が数段上だ。それにはちゃんと理由がある。

 それはこの映画が娯楽映画として底抜けの楽観主義を見せているだけでなく、ちゃんとそれに対して作り手の主張を行っているからである。

 前作でもそれはあったのかもしれないが、残念ながらそこまでは僕には届かなかった。今回の作品ではその主張はストレートに僕に届いたし、かなりの共感とリアリティが感じられた。それゆえに、数段上だと思うわけだ。

 それはどこかと言えば…映画の中盤、木村が前夜消えたと思われるマンションの外に張り込みながら、北沢と神野が話すやりとりを思い出していただきたい。

 お人好しで善意のカタマリみたいな神野に対して、自称探偵の北沢は木村が女とエレベーターに消えていく映像を見せて、まるで勝ち誇ったようにわめき倒す。

 「オマエに友達の何が分かっているって言うんだ!」

 ここでは北沢は、神野のそうした善意や肯定主義を徹底的にやっつける。「いつまで学校やってるんだよ。いいかげん卒業しな!」とまで言い放つのだ。

 一瞬、これで神野の中の既成概念が覆されたかのように見えて、実はこれがこの映画のミソ…実は既成概念が覆されるのは探偵の北沢の方だったということになるわけだが、それはまた別の話。ともかく事態は北沢が予想もしなかった方向に展開して、終盤の深夜の教室での神野・北沢の対面へともつれ込む。結局ここで警察に逮捕されるハメになってしまう北沢だが、連行される彼に対して神野が語る言葉が何とも辛辣だ。

 「どのクラスでもいるんだよな、すべて分かってるって顔してるヤツが。それで学校がつまらねえとか文句ばっかり言ってる」

 ここで大変申し訳ないが、話は少々別の方向に変わってしまうことをご容赦いただきたい。実はここであえて触れたいのが、先日、世間を大いに騒がせた秋葉原の白昼通り魔による連続殺害事件のことだ。

 あれは僕にとっても、何とも見ていてイヤになる事件だった。むろん殺人事件だからイヤな話なのは当たり前。だが事件そのものもさることながら、それを取り巻く世間の反応も負けず劣らずイヤな感じだった。

 今回よく見られたのが「近年顕著になった格差社会が犯人を追いつめた」という論調と、「犯人個人の性格が歪んでいるんで社会は関係ない」という論調。どっちも全く妥協の余地なく対立していて、お互い罵り合ってるという構図だ。

 この人々にとっては、結局本当はどうだったのかなんてどうでもいいんじゃないかと僕は思う。それぞれ、自分が立っている政治的ポジションにとって都合のいい話にしたいだけだったんじゃないか。ちょっと前の聖火とチベットの騒動の時と同じ。上下左右あっちこっちでいろいろ言ってはみたが、今じゃ誰もチベットなんて一言も言ってない。本当はみんな何か別に言いたいことがあっただけじゃないのか。

 それならオマエはどうなんだと言われれば、みんなには怒られちゃうかもしれないが、例の秋葉原事件については僕はやっぱり両方とも正しいと思う。

 こんな世の中が犯人をそうさせたところもあるだろうし、それはどう考えたって否定できない事実だろう。だから、今後もこんな連中が出てくる恐れがあるのも間違いない。だが一方で、世の中のせいばかりに出来ないほどのことを犯人がやってしまったのも事実だ。それが妥当なところではないだろうか。世の中「どっちか」なんてことはないよ。

 だが僕はそれとは別に、この事件の話で愕然としたことがあったのだ。

 犯人はネットなどにあれこれコメントを残していた。しかし書かれた内容たるや…その言葉のどうしようもなさに、僕は愕然とせざるを得なかった。それは確か「彼女がいない時点で人生終わってる」とか、何だかそんな情けない内容だったように思う。

 正直言って、お上を擁護したいあまり「社会のせいにするな」とムキになって主張する人々に与したいとは、僕はまったく思わない。何でもかんでも「自己責任」ってことにして、エライ奴らが責任逃れ。そこにきてシモジモの連中もそれにすっかり丸め込まれてゴマすりたがる、そんなイマドキの風潮にはつくづく辟易している。だがそんな僕でも、この犯人の歪みっぷりには正直かなり腰が退けてくる。

 大体、女にモテないって自分で言ったあげくに逆恨みって…男がこれ言っちゃ終わりだろう。相当の事情アリとは伺えるものの、これじゃ確かに終わってるわな。

 子供を産めたり毎月血を流したり…って乱暴にひとまとめにしたら女性からお叱りを受けそうだが、ともかく女はそういう肉体的な部分だけでも「実体」がある。的はずれだろうが何だろうが、女がなぜか確信を持っていつも「自分は正しい」って言い張れちゃう理由はそこにあるんじゃないか(笑)と思っているのだが、少なくとも男よりはもっと存在そのものにリアリティがある。それに対して男は「実体」の乏しさはいかんともしがたい。だから男ってのは見栄やハッタリやカッコつけをなくしたら、後は何も残らなくなっちゃうほど吹けば飛ぶような危うい存在だと僕は思っている。

 だから逆に言うと、この犯人の情けなさのさらけ出しっぷりに愕然としてしまったわけだ。

 テメエで「モテない」なんて言うな。おまけに「モテないからオシマイ」なんて言うな。せめて男だったらモテなくたって、見栄でいいから「女なんぞこっちから願い下げ」ぐらいブチかまして欲しいところなのに、こう言っちゃった…あるいは言えちゃったところにこの男の悲劇があるのかもしれないが、しかし「待てよ」と言いたくもなる。

 モテなきゃ人生終わりなのか、女がいなきゃ終わりなのか…いやぁ、むしろ人生が女で終わっちゃう危険性の方がよっぽど高いと思うんだけど(笑)…それもまぁ、こっちへ置いといてと。

 仮に女がいなきゃ人生終わりだとして、何でもう一生モテないなんて決めてかかっちゃうんだろうね?

 人生分からないよ。別に女のことだけを言ってるんじゃない。オレなんかもうすぐ50になろうとしているけど、まだまだ人生分からないって。まだ夢持ってますとはさすがに言わないけれど、簡単に「人生分かっちゃいました」なんて言ってはいけないってことぐらいは、何とか分かるようになった気がする。いや、ホントに人生何があるか分からないんだって。

 想定外というか、予想がつかないということにおいて言ったら、人生って内田けんじ監督作品の比じゃないくらいビックリの連続だ(笑)。チャンスもアクシデントもグッド・ラックもバッド・ラックも降ってくる。信じられないドツボも襲ってくるし、まるで期待しなかったレスキューが手をさしのべてくれることもある。いやいや、いいんだか悪いんだか理解に苦しむようなことも起きてくる。人生以上のアドベンチャーはこの世にはない。ホントにホントにビックリすることだらけなんだから。

 僕は最近、よく若い連中に何かと「世の中なんてこんなもんなんだから」とか「人生なんてこんなもの」的にたしなめられたりからかわれたりする。まぁ、連中も随分と世間慣れしているようなことを言ってきて、僕もすっかりおとなしく「ハイハイ」と聞いてはいるけれど、内心では「こいつら本当にバカだなぁ」と舌を出しているのだ(笑)。ホントに分かってないよ。オレだってようやく自分が分かってないということだけが分かったっていうのに。何十年もかかって、分かったのはそれだけなんだよ。こいつらに人生の何が分かるって言うんだ。

 人生なんてこんなもの…ってことは、おそらく棺桶に入る寸前まで分からない

 それはせいぜい40何年か生きてきての、僕の本当の実感だ。それは経験から間違いなく言えることだ。人間に人生が分かるはずがないよ。

 だから、先の北村へのセリフに続く神野の発言が、僕には思わず膝を叩きたくなるほど「実感」だったのだ。

 「人生つまらないのは、オマエがつまらないからだ」

 そうだよそうだよ、ず〜っとオレはそれが言いたかったんだよ。それこそオレにとっての、人生の実感なのだ。だからこの映画に無類のリアリティを感じたのだ。

 そして先にも述べたように、この作品は怪しげな新宿歌舞伎町の猥雑さやヤクザや大企業や政治家などの巨悪が右往左往して、あっと驚くトリックが連発するお話ではあるが…実は突き詰めて考えてみれば、冒頭の中学校の放課後場面に象徴されるように、二人の男の中学時代から抱いていた想いにオトシマエを付けるお話であったという点が素晴らしい。

 結局「それだけ」のお話でしかないのだが、されど「それだけ」

 そんなちっぽけな善意がすべてにアッケラカンと勝利してしまうお話を、揺るぎない確信を持ってつくれてしまうところが何よりも素晴らしい。皮肉やシニシズムで何でもかんでもバカにしているヤツには、この素晴らしさは分からない。

 むろん人にはそれぞれのっぴきならない事情がある。思うに任せないこともあるだろう。すべてが本人のせいだと言っちゃ酷かもしれないが、それでもフテ腐れているだけの人間のために、誰かが助けてくれたり楽しくしてくれたりするなんてことはあり得ないとするなら、やっぱり自分がどうにかするしかないではないか。せめてひん曲がっちゃった考え方だけでも、変えようとするしかないだろう。

 だから、もし人生がつまらないのなら、それはやっぱりその人間自身がつまらないからなのだ。この一点だけにおいては、僕は完全な「自己責任」派に立つのである。

 

 

 

 

 

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