「ナルニア国物語/第2章 カスピアン王子の角笛」

 The Chronicles of Narnia - Prince Caspian

 (2008/06/23)


  

見る前の予想

 ナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女(2005)の登場は、長年のナルニア・ファンである僕にとってはとてつもなく嬉しいことだった。

 何より壮大な世界観を持つ(…ってなフレーズは、今でこそファンタジー映画の常套句で陳腐化しちゃってるけど)合計7部作におよぶシリーズを、僕は小学生の時から映画で…それもアニメじゃなくて実写で見てみたいと思っていた。それが実現したのだから、めでたさもひとしおだったわけだ。

 むろん期待していただけに不安も大きかった。特にディズニーによるハリウッド映画として製作されることが不安の最大の要因。そして次には、何とあの愚作「シュレック」(2001)のアンドリュー・アダムソンが監督と聞いて、今度こそヤバイと確信した。あんな愚劣な作品を撮る男に、ナルニアを撮れるわけがない。

 ところがこんな状況下で奇跡が起きたのだから、映画というものは分からない。

 驚いたことに「ライオンと魔女」は、ナルニア・ファンの僕を満足させる内容だった。まずは何が良かったかといって…本音を言うとこの映画のイメージが原作の精神に忠実だったからだろうか。いつも「原作」「原作」とわめくのはうるさいと言っている僕がこれを言ったら矛盾だろうが、この本だけは理屈抜きで事情が違った。

 特に素晴らしかったのがキャスティングで、主人公の4人の兄妹たちがまさに原作で読んできた通りのイメージで映画に登場したからビックリ。そう思ったのは僕だけではないのだろう、同じような意見は他のナルニア・ファンからも出ていた。しかも各人が勝手に頭で思い描いていた原作イメージを、それぞれの人々に違和感なく具体的なビジュアル・イメージで見せるというのは尋常なことではあるまい。このあたり、この映画のキャスティング・ディレクターのセンスの素晴らしさを感じてしまう。「白い魔女」役にティルダ・スウィントンを持ってくるあたりも含めて、このキャスティングの妙には脱帽だった。

 そして子供の本ではなく「一般の娯楽映画」に翻訳するにあたっての脚色方針として、原作では単なる「卑劣漢」としか描かれない次男のエドマンドに、そうなるだけの理由を与えているのも感心した。実際のところ、エドマンドは後半から改心するのだから、あまり「卑劣漢」的に描いてはマズイ。子供の本ならそれでもよくても、リアルな大人向け映画ならそのエドマンドのいきなりの改心ぶりは、あまりに唐突でリアリティがないだろう。そう考えれば、これも当然の脚色ではある。戦争の影響をさりげなく作品に与えているあたりも、「見識」を感じた。

 この映画化は成功ではないか!

 ただし、全ての映画ファンがそう思ったかと言えば、実はそうではなかったと白状しなくてはなるまい。

 ヒットはしたものの、この映画の評判が必ずしも良くなかったらしいということは、さすがの僕の耳にも入ってきた。そしてその理由も、何となく僕には理解できたのだ。

 まずは「そこらへんのガキ」が「王」だ「女王」だ「救世主」だと祭り上げられることのシラジラしさ。本で読んでいるぶんには奇妙だともおかしいとも何とも思わないのに(読んでいる読者が子供だということも多分にあると思うが)、これがリアリティを基本とする実写映画で描かれると、思いのほかおかしく見えてしまうらしいのだ。

 それは…そうケナされても困る、だって原作からしてそうだから…と反論したいところだが、自分の胸に手を合わせて考えてみれば、そうした不満がわき上がるのも理解できる。昨今のファンタジー映画の洪水の中で、イギリスの「そこらのガキ」が何かと言えば「選ばれし者」として祭り上げられ、偉大な騎士や王や異形の者やらに頭を下げられている絵を何度も見せられるたび、「またかよ」と舌打ちをしたのは他ならぬ僕自身だったのだ。それはまるで、平成ではなく昭和の「ガメラ」映画シリーズで、大の大人の科学者や警察、自衛隊の関係者の前で、ガメラを目撃したというだけの「そこらのガキ」が、やたら偉そうにタメ口をきいているのにどこか似ていた。普通の映画観客が「ついてけない」と思うのも無理はあるまい。

 そして、子供の頃は壮大な物語だと思って読んでいた「ライオンと魔女」の物語が、映画になってみると思っていたほど「壮大」ではなかったことも誤算だった。僕ら原作ファンは、原作の世界が映像化されているからそれだけで嬉しい。しかし本当のところは、スケール感はあるのだがお話の長さは決して大長編とはいえない。僕は小学校低学年から中学年に読んでいたから「大長編」のように思えたが、冷静に考えると「大作映画」のストーリーとしてはこぢんまりしているかもしれない。だからロード・オブ・ザ・リング(2001)などの文字通り「壮大」な物語世界に触れてしまった一般映画ファンにとっては、「ナルニア」は子供だましに思えたかもしれないのだ。

 そしてお定まりの「善」と「悪」との戦いの意外なまでの退屈さ。これってお約束だからやらなきゃいけないのだが、正直言ってCGによる壮大なスペクタクル合戦シーンは「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でやり尽くされた観がある。おまけにあっちは毎回それなりに戦闘場面に趣向を凝らしていたが、こっちはこう言っちゃ何だがいささかおざなりな印象もあった。そんなこんなで新鮮味に欠けていると思われても仕方のない面があったわけだ。

 そんなこんなで第1作「ライオンと魔女」が公開されるまでも心配させられたが、公開されたらされたで…一旦はそれが原作をブチ壊しにしたものではないと分かって安堵させられたものの、やっぱり原作ファン以外にはイマイチな作品なのだろうかとどこか引っかかるモノが残らないわけではなかった。

 そんなシリーズの第2弾だ。

 もちろん僕は見ないわけにいかない。当然見に行く事は決まっているのだが、今回の第2作がまたまたあのアンドリュー・アダムソンが監督となると、やっぱり油断も安心もできない。しかも、今回は一般の映画ファンにも通用するモノになっているのだろうかと心配でたまらない。

 そもそも今回の「カスピアン王子の角笛」、あまり世間じゃ話題になっていないみたいなのは、どうしたことだろうか? 第1作でみんな見切りをつけて、この2作目には見向きもしていないのだろうか?

 それに広告やチラシ、ポスターに書かれた「魔法VS人間」ってキャッチ・コピーも、何となくピンと来ない。そういうニュアンスもあるにはあったが、そういうお話じゃなかったんじゃないの?

 そんなこんなで不安を押し殺しながら劇場に向かった次第。

 

あらすじ

 それは真夜中のことだった。

 ナルニアを統治するテルマール国の城に、赤ん坊の泣き声が響く。すると眠っているカスピアン王子(ベン・バーンズ)の部屋に、家庭教師である小柄なコルネリウス博士(ヴィンセント・グラス)が駆け込んでくる。コルネリウス博士は王子を叩き起こすと、急いで旅立つようにと急かすではないか。

 「何を慌てているんだ?」

 「ミラースに世継ぎが生まれたんですぞ。まだお分かりにならないんですか?

 そんなこんなでともかく部屋を出て、近くのタンスに隠れるハメになる王子。ところがすぐに兵士たちが王子の部屋に飛び込み、一斉に王子の寝台に矢を雨あられと射るではないか。さすがにこの期に及んで、王子も自らの置かれた状況を気づかずにはいられない。

 時はナルニア暦2303年。ナルニアはテルマール人たちが支配する国となり、かつてはナルニアの地に満ちあふれていた木や水などの精、もの言うけもの、小人、フォーンやセントールたちなどのナルニアの民は、すべて一掃されてしまっていた。もはやそれらは現実に存在したものとしてでなく、神話や伝説の類と思われていたほどだ。

 そんなナルニアを支配するテルマールの王は、しかしもはやこの世にいない。不慮の死を遂げた王の亡き後、まだ幼いカスピアン王子が王位を継承するまでのつなぎ役として実質上この国を切り盛りしてきたのは、摂政を務める弟のミラース(セルジオ・カステリット)。しかしいまやそのミラースに男児誕生となると…もはやお分かりだろう。早晩カスピアン王子が邪魔になるに違いない。そんな彼の家庭教師コルネリウス博士の読みが間違っていなかったのは、先ほどの兵士たちの動きを見ていれば明らかだ。

 実はコルネリウス博士はこうなることを前々から予見していた。それどころか、カスピアン王子に「あること」を期待していたのだ。

 それはナルニアの再興だ。

 征服者の側であるカスピアン王子がナルニア再興を託されるのは、数奇と言えばあまりに数奇な運命。しかしもはや彼には、テルマール人…ミラースの支配するナルニアに生きることは許されなかった。そしてそんなこともあろうかと、コルネリウス博士はカスピアンに「古き良きナルニア」…今では語ることさえタブーとされている過去の豊かなナルニアの話をこっそり語り伝え、彼をすっかり「ナルニア・シンパ」にしていたのだった。それというのも、コルネリウス博士にはカスピアンこそ「ナルニア再興」を実現できる人物に思える理由があったのだが、それはまた別の話だ。

 だからコルネリウス博士はすでに用意しておいた旅支度を持たせ、カスピアン王子を馬に乗せたのだった。そして「とにかく森の中に逃げるように」と教え諭した。テルマール人はいまだに森の中には「かつてのナルニア」的なモノが潜み、彼らに襲いかかると恐れているのだ。

 そしてコルネリウス博士はカスピアン王子が出発する間際に、あるモノを渡すのを忘れなかった。それはナルニア黄金時代の遺物のひとつ、スーザン女王の角笛だった。

 切羽詰まった危機に際してそれを吹けば、望んでいる救いの手が現れる。それが言い伝えられてきたスーザン女王の角笛の持つ「力」だった。出かける間際にコルネリウス博士は、カスピアン王子に最も必要なモノを与えたのだった。

 こうして真夜中に馬を走らせ、ミラースの城から脱出を図るカスピアン王子。早速、追っ手が殺到して来たが、カスピアンの馬が森の中に入っていくや、思わず躊躇せずにはいられない。それでもクソ度胸で追いかけてきたものの、真っ暗闇の森の中は彼らの入り込むところではなかった。

 何とか敵をまこうと躍起のカスピアン王子。そんな追っ手の様子を見ようとうっかり目を離した隙に、木の枝に激突して馬から落ちてしまうではないか。

 さすがに呆然とするカスピアン王子の前に、何やら不思議な連中が現れる。それはしゃべるアライグマに小人…伝説のかつてのナルニアの住人たちだ! カスピアンは伝説は本当だったと大喜びだが、見られた「彼ら」の方は必ずしも喜んでいるようではなかった。中には「こいつブチ殺そう」などと物騒なことを言うヤツまでいる。

 しかしそこに追っ手が殺到してくるという間の悪さ。前門の狼、後門の虎とはこのことだ。進退窮まったカスピアン王子は、今こそコルネリウス博士から託された「モノ」を使う時だと気が付いた。

 角笛を取り出し、力一杯吹きまくるカスピアン王子…。

 さて一方、舞台は変わってここは第二次大戦下のロンドン。ペベンシー家の4兄妹…長男ピーター(ウィリアム・モーズリー)、長女スーザン(アナ・ポップルウェル)、次男エドマンド(スキャンダー・ケインズ)、そして次女ルーシー(ジョージー・ヘンリー)は、夏休みを終えて寄宿学校に戻らねばならないところだった。

 彼らにとってはあのナルニアでの体験はほんの1年前。しかし彼らは、あの頃と多少変わっていた。

 中でももっとも変わっていたのは、長男ピーターかもしれない。この日も地下鉄駅で、よその生徒と肩がぶつかっただの詫びの言葉がないだのといちいちキレる。何かというと腕力にモノを言わそうとする血の気の多さに、他の弟妹はいささか持て余し気味だ。

 ところがどこからともなく、突風と轟音と振動が襲いかかってくる。まるで爆撃でも受けたかのように、地下鉄駅に大変動が起こり始める。しかし他の乗客たちは、何が起きているのか一切気づいていないし、そもそも注意を払おうという気持ちもないみたいだ。

 もちろんペベンシー家の4兄妹には分かっていた。これは魔法だ。そしてナルニアだ!

 あっという間に地下鉄駅の外壁が崩れ去り、走り去る電車も他のお客たちも消え失せた。後には太陽が燦々と照りつける、人けのない海岸が広がっている。彼らはまたナルニアに戻って来たのだ。

 そうなると、ウンザリする学校に戻るばかりになっていただけに、子供たちは大はしゃぎだ。ひとしきり海岸で大騒ぎするのも無理はあるまい。

 しかし最初の大喜びの時が過ぎ去ってみると、彼らにはここがナルニアのどこなのかが思い当たらない。王と女王として君臨していたこの国土に、知らない場所があるとは思えない。しかしどうしても彼らには、この海岸に見覚えがないのだ。おまけに海沿いの高台には、崩れ去った廃墟があるではないか。それも、どうやら昔の城らしい。廃墟となった城など、それこそ彼らには覚えがないものだ。

 「一体、誰がこのお城に住んでいたのかしら?」

 そんな素朴なルーシーの疑問に答えたのは、その場に落ちていた「あるもの」を拾ったスーザンだった。彼女が拾ったモノは、えらく年期が入って値打ちモノらしいチェスの駒だ。そして、それにはスーザンもルーシーも見覚えがあった。それは彼らがナルニアの王、女王として君臨していた時代のことだった。

 「ここに住んでいたのは私たちよ…」

 

見た後での感想

 いきなりナルニアから単刀直入に物語がスタート。息をもつかせぬ展開で、カスピアンが城を脱出しなくてはならなくなる導入部に、長年の「ナルニア」読者だった僕は正直驚いた。

 もちろんお話はよく覚えているから、今どこの場面をやっているのか分からないということはない。何をやりたいのかはすぐに察しがついた。それにしたって……随分大胆な脚色をしたものだ

 ここでは「ナルニア」原作を読んでいない人も数多いと思うので、釈迦に説法かと思いながらもご説明しよう。実は原作「カスピアン王子のつのぶえ」は、映画でカスピアンがその角笛を吹いた後…ペベンシー4兄妹がロンドンの地下鉄からいきなりナルニアに「呼び出される」くだりから始まる。

 原作では当然、彼らがナルニアを離れてから何百年も経っていたなどということは、彼ら自身も読者も知らされない。最初に海辺の廃墟の城が出てきて、それが彼らが君臨していたケア・パラベル城であることが知らされることによって、どうやら地球時間とナルニア時間は流れ方が違うらしいと分かるのだ。

 そんなミステリアスな始まり方をする「カスピアン王子のつのぶえ」は、そのミステリアスさが魅力の大きな部分なので、ハッキリ言ってそこをまるっきり変えてしまったのはショックではあった。ほとんどの「ナルニア」原作が、現実の人間世界から主人公の子供たちがナルニアにやって来る導入部を持っているだけに、これは映画化にあたってかなり大ナタを振るった印象がある。

 しかしそれだけに…今回は完全に「映画」としてつくろうという、覚悟のほどが伝わってくるオープニングでもあるわけだ。

 

「映画」としてあえて原作と一線を画した作品

 現時点でこの映画「カスピアン王子の角笛」がどのような評価を得ているか、僕はいまだ分かっていない。そして「ナルニア」原作のファンが映画をどう言ってるのかも知らない。しかし、今回は僕の見立ては間違っていないと思う。

 今回の「第2章」は、映画として「第1章 ライオンと魔女」より面白い!

 先にも述べたように、もう原作離れを恐れていないし、すべて「映画的」にすることを優先させている。映画をつくる上では当たり前っちゃ当たり前のことだが、これだけ長い間世界中で愛されて来た小説の初の完全映画化となれば、やっぱりつくる方としては金縛りにあってしまうのも致し方ないところ。

 特に第1作「ライオンと魔女」の場合は、原作ファンへの「名刺代わり」のところもあったから、せいぜい戦争の影を物語に落としたり、エドマンドのキャラクターをリアルにしたりする程度が関の山だっただろう。それだけでも「ナルニア」原作ファンとしては大英断に思えたが、やっぱり映画化としては今ひとつこなれていなかった…と、今なら僕も冷静にそう言えるかもしれない。

 その部分が、今回大幅に改善されている

 ただしそれは、映画化するとなると避けられない事態だったのかもしれない。先ほども述べたように、原作ではペペンシー4兄妹がナルニアに飛ばされてしまうところから話が始まる。その後4人はそこが何百年か後のナルニアであることを知り、小人のトランプキン(ピーター・ディンクレイジ)が兵士たちに海に捨てられかかるところを助けることになる。そしてこのトランプキンの話から、カスピアン王子とは何者か、どういう経緯で彼が角笛を吹くことになるのか…という、ここまでのナルニア側の経緯が語られるのである。つまり、途中から延々と回想場面が続く構成をとるのだ。

 しかしこれは誰もが察する通り、映画化に向いた構成ではない。

 昔の映画ならまだしも、イマドキの娯楽映画でこれほど回想場面を長く多用する映画は少ない。それに、ドラマとして流れが停滞してしまうだろう。そんなこんなで、現在の娯楽映画として流通しうるカタチで制作しようとした結果、回想をやめて時制を「現在進行形」に直したということなのだろう。

 結果、人間の子供たちがナルニアに飛び込むオープニング…という「ナルニア」原作の定型を壊してしまうだけでなく、彼らがナルニアが何百年も経ってしまったことを知るミステリアスな構成も放棄してしまったわけだが、そこまでしても原作に忠実であることより現役の娯楽映画であることを選んだわけだろう。その意気や良しである。

 いきなり何の説明も前触れもなくカスピアン王子が逃亡するというショッキングなオープニングをブチかましたのは、原作を知っている人間ならいいけど果たして初めて見る人にはどうか…と疑問が残らないでもない。でも、そう思うのは原作ファンの老婆心でしかないのだろう。実際には見た人は何にも支障がなかったわけだし、見ているうちに何となく経緯を察する仕組みになっている。考えてみれば、何でもバカみたいに説明する必要はない…と、いつも自分だって映画の作り手に注文をつけているではないか。

 それに、仮にそれまでの経緯や設定が全部分かる必要もない。フツーに娯楽映画ならそういうもんだ。いきなり危機が訪れて、脱出と追跡、そして意外な展開…と、サスペンスに満ちてスピーディーな話運びの方がイマドキの観客向けだろう。そう、何度も言うように、これは「ナルニア」だからって特別扱いしていない。フツーのイマドキの観客向けの大作娯楽映画に仕上がっているのだ。

 そして、娯楽映画をつくるというなら、むろんそれでいいのだ。

 この映画の「原作離れ」はそれだけではない。長男ピーターが青年期を迎えて反抗心を燃やしているのも、映画としてはリアルだし正しい。そしてピーターとカスピアンがガン飛ばし合いにらみ合うのも、映画ならではの工夫。そもそもこの二人がこうなる設定というのも、原作と違ってカスピアン王子の年齢が「青年」といえるほど高くなっていることから生じている。このあたりの工夫も、映画ならではだ。

 正直言って前作「ライオンと魔女」では、「ナルニア」ファンですら人間の子供たちのいきなりの「王様」「女王様」扱いに退いてしまいそうになった。これがファンでなければ相当のものだろう。今回は、だから新たな「王位継承者」たるカスピアンに、それにふさわしい年齢を与えたわけだ。そしてカスピアンに目の前に現れたピーターたちを子供扱いさせてしまうことで、「いくら何でも王様女王様ってこたぁないよな」と言いたくなる僕ら観客の先手を打つ作戦だ。これは実に巧みな工夫だと思う。

 さらにカスピアンの年齢が上がったことで、「大先輩」であるはずのピーターとの確執という原作にない展開が生まれる。ピーターがやたら血の気が多くなっているのもこの伏線になっていて、「青年」二人は何かとぶつかり合うことになる。そしてこの設定がこれまた原作にはないミラース城攻略戦という見せ場をつくり、その戦いの失敗がドラマ上のうまみとなっているのである。

 さらにそんな微妙な年齢のカスピアンと血の気の多いピーターという設定が、「白い魔女」の悪の誘いに落ちかけるというエピソードをも生み出す。どちらかというと子供むけのためいささか一本調子になりがちなドラマに、一般観客が見る映画としてふさわしいだけの陰影を与えているのだ。このように、改変した要素すべてが連鎖反応的に絡まって、映画としてのグレードを上げているあたりが素晴らしい。今回もライフ・イズ・コメディ!/ピーター・セラーズの愛し方(2004)の脚本家チームであるクリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリーがシナリオを手がけたらしいが、前作以上に手応えを感じる出来映えだ。この作品の成功は、またしてもこの人たちのお手柄と言っていい。

 戦闘場面も、今回は格段の進歩を遂げている。前作はただ大勢の軍勢が衝突するスペクタクルだけでしかなくて、毎度おなじみファンタジー映画の戦闘場面…というイメージでしかなかった。イマドキCGも珍しくなくなったご時世では、ハッキリ言ってそれでは退屈でしかない映像だ。だから月並みでつまらなかったわけだ。

 ところが今回は、原作にないミラース城攻略場面は鳥を使っての空中からの攻撃、そして決戦場面では地下の柱を打ち崩しての地面陥没…という奇策を披露。こうしてようやく原作通りの「川の精」の登場となるのだが、そこは原作通りといっても何十倍も派手にしたアクション場面となっている。こうした「映画的」な工夫が多いので、今回は映画として飽きさせない。非常に楽しめる作品となっているのだ。

 実は多少気になる点もないわけではなく、カスピアン王子に「ついうっかり」のミスが多いあたり、ちょっとアホに見えかねない不安もあるのだが、そこはあえて前向きに「映画的」改変をするための副産物だと弁解したい。そしてそのおかげというわけでもないのだが…イケメン俳優であるカスピアン王子役ベン・バーンズも、イヤミのない活躍ぶりで好感が持てた。

 ハッキリ言ってイケメンの「王子役」なんていうと、男が100人いたら100人とも「どうしようもない中身カラッポのバカ」としか思わないものだ(笑)。男はみんなあの「ナントカ王子」なんて大嫌いなはず。実際に女ウケを狙ったその手の若い男は、大体9割9分安手のホストみたいにしか見えない場合が多いのだが、このベン・バーンズはなかなか頑張っている感じがする。

 元々前作「ライオンと魔女」のペペンシー兄妹たちのハマりっぷりからしてこの映画のキャスティング・ディレクターには驚嘆していたのだが、今回もやってくれた。先にも述べたように、原作ファンはみんな勝手にイメージをふくらませているものなので、みんながみんな満足する、原作イメージ通りのキャスティングなんて不可能に近い。しかし原作ファンで映画を見た人の中で、あの兄妹たちに違和感を抱く人なんていないんじゃないだろうか?

 今回のカスピアン王子も同様で、原作よりかなり年齢は高くなっているはずなのに、なぜか僕はカスピアン王子のイメージが覆された感じはしなかった。むしろ、映画の方が正解なんじゃないかと思ったわけだ。それでなくても人間…テルマール人に反感を持っているナルニアの民が、まだガキのカスピアンを「救世主」と扱うなんてリアリティがないだろう。これは正しい選択なのだ。

 おかげでカスピアン王子とスーザンとの淡い恋心なんて副産物も生まれて、いよいよこの作品はフツーの娯楽映画化していく。それはそれでいいのだが、ベン・バーンズがイケメンな反面、スーザンを演じるアナ・ポップルウェルが前作以上に「おかめ顔」(笑)になっちゃってるんで、釣り合わないことおびただしい。おまけにカスピアンの方がスーザンに憧れを抱く設定だから、なおさらである。ここだけは脚本の誤算といってもいいかもしれない(笑)。

 悪役ミラース側の動きが描かれているのも原作との違いで、その悪役に「かぼちゃ大王」(1993)や赤いアモーレ(2004)などのイタリアの名優にして監督セルジオ・カステリットを起用したのにはビックリ。ここにカステリットを持ってきたおかげで、原作ではどちらかといえば薄っぺらなミラースのキャラクターにグッと厚みが出てきたことも見逃せない。

 ともかく、どこを切っても大作娯楽映画として生まれ変わった今回の作品。今度こそは一般の映画ファンにお勧めできる作品になったんじゃないかと僕は思うのだ。

 

見た後の付け足し

 ただし、エンディングに何曲もダラダラとポップ・ソング然とした主題歌を流すのだけは、何とかならなかったのか。いくらハリウッド映画の十八番とはいえ、そんなところまでフツーの娯楽映画にしなくていいんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

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