「ミスト」

 The Mist

 (2008/05/26)


  

見る前の予想

 この映画については、劇場で見た予告編で知っていた。

 スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督の名コンビが三たびタッグを組む作品。「ショーシャンクの空に」(1994)、グリーンマイル(1999)という評判のいい2作で組んだ2人ということで、映画ファン的には「おおっ!」と来る顔合わせなのだろう。

 ただし正直ここだけの話だが、僕には今ひとつピンと来ない

 特に「ショーシャンクの空に」という映画、なぜかかなり熱狂的に支持する人が多数いるようだ。それもカルト人気というわけでなく、幅広い人々に支持されているようなんである。この映画がオールタイム・ベストだという人を、僕は何人も知っている。それもすごく映画を見ている人からあまり見ていない「一般人」(笑)まで、いわゆる「名作」的扱いでホメられているのだ。

 実際、僕もこの映画はキライではない。ここまで書いて来た文章の冷ややかさから、ひょっとして僕はこの作品を嫌っていると思われたかもしれないが、別にそんなことはない。それどころか、なかなか悪くない作品だ。それなりに良く出来た「いい映画」、「良心的な作品」だとは思う。

 しかしこれほど多くの幅広い人に熱狂的に支持され、「オールタイム・ベスト」だの「名作」だのって扱いを受けるほどの作品なのか…というと、実はいささか首をかしげる。お断りしておくと、これはあくまで僕の主観だ。いいと思う人の感覚がおかしいと言ってるわけではない。ただ、僕にとってはあの映画は「普通に」いい映画であって、あれほど圧倒的に大絶賛を集めるほどのインパクトは残念ながら感じていなかった。

 だから「グリーンマイル」も普通に「イイ映画」と思って見たし、それだけしか感じていなかった。特別に感銘も受けなかったし、ハッキリ言うと別に好きでもなかったのだ。

 そんなわけで、「スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督」の映画がまたまたやってこようと、「はぁ、そうですか」ってもんでしかなかった。別にすごく見たいわけでも期待するわけでもなかった。ただのありふれた映画の1本でしかなかったわけだ。

 ただし僕にとっては…この作品、まったく別の意味で気になった

 スーパーマーケットの窓の外に、濃い霧が立ちこめている。どうやらそこに、何やら人知を超えた存在がいるらしい。しかもそれらは、人に危害を加える恐ろしい「何か」らしいのだ。

 そんなお話らしいと予告から読みとった僕は、それがどうやらかつて読んだキングの短編集に収録された、「霧」なる短編小説の映画化らしいと気が付いた。こうなってくると、話はがらりと違ってくる。

 他の人々はこの映画の「スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督」に惹きつけられるのだろうが、僕はそっちの方はサッパリ(笑)。しかしこれが「霧」の映画化だとなれば、大いに気にならざるを得ない。読んでからかなり経っているので詳細は覚えていないが、それは確かかなり不条理感が漂うSF仕立てのホラー小説だったはずだ。そうなってくると、元々がSF好きの僕だ。これは何としても見ずにはいられない。

 ただしこの映画、僕にとっては別の意味で不安材料がないわけではなかった

 何度も述べたように、「スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督」…はこの映画の最大の「売り」である。普通だったら、すでに2度もキング原作の映画化を成功させたわけだ。絶対の信頼のブランドとなっておかしくない。

 ただしこのダラボン監督、今まで映画化したキング原作は、どちらも「キング本来の味」を持った作品とは言い難いのだ。

 いやいや、「キング本来の味」を持った作品ではない…なんて事を言ったら、いささか正確さを欠いているし語弊があるかもしれない。だがキングといえば、世間では圧倒的に「ホラー作家」として名高い。というより、ハッキリ言って「ホラー作家」以外の何者でもない。発表した作品の圧倒的多数はホラー作品だし、映画化されるのももっぱらホラーだ。

 ところがダラボン監督が映画化した作品に限っては、なぜか2作とも非ホラー作品かホラー色の薄い作品なのだ。

 まぁ、正直言ってキング本来のホラー味全開の作品だったなら、こんなに「スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督」コンビの作品は支持を得られまい。あんな幅広い一般の人々が、ホラー作品など「オールタイム・ベスト」や「名作」に挙げないはずだ。僕がこのコンビの作品にイマイチ物足りないものを感じていたのもそのあたりで、所詮は口当たりのいい「市民権を得られそうな題材」でしか勝負してないじゃん…とタカをくくっていたところもあったわけだ。

 ハッキリ言えば、ダラボンって「いい子」になってる監督って感じ(笑)。そうでなければ、あれだけ圧倒的にホラー作家として認知され、ホラー作品ばかり量産している作家の映画を2本も映画化していながら、どっちも非ホラー作品かホラー色の薄い作品…なんてことはあり得ない。これが偶然なわけはない。ホラーで売っているキングの、よりによってホラーでない作品、ホラー味の薄い作品だけを選り好みして映画化している点が、何となく姑息な手段を使っているように思えたわけだ。

 ならば、そんなセコい手ばかり使うフニャチン野郎(笑)に、ハードコアなSFホラーがちゃんと映画化できるのか。

 SFホラーってのは市民権を得たのもまだ日が浅いジャンル。どっちかと言えば日陰者の印象が強い。「ショーシャンク、感動しました!」なんて言ってるネエチャンも、モンスターが出る映画は思いっきり腰が退けそうだし軽蔑しそうだ。世間というものはそういうものなのだ。そんな継子扱いに耐えられるだけの覚悟と根性があるヤツしか、このジャンルの傑作はつくれない。それが、キング原作を取り上げるといきなり女子供受けしそうな作品ばかりというフヤけたダラボンごときに、ちゃんと映画化できるのだろうか。こいつキンタマあるのかよ(笑)。

 そんなわけで、題材としては大いに期待できる作品ながら、世間じゃ絶賛の「黄金コンビ」の作品だけに僕としてはいささか不安が残る。僕は非常にコワゴワ公開を待っていたわけだ。

 

あらすじ

 ちょっと辺鄙な田舎町。その湖畔の一軒家に住むイラストレーターのデビッド(トーマス・ジェーン)は、「嵐が来る」という妻ステファニー(ケリー・コリンズ・リンツ)の言葉に描きかけの絵筆を止めて、妻と幼い息子ビリー(ネイサン・ギャンブル)と一緒に地下室に入った。それから間もなくして、嵐はその猛威を遺憾なく発揮。誰もいなくなった部屋の窓をブチ破り、描きかけのイラストを台無しにしたのだが…。

 翌朝、嵐の猛威に唖然とするデビッド。しかしもっと彼を唖然とさせたのは、となりの家の古い木が倒れて彼のボートハウスを粉砕してしまったこと。厄介なことに、となりの家に住む弁護士ブレント(アンドレ・ブラウアー)はかなりのうるさ型で、以前も家の境界のことでやり合った仲。ウンザリしながらも話をつけない訳にいかないデビッドは、渋々ブレントの家を訪れる。しかし意外なまでにブレントは大人しい。それというのも、やはり嵐のおかげでブレントの高級車が台無しになっていたから。ブレントにとって愛車が見る影もなくなったことに比べたら、古い木が倒れての弁償問題など物の数でもないのだ。以前と違って攻撃的に突っかからないブレントに、デビッドはちょっと拍子抜けしたくらいだった。

 それはともかく、壊れた部分の修復やら足りなくなったモノを買い足さねばならないこともあり、デビッドは妻ステファニーを留守番に、息子ビリーを連れてクルマで街まで買い出しに行くことにする。意外なことに、あのブレントもクルマを失ったので同乗させてくれと頼み込んでくる。こうしてちょっと想定外の道連れで、ドライブに出掛けることになったわけだ。

 ところで気になるのは、湖の向こう岸から立ち上ってきた濃い霧…。

 クルマで街をめざすデビッド一行は、途中何度も軍の車両が血相を変えて反対車線を突っ走っていくのを目撃する。一体何を慌てているのか。またぞろこの街の周辺で語られているウワサ話…軍の施設で何かヤバイことが行われている…が脳裏に浮かんでくるが、それはバカげた笑い話に過ぎない。

 ともかく街のスーパーにたどり着いたデビッドたち。早速用事で公衆電話をかけようとするデビッドだが、なぜか電話が通じない。それでもまだ、彼はその「何か」に気付いていない。

 店内は昨日の嵐のせいでか、多くの人々でごった返していた。

 顔なじみの店長バド(ロバート・C・トレヴェイラー)も気の弱そうな副店長オリー(トビー・ジョーンズ)も、レジの女の子サリー(アレクサ・タヴァロス)も大忙し。混雑する店内には、年老いた小学校教員アイリーン(フランシス・スターンハーゲン)と新任のアマンダ(ローリー・ホールデン)、宗教に凝る鼻つまみ者のカーモディ夫人(マーシャ・ゲイ・ハーデン)も来ている。基地から休暇で家に帰ろうとしていた若い兵士たちも店内にいたが、そのうちの一人ウェイン(サム・ウィットワー)はレジ係のサリーと親しいようだ。ところがそこにいきなりMPがやって来て、この休暇兵たちに緊急で再招集がかかったと言ってくる。これにはウェインたちも思わず失望の声を上げざるを得ない。

 そんな店内に、突然一人の初老男が飛び込んできたことから「事件」は起きた。

 その男ダン(ジェフリー・デマン)は、服に血をつけて必死の形相で飛び込んできた。そして店内の人々に叫ぶ。「霧の中に何かがいる! 私の連れが襲われたんだ! ドアを閉めろっ!」

 そんなダンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、どこからともなくサイレンが鳴り響き始める。するとまるで狙い定めたように、物凄いスピードでどこからともなく濃い霧が立ちこめてくる。たちまち辺り一面は、霧で何も見えなくなってしまうではないか。先程まで人がワンサカいたはずの駐車場にも、まるで人けが感じられなくなった。一体外の人々はどこに行ってしまったのか。

 カーモディ夫人はそんな外の状況を見つめながら、ポツリとつぶやく。「死よ…」

 だがそんな店内に、「外に出たい」と言い出す人物がいた。子供を家に置いてきたという若い女性(メリッサ・スザンヌ・マクブライド)だ。彼女は「誰か私を家まで連れて行ってくれない?」と周囲に問うが、この異様な状況…しかも一寸先も見えない霧の中に、あえて出ていこうという人間はいない。デビッドとて幼いビリーを守るので精一杯だ。若い母親の問いかけに、思わず目を伏せて沈黙で答えざるを得ない。こうして誰の助けも得られないと悟るや、この若い母親は憮然とした表情でスーパーから出ていった。店内の人々に対する捨て台詞を残して…。

 「みんな地獄に堕ちるがいいわ…」

 すると今度は、いきなり店内を揺さぶる大地震だ。上から蛍光灯は落ちてくるわ品物は崩れてくるわで、さすがに人々もただならぬ状況を悟らずにはいられない。カーモディ夫人はますます「この世の終わり」を力説し始めるが、まだこの時にはそれは単なる「いつもの変わり者のつぶやき」に過ぎなかった。

 すっかり怯えきったビリーを新任教師のアマンダに委ね、彼のために毛布を取りに行こうと、スーパー奥の倉庫にやって来るデビッド。そこでは発電器が妙な音を出していた。慌てて発電器を止めるデビッドは、さらに外から「何者か」が倉庫のシャッターにぶつかってくる音を聞く。

 事態の異常さに気付いたデビッドは、副店長オリーにそのことを訴える。こうして倉庫にとって返したデビッドとオリーと若い倉庫係ノーム(クリス・オーウェン)、機械工ジム・グロンディン(ウィリアム・サドラー)とその相棒マイロン・ルフール(デヴィッド・ジェンセン)だが、もうシャッターには異変は起きていなかった。そして発電器は何かが排気口に詰まっているのか、正常に作動しない。そこでノームが外に出て、排気口に詰まったモノを取り除こうということになる。だが先ほどの異変をじかに耳にしたデビッドは、これには猛反対。「外は危険だから出るな」と頑強に主張する。

 ところがジムとマイロンは、これをデビッドの臆病風と一方的に決め付けて取り合わない。元々都会から来た人間をよく思っていない地元出身の彼らは、いわゆる肉体労働者が頭脳労働者に抱いている反発をもそこにプラスさせて、日頃の鬱憤を晴らさんばかりにデビッドをあからさまにバカにした。こうなると気弱なジムも先ほどの音を聞いたわけではないので、彼らに反論するわけもない。それに加えてノームは若者特有の若さ…否バカさと傲慢さで、デビッドを侮蔑しながら外に出ていこうとする。「ふん、臆病者めが…」

 こうしてシャッターを開けて、霧で一杯の外が見えるや否や…。

 いきなり異様な太い触手が伸びてきて、ノームの身体に巻き付く。悲鳴をあげて倒れるノームが引っ張り出されるのを、とっさに捕まえたデビッドが何とか食い止めた。

 「何をやってるんだ! こっちへ来て手伝え!」

 だがマッチョが売りのはずの地元のブルーカラー…ジムとマイロンは、いざとなったら金縛りにあったように身動きが出来ない。ノームはただただヒーヒーと悲鳴をあげるだけで、もはや為す術もなく無力だ。うねうねと次から次へとシャッターの間から伸びてくる触手は、その内側に鋭い牙のようなモノがついているのか、ノームの腕から肉を削いでいく。この時、意外にも機敏に行動したのはジムで、彼は消火器の近くに常備されている斧を持ってきて触手を叩き切ろうとしたり、発電器を止めてシャッターを閉めようとしたりで大活躍をみせた。

 しかし、結局ノームは触手にさらわれてしまい、彼は悲鳴と共に濃霧の彼方へと消えていく。ジムに代わって斧を手にしたデビッドは、怒りにまかせて触手に斧を振り下ろし、その一部を切断した。こうしてシャッターを閉じると共に、触手はその外へと引っ込んでいく…。

 こうして事が落ち着き、ようやく一息ついたジムとマイロンは、さすがにバツが悪くなって愚にもつかない言い訳を並べ立てる。これにはデビッドもブチギレ。思わずジムをブン殴るが、もはや彼もデビッドに反発できない。

 ともかく、事態はまさに容易ならざることになってきた。この事実は他の人々にも伝えねばならないが、さりとて不安を煽ってパニックを起こしてもマズイ。そこでデビッドは、比較的に冷静で理性的なはずの弁護士ブレントから、このことを店内のみんなに説明してもらおうと考える。しかしデビッドたちから話を聞いたブレントは、彼らの予想外の反応を見せた。

 何しろ、彼は「異形の生物」の存在を認めない。バカげていると取り合わない。店長バドも最初はバカにしていたが、彼は倉庫に連れて行かれて触手の断片を目撃するや、一転して彼らの言うことを認めた。だがブレントは一層頑なになって、倉庫に「証拠」を見に行くことさえ拒絶した。彼としてはそんな事態は認められない、認めたくないのだ。そんな気持ちが高じて、ブレントはどんどん物議を醸す言動をエスカレートさせる。ジムを田舎者扱いし、デビッドに対してもかつての諍いを蒸し返して罵倒した。デビッドたちの言うことを「妄想」やら自分を陥れるためのワナと決め付けるブレントには、もはや冷静さのカケラもなかった。

 その一方では、あのカーモディ夫人の主張が一部の人々の心をじわじわと捕らえ始めるのだった。「この世の終わりが来たのよ。これは神の怒りよ…!」

 

僕の心を魅了するSFモンスター映画の世界

 スーパーマーケットの窓の外に、濃い霧が立ちこめている。どうやらそこに、何やら人知を超えた存在がいるらしい。しかもそれらは、人に危害を加える恐ろしい「何か」らしいのだ…。

 この感想文の冒頭にも上記のように書いたが、僕は今回の「ミスト」の予告編を見た時、このようなSFモンスター映画の独特のテイストを感じた。正直言ってこれまでの「スティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督」コンビの作品にさほど食指をそそられない僕としては、本来だったらこの作品にも「ソコソコ」の興味しか持っていなかったはず。それがグググッと大いに興味を惹かれたのは、とにもかくにもこのSFモンスター映画らしい…という第一印象からだった。まぁ、それがダラボン映画となると、ちゃんと「SF」してくれてるのかといささか心配のタネにもなってくるのだが…ともかく「SFモンスター映画」という一点だけでも、僕としては大いに買える要素だったのだ。

 では、どうしてそんなに「SFモンスター映画」となると食いつきがよくなるのかと言えば、それは子供の頃からのSF好きの血が騒ぐとしか言えない。

 もうこのサイトでも何度も語ってきたかと思うが、僕はまだ幼い頃からSFが好きだった。元々が天文好きだったとか恐竜の図鑑とかを眺めているのが好きだったとか、いろいろその理由を挙げることは出来るだろうが、それだけだったら他の男の子たちだって大なり小なりそうだろう。別に僕に限ったことではない。

 怪獣映画が好きというなら、それこそ日本の大半の男の子たちがそうだ。まったく僕のSF好きの理由になっていない。

 いや、実はここでハッキリさせておくと…これもこのサイトで何度も言っていることだから驚くようなことではないが、僕はいわゆる怪獣好きではなかった。キライじゃないが、実は東宝のゴジラも大映のガメラも、わざわざ映画館まで行って見た記憶がない。それらは確かに何本か見てはいるが、初公開時ではなくしばらく経ってから、ほとんどがテレビで見ていたのだ。

 円谷プロのウルトラ・シリーズも、見てはいたけれどウルトラ・グッズを集めるほど好きではなかった。別に怪獣映画やテレビドラマに熱狂した記憶もない。というより、僕はその頃、テレビでたまに放映されるアメリカのSF映画に夢中になっていたのだ。

 これは別に、アメリカのSF映画が国産の特撮映画より上等だとか、自分の好みの方が高級だったとか、そんなことを言いたくて書いているわけではない。実は僕が映画好きになったのは3つ理由があって、一つめが僕が小学生の頃にテレビで洋画劇場が盛んになってきたこと、二つめが僕が小学校5年生の時に「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964)がテレビ放映されたこと、そして問題の三つめが、テレビでアメリカ製のSF映画をやたら見ていたこと…なのだ。ちなみにビートルズ映画の第一作のタイトルは、誰が何と言おうと「ビートルズがやって来る」だ。「ハード・デイズ・ナイト」なんて気取ったタイトルの映画なんかじゃあり得ない。そんな寝言を言っている若造とは、一切口をききたくないねぇ(笑)。

 結局、映画が好きだったからビートルズが好きになったのか、ビートルズが気に入ったから映画が好きになったのか、ニワトリが先かタマゴが先か…どっちとも言い難いというのが本音なように、SF映画ありきで映画なのか、映画が好きだったからSF好きになったのかは僕には何とも言えない。ただ、僕にとってSFといえば、まず小説が頭に浮かんでくることはない。僕にとってSFといえば、何が何でもビジュアルから入ってくるのだ。SF的「絵」が大事なのである。

 そして僕にとってのSF映画がアメリカ製だったことが、僕をして日本の怪獣映画ファンと一線を画させることになった。日本の怪獣映画に心酔して映画ファンになった人たちは、おそらくかなりの確率でミニチュア特撮や着ぐるみ怪獣のフェチ的方向から入ってきているはずだ。僕がそっちに行かなかった理由は、SF的興味とミニチュア・着ぐるみ特撮がイコールになっていないからだ。

 ただし繰り返して言うが、これは決してアメリカ製SF映画が日本の怪獣映画や特撮映画より高級だということを意味していない。そんなことを言いたいわけではないし、そんなことはあり得ない。それはこの当時から今日に至るまで、僕が愛好しているアメリカ製B級、C級SF映画を見てみればよく分かる。どれもこれもチープな特撮だしお話もヘロヘロ。子供だましであることにかけては、日本の怪獣映画に決して負けていない。というより、むしろもっとこちらの方が俗悪で安っぽい。むしろ円谷英二健在な頃の日本の特撮映画は、技術的にも内容的にも高水準だったのではないか。最近になってビデオで見直してみると、それらのテーマのあまりの高尚さに思わずのけぞったりする。それに引き替えアメリカのこの手の作品は、とにかくいいかげんだしインチキ臭かった。

 しかしそれでも僕は…というより、むしろそれだからこそ、僕はアメリカ製SF映画に惹かれたのかもしれない。あの毒々しさ、俗っぽさ、いかがわしさにこそ惹かれたのである。そのいかがわしさを例に挙げてみれば、アマゾンの半魚人が常に半裸の水着美人をお姫様ダッコしているあたりに象徴されるだろう(笑)。

 日本の怪獣映画なら、子供だったら誰でも大手を振って見ることが出来た。しかしアメリカ製のSF映画は、まるでタランティーノが好きそうな安物映画みたいに、どこか見ることが後ろめたいシロモノだったのだ。そんな野卑で俗悪なダイナミズムこそが、子供だった僕を大いに魅了したのだと今なら断言できる。

 そんな少年時代の僕の脳裏にSF好きのDNAを決定的に刻み込んだのが、当時見ていたSFテレビ・シリーズ「アウターリミッツ」だ。

 これはモノクロのアメリカ製テレビ・シリーズで、向こうでは1963年から1964年の2シーズン放映されていたものらしい。やはり当時評判だった「トワイライト・ゾーン」(その頃は「ミステリー・ゾーン」という邦題だった)みたいに一話完結もの。僕が見始めた時にはすでに何度目かの再放送だったみたいで、なぜか「ウルトラ・ゾーン」という邦題がついていた。

 僕は「ミステリー・ゾーン」も見ていたが、今ではこっちはあまり印象に残っていない。知名度は「ミステリー・ゾーン」の方がダントツだったが、僕は断然「ウルトラ・ゾーン」こと「アウターリミッツ」の大ファンだった。だから毎週放映時間になると、テレビの前にくぎ付け。文字通りかじりついて見ていた。

 「これはあなたのテレビの故障ではありません。こちらで送信をコントロールしているのです」…奇妙なパターンの映像で始まるこのテレビ・シリーズは、何より若山弦蔵による低音のナレーションが強烈なインパクトを持っていた。しかし、実はそんな強烈な印象は序の口。中味のお話自体と比べれば、こう言っちゃ悪いが屁みたいなものだ。それこそトラウマになりそうなほど、衝撃的な物語の連打だったのだ。今の感覚でいえば特撮そのものはチープだったが、それでもお話は毎度毎度手に汗にぎるスリルとサスペンスに満ちていたし、何より問答無用で「恐かった」。マジで恐かったのだ。

 つい数年前、そんな「アウターリミッツ」が3巻のDVDボックスになって発売されるというので、予約までして必死に手に入れた。パッケージを開けるのももどかしい程ドキドキしながらも、何しろ子供の頃の記憶だからなぁ…と眉にツバつけながら見始めたが、そんな心配はまったくの杞憂だった。40年近くの時を超えて目にした「アウターリミッツ」は、当時に負けず劣らず面白かった…そして問答無用に「恐かった」のだ。

 そして恐いだけでなく、どこか哀しかった

 結婚式の夜、箱の中に潜む怪物に新郎を奪われた女が、夫の代わりに怪物のトリコになる犠牲者を何十年も待っている話とか、細菌兵器で絶滅した未来の地球から来た男が、その兵器の開発者の母親になる女の前に現れる話とか…ひとつひとつのエピソードを説明していくとキリがないのであえて具体的には言わないが、とにかくどこか哀しい話が多かった。実は僕が「アウターリミッツ」を強烈に覚えている理由をよくよく考えると、そこに出てくる怪物の魅力だけではなかったような気がする。おそらく今思えば、こうした「哀しみ」に強い印象を覚えて、このシリーズをいつまでも記憶していたような気がするのだ。

 そのせいか、なぜか僕は「SF」と聞くと、どこかメランコリックな感情をおぼえるのである。

 

見た後での感想

 で、どんな映画か…ということは、もうあっちこっちで散々言われていると思う。だから僕の感想は単刀直入に済ませたい。

 面白い!

 完全にこれってモンスター映画ではないか。霧が出てきてモンスターが出てきて、ショッキングな場面が続出。裏側にトゲがビッシリついた触手に掴まれるとベロリと肉ははがされるわ、巨大な蚊に刺されたら、顔がぶんむくれに腫れてくたばっちゃうわ、巨大クモは人間に卵を産み付けるわ肉を溶かす糸を吐きかけるわ…いやぁ、もうやってくれます。僕なんか嬉しくてたまりません。

 そしてそのナゾ解きとして、「軍が異次元を覗く実験をしていたら、そこから異界の化け物を解き放ってしまった」…という、素晴らしくインチキ臭い説明も嬉しいではないか。ろくすっぽ説明になっていないところがいい(笑)。

 何より出そうで出なくて、出ないと思ったら出てくる化け物たちが怖くて恐くてハラハラ。

 しかし、それ以上に恐いのが霧に閉じこめられた人々の集団心理…ってのも、みなさんとまったく同じご意見。むろんマーシャ・ゲイ・ハーデン演じる狂信者とそれにいつの間にか心酔する「信者」たちが怖いのは誰もが指摘するところで、こいつが怖いのはもちろんのことだが…実はそこに至るまでの、他の人々の小さい諍いこそが怖いのだ。

 最初にスーパー裏手のシャッターで異変を察知した主人公がそのことを何人かに伝えると、彼らは「まさか」と取り合わない。その事自体はよくあることだが、それが徐々に感情的な対立へと育っていくあたりが怖い。そして異常事態が引っ張り出す強烈な対立感情が、実は元々の日常生活の時から秘かに形成されているということが怖いのである。

 「何かがいるから行くな」と言う主人公に対して、バカにして取り合わない機械工や店員たち。機械工は心の底では都会から来た主人公が気に入らなかったし、そもそも生粋の労働者である彼らは「絵を描いて稼ぐ」などというチャラチャラした商売の主人公に元から嫌悪感を抱いていたに違いない。コンプレックスの裏返しかもしれないし、あるいはマッチョぶって男らしさを安っぽくひけらかしたい気持ちもあっただろう。そもそも男が「男らしさ」をひけらかして他人を揶揄する時には、昔からロクなことが起きないのだ。

 また若い店員は若い店員で、若いがゆえの傲慢さや思い上がりを持っている。だから主人公をバカにする格好のチャンスが出来たとばかり、「臆病者が!」と思い切り罵るのではないか。

 これが平時だったら彼らだっておくびにも出さないし、そもそも自分がそんな感情を持っていること自体気付かなかったかもしれない。しかし異常事態が、彼らからそんな感情を増幅して引き出してしまう。何よりそこが怖いのだ。

 いや、異常事態が怖いのではない。いざとなるとそんなヤバイ対立の火種になり得るドス黒い感情を、実はみんなが常日頃からお互いに対して抱いているということが怖いのだ。

 狂信者や独裁者が怖い…というなら、ヒトラーやフセインを排除すれば済むことだ。しかし問題の根本が、誰もが心の中に持っている感情にあるとしたらどうだろう?

 確かに誰もが、心の中で他人に対してじっと何かを我慢している。元々、人間とはお互いがキライなものなのだ。人間が3人集まれば派閥が出来るとはよく言ったものだが、それは同時に「敵」も出来るということなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この映画には「9・11」以後のアメリカ社会が象徴されていると、誰かが言っていた。何かというと「9・11」と来るのはいかがなものかと思うが、確かにあのヒステリー状態を象徴しているのは確かだろう。映画のエンディングに延々と軍用ヘリコプターのSEが聞こえているのも、作り手が明らかに「9・11」からイラクに至るアメリカ社会の縮図として、この映画のスーパーマーケットをとらえているからだろう。

 だがこんな状況なら、別に「9・11」に原因を求めなければならない道理はない。僕らだってごくごく身近に見ているのだ。

 だんだん余裕がなくなってくるや…自分たちが正しくて他者たちが間違っている、他者たちがウソをついている、それどころかすべて悪いことは他者のせいだ、自分たちが優れていて他者は劣っている、だから他者を従わせなければならない、人の言い分など聞くな、そんなことをする奴は媚びた臆病者だ…なんてゴタクを並べる連中が出てくる。そんな奴らはいつでもどこでもゴマンといる。世の中の雰囲気が悪くなって暮らしにくくなって来たり、自分の人生がうまくいかなくなってくるや、どうにかしてそんな現実から目を背けたり、そんなこんなを誰かのせいにしたくて、何だかんだと声高に叫び始める。それを正当化できるネタがあれば、ここぞとばかりに飛びついてくる。

 そんなことは異次元の生物が出てこなくても、いとも簡単に起きてしまいそうだ。いや、もう起きている。霧が立ちこめて疑心暗鬼と不安が高まってくれば、すぐにでもそうなるのだ。

 確かに先ほど「モンスター映画として楽しい」とは言ったが、実はこの映画のモンスターたちは、さほど独創的なものでもない。最初のトゲ付き触手こそスゴかったが、次からは蚊、鳥、クモ、サソリ…など、単に巨大化させてグロくしただけの連中のオンパレード。特にクモなんてモロに「エイリアン」(1979)のなぞりでしかない。キッチリやることはやっているので楽しめるものの、モンスター映画としてさほどオリジナリティーがあるわけではないのだ。むしろ作り手は、人間側のリアクションこそを重要視しているのである。

 そんな中で主人公たちは、何とか理性を保って誠実に振る舞おうとする。主人公を演じるのはトーマス・ジェーン。地味ながらも、この人の持つ暗さと誠実さは僕の好みだ。ドリームキャッチャー(2003)、パニッシャー(2004)と続くB級感あふれる作品選択も素晴らしい(笑)。どこかクリストフ・ランベールを思わせる容貌も、そのB級感の所以かもしれない。またこの「善玉組」のメンバーとして、SF版「真昼の決闘」である「アウトランド」(1981)においてゲーリー・クーパーばりの宇宙保安官で孤立無援のショーン・コネリーを唯一助けたオバハン女医役フランシス・スターンハーゲンが、すっかり白髪になって頑張っているのも嬉しい。心意気は変わってないんだねぇ。

 まぁ、それはともかく、そんな「善玉組」もついにはスーパーにいられなくなって脱出。最後の最後に、脱出した主人公たち「善玉組」に強烈なオチがやって来る。

 そうにしかなりようがない絶望的な状況の中、それしか選択の余地がなかったし、幼い息子と交わした「怪物たちに僕を殺させないで」という約束も主人公にのしかかった。だから主人公としては致し方なかった…とはいえ、何とも救いのない結末だ。しかも、それでなくても救いがない結末に、さらにもっと強烈なオチが二段構えでのしかかってくる。

 ネット上の誰かが「こんなオチは想像がついたし、さほど衝撃的でもない」などと言っていたが、それはこう言っちゃ申し訳ないが…ハッキリ言ってトンチンカンな勘違いの感想だと思う。「こんなの大したことないぜ」などとスゴまれても困る(笑)。これはお化け屋敷みたいな単にビックリさせるためのエンディングじゃない。このオチの衝撃は脅かしが目的ではないのだ。

 実はこの映画で「霧」が出始めて間もなく、スーパーから出ていった女がいた。彼女は家に幼い子供を置いていたのだ。慌てて店内のみんなに「手を貸してくれ」「助けてくれ」と頼み込んだが、誰も彼女の声に耳を傾けなかった。主人公ですら無視して、ある意味では彼女を「見捨てた」。彼女は仕方なくたった一人で、絶望的な状況の霧の中へと消えていったのだ。一言捨て台詞を残して…。

 「みんな地獄に堕ちるがいいわ…」

 結果的にその通りになってしまった主人公たち。しかももっと悲劇的なのは…霧が晴れた向こうから走ってくる救援車両の上に、自分たちが「見捨てた」例の女と子供たちがいるではないか。この強烈な皮肉。だが…それは単なる皮肉さや悲惨さを意味してはいない。

 それまで偏狭な地元の人間の白い目やマッチョイズム、そして狂信者の群れに対しても、一貫して理性的で正しくあろうとしてきた主人公。僕らは彼を「正しい」と思って見てきたし、おそらく本人もそのつもりだったはずだ。確かに誰がどう見たってそうに違いない。

 しかし、本当に彼は「正しい」側だったのだろうか?

 確かに偏狭な連中や狂信者よりは、主人公たちはマシだったのかもしれない。しかし冒頭近くで救いを求めてきた女を「見捨てた」という限りにおいては、彼らも同罪だったのではないか。少なくとも手を汚してないとは言えないのではないか。

 それは…それまで「正しい」側だった主人公に感情移入して、ともすれば狂信者たちに嫌悪感を抱くことで自分を「善玉」側だと思うことができた僕たち観客をも、一気に「向こう」側へとうっちゃってしまうような結末だからこそ、衝撃的で強烈なのである。

 

見た後の付け足し

 そんなわけで今回の作品は、後味はサイアクだが出来栄えはすごく手応えがある。何となくヌルさを感じさせていたフランク・ダラボンの映画としては、僕はこの作品が一番いいのではないかと思うのだ。

 ただ、ある一カ所を除いては…。

 「霧」が出始めてすぐの時に、子供を探しにスーパーを出ていった女がいたことは、先ほど述べた通りだ。結局、みんなは彼女を「見捨て」、その報いとして彼女の言うとおりに「地獄に堕ちた」。

 しかしあの場面で、一体誰が彼女と一緒に外に出るだろう?

 どう見たって外に出るのは得策ではない。しかも彼女には外に出る理由があるが、彼女を助けて一緒に外に出ることになる人間には、果たして自らを危険にさらすどんな理由があるというのだ。

 しかも主人公には、その場に幼い息子がいた。息子を守らねばならない主人公が、彼女を助けなかったから「地獄に堕ちた」なんて話になるとしたら、いささかムチャというものではないか。

 そもそも僕だって、あの場面だったら絶対に彼女と外に出ようなんて思わない。それが普通だしマトモだと思う。そうじゃない人間がいるだろうか?

 それなのに、自分と一緒に外に出てくれないから「地獄に堕ちろ」なんてことを言う彼女も、相当「アレ」な人物ではないか。正直言ってこれではなかなか共感も同情もできない。

 だから彼女を「見捨てた」ことで断罪される主人公…という結末に衝撃は受けつつも、何となく引っかかるものを感じないわけでもなかった。先ほど「衝撃的で強烈」と自分で評した結末ではあるが、100パーセント納得して受け入れられるかというと、いささかスッキリしないものを感じてしまうのだ。

 そもそも…フランク・ダラボンよ、アンタなら彼女を助けるのかよ?

 やたら上から目線でみんなを見下し、主人公や僕ら観客まで「しょせんはオマエらもあの狂信者と同じ穴のムジナ、いや…偽善なだけタチが悪い」と切って捨てるダラボン。それは確かにそうだろう。そう言われても仕方ない。それに何ら異議申し立てを出来る僕ではないけれど、やっぱりこれだけは言いたい。

 ダラボン、そこまで言うオマエは一体どうなんだ?

 

 

 

 

 

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